49◆死句発苦
――世界は解釈しだいで姿を変える。
目で見て、形と色を定義して。
鼻で嗅いで、匂いと刺激を感知して。
耳で聴いて、音と声とを認識して。
手で触って、感触と湿度を確かめて。
口に含めば、味と温度を理解する。
それはまだ、受け止めただけで止まっているただの情報にすぎない。
情報を情報のまま処理するのなら、人間と他の動物は何も変わらない。
その情報をさらに脳で変換して、意味を付加する。
言葉に変える。
それが、解釈のひとつめ。
ひとりひとりやり方は違う。言葉の選択も、表現の仕方も。
故に人それぞれの解釈で、世界は虹めいている。
そして。
なぜ文字にするかと言えば、他の誰かに伝えたいからだ。
自分だけが持っている情報を、体験を、解釈を。物語を。ほかの人と共有したいからだ。
だから人間は文字を使う。
そこに凝縮した他人の解釈を解きほぐして、明らかにし、自分の中に入れる。
それが、解釈のふたつめ。
記号の羅列から意味を読み解く、人間にしかできない行為。
人と人を繋いで、生かし合うための行動だ。
「だから、解釈で殴り合うなんてことをやる時点で、言葉の使い方間違ってんだよ。
ましてや解釈で殺し合うだなんて、それこそ履き違えの極致だな。
おい会木ィ、今度そんな戯(ざ)れたことほざいたら秒で赤点つけるから覚悟しなさい」
……以上、現文のリリリ先生こと刑利則(しおき・としのり)先生より、
赤点控え選手の高校生、会木巡(あいき・じゅん)が受けたありがたい補習講の一幕だ。
「いやどんなことを口走ったらそんな講義受けんのさ」
「それは秘密で」
「ええー。じゃあなんであたしにその話をしたのさ」
「なんとなく。七晴さんがどう思うか聞きたくなったというか」
放課後ゲーセン、音ゲーコーナー。
俺は右手と左手を交差させ、ボタン6とボタン3を同時に押した。
げっ、と声を出しつつ、隣の台の七晴(ななはれ)さんはボタン5に手をひっかけた。
アップテンポにオーケストラを重ねてダブステで煮込んだボス曲のスコアアタック。
終盤のさみだれ入り乱れの譜面を処理するには先の交差押しが必要なのだが、その入りをミスするということは、
「うぎゃ〜崩れた〜」
98873 vs 96325 で俺の勝ち。
ううん、あとgood5減らせれば新スコアだったけど。
腕が鈍ってないのを確認できただけで御の字か。
「脇が甘いですね七晴さん」
「てかスコアタ中に話しかけんなクソガキ」
「すみません、俺ゲーム中以外はコミュ障なんですよ」
「せめて選曲中とかにしてよねもー」
愚痴口しつつ、マニキュアを塗った右手でぽりぽりと頭を書く七晴さんは、近くのアパレル系の会社で働くOLだ。
見た目ファッション勢ながら実はこのゲーセンでは音ゲ勢の古株で、
高校の頃から「ゲーセンに通うから近い会社行くわ」と宣言し、実行したつわものだという。
そんな七晴さんに今の話を振ったのは、上記のステータスを見てではない。
「で、どう思いました? 何かの解釈で揉めるのは、間違い、なんでしょうか?」
「そうねえ。抽象的な話だから、いまいちピンと来ないけど。
あたしとしては……一理あるけど、結局はそれもあんたの解釈じゃないの、って感じかな。
あたしは別に解釈でガチりあってもいいと思うよ。AxBとBxAみたいなもんでしょ?」
「掛け算なら答えは同じじゃ?」
「ビンタしていい?」
「すみません」
七晴さんは同人活動家でもあるのだ。
ジャンルはもちろん音ゲーである。
初めて知ったときは、世界って広いな、と感心したものだ。
「xの奥深さに関しては話の腰じゃないから無視して先に進むと。
解釈ってのはそれこそ、10人居たら10通りあるわけでしょ?」
「そうですね」
「で、当然いろんな解釈があるわけじゃない。
パッと見の印象だけの解釈と、読み込んで自分の中に落とし込んだ解釈。
ハッピーな方向の解釈と、バッドな方向の解釈。
自分本位の決めつけ解釈に、誰かの影響を受けまくりの解釈……」
七晴さんは小気味よく腕を動かし、空中にぽすぽすと解釈を並べる。
「自分に近い解釈とか、はっとさせられる解釈とか、まあ美味しいものも多いと思うけども、
人間ってグルメだから、舌が受け入れにくいのもあるわよね。
受け入れられるなら頂けばいいけど、
受け入れられないなら、そういうのは視界から消すしかないわけよ」
ぺし、と空中の解釈をその場から払う。
「解釈の、
取捨選択。
いいものだけを食べていく。
転じて、より多くの人に食べられた解釈が、強い解釈になっていく」
「……う」
「その、国語の先生? の解釈を混ぜるなら、きっとそういうのも人間のつくりなのよねえ。
強い解釈が生き残って、弱い解釈が淘汰される。
そういう仕組みにしておかないと、解釈が増えすぎて支離滅裂になるんだと思うわ――って、ジュンくん聞いてる?」
七晴さんが俺の方を向いた時、
俺は胃の中から込み上げてきた吐き気を抑えようと口に手を当てていた。
「……どしたの」
「すみません」
「?」
「いえ、気にせず。続けてください」
大丈夫。一、二回くらいならそこまででもない。
俺はすぐに姿勢を直す。
七晴さんは頭にクエスチョンマークを浮かべていたが、
まあジュンくんがそういうならいいけどね、と言って話を続けてくれた。
「ま、結局、解釈ってのは
殺し合いになる運命なのよ。
みんながみんなの解釈を自然と受け入れられたら、いちばん平和なんだろうけどさ。
どんな解釈でも楽しめ、許せ、受け入れろってのは、横暴よね。言ってしまえば、愛が足りないとさえ感じるわ」
「愛、ですか」
「思い入れの強さとも言うかな。たとえば10年同じジャンルで同じカプの本書き続けてる子とか知り合いにいるけどさ、
そのレベルまでいくともう、自分の解釈が自分そのものと一緒なのよ。
あのカプといえばあの子、みたいなのを超えて、あのカプイコールあの子になるくらいの感じね。
そういう子の前でその解釈を否定することは、その子の全部を否定する事になりかねないでしょ」
人差し指を使って、顔の前でバツをつくる七晴さん。
「人それぞれに譲れないものがあって――だからこそ誇らしいものがあって――だからこそ戦争になる」
「七晴さんは言った経験があったり?」
「ないねえ。あたしは空気と譜面だけは人より読めるから。帳簿はあんまり読めないけど」
「仕事大丈夫なんですか……」
「意外とピンチ。タカとかラックあたりもらってくれねーかしらん」
「あの人らはゲームバカなんで無理では」
「別にジュンくんでも構わないけど?」
「えっ」
「冗談でーす。もう五年後なら分かんないけどね。――で、長々言ったけど、アンサーになった?」
「……はい。十二分に」
「そ。じゃ、もう1クレやろっか」
台待ちベンチからさっぱりと立ち上がると、七晴さんは俺に手を差し伸べた。
「タカとかラックもだけど、あたしらもそうでしょ?
こうやってないと死んじゃうって、自分で自分をそう解釈して、ゲームやってるようなバカなんだから。
死んでも戻ってくると思ってたよ。おかえり、ジュン」
「……ただいまです」
このあとめちゃくちゃ音ゲーした。
途中でタカさんとラックさん(ゲーセンの最常連、もはやゲーセンが仕事勢)に声をかけられ、格ゲやらSTGやらカード系やらビビるほどやらされた。
再会祝いということでクレは全て向こう持ちだった。ありがたやありがたや。いつか返さなきゃ。
閉店の間際まで続いた宴は、俺にやっぱりゲーセンは楽しいのだという現実を、嫌というほど教えてくれた。
ちょっと前まで。
俺は、あんなに楽しかったゲーセンのことを、楽しめなくなってしまっていた。
上手さとか正しさとかそういうものに囚われて、楽しむ心を見失っていた。
自分の解釈を、殺していた。
でも。世界は解釈しだいで姿を変える。
いっとき灰色に見えてしまっていた世界は、世界が灰色になったのではなくて、
世界を見る俺の目が灰色に見えるように変わってしまっていただけだったのだ。
蓋を開けてみればなんてことはない。楽しもうとする心を、忘れていただけのこと。
「タカさん、ラックさん、あざす」
「いいってことよ。久々にジュンの技を喰らえたからな。それに喰い返せたし」
「まさかまだあんな繋ぎがあったなんて……抜けてました。研究します」
「休憩してた分のビハインドは重いぞ〜? もう俺たちに追いつけないかもしれねーな、くくく」
「大丈夫です、赤点さえ取らなければめっちゃ張り付くんで」
ぱき。
ラーメン屋のカウンター席で、割り箸を割る。
極太麺とシャキリとしたもやし、絡む豚骨スープが深夜の胃袋にこってりと染みる。
閉店後の感想会。
いつもは門限の関係で断っていたけれど、今日は親に無理を言って参加している。参加したかった。
「今日は、マジでありがとうございました」
「おう?」
「何だよお前急に改まって」
「いやその、いろいろと。気を使って貰ったというか」
「ああ、七晴を呼んだことか? お前が呼べって言ったから呼んだだけだぞ」
「あいつどうせ暇なんだから気にするこたねーよ」
「てかラーメン喰いに来いってのな! 肌なんてどーせいつも荒れてんのに!」
「全くだよな」
「いやその……それもなんすけど。何も言わずに消えてたの、もうちょっと突っ込まれるかと思ってたんで」
「あ?」
小さくつぶやくと、タカさんとラックさんは不思議そうな目で俺を見た。
「おいおいジュンよお。そいつはどうにも解釈違いってやつだぜ」
「そういうとこ考えすぎるのはよくないぞ若坊」
「……そうなんすか?」
驚いた顔の俺に、あきれ顔の二人。
「遊びはあくまで遊び。やりたい時にやって、やめたいときにやめて。
戻りたいときに戻ってくることができる場所。そういうのが俺たちの理想なの」
「あと、プライベートなことはむやみに持ち込まないってのもな。
相談されたら話は別だが、自分からは突っ込んでいかない。
そのへんは忘れて楽しめる場所であってほしいってのが、俺たちの本音だよ」
「戻ってきたってことは、嫌いになったわけじゃなかったってことだしな」
「そうそう。まあ強いて言うなら、そうだな……」
タカさんは何かの力仕事かで鍛えた腕を使って、俺の頭頂部をがっしと掴むと自分の方を向かせた。
顔が近い。
めっちゃ見られる。
「な、なんすか」
ここまできてBのLな展開は勘弁なんすけど。
「――いや、やっぱちょっと変わったよなと思ってな」
「か、……変わった?」
「それな。精悍になったというか。修羅場を超えたというか。いい顔つきになったよな」
「いない間にどっかで修行でもしてたのかお前?」
「そ、れは……」
驚いた。
何も言ってないのに。
さすがは、人生の先輩なだけはある。
俺はやんわりとタカさんの腕を払うと、
「や、秘密っす」
と言って、豚骨スープを喉に流し込んだ。
いくら何でも言えるわけがない。
人生三回やり直しても遭遇しないような夢の中で、文字になって解釈で殺しあっていたなんて。
ゲームの設定にしたって、チープが過ぎるものだから。
ラーメンは、死ぬほど美味しかった。
「食い過ぎたな……」
若干ぽっこりと膨らんだお腹をさすりながら、帰路、マンションの階段を登る。
午前一時。月の明かりだけの世界、冷たい空気が頬を冷やす。
満腹の胃袋の苦しささえどこか心地よく、自然と俺は微笑みを浮かべていた。
好きに生きている実感がある。
あらゆる現象を前向きに考えられている確信がある。
深夜、一人でも寂しくない。廊下の奥の暗闇に恐怖を感じない。
回り道なんてしなくても、心を準備するためのタイムラグがなくても、今ならきっと、すこしだけ強く生きていける。
「ただいま」
もう寝ているだろう親や兄弟を起こさないように、そっと玄関のドアを開けた。
「――よう。遅かったな」
待っていたのは、顔の半分を失った優柔不断さんだった。
まるで痛みを感じてないかのように笑って、フレンドリーに語り掛けてくる。
「人を殺して食うラーメンは美味いか?」
「美味しかったですよ」
俺も笑って、優柔不断さんの胸のあたりに思い切り手を伸ばす。
ずぶずぶ。
ケーキにフォークを入れるくらいのゆるやかさで、手刀は優柔不断さんの体へと突き刺さる。
生ぬるい、肉の感触。
隙間からこぼれていくラズベリーソース色の血液。
たとえ胡蝶の夢の残滓だと分かっていても、それはどこまでも悪趣味で。俺は小さくため息をつく。
「デザートがあなたじゃなきゃもっと美味しかった」
「おいおい情緒がねえな。久々の登場なんだからもっと歓迎して欲しいんですけど」
「すみませんが、もう眠いので。化けて出るのは明日とかに回してくれませんか?」
「おいやめろ、突っ込んだままぐちゃぐちゃ搔きまわすな。っていうか、もうちょいびびれ?」
「昨日猪突猛進さんが出てきたときはそりゃあびびりましたけど、二日続けられるとこっちも冷めるっていうか……」
「ずいぶん勝手なことを言うようになったなお前、言っとくがオレは――」
一気に腕を引き抜いて、放っておくといつまでも喋り倒してくるであろうその口を塞ぐように、優柔不断さんの半分の顔を掴む。
そのまま靴を脱いで、玄関から家に上がる。
その一歩のアップダウンの動きを使い、優柔不断さんの顔を一瞬掴み上げ、そのまま思い切り床に叩きつけた。
「ぐわレ」
断末魔のトーンがなんとも微妙だった。
赤い水風船が弾けたみたいになって、優柔不断さんの頭部が元の形を失くし、そのまま動かなくなった。
振り返らず、自分の部屋に歩を進める。
でも、そうそう上手くはいかない。
ぐいんと伸びてきた左手が、俺の右足に爪を立てる。
どこからか、優柔不断とは程遠い、強く決断的な声がする。
反響する。
『後悔だぜ』
「……」
『前に前に歩くのは、別に止めないけどなぁ……辿ってきた道を振り返るのを止めるなよ?』
わかっている。
わかり切っている。
優柔不断さん、あなたは、「僕」の後悔だ。
だってあなたは、あの場所で「僕」が唯一、唯一無二、ただひとりだけ。
棒立ちな理由でもなく、前向きな理由でもなく、……後ろ向きな理由をもってして殺した人間なのだから。
『忘れるなよ。閉じたままにするなよ? そして一切、脚色するなよ?
凛々ちゃんの手前じゃあ、ごまかしの言葉も言わせてやったけど……お前って人間は』
「……」
『お前って人間は。オレだけは。オレのことだけは、「嫌いだから」殺したろ?』
「……はい」
そうだ。
その通りだ。
「僕」は、優柔不断さんに関してだけは、一回も言っていない。
殺してしまって申し訳ないだなんて、一回も言っていないんだ。
「嫌いでした。
あなたの事は、好きになれませんでした。
僕が、苦しんで苦しんで人を騙しているときに、
僕を疑わずに信じてしまうあなたがただ憎らしかった。
僕が、苦しんで苦しんで人を切り捨てているのに、
自分も生き残った上で他人も救っているあなたが憎らしかった。
僕が、苦しんで苦しんでリョーコさんを信じているときに、
凛々ちゃんと何の疑いもない信頼を結んでるあなたが、羨ましくて、憎らしかった……」
敵として対面していた、破顔一笑や、先手必勝さんたちや、傍若無人とは違う。
たとえ一時的だったとしても……仲間の体をとっていたにもかかわらず、生まれてしまった感情。
吐き捨てるように、俺は言った。
「あなたも僕も、人殺しなのは同じなのに。
あなたも僕も、弱いのは同じなのに。
あなたも僕も、生き残ろうとしてるのは同じなのに。
どうしてこんなに違うんだろうって、思ってしまったんだ」
『だよなあ』
声は心の深いところで反響する。
嘲笑うような納得の呟き。そうだ。解釈は口に出せば納得を生み出す。
うん、そうだ。
俺はあなただけは、仕方なく殺した訳じゃない。
最後の一押しを自分の手で出来なかっただけで――そこには、惨めで汚い、嫉妬色の悪意が隠れていたんだ。
だから――後悔だ。
一生後ろに引きずって悔い続けなきゃいけない、「僕」の罪だ。
『まあ、わかってんなら良いんだよ、オレはね。
これからもいつまでだって、お前がちょっといい気分になって帰ってきたときに、
こんな風にお前の心をちくちく刺しに現れてやるってことだけ、わかってんなら。
どんだけ雑に殺し直されようと、笑って見過ごしてやるよ。
特別じゃねえさ、誰にだっているもんさ、世の中には……どうやっても好きになれないやつも。
どう足掻いても許してもらえねえことをしてしまった奴も。いくらでも。ありふれているのさ……』
オレたちは、だから人間なんだぜ。
くは。くははは。
くはははは。
俺の脳を揺さぶるような不快な笑い声を、俺はつとめて聞くようにした。
それを聞き続けることだけが、俺にできる償いだったから。
じきに足にかけられた爪の重みも融ける。
足りない懺悔は明日に回して、今日はもう寝る時間だ。
部屋の扉を、開ける。
「あうー」
「……ただいま、××××」
閉じた扉のこちら側には、四角い紙が乱雑にピン留めされている。
現実感を喪失させる、病的に白いその紙には、「胡蝶之夢」の七色の文字が光っている。
俺の部屋の扉は夢と現実の境界線になっている。
そして、俺の部屋のベッドの上には、××××がいる。
首輪につながれたまま、手足をばたばたさせて無邪気に俺を出迎える。
「うー、たらいまー、おにー」
「こういうときはただいまじゃなくておかえりって言うんだよ」
「おかえいー? おかえいー! おかえーいー!」
「……まあ、いいや」
はしゃぐ××××を半ば無視して、俺は机の上に向かう。
机の上に置いてある本を手に取って、ベッドへと歩いていく。
昨日新しく買ったその本は、四字熟語辞典だ。
「今日もおやすみのまえに、言葉の勉強をするよ」
――あのとき。
最後の部屋での最後の瞬間、××××が最後に使った文字は、「自己否定」だった。
自己の否定。
事故の否定。
世界を否定し、あらゆる結末を否定し、
あらゆる死を否定して生きようとし続けた彼女が最後に否定したのは、それでも殺されようとしている自分の存在だった。
心臓を撃ち抜かれた瞬間に使われたその文字は、撃ち抜かれた自分という事実を否定した。
それと同時に、彼女自身の存在も否定した。
結果、残ったのは――生き残ったのは。
全てを忘れ、全てを失くし、自分でも自分を何と読めばいいのかわからない、××××。
《読めない文字》だけだった。
もう俺にも、彼女が何と呼ばれていた存在だったのか、思い出すことはできない。
ただ、彼女が人間ではなく文字であることと。
絶対に許してはならず、殺さなければならない憎むべき存在であることは、しっかりと覚えている。
彼女が俺たちの人生を歪ませた張本人だということは、間違いない事実だ。
だから俺は、××××に首輪を付けた。
夢に閉じ込めたまま、俺の部屋から動けない様にして。××××の命を、握り返してやった。
「えへー、おにー」
「何だよ」
「えへーへー、ほんー、おにーのほんー、たのしいー」
「……絡みついてこないでくれ」
この状況は俺にとって、決して悪いものではなかった。
こうなって良かったと言ってもいい。
まず、俺の命が助かったということが一つ。完全に刺し違える覚悟だったから、何よりの僥倖だった。
次に、彼女の命を握ったことで、俺の安全が保障されたことが一つ。
どうやら、彼女の存在は俺たちをあの実験に巻き込んだ勢力において、信仰と崇拝の対象だったらしい。
『そうですか。そう、なりましたか。分かりました。貴方には、もう手が出せません。
私達に関わりに来ない限り、貴方の人生の平穏を約束しましょう。貴方の勝ちです――私達の、負けですよ』
番号の分からない電話の主にそんなことを言われたのが昨日、殺し合いから開けて初日のことだ。
勝ちだの負けだの言われてもいまいち感慨はなかったし、勝手なことをとしか思わなかったが、
ともかくこうして、俺は普通に生き続ける権利を得た。
リョーコさんと約束したように。精一杯生き続けるための、切符を得たのだった。
「じゃあ、今日は4ページ目から」
でも、それで納得ができているかといえば、そんなことはない。
自分を失くしてしまったとはいえ――無邪気で何も知らない、まっさらな《読めない文字》になってしまったとはいえ。
××××が生き残ってしまっていることを、俺はやはり、許せていない。
優柔不断さんの言う通りだ。
世の中には、どう解釈したって許せないやつが、一人くらいはいる。
かといって、今の××××をただ殺したところで、なんの意味もない。
こうして××××に文字を教えているのは、一種の実験を兼ねている。
幼児のように何もわからなくなってしまった彼女に、文字を教え続ければ。
いつか自分が自分をなんと読むのだったのかを思い出すのではないか、そういう期待を込めている。
もし、うまくいって、彼女が自分の読み仮名を思い出すそのときがきたら、今度こそ――――。
「この文字は、切磋琢磨」
「せつさーたーくまー」
「この文字は、破顔一笑」
「はーがんいっしょ」
「この文字は、鏡花水げ――うえっ」
「にー? どしたー?」
「何でもない。この文字は、青息吐息。この文字は、以心伝心。この文字は、一刀両――――う、えええっ」
「おにー!?」
「……ごめん。ちょっと、トイレ」
それと、もうひとつ、この時間は、俺のリハビリも兼ねている。
急に嗚咽をし始めた俺を心配そうに見つめる××××をその場に置き去りにして。俺はふらふらと部屋を出る。
トイレに入ると、勢いよくうずくまり、胃の中身を吐き出し始めた。
バケツをひっくり返したような勢いでどざーーーー。そのあと、ちょろちょろ、ぼとり、ぼとり。
ラーメンと酸が混じったひどい匂いと汚い色の吐しゃ物が便器の底にたまるのを、どこかふわふわとした視界でじっと見つめ続けた。
ああ、やっぱり。
いくつも続けて耳に入れるのは、まだ無理だったみたいだ。
どうしてもそれがただの文字に思えない。
どうしても、聞き流すことが出来ない。
「……今日は、ここまで。続きはまた明日」
「あしたー」
「おやすみ」
「……おやすみー」
三、四回ほどトイレと部屋を往復しつつ授業を終えて、部屋の電気を消す。
おやすみの四文字を機に、すぐさま××××は隣ですやすやと寝息を立て始めた。
まったく――人の気も知らないで。
なんて、文字でしかない彼女に、言うことではないのかもしれないけれど。
◆◆◆◆
こうして、「紆余曲折」を経て――俺は悪夢を終えて、日常へと帰ることに成功した。
ちょっとだけ、強くなって。
家に帰ると夢見が悪くなって。
年の離れた妹が出来て。
あと――四字熟語が、吐くほど苦手になったけれど。
それでも俺は、この世界を、生き延びていく。
(終)
用語解説
【四字熟語】
日本において漢字4文字で作られた熟語を指す用語。
四文字でつくられた熟語すべてが四字熟語と呼ばれるわけではない。
その範囲はあいまいで、人それぞれの解釈による。
最終更新:2017年04月30日 22:43