See visionS / Fragments 9 :『NO,Thank You!』 -秋山澪- ◆ANI3oprwOY
長い長い道のりの果てに辿り着いた。
その場所に、帰りたかった。
古びた木製の壁。
埃の落ちた床。
淡い日差しの差し込む四角い窓。
食器の詰められた茶色い戸棚。
どれもこれも少し黒ずんでしまっているけれど。
だけどここには全部、全部の記憶が、そろってる。
紛れも無いあの日が、ここにあった。
あの日のように、触れる金属は鈍い音を立てた。
あの日のように、弾く弦は震え空気を揺らした。
あの日のように、歌う歌は宙に響く。
だから、ここには、あの日の光が残ってた。
ずっと、ずっと、満たされていた。
眩しいくらい、輝いていた。
どうしようもなく、それらは今も綺麗に見えた。
だからいま、それらは全て、もう帰らない光なのだと、知った。
目の前には探し求めた物がある。
たどり着きたかった場所がある。
懐かしい、景色。
懐かしい、残り香。
懐かしい、誰かの気配。
ここにはきっと、だからきっと、全部が揃っている。
そしてだから、だからここにはもう、何も、何も、何も――何も無い。
なにもない。
「―――――は」
何も、無い。
「…………いよ」
滲み、歪み、湾曲する世界。
黒が全てを覆い尽くし、消えていく陽だまり。
遠く、遠く、遠い誰かの声を、私は聞いた。
「いらないよ」
思い出なんて、いらないよ。
◆ ◆ ◆
See visionS / Fragments 9 :『NO,Thank You!』 -秋山澪-
◆ ◆ ◆
未だに慣れない操縦で、そこそこ長い道中を進み続けて。
到着まで要した時間はだいたい数十分程だろうか。
まだ日が傾くには早いはずだけど、雲に覆われた空じゃ時間の感覚も鈍ってくる。
雑草の生い茂る敷地内に侵入し、聳え立つ建造物、目的の場所ををモニター越しに確認してから、ブレーキをかけた。
瞬間、ぐんっとお腹にかかる圧迫感。機体を急停止させるこの動作だけは、今も馴染まない。
空気に体が潰されるようで、嫌いだった。
憂ちゃんはとても簡単に停止と再動を繰り返していたのだけど。
私にはやはり才能が無かったのだろう。そして才能と同じくらい、時間もまた足りはしない。
おそらく私が、
秋山澪がナイトメアフレームの動作に慣れて、この島から出ることはないのだろう。
生か、死か、どのような結末を迎えるにせよ。
狭苦しいコックピットから降り、おそるおそる土の地面を踏みしめる。
平坦な場所に立った途端、足元が不安になり、座り込んでしまった。
どうにも平衡感覚がおかしい。滅茶苦茶な運転をしてきたのだから当然かもしれないけど。
付け焼刃な操縦技術で苦もなく来れたのは、この島に住民も交通ルールも存在しなかったからだ。
どちらかでも存在すれば、道中で何度大事故を起こしていたことだろう。
実際、路上に放置された無人の車に何度も躓いてしまい、三回ほど転んだ。
ルルーシュの元でも、彼から離れた後も、一人で何度も転倒からの復帰を練習していた成果はあったらしい。
「まだ……降ってるんだ」
酔いが少し覚めてきて、上げた顔にぽたぽたと当たるものがある。
今も、水の滴が頭上から降り注いでいた。
道中で一度雨脚が強まっていたから、当分止まないだろうなとは、思っていたけれど。
「でもそろそろ止みそう、なのかな」
それでもだいぶ、収まったような気はする。
この調子なら近いうちに完全に止むだろう。
夜が来る前に、もう一度青空を見ることだって出来るかもしれない。
いや、止むとしても夕方になっているだろうから、それじゃ茜色、かな。
空の色に意味があるかなんて、分からないけど。
「いったい、なぁ」
がんがんする頭をおさえながら、立ち上がる。
なんにせよ私はたどり着くことが出来たようだ。
無事、雨が止む前に、目的の場所に。
雑草茂る道のむこう。
大きな二階建ての建造物がある。
かつては古風で尊大な雰囲気を保った、立派な館だったのかもしれない。
けれどそれは今、全体の半分以上が黒々として、形を留めていなかった。
以前に、火災があったのだろう、それも小さな規模じゃない。
火の手自体は随分前に鎮火していたようだけど。
建物の二階部分はまさに全焼状態で、今にも崩れ落ちそうだった。
おそらく、火元は二階の西側だったのだろう。
比較的に火の回っていなかった一階も、西側はすっかり焼け落ちて、半焼状態になっていた。
「…………」
煤けた臭いと、そこに込められた悪意だけは、今もこの場所に充満している。
なぜこの館が燃やされたのか。私は知らないけど、どこか燃え方に違和感を感じていた。
完全に燃え尽きさせはしない、中途半端な火の及び具合。
そこに何の意味があったのか、素人目の私には分からないけど。
きっと誰かの、碌でもない意思があった。
そんな風に考えてしまうこと自体、私もこの場所に毒されているのだろうか。
違和感といえば、ここまで燃やされた館が崩れずに原型を保っている事自体、おかしいと思う。
まるで魔法の力だ。館に意思があって、無理やり倒れずに踏ん張っているみたい。
なんだか馬鹿みたいな感想だけど、もう私には魔法の力を否定することは出来なかった。
「そろそろ行こうか」
口に出して、怯える自分に言い聞かせる。
余計な感想とか、考察はいいんだ。
行かなきゃ何も始まらない。
館の前で立ち止まって、雨に打たれ続ける理由なんて、一つしか無い。
やっぱり私は怖いのだ。燃えて、今にも崩れそうな目の前の建物に入っていくのが。
不安だから、こうして理屈をこねて留まろうとする。
震える足で踏み出しながら、ここまで来た理由を反芻する。
きっかけは、数時間前の、一つの回想。
私の右頬を治癒した、一人の神父。
『君が次の戦いを生き延びることが出来たなら―――――に、行くといい』
あの男は言った。
そこに答えはあると。
あの時は意味が分からなかった言葉。
慇懃な笑い、全てを見通したような、嗜虐の目線。
悪意しか感じ取ることの出来なかった、諧謔だった。
『喜べ秋山澪、君の願いは―――』
今なら、私にも感じ取ることが出来る。
目の前に近づきつつあるものが、何であるか。
実態なんて知れない、けどきっと避けることの出来ないものだ。
向き合わなくてはならないモノだ。
それはきっと、いつかの『彼女』もまた、向き合った―――
『君の願いは、ようやく叶う』
座標、C-3。
施設、憩いの館。
燃えて、くたびれ果てたその場所に私は、足を踏み入れた。
◆ ◆ ◆
黒い、暗い、道だった。
館の内部は玄関から既に焼けていて、壁の色は勿論、床まで一面まっ黒になってしまっていた。
元が何色をしていたのかすら、もう分からない。
こんなに焼けてしまって尚、どうして建物は原型を保っていられるのだろう。
内側に入ってみて、私の疑問はいっそう強くなる。
やっぱり魔法、なのだろうか。
構造的な強度で説明する事の出来ない強さが、きっといま私のいる建造物には備わっている。
なんて考えれば、少しはざわつく心もマシになるのだけど。
頭の中は『引き返したい』という思いで埋め尽くされていた。
いつ、まっ黒な天井が落ちてくるか分からない。
いつ、まっ黒な床板を踏み抜くか知れない。
積もる不安に、自然と足が重くなる。
それほどに、私の視界は黒一色で埋め尽くされていた。
「……っ」
煤の臭いが鼻につく。
思わず咽せてしまう程の不快感に、取り出したハンカチで口と鼻を覆った。
まるで空気中に毒が舞っているかのようだ。
一刻も早くここを出たい。
息は詰まるし、体は汚れるし、建物自体が崩れ去るかも知れないのだから。
だけど――
「………」
私は、進んでいる。
この道を、ノロノロとした動きで、だけど真っ直ぐに、進んでいた。
焼け焦げた廊下。
まっ黒で、汚くて、怖くて仕方がない、奈落へ続くような、この道を。
まるで異世界に迷い込んだみたいだ。
館内の見取り図なんて燃え尽きている。
デバイスの地図も施設内では役に立たない。
だから私は闇雲に歩いていた。
暗い道を、廊下に備えられた窓から差し込む、僅かな光を頼りにして。
ずっと突き当りまで進めば、当然、曲がり角が見えてくる。
右に行くか左に行くか、選択しなければならない。
そういうとき、私はなるべく火の手が及んでいない方向へ行くようにしていた。
少しでも、火災の被害が少ない場所へ、闇雲に。
無意識に、怖さを紛らわそうとしていたのか。
闇の中、一歩を踏み出すたびに、私は色々なことを思い出した。
角を一つ曲がるたびに、様々な場面が浮かび上がった。
それはこの場所で、これまでの私が辿った道の景色だった。
『誰も死なせたりしない』
それは、正義を信じていた少年の言葉。
『こんなふざけたゲームを壊してみせますの』
それは、正義を冠した少女の言葉。
『あはははははッ! 楽しいですねえッ!』
それは、狂気を讃えた男の言葉。
『こんなこと、誰も望まない』
それは、私が殺した少女の言葉。
『じゃあ……せいぜい、頑張って――』
そして、誰かとの別れ。
思えばたくさんあった、苦しかったこと、悲しかったこと、辛かったこと。
何故か明確に思い出せる。
色々なことがたくさんあって、ぐちゃぐちゃになった心のなかでも。
一つ一つの出来事が明確に思い出せた。
そして最も、私の心の深いところにある、景色だけは、どうしてか今はボヤけている事に気がついて。
にわかに足が、止まる。
「―――ぁ」
やっぱり、思うのはただ、『怖い』ということだった。
真っ暗な道を進み続けることも怖いけど、それ以上に自分の内面が恐ろしい。
たった一人で無意味にこんな場所にいる自分が分からない。
私はどこに行こうとしているんだろう。
どこにいるんだろう。こんな場所じゃ、より分からなくなる。
ずっと、重かった。私だけの『戦う理由』が、重くて仕方がなかったはずだ。
背負う重圧、私はそれを、それだけを頼りに、引きずるように歩いてきた。
だけどもうその重みを、今の私は殆ど感じない。
感じることが、出来ない。出来ていない。
先の戦いで、その『理由』が砕かれてから、ずっと。
じゃあこれから、どうすればいいんだろうって。
考え続けていきたけれど、結局一人では答えは出なくて。
かと言って状況に身を任せることは、なんとなく嫌で。
だから私はこんなところにいる。
まだ僅かに残る、ほんの小さな重圧。
頼りにしてきたそれすら放り出して、全部無駄にして、台無しにしてしまえれば、どれだけ楽なんだろうか。
というか、どうして私は、こんなところを歩いているんだろう。
さっさと引き返してしまえばいいのに。そして式のいる場所まで戻って、簡単だ。
いつも通りだ。泣けばいいんだ。
みっともなく、恥も外聞もなく、今すぐ荷物を全部投げ捨てて、座り込んで泣いてしまえばそれだけの――
「…………」
なのに、出来ない。
涙の一滴も溢れてこない。
ここに来て泣き方を忘れてしまったらしい私の涙腺は、沈黙したまま。
真っ黒い廊下に、一人立ち尽くす。
「――ふ、あ、は………は、はっ」
代わりに出来たのは、ぎこちない自嘲の作り笑いだ。
自嘲だなんて、こんな器用で気味の悪い動作が出来るようになったのは多分、ここに来てからだろう。
行こうか。いい加減、分かっている筈だ。
ずっと知りたかったこと。私が何処に行くのか、何を望んでいるのか。
答えならきっと、すぐ近くにある。その為に、私はここに来たのだから。
『この思いに、白黒つけよう、パンダのように』。
なんて、私が動物ネタに走る時はスランプなんだっけ。
思い描いた詞の一節は、自分が考えたなんて信じられないくらい感情が篭らない。
拳を握り、震えを抑える。
あと少し進めば、すぐそこにあるんだろう。
何かがある。だからこんなにも怖いんだ。
知りたくないから、見たくないから、これ以上怖いものに直面したくないから、私はまた震えてる。
天井が落ちてきそうだから。足場が崩れ去りそうだから。
そんな理由、全部たてまえで、結局のところ私は、この先にあるものを見たくないだけなんだ。
だってさっきからこんなにも、予感がしてる。
嫌な予感だ。吐きそうになるくらい、気分が悪い。
凄惨で、残酷で、容赦のない現実の、襲い来る気配に。
すぐにでも引き返したいって、未だに『逃げ出したい』なんて考えているんだから。
じゃあだからこそ、行かなくちゃいけないんだろう。
『そこに君の望んだ、答えがある』
あの嫌な神父の、望んだとおりに。
そして今の私の、望む通りに。
もう一歩、踏み出して。
もう一つ、角を曲がる。
進み続けた黒い道に色が戻ってくる。
それは館の東端だった。
あまり火の手が及ばなかった場所に出ても、安心なんて心の何処にもあるわけない。
怖い。ひたすら怖い。
だからこそ、行かなくちゃいけない。
なぜなら、きっとこれは、あいつも、辿った道なんだろうから。
こんな私と一緒に戦ってくれた、『彼女』の。
いつかの、玲瓏な瞳を、忘れない。
今なら、どうしてか分かるんだ。彼女の持っていた強さ、その理由。
あのとき彼女は、何かを得ていたんだ。
夜の学校。
血と内臓に塗れた部屋の中で、
東横桃子が手にした、喪失。
それを間もなく、私も得ることになるのだと。
『じゃあ、せいぜい頑張って――』
怯える心の奥底で、私は確信していたから――
「―――ぁ」
今。
「―――――ぁ――ぁ」
眼の前に現れた、見覚えのある扉の前で、それでも私は絶句する。
一瞬にして言葉も、思考すらも、漂白された私は。
忘我のまま、そのドアノブに、手をかけて――
「――――――――」
そうして、天国のような地獄の、扉が開かれた。
◆ ◆ ◆
なんて平凡な場所なんだろう。
まず最初に、そう思った。
拍子抜けるほど、そこには何も、変わった物なんてなかった。
血も、臓物も、死も、誰も、そこにはどんな凄惨もありはしなかった。
むしろ焼けた館の中にあるとは思えないほど綺麗な場所。
ただ驚いたのは、そこは一見、殺し合いの場にはあまりにも、そぐわない部屋だったから。
ここは、どこかの学校の音楽室だろうか。
内部の音が周囲の部屋に伝わらないようにと防音設備が整っている。
入り口の近くには大きなドラムが置いてある。楽器のおけるスタンドもある。
部屋の中央には3人ほどが腰掛けれる長椅子が設置されていた。
更に奥に行けば、4つの学習机を寄せ集めて作られたテーブル。
テーブルの上には食べかけのお菓子、飲みかけの紅茶、ケーキが置いてある。
左側のホワイトボードには変ちくりんな絵と、聞き覚えのある言葉が、書いて、あって……。
『目指せ、武道館!!』
「―――――ぁ」
そこは、喩えるなら、女子校の、音楽系の部活の、例えば軽音部の、まるで、部室のような。
「―――――ぁ――――ぁ」
最初に、なんて平凡な場所なんだろう。
そう思った。
そして、直ぐにその正体に気づいた瞬間、愕然とした。
「そん……な……」
まっ黒な道を抜けて、たどり着いた場所は酷く見知った場所だった。
長い長い道のりの果てに辿り着いた。
その場所に、私は帰りたかった筈だった。
見覚えのある、古びた木製の壁。
かつて歩いた、埃の落ちた床。
鈍い日差しの差し込む四角い窓。
ムギの持ち込んだ食器の、詰められた茶色い戸棚。
どれもこれも少し焼けて、黒ずんでしまっているけれど。
だけどここには全部、私に残る記憶の全部が、そろってた。
軽音部の部室。
一歩踏み込んで、扉を締める。
ユメを見ているのかと思った。
だけど、現実だった、私は今、懐かしいあの場所にいる。
信じられない。
帰ってきた。帰ってきたんだ。私は、あの場所に。
あの、暖かくて、微笑ましくて、楽しかった、
ずっと帰りたかった場所に、私はいるんだ。
「―――は、ははっ」
ゆっくりと、歩み出す。
紛れも無いあの日が、ここにあった。
あの日のように、触れるドラムは鈍い音を立てた。
あの日のように、弾くベースの弦は震え空気を揺らした。
あの日のように、歌う歌は宙に響くことだろう。
だから、ここには、あの日の光が残ってる。
「――――そっか、帰ってきたんだ」
ああ、じゃああっちが夢だ、悪いユメを見ていたんだ。
そうに決まってる。あんなひどい現実があるわけないから。
だからもう、悪夢はおしまいにしよう。
きっとこれから部活動が始まる。放課後ティータイムが始まる。
みんながここに揃ってくる。
最初は誰が来るだろう。
いつも元気のいい律だろうか、いつも美味しい紅茶を入れてくれるムギだろうか、
いつも真面目な後輩の梓だろうか、いや意外と唯だったりもするかもしれない。
結局、いつも通りだけど、それが最高に楽しみだ。
どうせすぐにみんな、だらけようとするだろうけど、今日こそ強く言って練習しよう。
それが終わったらちょっとくらい、ティータイムもわるくない。
顧問のさわちゃんを交えて、お菓子食べながらだべって、時間を潰すのも嫌いじゃないから。
何も特別なことのない、平凡な毎日だけど。
私はこれでいいんだ。それでいいんだ。物足りないなんて思わない。刺激がないなんて思えない。
「―――――ーは」
みんなを待つ間は、どうしようか。
私が怠けたらまた流されちゃうからな。
このところみんな練習をサボりがちだったし。
梓も真面目だけど、後輩だから唯と律に丸め込まれかねない。
うん、やっぱり私が、しっかりしないと……。
「――――――ははっ」
そうと決まれば、練習の準備だ。
みんなが来る前に何かしておこう。
アンプの調子でも見ておこうか。
新曲の歌詞を考えておこうか。
それとも、それとも、それとも、
「―――――は、はははははっ」
ずっと、ずっと、満たされていた。
私がいて、友達がいて、こんな当たり前のことが、嬉しかった。
眩しいくらい、輝いていた。
どうしようもなく、それらは今も、綺麗に見えて――――
「―――――幻想だ」
だからいま、それらは全て、もう帰らない光なのだと、知った。
「こんな、もの」
目の前には探し求めた物がある。
たどり着きたかった場所がある。
懐かしい、景色。
懐かしい、残り香。
懐かしい、誰かの気配。
懐かしくて堪らない、軽音楽部(わたしたち)の、部室(せかい)のカタチ。
ここにはきっと、だからきっと、全部が揃っている。
そしてだから、だからここにはもう、何も、何も、何も――何も無い。
なにも、残ってはいない。
「……………よ」
ここにはもう、何も、無い。
たとえ形があろうと、いつかの光が残ろうと。
そこに、誰も居ないなら、価値なんて、ない。
空っぽの、箱にすぎなくて。
「…………いよ」
滲み、歪み、湾曲する世界。
視界の奥で焼け焦げた煤の色が、この部屋の隅々にまで侵食していく。
黒が全てを覆い尽くし、消えていく陽だまり。
どうしようもない喪失感の中で。
遠く、遠く、遠すぎる誰かの声を、私は聞いた。
「いらないよ」
それは誰の言葉なのだろう。
『この思い出があるから、生きていける』
私の大切な人たちか。
私と、どこか似ていた誰かの言葉か。
だけど、私の答えは、もう、決まっていたから。
「いらないよ」
思い出なんて、いらないよ。
だって『今』、強く、深く、愛しているから。
「いらないよッ……!」
だからそれが、答えなんだ。
砕け散る幻の像。
焼け焦げた抜け殻の部室の中心で、私は一人、蹲る。
誰に向けたものでもない、何処にも届かない叫び声を、上げながら。
「私は『今』が欲しいんだッ!!」
私はそんなに無欲じゃない。
聖人じゃない。
こんな場所で、こんな状況で、それでも命があるから良かった、思い出が残るから良かった。
そんなふうには、思えない。
初めて知ったけどさ。
どうやら私は欲張りみたいなんだ。まだ続けたいと思うんだ。
こんなものを見せられれば尚更に。
だって、こんなにも、こんなにも私は今、痛くて、辛くて、苦しくて、もう止めてしまいたくて、だけどさ。
良かったって、嬉しいって、思うんだ。思ってしまったんだ。
やっとやっと、私は、足りないものが手に入った気がしていたから。
この部屋に入った、その瞬間に、私の『答え』は出ていたんだから。
「あ……うぁ……あああああっ………あああああぁ…………ッ」
決壊した涙腺は洪水のように涙を流し続け、もう制御が効かなかった。
「会いたい……やっぱり会いたいよ……ッ!」
なあ、唯、律、ムギ、梓。
お前たちが今の私を見てなんて言うか、そんなの、分からないわけないけどさ。
でも、私は身勝手にも、そう思ってるんだ。
間違えだらけでも、無様でも、汚くても、愚かでも。
今も、そんなふうに、思えるんだ。だって、やっと分かったから。
今なら、分かるんだよ。
この場所で出会った全ての人達、彼ら彼女らの、戦い続けたその意味が。
きっとこの世界で、私達は、私達だけが弱者だったんだ。
集められた世界の中で、私達だけが、何とも戦ったこともない存在だった。
命なんて勿論、何か大事なものを賭けたこともない。
誰かを蹴落とした事もない。信念をかけて争った事もない。
そうする必要もない場所にいたんだ。
そうだ私達だけが、何も背負って来なかったんだ。
なんて弱さ、なんて温さ、踏み潰されるのも当たり前だろう。
相手が悪すぎるよ。
眼に壮絶な覚悟を湛えていた騎士。
爛々と狂笑する戦国の武将。
守りたい誰かのために奮闘する少年。
彼らは皆、自分だけの戦いを、背負ってた。
だからこそ強固で、そのあり方を、私は力強く、綺麗だとおもって、憧れすらしたけれど。
比べて、私たちのいた世界は、その誰とも違ってた。
私たちの世界は、彼らの居た世界なんかより、ずっとずっとずっと甘くて、柔くて、取るに足らないモノだった。
ありふれた朝を迎えて、ありふれた授業を受けて、部活して、下校して、そして変わらない明日が来る。
ああ、なんて平凡なんだろう。なんて壊れやすい世界なんだろう。
なんて弱くて、不真面目で、気楽で、つまらなくて、くだらなくて、何の変哲もない、
普通で、凡庸で、平坦で、温くて、暖かくて、朗らかで、優しくて、
優しいだけで何一つ特別なコトのない、どうしようもないほど普遍的で、平凡で、だけど、だけど、だけどさ、だからこそ―――
「私たちは、綺麗だった」
この場所に呼び集められた、だた一つきりの。
誰の死も、血も、痛みも、ありはしなかったそれはなんて、尊い世界なんだろうって。
私たちのいた世界は、この場所で、他の誰にも負けないくらい、凄いんだって。
綺麗だよって、大切だったんだって、私も。
今なら強く、強く誇れるから。
全身を押しつぶそうとする重圧。
肩の上に、再び伸し掛かってくる重みを、確かに背負いながら。
まだ、思ってる。
強く、想ってるんだ。
お前たちを。
お前たちに、まだ――――
「会いたいって、言うんだよ」
たとえそれが、許されないとしても。
「失くしたくないって、泣くんだよ」
たとえなにを、犠牲にしても。
「取り返したいって、願うんだよ」
たとえ届かない、言葉だとしても。
「一緒にいたいって、叫ぶんだよ」
お前たちがいなくなってしまう、それだけは。
「――許せないって、思うんだよ……ッ!」
声は焼けた部室に遠く、祝詞のように、響いて。
許せない。許せない。許せない。
いらない。
――思い出なんて、いらないから。
絶対に取り戻す。
たとえ何を犠牲にしても必ず、あの日々を取り戻す。
もう一度、私は背負う重圧の全てに、そう誓ったんだ。
◆ ◆ ◆
燃え尽き崩壊した一つの世界に、少女が一人、佇んでいた。
「これからも、挫けることはあると思う。けどさ」
4つの机を寄せ集めるようにして作られたテーブルの上に、大きなケーキが乗せてある。
「多分もう、この決断を変えることはないよ」
人の気配のみが濃く残る、伽藍洞の中で、少女は手を伸ばす。
「ねえ、神父さん」
皮肉るように、ケーキに突き刺さっていたカードキー。
「あなたは、何が楽しかったのかな。こんなものを見て、こんなものを残して、さ」
引きぬいて、こびり付いた生クリームを拭い。
「まあ、どっちでもいいけど。私はもう、迷わないから。貰って行くよ」
光沢のあるフォルムに記された、破滅の名を呟いた。
「――フレイヤ」
闇に閉ざされていく、自分の世界を俯瞰しながら。
「私たちの世界を取り戻すためなら」
ここに。
「この世界を壊したって、かまわない」
一人の少女の道が、確定した。
「私たちは、ここにいる。ここに在り続けてみせる。そうだろ、モモ?」
【 Fragments 9 :『NO,Thank You!』 -End- 】
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最終更新:2015年03月07日 23:36