17◇一発殴る
感情は液体です。
だって、溢れるものだからです。
沢山の蛇口が付いた大きな大きな容器に入っている感情は、
”喜び”って書いてある蛇口や、”悲しみ”って書いてある蛇口を捻ることで出てくるんです。
こんなふうに、きゅっと。
いま私が捻った蛇口は、ちょっと前は”悲しみ”の蛇口だったらしいです。
でも《楽しい》って蛇口のラベルに書いてあるから、私は楽しくなる。
口が歪んで、こころがうきうきして、涙が出てきそうになって、
思わず私は目の前でうずくまっている髪の薄いおじさんに向かって汚い言葉を吐いてしまいます。
「あはっ、《ぶざまですね》、髪の薄いおじさん。死体をまだ守るんですか?
意味なんてないのに。自分が死んでしまうのに! 本当に――ばかですね!」
おじさんから返事は返ってきません。
まだかすかに動いているから死んではないと思います。
洒々落々さんに《落として》もらい、音もなく着地した一階で、抱き合っていた二人の男女。
その男の人のほう、名前も知らないけど髪の薄いこの人は、
さっき私が頭をかちわってあげた女の人の死体をいまだに抱きかかえたまま、私の《りんりんソード》を受け続けています。
もう、何度も何度も斬ったのに。
死んでしまった女の人を抱きしめたまま、されるがままにされているんです。
それはまるで、私が憧れ《て、いなかった》姿で。
見ているだけで鳥肌が立って、あたまの中でちかちかと光が鳴って、苦しくて。
だからまた、振り下ろすんです。
一撃で死んでしまわないようにじわじわと――とっても悪いやりかたで、逆にこいつらを苦しめてやるんです。
そうだ……だから。
《私が苦しんでいるのは、おかしいんです!》
「ぐあはぁっ……!」
「まだですか。痛いんじゃないんですか。苦しいんじゃないんですか?
私はさっきから、あなたが逃げられるだけの隙は与えているつもりです。なのに、なんで逃げないんですか!
……また斬ります。今度は右腕、次は左腕を順に落としてあげます。
だからこれ以上、良い事なんかしないで――その死体を見捨てて逃げてください!」
私が何を言っても、何回叫んでも、髪の薄いおじさんはぴくりともしません。
もう死んでいるのかもしれない、そうだったらいいのに、いいやダメなんじゃないか、頭の中がぐるぐる回って、
お酒を飲んでいるみたいな感覚になっていきます。
実際、私はお酒を飲んでいます。
酒々落々さんと出会ったあの駐車場で。そのあとの、あの男子トイレで。
でも、お酒を飲んでいる時のぐるぐるは気持ちいいのに、いまのぐるぐるは違います。
例えばそう、父や母に叱られて、
でもなんで叱られているのか分からなくて、顔をむすっとさせるしかないあの時みたいです。
父の記憶も母の記憶も消されているので例でしか言えませんが、
そんな感じで――いらいらして、むかついて仕方なくて、平たく言えばそう、理不尽なんです。
「理不尽なんですよ! 私はただ、《悪いことをしたかった》だけなのに!
うう、何で、何でですか? 清々しい気持ちになるはずの行為で、どうして私はこんなに苦しいんですか?
――いいえ、楽しいんです! 今にも泣きだしたいくらいに私、この行為を楽しんでる!
楽しんでいるのに、なぜか苦しいんです! 苦しまなくていいはずのことで、何で……教えてください!
教えてよ! うああ、あああ!」
目をつむった私はひときわ高く《りんりんソード》を掲げました。
これを振り下ろして、もやもやした気持ちと一緒にこの人も殺せばいい、そんな思いを込めて掲げました。
本当に、感情が液体だとするなら。
この時私は、私の心の許容量を超えた感情を溢れさせていたのでしょう。
いっぱいいっぱいすら超えてしまった、氾濫の様相でした。
でもその時、気の抜けたような電子音がして、
スピーカーを通したような奇々怪々さんの声が店内放送を始めて、剣が振り下ろされることはなくなりました。
名前が、呼ばれたんです。
心機一転さんの、名前が。
◇◇◇◇
「……ここまで、だな」
わずらわしい”店内放送”とやらが終わったと思ったら、
威勢よく剣を振り上げていたちびっこが魂が抜けたようにして床にばたりと倒れた。
吹き抜けの二階から茶番すぎる殺人劇を見ていたおれは、その顛末を見届けると小さく舌打ちをした。
つまらない終わり方だ、と思ったからだ。
――酒を飲んで過ごしていたらやってきたちびっこ、勇気凛々は、
何故かは知らないがちょっと狂った思考を持っていた。
少年漫画を読んで過ごしたかのような思考回路の、その一つ一つを逆さにしたような考え方。
”善”にすべきことを”悪”にし、”悪”にすべきことを”善”とする、
催眠術にでもかかったかのような異常性を会話の端からおれが感じ取るのに、大した時間は要らなかった。
しかしそこでそれを矯正しようとするほどおれはいい大人ではない。
おれは勇気凛々の、破たんした、逆さまの思考を逆手にとり、悪いことを教えた。
悪いことって何かって?
18になるまでは教えられねえかなあ、ぐはは。全年齢板だしよ。
まあ、性根は真面目な子なんだろうちびっこが、
なんか腑におちないような顔をしながらも”悪いことの気持ちよさ”に溺れていくさまは、
このおれが心を芯から震わせるほどに扇情的な姿だったとだけ言っておこう。
いやいや全く、役得だった。
親戚の×××は女子高生を襲ってこの前警察に捕まっていたが、これはあいつにも自慢できるだろうな。
……だが、今の劇は少し拍子抜けだ。
すっきりしたことだしもうちょっと遊んでみよう、と思って実際に悪いことをさせてみたわけだが、
勇気凛々は自分の破綻した思考に耐えられる精神力を持っていなかったらしい。
おれのルール能力でサポートしてやって一人を殺すところまではよかったが、
残った中年の男のほうが死体を守ろうと抱きかかえたあたりから変に様子が変わってしまった。
それでも割と面白い展開になっていたが、ぷつんと糸が切れたように倒れて終わりとか。
ぜんぜん面白くない。
「人間ってのは、ときに採算度外視の行動を取ったりするもんなんだがな。
このちびっこの考え方はどうも硬くていけねぇや。
”そんなことをする人がいるわけない”って奴に出会っちまったときの対処法も教えとくべきだった。
まあ、一人殺して、もう一人も再起不能にした。金星じゃねえが御の字だ。
もうちょっとトイレで教育してやらなきゃいけねぇようだが、これくらい働いてくれりゃあいい。
最後におれが生き残るために、使わせてもらうぜ、お嬢ちゃん」
中央階段を下りながら、おれは床に伏すちびっこに話しかけた。
喋った内容は比喩ではない。
おれはただ、勇気凛々を、この何にも分かっていないちびっこを道具として使うと決めていた。
欲望のままに犯し、どろどろにして罪を重ねさせ、依存させて、おれが居なければ生きていけなくする。
そして利用するだけ利用して、最期にはきっと切り捨てて殺す。
酒を飲むのと同程度に、おれの中でそれは楽しいと思えた。
とりあえず教育は後だ。今は眠っていてもらおう。
念のためおれは、自らのルール能力を使ってもう少し強めに《操作》をしておく。
――デイパックに残った酒瓶は二本。使うのはそのうち一つ。
おれが《操作》できるのは洒々落々の名前通り、酒だ……と思いきやそうではない。
正確には、酒が酒たるゆえんの物質。《”アルコール”を操ることができる》、のだそうだ。
ルール能力発動の合図は、酒瓶をラッパ飲みすること。
「ん……っくい~♪」
ごきゅ、ごきゅと気持ちいい音をさせて喉を流れていく酒は、この時にかぎり胃には溜まらない。
《皮膚に溜まっていく》。目には見えないだろうが、感覚としてはそんな感じだ。
飲み終わり、空になった瓶をデイパックにしまう(これはこれで別の用途がある)と、
おれはいつもと違う場所に酒が溜まっている不思議な感覚に酔いしれた。
さあ、ここからがルール能力の使いどころだ。
《皮膚に溜まった酒は、おれの任意で皮膚の汗腺から霧状に放射され――酒の霧もまた、おれの任意で操れる》。
おれは《酒の霧》をそれなりの量だけ出して、まずは倒れているちびっこの方に向かわせることにした。
桃色の霧がおれの身体から沸き立って浮遊する。スピードは遅くはなく、すぐちびっこにたどり着く。
ちびっこの周りを包むようにして漂わせた《酒の霧》を、おれはさらに《操作》。
鼻から吸わせるようにして、おれはちびっこの体の中へ霧を侵入させた。
「あ……ひゃうっ。あっ」
「あらら、起きたか? 霧とはいえ、やっぱ異物が入ってきたら感じるもんなんだな。
でも今は寝とけよ。お嬢ちゃんが殺し損ねた男は……おれが殺しといてやっからよ」
突然だが、人がなぜ酔うのかのメカニズムを完全に説明できるやつは意外と少ない。
おれも全部分かっているわけじゃないが、”アルコールが回る”という言葉ならだいたいのやつが分かるはずだ。
言ってしまえばおれのルール能力は、アルコールを回す能力。
ちびっこの体内に侵入させた《酒の霧》はアルコールで出来ている。これをちびっこの頭に回せば、どうなるか。
しびれるのだ。アルコールは脳に回るとその機能をマヒさせる。
案の定、一度起きたようなそぶりを見せたちびっこは、眠り姫のようにすとん、とまた落ちた。
初めて使ってみたが、このルール能力も意外と使えるな。
「さて、次はこっちだ」
おれは次に、ちびっこが殺せなかった男のほうを向く。
ちびっこに対しては昏睡させる程度の量しかアルコールを入れなかった
(これでもけっこう危険だ。あとですぐに抜く)が、こっちの男の方にはもっと別のアプローチをかける。
急性アルコール中毒、という言葉を知っているやつはまあ多いだろう。
一気に酒を飲むことによって肝臓の許容量をアルコールが越え、脳が完全にマヒして心停止とかになる症状。
なったことはないから分からんが、確かそんな感じのアレ。――おれのルール能力なら、起こせるはずだ。
ナイフも毒も使わない。最も安価で安全、かつ確実に殺すことが出来る。
試さない手はない。
おあつらえ向きなことに、死にかけの男は肩で息をするのみでもう動けないようだ。
本当に馬鹿な男だ。
せめて反撃の一つでもすればいいものを、この男、
どうみても死んだと分かる連れの少女を守り抜こうとしていた。
不意打ちぎみに目の前で仲間を殺されて動転していたか、生きていると信じるほどに追いつめられていたか、
もう喋る気力もないらしい今となっては聞くことも叶わないが……”放送”は終わった。
連れの少女の名前も呼ばれただろう。少女が死んだということを耳で理解させられたはずだ。
「大丈夫だ。すぐに仲間のとこに連れてってやらぁ。痛くもないし、一瞬だ。
おれしか見てないから、安心して逝けや」
端から見たら、この言葉はある種の慈悲に見える。
実際にはちびっこを眠らせたのは、おれしか男の死にざまを見ていない状態にするというより、
ちびっこにおれのルール能力と殺人方法を知られないためっていう側面が強いが、まあものは言いようだ。
《酒の霧》が再び現れる。今度は、さっき飲んだ分の残りすべて。
摂取すれば確実に冥土に旅立てる量のアルコールだ。
酒には強い、弱いがある。
アルコールを分解する酵素の量の違いがその強弱を決めるのだが、
いくら酒に強かろうと、おれの《酒の霧》はそもそもアルコールを分解する肝臓を通らない。
犯したい部位に直接染み込ませるから、どれだけ酔いに強かろうが弱かろうが関係が無いというわけだ。
ふわり、と進む桃色の霧が、血まみれの男の周りを囲む。
なんで色が付いているかは知らないが、無色より操りやすいのはいい。おれは霧を《操作》し、
見るも哀れな男に引導を渡してやろうと――確かに、そうしようとしたはずだった。
不思議なことが起こったのは、その次の瞬間だった。
「あ?」
《霧が弾かれた》のだ。
いや、弾かれたって表現は適切さに欠けていた。かき消された、というほうが近い。
《酒の霧が、かき消された》。
それも、動けないと思っていた血まみれの男の手がほんの少し虫を払うようなしぐさをしただけで。
どういうことだと思っていたら、不思議な現象はさらに続いた。
無言で、男が立ち上がったのだ。
「 」
「……おいおい、何の冗談だ?」
問いかけてみたが、返事はない。
ベージュのスーツを自分や連れの少女の血で汚した男の姿は、まるでゾンビのようだった。
目に光が無い。
――自分でもなぜ立ち上がれるのか、なぜいまさらになって立ちあがるのか、全く考えていないような。
あるいは、考えることさえしていないような。
そんな佇まいをしている。
男は深く息を吐いた。
すると、ごぼごぼ、と嫌な音を立てて、男の口からどろりとした血のかたまりがよだれのように出た。
しかしそんなことは意に介していないらしく、男が次に取った行動はまたおれを驚かせた。
少女を。
頭を割られ、死んでしまった少女を床に寝かせ、腕を聖女のように組ませて。
弔いとばかりに両手を合わせ、黙とうを始めたのだ。
おれが見ていることくらい知っているだろうに、もう男の目はおれを見ていないようだった。
……なめてんじゃねえぞ? 恐れを知らん若者だったらこう言うところだったが、
生憎おれは酸いも甘いも知ってしまった人間。すでに、《酒の霧》が弾かれた理由に目星はついている。
「おい」
「 」
「無視すんなよ、ゾンビおじさん。無理して動いてまで仲間の弔いたあ、ご苦労なこった。
だけどもう限界だろう? 酒でも呑んで一旦休戦といこうぜ? この銘柄、名も知らなかったが美味なんだ」
「 」
「……なんてな。分かってるよ。あんたの名前は軽妙洒脱。
つまりそのルール能力が、おれのアンチ……《酒を脱する》能力でもなんらおかしかねぇ」
反応はないが、つまりそれは肯定とも取れる。
おれからしたらほとんどこの推測は確信に近かった。
ルール能力は能力である前にルール。破るにはルール能力しかないのだから。
そう、軽妙洒脱……この男がここに来ておれに余裕を見せたのも、”おれのルール能力”を知ったから。
自分のルール能力がおれのルール能力を完封できるものだと、勘違いしたからだろう。
「だが甘い、ぜ。チューハイ程度にな」
おれはようやくこちらの方を向いた男に見せつけるように、デイパックからあるものを取り出した。
空になった酒瓶。二本。
言ったはずだ、酒瓶もあとで別の用途に使うって。
それに、言ったはずだ。おれはちびっこが、勇気凛々が二階から一階に飛び降りるのを”手伝って”いる。
《アルコールを操る》能力でそれが出来るか? 否。
つまり導き出される答えは一つだけだ。
「おれのルール能力は二つある」
――ルール能力は、一人に一つとは限らない。
おれは酒瓶をジャグリングを始める奇術師のように両手に持つと、それを高く、高く放った。
放られたものは落ちてくる。
《酒瓶は空中でぶつかり、派手な音を立てて破片となりながら――軽妙洒脱の方へ向かって降りそそいだ》。
ガラスで出来たそれは人を殺すための流星雨。
洒々落々の《酒》ではない方、《落》のルール能力。
だが、完全に不意を打ったはずのおれの攻撃にも、軽妙洒脱は姿勢を崩さなかった。
目を遠くに泳がせたまま、血まみれのスーツでその場に立ち尽くす。断罪の時を待つ囚人でもこんな寂寥感は出せない。
なのにその口だけが動いた。
おれとちびっこが襲撃をかけてから、声も出せなくなっていた口がここで喋った言葉は、
漢字にすれば四文字で表せるとても短い言葉。
「……一発殴る」
その言葉とともに、軽妙洒脱は悲劇的に笑い始めた。
握りしめた拳が硬すぎて、笑うしかなかったんだろうとおれは思っている。
【B-1/娯楽施設・中央大通り一階】
【軽妙洒脱/ショー芸人】
【状態】全身に多数の裂傷、精神衰弱
【装備】なし
【持ち物】基本支給品、壊れたレーダー、包丁×2、二日分の食糧、
ショーに使えそうな楽器、金属バット、フライパン
【ルール能力】詳細不明
【スタンス】一発殴る。
【勇気凛々/女子中学生】
【状態】昏睡
【装備】なし
【持ち物】化粧用の手鏡、ボウガン
【ルール能力】勇気を出すとりんりんソードを具現化できる
【スタンス】気絶
【酒々楽々/わるいおじさん】
【状態】笑うしかねえぜ
【装備】なし
【持ち物】酒瓶×1、空の酒瓶×7
【ルール能力】酒◇アルコールを操る。落◇詳細不明
【スタンス】適当。りんりんで遊ぶ
用語解説
【勇気凛々】
失敗や危険をかえりみず、勇敢に物事に立ち向かっていくという意味の四字熟語。
そういう勇敢さはときに見ていて危なっかしい。
四字熟語ロワでは、勇気の剣を操る女子中学生にして、最年少参加者。
彼女自身がネーミングした《りんりんソード》を振るうは悪い人、いや良い人?。
最終更新:2012年01月26日 15:41