網迫の電子テキスト乞校正@Wiki内検索 / 「三好達治「豊中時代など」」で検索した結果

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  • 三好達治「豊中時代など」
     全国中等学校野球大会は今年から全国高等学校野球大会と名称が改まることになった。ごの大会の歴史はもう三十年を越えることであろう。その第一回は阪急《はんきゆう》沿線の豊中《とよなか》グランドで行われた。  阪急もまだ宝塚《たからづか》ゆき電車であったし、豊中のグラウンドなるものが、ただのっべらぼうの平地に、粗末な観覧席がホームの背後にあるだけの、田舎の中学校の校庭かなんぞのよグにぽうぽうと草のはえた、周囲はどこからということもなくそのまま畑につながっている、しごくそぼくなものであった。スコアボールドはセンターのずっと奥の方にあって、それがあの大礼帽《たいれいぼう》に美しいひげをたくわえた美男子の仁丹《じんたん》の看板になっていた。それだけがペンキの塗りたてでまっさらだったのが今も眼にのこっている。  当節の中学生ははかまなどというものをはかないだろうが、私らの時分には外出にはいつも制帽をかぶ...
  • 三好達治「堀辰雄君のこと」
     一身|憔悴《せうすい》花ニ対シテ眠ル、  いつどこで記《おぽ》えた句か前後は忘れてしまったのが近頃時たま唇にのぼってくるのを愛誦している、まったくそれは今の僕の境涯だからね、  堀は臥床の中から天井を見あげたままそういって淋しく笑った。一昨年秋のこと、それが最後の訪問となった折の話柄であった。その庭さきにはカンナやなんぞ西洋花らしいのが二三美しく咲いていた。大歴の才子司空曙の七絶「病中妓ヲ遣ル」というのの前半「万事傷心目前二在リ、一身憔悴花ニ対シテ眠ル」はまったくそのまま当時の堀にあてはめて恰好《かつこう》であった。詩の後半「黄金散ジ尽シテ歌舞ヲ教ヘシガ、他人ニ留与シテ少年ヲ楽シマシメン」というのは、年少のお妾《めかけ》さんを憐れんで適当な若者に遣わそうというのだよ、と私がうろ記えのつけ足しをすると、それも不思議に堀の気に入ったようであった。牀中《しようちゆう》の堀は言葉少なに応答も大儀...
  • 三好達治「萩原さんという人」
     映画俳優のバスター・キートンというのはひと頃人気のあった喜劇俳優だ。近頃の若い人はもうご存じでないかもしれぬ。額が広く、眼玉がとび出て、長身痩驅《ちようしんそうく》、動作は何だかぎくしゃくしていてとん狂で無器用らしく、いつも孤独な風変りな淋しげな雰囲気を背負っている、一種品のいい人物だった。萩原さんの風つきは、どこかこのキートン君に似通った処があった。それはご本人も承認していられたし、またそれがいくらかお得意の様子で、よくその映画を見物に出かけられた後などそれをまた話題にもされた。先生にはあの俳優のして見せる演技のような、間抜けた節がいつもどこかにあって、妙にそれが子供っぽくて魅力があり、品がよかった。突拍子もない  著想《ちやくそう》は、あの人の随筆や感想の随所にちらばってのぞいている呼びかけだし、あの人の詩の不連続の連続のかげにもたしかに潜んでいる。先生には、著想の奇抜で読者の意表に...
  • 三好達治「朔太郎詩の一面」
      山に登る    旅よりある女に贈る  山の頂上にきれいな草むらがある、  その上でわたしたちは寝ころんでゐた。  眼をあげてとほい麓の方を眺めると、  いちめんにひろびうとした海の景色のやうにおもはれた。  空には風がながれてゐる、  おれは小石をひろつて口にあてながら、  どこといふあてもなしに、  ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。  おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのだ。           『月に吠える」 「山に登る」は右のような主題のはっきりとした作品であるが、この作品の主格は最初の第二行目に於て「わたしたちは……」と複数であったのが、いつのほどにか「おれは小石をひろつて」と変化し、最後の一行でもまた「おれはいまでも……」という具合になっている。最初の「わたしたちは」草の上に寝ころんでいたのであるが、「おれ」の方はしぜんにその位置を離れて、「小石をひろつて口に...
  • 三好達治「萩原朔太郎詩集あとがき」
     萩原さんが生前上刊された詩集を刊行の年次に従って列記してみると次の如くである。  「月に吠える」(大正六年二月十五日 感情詩社 白日社出版部共同刊)  「青猫」(大正十二年一月二十六日 新潮社刊)  「蝶を夢む」(大正十二年七月十四日 新潮社刊)  「純情小曲集」(大正十四年八月十二日 新潮社刊)  「萩原朔太郎詩集」(昭和三年三月二十五日 第一書房刊)  「氷島」(昭和九年六月一日 第一書房刊)  「定本青猫」(昭和十一年三月二十日 版画荘刊)  「宿命」(昭和十四年九月十五日 創元社刊) 別に「月に吠える」の再版(大正十一年アルス刊)、「現代詩人全集」第九巻(昭和四年新潮社刊)、その他の重版本合著選抄等数種があるが本文庫本の編輯に当ってはそれらは全く関聯するところがないから略する。本書の編纂に底本として用いたのは右に挙げた初版本八冊であった。さてその八冊の刊行年次は先の順序であるが、...
  • 太宰治「津軽」四五(新仮名)
    https //w.atwiki.jp/amizako/pages/629.html (から、つづき) [#5字下げ][#中見出し]四 津軽平野[#中見出し終わり] 「津軽」本州の東北端日本海方面の古称。斉明天皇の御代、越《コシ》の国司、阿倍比羅夫出羽方面の蝦夷地を経略して齶田《アキタ》(今の秋田)渟代《ヌシロ》(今の能代)津軽に到り、遂に北海道に及ぶ。これ津軽の名の初見なり。乃ち其地の酋長を以て津軽郡領とす。此際、遣唐使坂合部連|石布《イワシキ》、蝦夷を以て唐の天子に示す。随行の官人、伊吉連博徳《ユキノムラジハカトコ》、下問に応じて蝦夷の種類を説いて云はく、類に三種あり近きを熟蝦夷《ニギエゾ》、次を麁蝦夷《アラエゾ》、遠きを都加留《ツガル》と名くと。其他の蝦夷は、おのずから別種として認められしものの如し。津軽蝦夷の称は、元慶二年出羽の夷反乱の際にも、屡々散見す。当時の...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七十三
     小野小町の事蹟は甚だ不明確である。衰えた時の有様は、玉造という本に見えている。この文章は三好|清行《きよつら》が書いたという説があるけれど、弘法大師の著作目録にも入っている。大師は承和の初年に亡くなられた。小町が全盛時代はその後のことのように思われるが、やっぱりよくわからない。
  • 太宰治「お伽草紙」
    青空文庫の「新字旧仮名」をもとに、新仮名に改めました。 https //www.aozora.gr.jp/cards/000035/card307.html その際、講談社文庫を参照しました。 お伽草紙 太宰治 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)間《ま》 |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)約百万|山《やま》くらい [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 「あ、鳴った。」  と言って、父はペンを置いて立ち上る。警報くらいでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかえて防空壕にはいる。既に、母は二歳の男の子を背負って壕の奥にうずくまっている。 「近いようだね。」 「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」 ...
  • 太宰治「津軽」一二三(新仮名)
    青空文庫の「新字旧仮名」のものをもとに、新仮名にしようとしています。 https //www.aozora.gr.jp/cards/000035/card2282.html 津軽 太宰治 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)業《わざ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)白髪|逓《たがい》 [#ページの左右中央] [#ここから8字下げ] 津軽の雪  こな雪  つぶ雪  わた雪  みず雪  かた雪  ざらめ雪  こおり雪   (東奥年鑑より) [#ここで字下げ終わり] [#改丁] [#大見出し]序編[#大見出し終わり]  或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に...
  • 仲原善忠「私たちの小学時代」
    一  「日清だんぱん破裂して」とか「けむりも見えず雲もなく」とか、そんなふうな軍歌がさかんにうたわれていた明治三十年代が私たちの小学時代です。  「小学時代の思い出」というのが編集者の課題だが、一平凡人の私的な思い出よりも、私の記憶に残る当時の教育風情というようなことに焦点をむけるようにしよう。  とはいうものの、往事は茫々として夢の如し、自分の記憶にあざやかな印象として残っているものは、すべて子供らしい、また自分中心のことでしかなかったことも、読者よ、許したまえと、お断りしておく。  生れた家は久米島の真謝石垣の屋号でよばれていた。兄が二人、下には数人の弟妹が次々と生れつつあった。小学校は生れ村にあった。私は多分四つぐらいから学校に通ったらしい。一年で二回らくだいし、三度目にやっと二年に進級した。今度は大丈夫だろうと母もいっていたが、またらくだいで、泣きさけびながら家に帰って来た。つま...
  • 伊波普猷「中学時代の思出」
      -この一篇を恩師下国先生に捧くー-  「沖縄を引上げる時、沖縄を第二の故郷だといつた人は可なりあるが、この第二の故郷に帰つて来た人は至つて少ない。」と仲吉朝助氏がいはれたのは事実に近い。よし、帰って来た人があるとしても、恩師下国先生位歓迎された人は少なからう。沖縄を去る可く余儀なくされた時、下国先生が沖縄を第二の故郷といはれたかどうかは覚えてゐないが、先生は数年来の私たちの希望を容れられて、旧臘三十年振りに、この第二の故郷に帰つて来られた。三十年といへば随分長い年月である。この間に私たちの環境は著しく変つた。けれども旧師弟間の精神的関係のみは少しも変らなかつた。先生が思出多き南国で旧門下生に取巻かれて、六十一の春を迎へられたのは、岸本賀昌氏がいはれた通り、社会的意義があるに相違ない。下国良之助の名は兎に角沖縄の教育史を編む人の忘れてはならない名であらう。この際、四年八ケ月の間親しく先...
  • 小倉金之助「素人文学談義」
    一 「素人のみた文学の話」というテーマで、自分の長い間の経験をもとにして、何かお話し申しあげましょう。  この間、わたしは病気で休んでおりましたが、その時分に『マノン・レスコオ』という小説を読んで、非常な感銘を受けました。この小説はアベ・プレヴォーという坊さんが、今から二百二十年も前、およそ一七三〇年ごろに著したものです。  みなさんもよくご承知とは思いますが、ざっとその筋をお話し申しますと、フランスのある良家に生れたシュヴァリエ・デ・グリュウという青年がおりました。十七歳のとき哲学の勉強を終って宗教家になろうというので、学問に志していたのですが、ある日、マノンという美しい娘さんに出会って急に情熱が燃え上りました。それからシュヴァリエはひたすら恋人の愛を捉えるために、いろいろ詐欺をやったり、賭博をやったり、殺人をも犯したりして、自分では何度か悔いたり悲しんだりしながら、どこまでもマノソを離...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百十九
     四条中納言藤原の隆資卿が自分に仰せられたには「豊原龍秋という楽人は、その道にかけては尊敬すべき男である。先日来て申すには、無作法きわまる無出78慮な申し分ではございますが、横笛の五の穴はいささか腑におちないところがあると、ひそかに愚考いたします。と申しますのは干《かん》の穴は平調《ひようじよう》、五の穴は下無調《しもむじょう》です。その間に勝絶調《しょうぜつじよう》を一つ飛んでおります。この穴の上の穴は双調《そうじよう》で、双調のつぎの鳧鐘調《ふしようじょう》を.一つ飛んで、夕《さく》の穴は黄鐘調《おうじぎじよう》で、そのつぎに鸞鏡調《らんけいじよう》を一つ飛んで、中の穴は盤渉調《ばんしきじよう》である。中の穴と六の穴とのあいだに神仙調を一つ飛んでいる。このように穴のあいだにはみな一調子ずつ飛ばしているのに五の穴ばかりはつぎの上の穴とのあいだに一調子を持っていないで、しかも穴の距離は他の...
  • 神西清「散文の運命」
     一つの幕間《まくあい》が予感される。つよい予感である。それは殆ど現実感を帯びている。ひょっとすると現実以上の必然であるのかも知れない。  ここ半年ほどの文芸雑誌を散読して(今わたしは、あと数日で終戦一周年を迎えようという日に、これを書いているのだが)、その印象を、荒野に呼ばわる人の声がある  などという文句で言いあらわしたら、もとより大袈裟《おおげさ》のきらいがあるだろう。とはいえ、確かにそんな声は響いている。その声はおもに外国文学の畠からひびいてくる。その声はかなり気ぜわしく、わが小説の伝統に訣別《けつべつ》せよと叫んでいる。わびやさびの境地を振り棄てて、トルストイやスタンダールの門に帰向せよと叫んでいる。  その声は誠実と熱意とにみちて、そのため些《いささ》か急《せ》きこみ気味ではあるが、為にする政治意識の汚染などは少しもみとめられない。まさしく新たな文学十字軍が、発航の準備にかかろ...
  • 江戸川乱歩「モノグラム」
     わたしが、わたしの勤めていたある工場の老守衛(といっても、まだ五十歳には間のある男なのですが、なんとなく老人みたいな感じがするのです)栗原さんと心安くなってまもなく、おそらくこれは栗原さんのとっておきの話の種で、彼はだれにでも、そうして打ち明け話をしてもさしつかえのない間柄になると、待ちかねたように、それを持ち出すのでありましょうが、わたしもある晩のこと、守衛室のストーブを囲んで、その栗原さんの妙な経験談を聞かされたのです。  栗原さんは話しじょうずな上に、なかなか小説家でもあるらしく、この小ぱなしめいた経験談にも、どうやら作為の跡が見えぬではありませんが、それならそれとして、やつぱり捨てがたい昧があり、そうした種類の打ち明け話としては、わたしはいまだに忘れることのできないものの一つなのです。栗原さんの話しつぷりをまねて、次に、それを書いてみることにいたしましょうか。  いやはや、落...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」十三
     ひとり燈下に書物をひろげて見も知らぬ時代の人を友とするのがこの上もない楽しいことではある。書ならば文選《もんぜん》などの心に訴えるところの多い巻々、白氏文集、老子の言説、荘子の南|華《か》真経だとか、わが国の学者たちの著書も、古い時代のものには心にふれることどもが多い。
  • 飛田穂洲「熱球三十年」1
    父のこと、母のこと  私はすでに明治、大正、昭和の三時代にわたる野球に親しく接してきた。これからもまた幾年かの野球をスタンドからながめることであろう。ここで私の野球生活を合算するなら実に三十余年間となる。  選手時代から記者、コーチ時代から再び記者へと移り変ってはいるけれども、つねに辛抱強く野球につきまとって飽くことを知らなかった。  しかも私が野球に走ったころは、むろん今日のごときものではなかった。野球に直接関係あるもののほか、全部といっていいくらい、すべてのものが野球の反対者であり、排斥者であった。学校も家庭もこぞって忌みきらった。当時の選手というものは、教育者からまるで不良少年のごとき扱いをうけていた。こうした迫害の中に成長した私どもの野球に、いくた困難のまつわっていたのは想嫁するにかたくはないであろう。  ことに野球ぎらいな父を持った私などの野球に対する境遇というもの...
  • 江戸川乱歩「百面相役者」
    1  ぼくの書生時代の話だから、ずいぶん古いことだ。年代などもハッキリしないが、なんでも、日露戦争のすぐあとだったと思う。  そのころ、ぼくは中学校を出て、さて、上の学校へはいりたいのだけれど、当時ぼくの地方には高等学校もなし、そうかといって、東京へ出て勉強させてもらうほど、家が豊かでもなかったので、気の長い話だ、ぼくは小学教員でかせいで、そのかせぎためた金で、上京して苦学をしようと思いたったものだ。なに、そのころは、そんなのがめずらしくはなかったよ。なにしろ給料にくらべて物価のほうがずっと安い時代だからね。  話というのは、ぼくがその小学教員でかせいでいたあいだに起こったことだ。 (起こったというほど大げさな事件でもないがね)ある日、それは、よく覚えているが、こうおさえつけられるような、いやにドロンとした春先のある日曜日だった。ぼくは、中学時代の先輩で、町の(町といっても××市のこ...
  • 吉川英治・佐藤春夫対談「「太平記」縦横談」
    佐藤 吉川君、実は僕は中学三年ぐらいの時に中学生らしい読み方で読んだきりその後読まないから、とても君のおつきあいできないので、今日は君に主役になってもらって、僕がワキをつとめたいんだから、そのつもりでよろしく。 吉川 主役になれるかどうかわかりませんが、雑淡しましょう。 佐藤 僕は吉川君が、「平家」のあとに「太平記」を書いておられるが、それを「平家」に続いて書く気になった気持を聞きたいと思っている。僕はかってに憶測して、「平家」は平家琵琶があり、「太平記」には太平記読みがあって、国民にもっとも親しまれた国民文学というようなものだから、二つを同じような意向でつづけて雷く気になったのかなあと解釈しているんだけれど、それでまちがえありませんか。 吉川 だいたいそうです、「新・平家」が終わりましたものの、もっと実朝を、それから鎌倉幕府の将来というような点まで書いたらどうかとすすめられたのです。実は...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」十四
     和歌となると一だんと興味の深いものである、下賎な樵夫《きこり》の仕事も、歌に詠《よ》んでみると趣味があるし、恐ろしい猪なども、臥猪《ふすい》の床などと言うと優美に感じられる。近ごろの歌は気のきいたところがあると思われるのはあるが、古い時代の歌のように、なにとなく言外に、心に訴え心に魅惑を感じさせるのはない。貫之《つらゆき》が「糸による物ならなくに」と詠んだ歌は、古今集の中でも歌屑だとか言い伝えられているが、現代の人によめる作風とは思えない。その時の歌には風情《ふぜい》も旬法もこんな種類のものが多い。この歌にかぎって、こう貶《おと》しめられているのも合点がゆかぬ。源氏物語には「ものとはなしに」と書いてはいる。新古今では、「残る松さへ峯にさびしき」という歌をさして歌屑にしているのは、なるほど幾分雑なところがあるかも知れない。けれどもこの歌だって合評の時にはよろしいという評決があって、後で後鳥...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七十二
     青年時代には血気が体内に漲っているから、心も事物に感じやすく欲情さかんである。一身を危険にさらして砕けやすいことは、まるで珠を転がしているようなものである。華美なものを好んで金銀を浪費するかと思うと、きまぐれにこれを捨てて佗びしい境涯に身を委ねてみたり、気を負うて勇んでいる心が旺盛だから争いをし出かし、ある時は羨望し、ある時は慚愧するなど.気分がむらで好むところも日毎に定まらない。色情に溺れ、情懐に耽り、そうかと思うと義に勇んでは一生を投げ出してかかり、ために一命を捨てた人を理想として、その身を永く安全に保つことは考えない。熱情の赴くところに迷わされて、永く世間の語り草にもなってしまう。こんな風に一身を誤るということは、若い時にあることである。年をとると精神が衰え、淡泊に何事にも感動しなくなる。心がおのずと平静だから、無益な事はし出かさず、とかくわが身も苦労少く、他人にも迷惑はかけまいと...
  • 江戸川乱歩「鏡地獄」
    「珍らしい話とおっしゃるのですか、それではこんな話はどうでしょう」  ある時、五、六人の者が、怖い話や、珍奇な話を、次々と語り合っていた時、友だちのKは最後にこんなふうにはじめた。ほんとうにあったことか、Kの作り話なのか、その後、尋ねてみたこともないので、私にはわからぬけれど、いろいろ不思議な物語を聞かされたあとだったのと、ちょうどその日の天候が春の終りに近い頃の、いやにドソヨリと曇った日で、空気が、まるで深い水の底のように重おもしく淀んで、話すのも、聞くものも、なんとなく気ちがいめいた気分になっていたからでもあったのか、その話は、異様に私の心をうったのである。話というのは、  私に一人の不幸な友だちがあるのです。名前は仮りに彼と申して置きましょうか。その彼にはいつの頃からか世にも不思議な病気が取りついたのです。ひょっとしたら、先祖に何かそんな病気の人があって、それが遺伝したのかもしれ...
  • 辰野隆「露伴先生の印象」
     数年前の夏の一夜、「日本評論」の座談会に招かれて、僕は初めて幸田露伴先生の謦咳《けいがい》に接したのであった。少年時代から今に至るまで、一世の文豪、碩学《せきがく》、大通として仰望していた達人に親しく見《まみ》え、款語を交わし得た僕の歓びは極りなかった。殊にその夜は、一高以来の谷崎、和辻の両君をはじめ、露伴先生を繞《めぐ》って閑談するのを沁々《しみじみ》悦《よろこ》ぶ人々のつどいでもあったから、且つ飲み且つ語る一座には靄々《あいあい》たる和気が自ら醸し出された。斯《か》くて先生もいつもより酒量をすごされたらしく、座談の果てに、我等の請うがままに、酔余の雲烟《うんえん》を色紙に揮《ふる》われた。僕の頂戴した句は  鯉つりや銀髯そよく春の風  というのであった。句は素《もとよ》り、墨痕もあざやかに露伴と署《しる》された文字から、僕の記憶はいつしか、青年時代に愛誦《あいしよう》した『対髑髏』へ...
  • 柳田国男「南島研究の現状」
    大炎厄の機会に  大地震の当時は私はロンドンに居た。殆と有り得べからざる母国大厄…難の報に接して、動巓しない者は一人も無いといふ有様であつた。丸二年前のたしか今日では無かつたかと思ふ。丁抹に開かれた万国議員会議に列席した数名の代議士が、林大使の宅に集まつて悲みと憂ひの会話を交へて居る中に、或一人の年長議員は、最も沈痛なる口調を以て斯ういふことを謂つた。是は全く神の罰だ。あんまり近頃の人間が軽佻浮薄に流れて居たからだと謂つた。  私は之を聴いて、斯ういふ大きな愁傷の中ではあつたが、尚強硬なる抗議を提出せざるを得なかつたのである。本所深川あたりの狭苦しい町裏に住んで、被服廠に遁げ込んで一命を助からうとした者の大部分は、寧ろ平生から放縦な生活を為し得なかつた人々では無いか。彼等が他の碌でも無い市民に代つて、この惨酷なる制裁を受けなければならぬ理由はどこに在るかと詰問した。  此議員のしたやうな...
  • 亀井勝一郎「吉野の山」
     吉野を訪れたのは四月なかばすぎである。今年の花は例年より十日ほど早く開いたそうで、私 の行った頃は、下千本と中千本はすでに散り、上千本にいくらか残花をとどめる程度であった。 やや遅かったわけだが、何しろ満開の時は十万の人が出たというので、おそれをなしたのであ る。しかし残花を追う遊覧客はまだ絶えなかった。酔漢も多い。現代の花見気分は一応味い得ら れたのである。  夕方近く、宿に着いたが、谷あいに霧が深くたちこめてきて、何ものも見えぬ。欄に寄って霧                                       ほら を眺めていた。三年前の初夏、ここを訪れたときも霧が深く、その霧の中から山伏の法螺貝を聞 いたことがある。桜がすぎて、ほととぎすの鳴きはじめる頃から、山伏の姿がぽつぽつあらわれ るという。今は茶店の拡声器から「銀座のカンカン娘」がしきりに響いてくる。風流も変ってき ...
  • 谷崎潤一郎「「少年世界」への論文」
    谷崎潤一郎 「少年世界」への論文 大正六年五月號「文章倶樂部」(文壇諸家立志の動機) 私は日本橋の小學校、府立の第一中學校、それから司高の英法科を經て大學の國文科へ入つたのであるが、いよ〳〵文筆で立たうと思ひ定めたのは、一高を出て大學へ入つた時である。 小學校にゐる時、漢學塾へ通つてゐたので、漢文のクラシックは大概その頃に讀み、和文の方も大抵讀んだ。中學では、私と黒田鵬心君と土岐哀果君とが文藝部委員をやつてゐた。そして私は中々の勉強家であつた。多分三年位までは首席でゐた。私の上級に故恒川陽一郎君がゐたが、一級飛び越したので一緒になつた。眞面目な勉強が主で、學校の雜誌にも論文のやうなものばかり書いてゐた。投書時代といふやうなものもなかつた。たつた一度「少年世界」へ論文めいたものを出して、三等賞を得たことがあつた。 高等學校でも成績は可成りよくて、入學した次學期には二番になつて...
  • 小倉金之助「荷風文学と私」
     私のような自然科学方面の老人が、荷風の文学について語るのは、はなはだ僣越のように思われよう。けれども私は、青春時代における人生の危機を、荷風の小説を力として切りぬけた、とも言えなくないのであって、荷風に負うところ大なるものがあると、衷心から信じている。それで今ここに、主としてその事実について、ありのままに述べて見たいのである。尤もそれは、今から四十年ばかりも前のことで、その当時の私の読み方・味わい方は、恐らく小説の読み方ではなく、文学の味わい方でもなかったであろう。私のような主観的な見方をされては、作家その人にとってはなはだ迷惑なことであるかも知れないが、そういった点についてはーただ昔の思い出ばなしとしてーお許しを願いたいとおもう。  私が荷風文学に親しみだしたのは、明治三十九年のころからであるが、特にそれに熱中したのは明治四十二年から大正元年ごろまで(荷風が満で三+歳から三+三歳のころ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百八十八
     ある人がその子を僧にして仏教の学問を知り因果の哲理をも会得し説教などをして世渡りの手段ともするがよかろうと言ったところが、子は親の命の通りに説…教師になるために、まず乗馬を稽古した。それは輿や車のない身分で導師として請待された場合、先方から馬などで迎えに来た場合鞍に尻が据わらないで落馬しては困ると思ったからである。そのつぎには仏事の後に酒のふるまいなどがあった時、坊主がまるで芸がなくとも施主は曲のないことに思うだろうと早歌《そうか》というものを習った。乗馬と早歌とがだんだん上手になるとますますやってみたくなって稽古している間に説教を教わる時がなくて年を取ってしまった。この坊主ばかりではない。世間の人はみなこの坊主同様なところがある。青年時代には何事かで身を立てて大きな道をも成しとげ、才能をも発揮し、学問をもしたいと遠い将来の念願を心に抱きながら、この世を長く呑気なものに考えて怠慢しつつ、...
  • 飛田穂洲「熱球三十年」3
    順ちゃんのタンカ 一番愉快な思い出  こうした当時の人々を思い出すたび、ことに私の胸になつかしくよみがえってくるものは、大正十年のアメリカ遠征である。私はいったい旅行がきらいだ。汽車というものを好かない。汽船には存外好感を持てるけれども、汽車は窮屈で、なんともからだを持てあます。だから、単独で遠い旅行をすることはほとんどないし、その意味から、遠征などに好印象を残しているのが少ない。  しかしこのアメリカ遠征だけは、私の一生の中でもっとも愉快な思い出である。ああした旅行をもう一度してみたいような気がする。このときのティームは、まえにもいったように大正十三、四年ごろのティームに比較すれば、ふぞろいであった。谷口はこの遠征に苦労したため、小野三千麿と併称されるまでになったのであって、この遠征の中途までは、さほどでなかったし、全体としての守備、打力とも決して充実したものとはいわれなかった。こ...
  • 亀井勝一郎「美貌の皇后」
                                             ふぴ  法華寺は大和の国分尼寺である。天平十三年光明皇后の発願されしところで、寺地は藤原不比 と 等の旧宅、平城京の佐保大路にあたる。天平の盛時には、墾田一千町の施入を受くるほどの大伽 藍であった。その後次第に崩壊し、現在の本堂は、慶長年間豊臣氏の命で旧金堂の残木を以て復 興されたものと伝えられる。円柱の腐蝕甚しく、荒廃の感は深い。平城宮の廃墟に近く、今はわ ずか七人の尼僧によって法燈が擁られるのみ。本尊は光明皇后の御姿を写したと云われる十一面 観音である。この二月久しぶりで拝観した。  私は「大和古寺風物誌」の中でもかいたが、この観音像についての有名な伝説をもう一度紹介 しておきたい。北天竺の轍階羅国に見生王という王様がいたが、どうかして生身の観音を拝みた く思い、或るとき発願入定して念じた。するとやがて、...
  • 内藤湖南「山片蟠桃について」
    山片蟠桃について  この懐徳堂のお催しとして、大阪出身の勝れた人々について講演をするということでございます。それで、私は妙な縁故からして、山片蟠桃《やまがたばんと う》について調べたというほどに調べておりませぬが、少し関係がありますところから、私に蟠桃のお話をいたせということでありました。ちょうど十日ほど前 に風を引きまして、声が低くてお聴き取りにくかろうと存じますが、どうか悪しからず御承知を願います。  今申しましたとおり、山片蟠桃のことにつきましては、私はいっこう詳しく調べておらぬので分からぬのであります。しかしこの人について注意をし、またそ の著書を読んだことはずいぶん古いほうであると思います。この人の著書の有名な『夢《ゆめ》の代《しろ》』というのは、「日本経済叢書」に載っております から、多数の方は御覧になっておられると存じます。その中に「無鬼」という篇がありますが、明治二十五年に...
  • 吉川英治・五島慶太対談「文学と事業」
    吉川 相変らずお元気のようで結構ですね。健康法としてはどのようなことをなさっておりますか。 五島 毎朝六時半に起きまして九時まで歩きます、多摩川ぶちを……。帰ってきて、樫の棒を百回振るのです。 吉川 そうですか。 五島 それから昼寝をするのです。 吉川 昼寝はいいですね。しかし、樫の棒を振るというのは長く続いておりますか。 五島 百回毎日振ります。そうでなければ手が弱ってくるし、また歩かないと足が弱る。われわれぐらいになると、歩く以外に健康法はありません。樫の棒は必ずしも振らなくてもいいかもしれないが、しかし、振ったほうがいいですな。 吉川 昼寝は……これは久原さんがそうです。昼寝自慢みたい。 五島 昼寝自慢と熊胆《くまのい》を飲むことです。私も教わって熊胆を毎日飲んだ。あれを飲みますと、まず第一に澱粉の消化を助ける。だから胆汁が多少少くてもいい。肝臓及び胆嚢の弱ったのを助ける。また肝嚢と...
  • 亀井勝一郎「桂離宮」
     桂離宮は日光のもとに見るべきものではない。月光のもとに見るべきものである。それも満月 の折は欠陥をあらわす惧れがある。下弦の月の頃、長夜の宴でも張ったとき、はじめてこの離宮 は真珠のような微光を人心に通わせるかもしれない。これは離宮の全景を綜合的に見た上での私 の予想である。  四季のいずれの時間を選ぶかは、極めて大切なことだ。御殿と林泉と茶室と人の心が、おのず から融けあう刹那は、古人においてもそう屡ーあったとは思われない。それでいいのだ。離宮と は元来、「贅沢な時間」のために構想されたものであるから。人は日常性から意識的に遊離した かたちでここに遊ぶ。 *  洛西の郊外、桂川は嵐山をめぐって東南に流れ、.淀川に注いでいる。その流域のほぼ中ほど に、離宮の地は設定された。周囲はすべて田野である。自然として利用すべきものは、桂川の水 以外にはない。この平坦で平凡な場所に、一万三千坪の庭園...
  • 佐藤春夫「散文精神の発生」
    佐藤春夫? 散文精神の発生  新潮の九月号で広津和郎君が書かれた「散文芸術の位置」といふ文章は多少不備で、散漫で、然も尽くさないところがあったやうに思ふが、それでも   「沢山の芸術の種類の中で、散文芸術は。直ぐ人生の隣りにゐるものである。右隣りには、詩、美術、音楽といふやうに、いろいろの芸術が並んでゐるが、左隣りは直ぐ人生である。」 といふ結論は確かな真実で   「認識不足の美学者などに云はせると、それ故散文芸術は、芸術として最も不純なものであるやうに解釈するが、しかし人生と直ぐ隣り合せたといふところに、散文芸術の一番純粋の特色があるのであって。それは不純でもない、さういふ種類のものであり、それ以外のものでないといふ純粋さを持ってゐるものなのである。」 と看破したのは達見である。まさしく吾々が知らず識らずのうちに陥ってゐる散文芸術を律するに、詩によって立てられた美学を襲...
  • 飛田穂洲「熱球三十年」2
    懐しの球友 野球との心中  野球と心中、それが前世からの約束ごとでもあろう。生きてきた七十余年、ふりかえりみるなら、野球のほかになにものも残らない。女房子供のあるのがふしぎにも思える。少年時代人なみに描いていた希望も野心も、一度野球に対面したが最後、すべて雲散霧消、きれいさっばり、空想にも英雄豪傑と別れを告げてしまった。大臣大将の夢とボールの現実とを、いさぎよく引きかえにした、穂洲庵忠順愛球居士の末路が、さていかに落ち着くかは、熱球三十年にして終るか、四十年、五十年に生きのびるか、その心中たるや悲愴をきわめるか、はなやかではなくとも、得心のいくものとなるか、むろん穂洲庵自身にもわからないし、世間のだれにもそれを占うことができまい。ただ、この鍵を握っているものは、つれそうてきたボールのみであろう。  磯節に明ける大洗小学校の巣立ちから、老松に暮れる水戸佐竹城趾のグラウンド、目白の若葉を...
  • 江戸川乱歩「二廃人」
     ふたりは湯から上がって、一局囲んだあとをタバコにして、渋い煎茶《せんちや》をすすりながら、いつものようにポッリポッリと世間話を取りかわしていた。おだやかな冬の日光が障子いっぱいにひろがって、八畳の座敷をほかほかと暖めていた。大きな桐《きり》の火バチには銀瓶《ぎんびん》が眠けをさそうような音をたててたぎっていた。夢のような冬の温泉場の午後であった。  無意味な世間話がいつのまにか、懐旧談にはいって行った。客の斎藤氏は青島役《ちんたおえき》の実戦談を語りはじめていた。部屋のあるじの井原氏は火バチに軽く手をかざしながら、だまってその血なまぐさい話に聞き入っていた。かすかにウグイスの遠音が、話の合の手のように聞こえて来たりした。昔を語るにふさわしい周囲の情景だった。  斎藤氏の見るも無残に傷ついた顔面はそうした武勇伝の話し手としては、しごく似つかわしかった。彼は砲弾の破片に打たれてできたとい...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百六十九
    「何々の式ということは後嵯峨帝の御代までは申されていなかったのを近い時代になってから言いはじめた言葉である」とある人が言っておられましたが、しかし建礼門院の右京大夫が、後鳥羽院の御即位の後、ふたたび内裏へ住んだ時のことを記して「世の式も、かわりたることはなきにも」と書いている。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十九
     鎌倉の海で、鰹《かつお》という魚は、あの辺では無上のものとして近来は賞美されている。これ も鎌倉の老人が話したのだが、「この魚は自分らの若年の時代までは相当な人の前へは出なかったものである。頭は下男でさえ食べず切って捨てていたものである」ということであった。このようなものでも世が末になると上流へも入りこむものである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」八十八
     ある人が小野道風が書いた和歌朗詠集を所有していたのを、さる人が御相伝のお品でいいかげんなものとも存ぜられませぬが、四条大納言が選ばれたものを道風が書いたのでは時代に錯誤がございましょう。変なものですなと言ったところが、それだからこそ珍重なのでございますと一そう大切に保管した。
  • 緒方竹虎『人間中野正剛』「中野正剛の回想」
    ~三田村武夫中野正剛の回想   中野の碑文   現状打破の牢騒心   東洋的熱血児   竹馬の友   悍馬御し難し   打倒東条の決意   自刃・凄愴の気、面を撲つ  中野の碑文 「おれが死んだら、貴様アおれの碑文を書いてくれ、その代り、貴様が先に死んだらおれが書くから」中野君はよく冗談にこういうことを話していた。それで、昭和十八年十月、中野君が自刃した時、一応のショックがおさまると同時に、何よりも先に私の頭に浮んだことは、この旧約に基く中野君の碑文のことであった。二人が生きていて冗談を言い合っている時には、必ずしも真面目に碑文を書くつもりでもなかった。中野君も同様であったろうと思う。しかし目の当り中野君の死、しかも非命の死にぶっつかってみると、多少とも中野君が当てにしていたであろう碑文を書くことが、自分の責任のように思われ出した。  当時は戦局がだんだんに悪くなるとともに、世相はなはだ険...
  • 谷崎潤一郎「詩と文字と」
    谷崎潤一郎 詩と文字と 大正六年四月號「中央文學」 詩人が、幽玄なる空想を彩《いろど》らんが爲めに、美しき文字を搜し求むるは、恰も美女が妖冶《えうや》なる肢體を飾らんが爲めに、珍しき寶玉を肌に附けんと欲するが如し。詩人に取りて、文字はまことに寶玉なり。寶玉に光あるが如く、文字にも亦光あり、色あり、匂あり。金剛石の燦爛《さんらん》たる、土耳古石《とるこいし》の艶麗なる、アレキサンドリアの不思議なる、ルビーの愛らしき、アクアマリンの清々しき、──此れを文字の内に索めて獲ざることなし。故に世人が、地に埋れたる寶石を發掘して喜ぶが如く、詩人は人に知られざる文字を見出して驚喜せんとす。 人あり、予が作物の交章を難じて曰く、新時代の日本語として許容し難き漢文の熟語を頻々と挿入するは目障りなりと。予も此の批難には一應同意せざるを得ず。されど若し、文字の職能をして或る一定の思想を代表し、縷述...
  • 亀井勝一郎「飛鳥路」
                        みささぎ  飛鳥路はすべて墓場だ。古樹に蔽われた帝王の陵、一基の碑によってわずかに知られる宮址、 礎石だけを残す大寺の跡、無数の古墳と、石棺や土器や瓦の破片等、千二百年以前の大和朝の夢 の跡である。畝傍、耳梨、香久山の三山を中心に、南は橘寺、岡寺から島庄に至る平原、東寄り の多武の山の麓に沿うて北は大原の丘陵地帯になっている。更に一里ほど北へ歩むと、三輪山を 背景とした桜井の町があり、鳥見山山麓一帯もまた大和朝にゆかり深い地だ。この周辺を克明に 歩いたら十数里はあるだろう。広大な地域とは云えないが、ここに埋れた歴史は広大である。こ こに成立した宗教芸術は世界的である。即ち日本書紀の事跡の殆んど全部を含む。とくに欽明朝 より持統朝にかけて、飛鳥は政治文化の中心として隆盛を極めた。この間権勢を誇り、また流血 の悲劇をくりかえした大氏族は蘇我家である。  ...
  • 中谷宇吉郎「硯と墨」
      東洋の書画における墨は、文房四宝の中でも特別な地位を占めていて、古来文人墨客という言葉があるくらいである。従って墨に関する文献は、支那には随分沢山あるらしく、また日本にも相当あるようである。しかしそのうちには、科学的な研究というものは殆ど無い。或いは絶無と言っていいかもしれない。それは東洋には、昔は科学がなかったのであるから致し方のないことである。  墨と硯の科学的研究は、私の知っている限りでは、寺田寅彦先生の研究があるだけのようである。飯島茂氏の『硯墨新語』なども墨の科学的研究と言われているが、この方は方向は一部科学的研究に向いており、面白いところもあるが、まず文献的の研究というべきであろう。  寺田先生は晩年に理化学研究所で、墨と硯の物理的研究に着手され、墨を炭素の膠質《コロイド》と見る立場から実験を進め、最後の病床に就かれるまで続けておられた。研究の内容は三部から成っている。...
  • 江戸川乱歩「火繩銃」
    (この一篇は、作者が学生時代に試作した未発表の処女作です。当時の日記帳の余白に筋書きが書きつけてあったのを、友人をわずらわして清書してもらいました。筋書きのままですから、組立てや、文章も未熟で、いっこうおもしろくありません。といって、この筋で新しく書き直す元気もありませんでした。  原作には前置きとして、主人公である橘梧郎《たちばなごろう》というしろうと探偵の人となりを長々と書いてあったのですが、おもしろくもないので削ってしまいました。  橘は高等学校の学生で、探偵小説や犯罪学の心酔者で、シャーロック・ホームズというあだなをつけられていたような、変わり者です。 『わたし』という人物は橘の同級生で、ワトスンの役割りを勤めているわけです)  ある年の冬休み、わたしは友人の林一郎から、一通の招待状を受けとった。手紙は、弟の二郎といっしょに一週間ばかり前からこちらに来て毎日狩猟《しゆりよ...
  • 森鴎外「大発見」
    僕も自然研究者の端榑《はしくれ》として、顕微鏡や試験管をいぢつて、何物をか発見しようとしてゐた事があつた。 併し運命は僕を業室《げふしつ》から引きずり出して、所謂《いはゆる》事務といふものを扱ふ人間にしてしまつた。二三の破格を除く外は、大学出のものに事務の出来るものはないといふ話である。出来ない事をするのも勤なれば是非が無い。そこで発見とか発明とかいふことには頗《すこぶ》る縁遠い身の上となつた。 考へて見れば、発見とか発明とかいふ詞《ことば》を今のやうに用ゐるのは、翻訳から出てゐるのだが、甚だ曖昧《あいまい》ではないかと思ふ。亜米利加《アメリカ》を発見したとか、ラヂウムを発見したとかいふのは、あれはdiscoverである。クリストバン・コロンが出て来なくても、亜米利加の大陸は元から横《よこた》はつてゐたのだ。キユリイ夫婦が骨を折らなくても、ラヂウムは昔から地の底にあつて、熱を起したり、電...
  • 柳田国男「島々の話」
    一  昨年の夏、瑞西などで専ら人の噂になつて居たことは、南太平洋の東南端に、最も美しい離れ小島として又神秘の国として、世に聞えて居たイースターの島が沈んでしまつて見えなくなつたと言ふ話であつた。南島今日の造船技術では、とても通はれぬやうな遠い境に、歌と物語に富んだ静かな民が住んで居て、島には住民の全部が働いても、とても完成することの出来ぬ程の大きな石の色々の工作物があつた。其不思議の島が、或船長の報告に依ると、もと在つた海上に、どうしても見えぬと言ふことであつた。西洋人はローマンスを喜び、又或意味に於ては島の生活を愛借するが、それは只燈の光で花を見るやうな、遙かなる咏歎であつた。さうして後の智利《チリイ》からの電報で、島は依然として元の如しと伝へられると、なんの事だと舌を打つやうな人ばかり多かつた。  大正八年の八月九月には怖しい流行感冒がタヒチ・サモァ其他の島々を非常に荒した。ゴーガン...
  • 江戸川乱歩「日記帳」
     ちょうど初七日《しょなのか》の夜のことでした。わたしは死んだ弟の書斎にはいって、何かと彼の書き残したものなどを取り出しては、ひとりもの思いにふけっていました。  まだ、さして夜もふけていないのに、家じゅうは涙にしめって、しんとしずまりかえっています。そこへもって来て、なんだか新派のおしばいめいていますけれど、遠くのほうからは、物売りの呼び声などが、さも悲しげな調子で響いて来るのです。わたしは長いあいだ忘れていた、幼い、しみじみした気持ちになって、ふと、そこにあった弟の日記帳を繰りひろげて見ました。  この日記帳を見るにつけても、わたしは、おそらく恋も知らないでこの世を去った、はたちの弟をあわれに思わないではいられません。  内気者で、友だちも少なかった弟は、自然書斎に引きこもっている時間が多いのでした。細いペンでこくめいに書かれた日記帳からだけでも、そうした彼の性...
  • 河上肇「古今洞随筆」
     今歳正月宿約を果さんがため一文を本誌に寄せし折、それは余りの短文ゆえ他日更に一文を草してその責を補うべしと約束してこのかた、しきりにその約束の履行を催促されているに拘《かかわ》らず、今日に至るもなお之を果す能《あた》わず、已むなくテエブルに向い、さしあたり思いつくままのことを書きつけて、形ばかりの責を塞ぐ。  私が今|倚《よ》りかかっているテエブルは、近頃京大経済学部の学生諸君から贈られたものである。それには「贈恩師河上肇先生、経済学部同好会々員一同」と書きつけてある。私は近頃大学教授の椅子を失ったが、その代りに、学生諸君から斯《か》かるテエブルを贈られたのである。私は悦《よろこ》んでこれを受け、今後私がなお生きていて、何等かのものを書くかぎり、永くこれを使用しようと思っている。私は従来、私宅では坐って執に向い、汰学の研究室では椅子してテエブルに向っていたのだが、大学へ出なくなって毎日...
  • 江戸川乱歩「恐ろしき錯誤」
    「勝ったぞ、勝ったぞ、勝ったぞ……」  北川氏の頭の中には、勝ったという意識だけが、風車のように旋転していた。ほかのことは何も思わなかった。  かれは今、どこを歩いているのやら、どこへ行こうとしているのやら、まるで知らなかった。だいいち、歩いているという、そのことすらも意識しなかった。  往来の人たちは妙な顔をして、かれのへんてこな歩きぶりをながめた。酔っぱらいにしては顔色が尋常だった。病気にしては元気があった。  ちょうどあの気違いじみた文句を思い出させるような、一種異様の歩きぶりだった。北川氏は決して現実の毒グモにかまれたわけではなかった。しかし、毒グモにもまして恐ろしい執念のとりことなっていた。-  かれは今全身をもって復讐《ふくしゆう》の快感に酔っているのだった。 「勝った、勝った、勝った……」  一種の快いリズムをもって、毒々しい勝利のささやきが、いつまでも、いつま...
  • 大下宇陀児「偽悪病患者」
      (妹より兄へ)  ××日付、佐治さんを接近させてはいけないというお手紙、本日拝見いたしました。  いつもどおり、いろんなことに気を配ってくださるお兄様だけれど、喬子、こんどのお手紙だ けはよくわかんない。佐治さんは、喬子が接近したのでもないし、接近させたんでもないの。お 兄様だって御承知のとおり、お兄様や漆戸と同期生だったんですって。アメリカから帰られると、 すぐ漆戸を訪ねていらっしゃって、漆戸は、病気で退屈で、話し相手が欲しいもんだから、佐治 さんが来てくださるのを、ずいぶん楽しみにしているんですわ。  そういえば思い出すけれど、漆戸が一度いいました。「佐治という男は、学校時代からちょっ と変わったところがあって、他人からずいぶん誤解されたものだが、芯は、気の弱い正直な男 さ」って。喬子、まだ佐治さんがどんなふうに変わっている人か知らないけれど、お兄様が何か きっと誤解しているんじゃ...
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