AMS本社内で起きた、クーデター事件である。
「RHS」分裂の発端となった。

背景

 もともと派閥間の対立が深刻化していた空軍上層部の腐敗は、グレゴリー前司令官時代に決定的なものとなった。「維持費削減」を掲げる経理派と無謀な戦力拡張を行う戦力派との間で、前線の兵士は困惑していた。
 相次ぐ再編成の波の中で、北京基地に配属されていた空軍所属の青年将校数人が両派閥に対する沈静化作戦を計画。上層部のやり方に不満を持つ他軍の部隊と連絡し、上層部への圧力作戦を実施しようとする。しかし貧弱な情報網しか持ち合わせていなかったクーデター派は、連絡ミスによる一部部隊の武装蜂起で開戦を余儀なくされた。

各軍の動向

このクーデターについては各軍でそれぞれ全く異なる行動をとった。
 陸軍は比較的保守的で、クーデターの呼びかけに呼応した部隊は少なかった。これは陸軍首脳部が司令官を中心として安定した状態が続いていたためだと推測される。
 海軍はこの頃創設されて間も無く、クーデターに対しては中立を宣言した。過度に緊迫した状況で中立は保守・改革両軍の神経を逆なでし、一部過激派によるミサイル攻撃や船艇への爆破工作も行われた。
 空軍は上層部への不満を持つ物が多く、多くの部隊がクーデターに呼応した。この他の理由としては首謀者が空軍将官ということもある。
 海兵隊は第1海兵大隊と第2海兵大隊でとった行動が全く違う。AMS創設者である結城悠里大尉率いる第1海兵大隊は保守・秩序派につき、Marine少将(当時)率いる海兵第2大隊はクーデター軍に合流した。

戦闘の推移

 最初は海空の戦力が豊富なクーデター軍が優勢であったが、物資が尽きてくるとともに徐々に弱体化。補給部隊を用いた保守派勢力の物量作戦に押され、飛行場を放棄。最終的には本部ビルでの籠城戦へと移行し、パイロットがアサルトライフルで陸兵相手に格闘戦を行うという暴挙に出る。そしてビル内の電気・ガス・水道の遮断によって通信すらままならず、戦闘開始7日目にしてクーデター軍首脳は投降を選択し、一連の戦闘は終結した。

戦後処理

 首謀者は拘束され、アメリカ司法当局に提訴された。戦死者はすべてが「訓練中の事故死」という名目にされ、損害賠償金のみの補償とされた。この処理に「死んでいった者は何だったのか」と憤った保守派古参将兵はAMSを脱退、結城悠里大尉の下でRHSを設立した。

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最終更新:2013年05月18日 20:18