キャラクター像
幕末の京都を中心に活動した治安組織・新選組の局長。また、古流剣術・天然理心流の四代目伝承者にして、試衛館道場主でもある。
文久三年三月頃、近藤は同志達と共に将軍警護の為に、出羽浪士・清河八郎が創設した浪士組に参加、京都に向かう。しかし、浪士組の方針や筋道の違いから、清河と袂を分かち自身の一派と水戸脱藩浪士・芹沢鴨の一派と共に京に残り、京都守護職の会津藩主・松平容保の御預り組織・壬生浪士組を結成する。結成当初は、芹沢や水戸派の新見錦と共に局長を務めていたが、芹沢達の度重なる乱暴狼藉に頭を抱えていた会津藩の勅命によって、試衛館派と共に芹沢一派を粛清したことで、晴れて新選組の局長の座を務めることとなった。
その後、池田屋事件では、自ら隊を率いて先陣を切り、多くの倒幕派志士を討ち取り無傷で生還する。その後、禁門の変や数々の事件で多くの倒幕派志士を弾圧し、更に伊東甲子太郎など有望な志士達を迎え入れ、新選組を大組織へと拡大させる。そして、後に晴れて幕府直参(旗本)となり、念願だった武家の身分を手にするが、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行ったことで、260年近く続いた徳川幕府の世が幕を下ろしてしまう。
その後、鳥羽伏見の戦いで井上を始めとした多くの隊士が戦死し、新選組は敗退する。その後、多くの隊士達と共に船で江戸まで帰還し、甲州勝沼の戦いで新政府軍を迎え撃つも敗北。更に価値観が合わなくなり、永倉や原田ら数名の隊士が離隊し、流山で新政府軍に追い詰められる。
近藤は隊士達を救う為に土方に新選組を託し、敵軍に投降。そのまま江戸板橋にて斬首され生涯を終えた。享年35。
文久三年三月頃、近藤は同志達と共に将軍警護の為に、出羽浪士・清河八郎が創設した浪士組に参加、京都に向かう。しかし、浪士組の方針や筋道の違いから、清河と袂を分かち自身の一派と水戸脱藩浪士・芹沢鴨の一派と共に京に残り、京都守護職の会津藩主・松平容保の御預り組織・壬生浪士組を結成する。結成当初は、芹沢や水戸派の新見錦と共に局長を務めていたが、芹沢達の度重なる乱暴狼藉に頭を抱えていた会津藩の勅命によって、試衛館派と共に芹沢一派を粛清したことで、晴れて新選組の局長の座を務めることとなった。
その後、池田屋事件では、自ら隊を率いて先陣を切り、多くの倒幕派志士を討ち取り無傷で生還する。その後、禁門の変や数々の事件で多くの倒幕派志士を弾圧し、更に伊東甲子太郎など有望な志士達を迎え入れ、新選組を大組織へと拡大させる。そして、後に晴れて幕府直参(旗本)となり、念願だった武家の身分を手にするが、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行ったことで、260年近く続いた徳川幕府の世が幕を下ろしてしまう。
その後、鳥羽伏見の戦いで井上を始めとした多くの隊士が戦死し、新選組は敗退する。その後、多くの隊士達と共に船で江戸まで帰還し、甲州勝沼の戦いで新政府軍を迎え撃つも敗北。更に価値観が合わなくなり、永倉や原田ら数名の隊士が離隊し、流山で新政府軍に追い詰められる。
近藤は隊士達を救う為に土方に新選組を託し、敵軍に投降。そのまま江戸板橋にて斬首され生涯を終えた。享年35。
固有能力
誠の旗
誠」の字が書かれた旗を立てることにより同じ志を持つ仲間(主観)に刃を通さず、倒れもしない防御力と一撃で仕留められるほどの攻撃力などの強力な肉体的強化を与える。それは折れも倒れもしない、絶対なる真実。これこそが、新選組