網迫の電子テキスト乞校正@Wiki内検索 / 「江戸川乱歩「兇器」」で検索した結果

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  • 江戸川乱歩「兇器」
    「アッ、助けてえ!」という金切り声がしたかと思うと、ガチャンと大きな音がきこえ、カリカリとガラスのわれるのがわかったって言います。主人がいきなり飛んで行って、細君の部屋の襖をあけてみると、細君の美弥子があけに染まって倒れていたのです。  傷は左腕の肩に近いところで、傷口がパックリわれて、血がドクドク流れていたそうです。さいわい動脈をはずれたので、吹き出すほどでありませんが、ともかく非常な出血ですから、主人はすぐ近所の医者を呼んで手当てをした上、署へ電話をかけたというのです。捜査の木下君と私が出向いて、事情を聴きました。  何者かが、窓をまたいで、部屋にはいり、うしろ向きになっていた美弥子を、短刀で刺して逃げ出したのですね。逃げるとき、窓のガラス戸にぶつかったので、その一枚がはずれてそとに落ち、ガラスがわれたのです。  窓のぞとには一間幅ぐらいの狭い空き地があって、す...
  • 江戸川乱歩「火繩銃」
    (この一篇は、作者が学生時代に試作した未発表の処女作です。当時の日記帳の余白に筋書きが書きつけてあったのを、友人をわずらわして清書してもらいました。筋書きのままですから、組立てや、文章も未熟で、いっこうおもしろくありません。といって、この筋で新しく書き直す元気もありませんでした。  原作には前置きとして、主人公である橘梧郎《たちばなごろう》というしろうと探偵の人となりを長々と書いてあったのですが、おもしろくもないので削ってしまいました。  橘は高等学校の学生で、探偵小説や犯罪学の心酔者で、シャーロック・ホームズというあだなをつけられていたような、変わり者です。 『わたし』という人物は橘の同級生で、ワトスンの役割りを勤めているわけです)  ある年の冬休み、わたしは友人の林一郎から、一通の招待状を受けとった。手紙は、弟の二郎といっしょに一週間ばかり前からこちらに来て毎日狩猟《しゆりよ...
  • 江戸川乱歩「鬼」
         生腕  探偵小説家の殿村昌一《とのむらしよう》は、その夏、郷里長野県のS村へ帰省していた。  S村は西方を山にとざされ、ほとんど段畑ばかりで暮らしを立てているような、寂しい寒村であったが、そのいんうつな空気が、探偵小説家を喜ばせた。  平地に比べて、日中が半分ほどしかなかった。朝のあいだは、朝霧が立ちこめていて、お昼ごろちょっと日光がさしたかと思うと、もう夕方であった。  段畑がのこぎり型に食い込んだあいだあいだには、いかに勤勉なお百姓でも、どうにも切り開きようのない深い森が、千年の巨木が、ドス黒い触手みたいに、はい出していた。  段畑と段畑が作っているみぞの中に、この太古の山村には似てもつかぬ、二本の鋼鉄の道が、奇怪なダイジャのように、ウネウネと横たわっていた。日に八度、その鉄路を、地震を起こして汽車が通り過ぎた。黒い機関車が勾配《こうばい》をあえいで、ボ、ボ、ボと恐ろ...
  • 江戸川乱歩「指」
     患者は手術の麻酔からさめてわたしの顔を見た。  右手に厚ぼったく包帯が巻いてあったが、手首を切断されていることは、少しも知らない。  かれは名のあるピアニストだから、右手首がなくなったことは致命傷であった。犯人はかれの名声をねたむ同業者かもしれない。  かれはやみ夜の道路で、行きずりの人に、鋭い刃物で右手首関節の上部から切り落とされて、気を失ったのだ。  さいわいわたしの病院の近くでのできごとだったので、かれは失神したまま、この病院に運びこまれ、わたしはでぎるだけの手当をした。 「あ、きみが世話をしてくれたのか。ありがとう……酔っぱらってね、暗い通りで、だれかわからないやつにやられた……右手だね。指はだいじょうぶだろうか」 「だいじょうぶだよ。腕をちょっとやられたが、なに、じきに直るよ」  わたしは親友を落胆させるに忍びず、もう少しよくなるまで、かれのピアニストとしての生涯...
  • 江戸川乱歩「虫」
    1  この話は、柾木愛造《まさきあいぞう》と木下芙蓉《きのしたふよう》との、あの運命的な再会から出発すべきであるが、それについては、まず男主人公である柾木愛造の、いとも風変わりな性格について、一言しておかねばならぬ。  柾木愛造は、すでに世を去った両親から、いくばくの財産を受け継いだひとりむすごで、当時二十七歳の、私立大学中途退学者で、独身の無職者《もの》であった。ということは、あらゆる貧乏人、あらゆる家族所有者の、羨望《せんぼう》の的《まと》であるところの、このうえもなく容易で自由な身のうえを意味するのだが、柾木愛造は不幸にも、その境涯《きようがい》を楽しんでいくことができなかった。かれは世にたぐいもあらぬ厭人病者《えんじんびようしゃ》であったからである。  かれのこの病的な素質は、いったいぜんたい、どこからきたものであるか、かれ自身にも不明であったが、その徴候は、すでにすでにかれ...
  • 江戸川乱歩「断崖」
     春、K温泉から山路をのぼること一マイル、はるか目の下に渓流をのぞむ断崖の上、自然石のベンチに肩をならべて男女が語りあっていた。男は二十七、八歳、女はそれより二つ三つ年上、二人とも温泉宿のゆかたに丹前をかさねている。 女「たえず思いだしていながら、話せないっていうのは、息ぐるしいものね。あれからもうずいぶんになるのに、あたしたち一度も、あの時のこと話しあっていないでしょう。ゆっくり思い出しながら、順序をたてて、おさらいがしてみたくなったわ。あなたは、いや?」 男「いやということはないさ。おさらいをしてもいいよ。君の忘れているところは、僕が思い出すようにしてね」 女「じゃあ、はじめるわ……最初あれに気づいたのは、ある晩、ベッドの中で、斎藤と抱きあって、頬と頬をくっつけて、そして、斎藤がいつものように泣いていた時よ。くっつけ合った二人の頬のあいだに、涙があふれて、あたし...
  • 江戸川乱歩「芋虫」
     時子は、おもやにいとまを告げて、もう薄暗くなった、雑草のしげるにまかせ、荒れはてた広い庭を、彼女たち夫婦の住み家である離れ座敷のほうへ歩きながら、いましがたも、おもやのあるじの予備少将からいわれた、いつものきまりきったほめことばを、まことにへんてこな気持ちで、彼女のいちばんきらいなナスのシギ焼きを、グニャリとかんだあとの味で、思い出していた。 「須永《すなが》中尉(予備少将は、今でも、あの人間だかなんだかわからないような癈兵《はいへい》を、こっけいにも、昔のいかめしい肩書きで呼ぶのである)須永中尉の忠烈は、いうまでもなく、わが陸軍の誇りじゃが、それはもう、世に知れ渡っておることだ。だが、おまえさんの貞節は、あの癈人《はいじん》を三年の年月《としつき》、少しだっていやな顔を見せるではなく、自分の欲をすっかり捨ててしまって、親切に世話をしている。女房としてあたりまえのことだといってしまえば...
  • 江戸川乱歩「幽霊」
    「辻堂のやつ、とうとう死にましたよ」  腹心《ふくしん》のものが、多少てがら顔にこう報告した時、平田氏は少なからず驚いたのである。もっとも、だいぶ.以前から、彼が病気で床《とこ》についたきりだということは聞いていたのだけれど、それにしても、あの自分をうるさくつけねらって、かたきを(あいつはかってにそうきめていたのだ)うつことを生涯の目的にしていた男が、「きゃつのどてっ腹へ、この短刀をぐっさりと突きさすまでは、死んでも死にきれない」と口癖《くちぐせ》のようにいっていたあの辻堂が、その目的を果たしもしないで死んでしまったとは、どうにも考えられなかった。 「ほんとうかね」  平田氏は思わずその腹心の者にこう問い返したのである。 「ほんとうにもなんにも、わたしは今、あいつの葬式の出るところを見とどけて来たんです。念のために近所で聞いてみましたがね、やっぱりそうでした。親子二人暮らしのおやじ...
  • 江戸川乱歩「盗難」
     おもしろい話があるのですよ。わたしの実験談ですがね。こいつをなんとかしたら、あなたの探偵小説の材料にならないもんでもありませんよ。聞きますか。エ、ぜひ話せって。それじゃ、いたって話しべたでお聞きづらいでしょうが、ひとつお話しましょうかね。  決して作り話じゃないのですよ。と、お断わりするわけは、この話はこれまで、たびたび人に話して聞かせたことがあるのですが、そいつが、あんまり作ったようにおもしろくできているもんだから、そりゃあ、おまえ、なんかの小説本から仕込んできた種じゃないか、なんて、たいていの人がほんとうにしないくらいなんです。しかし、正真正銘いつわりなしの事実談ですよ。  今じゃこんなやくざな仕事をしていますが、三年前までは、これでもわたしは宗教に関係していた男です。なんていいますと、ちょっとりっぱに聞こえますがね。実は、くだらないんですよ。あんまり自慢になるような宗教でもない...
  • 江戸川乱歩「毒草」
     よく暗れた、秋の一日であった。仲のよい友だちがたずねて来て、ひとしきり話がはずんだあとで、 「気持ちのいい天気じゃないか。どうだ、そこいらを、少し歩こうか」ということになって、わたしとその友だちとは、わたしの家は場末にあったので、近くの広っぱへと散歩に出かけたことであった。  雑草のおい茂った広っぱには、昼間でも秋の虫がチロチロと鳴いていた。草の中を一尺ばかりの小川が流れていたりした。ところどころには小高い丘もあった。わたしたちは、とある丘の中腹に腰をおろして、一点の雲もなくすみ渡っている空をながめたり、あるいはまた、すぐ足の下に流、れている、みそのような小川や、その岸にはえているさまざまの、見れば見るほど無数の種類の、小さな雑草をながめたり、そして「ああ、秋だなあ」とため息をついてみたり、長い間一つととろにじっとしていたものである。  すると、ふとわたしは、やはり小川の岸のじめじめ...
  • 江戸川乱歩「指環」
    A 失礼ですが、いつかも汽車で、ごいっしょになったようですね。 B これはお見それ申しました。そういえば、わたしも思い出しましたよ。やっぱりこの線でしたね。 A あの時はとんだご災難でした。 B いや、おことばで痛み入ります。わたしもあの時は、どうしようかと思いましたよ. A あなたが、わたしの隣りの席へいらっしゃったのは、あれはK駅を過ぎてまもなくでしたね。あなたはひと袋のミガンを、スーツケースといっしょにさげて来られましたね。そして、そのミカンをわたしにもすすめてくださいましたっけね。……実を申しますとね、わたしはあなたを、変になれなれしいかただと思わないではいられませんでしたよ。 B そうでしょう。わたしはあの日はほんとうに、どうかしていましたよ。 A そうこうしているうちに、隣りの一等車のほうから、興奮した人たちがドヤドヤとはいってきましたね。そして、そのうちのひとりの...
  • 江戸川乱歩「何者」
    奇妙な盗賊 「この話は、あなたが小説にお書きなさるのが当然です。ぜひ書いてください」  ある人がわたしにその話をしたあとで、こんなことをいった。四、五年以前のできごとだけれど、事件の主人公が現存していたので、はばかって話さなかった。その人が最近病死したのだということであった。  わたしはそれを聞いて、なるほど、当然わたしが書く材料だ、と思った。なにが当然だかは、ここに説明せずとも、この小説を終わりまで読めば、自然にわかることである。  以下「わたし」とあるのは、この話をわたしに聞かせてくれた「ある人」をさすわけである。  ある夏のこと、わたしは甲田伸太郎《こうだしんたろう》という友人にさそわれて、甲田ほどは親しくなかったけれど、やはりわたしの友だちである結城弘《ゆうきひろかず》一の家に、半月ばかり逗留《とうりゆう》したことがある。そのあいだのできごとなのだ。  弘一君は陸軍省軍...
  • 江戸川乱歩「疑惑」
       その翌日 「おとうさんが、なくなられたと、いうじゃないか」 「ウン」 「やっぱり、ほんとうなんだね。だが、きみは、けさの○○新聞の記事を読んだかい。いったい、あれは、事実なのかい」 「……」 「おい、しっかりしろよ。心配して聞いているのだ。なんとかいえよ」 「ウン、ありがとう。- 別にいうことはないんだよ。あの新聞記事が正しいのだ。きのうの朝、目をさましたら、うちの庭で、おやじが頭をわられて倒れていたのだ。それだけのことなんだ」 「それで、きのう、学校へ来なかったのだね。……そして、犯人はつかまったのかい」 「ウン、…嫌疑者《けんぎしや》は二、三人あげられたようだ。しかし、まだ、どれがほんとうの犯人だかわからない」 「おとうさんは、そんな、恨みを受けるようなことをしていたのかい。新聞には遺恨の殺人らしいと出ていたが」 「それは、していたかもしれない」 「商売...
  • 江戸川乱歩「接吻」
     近ごろは有頂天の山名宗三《やまなそうぞう》であった。なんともいえぬ暖かい、やわらかい、ばら色の、そしてかおりのいい空気が、彼の身辺を包んでいた。それが、お役所のポロ机に向かって、コツコツと仕事をしている時にでも、さては同じ机の上でアルミの弁当箱から四角い飯を食っている時にでも、四時が来るのをおそしと、役所の門を飛び出して、柳の街路樹の下を、木枯《こがらし》のようにテクついている時にでも、いつも彼の身辺にフワフワと漂っているのであった。  というのは、山名宗三、このひと月ばかり前に新妻《にいづま》を迎えたので、しかも、それが彼の恋女房であったので。  さて、ある日のこと、例の四時を合図に、まるで授業の済んだ小学生のように帰り急ぎをして、課長の村山が、まだ机の上をゴテゴテと取り片づけているのをしり目にかけて、役所を駆け出すと、彼は真一文字に自宅へと急ぐのであった。  赤の手絡《てがら》...
  • 江戸川乱歩「ざくろ」
    1  わたしは以前から『犯罪捜査録』という手記を書きためていて、それには、わたしの長い探偵生活中に取り扱っためぼしい事件は、ほとんど漏れなく、詳細に記録しているのだが、ここに書ぎつけておこうとする『硫酸殺人事件』はなかなか風変わりなおもしろい事件であったにもかかわらず、なぜか、わたしの捜査録にまだしるされていなかった。取り扱った事件のおびただしさに、わたしはつい、この奇妙な小事件を忘れてしまっていたのに違いない。  ところが、最近のこと、その『硫酸殺人事件』をこまごまと思い出す機会に出くわした。それは実に不思議干万な驚くぺき「機会」であったが、そのことは、いずれあとでしるすとして、ともかく、この事件をわたしに思い出させたのは、信州のS温泉で知り合いになった猪股《いのまた》という紳士、というよりは、その人が持っていた一冊の英文探偵小説であった。手ずれでよごれた青黒いクロース表紙の探偵小説...
  • 江戸川乱歩「防空壕」
    一、市川清一の話  きみ、ねむいかい? エ、眠れない? ぼくも眠れないのだ。話をしようか。いま妙な話がしたくなった。  今夜、ぼくらは平和論をやったね。むろんそれは正しいことだ。だれも異存はない。きまりきったことだ。ところがね、ぼくは生涯《しようがい》の最上の生きがいを感じたのは、戦争のさいちゅうだった。いや、みんながいっているあの意味とはちがうんだ。国を賭《と》して戦っている生きがいという、あれとはちがうんだ。もっと不健全な、反社会的な生きがいなんだよ。  それは戦争の末期、いまにも国が滅びそうになっていたときだ。空襲が激しくなって、東京が焼け野原になる直前の、あの阿鼻叫喚《あびぎようかん》のさいちゅうなんだ。  きみだから話すんだよ。戦争中にこんなことをいったら、殺されただろうし、今だって多くの人にヒンシュクされるにきまっている。  人間というものは複雑に造られている。生まれな...
  • 江戸川乱歩「白昼夢」
     あれは、白昼の悪夢であったか、それとも現実のできごとであったか。  晩春のなま暖かい風が、オドロオドロと、ほてったほおに感ぜられる、むし暑い日の午後であった。  用事があって通ったのか、散歩のみちすがらであったのか、それさえぼんやりとして思いだせぬけれど、わたしは、ある場末の、見るかぎりどこまでもどこまでもまっすぐに続いている、広いほこりっぽい大通りを歩いていた。  洗いざらしたひとえもののように白茶けた商家が、黙って軒を並べていた。三尺のショーウインドウに、ほこりでだんだら染めにした小学生の運動シャツが下がっていたり、碁盤《ごばん》のように仕切った薄っぺらな本箱の中に、赤や黄や白や茶色などの砂のような種物を入れたのが、店いっぱいに並んでいたり、狭い薄暗い家じゅうが、天井からどこから、自転車のフレームやタイヤで充満していたり、そして、それらの殺風景な家々のあいだにはさまって、細い格...
  • 江戸川乱歩「灰神楽」
    1  アッと思う間に、相手は、まるでどうでこしらえた人形がくずれでもするように、グナリと、前の机の上に平たくなった。顔は鼻柱がくだけはしないかと思われるほど、ベッタリとまっ正面に、机におしつけられていた。そして、その顔の黄色い皮膚と、机掛けの青い織り物とのあいだから、ツバキのようにまっかな液体が、ドクドクと吹き出していた。  今の騒ぎでテツビンがくつがえり、大きなキリの角ヒバチからは、噴火山のように灰神楽《はいかぐら》が立ち昇って、それがピストルの煙といっしょに、まるで濃霧のように部屋の中をとじ込めていた。  のぞき・からくりの絵板が、カタリと落ちたように、一せつなに世界が変わってしまった。庄太郎はいっそう不思議な気がした。 「こりゃ まあ、どうしたことだ」  彼は胸の中で、さものんきそうに、そんなことを言っていた。  しかし、数秒の後には、彼は右の手先が重いのを意識した。見る...
  • 江戸川乱歩「空気男」
    「二人の探偵小説家」改題 一  北村五郎《きたむらごろう》と柴野金十《しばのきんじゆう》とが、始めてお互《たがい》の顔を、というよりは、お互の声を聞き合ったのは、(もう出発点からして、この話は余程《よほど》変っているのだ)ある妙な商売のうちの、二階においてであった。  それがあまり上等の場所ではないので、壁などもチャチなもので、一方の、赤茶けた畳《たたみ》の四畳半に寝ている北村五郎の耳に、その隣の、恐らく同じ構造の四畳半で、変な小うたを口吟《くちずさ》んでいる、柴野金十の声が聞えて来たのである。北村が想像するには、あの隣の男も、北村自身と同じ様に、相手の一夜妻はとっくに逃げ出してしまって、彼もまた退屈し切っているのであろう。そして、あんな変な、何の節《ふし》ともわからない、ヌエの様な小うたをうなっているのであろう。一つこっちから声をかけて見ようかな。北村は、そこで、そういう場合のこ...
  • 江戸川乱歩「双生児」
    (ある死刑囚が教誨師にうちあけた話)  先生、きょうこそはお話しすることに決心しました。わたしの死刑の日もだんだん近づいてきます。はやく心にあることをしゃぺってしまって、せめて死ぬまでの数日を安らかに送りたいと思います。どうか、御迷惑でしょうけれど、しばらくこの哀れな死刑囚のために、時間をおさきください。  先生も御承知のように、わたしはひとりの男を殺して、その男の金庫から三万円(註、今の千万円に近い)の金を盗んだかどによって死刑の宣告を受けたのです。だれもそれ以上にわたしを疑うものはありません。わたしは死刑とぎまってしまった今さら、もう一つのもっと重大な犯罪について、わざわざ白状する必要は少しもないのです.たと診、れが、知られているものよりもいく層位重い大罪であったところで、極刑《ごくけい》を宣告せられているわたしに、それ以上の刑罰の方法があるわけもないのですから。  いや、必要...
  • 江戸川乱歩「日記帳」
     ちょうど初七日《しょなのか》の夜のことでした。わたしは死んだ弟の書斎にはいって、何かと彼の書き残したものなどを取り出しては、ひとりもの思いにふけっていました。  まだ、さして夜もふけていないのに、家じゅうは涙にしめって、しんとしずまりかえっています。そこへもって来て、なんだか新派のおしばいめいていますけれど、遠くのほうからは、物売りの呼び声などが、さも悲しげな調子で響いて来るのです。わたしは長いあいだ忘れていた、幼い、しみじみした気持ちになって、ふと、そこにあった弟の日記帳を繰りひろげて見ました。  この日記帳を見るにつけても、わたしは、おそらく恋も知らないでこの世を去った、はたちの弟をあわれに思わないではいられません。  内気者で、友だちも少なかった弟は、自然書斎に引きこもっている時間が多いのでした。細いペンでこくめいに書かれた日記帳からだけでも、そうした彼の性...
  • 江戸川乱歩「二廃人」
     ふたりは湯から上がって、一局囲んだあとをタバコにして、渋い煎茶《せんちや》をすすりながら、いつものようにポッリポッリと世間話を取りかわしていた。おだやかな冬の日光が障子いっぱいにひろがって、八畳の座敷をほかほかと暖めていた。大きな桐《きり》の火バチには銀瓶《ぎんびん》が眠けをさそうような音をたててたぎっていた。夢のような冬の温泉場の午後であった。  無意味な世間話がいつのまにか、懐旧談にはいって行った。客の斎藤氏は青島役《ちんたおえき》の実戦談を語りはじめていた。部屋のあるじの井原氏は火バチに軽く手をかざしながら、だまってその血なまぐさい話に聞き入っていた。かすかにウグイスの遠音が、話の合の手のように聞こえて来たりした。昔を語るにふさわしい周囲の情景だった。  斎藤氏の見るも無残に傷ついた顔面はそうした武勇伝の話し手としては、しごく似つかわしかった。彼は砲弾の破片に打たれてできたとい...
  • 江戸川乱歩「黒手組」
    あらわれたる事実  またしても明智小五郎のてがら話です.  それは、わたしが明智と知り合いになってから一年ほどたった時分のできごとなのですが、事件に一種劇的な色彩があって、なかなかおもしろかったばかりでなく、それがわたしの身内《みうち》のものの家庭を中心にして行なわれたという点で、わたしにはいっそう忘れがたいのです。  この事件で、わたしは、明智に暗号解読のすばらしい才能のあることを発見しました。読者諸君の興味のために、かれの解いた暗号文というのを、まず冒頭に掲げておきましょうか。 一度お伺《うかが》いしたいしたいと存じながらつい 好《よ》いおりがなく失礼ばかり致しております 割合にお暖《あたた》かな日がつづいてますのね是非 此頃《このごろ》にお邪魔《じやま》させていただきますわさて日 外《いつぞや》×つまらぬ品物をおおくりしました処《ところ》御《ご...
  • 江戸川乱歩「鏡地獄」
    「珍らしい話とおっしゃるのですか、それではこんな話はどうでしょう」  ある時、五、六人の者が、怖い話や、珍奇な話を、次々と語り合っていた時、友だちのKは最後にこんなふうにはじめた。ほんとうにあったことか、Kの作り話なのか、その後、尋ねてみたこともないので、私にはわからぬけれど、いろいろ不思議な物語を聞かされたあとだったのと、ちょうどその日の天候が春の終りに近い頃の、いやにドソヨリと曇った日で、空気が、まるで深い水の底のように重おもしく淀んで、話すのも、聞くものも、なんとなく気ちがいめいた気分になっていたからでもあったのか、その話は、異様に私の心をうったのである。話というのは、  私に一人の不幸な友だちがあるのです。名前は仮りに彼と申して置きましょうか。その彼にはいつの頃からか世にも不思議な病気が取りついたのです。ひょっとしたら、先祖に何かそんな病気の人があって、それが遺伝したのかもしれ...
  • 江戸川乱歩「お勢登場」
    1  肺病やみの格太郎は、きょうもまた、細君においてけぼりを食って、ぼんやりと、るすを守っていなければならなかった。最初のほどは、いかなるお人よしの彼も激憤を感じ、それを種に離別をもくろんだことさえあったのだけれど、病《やまい》という弱味がだんだん彼をあきらめっぼくしてしまった。隼尢の短い自分のこと、かわいい子どものことなどを考えると、乱暴なまねはできなかった。その点.では、第三者であるだけ、弟の格二郎などのほうがテキパキした考えを持っていた。彼は兄の弱闘味を歯がゆがって、時々意見めいた口をきくこともあった。 「なぜ、にいさんはそうなんだろう。ぼくだったら、とっくに離縁にしているんだがなあ。あんな人に憐《あわ》れみをかけるところがあるんだろうか」  だが、格太郎にとっては、単に憐れみというようなことばかりではなかった。なるほど、今おせいを離別すれば、文なしの書生っぽに相違ない彼女の相...
  • 江戸川乱歩「心理試験」
    1  蕗屋《ふきや》清一郎が、なぜ、これから記すような恐ろしい悪事を思い立ったか、その動機についてはくわしいことはわからぬ。また、たといわかったとしても、このお話には、たいして関係がないのだ。彼がなかば苦学みたいなことをして、ある大学に通っていたところをみると、学資の必要に迫られたのかとも考えられる。彼はまれに見る秀才で、しかも非常な勉強家だったから、学資を得るために、つまらぬ内職に時を取られて、好ぎな読書や思索がじゅうぶんでぎないのを残念に思っていたのは確かだ。だが、そのくらいの理由で、人間はあんな大罪を犯すものだろうか。おそらく、彼は先天的の悪人だったのかもしれない。そして、学資ばかりでなく、ほかのさまざまな欲望をおさえかねたのかもしれない。それはともかく、彼がそれを思いついてから、もう半年になる。その聞、彼は迷いに迷い、考えに考えたあげく、結局やっつけることに決心したのだ。 ...
  • 江戸川乱歩「人間椅子」
     佳子《よしこ》は、毎朝、夫の登庁を見送ってしまうと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館のほうの、夫と共用の書斎へ、とじこもるのが例になっていた。そこで、彼女は今、K雑誌のこの夏の増大号にのせるための、長い創作にとりかかっているのだった。  美しい閨秀作家《けいしゆうさつか》としての彼女は、このごろでは、外務省書記官である夫君《ふくん》の影を薄く思わせるほども、有名になっていた。彼女のところへは、毎日のように未知の崇拝者たちからの手紙が、幾通となくやって来た。  けさとても、彼女は書斎の机の前にすわると、仕事にとりかかる前に、まず、それらの未知の人々からの手紙に、目を通さねばならなかった。  それはいずれも、きまりきったように、つまらぬ文句のものばかりであったが、彼女は、女のやさしい心づかいから、どのような手紙であろうとも、自分にあてられたものは、ともか...
  • 江戸川乱歩「一人二役」
     人間はたいくつすると、何を始めるかしれたものではないね。  ぼくの知人にTという男があった。型のごとく無職の遊民だ。たいして金があるわけではないが、まず食うには困らない。ピアノと、蓄音器と、ダンスと、しばいと、映画と、そして遊里のちまた、そのへんをグルグル回って暮らしているような男だった。  ところで、不幸なことに、この男、細君があった。そうした種類の人間に、宿の妻というやつは、笑いごとじゃない、まさに不幸というべきだよ。いや、まったく。  別にきらっていたというほどではないが、といって、むろん女房だけで満足しているTではない。あちらこちら、箸《はし》まめにあさり歩く。いうまでもなく、女房はやくね。それがまた、Tにはちょっと捨て難い、オツな楽しみでもあったのだ。いったい、Tの女房というのが、なかなかどうして、Tなんかにもったいないような美人でね。その女房に満足しないほどのTだから、...
  • 江戸川乱歩「赤いへや」
     異常な興奮を求めて集まった、七人のしかつめらしい男が(わたしもその中のひとりだった)わざわざそのためにしつらえた「赤いへや」の、緋色《ひいろ》のビロードで張った深いひじ掛けイスにもたれ込んで、今晩の話し手が、なにごとか怪異な物語を話しだすのを、今か今かと待ちかまえていた。  七人のまん中には、これも緋色のビロードでおおわれた一つの大きなまるテーブルの上に、古風な彫刻のある燭台《しよくだい》にさされた、三丁の太いローソクがユラユラとかすかにゆれながら燃えていた。  へやの四周には、窓や入り口のドアさえ残さないで、天井から床まで、真紅な重々しいたれ絹が豊かなひだを作ってかけられていた。ロマ払チックなローソクの光が、その静脈から流れ出したばかりの血のようにもドス黒い色をした、たれ絹の表に、われわれ七人の異様に大きな影法師を投げていた。そして、その影法師は、ローソクの炎につれて、いくつかの巨...
  • 江戸川乱歩「一枚の切符」
    上  「いや、ぼくは多少は知っているさ。あれはまず、近来の珍事だったからな。世間はあのうわさで持ち切っているが、たぶん、きみほどくわしくはないんだ。話してくれないか」  ひとりの青年紳士が、こういって、赤い血のしたたる肉の切れをロへ持って行った。 「じゃ、ひとつ話すかな。オイ、ボーイさん、ビールのお代わりだ」  みなりの端正なのにそぐわず、髪の毛をばかにモジャモジャと伸ばした相手の青年は、次のように語りだした。  「時はー大正i年十月十日午前四時、所はi町の町はずれ、富田博士邸裏の鉄道線路、これが舞台面だ。晩秋のまだ薄暗い曉の静寂を破って、上り第○号列車が驀進《ぼくしん》して来たと思いたまえ。すると、どうしたわけか、突然けたたましい警笛が鳴ったかと思うと、非常制動機の力で、列車はだしぬけに止められたが、少しの違いで車が止まる前に、ひとりの婦人がひき殺されてしまったんだ。ぼくはその...
  • 江戸川乱歩「木馬は回る」
    「ここはお国を何百里、離れて遠き満洲の……」  ガラガラ、ゴットン、ガラガラ、ゴットン、回転木馬はまわるのだ。  今年五十幾歳の格二郎《かくじろう》は、好きからなったラッパ吹きで、昔はそれでも、郷里の町の映画館の花形音楽師だったのが、やがてはやりだした管絃楽というものにけおとされて、 「ここはお国」や「風と波と」では、いっこう雇い手がなく、ついには、ひろめやの徒歩楽隊となり下がって、十幾年の長い年月《としつき》を、荒い浮世の波風に洗われながら、日にち毎日、道行く人の嘲笑《ちようしよう》の的となって、でも、好ぎなラッパが離されず、たとい離そうと思ったところで、ほかにたつきの道とてはなく、一つは好きの道、一つはしようことなしの、楽隊暮らしを続けているのだった。  それが、去年の末、ひろめやから差し向けられて、この木馬館へやって来たのが縁となり、今では賞雇いの形で、ガラガラ、ゴットン、ガラ...
  • 江戸川乱歩「百面相役者」
    1  ぼくの書生時代の話だから、ずいぶん古いことだ。年代などもハッキリしないが、なんでも、日露戦争のすぐあとだったと思う。  そのころ、ぼくは中学校を出て、さて、上の学校へはいりたいのだけれど、当時ぼくの地方には高等学校もなし、そうかといって、東京へ出て勉強させてもらうほど、家が豊かでもなかったので、気の長い話だ、ぼくは小学教員でかせいで、そのかせぎためた金で、上京して苦学をしようと思いたったものだ。なに、そのころは、そんなのがめずらしくはなかったよ。なにしろ給料にくらべて物価のほうがずっと安い時代だからね。  話というのは、ぼくがその小学教員でかせいでいたあいだに起こったことだ。 (起こったというほど大げさな事件でもないがね)ある日、それは、よく覚えているが、こうおさえつけられるような、いやにドロンとした春先のある日曜日だった。ぼくは、中学時代の先輩で、町の(町といっても××市のこ...
  • 江戸川乱歩「火星の運河」
     またあそこへ来たなという、寒いような魅力が、わたしをおののかせた。にぶ色のやみが、わたしの全世界をおおいつくしていた。おそらくは、音も、においも、触覚さえもが、わたしのからだから蒸発してしまって、ネリヨウカンのこまやかによどんだ色彩ばかりが、わたしのまわりを包んでいた。  頭の上には夕立雲のように、まっくらに層をなした木の葉が、音もなくしずまり返って、そこからは巨大な黒碣色《こくかつしよく》の樹幹が、滝をなして地上に降りそそぎ、観兵式の兵列のように、目もはるかに四方にうち続いて、末は奥知れぬやみの中に消えていた。  幾層の木の葉のやみのその上には、どのようなうららかな日が照っているか、あるいは、どのような冷たい風が吹きすさんでいるか、わたしには少しもわからなかった。ただわかっていることは、わたしが今、はてしも知らぬ大森林の下やみを、ゆくえ定めず歩きつづけている、その単調な事実だけであ...
  • 江戸川乱歩「モノグラム」
     わたしが、わたしの勤めていたある工場の老守衛(といっても、まだ五十歳には間のある男なのですが、なんとなく老人みたいな感じがするのです)栗原さんと心安くなってまもなく、おそらくこれは栗原さんのとっておきの話の種で、彼はだれにでも、そうして打ち明け話をしてもさしつかえのない間柄になると、待ちかねたように、それを持ち出すのでありましょうが、わたしもある晩のこと、守衛室のストーブを囲んで、その栗原さんの妙な経験談を聞かされたのです。  栗原さんは話しじょうずな上に、なかなか小説家でもあるらしく、この小ぱなしめいた経験談にも、どうやら作為の跡が見えぬではありませんが、それならそれとして、やつぱり捨てがたい昧があり、そうした種類の打ち明け話としては、わたしはいまだに忘れることのできないものの一つなのです。栗原さんの話しつぷりをまねて、次に、それを書いてみることにいたしましょうか。  いやはや、落...
  • 江戸川乱歩「夢遊病者の死」
     彦太郎が勤め先の木綿《もめん》問屋をしくじって、父親のところへ帰って来てから、もう三カ月にもなった。旧藩主M伯爵邸の小使いみたいなことを勤めて、かつかつその日を送っている五十を越した父親のやっかいになっているのは、彼にしても決して快いことではなかった。どうかして勤め口を見つけようと、人にも頼み、自分でも奔走しているのだけれど、おりからの不景気で、学歴もなく、手にこれという職があるでもない彼のような男を、雇ってくれる店はなかった。もっとも、住み込みなればという口が一軒、あるにはあったのだけれど、それは彼のほうから断った。というのには、彼にはどうしてもふたたび住み込みの勤めができないわけがあったからである。  彦太郎には、幼い時分からねぼける癖があった。ハッキリした声で寝言をいって、そばにいるものが寝言と知らずに返事をすると、それを受けてまたしゃべる。そうして、いつまででも問答をくり返すの...
  • 江戸川乱歩「人でなしの恋」
    1  門野《かどの》、ご存じでいらっしゃいましょう。十年以前になくなった先《せん》の夫なのでございます。こんなに月目がたちますと、門野と口に出していってみましても、いっこう他人さまのようで、あのできごとにしましても、なんだか、こう夢ではなかったかしら、なんて思われるほどでございます。  門野豕へわたしがお嫁入りをしましたのは、どうしたご縁からでございましたかしら。申すまでもなく、お嫁入り前に、お互いに好き合っていたなんて、そんなみだらなのではなく、仲人《なこうど》が母を説きつけて、母がまたわたしに申し聞かせて、それを、おぼこ娘のわたしは、どういなやが申せましょう。おきまりでございますわ、畳にのの字を書きながら、ついうなずいてしまったのでございます。  でも、あの人がわたしの夫になるかたかと思いますと、狭い町のことで、それに先方も相当の家柄なものですから、顔ぐらいは見...
  • 江戸川乱歩「恐ろしき錯誤」
    「勝ったぞ、勝ったぞ、勝ったぞ……」  北川氏の頭の中には、勝ったという意識だけが、風車のように旋転していた。ほかのことは何も思わなかった。  かれは今、どこを歩いているのやら、どこへ行こうとしているのやら、まるで知らなかった。だいいち、歩いているという、そのことすらも意識しなかった。  往来の人たちは妙な顔をして、かれのへんてこな歩きぶりをながめた。酔っぱらいにしては顔色が尋常だった。病気にしては元気があった。  ちょうどあの気違いじみた文句を思い出させるような、一種異様の歩きぶりだった。北川氏は決して現実の毒グモにかまれたわけではなかった。しかし、毒グモにもまして恐ろしい執念のとりことなっていた。-  かれは今全身をもって復讐《ふくしゆう》の快感に酔っているのだった。 「勝った、勝った、勝った……」  一種の快いリズムをもって、毒々しい勝利のささやきが、いつまでも、いつま...
  • 江戸川乱歩「踊る一寸法師」
    「オイ、緑《ろく》さん、何をぼんやりしているんだな。ここへ来て、お前も一杯お相伴《しようばん》にあずかんねえ」 肉襦袢《にくジバン》の上に、紫繻子《じゆす》を金糸でふち取りをした猿股をはいた男が、鏡を抜いた酒樽の前に立ちはだかって、妙にやさしい声で言った。  その調子が、なんとなく意味ありげだったので、酒に気をとられていた一座の男女が、いっせいに緑さんの方を見た。  舞台の隅の、丸太の柱によりかかって遠くの方から同僚たちの酒宴の様子を眺めていた一寸法師の緑さんは、そう言われると、いつものとおり、さもさも好人物らしく、大きく口を曲げて、ニヤニヤと笑った。 「おら、酒はだめなんだよ」  それを聞くと、少し酔いの廻った軽業師《かるわざし》たちは、面白そうに声を出して笑った。男たちの塩辛声と、肥《ふと》った女どものかんだかい声とが、広いテント張りの中に反響した。 「お前の下戸は言わなく...
  • 江戸川乱歩「覆面の舞踏者」
     わたしがその不思議なクラブの存在を知ったのは、わたしの友人の井上次郎によってでありました。井上次郎という男は、世間にはそうした男がままあみものですが、妙にいろいろな暗黒面に通じていて、たとえば、どこそこの女優なら、どこそこの家へ行けば話がつくとか、オブシーン・ピクチュアを見せる遊郭はどこそこにあるとか、東京における第一流の賭場《とば》は、どこそこの外国人街にあるとか、そのほかわたしたちの好奇心を満足させるような、種々さまざまの知識をきわめて豊富に持ち合わせているのでした。その井上次郎が、ある日のことわたしの家へやって来て、さて改まって改まって言うことには、 「むろんきみなぞは知るまいが、ぼくたちの仲間に二十日会《はつかかい》という一種のクラブがあるのだ。実に変わったクラブなんだ。いわば秘密結社なんだが、会員は皆、この世のあらゆる遊戯や道楽に飽きはてた、まあ上流階級だろうな、金には...
  • 江戸川乱歩「妻に失恋した男」
     わたしはそのころ世田谷警察署の刑事でした。自殺したのは管内のS町に住む南田収一という三十八歳の男です。妙な話ですが、この南田という男は自分の妻に失恋して自殺したのです。「おれは死にたい。それとも、あいつを殺してしまいたい。おい、笑ってくれ。おれは女房のみや子にほれているのだ。ほれてほれてほれぬいているのだ。だが、あいつはおれを少しも愛してくれない。なんでもいうことはきく、ちっとも反抗はしない。だが、これっぽっちもおれを愛してはいないのだ。  よくいうだろう、天井のフシアナをかぞえるって。あいつがそれなんだよ。『おいっ』と、おこると、はっとしたようにあいそよくするが、そんなの作りものにすぎない。おれは真からきらわれているんだ。  じゃあ、ほかに男があるのかというと、その形跡は、少しもない。おれは疑い深くなって、ずいぶん注意しているが、そんな様子はみじんもない。生まれつき氷のように冷たい...
  • 江戸川乱歩「D坂の殺人事件」
    事実  それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。わたしは、D坂の大通りの中ほどにある、白梅軒という、行きつけのカフェーで、冷やしコーヒーをすすっていた。当時わたしは、学校を出たばかりで、まだこれという職業もなく、下宿屋にゴロゴロして本でも読んでいるか、それに飽きると、あてどもなく散歩に出て、あまり費用のかからぬカフェー回りをやるくらいが、毎日の日課だった。この白梅軒というのは、下宿屋から近くもあり、どこへ散歩するにも必ずその前を通るような位置にあったので、したがって、いちばんよく出入りするわけであったが、わたしという男は悪い癖で、カフェーにはいると、どうも長っちりになる。それは、元来食欲の少ないほうなので、一つは嚢中《のうちゆう》の乏しいせいもあってだが、洋食一サラ注文するでなく、安いコーヒーを二杯も三杯もおかわりして、一時間も二時間もじっとしているのだ。そうかといって、別段...
  • 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」
    1  たぶんそれは一種の精神病ででもあったのでしょう。郷田《こうた》三郎は、どんな遊びも、どんな職業も、何をやってみても、いっこうこの世がおもしろくないのでした。  学校を出てからーその学校とても、一年に何日と勘定のできるほどしか出席しなかったのですがーかれにできそうな職業は、片ッ端からやってみたのです。けれど、これこそ一生をささげるに足りると思うようなものには、まだ一つもでくわさないのです。おそらく、かれを満足させる職業などは、この世に存在しないのかもしれません。長くて一年、短いのは一月ぐらい、かれは職業から職業へと転々しました。そして、とうとう見切りをつけたのか、今では、もう次の職業を捜すでもなく、文字どおり何もしないで、おもしろくもないその日その日を送っているのでした。  遊びのほうもそのとおりでした。かるた、玉突き、テニス、水泳、山登り、碁、将棋、さては各種のとばくにいたるま...
  • 江戸川乱歩「堀越捜査一課長殿」
           異様な封書  警視庁捜査一課長|堀越貞三郎氏《ほりこしていざぶろうし》は、ある日、課長室で非常に分厚い配達証明の封書を受け取った。  普通のものよりひとまわり大きい厚いハトロン封筒で、差し出し人は「大阪市福島区玉川町三丁月、花崎正敏《はなさきまさとし》」とあり、表面には東京警視庁のあて名を正しく書き、「堀越捜査一課長殿、必親展」となっていた。なかなかしっかりした書体なので、よくある投書にしても、軽視はできないように感じられた。堀越課長は封筒の表と裏をよくあらためたうえで、ペンナイフで封を切ったが、そのとき、「わざわざ東京へ送ってよこしたのは、東京警視庁管内に関係のあることがらだな」と考えた。しかし、思い出してみても、花崎正敏という人物には、まったく心当たりがなかった。  封筒をひらくと、中にもう一つ封筒がはいっていた。そして、その封筒を包むようにして五枚とじの書簡箋《し...
  • 江戸川乱歩「目羅博士の不思議な犯罪」
    1  わたしは探偵小説の筋を考えるために、ほうぼうをぶらつくことがあるが、東京を離れない場合は、たいてい行く先がきまっている。浅草公園、花やしき、上野の博物館、同じく動物園、隅田川の乗合蒸汽、両国の国技館。(あの丸屋根が往年のパノラマ館を連想させ、わたしをひきつける)今もその国技館の「お化け大会」というやつを見て帰ったところだ。久しぶりで、 「八幡《やわた》のやぶ知らず」をくぐって、子どもの時分のなつかしい思い出にふけることができた。  ところで、お話は、やっぱりその、原稿の催促がきびしくて、家にいたたまらず、一週間ばかり東京市内をぶらついていた時、ある日、上野の動物園で、ふと妙な人物に出会ったことから始まるのだ。  もう夕方で、閉館時間が迫って来て、見物たちはたいてい帰ってしまい、館内はひっそりかんと静まり返っていた。  芝居や寄席なぞでもそうだが、最後の幕はろくろく見もしない...
  • 江戸川乱歩「そろばんが恋を語る話」
     ○○造船株式会社会計係のTは、きょうはどうしたものか、いつになく早くから事務所へやって来ました。そして、会計部の事務室へはいると、がいとうと帽子をかたえの壁にかけながら、いかにも落ちつかぬ様子で、キョロキョロと室の中を見まわすのでした。  出勤時間の九時にだいぶ間がありますので、そこにはまだだれも来ていません。たくさんならんだ安物のデスクに白くほこりのつもったのが、まぶしい朝の日光に照らし出されているばかりです。  Tはだれもいないのを確かめると、自分の席へは着かないで、隣の、かれの助手を勤めている若い女事務員のS子のデスクの前に、そっと腰をかけました。そして、何かこう、盗みでもするような格好で、そこの本立ての中にたくさんの帳簿といっしょに立ててあった一丁のそろばんを取り出すと、デスクの端において、いかにもなれた手つきで、その玉をパチパチはじきました。 「十二億四千五百三十二万二千...
  • 永井荷風「寐顔」
      竜子は六歳の時父を失ったのでその写真を見てもはっきりと父の顔を思出すことができない。今年もう十七になる。それまで竜子は小石川茗荷谷の小じんまりした⊥蔵付の家に母と二人ぎり姉妹のようにくらして来た。母の京子は娘よりも十八年上であるが髪も濃く色も白いのみか娘よりも小柄で身丈さえも低い処から真実姉妹のように見ちがえられる事も度々であった。 竜子は十七になった今日でも母の乳を飲んでいた頃と同じように土蔵につづいた八畳の間に母と寝起を共にしている。琴三味線も生花茶の湯の稽古も長年母と一緒である。芝居へも縁日へも必ず連立って行く。小説や雑誌も同じものを読む。学課の復習試験の下調も母が側から手伝うので、年と共に竜子自身も母をば婦か友達のように思う事が多かった。 しかし十三の頃から竜子は何の訳からとも知らず折々乙んな事を考えるようになった。母はもし自分というものがなかったなら今日までこうして父のなく...
  • 国木田独歩「節操」
    「房、奥様の出る時何とか言つたかい。」と佐山銀之助は茶の間に入ると直ぐ訊いた。 「今日は講習會から後藤|樣≪さん≫へ一寸廻るから少し遲くなると|被仰≪おつしや≫いました。」 「飯を|食≪くは≫せろー」と銀之助は|忌々≪いま/\≫しさうに言つて、白布の|覆≪か≫けてある長方形の食卓の前にドツカと坐わつた。  女中の房は手早く燗瓶を銅壺に入れ、食卓の布を除つた。そして更に卓上の食品を彼處此處と置き直して心配さうに主人の樣子をうかゞつた。  銀之助は外套も脱がないで兩臂を食卓に突いたまゝ眼を閉ぢて居る。 「お衣服《めし》をお着更になつてから召上つたら如何で御座います。」と房は主人の窮屈さうな樣子を見て、恐る/\言つた。御機嫌を取る積りでもあつた。何故主人が不機嫌であるかも略ぼ知つて居るので、 「面倒臭い此儘で食ふ、お燗は|最早可≪もうい≫いだらう。」  房は燗瓶を揚げて直ぐ酌をした。銀之助は會社...
  • 亀井勝一郎「千代田城」
     遠く離れた古典の地や風物に対しては憧れをもつが、自分の近くにある古蹟などには至って無 関心なものだ。皇居の前はよく通る。太田道灌以来、およそ六百年を経た古城であることは承知 している。自動車や電車の窓からすばやく見える二重橋、お堀端など、見あきた風景だ。そう思 いこんでいる。ところが実際は何も知らない。目をこらして見たことはない。私は桜田門の、屈 折ある一隅に立って、石崖の松や青く淀んだお堀の水を眺めてみた。自分がどんなに意味もなく 多忙で疲れているか。近代都市の誘惑はすさまじい。耳を聾する大音響のために、目の方はかす んでくるらしい。何か心がうつろだ。私は茫然と老松のすがたを求めた。  むさし野といひし世よりや栄ゆらむ千代田の宮のにはの老松 明治天皇のこういう御製が、自分の心にかすかながら一点の火をともすようだ。それは歴史の 火だ。戦災で廃墟と化した東京にとって、ここは江戸の最後の名残...
  • 服部之総「新撰組」
    新撰組 一 清河八郎 夫れ非常之変に処する者は、必ずや非常之士を用ふ──  清河八郎得意の漢文で、文久二年の冬、こうした建白書を幕府政治総裁松平春嶽に奉ったところから、新撰組の歴史は淵源するのだが、この建白にいう「非常之変」には、もちろん外交上の意味ばかりでなく、内政上の意味も含まれていた。さて幕末「非常時」の主役者は、映画で相場が決まっているように「浪士」と呼ばれたが、その社会的素姓は何であろうか。  文久二年春の寺田屋騒動、夏の幕政改革を経て秋の再勅使東下、その結果将軍家は攘夷期限奉答のため上洛することとなり、その京都ではすでに「浪士」派の「学習院党」が隠然政界を牛耳っている。時をえた浪士の「非常手段」は、このとし師走以来の暦をくってみるだけでも、品川御殿山イギリス公使館焼打ち、廃帝故事を調査したといわれた塙次郎の暗殺、京都ではもひとつあくどくなって、 「天誅」の犠牲の首や耳や手やを書...
  • 亀井勝一郎「吉野の山」
     吉野を訪れたのは四月なかばすぎである。今年の花は例年より十日ほど早く開いたそうで、私 の行った頃は、下千本と中千本はすでに散り、上千本にいくらか残花をとどめる程度であった。 やや遅かったわけだが、何しろ満開の時は十万の人が出たというので、おそれをなしたのであ る。しかし残花を追う遊覧客はまだ絶えなかった。酔漢も多い。現代の花見気分は一応味い得ら れたのである。  夕方近く、宿に着いたが、谷あいに霧が深くたちこめてきて、何ものも見えぬ。欄に寄って霧                                       ほら を眺めていた。三年前の初夏、ここを訪れたときも霧が深く、その霧の中から山伏の法螺貝を聞 いたことがある。桜がすぎて、ほととぎすの鳴きはじめる頃から、山伏の姿がぽつぽつあらわれ るという。今は茶店の拡声器から「銀座のカンカン娘」がしきりに響いてくる。風流も変ってき ...
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