羽毛のような雲が流れてゆく空から茅葺き屋根の民家の庭へと一人の少女が舞い降りた。
肩から二の腕にかけて肌を露出させた巫女装束…の、ような衣装を着て、黒髪に大きな赤
いリボンをつけたその少女はこの幻想郷でも一番有名な人間であろう。
少女の降り立った広い庭では初老の男が鶏の世話をしていたのだが、初老の男は目の前ま
で飛んできた少女の姿に驚くことなくにこやかに迎えた。

「おお。早かったのう」
「終わったわよ。そこそこ痛めつけておいたから当分の間はこの辺に近づこうともしない
でしょ」
「そうかいそうかい。霊夢ちゃん、ありがとうよ」
「ま、ミスティア程度じゃ異変とも呼べないし。大した手間じゃなかったわ」

肩をすくめる少女に、初老の男も破顔する。
養鶏農家の多いこの里に『鳥類解放ーっ!』と、歌声も勇ましく夜雀の怪が襲撃してきた
のが今日の朝早く。近くの里に茶葉を買い求めに来ていた少女が騒ぎを聞きつけたのが昼
前で、今は太陽が真上に昇る正午である。言葉通り、大した手間では無かったのだろう。

「はっはっは! わしらにゃ恐ろしい夜雀さまも、博霊の巫女さまの前じゃあ形無しか
い!」
「そう言う事ね。妖怪除けの結界も張り直して置いたし、もう帰るわね」
「ああ、少し待ちなさい」

踵を返し、ふわりと浮き上がった少女を初老の男が呼び止める。
振り返った少女の目の前に突き出された、初老の男の掌には数個の鶏の卵が乗っていた。

「今朝採れたばかりの新鮮な卵じゃ。霊夢ちゃんにはいつも世話になっとるからせめても
のお礼じゃて。持って行きなさい」
「あら。ありがと、おじさん」

少女も嬉しそうな笑顔になると、初老の男の掌からひょいひょいと卵を貰ってゆく。
この里の卵は幻想郷の中でも美味しいとの評判は聞いていたが、人気があるため品薄で手
に入り難い。それだけに嬉しさもひとしおだった。
ついつい冗談も口をついて出てしまう。

「けど、お礼は何時でも神社のお賽銭箱で受け付けてるわよ?」
「ぶわっはっはっ! わしも年じゃからな、麗夢ちゃんみたいに空でも飛べねぇと御山に
ゃ登れねえのさ」

笑い上戸らしい初老の男は皮肉混じりの冗談にも大笑いして返した。
あまりに体を震わせて笑うので、掌の上に残っていた最後の卵が少女の指から逃れて転げ
落ちてしまった。

「…あ」
「…ありゃぁ~、しもうたぁ…」

地面に落ちて割れてしまった卵を見下ろして、二人して呻く。
卵を掴み損ねた指を数秒彷徨わせていた少女は、腕を下ろして頭を下げた。折角の美味し
い卵を自分でふいにしてしまったのが何とも口惜しい。

「ごめんなさい…」
「なぁに、わしが馬鹿笑いしすぎたんじゃ。落ちちまったのは勿体ないが、家の鶏どもが
綺麗に食っちまうさ」

少女の内心は知らぬが仏。リボンの上からポンポンと頭を撫でて、初老の男は笑顔で慰め
た。

****************

      にわとりとゆっくり

****************

さて、そんな一連のやりとりを垣根の影からじっと窺っていたなまものが一つ。
首から下のない、生首のようにも見えるそれは『ゆっくり』と呼ばれている。お饅頭の化
生だか妖精だかよくわからない、妖怪の賢者ですら匙を投げた摩訶不思議な物体。
先ほどの少女によく似た髪型に、お揃いのような赤いリボンを付けたこのゆっくりは、『ゆ
っくりれいむ』と呼ばれる個体であった。

れいむは少女が飛び去り、初老の男が家の中に入っていったのを見計らって垣根の影から
飛び出した。
家の中の人間に気付かれないように細心の注意を払って、

「そろーり、そろーり! 気づかれないようにしずかにいくよっ!」

台無しである。
だが幸いにも初老の男は少々耳が遠く、さらには家の奥へと引っ込んでいたのでゆっくり
の声に気付くことはなかった。
れいむが(ゆっくりなりに)こっそりと民家の庭に入り込んで目指した先にあったのは、
初老の男の手から落ちて割れた鶏の卵。

「ゆっくり~♪ れいむもれいむだよ! れいむもおせわになったお礼に卵さんを食べる
よ! じゅ~るじゅ~る…」

このゆっくりれいむ、少女と初老の男の会話を盗み聞きして何か勘違いをしたらしい。
れいむは地面に広がる卵黄卵白に覆い被さるようにして口を付けると卵を啜る。
途端、濃厚な味が口の中に広がった。
それは普段、芋虫毛虫や苦い雑草を主食にしているゆっくりにとって中身の餡子を揺さぶ
るほどの衝撃となった。

「じあばッ!!」

美味しさの余り「しあわせ~♪」とも言えずに白目をむいて気絶してしまった。
しばらくして。
あまりにもあからさまに怪しい侵入者に当初は警戒していた庭の鶏たちだったが、ピクリ
とも動かなくなったので警戒心も薄れたのか。数匹の雄鳥が鶏冠を揺らしてゆっくりに近
づく。

コケッ
コーッコッコ…
「ゆ゛っ!?」

一匹の鶏が嘴で突っついた途端、気絶していたれいむは痛みで覚醒した。
気絶から覚めたら鶏たちに囲まれていたという状況に怯えて竦むれいむであったが、なけ
なしの勇気を振り絞って前へ踏み出した。

「近づかないでねっ! ぷくぅううううぅぅぅっ!!」

大きく息を吸い込んで膨れあがるのはゆっくりの威嚇。
人間や妖怪相手には一笑に付される程度の威嚇ではあるが、警戒心の強い動物相手にはそ
れなりに効果がある。急激に形を変えたゆっくりの姿に、近くにいた鶏たちは大急ぎでゆ
っくりから距離を取った。
鶏を追い払えたれいむは、即座に『にわとりさんはれいむより弱いよ!』と認識して増長
していた。

「ゆっふん! わかればいいんだよ。れいむをおどかしたおわびはにわとりさんたちの卵
で良いよ! にわとりさんたちの卵はぜんぶれいむが食べるよ!」

先ほどの勇気の原動力は食欲だったらしい。
鶏相手に大声で宣言したれいむは、庭の一角に設えてある鶏舎へと跳ねて行く。
一歩鶏舎に近づく度にれいむの貌はだらしなく緩んでゆく。
初めて口にした鶏卵は思い返すだけで涎が溢れて止まらない。
うっすらと色付いた透明な卵白のするりとした喉越し。地面に落下しても破れることなく
形を保っていた卵黄を噛み切った瞬間に口の中に広がるどろりとした舌触りと、口内を満
たす滋味豊かな味わい。

「れいむの卵~♪ れいむはにわとりさんの卵さえあれば他になにもいらないよぉ~♪」

すっかり鶏卵の虜になったれいむは、だからこそ気づけなかった。
鶏舎に残っていた鶏たちはれいむが入ってきても退かず、逆にジリジリと近づいてきてい
たことに。
そして鶏舎に突進したれいむを庭の鶏たちが追っていたことに。

「にわとりさん、ゆっくりしていってね! れいむに卵をちょうだいね!!」

コォーッコッコッコォ…
ケーッコッコッ…

「……………………ゆ?」

気付いたときには、殺気立った鶏たちに十重二十重に取り囲まれていた。
警戒心が強く、追われれば逃げ出してしまうほど臆病な鶏であっても、自分の巣に入り込
むような相手には断固として立ち向かうのである。
鶏の飼い主である初老の男であっても、鶏から卵を取り上げるときには手痛く啄まれるの
である。
そんなことはつゆ知らぬれいむ。
初老の男が飼っている総数14羽の鶏に囲まれて目を丸くしたのは十数秒。だが先ほどの
勝利を思い出すと大きく息を吸い込んだ。

「れいむのじゃましないでね! どっかいってね! ぷくぅううううぅぅぅっ!!」

ケッ!

「ぶひゅ!?」

残念なことに、守るべき巣を背をった鶏たちの志気は先ほどとは違う。膨れあがった右の
頬に鶏の嘴が突き刺さった。
思わず吸い込んだ息を吐き出してしまったれいむに、様子見をしていた鶏たちが雪崩を打
って襲いかかった。
無数の嘴が、蹴爪が、れいむの肌を切り裂き髪を千切り眼に突き刺さり餡子を啄み――

「やびぇっ! ぼもびゃめじぇ! ごべぎゅっざび! だぢ――」

口を開けば口の中。
身を捩って飛び跳ねようとすれば足の裏。
鶏たちの苛烈な攻撃は聞き取りづらい命乞いを無視して続いた。


「さぁて、鶏ども飯だうおぁっ!」

初老の男が鶏の餌と水を抱えて鶏舎に入ると、そこにはぼろぼろの生首があった。

よく見ればそれは鶏たちに散々いたぶられたゆっくりれいむの成れの果てである。
ただ、髪は千々に千切れてぼさぼさ、肌は啄まれてぼろぼろ、白い物が涙のように流れる
両目は潰れており、だらしなく開いた口からはずたずたになった舌が垂れ下がっていた。
赤黒い餡子と砂で汚れきったその姿は、正に落ち武者も斯くやといった風体となっていた。

「ああ、なんだゆっくりか…びっりしたわい」

跳ね上がった鼓動を深呼吸をして落ち着けて、初老の男は鶏の餌を撒いて桶の水を取り替
えた。

「こんなもん食ったら卵の味が悪くなってしまうで片づけんとなあ」

鶏の餌を入れていた桶にゆっくりの残骸を集めて詰め込み、鶏舎から運び出しながら初老
の男は独り呟く。

「知らん間に鶏が変な物食ったらいかんで、今度神社にお参りに行くときにでもゆっくり
除けの結界を頼むかねぇ…」

その時は自慢の卵と、わずかでもお賽銭を持っていこうと心に決めて初老の男は家に戻っ
ていった。


この里の養鶏家でゆっくりの被害に遭ったという者は未だにいない。

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最終更新:2022年05月22日 10:40