網迫の電子テキスト乞校正@Wiki内検索 / 「佐藤春夫訳「徒然草」百七十二」で検索した結果

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  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七十二
     青年時代には血気が体内に漲っているから、心も事物に感じやすく欲情さかんである。一身を危険にさらして砕けやすいことは、まるで珠を転がしているようなものである。華美なものを好んで金銀を浪費するかと思うと、きまぐれにこれを捨てて佗びしい境涯に身を委ねてみたり、気を負うて勇んでいる心が旺盛だから争いをし出かし、ある時は羨望し、ある時は慚愧するなど.気分がむらで好むところも日毎に定まらない。色情に溺れ、情懐に耽り、そうかと思うと義に勇んでは一生を投げ出してかかり、ために一命を捨てた人を理想として、その身を永く安全に保つことは考えない。熱情の赴くところに迷わされて、永く世間の語り草にもなってしまう。こんな風に一身を誤るということは、若い時にあることである。年をとると精神が衰え、淡泊に何事にも感動しなくなる。心がおのずと平静だから、無益な事はし出かさず、とかくわが身も苦労少く、他人にも迷惑はかけまいと...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七十
     さしたる用事もなくて人のところを訪問するのはよくないことである。用事があって訪問してもそのことがすんだら、早く帰るのがいい。長くいるのはこまる。人と応対すると、言葉も多く、体もくたびれ、心も旛ちつかず、万事にさしつかえが多くて時間をつぶす。双方にとって無益なことである。客を嫌うようなことを言うのもよくない。気|急《ぜわ》しいことでもある場合などはかえってこのわけを言ったほうがよかろう。会心の人で、対談を希望する人が、退屈して「もう少し」、「今日はゆっくりと」など言うような場合はこのかぎりではなかろう。常に白眼の阮籍《げんせき》が気に入った客を迎えた時にした青眼の場合も誰しもあるものである。なんのためということもなく、人が来て、のんびりと話して帰るのは、よいものである。また、手紙も「あまり御無沙汰していますから」とだけ、言ってよこしたのなど大へんに嬉しいものである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七十三
     小野小町の事蹟は甚だ不明確である。衰えた時の有様は、玉造という本に見えている。この文章は三好|清行《きよつら》が書いたという説があるけれど、弘法大師の著作目録にも入っている。大師は承和の初年に亡くなられた。小町が全盛時代はその後のことのように思われるが、やっぱりよくわからない。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七十六
     禁中の黒戸という御間は小松の蠶(光孝天皇)が御即位以前に、おん幼いお戯れにお手料理などを遊ばされたのを、御即位のおん後も、お忘れ遊ばされず、常に、お手料理を遊ばされたその御間である。薪の煙でそこの戸が煤けたので黒戸と申すとのことである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七十七
     鎌倉の中書王《ちゆうしよおう》(鎌倉将軍中務卿宗尊親王)の御邸で蹴鞠のもよおしがあったのに、雨降り上りで庭まで乾かなかったので、どうしたものであろうかと相談があった時、佐佐木入道真願が鋸屑を車に積んでたくさん奉ったので、庭中に敷きつめて、泥の気遣《きつかい》もなかった。これなどたくさん蓄えておいた用意のほどが珍らしい心がけであると人々が感心し合った。このことをある人が話したところ、藤原藤房卿が聞かれて、「さては乾いた砂の準備がなかったのだね」とおっしゃったのは、恥かしい思いがした。結構なと思った鋸屑とは下品で変なものであった。庭を司る者は乾いた砂を用意しておくのが慣例的な作法だそうである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七十一
     貝合せをする際に、自分の目の前のをさしおいて、よそを見渡して、人の袖のかげや、膝の下まで注視する隙に、自分の目前のを人に合わされてしまうものである。よく合わす人というものは、よそのほうまで無理に取るような様子もなくて、身のまわりのぽかり合わすようでいながら、多く合わすものである。棊盤の隅に目的の石を立てて弾じく時先方の石を見つめて弾じくと当らない。自分の手許を注意して、こちらの筋目を真直ぐに弾じけば、目的の石にきっと当る。万事は外部に向って求めるべきではなくただ自分の手許を正しくすべきものである。清献公|趙抃《ちようべん》の言葉にも、「ただ好き事を行って将来のことは問題にするな」とある。世を治める道もこんなものであろう。国内のことを不取締、なおざりに打ち捨てて放埓に任せて乱れたなら、遠国が必ず叛《そむ》く。その時になってやっと国策を求め出す。あたかも風に当り湿気《しけ》た土地に臥していて...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七十五
     世間には心得難いことも多いものである。何かにつけて、まず酒をすすめ、無理に飲ませて面白がるのは、どういうわけだかわからない。飲む人の顔は我慢しかねたように、眉をひそめ、人目を見はからっては酒を捨てようとし、隙を見てはその場を逃げ出そうとするのを、捕えて引きとどめて、むやみに飲ませるので、ちゃんとした人も急に気違いになり、健康な人も、見る見る大病人になって前後不覚に打ち倒れてしまう。祝い事のある日などはあさましいことではあるまいか。飲まされたほうでは翌日袁で、頭痛で食事もできず、呻吟して打ち臥している。昨日のこともまるで世を隔てたことか何かのように記憶にも残らず、公私の重大な用件も打ち捨てて不都合を生じている。人をこんな目にあわせるのは無慈悲でもあり、礼儀にも違ったことである。こんなひどい目に遭わされた人は、恨めしく無念に思わぬはずはあるまい。外国にはこんな風習があるのだそうなと、こちらに...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七十九
     宋に行ったことのある道眼上人は、一切経を向うから持って来て六波羅の辺のやけ野という所に安置し、その経中でも、ことに首楞厳《しゆりようごん》経を講じヒ憲の所を、この経(一名中印度那蘭陀大道場経という)に因んで那蘭陀寺と号した。この上人の話では「那蘭陀寺は、大門が北向きであると大江匡房《まさふさ》の説として言い伝えているが、西域《さいいき》伝にも法顕伝にも見えず、その他にもいっこう見当らない。匡房卿はどんな知識で言ったものやら、どうも不確かな話である。支那の西明寺なら北向きなのはもちろんである」と言っておられた。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七十八
     ある所の侍たちが、内侍所の御|神楽《かぐら》を拝観して、そのことを人に話すのに「その時宝剣は何某殿が持っておられた」などと言ったのを聞いて、居合せた内裏の女房の中に「別段の行幸のは宝剣ではなく昼御座《ひのおまし》の御剣《ぎよけん》よ」とこっそり言った人がいたのは感心であった。この人は永年|典侍《ないしのすけ》をしている人であったとか。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七十四
     小鷹狩に適した犬を大鷹狩に使用すると.小鷹狩に悪くなるということである。大について小を棄てる道理は、じつに尤もな次第である。人生の事がらが多事な中で、道を修めることを楽しみとするほど、興・趣の深遠なものはない。これこそは真の大事である。一たん人間の志すべき道をきいて、これに志を向けた人が、どうして世上一般の何事か捨てられないことがあろうか。何事を営む心があろうか。愚人だっても、怜悧な犬の心に劣るはずがあろうか。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七
     女の話しかけた言葉にすぐさまいい工合な返事というものは滅多にないものである。というので亀山院のおん時に、洒落な女房どもが若い男が来るたびに、「ほととぎすをお聞きなされましたか」と問い試してみたところ、某の大納言とかは「わたくし風情《ふぜい》は聞くこともかないません」と返事をされた。堀川内大臣は「岩倉(額)で聞いたことがあるようです」と言われたのを、「これは無難である。わたくし風情はと来ては困ったものだ」などと批評していた。いったい、男というものは、女に笑われないように育て上げるべきものであるということである。「浄土院前関白殿は御幼少から安喜院様がよくお教えなされたのでお言葉づかいなどもいい」とある人が申された。山階《やましなの》左大臣殿は「下賤な女に見られても大変に羞《はずか》しくて気がおける」とおっしゃった。女のない世界であったら衣紋《えもん》も冠も、どうなっていようが引きつくろう人も...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百
     久我相国(太政大臣源雅実公)は殿上で水を召上る時、主殿司《とのもつかさ》が土器《かわらけ》を差上げると、わげものを持って参れと仰せられて、わげもので召し上った。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百六
     高野の証空上人が京へのぼろうとしていると、細い道で馬に乗っている女に行きあったが、馬の口引きの男が馬の引き方を誤って上人の馬を堀のなかへ落してしまった。上人はひどく立腹して「これは狼藉《ろうぜき》千万な。四部の弟子と申すものは、比丘《びく》よりは比丘尼が劣り、比丘尼よりは優婆塞《うばそく》が劣り、優婆塞より優婆夷《うばい》が劣ったものだ。このような優婆夷|風情《ふぜい》の身をもって、比丘を堀の中へ蹴入れさせるとは未曽有の悪行である」と言われたので、相手の馬方は,「何を仰せられるのやらわかんねえよ」と言ったので、上人はますます息巻いて「なんと吐《ぬか》すか非修非学《ひしゆひがく》の野郎」と荒々しく言って、極端な悪口をしたと気がついた様子で、上人はわが馬を引返して逃げ出された。尊重すべき、天真爛漫、真情流露の喧嘩と言うものであろう。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百三
     後宇多院の御所の大覚寺殿でおそばつかえの人々がなぞなぞをこしらえて解いているところへ、医師の忠守が参ったので、侍従大納言|公明《きんあきら》卿が「わが朝のものとも見えぬ忠守や」となぞなぞにせられたのを「唐瓶子《からへいし》」と解いて笑い合ったので、忠守が気を悪くして出て行ってしまった。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百五
     家屋の北側の日かげに消え残った雪が固く氷りついたのに、差し寄せた車の轅《ながえ》にも雪が凝ってきらきらしている。明け方の月は冴え切っているが、隈無く晴れ渡ったというほどの空でもない。と見るあたりに人目に遠い御堂の廊下に、身分ありげに見える男が女と長押《なげし》に腰をかけて話をしている有様は、何を語り合っているのやら、話はいつ果てるとも思えない。髪、かたちなどすこぶる美しいらしい。言うに言われぬ衣の香が、さっと匂って来るのも情趣が深い。身動きのけはいなどが、時たまに闢えてくるのもゆかしい。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百九
     木のぼりの名人と定評のあった男が人の指図をして高い木にのぼらせて、梢を切らせたのに、非常に危険そうに思われたあいだは何も言わないでいて、おりる時、軒端ぐらいの高さになってから「怪我をするな、気をつけておりよ」と言葉をかけたので「これぐらいなら、飛びおりてもおりられましょうに。どうして注意しますか」と言ったところが「そこがですよ。目のまうような、枝の危いほどのところでは、自分が怖ろしがって用心していますから申しません。過失は、なんでもないところで、きっとしでかすものですよ」と言った。いやしい下層の者であったが、聖人の訓戒にも合致している。鞠《まり》もむつかしいところを蹴ってしまって後、容易だと思うときっとし損じると申すことである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十二
     明日は遠国へ旅行すると聞いている人に対って、落ちついてしなければならない用事を、頼む者があろうか。切迫した大事に着手しているとか、切実な悲歟に暮れている人などは、他人のことなど耳に入れず、他人の喜びや悔みごとにも行かない。行かないからといってうらみとがめる人もあるまい。それ故、年もだんだんとって来たり、病身になっていたり、ましてや出家している人などももちろん、同じことであろう。人間の礼儀、何が無視できないものがあろうか。世間がうるさいからといって何事も、義理で仕方がない、これを果そうと言っていたら、願望は増すし、身体は苦しむ、心は忽忙になる、 一生涯は世俗の些雑な小さな義理に妨害されてむなしく終るであろう。日が暮れたが前途がまだ遠い、わが生ももはやよろめく力なさである。一切の世俗関係をうっちゃらかしてしまうべき時機である。約束も守るまい。礼儀をも気にかけまい。この心持を感じない人は、われ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百八
     寸陰を惜しむ人は無い。これは悟り切っての上でのことか。馬鹿で気がつかないのであろうか。馬鹿で懈怠《けたい》の人のために言いたいが、一銭は軽いがこれを積み上げれば貧民を富豪にさせる。それ故金を志す商人が一銭を惜しむ心は切実である。一刹那は自覚せぬほどの小時間ではあるが、これが運行しつづけて休む時がないから命を終る時期が迅速に来る。それ故道を志す道人は漠然と概念的に月日を惜しむべきではない。ただ現実に即して、現在の一念、一瞬時がむなしく過ぎ去ることを惜しむべきである。万一誰かが来て我らの命が明日はかならず失われるであろうと予告したとすれば、今日の暮れてしまうまで、何事を力とし、何事に身を委ねるか。我らの生きている今日の一日は、死を予告された日と相違はあるまい。一日のうちに飲食、便通、睡眠、談話、歩行、などの止むを得ないことのために多くの時間を消失している。その余の時間とては、いくらもないのに...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十
     双六《すごろく》の上手と言われた人に.その方法を訪うたことがあったが、「勝とうとおもってかかってはいけない。負けまいとして打つのがいい。どの手が一番早く負けるかということを考えて、その手を避けて、一目だけでも遅く負けるはずの手を用いよ」と言った。この道に通じたものの教えである。身を治め国を安泰ならしめる道とてもまたこの通りである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百四
     荒れた家の人目に立たないあたりへ、女が世間を憚る節《ふし》があって、退屈そうに引き籠っている頃、ある方が御訪問なさろうというので、夕月夜のほのぐらい時刻に忍んでおいでになったところが、犬が大げさに吠えついたので、下女が出て、どちら様からと聞いたのに案内をさせておはいりなされた。心ぼそげな様子はどんなふうに生活していることかと気の毒であった。へんな板敷の上にしばらく立っていると、しとやかな若々しい声で「こちらへ」と言う入があったので、明け立ても窮屈に不財由な戸を明けておはいりになった。室内の様子はそんなにひどくもない。奥ゆかしくも燈は遠くうすぐらいほどではあるが物の色合などもよく見え、にわか仕込みでないにおいが大へんにものなつかしく住んでいた。門をよく気をつけさせて、雨も降りそうですよ、御車は門の下へ入れてお供はどこそこへ案内なさいと腰元が下女に言うと、「今夜こそ心丈夫に落ちついて寝られる...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百二
    尹大納言光忠入道が憂の上卿(幹事に相当)をつとめられたので、洞院右大臣殿に式の次第を教えて下さいと申し入れたところ、「あの又五郎という者を師にするよりほかに良策もあるまい」とおっしゃった。この又五郎というのは老人の衛士《えじ》でよく朝廷の儀式に馴れた者であった。近衛殿が着席せられた時|膝着《ひざつき》(敷物)を忘れて外記(太政官記録係)を召されたのを、火を焚いていた又五郎が「式はじめにまず膝着のお召しだ」と小声で呟いていたのはまことに面白かった。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」七十二
     卑しく見ぐるしいもの。身のまわりに日用品の多いこと、硯に筆が多く入っていること、持仏堂に仏が多いの、前栽《せんざい》に石や植木類が多いの、家の中に子孫が多いの、人に面会して言葉数が多いの、願文に善事をほどこしたことを多く書き立てたの。多くても見苦しくないのは、文庫に積みこんである書物、掃きあつめの埃。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百一
     ある人が大臣任命式の内弁(式場内準備委員ともいうべき役柄)を勤められたが、内記(詔勅宣命類の起草官)の持っていた辞令を持たずに、式場に入ってしまった。この上なしの失態であるが出直して持って来るというわけにも行かぬ。当惑し切っていると、持っていた六位内記中原康綱が衣かつぎの女官と相談をしてこっそりと内弁に渡させた実に立派な仕打ちであった。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百九十
     妻というものこそ男の持ちたくない者ではある。いつも独身でなどと噂を聞くのはゆかしい。誰某の婿になったとか.またはこういう女を家に入れて同棲しているなどと聞くのはとんとつまらぬものである。格別でもない女を好い女と思って添うているのであろうと軽蔑されもするだろうし、美人であったら男はさだめし可愛がって本尊仏のように勿体ながっているであろう。たとえばこんなふうになどと滑稽な想像もされて来る。まして家政向きな女などは真平《まつびら》である。子などができてそれを守り育て愛しているなどはつまらない。男が亡くなって後尼になって年を老っている有様などは死んだ後までもあさましい。どんな女であろうと、朝夕いっしょにいたら、疎ましく憎らしくもなろう。女にとっても夫の愛は足らず自由はなく中ぶらりんな頼みすくないものであろう。別居して時々通うて住むというのがいつまでも永つづきのする問がらともなろう。ちょっとのつも...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十五
     宿《しゆく》河原という場所で虚無僧《ぽろぽろ》が多数集合して九品《くほん》の念仏をとなえていたところへ、外から虚無僧が入って来て「もしや、このなかにいうおし坊と申す梵論僧《ぼろぼろ》はおられますまいか」とたずね,たので、群集のなかから「いろおしはわたくしです。そう言われるのはどなたですか」と答えた。すると虚無僧は「自分はしら梵字というものです。わたしの師匠の某という人が、東国でいろおしという人に殺されたと聞いておりますから、そのいろおしという人に会って仇をとりたいとたずねております」という。すると、いろおしは「よくもたずねて来た。たしかにそんなことがありました。ここでお相手をいたしては、道場をけがす虞《おそ》れがありますから前の川原でたち合いましょう。どうぞ、みなの衆、どちらへもお加勢は御無用に願いたい。多人数の死傷があっては仏事の妨害になりましょうから」と言い切って、二人で川原へ出かけ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十七
     友達にするのによくないものが七つある。一には高貴な身分の人、二には年少の入、三には無病頑健の人、四には酒の好きな人、五には武勇の人、六には虚言家、七には慾の深い人。善い友は三つある。一にはものをくれる友、二には医者、三には智恵のある人。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百三十二
     鳥羽のつくり道というのは・鳥羽殿が応徳三年に建てられて以来にできたのではない。昔からの名前である。元良親王が元日の奉賀の声がすこぶるすぐれていたので式場の大極《だいごく》殿から鳥羽のつくり道まで聞えたということが、式部卿重明親王の記録にあるということである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百六十二
     遍照寺の承《しよう》の役に服していた僧が、広沢の池に来る鳥を毎日餌をやって飼い馴らして、戸を一つ開けると無数に飛びこんで堂内に一ぽいになったところへ、僧自身も入って行って閉め切って捕えては殺した様子が、物音すさまじく聞えたので近所にいた草刈の童が聞きつけて人に知らせたので、村人どもが集まって来て堂の申に入ってみると、大雁などがばたばた驚き騒いでいる中に僧がまじっていてねじ伏せ、ひねりつぶしていたから、この僧を捕えてその場から検非違使《けびいし》庁へつき出したが、検非違使庁ではこの法師が殺した鳥どもを頭のまわりにかけさせて獄舎に入れた。これは基俊大納言が別当をしておられた時のことである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百四十
     死後に財宝をのこすようなことは智者のせぬところである。よくないものを蓄えておくのも品格を下げるし、立派なものは執蒼のほどを思わせるので趣味性ならぬ、人生観を浅薄に思わせる。ましてさまざまなものがごたごたとあるのはいよいよいけない。自分が手にいれたいという人々が現われて、争いになるのは不体裁である。後に誰に譲りたいと思うものがあるなら、生存中に譲るべきである、毎日欠くべからざるものは無くてはなるまい。それ以外のものはなに一つ持たないでいたいものである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十六
     寺院の称号や、その他何ものにでも名をつけるに、昔の人はすこしも凝《こ》らないで、ただありのままに、簡単につけたものであった。この頃では考えこんで学識を衒《てら》って見せたふうのあるのはすこぶる気障《きざ》なものである。人の名でも、見なれない文字をつけようとするのはつまらぬことである。万事に奇を求め、異説を好むのは才の足りない人物がよくやることだそうな。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百六十一
     花の盛りは冬至から百五十日目とも彼岸の中日後七日ともいうが、立春から七十五日目というのが、たいてい間違いのないところである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百九十二
     神社仏寺へも人の多く参詣せぬ日、夜分に参るのがよろしい。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十四
     今出川の太政大臣菊亭兼季公が嵯峨へお出かけになられた時、有栖《ありす》川の附近の水の流れているところで、さい王丸が牛を追ったために足掻《あがき》の水が走って前板のところを濡らしたのを、お車の後に乗っていた為則|朝臣《あそん》が見て「怪《け》しからぬ童だな。こんな場所で牛を追うなんてことがあるか」と言った。すると大臣は顔色をかえて「お前は車の御《ぎよ》し方をさい王丸以上に心得てもいまい。怪しからぬ男だ」と言って為則の頭を突いて車の内側でこつんとやらせた。この牛飼の名人のさい王丸というのは太秦殿《うずまさどの》、信清内大臣の召使で、天子の御乗料の牛飼であった。この太秦殿につかえている女房にはそれぞれに膝幸《ひざさち》、特槌《ことづち》、胞腹《ほうばら》、乙牛《おとうし》などの牛に縁のある名がつけられていた。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十八
     鯉の羮《あつもの》を食べた日は鬢《びん》の毛が乱れないということである。膠《にかわ》にさえ製造するほどの物だからねばりけのあるものにちがいない。鯉ばかりは主上の御前でも料理されるものであるから、貴い魚である。鳥では雉《ききじ》が、無類の結構なものである。雉や松茸などはお料理座敷の上にかけてあっても差つかえはないが、その他のものは入れるわけには行かぬ。中宮の東二条院のお料理座敷の黒棚に雁のおかれてあったのを、中宮のおん父の北山入道殿が御覧になって、御帰邸の後すぐお手紙で、このような品がそのままの形でお棚におりますことは異様に感じられました。無作法のことと思われます、識見のある侍女がおそばにおつかえしておられないためかと思われます。と書き送った。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十九
     鎌倉の海で、鰹《かつお》という魚は、あの辺では無上のものとして近来は賞美されている。これ も鎌倉の老人が話したのだが、「この魚は自分らの若年の時代までは相当な人の前へは出なかったものである。頭は下男でさえ食べず切って捨てていたものである」ということであった。このようなものでも世が末になると上流へも入りこむものである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百六十
     門に額《がく》を掛けることを額を打つというのはよくないらしい。世尊寺行忠卿は額をかけると仰せられた。見物の棧敷をうつというのもよくないらしい。平張の幕ならばうつというのが通常いうところであるが、棧敷は構えるというべきである。護摩《ごま》をたくというのもよろしくない。護摩を修するとか護摩をするとかいうべきである。「行法《ぎようぽう》も法の字を清音に発音するのではない。濁音でぼうというのである」と清閑寺の道我僧正が仰せられた。臼用語にさえこんな間違いばかり多いのである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百二十二
     人の教養は経《けい》書に精通して聖賢の教えをよく心得るのを第一とする。つぎには能書、専門としなくともこれは習うべきである。学問をする上に得るところが多いものである。つぎに医術を習得するのがよい。わが身を養い、他人を助け、忠孝のつとめをするにも医者の心得がなくてはならないものである。つぎには弓術、馬に乗ること、六芸にも上げられている。かならずこれを知っておきたい。文武医の道は、真に欠くことのできないものである。これを学んでいる人を無益無能な者ということはならない。つぎに食は人の天性になくてならないものであるから、食物の調理を心得ている人は大きな徳をそなえているとせねばならない。つぎに細工のできるというのも何かにつけて重宝である。これ以外のことどもは、多能な君子の恥ずるところである。詩歌に長じ、音楽に巧みなのは、幽玄の道であって、古は君臣共にこれを重んじたけれど、現代では詩歌音楽をもって国を...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百二十
     唐の物は薬のほかは無くとも不自由はあるまい。書物にしたって、わが国に多くひろまっているから筆写することもできよう。唐船の困難な航海に、無用なものばかり積荷してどっさり持ちこんで来るのは、馬鹿馬鹿しいことである。「遠方の物を宝としない」とも、また、「手に入れにくい宝は尊重しない」とも書物に書いているということである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百五十
     芸能を身につけようとする人は、それに達しない間はなまなかに人には知らせないで、内々によく習い覚えてから人中へ出るのが奥ゆかしくてよいとは人のよくいうところではあるが、こんな考えの人は一芸も習い得るものではない。まだぎごちなく未熟な中から上手な人の問に雑って嘲笑をも恥じずに構わずやり通して行く人が、生れつきにその器用がなくても途中で停滞することもなく、放慢に流れることもなしに年期を入れたら、器用でも不勉強なのよりはかえって上手になり、徳もおのずと備わり、人にも許されて、無比の名声を博することがあるものである。天下に知れ渡った上手でも、はじめは下手という評判もあり、ひどい欠点もあるものである。しかしその人がその道の道筋を正しく守って身勝手をつつしみ、努力して行ったなら世の物識りともなり、万人の師として仰がれるようになるのは、諸道みなその軌を一つにしている。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百八十二
     四条大納言隆親卿が乾鮭《からざけ》というものを天皇の御食膳に供せられたのをこんな下品なものは差上げることはあるまいとある人が言ったのを聞いて、大納言は鮭という魚は差上げないというならばさもあろうが、鮭の乾したものがなんでいけないことがあろうか、現に鮎の乾したのは差上げるではないか、と申したということであった。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百三十
     物事を人と争わず、自分の意志を屈して人の意向に従い、自分の身のことは後にして、人のことを先にするのが何よりである。  いろいろの遊戯でも、勝負を好む入は勝って愉快を得んがためである。自分の技のまさっていることに満悦するのである。それだから、負けるとつまらぬ思いがするのは、もちろんである。自分が負けて人を喜ばせようと考えたら一向《いつこう》に遊戯の興味はあるまい。人につまらぬ思いをさせて、自分が愉快を感ずるなどは徳義にかなわない。  親しい間がらでふざける場合にも、人をたぶらかして自分の智のすぐれているのを面白がることがある。これも非礼である。それだから、はじめは座興に起ったのに長い恨みを結ぶようなことがよくあるものである。これらはみな、勝負を好むところから起る失策である。人に勝《まさ》ろうと思うならば、学問をしてその智で人に勝ろうと考えたらよかろう。道を学んだならば、善に誇らなくなり...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十一
    「囲碁、双六を好んで、これに耽って夜を明し日を暮す人は四重五逆の重罪にもまさる悪事であると思う」とある高僧が申されたのが、今に忘れず、結構な言葉と感じられた。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百八十
    「さぎちょう」は正月に毬《まり》を打って遊んだ毬杖《ぎじよう》を真言院から神泉苑へ出して焼き上げたのがもとである。「法成就《ほうじょうじゆ》の池にこそ」と囃すのは、神泉苑の池をいうのである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十三
     四十の坂を越した人が好色の心をひそかに抱いているのは致し方もなかろう。言葉に出して男女の情事を他人の身の上にもせよ言い戯れているのは、歳にも似合わず見ぐるしいものである。だいたい見ぐるしく聞きぐるしいものは、老人の青年らにうち雑って、面白がらせるつもりで話をすること。つまらぬ身分でありながら、世にときめいた人を懇意らしく言いふらしていること。貧家のくせによく酒宴をもよおしお客を呼んで派手にやっていること。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百四十二
     心無しとも見える者でも名言を言うことはあるものである。ある荒夷《あらえびす》(アイヌ人であると聞く)のおそろしげな者が、傍の人にむかって、「お子さんはおありですか」と問うたので、「ひとりもありません」と答えると、「それでは情合はおわかりにはなりますまい。むごい冷たいお心でいられようと思われて恐ろしくなります。子があればこそはじめてよろずの情合というものが会得されるのです」と言った。なるほどと思われる言葉である。恩愛の情によらないでは、こういう野蛮な民に慈悲の念があり得ようか。孝養の心のない者も、子を持ってはじめて親の心持も思い知るのである。遁世者のスッカラカソが万事に束縛の多い世間人を見て世に謡《へつら》い、欲望の深いのを無下に軽蔑するのは間違った話である。その人の心持になってみたらば、定めし悲しいことであろう。親のため妻子のためには恥をも忘れて盗みをやりそうなことではある。それ故、盗人...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百五十二
     西大寺の静然《じようねん》上人は腰がかがまり、眉は白く垂れ、じつに高僧の面目をそなえて内裏へ参られたのを西園寺内大臣殿が「ああ、尊いお有様だなあ」と信仰の気味があったのを、日野|資朝《すけとも》卿が見て「年をとっただけのことでさ」と言われた。さて後日になって、見るかげもなく老衰して毛もはげているむく犬を「この犬の様子も尊く見えますから」と西園寺内大臣の許へ贈ったという。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」八
     人間の心を惑《まど》わすものは色情に越すものがない。人間の心というものはばかばかしいものだなあ。匂いなどは、仮《か》りのものでちょっとのあいだ着物にたき込めてあるものとは承知の上でも、えも言われぬにおいなどにはかならず心を鳴りひびかせるものである。  久米《くめ》の仙人が、洗濯していた女の脛《はぎ》の白いのを見て通力《つうりき》を失ったというのは、まことに手足の膚《はだ》の美しく肥え太っていたので、外の色気ではないのだけに、ありそうなことではある。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二
     むかしの聖代の政治を念とせず、民の困苦も国の疲労をもかえりみず、すべてに豪華をつくして得意げに、あたりを狭しと振舞っているのを見ると、腹立たしく無思慮なと感ぜられるものである。 「衣冠から馬、車にいたるまでみな、有り合せのものを用いたがいい、華美を求めてはならない」とは藤原師輔《もろすけ》公の遺誠にもある。順徳院が宮中のことをお書き遊ばされた禁秘抄《きんぴしよう》にも「臣下から献上される品は粗末なのをよいとしなくてはならぬ」とある。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」六
     わが身の富貴《ふうき》と、貧賎とにはかかわらず、子というものは無くてありたい。  前《さき》の中書王兼明《ちゆうしよおうかねあきら》親王も、九条《くじよう》の伊通《これみち》太政大臣、花園の有仁《ありひと》左大臣などみな血統の無いのを希望された。染殿《そめどの》の良房太政大臣に「子孫のなかったのはよい。末裔の振わぬのは困ることである」と大鑑《おおかがみ》の作者も言っている。聖徳太子が御在世中にお墓をおつくらせなされた時も「ここを切り取ってしまえ、あそこも除いたほうがいい。子孫を無くしようと思うからである」と仰せられたとやら。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」一
     何はさて、この世に生れ出たからには、望ましいこともたくさんあるものである。  帝の御位はこの上なく畏《おそれ》多い。皇室の一族の方々は末のほうのお方でさえ、人間の種族ではいらせられないのだから尊い。第一の官位を得ている人のおんありさまは申すにおよばない。普通の人でも、舎人《とねり》を従者に賜わるほどの身分になると大したものである。その子や孫ぐらいまでは落ちぶれてしまっ、ていても活気のあるものである。それ以下の身分になると、分相応に、時運にめぐまれて得意げなのも当人だけはえらいつもりでいもしようが、つまらぬものである。  法師ほどうらやましく無いものはあるまい。「他人には木の片《はし》か何かのように思われる」と清少納言の書いているのも、まことにもっともなことである。世間の評判が高ければ高いほど、えらいもののようには思えなくなる。高僧増賀《ぞうが》が言ったように名誉のわずらわしさに仏の御教え...
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