序 ◆C8THitgZTg


そこは暗闇と呼ぶに相応しい空間であった。
外部からの明かりはなく、地下室なのか地上の密室なのかすら明瞭ではない。
天井も壁も見えず、無間の闇と見紛うばかり。
ただひとつ、床に置かれた鉄板だけが明るかった。
真っ赤に灼熱した大きな鉄板が、辺りを照らしあげている。


「動いたか――」


深すぎる闇と熔炉の如き光の境界で、荒耶は重い瞼を開いた。
一汲みの水が赤い鉄板へと自動的に注がれる。
水は瞬時に加熱され蒸発し、上昇気流に乗って舞っていく。
ちらつく赤光が、荒耶の彫刻じみた面差しに陰影を作る。
もはや他の表情を忘れたとしか思えないほどに、苦悩を刻み込まれた貌であった。


「争い合う者達ではないと思っていたが、こうも想像通りとはな」


荒耶は意識を飛ばした先で知覚した情景を思い起こし、低く呟いた。
この体内も同然の異界において、荒耶は他者にはない知覚を持つ。

ひとつは、生じた異変を感じ取る常時の知覚。
ひとつは、意識を飛ばすことで得る知覚。

前者で得るのは、参加者の大まかな位置と生死。
ここが体内である以上、内部の状況は把握できて当然である。
小川マンションにおいて、コルネリウス・アルバの死と、彼が死んだ場所を即座に把握したように。

後者で得るのは、その場で監視するも同然の情報。
肉体の昏睡というリスクはあれど、状況を仔細に確かめることができる。
アルバが果てた後、戦場となった一階ロビーへ意識を飛ばし、事の顛末を確かめたように。

どちらも彼だけに許された多大なアドバンテージである。
そしてつい先ほどまで、荒耶は後者の知覚を用いてD-6駅の周辺を監視していた。
目的は無論、両儀式
付近にいたのは、セイバーデュオ・マックスウェル、枢木スザク、真田幸村、阿良々木暦の五人。
どれも無益な殺戮を肯定する者ではない。
この程度のことは、事前の情報と前者の知覚のみでも知りうることだった。
荒耶が求めていたのは、両儀式の行動指針である。
そこを把握しておかなければ、今後の活動に障りが出るからだ。

結局、彼らは巨大な集団を成すことなく別れていった。
両儀式とデュオ・マックスウェルは共に北へ。
枢木スザクは単独で西へ。
セイバーと阿良々木暦、真田幸村らは駅に残留。
最も望ましいのは両儀式が単独行動することであったが、これ以上は求めるまい。
万が一、セイバーと行動を共にされていたら、攻め落とすことすら至難であっただろう。
それを考えれば随分と楽なものだ。

「だが移動速度の上昇は厄介だ。奴らめ、余計なものを用意する」


荒耶は毒づき、音もなく立ち上がった。
計算外のことがあるとすれば、車両による移動だ。
列車の運行が停止したため、当分は駅周辺から離れまいと踏んでいたが、計算を改める必要があるだろう。
『主催』と一口に言ってもその内情は一枚岩ではない。
会場を創った荒耶の仕掛けを他の者が知らぬように、他の者が用意した部分を荒耶は熟知していない。
担当した者が自分自身の利益を求め、どんな仕込みをしているか知れたものではなかった。
支給品などがそのいい例だ。
自分が選定に関与していたなら、蒼崎橙子など決して紛れ込ませてはいない。
よもや他の主催こそが抑止力ではあるまいな――
荒耶は嗤うこともせず呟いた。


「ならばこちらも動くのみ」


異界に関しては荒耶がほぼ掌握している。
この肉体が滅びるという不測の事態への備えこそあれ、常に主導権は荒耶にあるのだ。
例えばこの工房もそうだ。
荒耶が支配する、荒耶だけの領域。

水が弾け、蒸気に変わる。
上昇気流に乗った水蒸気は、どこかに吸い込まれるように消えていった。

腕を伸ばし、五本の指を順に握りこむ。
そのまま肘を折り畳み、だらんと垂らす。
肉体の機能を確かめるような動きを繰り返してから、荒耶は口を開く。


「六割――いや、七割か。やはりそう早くは馴染まぬとみえる」


制限――
多くの参加者に架せられた、力の差を縮めるための措置。
だが、荒耶のそれは通常の制限とは異なっていた。
端的に言えば、肉体そのものが制限の発生源なのだ。
蒼崎橙子ほどではないが、荒耶も人形を創る技術には長けている。
今まで使ってきた数多くの肉体と同様、この身体もそうして創り出したものだ。
新しい身体に乗り換えたときは、いつも馴染むまでに時間が掛かる。
その期間こそが荒耶に付与された制限の正体。

ぷしゅー、と蒸気の音がする。
ごぽごぽ、と泡立つ音がする。

荒耶は、参加者であると同時に主催者である。
本来なら、安全な場所で異界の管理を行うべき立場にありながら、あえて戦場に踏み込んでいるのだ。
このような奇行が怪しまれないはずがない。
故に、荒耶は他の主催達に偽りの理由を伝えていた。

『死の観察と蒐集』

殺し合いという特異な状況において、人がどのように人を殺し、どのように死んでいくか。
またその際、魂がどのような様相を呈するのか。
それを調べる魔術的研究であると法螺を吹いたのだ。
この空間も研究に使う工房という名目で用意した。
異界の中において更に特別。
不信感を抱かせぬため、存在自体は奴らに教えてあるものの、干渉の困難性は群を抜いている。
恐らくは如何なる方式の監視であろうと受け付けまい。
当然だが、死の蒐集で荒耶の本来の目的は達成されない。
そんなことはとっくの昔に分かっている。
しかし典型的な俗物である遠藤は、自分に縁のない哲学的なことだと解釈し、嘲笑混じりに参加を了承した。
禁書目録は実験の成果を疑問視したが、害のない研究であると判断し、最終的にはこれに応じた。
ただし本来の目的を妨げないための処置として、荒耶に一つの条件を提示してきた。

馴染みにくい身体を使うこと。

何か別の目的があると呼んだのか、最初から殺し尽くされては困ると考えたのか。
或いは、時間が経つほど制限が緩んでいく殺害者という形式を望んだのか。
いずれにせよ飲めない条件ではなかった。
それが荒耶の制限。
時間の経過で消えていくハンディキャップ。


「感覚機能は――以前よりは良好か」


肉体の機能をあらかた確認し終える。
まだ完全には遠かったが、これまでよりは格段に良くなっているようだ。
不完全だった霊的感覚も戻りつつある。
御坂美琴を仕留めるのに手間取り英霊の介入を許したことや、中野梓の変化に戸惑ったような醜態は二度とないだろう。
そろそろ、本格的に動き出すべき頃合かもしれない。
荒耶は鳥篭大のガラス壜を台の上に置いた。
眠るように目を閉じた橙子の首が、液体の中でふわふわと浮かんでいる。


「蒼崎、貴様はそこにいろ。連れ歩いて死なれるわけにはいかん」


偽ることは厄介だ。
偽りを隠すため、更なる偽りを重ねなければならない。
荒耶は暗がりに置かれた筐へ視線を移した。
柱のような、人間を収めて余りある大きさの直方体。
美しい棺を思わせるそれを、焼けた鉄板が照らしている。
妖艶な赤に染まった溶液の中に浮かぶ、標本の少女――中野梓。
荒耶によって殺された少女は、荒耶によって肉体を保存されていた。
首輪はなく、代わりに縫い目が首を巡っている。
一度切り離された上で、肉体の機能を維持させるために繋ぎ直されたのだ。
人間としては死んでいるが、有機機械としては稼動しているという、境界の状態。

こぽりと、肺に残っていた空気が泡となる。
呼吸ではない。
抜け切れていなかった分が漏れただけ。

実験という名目で動いている以上、その行動は実験目的に即したものに見えなければならない。
喩え、蒼崎橙子の首の保管と両儀式の観察が主な目的であっても、手ぶらで研究室に向かったのでは怪しまれる危険がある。
そこで、他の主催に研究行為を強調する隠れ蓑として、荒耶は中野梓の亡骸を持ち込んだ。
『死の観察と蒐集』という命題と死体の確保は違和感無く合致する。
中野梓の亡骸が工房にある限り、工房へ戻るという行為への違和感が消滅するのだ。
杞憂かもしれないが、警戒を重ねるに越したことはない。
またカムフラージュ以外にも理由はある。
参加者の身体に何か仕掛けられていないか、それを調べるためのサンプルとしても使うつもりである。
他の主催が何を目論んでいるか分からない以上、慎重に慎重を重ねなければならない。
首尾よく両儀式を捕らえたとして、彼女の肉体に仕掛けが施されていたのでは堪らない。
いざという時に備え、調査用の肉体を確保しておく必要があったのだ。
だが死んだ細胞では作動しない仕掛けも考えられる。
中野梓を保管、修復したのはそのためで、調査をする前に組織が駄目になっては困るからだ。
また、本物の首輪を手に入れられたのも喜ばしい。
荒耶が付けているのはダミーの首輪であり、飾りも同然だ。
主催側であることが理由に挙げられていたが、実際のところは、解析試料を与えたくなかったということだろう。
他にも使いどころは色々と思い浮かぶ。
それにしても。
生きていた頃は無為であり、死して初めて役に立つとは、随分な皮肉ではないか。

荒耶は踵を返し、暗闇へ歩を進める。

偽りを隠すために偽りを重ねる。
いずれはそれが綻びとなり、真実を曝け出す。
しかし露見を先延ばしにすることは可能だ。
偽りが目的ではなく手段であるなら、露見する前に目的を果たせば良いのだから。

壁の前で立ち止まる。
うぃん、という機械音が鳴り、暗闇が裂けていく。
本来ありえない深さまで降下したエレベータが、異界の主を迎えるべく扉を開いたのだ。


「ゼロ――いや、張五飛。邪魔になるならば――」


ここへ来る前に聞いた宣誓を思い出す。
正体を偽っていたようだが、荒耶を誤魔化し切ることはできない。
影響がないのであれば、わざわざ始末するまでもないだろう。
だが、仮に――






扉が閉じ、再び光が消え失せる。
魔術師が消えた研究室に、蒸気の音が響いていた。

【E-5/展示場 地下/一日目/早朝】
※展示場の地下深部に荒耶宗蓮の研究室が秘匿されています
※「蒼崎橙子の瓶詰め生首@空の境界」が研究室内に放置されています



【荒耶宗蓮@空の境界】
[状態]:健康
[服装]:黒服
[装備]:ククリナイフ@現実
[道具]:デイパック、基本支給品、鉈@現実、不明支給品(0~1)、不明支給品(0~1)
    S&W M10 “ミリタリー&ポリス”(6/6)、.38spl弾x53、不明支給品(0~2)、
[思考]
基本:式を手に入れ根源へ到る。
1:式を追って北部へ赴く。
2:必要最小限の範囲で障害を排除する。
3:利用できそうなものは利用する。
4:ゼロ(張五飛)については判断を保留。

※首輪はダミーです。時間の経過と共に制限が緩んでいきます。
※ゼロの正体に気付いています。



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093:存在 荒耶宗蓮 112:ウーフェイ再び


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最終更新:2009年11月30日 11:11