―――哭いている空が見える。
空に在る、太陽を凌ぐ光を放つ白き居城を目指して、漆黒の塔は伸びていく。
地面を這い登り、触れたもの全てに纏わりつく植物の蔓。
獲物を覆いつくそうと触手を広げる原生生物(アメーバ)。
美しくも淫靡な一人の女を貪りたいという欲望のまま求める男達の腕。
食らうということ、それは本来獣の本能のように貪欲で容赦のないもの。
一時は満たされても、日を跨げばすぐさま餓えに苦しみ、また渇望する。
どこまでも邪悪に満ちていながら、世界の原始の理を在り示す光景だった。
大気の振動、単なる物理現象にしか過ぎない音は、悲鳴にも似た激しさで会場を揺るがしている。
否定し合う対極の光の中、亀裂が走る世界に断末魔の叫びが上がる。
声を荒げる空は逃げ場もなく、苦悶に周囲を歪ませて喘ぐ。
それが何よりも、
グラハム・エーカーの胸を貫き、串刺しにして離さないでいた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
COLORS / TURN 3 :『泪のムコウ』
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
七回目の定時放送。あるいは処刑の宣言。
万能の窯、聖杯を語る少女の声はふたつの選択と、決断を聞く者に委ねた。
願望器を求めよ。断罪に降り来る神に挑め。
殺し合い、己が願望を果たせ。生きてこの世界を構成する法に抗え。
示されたのは、突き詰めればその二論。
提示させられるまでもない、誰もが自然に進む道。
そのどちらの声にも応ずる事なく、男は今も変わらぬまま大地に腰を埋めている。
何もかもが変わらなかったわけではない。
ただ、決定的な変化は表れなかった。意思なき岩の如く、自らの力で動く事にはならなかった。
凪ぐ風として、あるいは波打つ水飛沫として。
体に触り動くように促す声が、空洞に張られた泉に波紋を生み出すのみだった。
力を貸してくれと乞われた。
このまま止まる事は出来ないと去って行った。
何も背負ってないのなら立てる筈だと問われた
生きている以上は、望むものがまだある証拠なのだと告げられた。
言葉の一つ一つが、欠けた穴に吸い込まれていく。
轡を並べて戦場を渡った戦友。
細く小さくとも、確かに繋がりがあった、仲間と呼べた者達。
赤錆びて朽ちかけた、世界と断絶しようとしている心に、それらが楔となって繋がれていた。
どれも今の自分の矛盾を突くものであり、問うた側の各々の切実な感情がこもっていた。
前を進む事を止めたくはない。自分の未来を見ていたい。
失ったものを埋めるには足らずとも、残した欠片は空漠になった胸の内に収めるに足ると信じている。
共有しておらずとも、思いは皆、共通して同じだった。
その思いを持って生きる事には、自分の命を危機に晒してでも戦うのに値すると誇っている。
その決意を尊いと感じた故に、全てに耳を塞ぐ事だけは出来なかった。
同じ道を歩めない己が、彼らを否定する資格を持つ筈がなかった。
感情は消えず、生きた思いとして渦を巻いている。
なのに、体は頑として動かず破滅を受け入れている。
萎え折れた精神はそうまでして、この戦場に向かう事を拒む。
ここにいるグラハム・エーカーには、『もう、立つ理由(ちから)がない』のだと認めて、諦めている。
だがしかし。
認めているのにも関わらず。諦めているのにも関わらず。
臆病にも立ち上がれずにいても、卑怯にも自ら舞台を降りる事もしないで、未だ現世に留まっている。
六時間の空白の中で、進みも退きもせず、己は曖昧な境界線の上に止まっている。
それはいったい、何の為に。
「…………っ」
湧いた苛立ちに、力の限り拳を握る。
掌に掴まれている、もう一つの楔の感触が肌に食い込む。
今となっては、残るものはそれだけだった。
つける者のいない、元の色よりも濃厚な赤に濡れたカチューシャ。
かつてあった、今も手放せていない絆の欠片。
元の用途を果たせない物質は、それ以上の意味を持たない。
救いにも、慰みにもなれない。染みついた死の香りだけを漂わせている。
二度と手に入らない、守れなかった約束が、頭に焼き付いて離れない。
気を抜けば、救えなかった最期が悪夢として回想される。
否定しがたい現実が、飽きることなく襲い掛かる。
数秒に届かない瞬き程の光景。
例え地獄に落ちても忘れられない記憶。
その度に思い知る。
天江衣は死んだ。もうここには無い
あの希望の灯、幻想の月華は花弁を散らし手から零れ落ちたのだと、内側を丸ごと切り抉られた。
「……今の私を知れば、君は怒るか。当然だな」
届く当てのない言葉は、どこまでも空虚で儚い。
生と死は隔絶された境界線を挟んで存在する。互いの姿を見通すことは出来ない。
現実の住人が死者の世界を観測する術を手にするには、人類は未だ幼年期にある。
嘆きは誰にも聞き取られず、心の中の空洞の孔が広がるのみで終わった。
大気を打ち鳴らす響きが、より一層強まった。
天国と地獄の衝突は、傍目には依然として拮抗していた。
それは即ち、空で繰り広げられる阿鼻叫喚の地獄絵図も止まらないという事。
瞼を閉じず、食い入るように終わりの風景を眺める。
背中を叩く黄金の声援を知りながら、今も折れている自分が余りに許し難く。
許せないだけで、他には何もなく。
新しい分岐に進むだけの力も、意志も、芽生えないまま。
結局のところ。
グラハム・エーカーの結末は変更がなく。
この時点で、行き止まり(デッドエンド)のまま幕を下ろす。
戦いはとっくに決していて、敗北の筋書きとして終止符を打つ。
そうやって、このまま無為な結論を締めくくろうとして。
「グラハム」
時間が止まる。
己の名前を呼ぶ声に、息が詰まった。
「グラハム」
聞き慣れない、しかし久遠の間忘れていたかのような、懐かしい声。
一拍置いて、頭に生またのは否定だ。ただ否定した。
そんなはずはない。聞こえるわけがない。あり得ない。
少女が死んだのは違えようのない現実。
それを正しく理解してるからこその挫折と停滞だ。
生きてる他の者達とも、既に相対を果たし、去って行った。
だから聞こえたのは都合のいい幻聴。
気の迷いから生まれた、隠しようのなかった弱さの露呈に他ならない。
振り向いた先には誰もなく、待っているのは裏切りだけ。
知っている。分かっている。理解しているというのに。
思考に反して、項垂れていた頭は声のした方を見上げていた。
そこにはやはり脳裏に浮かべた幻想ではない、されど歴とした実体のある現実。
グラハムの正面より数歩先に、いつの間にか直立していた小さな影。
六回目の放送後、同じ場所でグラハム・エーカーにひとつの提示をした人物。
かつては……少なくともその時点では、端末と呼ばれる位置に置かれていたもの。
インデックスという名を持つ少女は、意志のない最後の一人の前に、再び姿を現していた。
「みーぃ」
傍らに、何故か寄り添うように並んでいた一匹の猫が、親を案じる子のような声で少女に向けて鳴く。
猫にすら感じ取れる明らかな変化。インデックスの身には、一目で見てわかるだけの異常が表れていた。
全力で走ってきたかのように肌には多量の汗が浮かび、呼吸のリズムもどこかおかしい。
瞳からは静かに血の涙が流れ、服に赤い斑模様をつけている。
何者かに攻撃を受けたのか。それとも体調が崩れたのか。
理由は分からずとも、異様な状態であるのには違いなかった。
「グラハム……と、彼女は言っていました」
同じ文字を、抑揚のない音で再び紡ぐ。
機械的でありながらも澄み切っていた声は掠れたものに変わって、時には生態的には考えられない雑音も混じっている。
意味の不明な行為を繰り返すのは、それこそ壊れた機械と称するに相応しい。
あるいは本当に、既に壊れてしまっているのかもしれないが。
落ちていく斜陽に晒されて、透き通る銀の髪の色を日の黄金に染めている。
血にまみれて。身体を傷ませながら、それでも表情は変わらず、
おぼつかない足取りで、同じ言葉を繰り返し呟き続ける。
それはさながら壊れた機械そのものだと―――――
「グラ、―――」
「止めるんだ」
強い拒絶の意思に、端末は続く声を途切れさせる。
「もう止めたまえ。それ以上、徒に体を動かして何になる」
無意味であり、無駄であるとグラハムは言い切る。
「同じ事を繰り返すようだが……私を観、撮り、なんになるというのだ。
何度呼びかけたところで……私にはもう、何も生み出せはしない」
誓いを喪い、砕け折れた心にしがみついて生きた亡者に甘んじる不様な男と。
主に捨てられ機能は故障し、完全に停止するまでを永遠に同じ舞台を回る哀れな少女。
両者の立場は今も似たままでいる。平行線のように同じ向きを見、互いが交わらないで。
希望を感じさせる要因など何処を探しても見当たらない。
新しい可能性が生まれるなど期待するのも愚かしい程、この二人の未来は暗闇に閉ざされていた。
「君の声に応える理由は、私には残ってないのだから」
かつて雄々しく、猛々しく他者と交じり合った男からは考えられない態度で振り払う。
『もう無い』とは答えなかったのには、如何なる意図があったのか。
その真偽も確かめる間もないまま。本人も知る由もないまま。
「……私があなたへと接触、発言したのは、参加者の観測、記録の為ではありません。
その機能は、不要なリソースとして既に停止してあります。
私が行ったのはただ、彼女の残した想いの再生です」
低く掠れた声のグラハムに、あくまで機械然としたままインデックスは語りを始める。
思いもしなかった言葉に地面に下げかけていた頭を再び上げて、インデックスを見た。
「私が記録した天江衣の最期の記録。あなたへ宛てた最期の言葉(モノローグ)」
その時、刹那に等しい瞬きの間だけグラハムは見る。
ほんの微か。インデックスは微動だにしないでいた眉を僅かに潜ませたのに。
それは内から生じた何かの苦しみ、痛みに耐えている顔。
人間でいうところでは、「悼み」の感情に近い表情だった。
「―――心臓を焼き切られ、血の循環機能が停止し、脳への酸素供給が途絶える一瞬の猶予。
その刹那をあなたを思い、案じるのに費やして―――彼女の生命活動は終わりました」
滔々と読み上げていく。
ただ、そこにはそんな話があったという事実。
記録した音声を再生し語り聞かせるスピーカーと大差ない機能。
端末でしかなかった少女の告げる言葉の節々には、単なる雑音(ノイズ)とは違う、人の内部が破裂していくような音が混じっていた。
「これが―――此度のバトルロワイアルにおける、天江衣の、最後の記録(ログ)です」
「――――――――――――」
ノイズだらけの告白を聞いて、グラハムは漠然と理解する。
この音は、死の秒針だ。
今のインデックスにとっては、ただ話すだけの行為でも命を蝕んでいく。
否、これまでの様子を見れば、段階はそれ以上だろう。
そこに在り、生命活動を維持している事すらも、細胞を死滅させる因子になっている。
理由は分からない。知ったところでどうしようもない事だ。
だがインデックスは元は主催の一員。それも扱いでいえば情報端末も同然のもの。
不要となった後、機密保持の為に何らかの仕掛けが施されていても不思議ではない。
「――――――――――――」
亡き少女の切なる祈りの声。
時を跨いで、別の少女が命を削りながらもそれを受け取った男(グラハム)は―――
「――――――――だから、それが、なんになるというのだ」
絞り出すように、それすらも無意味でしかないと口にした。
「彼女の遺言(ことば)が私への祈りだったとして、今の私にいったい何が出来る」
天江衣の遺言。
ただ名前を呼んだだけの、うわ言でしかない声。
意識などしていなかったのかもしれない。意味があって言葉にしたのではないのかもしれない。
確証に足る情報は何もなく、想像が真実だとは決して限らない。
しかしグラハムは、理屈でない奥底の声で真意を得ている。
間違いなく、紛れもなく、天江衣はグラハム・エーカーに対して想いを贈ろうとしていたと。
「今の私を見れば、間違いなく彼女は悲しむだろう。苦しんでいるのだろう。
そして願っているのだろう、私が立ち上がるのを。敵に向かい、剣を取り、空を翔けるのを。
弱き者の為に戦うグラハム・エーカーをこそ、彼女は慕ってくれた。
君の遺言が真実であるなら、それこそがまさしく至上の報いとなるのだろうな」
それが何を残したのかは問題にはならない。
一心同体の結びに虚偽はなく、伝えたかった言葉は始めから不要。
その想いだけ確信出来るなら、意味などそれだけで十分に足るものだった。
「だがそれは、所詮私が抱いた幻想(ユメ)でしかない」
そしてそのユメはもう終わってしまっている。
その生じた意味そのものが、そもそも遅きに失していた。
乾ききった目頭からは一滴の泪も流れない。
感情はどこまでも地に沈んで平坦としていたが、それは確かに慟哭だった。
「天江衣は、死んだ。世界の何処にもいない。
彼女が語り、待ち望んでいた夢の日々を。必ず果たすと結んだ約束を。月のように輝いて見えたあの笑顔を……。
私は守れなかった……私が、死なせた」
非力を嘆いても、無力だと頭を垂れずに恐怖に立ち向かう勇姿を、これまで生涯で見聞きした何よりも尊いと信じた故に。
その光を喪失した罪科は、なにを以てしても贖えないほどの重さなのだと。
「彼女がどれほど私を案じてくれたとしても、あるいは、私がどれほど彼女を強く思おうとも。
私の中から消えた愛は、蘇らない」
それが男を縛るものの正体。
残された想いの深さを知ったからこそ、猶更前へ進めない。
たとえ彼女と過ごした日々の幻想が胸に懐いたままでいても。
彼女(あい)を守れなかったという現実が、絶望からの解放を許さなかった。
「そんな裏切り者に名を呼ばれる資格など、あろう筈もない。
彼女の決意を、誓いを、戦いを、愛を。全て無駄に終わらせた私にはな……」
■■■■■■■■■■■■
掌から零れ落ちているような感情の流水を、インデックスは無言で眺めている。
六時間前の同じ場所。
そこでインデックスはグラハムに、とある『先の話』をした。
誇りある守護者から、忌まわれる復讐者へ。
愛ではなく憎しみを食み、地獄へ降る修羅の道。
それがグラハム・エーカーが至る、未来の正しい姿だという。
だから今こうして戦いを放棄している事態は理屈に合わないのだと、不理解の意を呈した。
インデックスは思い違いをしている。
齟齬が起きているのは、少女の認識が間違っているからに他ならない。
名前を捨て、歪まれた武士道に突き進む男。
心身に大きな傷を受けながらも戦う気迫を維持出来た理由。
それはその男には憎しみという、体内を駆動させる火が焚かれていたからだ。
男は愛を失った末に新たな感情(にくしみ)を得たのではない。
元々持ち合わせていた重過ぎた愛が、憎しみに変じただけでしかないのだと。
愛の喪失。それが男の未来が割れた最大の要因。
天江衣の死によって、グラハム・エーカーの時間はそこで固定されている。
死者の声では生きる者を目覚めさせる事は叶わない。
それは、俗に生死の境と呼ばれるもの。彼我の間に広がる断崖は気が遠くなるほどに遠く、深い。
天江衣の想いはグラハム・エーカーの許へ届いても、その心を揺るがす力はない。
さりとて、今も生きている者の中で彼を呼び起こすだけの力、意志を持つ人もここには存在しない。
『であれば、もう終わりましょう』
脳内の何処かから、囁きが聞こえた。
客観した見解に、インデックスは同意する。
それはあまりに合理的で、まったく無駄のない選択だった。
インデックス(ワタシ)には、バトルロワイアル遂行における指令は、もう何も残っていない。
会場に降り立ち、参加者に接触し情報を譲渡することで状況を刺激し、事態の促進を図る。
この命令が完全に終了した時点で、起こす行動、果たす役割は既に存在しなくなった。
視界(カメラ)を閉じ、記憶(メモリ)を消し、身体の機能(スイッチ)を落とす。
恐怖などあろうはずがない。最初から決められていた事だ。
委ねれば身は融けて、思考は泥になって緩やかに壊死していく。
それで何事もなく終わる。安易かつ安心、確実に遂行される自殺手段。
選ばない理由のない、至極当然の帰結であり――――
「―――――――――――――いいえ」
、砕けて、いた。
「――――――――――――あなたの結論は不合理です」
身を保護していた最後の防衛機能が、この時この瞬間に砕け散った。
生きたまま皮膚を剥ぎ取られたも同然の刺激。
痛覚よりまず、自分の肉を守っていた薄皮がなくなった喪失感の方が何倍も大きい。
けれど安寧な機能停止など―――そんな機能こそ、とっくに壊れていたのだと、インデックスはこの時初めて知った。
痛み、痛み、痛みだけが脳を犯し、未熟な精神を破壊する。
それらの苦痛を全て切り捨てて、修道女は膝を折る男に向かって言い放っている。
「……シスター?」
「天江衣の残したものは、無駄には、なっていません。
この世界に、この場所に、今も残置しています。
何故ならインデックスという存在が……私が……憶えて……いますから」
今やもう、砂嵐だらけになったメモリー。
その中で再生される映像。
ノイズに塗り潰されかかっていても、そこに描かれていたものに対しての記述は、まだ残っている。
「初めて会った時、友達になりたいと言った彼女の言葉を憶えています。
あなたの―――グラハム・エーカーという存在の為に、戦った姿を憶えています。
……ありがとうと、最期に笑顔を見せてくれたのを、確かに記憶しています」
色褪せずここに歴と『在る』ものが、無駄であるという発言は、直ちに訂正しなければいけない。
そうだ、間違いは、正さねばならないだろう。
「天江衣の戦いは無為ではありません。その結果により私が生き、彼らが生き、今もあなたが生きている。
例えこれから私達が死亡する結果があるとしても、この事実は決して覆らない。
故にあなたの言葉に対して、私は確固たる否定を示します」
狂っている。壊れている。割れていく。融けて消える。
涙腺から、肉の溶けた流動物がこぼれ落ちる。
開いている両目の視界が燃える。
何より整合性を欠いているのは他でもないインデックスという存在で。
けれど言葉は止まらない。崩壊と共に更なる一歩を踏み出す。
「繰り返し聞きます。
――――――何故、あなたはそのままでいるのですか?」
また、脳裏に亀裂が走る。代わりに疑問符を取り戻す。
五感はかろうじて生きている。ならば仔細なく。
力(せいげん)が入らなくなっている分、制御時(いつも)より語気を強めて話ことすら可能になるから。
「このままでは、終わってしまいまうでしょう。
今あるものも、かつてあったものも、何もかも。
神の祝福。世界平和という唯一の単語で、全てが塗り替えられようとしています」
腐った果実のように、内側に黒くへばりつく淀みがある。
それが『嫌だ』という感情なのだと、いまインデックスはようやく理解する。
この結末はとても虚しく、その未来はあまりにも惨めだ。
獲得したもの、取り戻せたものが、また失ってしまうのは、ひどく悲しいものなのだと、思ってしまった。
感じてしまった。
足首に顔をすりよせる子猫を、薄れかかった感覚で見る。
スフィンクスという名前。この状況で何の恩恵ももたらさない記憶が、今は細い寄る辺となっている。
その記憶の中にいる、大切な重要なモノの欠片を掴めたような気がしたから。
「いっしょに、いたいひとがい……た。
ある日、偶然出逢えたそ……人と、ずっと……。
もうその人が……にいないのだと知って、…………。
天江衣が……だと理解した時、それと同じ程の痛みを感じました」
肉体の傷みは、いよいよ回復の見込みが立たない部位にまで迫っている。
痛みが治まらず、ひたすら血色の涙が頬を伝う。
もはや何を言っているのかも不明瞭。
「あの日の………の願いは、彼女との約束は、もう叶いません。
けれど、まだ消えてはいない。インデックスはまだここにいて―――彼女の―――ころもの残したものは、まだ此処に存在します」
体中が生命体としてあり得ない音を立てて、滅茶苦茶に潰される。
もう血液すら流れないにも関わらず、まだ熱いなにかが頬を伝う。
引き換えに戻るのは、閉ざされていた最後の―――
「これ以上、何も失いたくありません。友達から貰った大切な思いを、もう零れ落としたくはありません。
あなたはまだ立てます。あなたの希望も、きっとここにまだ残っています。
ころもは帰ってこないけれど、もう見えないものかもしれないけれど―――
ころもの全部が無駄になったということは、絶対にないって信じてる。
だからあなたも、たとえどんなに苦しくても、この世界にはまだ愛があると、信じて欲しい…………」
機械のように憶えた音声を再生するのでなく、人形のように他者に操られるのでなく。
誰に命じられたのでもない、自分だけの意志で、心で、思いを届けている。
芽生えた、或は思い出したばかりの、こんなつたない思考でも。
考えるのはそれだけ、それのみをただ願っている。
その為に、崩れる体を引きずって、壊れかけの機械は、彼に会いに来た。
代償が苦痛なら、黙して受け止められる。
それが神の愛を忘れて、偽神の傀儡(てんし)に落とされた罪。
罪なき人々を殺し合わせ、死なせた罰なのだと受け入れ。
肺いっぱいに、空気を吸い込んで―――
「だから――――――」
だから――――――そう。
インデックス(わたし)がグラハム(あなた)に、伝えたかったことなんて、最初からこれ一つ。
「だからお願い、グラハム。
……もう一度―――戦ってッ!!」
言い終えたと同時に、片目の光が失われた。
狭まる視界。
自分の中にまだ残されていた欠片を離さず握り締めながら、わたしの体は冷たい地面に落ちていった。
■■■■■■■■■■■
力を失い、地面に落ちようとした小さな体を、男の腕が受け止めていた。
華奢で小さな体は、見た目ほどの重さも感じられない。
これに比べれば六時間振りに立ち上がった体の痛みなどあまりに薄い感覚だ。
支えられた少女は、状況を理解し切れていない目で空を見上げる。
そこに見えるは、破損した記憶でも鮮明に思い出させる、いま少女が訴え続けていた男だった。
「…………………」
呆然としたまま、グラハム・エーカーは我が手を見る。
意識してはいなかった。逡巡の間すらありはしなかった。
インデックスが叫び、その体から力が失われた瞬間には、脳を置き去りに体だけが少女へと駈け出していた。
全身を自らの血で濡らしたインデックスは、虚脱しながらも意識を保っている。
瞳だけは、血液とは違う赤みに染まっており、血の通った跡を洗い流す一筋の涙が零れている。
まるで中身に詰まっていた分が無くなってしまっているような軽さ。
それが告白の代償。
届かなかった言葉を伝えるだけの事に、その命の大半を使っていた。
……その凄絶さに、これまでの悩みも忘れて見惚れていた。
「どうしてくれる?」
―――知っている。
この光を、この涙の尊さを、自分はずっと知っていた。
死は、覆せない。少女がどれだけ声を出そうとも死者は還らない。
ならばこれは、月を象る天女とは別の輝きで、それに勝るとも劣らない強さを見せる命の煌めきなのだ。
「立ち上がって……しまったではないか」
変化は、歴然だった。
胸の傷は癒されず、空洞が埋められたわけでもない。
なのに、その穿たれた孔の中で、身を焦がすような熱さがある。
グラハム・エーカーに当たり前に備わっていた、今の今までなかったそれを、はっきりと自覚できる程に激しく。
当のグラハムが、己の胸に宿る熱に当惑していた。
たった六時間だけというのに、忘れていた。己はいつも、これほどの火を持って戦ってきた事に。
ふと、コンクリートの台座に置かれた透明の箱に目をやる。
阿良々木達に振る舞われた雑炊が詰まったタッパー。
抱えたままのインデックスを傍に寝かせてそれを手に取り、上に掲げ、開けた口に中身を流し込み噛む間も惜しくて嚥下する。
料理はとっくに冷えて味も何もあったものではないが、とにかく腹は満たすことが重要だった。
飲み干した勢いのまま、打ち捨てられていたパイロットスーツを着込んで、瓦礫の山に沈む鋼の孤城を見上げる。
水に艶やかに濡れる、紫炎の躰。
無数の疵を背負いつつも、宿す剣の意志に些かの揺るぎも無し。
打ち捨てられたと呼ぶよりも、主の号令をただ伏して待つ騎士のように。
ガンダムエピオンは時の中を静寂に過ごし続けていた。
そういえば。
自分は彼にも愛を囁いた時があったのだなと、少年の日を思い返すような心地になる。
物言わぬこの騎士もまた、自分に希望を残していた。騎手の再起の時を、沈黙のまま見守っていたのだ。
心臓を刺し貫く恥辱も、底の見えない奈落へ引きずり込む後悔も、今は感じない。
傷も孔も直りはしないが、手に戻ったものはある。
そのたったひとつの想いを満身に注ぎ込めば、この身はまだ立ち上がれる。
見失っていたそれを、白き少女が教えてくれた。
「私は――――――」
誇るもの。
護るもの。
愛するもの。
その全ての在り方を信じられた今ならば。
「嗚呼、私は――――――!!」
―――空が慟哭をあげる。
それは本当の意味で、戦いが始まった事を告げる狼煙。
立ち上がった『戦う者』の武運を祈る、凄烈な開戦の雄叫びだった。
◇ ◇ ◇
これは、奇跡の物語ではない。
零に等しい、あり得ざる確率を、運命によって引き寄せて起こした神の気紛れでは決してない。
驚くような、信じられないような不思議とは無関係だ。
こんな筋書きは何処にでもありふれているもので。
世界中にとっくに知れ渡った、いっそ陳腐ですらもある、御伽噺に過ぎない。
細かな理屈など必要ない。
特別な理由なんて、始めから存在していない。
何故ならば。
いつだって、戦士を立ち上がらせるものは、少女の泪であると決まっているのだから。
【 TURN 3 :『泪のムコウ』-END- 】
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最終更新:2015年02月16日 00:46