この重さは命の重さ、この意味は生きる意味 ◆XIzIN5bvns



地震雷火事親父。
日本人ならば誰しも聞いた事があるであろうこのフレーズからも分かるように、人々が生きていく上で『災害』という存在は切っても切れない関係にある。
そして、天災・人災を問わずに含むこれらの『災害』が発生した時に、最も恐ろしい物はその災害自身では無いとも言われている。
それは、被災者達を襲う混乱。パニック。集団ヒステリー。
正常な判断を失った人間は、短期的な生存を優先した挙句に異常な行動に出る。
災害発生時に何よりも恐ろしい障害となり得るのは、他でもない生存者自身なのかもしれない。

ならば、ある意味で人災とも呼べるであろう異常事態――閉鎖空間での殺し合い、それに付随して現れた『魔法』のように人を殺す少女の襲撃――に巻き込まれてしまった少女。
琴吹 紬は、どのような行動に出たのか。
先に述べた『生存者を襲うパニック』の点からいえば、紬は及第点であろう。
確かに常識では考えられぬ殺人鬼に命を狙われ、目の前で凄惨な解体ショーを見せつけられたにも関わらず、紬の精神はまだパニックに陥ってはいなかった。
その理由は、今現在彼女が手を引いているもう一人の少女にある。
彼女の名は千石 撫子。紬よりも2~3歳は年下だと思われる、中学生ぐらいの女の子。
何故かアニメなどに対して非常にマニアックな知識を持ち、おそらく人見知りで恥ずかしがり屋。
紬が千石 撫子について知りえているのは以上で全てである。奇妙なアニメ談義の合間合間に挿入された自己紹介は、残念ながらお互いの名前についてのみだった。
だが現状、それ自体には何の問題も無い。この場で最も重要な情報を、紬は得る事が出来ていたからだ。
すなわち、彼女が自分と同じ少女であり、加えて自分よりも年下である事。
千石 撫子は、琴吹 紬よりも弱い存在であろう、という認識。

人は、自分よりも混乱している人間を目の当たりにした時、逆に平静を取り戻すという。
それとよく似た状況を今、琴吹 紬は体験している。
傍にいる相手が自分よりもか弱い人間であるからこそ、守ってやらなければならない相手であるからこそ、紬は恐怖心を抑え込み脱出に向けて行動する。

だから、その直後に起きた異常事態にもどうにか対応する事が出来たのかもしれない。

「………っ!!」

それは、丁度2階へと下りて1階へと向かう階段にたどり着いた時に発生した。
紬達の目の前で、鉄骨とコンクリートで作られた階段が『凶って』いく。
まるで雑巾か何かを絞るかのように鉄筋は崩壊していき、あっという間に出口への道は通行不能となっていた。

「そんな……!?」

愕然とした紬の呟きはミシミシという耳障りな音に掻き消された。
余りにもタイミングが悪すぎ……いや、良すぎる。僅かに内部を回っただけだが、少なくともこの学校は突然崩壊を起こすまでに老朽化しているとは思えない。
それも、ただ階段が崩れさるだけではない。まるで怪物が力任せに捻り潰したかのように、目の前の階段は『凶って』いったのだ。
まるで……つい先ほど目の当たりにした、奇妙な殺人を無機物で再現したかのように。

「……っ……く…」

肉体が弾け、臓物が千切れ飛ぶ。間違いなくR指定が付くであろうグロテスクな光景、そして生々しい臭いを思い出し吐き気を覚える。
どうにかそれを振り払いながら、紬は思考を巡らせる。
この崩落が偶然によるものには思えない。
現象の近似性から見て、どういう理屈かはわからないが――それこそ、あの遠藤という男の言う『魔法』か――これはあの殺人鬼である少女の手による物か。
自分達をこの学校から逃がさず、確実に殺す為の。
まるで背筋にツララを突きたてられたかのような寒気に身を強張らせながら、琴吹 紬は脱走の一手を模索する。

学校の構造から言えば、廊下を渡った反対側にも下へと続く階段は存在しているだろう。だが、それは学校に通った者ならば誰でも気が付く事実。
制服を着ていた以上、おそらくはあの少女も学生であり、その事を知らない道理は無い。
むしろ、わざと一つの脱出路を残しておく事によって自分達を確実に追い詰める為の罠かもしれない。
長い廊下を渡って、反対方面まで移動する時間は無い。ならば―――どうする?

藁にもすがる思いで周囲を見回した紬は、そこで一つの事に気づく。
リスクは高い。だが、試してみる価値はある。少なくとも…ここで待ちぼうけた揚句に、無残に殺されるよりかはマシだ。
天然お嬢様、という呼称が似合う柔和な顔を悲壮な決意に強張らせた後、彼女は意を決してそこへと走り出した。




守るべき者の存在によってどうにか混乱を抑え込み、脱出へ向け確実に行動している紬に比べ、千石 撫子の精神状態は酷く荒れていた。
無理もない事だろう。ただでさえ彼女は見知らぬ人に話し掛けられただけで逃げてしまうような、『温めますか』の一言が怖くてコンビニでまともな買い物も出来ないような臆病な少女だ。
そんな深刻な対人恐怖症を患っている女の子が、見知らぬ人間に突然襲われたらどうなるか。

(………………痛…い)

恐怖、驚愕、混乱、怯え。ありとあらゆる負の感情でないまぜになっている彼女の中で、ただ一つハッキリしていたのは痛覚への刺激。
片足が地につき、また離れる振動に呼応して、ズキン、ズキンと彼女を蝕んでいくそれ。
謎の殺人鬼の凶弾を受け、絶えず血を流し続けている左足の痛み、そして熱さだけが彼女の精神(ココロ)に浮かび上がる。
不幸な事に、ただ逃げる事で精いっぱいの同行者は撫子の怪我に気付けない。
撫子もまた、自分の痛みを紬へ告げる事が出来ない。
それは、撫子自身の『痛みを我慢してしまう』性分による物か、パニックにより正常な判断を失ってしまっているが故か。

(撫子、ここで死んじゃうのかな)

明確な痛みは、明確な死の裏付けだ。
ただでさえ、撫子は目の前で確実に失われて行く命の灯を、悲惨な断末魔の叫びを聞いてしまっている。
それが余りにも気持ち悪かったから、また撫子は腹の中の物をリノリウムの床にぶちまけた。
嘔吐による苦痛、疲労、辛さが、それでなくとも消耗している状況判断能力をますます削り取って行く。

命を失いかけたのは、初めての事ではない。
『凶がる』視線のような、何らかの異能も持たない彼女も、常識では考えられない出来事によって死にかけた事がある。

呪い。怪異。『蛇切縄』。

心無い者達の手によって、彼女はその命を苦痛の中で失いかけた。
だけど、そう。あの時は―――――

(暦……お兄ちゃん……)

思い浮かべたのは、己の最愛の人の名。最愛の人の姿。
自分を、死の淵からその手で救ってくれたその人の事。

ズタズタに切り裂かれた精神(ココロ)は、ただただ救いを求めて何かに縋りつこうとする。
ゆっくりとその手を前に伸ばした彼女が求めたのは、また自分を助けてくれるかも知れない、恋した少年の姿だった。
しかし、今この場に彼がいる訳も無く。伸ばした手が捕まえたものは、ただ目の前にあっただけの同行者のディパックであった。

(………………)

思考回路、未ダ復帰セズ。
たび重なる苦痛によって考えることをやめたまま、撫子は手の先を彷徨わせる。
それが僅かに開いていた取り出し口の隙間に入り込むまでそう時間はかからず、程なくして手の中に『何か』を掴ませることに成功する。

(……………?)

思考回路、僅カニ復帰。
それは、琴吹 紬へと幾つか支給されたアイテムの1つ。3個1セットとして配られたそれの1つを、クレーンゲームのように掬いあげた。
手の中に入っていたものは、小さな竹細工の――――笛。

笛。ふえ。フエ……笛? フエ…フェイト?
ああ、それはいけない。そっちに行くのはアウトだ。
バトロワで参加者間のメタ知識は禁じ手なんだから…戦国○双だってギリギリだったんだぞきっと!?

一瞬奇妙な語り口調が混線する。それを知ってか知らずか、千石 撫子はふとある事を考えた。

(ああ…一回吹くと長男が、二回吹くと奥さんが、三回吹くとお父さんが召喚されるんだっけ)

―――おい、幾ら僕でもそんなマニアックかつ古すぎるネタまでカバー出来ないぞ!?

ふと、大好きな人の声が聞こえた気がして、撫子はほんの少しだけ微笑んだ。




騒音と共に教室のドアがスライドする。
勢い余ったそれは終着点へと衝突し、運動エネルギーに従って半分ほど元の位置へと戻ったがそれを気にしている余裕はない。
紬は撫子の手を引いたまま教壇の前を駆け抜け、ベランダへと続くガラス戸を引き開けた。

紬達が飛び込んだのは、2階階段口のすぐそばにあった教室の中だ。
彼女が選んだ脱出ルートは、そのベランダ。すなわち、『2階のベランダから外へと飛び降りて、この学校から逃げ出す』という道。
言うまでも無いことだが、これはリスクが高い。
さすがに死ぬ事は無いだろうが、着地の際に捻挫、脱臼、最悪の場合は骨折してもおかしくないだろう。
しかし、あの制服の殺人鬼に鉢合わせるよりは遥かにマシだと、紬はそう判断した。
慈悲のかけらもなく捻じ『凶げ』られて殺されるよりは、生き残れる公算は高い。

祈るような気持ちでベランダの手すりに手をかけ、下をのぞき見る。
ここに至ってようやく幸運の女神はほほ笑んでくれたようで、紬達の真下にあるのは柔らかい土で覆われた花壇であった。
堅いコンクリートで無いことを確認して、思わず安堵のため息を着く。
が、即座に気を取り直して周囲を見渡し、空になったステンレスの傘立てを発見するとそれを裏返して足場を作った。
大丈夫、中高生女子の体重ぐらいならば踏み台がわりには十分。
一瞬だけ気分を落ち着けるための深呼吸をした後で、紬は後ろの撫子へと振り返る。

「撫子ちゃん、今からこの下に飛び降りるけど、ちょっと我慢を――――え?」

脱出ルートの説明をすべく撫子を見た紬が、ぽかんとした表情を浮かべる。
その視線が注がれているのは、彼女が手に持ち、今まさに吹こうとしている竹の笛。

――いつの間にそんな物を? もしかして撫子ちゃんの支給品? ああ、でもここで笛なんて吹いたら、こっちの居場所が

そんな思考が頭を回る時間もあればこそ、人見知りの少女は無機質な笛へと口づけを交わす。

別に、深い考えがあっての事ではない。
合理的思考などあるはずもなく、その意味は混乱・錯乱した上での異常行動と片づけられるだろう。
ただ、千石 撫子は、『笛の音を聞きつけて、自分の好きなあの人が助けに現れる』などという夢想に囚われてしまっただけの事。
切迫した状況下では、パニックに陥った生存者は常軌を逸した行動に出る。
解説を付け加えるならば、その一言で事足りる。

まあ蛇足だが、ここにもう一つの注釈を付け加えるならば……かつて、同じ笛の持ち主が、良く似た思いを込めて『それ』を吹いた事があるという過去の事実。
さらに、そのくの一は事実九死に一生を得たという事。以上の二点で事足りる。

――――――そして、笛は吹かれた。

『ヒューーーーーーーーーーーーーーーーッ…………』

甲高い音色でもなければ、ピロリロリロという馬鹿らしい音でもない。
そもそも、音など聞こえてこない。周囲に流れたのは、深く息を付いた空気音だけ。
琴吹 紬も、千石 撫子も、いやそもそもこの会場にいる全ての参加者は須らくこんな感想を残すだろう。
『その発想は無かった』、と。

そして、変化は唐突に表れる。
頭上に?マークを浮かべながら口を離し、ぼうっとした瞳で見つめられた笛が、突如として黒煙を上げた。
さらに、手の中に納まるほどのサイズだった竹の柄がグン、と伸びていく。

「えっ………!?」
「きゃっ!?」

予想外の事態に驚いた撫子は、思わず伸びた笛から手を離す。
思考回路の挟まる余地もない反射から、思わず紬はすでに2mほどの長さにまで伸びていた笛を捕まえる。
右手には笛、左手には撫子、状況を認識できない紬を置き去りにして、笛はさらに変形を続ける。

伸びきった笛の先が扇子状に開かれ、虹色の薄幕が張られる。
扇子の左右端からは、まるでドラゴン花火のように火花が飛び散っていた。
茫然と頭上を見上げる紬の前で、火花を散らす両端が仕上げとばかりに瞬く。

――――瞬間、爆発。

「……………!?」

余りにも突然すぎる出来事に、声を出す余裕すらない。ふと気が付いてみれば、ふわりとした浮遊感が二人の体を襲う。
『ボン』という爆発音を残して、琴吹 紬と千石 撫子は学校の2階ベランダから空の彼方へと舞い上がっていった。




笛の正体、それは武田軍に所属するとある忍びが作成した『緊急脱出装置』である。
一度それを吹いてみれば、コンパクトサイズの笛がアッという間にグライダーに似た細工へと姿を変える。
上空へと飛びあがる推進力は、仕込まれた火薬による爆風だ。
いかな仕組みか、僅かな爆風でさえも見事な推進力へと変えて、装置は空中へと飛び上がる。

これが、少女たちを救った物の正体。
紬の背負ったディパックの中には、あと二つの笛と上記の説明が記された説明書きがあるのだが、現状それを確認する暇も余裕もない。
ただ、どんどん小さくなっていく校舎を見つめながら、紬はどうにか殺人鬼から逃れることができたのだと察した。
空中を移動するグライダーの速度は速い。少なくとも走りでは追いつくことができないだろう。
車やバイクなどの類だったとしてもどうだろうか。地上には随分と障害物が存在している。
何の壁にもぶつからずに空を飛ぶ自分たちを追うのは、やはり困難だろう。
そう、予想外の方法で、少女たちは学校からの脱出を、殺人鬼からの逃走をやってのけた。

だと、言うのに。

この脱出装置は、もともと一人乗りを目的として開発されたものだ。
元より忍びという存在は、単独行動で任務をこなすのが当たり前。
だからこそ、想定以上の重量を抱えたグライダーは、徐々に高度を落としていく。
いや、それには何の問題も無い。自分たちはただあの『浅上藤乃』という殺人鬼から逃れたかっただけ。
すでに校舎の影は随分と小さくなっている。もう1エリア弱の距離は取れていると見て間違いないだろう。
だから、このまま着地・不時着したとして何の問題も無いはずなのだ。

「う……くっ……!」

端正な顔立ちをゆがめて、紬は苦しげな声を上げる。
彼女の右手が掴んでいるのはグライダーの竹の柄、彼女の左手が掴んでいるのは撫子の手。
少女の両手に掛かる負荷は想像を絶する。もしも普通の女子高生だったらば、あっという間にどちらかの手は開かれてしまっただろう。
だが、そんな結果は齎されない。
その理由は、彼女自身の腕力が『普通の女子高生』以上だったからだ。
例えば、文化祭での公演に必要な思いアンプ類を、部室から体育館まで鼻歌交じりで平然と運んで見せたり。
合宿中の食材の買い出しで大量の買い物袋を両手に提げたままニコニコと帰ってきたり。
おっとりとしたお嬢様然とした容姿からは想像もつかないが、紬はかなりの腕力の持ち主だった。

だから、本来ならばさほど問題はなかったはずだった。
2人分の体重によって、グライダーが通常よりも早く不時着することも相まって、全てはいい方向に転がって行くはずだったのに。

この手を離す理由など、何一つ存在していないのに。

ぐ、と歯を食いしばる。
両手はもう痺れを感じるが、それでもなお自分を奮い立たせながら紬はさらに力を込める。
自分の力を両手へと集中させながら、ゆっくりと下を向く。
彼女が見つめているのはたった一つの懸念材料。ハッピーエンドを迎えるためには乗り越えなければならない、高い壁。

「………撫子……ちゃんっ!」

それをどうにかして打ち砕こうと、紬は手の先にいる少女に必死で呼び掛ける。

千石 撫子は、ただ虚ろな眼差しを彼女へと向けたままだった。
自分とグライダー、そして紬へとつながれているたった一つの命綱、紬と繋がれた右手には、ほとんど力が入っていない。
いかに人よりも腕力がある紬とて、握り返す力のない片手を掴み続けるのは困難だ。
もしも、撫子が健康体であったならば、その意識がはっきりとしていたならば、両の手をしっかりと握りあい、脱出することができたであろう。
だが、現実は非情だった。
まるでタイムリミットであるかのように、僅かずつ……ほんの僅かずつ…握っている本人ですら気付かないぐらいの速度で、2人の手は離れていく。

「お願いっ! しっかりして、撫子ちゃん!!」

そう呼び掛ける紬はすでに涙声だ。それもまた、無理のないこと。
彼女はとても友達思いで、心優しい少女だった。
たとえ撫子と話しができた時間が短くとも、彼女の話すアニメの内容がよくわからない物であったとしても、それでも共に過ごした時間は確かに楽しさを感じていた。
もしも、浅上藤乃による襲撃が無ければ新しく友達になれたかもしれない。
いや、今この窮地を脱することができれば、一緒に生還することができれば、きっとそれは叶う願いなのだ。
だからこそ紬は、藁にもすがる想いで撫子へと呼びかける。

「お願いだからしっかりして!! 私の手を……っ、離さないで!!」

対する撫子の様子は、まさに顔面蒼白といった所だった。
意識が散り散りになる。体に力が入らない。紬の必死の叫び声さえ、とぎれとぎれにしか聞こえない。
原因はたった一つ。殺人鬼・浅上藤乃が放った凶弾……撫子の左足を貫通した銃創。
そこから流れ出る血が、多すぎた。紬に手をひかれ、無理に走り回ったのがいけなかった。
もしもその場で、撫子がしっかりと傷の事を紬に告げることが出来ていれば…紬が、撫子の足の怪我に気づくことが出来ていれば……。
しっかりとした止血さえ出来ていれば、全ては丸く収まったのかもしれない。

しかし、全てはもう遅い。
賽は投げられ、レースは始まり、ギャンブルからはもう降りられない。覆水は盆に返らず、流れ出した血液(みず)は元には戻らない。
だから紬は、必死に自分にできることをする。
例えそれがどんなに頼りなくとも、効果を見せるのか不安でも、愚直にそれをこなし続ける。

「こんなところで死んじゃ駄目!! 頼むから…ちゃんと、私の手を握ってッ!!」

知らず知らずのうちに、その両目からは涙が溢れる。
こんな所で彼女を死なせたくない。せっかく逃げられたのに、手放すことなど出来ない。
悔しさともどかしさが形になったかのように、紬の涙は次から次へと流れ出す。
重力に従い下へと落ちていく水滴が、ポタリポタリと撫子の頬を刺激する。

……………く…い……。

それは、ともすれば風の音でかき消されてしまったかもしれない。
それほどまでに微かで、それほどまでに危ういモノだった。
けれど、紬は気づくことが出来た。

………た…ない…。

やはり、容易に吹き飛んでしまいそうな程微かに、それでも先ほどよりは強く。
再び、そよ風のような物音が紬の耳を刺激する。
息を飲みながら、彼女はその音の――いや、『声』の出所を見つめる。

「撫子……にたくないよ………ちゃん…」

その頬を、自分のものではない涙で濡らしながら、千石 撫子はそう呟いた。
顔色は今もなお悪い。現在進行形で血液が流れ続けている以上、それもまた当り前だろう。
瞳にはやはりぼんやりとした靄が見える。そこからは未だはっきりとした意思が覗いてはいない。
いや、そもそも…紬は、撫子が自分を見ていない気がした。
彼女の口から切れ切れになりながら、一部だけ自分の耳に届いた名前を思い起こす。
彼女が見ているのは、ほんの少し前にあったばかりの自分ではない。きっとそれとは比べ物にならないほど大切な誰かの姿だ。
それが、紬自身が大切に感じている『友達』のような存在の事なのか、それとも別の何かなのか、それはわからない。
けれど、そんな事はどうでもいい。重要な事じゃない。

大切なのは、重要なのは、千石 撫子という少女が必死に生きる意志を見せたという事。
自分が掴んでいる左手が、ほんの僅かに握り返されたのを感じて、紬は泣きながら笑った。


この重さは命の重さ。
重労働に悲鳴を上げる筋肉を無理に抑えつけて、紬は尚も彼女の手を握り返す。
より一層の力を込めたからか、グライダーの高度がさらに下がって行く。
もう少し、あと少しの辛抱だから。あと少しで、生き延びることが出来るから。
彼女の命の重さを痛みと共に感じながら、紬は歯を食いしばる。

この意味は生きる意味。
紬の予想通り、撫子は紬の姿を見ていない。朦朧とした意識の中で、自分が空を飛んでいることすら認識しているかも怪しい。
ただ、その手を離してはいけない事、もしも離してしまえば、もう二度とあの人に会えないことがわかっていたから、少女は意識を奮い立たせようとする。
己の生きる意味たるその名前を呼びながら、消えようとする意識をどうにかその身に縛り付ける。





そして。
風は、吹いた。





突然の突風。
風に乗りやすいように調整されたデザインのグライダーは、容易に激しいそれを受け止める。
装置が、跳ね上がる。急上昇する。負荷は容赦なく、少女たちへと襲いかかる。
風を予測することなど出来ない。あまりにも突然だったから、反応など出来るはずもない。

冷たい冷たい向かい風は、手の中の温もりすらも奪い取る。

決定的瞬間を目の当たりにしたとき、人は体感時間に著しいズレを感じるという。
例えば、自分に向ってくるトラックを茫然と見つめるとか、自分の頭部にぶつかる野球ボールの皺までもはっきりと認識したとか、そんな話をテレビで見たことがあった。
琴吹 紬は別に命の危機にあったわけではない。それが降りかかったのは、彼女の方だ。
だというのに、紬は彼女の顔を見つめている時間をとても長く感じた。

この時もまた、千石 撫子は紬を見てはいなかった。
もしも自分の事を見ていたのならば、どんな表情をしていたのだろうか。
怒りか、憎しみか、それとも怨みか、どんな感情を自分に向けたのだろうか。
撫子はただ、ほんの少し悲しそうな顔をして、呟いた。



「―――――――暦お兄ちゃん」



その一言を合図にして、スロー再生のスイッチは切られた。
一瞬にして、少女の姿が消えていく。先ほどの学校を遥かに凌ぐ速度で、小さくなっていく。
伸ばした手はもう届かない。流した涙も、届きはしないだろう。
ただ、彼女からは――グシャリ、という、命が尽きる残酷な音だけはしっかりと届けられた。

「……………………あ……」

己の手が掴むのは、最早冷え切った夜の空気だけ。
一人分の体重が減ったグライダーは高度を上げ、それに合わせてその身を切る風もまた強まる。

「あ、ああ……あああ……あ…っ…」

それでもなお、紬は手を動かせない。風によって、手の中に残っていた彼女の体温が急激に奪われていくのだけが恐ろしくはっきりとわかる。

「…う、そ……いや……こんな、こんなの……あぁぁっ……!!」

現状を認識できない。認識したくない。
直前に凄惨な死のイメージを見ているからこそ、あっさりすぎるそれを受け入れきれる事が出来ない。
けど、それでも、紛れもない現実は少女を攻め立てる。息苦しい。胸が痛い。どうして、どうしてこんな事に? 私たちが何をしたの!?

「――――――――――――――――ッッッッ!!!!」

混乱しきった彼女の口から出たのは、まるであの笛を吹いた時のような掠れた息だけ。
声にならない叫びは全て、残酷な月夜に吸い込まれていった。



【千石撫子@化物語 死亡】
【残り52人】


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059:凶壊ロゴス(2) 琴吹紬 096:血も涙も、街(ここ)で乾いてゆけ
059:凶壊ロゴス(2) 千石撫子 GAME OVER


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最終更新:2009年11月23日 23:05