「くそっ!」
がんっ、と音が響き渡る。
吐き捨てた言葉と共に打ちつけた拳は、灰色のコンクリートを叩いた。
照明の落ちたビルディングの中、僅かな月明に照らされるのは、炎のように燃える赤。
紅髪の少女――佐倉杏子は、苦々しげな表情を浮かべ、無人の部屋に立ち尽くしていた。
「マミさん……」
小さく口を突いて出たのは、絶えて久しかった呼び名だ。
巴マミ。
見せしめに選ばれた生け贄の女。
行くあてのなかった浮浪児の自分に、優しくしてくれた歳上の少女。
ふとしたことですれ違い、疎遠になってしまった人。
それでも一時に比べれば、関係は修復されてきたと思っていた。
だとしても、まだちゃんとした形では、仲直りできたとは思っていなかった。
その機会は彼女の命と共に、永遠に喪われてしまった。あの無慈悲な爆音が、全て吹き飛ばしてしまったのだ。
「畜生……畜生ッ」
ずるずる、と握り拳が降りる。
ゆっくりとくずおれて座り込む。
こんな感覚は久しぶりだった。
涙など当に枯れ果てたと、他人など当に切り捨てたと思っていた。
マミとの復縁を望むことなど、女々しいこだわりじゃないかと、自身を嘲笑っていたつもりだった。
そのはずが何故、こんなにも堪える。
ただ一人の死に、こんなにも震える。
かつてそこにあったぬくもりが、かつていた者との永別が、きりきりと胸を締め付けていく。
(……駄目だ。思考を止めるな)
そうなれば今度は自分が死ぬ。
そう自分に言い聞かせて、無理やりに思考を動かそうとする。
彼女が死んでしまったのは悲しい。だが自分も死んでしまっては、元も子もないだろうが、と。
ともかくも今考えるべきは、どうやってこの場を脱出するかだ。
手っ取り早い方法は、やはり優勝することだろう。自分の性分からしても、それが一番だと思える。
他人を犠牲にすることなど、いつでもやってきたことだ。
倒せるはずの使い魔を見逃し、魔女となるのを待ったことなど、一度や二度ではなかったはずだ。
簡単なことじゃないか。いつだってそれが一番と信じ、今までやってきたことじゃないか。
(……だけど……)
だけど、それは。
(それはあの子を殺してまで、突き通すべき道なのか……!?)
脳裏にちらつくのは緑の影だ。
観覧席から聞こえてきた、幼い少女の上げる悲鳴が、鼓膜を貫き突き刺さる。
千歳ゆま。
魔女の結界の痕跡から、自分が拾い上げた小さな娘。
自分と同じように両親を亡くし、天涯孤独となった少女。
生前の妹を喚起させ、その存在に多少なりとも、拠り所を感じていた少女。
この場にいたのは、杏子だけではなかったのだ。あの32人の観客の中には、ゆまの姿もあったのだ。
揺らぐはずがないと思った決意を、たった1つの存在が、何よりも強固に揺さぶっていく。
(ゆまは……あいつにはこんな所で、ふざけた死に方をさせたくねぇ)
あれは喪われるべきではない命だ。
あんなにもあどけない笑顔を浮かべる、あんなにも哀れで幼い少女が、ここで死んでいいわけがないのだ。
しかし、彼女を守るためには、どうしても自分の命が障害になる。
自分の命が絶たれなければ、彼女は優勝して生き残ることができない。
逆に自分が生き残るには、彼女の命が邪魔になる。
(どうすればいい)
優先すべきは、己か、ゆまか。
愛すべきあの少女を殺してでも、この糞ったれな命を永らえさせるか。
たかだか赤の他人のために、自らの人生に幕を閉じるか。
(あたしは――)
「――そんな所で何してるんだ」
はっ、と。
聞こえてきた声に、向き直る。
突き刺さってきた言葉の針に、反射的に刃を返す。
ソウルジェムから具現化したのは、己の魔法少女としての武具。
白銀と真紅で彩られた槍が、振り返る動作と共に突き出された。
「……何だこりゃ、手品か?」
杏子の視線の先にいたのは、自分よりいくつか歳上の少年だ。
窓から差し込む月明かりは、青い制服と茶髪を映す。微かな光を照り返すのは、耳に嵌められたシルバーのピアスか。
恐らくは高校生くらいの男子だろう――それが目の前に現れ、僅かに面食らっている少年の姿だった。
「チッ」
見たところ殺意や敵意はない。どころか、戦う用意すらない。
拍子抜けだ、という悪態を込め、舌打ちと共に武器を引っ込める。
槍の穂先が光となって、まばたきの間に霧散した。
「別に、説明したって分かるもんでもねぇよ」
「そうかよ。なら、また後で聞かせてもらうとするかな」
スカした態度だ。気に入らねぇ。
そんな第一印象を抱きながら、杏子は頭上の少年を睨む。
肝心の茶髪の少年はというと、もうすっかり平静に戻ったという様子で、くい、と顎を動かした。
どうやら「立て」と言っているらしい。
今の自分の、情けなくへたり込んだ状態を思い出し、素直に従って立ち上がる。
「さっきの話は聞いてただろ。あんな風に無防備でいたら、命がいくつあっても足りやしないぞ」
「ハ……知ったような口聞きやがって」
「ある程度は知ってるつもりさ。軽く5・6回は死にかけてる、だそうだからな」
よく言うぜ、と。
肩を竦める少年に、胸の内でツッコミを入れた。
どれだけ注意深く見てみても、取り立てて体格に恵まれてもいない身体だ。
その上武器も持たずして、戦場をふらついていたと来ている。言葉通り、修羅場をくぐってきたようには思えない。
「自己紹介がまだだったな。俺の名前は鳴海歩だ」
「……佐倉杏子」
あまり関わり合いになりたくはなかったが、さすがにそれを無視するのは失礼だ。
それに無視したら無視したで、ねちねちと追及されるかもしれない。
故に歩という少年に対して、杏子は一拍の間を置いて名乗り返した。
「それで、アンタこそ何考えてんだよ? こんな
殺し合いの場で、無防備のまま話しかけて来やがって」
意趣返しの言葉を投げ返す。
自分がもしもその気だったら、こんな餓鬼は瞬殺だ。
仮に魔法少女でなかったとしても、銃の1つでも握っていたら、歩の命はなかっただろう。
そんな極限状態で、暢気に他人に話しかけるなど、それこそ修羅場慣れした者のやることではあるまい。
「いや、一目で分かったよ。お前は実験に乗る気はなさそうだ、ってな」
「なっ……ざけんじゃねぇ! 誰がそんなっ!」
図星を突かれた。
当たらなかったとしても遠くはなかった。
まるで見透かされたようで、思わず反論の叫びを上げる。
「あんまり声を荒げるなよ。誰に聞かれるか分からない」
対する歩はというと、冷静そのものな動作で、手近な椅子に腰かけた。
どうやらここは、どこかの会社のオフィスだったらしい。業務用のデスクや椅子が、あちらこちらに転がっている。
「ほら、座れよ」
その方が落ち着く、と歩が言った。
全く、さっきから立てだの座れだの。私にどうしろというんだ。
そんな不平を内心に押し込め、渋々と杏子もまた椅子に座る。
「そうだな……それじゃあ、さっきの質問の答えから話すか」
どうやらその度胸だけは、並外れていると言っていいらしい。
見るからに一般人でありながら、2度もの殺人現場に居合わせてなお、その態度からは余裕が消えない。
槍の時のあれはノーカウントだ。あの時の動揺は、微妙に動揺の傾向が違う。
「俺の目的は、この実験場からの脱出だ。そのためにも、一緒に戦ってくれる仲間を探してる」
「実験場からの脱出だぁ? それ、本気で言ってるのかよ?」
「大いに本気さ。もしもまともな戦いになれば、俺にはどうやったって勝ち目はないし、となると生き残るにはこれしかない」
そんなに胸張って言うことかよ。
「……やめとけ。相手の手の内全部が分かるわけじゃないが、アンタじゃ奴らには敵わねぇよ」
そんなどうでもいいツッコミはせず、杏子は警告のみを口にした。
魔法少女という、超常の力を持つからこそ分かることだ。
こちらにその瞬間を認知させず、自分を拉致したその手際。
人1人を一瞬にして蒸発させる、巨大な竜の火炎放射。
しかもそれほどの技ですら、まだまだ全容ではないのだろう。
要するに、奴らの持つ未来の技術とやらは、超人・魔法少女の力すらも、明らかに凌駕しているということだ。
だからこそ反攻の選択肢を、杏子は考えもしなかったのだ。
ましてやただの学生にしか見えない歩が、太刀打ちできる相手ではない。
「ああ、あの黒い竜のことか? あれだって呼び出す前に止めれば――」
「それだけじゃねえ。それ以上の切り札を隠してる可能性だってあるんだ。まともにやり合うのは無謀すぎる」
「何を怖がってるんだよ、お前は?」
「! び、ビビッてなんか!」
正解だ。
YESかNOかと問われれば、YESと返すしかないだろう。
だからといって問いが問いだ。自分が奴らを怖がっているなど、そう簡単には肯定できない。
頬に熱を感じながら、思わず声を荒げて反論した。
「いや、別にそれでもいいんだ……怖いのは誰だってお互い様さ。奴らはそういう風に仕向けてるんだから」
「だからあたしはっ――!」
「もちろん、俺だって奴らは怖い。だからって立ち止まってはいられない」
ぴしゃり、と歩が言い放つ。
何のてらいもないその言葉が、杏子の火照りをすぅっと冷ます。
「相手の手の内が分からない? そんなのいつだってそうだろうが。やる前から過程が分かっていたら、そんなものは勝負じゃない」
「……そりゃあ、確かにそうだけどさ……」
相手の技など分からなくて当然。それは杏子も知っていたことだ。
あらかじめ正体を知りながら、魔女との戦いに臨んだことなど一度もない。
常在戦場の杏子にとって、出くわす存在は既に未知。その手の内を戦いで探り、既知とすることで生き延びてきた。
「……でも、だからって今回は、さすがに相手が悪すぎるだろうが」
「相手が悪いのもいつものことさ。自慢になんてしたくはないが、俺の命を狙うのも、いつだって俺より強い奴だった」
そして、それを下してきたのだと。
杏子の言葉などどこ吹く風だ。真摯な眼差しを揺るがしもせず、歩は力強く言ってのけた。
「だが、その力は一体誰が使う? その強さはどうやって振りかざされる?」
「何が言いてぇ」
「力を操るのはいつだって論理だ。力と使い手の頭脳とが、合わさって初めて脅威になるんだ。
なら逆に、論理で相手を上回ることができれば、力差も覆せるんじゃないか?」
たとえるなら彼の言葉は刃だ。
冷やかな氷のようでいて、斜に構えた虚言ではない。
その裏には目の前に立ちはだかる壁に、能動的に斬りかかる、ぎらついた情念を隠している。
ここまでの僅かなやりとりだけでも、はっきりと汲み取れる剥き出しの野心だ。
「そんなの、ただの屁理屈だろうが」
「それでも理屈だ。否定はさせない」
机上の空論だと分かっている。
条理の通用しない不条理の世界が、確かに存在しているということ。
そして彼の立ち向かう者が、そちら側の存在であることも理解している。
「恐怖を否定しろとは言わない。彼我の実力差も分からない奴に、勝利の論理は紡げやしない。
それでもそいつは胸に留めろ。頭を止めずに思考を回し、足を止めずに前に進め」
それでもこいつの言葉を聞けば、それを忘れそうになる。
そのあまりに強固な揺るぎのなさが、妄言を真実だと錯覚させる。
鳴海歩の言葉には、そうさせるだけの力があった。
こんな相手は初めてだった。調子は狂わされっぱなしだ。
「……とまぁ、俺が言いたいのはそんなところだ」
ぎし、と椅子を軋ませて。
ふぅっと一息ついた後、さらりとした様子で言い放つ。
他愛のない世間話に、ひと段落がついたような、そんな程度の動作だった。
張り詰めた空気は雲散霧消し、瞬時に最初の緩さが戻った。
「殺し合いに乗らないわけじゃない……今はそれでも構わないさ。
だけど、これからどうするにしたって、死んでほしくはないからな。
殺されずに生き残るためにも、それだけは覚えといてくれないか」
兄が妹を説き伏せるように。
軽く頭を撫でながら、歩は杏子にそう告げた。
「……考えといてやるよ。これからどうするかも含めてな」
へたり込んだ自分の姿が、まるで怯えているように見えたから、勇気づけてくれたということか。
それが思いのほか照れくさくて、ぶすっとしたような顔つきで、杏子はぼそぼそと返事をした。
「そいつはありがたいな。まぁ、いい返事を期待させてもらうよ」
ふっ、と一瞬笑みを浮かべて。
くるりと椅子を回転させると、歩はデイパックの口を開いた。
背中から降ろしたそこから出すのは、地図やら名簿やらの類だ。ご自慢の論理とやらを駆使して、考え事をするらしい。
オーライ、好きにさせてもらおう。自身もくるりと椅子を回して、背中合わせの姿勢を取る。
それきり口を発することなく、両者はぱたりと黙り込んだ。
(あたしには、こいつみたいには決められねぇ……)
沈黙が喚起させるのは、中断させられた悩みだ。
これからどうするか――つい一瞬前までの思考を、杏子は再び繰り返していた。
何かの間違いで、こいつの思い通りになれば儲けものだが、もしもそうでなかったならば、どうしても決断しなければならない。
ゆまを生かすか、己を生かすか。
(どっちが生き残るべきかは明確だ)
佐倉杏子は己自身を、ろくでなしだと定義している。
アウトローな生き方こそが、自分の正義だと宣言するのは、自分がそれしかできないような、社会のクズだからだと理解している。
つまるところその命など、所詮はその程度の路傍のゴミだ。
あの少女のそれと比較すれば、どちらがより価値あるものかなど、そもそも比較にすら値しない。
(だけど……)
それでも。
だとしても。
どうしても最後の踏ん切りだけが、杏子には未だつけられずにいた。