◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
バンドの練習はお休みだったから、私は律と一緒に帰り、それから唯の部屋に向かった。
夕飯の食材がないということで、私と唯は近所のスーパーに行った。
買う物を選んでる途中で、唯は立ち止まり、試食コーナーでお肉を焼く店員の動きをじっと見始めた。
「これ食べたいの?」
私が唯に訊くと、唯は首を横に振って、また店員のほうを向いた。
唯の横顔は映画でも観てるように興味津々といった様子だ。
なるほど、唯はデモンストレーション的に調理をする店員の動きを見ているのが好きらしい。
私も子供の頃、ママに連れられて行ったスーパーで、同じように店員の動きに見入ったことが何度かあった。
最近は唯と一緒にいるとこうやって子供の頃の事をよく思い出す。
「あっ、ごめんごめん。いこっか」
「いいよ。もうちょっと見てようよ」
私も唯も身体は大きくなっていたけど、きっとこの店員さんには子供が二人並んでるように見えてるんだろう。
店員さんは爪楊枝にお肉の切れ端を刺し、私と唯に手渡した。
せっかくなので、このお肉も買うことにした。
「あ、これも買おうよ」
私の押すカートに、唯がイチゴのポッキーを入れた。
「あとこれも!」
今度は梨を4つ。
憂ちゃんは苦労しただろうな、と思った。
「買いすぎだって。誰がこんなに食べるんだよ」
「私が食べます!」
「いいけどさ。あんまり無駄遣いすると憂ちゃんに怒られるぞ」
「う……わかった。我慢する……」
唯は口を尖らせてぶつぶつ言いながら、梨を全部元の場所に戻した。
私は二個だけその梨をカート籠の中にまた戻した。
唯は口に手を当てて、「へぇ」という顔をしてにやにやしながら私を見た。
「か、買い物はこれでおしまい!」
逃げるように勢いよくカートを押すと、横の棚にがつんとぶつけてしまった。
店員のおばさんが何事かと寄ってきて、私は頭を下げてからさっさとレジに向かった。
スーパーを出て唯の部屋に戻り、私達は買い物籠の中身を取り出した。
私も唯も料理はあまり出来なかったけど、憂ちゃんが大量の
レシピを作ってくれていたので、それを見ながら料理をするようになっていた。
「少々」というのがどれくらいかわからず、私達はよく味が薄かったり、逆に濃すぎるものを作った。
その上、基礎ができてないくせに、二人とも何かアレンジしたくなる性分で、悲惨な結果を後押しした。
「今日はちゃんとレシピ通りに作ろうね!」
唯は腕を捲って息巻いた。
「ええと、私がアボカド切るから、唯はマグロと玉ねぎをお願い」
「はいはーい」
アボカドを半分に切り、真ん中の種を抜き、縦に二本、横に四本切れ目を入れる。
それからスプーンで掻き出してボウルに入れる。
これを二つぶん。
唯はマグロの切り身をそのアボカドの欠片と同じくらいの大きさに切ると、キッチンから出てクローゼットの中を漁り出した。
「唯?何してるの?」
「じゃーん!ゴーグル!」
唯は水泳用のゴーグルを着けて、両手を広げてポーズをとった。
「これ着けてれば玉ねぎ切っても目が痛くならないよ!」
誰でも一度は思い付く方法だけど、実践する人は初めて見た。
「ぷっ、あはははは」
「ええ?なに?なんで笑うの?」
唯が切った玉ねぎをボウルに加え、マヨネーズとマスタード、塩胡椒をふってかき混ぜる。
お皿に盛り付けてトマトを添えて、サラダの出来上がり。
「これ焼いたら美味しくなるかな」
唯がフライパンを取りだしながら言った。
「いや、このままでいいよ。ていうか今日はレシピ通りにやるってさっき決めただろ」
「ちょっとだけ!ちょーっとだけ火にかけてみない?」
「ダメだってば。これサラダだし」
唯は渋々フライパンを戻して、ゴーグルを外した。
目の周りに赤く痕が残っていて、それが可笑しくて私はまた笑った。
とりあえず、今日の調理はこれでおしまい。
後は出来合いのものを火にかけて、レンジでチンして終わり。
……ひとつずつ覚えていけばいいんだよ、こういうのは。
夕食を済ませて一緒に洗い物をした後、順番にシャワーを浴びて、私と唯はテレビを観た。
しばらくして唯がベッドに潜り、私もそれに続く。
電気を消して、ベッドの中でぽつぽつと会話していると、唯が私の脇腹をつついた。
私も唯にやり返して、それを何度か繰り返し、二人でくすくす笑う。
それから、互いの身体を使った遊びを始める。
最中の唯の声が、私は好きだ。
優しくて頼りなくて、切羽詰まっていて全身全霊で、でも下品じゃない声。
逆に私の声は、押し殺そうとしてるのに漏れ出てくるような感じがして、あまり好きになれない。
「我慢しなくていいのに」
遊びが終わって私が微睡んでいると、唯が言った。
「ここ防音ちゃんとしてるから、お隣さんには聞こえないよ?」
「うん」
「恥ずかしいの?」
「声の出し方がわかんないんだ。唯はどうやって出してるの?」
「うーん……勝手にでちゃうんだよ」
それくらい、唯は自然にこの遊びを楽しんでいるんだろう。
「私はまだちょっと無理かも」
かけ布団を目の真下まで被りながら私は言った。
唯はベッドから身を乗り出して、スタンドに立てられたギー太に手を伸ばした。
「ギー太は知ってるんだよね」
ペグを触りながら唯は言った。
「ギー太には全部見られちゃってるもんね」
言われてみれば、最初から全部見られてる。
時々ベースを持ったままこの部屋に来ることもあったから、エリザベスにも見られてる。
今もエリザベスはこの部屋にいる……ていうか置きっぱなし。
キッチンに繋がるドアの横に立て掛けられている。
名前って不思議だな。
エリザベスは唯に名前をつけられる前から私の愛機だったけど、名前を与えられた瞬間、魂が宿って人格を持ち始めたように感じる。
そのうち声を出して喋っても、私は驚かないかも。
なんて事を考えながら、ベッドの中からエリザベスの入ったケースを眺めていると、急にエリザベスが自分の物じゃなくなったような感覚に襲われた。
エリザベスが、まるでこの部屋の一部として最初からそこにあるような。
「なんか……嫌だな」
私が呟くと、唯はギー太に向けていた顔を私の方に戻した。
「え?ギー太に見られてるのが?」
「そうじゃないんだけど……」
「大丈夫だよ。ギー太は口堅いから」
「……それは良かった」
一部始終を見ているギー太は、私と唯のことをどう思っているんだろう。
子供が二人、大人の遊びに夢中になっているさまはどう見える?
想像しようとして、眠気が強くなり、私は瞼を閉じた。
次の日、ムギは頼んでおいたシャンプーを4セット持ってきてくれた。
家に帰り、お風呂に入って、私は早速使ってみた。
確かにいい匂いなんだけど、唯の髪みたいな、鼻から骨の芯まですっと入っていくような感じはしなかった。
きっとシャンプーと唯自身の匂いが混ざって初めてあの匂いになるんだろう。
それがわかると、途端にこのシャンプーに対する私の興味は排水溝の周りの泡みたいになって消えてしまった。
でもせっかくムギがくれたものだし、使い続けないと。
最後の一本までちゃんと。
『10月1日』
何度携帯電話をチェックしても、唯からのメールは来ていなかった。
土曜日なのに予定が何も無い。
こういう事はたまにある。
律とはまた違った風にいい加減な性格の唯だ。
休日は前もって約束しておかないと、今みたいに暇をもて余すことになる。
私から誘えばいいんだろうけど、それができるような性格だったら私の人生はもっと楽なものになってるはず。
今が辛いわけじゃないけど。
十分楽しんでるけど。
唯はいつも、「今から来れる?」といった感じに、土壇場で連絡をよこす。
私はいつ連絡がくるかと待ちわびて、その時までこうして自分の部屋でそわそわしながら時間を潰すしかない。
例えば、音楽を聴いたり、歌詞を書いたり、本を読んだり。
でも全部半端にしか手がつかない。
お昼までそうやって過ごして、連絡がなかったから、私は結局律の家に行くことにした。
「おーっす。お互い暇人ですなぁ」
昼寝でもしてたのか、律は前髪を垂らして、腫れぼったい顔で私を迎えた。
ほとんど私の身体の一部みたいだ、律の部屋は。
小学生の頃から、自分の部屋の次くらいに私はここで多くの時間を過ごしている。
人の家の匂いはそれぞれ違って、入るとすぐにその違いに気づくものだけど、この部屋の場合、自分の家の匂いに気付けないのと同じで、私は何も感じない。
そんなわけで、部屋の中に新しいモノがあればすぐに気づく。
「あれ?律もこのバンドのCD買ったのか?」
「ん?ああ、うん。梓がしつっこく勧めるからさぁ。澪も買ったの?」
「うん。そっか、律は梓に教わってたんだな、このバンド」
「なんであいつジョニー・マー好きなんだろうな。イメージ違くね?」
「さあ?律だってムーニーが好きな理由、かっこいいから、だろ?そんなもんじゃないの?」
「そういうもんか」
律が買ったのは、私がこの前買ったアルバムより新しいやつだった。
そう言えばあのアルバム、全然聴いてないな。
私は律に断りもなくCDを取り出して、パソコンに入れて曲をかけた。
「なんか私の買ったアルバムとは全然雰囲気違うな。違うバンドみたいだ」
「そう?そのアルバムからマーが加入したらしいよ。そのせいじゃね?」
「え?じゃあ私が買ったやつにはいないのか……」
「買う前に調べとけよ……」
「これ借りていい?」
「いいよ、私もうパソコンに入れたし。じゃ、澪も貸してよ、このバンドのCD」
「うん。いいよ。ちゃんと返せよ」
律はにっと笑ったあと、ゴムで前髪を縛って大きく伸びをした。
「あ、澪。歌詞書けた?」
「ごめん、まだ書けてない……」
「なんだ?スランプ?」
「……深刻な」
唯の部屋に通うようになってから、一人の時間はほとんど無くなり、筆が全く進まなくなってしまった。
たまに作詞ノートを開いてみても、前みたいに言葉がすっと降りてこない。
頭の中が作詞どころじゃないからな、最近は。
それから私達は会話をしたりしなかったり、雑誌を開いたり閉じたり、ぼんやりしながら、何の目的もなく時間の浪費を楽しんだ。
律は時々ペンをスティックに見立てて机をトントン叩いた。
「今のシャッフルのところ、ちょっと走ってたぞ」
雑誌の記事を読みながら私が言うと、律は消しゴムの端をちぎって私の頭に投げた。
それから思いっきり16ビートで机を叩いた後、ペンを置いて、
「どっか行くか?」
と言った。
私は時計を見た。
午後四時。
唯からはまだ連絡がないけど、いつ来るかわからない。
来るかも知れないし、来ないかも知れない。
今から出掛けてしまったら、連絡が来ても断らないといけない。
「いいよ、もう。時間も中途半端だし」
「だよな。今日ご飯食べてくの?」
「今日は自分の家で食べるよ」
「そっか。……あーあ、もう十月か」
「なんだ急に」
「1年ってはえーな。高校の時は全然そんなじゃなかったのに」
「まだ入学して半年だろ。最近親父臭いぞ律」
「うるせー。梓達、上手くいくといいな」
「あ、もうすぐ学祭か」
「梓達はさわちゃんにどんな衣装着させられるんだろうな」
「いや、着ないだろ」
「どうかなぁ?梓もああ見えて案外嫌いじゃなさそうだし」
それは私も薄々感じていた。
「盛り上がるといいな。梓、頑張ってたし」
「私が客になるから大丈夫だ!最前列で盛り上げまくってやる。こう、拳をあげて!」
「それただのサクラだろ……」「いーんだよ。澪もちゃんとノッてやれよな」
「それはもちろん」
律はへへっ、と笑い、またペンで机を叩きながら鼻歌を歌い始めた。
律はあんまり歌が上手くない。
消しゴムのカスを投げられたくないから何も言わないでおこう。
「あ、律。私ちょっとトイレ」
「んー。いってらー」
部屋を出てトイレに入り、便座に座ると、閉めたドアの内側にカレンダーが貼ってあった。
その日付を見る。
梓のライブは三日後だ。
新歓の時の演奏はバッチリだったし、きっとあの時よりもっといい演奏をしてくれるはず。
小さい身体で懸命にギターをかき鳴らし、講堂を湧かせる梓を想像したら、なんだか嬉しくなって頬が緩んだ。
トイレから戻ると、律はベッドに身を投げて天井を眺めていた。
「律、眠いの?だったらそろそろ帰るけど……」
「ん、ちょっと眠い。なんか疲れたし」
「別に何も疲れるようなことしてないだろ」
「女の子は色々あるんだよ」
「なんだそれ。……じゃあ、今日はもう帰るぞ」
「おう。またなー」
律は寝たままの姿勢で手を振った。
「あ、そうだ律」
「何?」
「中学の時にさ、林間学校で行ったところ覚えてる?」
「はい?」
「律が私を起こして散歩に行ってさ」
律は身体を起こして、少し考えるように指先で頭をとんとん叩いた。
「そんなことあったっけ?」
「霧が濃くてすぐ引き返したんだけど」
「覚えてないや。それがどうかした?」
「いや、なんとなく。思い出したから聞いてみた」
「……澪ってたまにわけわかんないこと言うよな」
確かに。
なんで今この話をしたのか自分でもよくわからない。
首を傾げた後、私は律の家を出た。
最終更新:2011年04月28日 00:22