幸せは、赤き瞳の中に ( 第13話:復活 )
最初は途切れ途切れの、ごく小さな音だった。ラブを抱き締めるせつなのすぐ後ろで、植木鉢が不意にカタカタと音を立て始めたのだ。
音は次第に大きくなり、間断の無いものになっていく。それと共に高まっていく、何とも言えない嫌な気配――。
せつなが硬い表情で後ろを振り返ろうとする。その矢先、さっきから植木を見つめていたサウラーの鋭い声が飛んだ。
「みんな、伏せろ!」
皆まで聞かず、せつなが腕の中のラブを庇いながら地面に身体を投げ出す。
ウエスターが少女を、サウラーが老人を、それぞれ抱えるようにして倒れ込む。それと同時に鈍い破裂音が響き、六人の上に、バラバラと土と陶器の破片が降り注いだ。
「はぁ、びっくりしたぁ……」
もぞもぞと起き上がろうとするラブを制して、せつなが素早く身体を起こし、植木の方を向いて身構える。そして――そのまま息を呑んだ。
粉々に砕けた植木鉢の残骸が散らばっているその後ろに、いつの間にか壁が出来ている。いや、それは壁ではなく、高くそびえ立つ透明な筒だった。その中にいっぱいに湛えられているのは、薄黄色に濁った液体。
「これは……」
せつなの声が震える。
見間違えるわけがない。かつて自分がイースとして集めていたもの。その行いを激しく悔いて、たとえ命を落としても、その蓄積を無きものにしたいと願ったもの――。
それは、ラブがE棟で目の当たりにしたという“不幸のゲージ”と、このラビリンスで新たに集められた、不幸のエネルギーだった。
半ば呆然とゲージを見つめるせつなの視界を切り裂くように、その時、何かが下から上へと一瞬で通り過ぎた。植木鉢が壊れて――いや、おそらく鉢を自ら壊して自由になった植木が、根を剥き出しにしたまま、一直線に上へ向かって飛んで行く。
「あっ!」
今度はラブが声を上げた。植木は、見上げるほどに高いゲージの縁の上まで飛び上がったかと思うと、そこで僅かに軌道を変えて、ゲージの中へ飛び込んでしまったのだ。
途端にまるで沸騰したかのような大量の泡が、ゲージの中から沸き起こった。
跳ね起きたラブが、そしてウエスターとサウラーが、せつなの隣に立ち、固唾を飲んでゲージを見つめる。ウエスターに腕を掴まれたままの少女は厳しい表情でゲージを睨み付け、老人は皆の後ろから恐る恐る覗き見る。
六人が見守る中、泡に包まれた植木は、見る見るうちに細く小さくその姿を変え、やがて完全に消え失せた。
「木が……不幸のエネルギーに、溶けちゃった……」
ラブがかすれた声で呟く。だがそれに答える者は誰も居なかった。
(何……? この感じ……!)
せつなの額から汗が噴き出す。さっきの嫌な気配とは比べ物にならないほど、辺りの空気が突然不穏な色をまとったように感じた。
心が痛いくらいに張りつめて、声が出せない。身体はいつの間にか臨戦態勢に入って、周囲の些細な変化も決して逃すまいと身構えている。
何かが――とてつもない何かが起ころうとしている。心臓がそう警告するように、ドクン、ドクン、とうるさいくらいに鳴っている。
すぐに最初の変化が起こる。それはゲージの中に巻き起こった、小さな渦だった。渦は次第に大きくなり、やがてゲージの幅いっぱいに広がって、人の顔のような模様を形作る。それを見て、ウエスターが喉の奥から絞り出すような声を発した。
「ノーザ……さん」
ゲージの中のノーザの顔が、それに答えるかのようにニヤリと笑う。そして次の瞬間、その顔が再び変化し始めた。
長い髪と顔との境界がなくなって、より大きくいかつい頭の輪郭を形作る。大きな目はより鋭く、鼻は大きく、唇は分厚く形を変えて――。
「……!」
老人が言葉にならない声を上げて、腰が抜けたようにその場に崩れ落ちた。そのままずるずると後ずさって、あたふたと物陰に身を隠す。その姿を嘲笑うかのように、ゲージから空に向かって真っ黒な霧が噴き上がった。
見る見るうちにどんよりと暗くなっていく空。その空の真ん中に、とてつもなく大きなものが、忽然と姿を現す――!
風も無いのにバタバタとはためくローブ。
大きく広げられた両腕。
その上に見えるのは、全てを射抜くような鋭い眼光を持った、初老の男性の顔……。
驚きに目を見開くラブの隣で、せつな、ウエスター、サウラーの三人は、ただ空を見上げたまま、まるで彫像にでもなったように微動だにしない。
ラビリンスの空を覆い尽した巨大な姿は、彼らを傲然と見下ろして、天の頂から重々しい声を轟かせた。
「我が名は――メビウス。全世界の統治者なり――!」
幸せは、赤き瞳の中に ( 第13話:復活 )
まるで時が止まったようだった。動く者も居ない。声を発する者も居ない――。そんな状況を唐突に打ち破ったのは、一陣の風だった。
不幸のエネルギーの余波なのか、突如吹き荒れた暴風に飛ばされそうになったラブを、せつなが間一髪で捕まえてしっかりと抱き寄せる。
その唇から吐き出された息が、細く頼りなげに震えているのに気付いて、ラブが心配そうにせつなの顔を覗き込んだ。
「ありがとう、せつな……大丈夫?」
「ええ……大丈夫よ」
さっきは考えるより先に身体が動いていた。その動きに呼び覚まされたかのように、頭と心もようやく少しずつ、現実感を取り戻す。
(メビウスが……本当に復活した? でも、どうやって……!)
かつて何度も目にした影のような映像などとは比べようもない、圧倒的な大きさと威圧感を持ったその姿を、せつなは睨むように見つめる。だがその眼差しとは裏腹に、硬く握りしめた両手はわなわなと震えていた。
(恐れているの? 私は……。いいえ、驚いているだけよ。これが本当だとしたら……恐れている場合じゃない!)
言うことを聞かない拳を、グッと痛いほどに握り締める。その時、突然何かがせつなの視界を遮った。大きな白い二つの影が、せつなとラブを隠すように前に立ちはだかる。
「イース! 今のうちに……ラブを早く!」
ウエスターが、空を覆う巨大な姿を見据えたまま、いつもより早口で囁く。それを聞くや否や、せつなはラブを抱えてすぐさま後ろへ飛び退った。ラブを物陰に避難させ、一跳びで戻ってくると、今度は後ろではなく二人の間に立って、空を見上げる。
ウエスターは苦虫を噛み潰したような顔で、そんなせつなにチラリと目をやった。
――今のうちに、ラブを連れて逃げろ!
本当はそう言ってやりたかった。だが、この状況でせつながラビリンスを離れると言うわけがない。それに、事はメビウスの復活だ。たとえ異世界に――四つ葉町に逃れたとしても、最悪の場合、単なる時間稼ぎにしかならない。
(いや……そうなる前に、絶対に止めてやる!)
グッと奥歯を噛み締めて、ウエスターは再び空を睨む。サウラーの方は、いつもよりさらに感情の読み取れない無表情のまま、空から片時も目を離さずに、油断なく身構えている。
メビウスの大きな目が三人を捉え、口を開こうとした、その時。少女が転がるように、三人の前に飛び出した。
「メビウス様! ご復活を待ち望んでおりました!」
颯爽と臣下の礼をとった少女が、歓喜に上ずった声を張り上げる。
「国民番号ES*******。新しいイースの“ネクスト”となった者です。私は……私だけは、あなたの忠実な僕です!」
と、そこで風が幾分か弱まった。メビウスの顔が僅かに動いて、少女の姿に目を留める。
生まれて初めて、絶対者の目に留まった。メビウス様が直接、私を見て下さった――その喜びに頬を紅潮させながら、少女が張り切って、なおも言葉を続けようとする。だがそれより先に、メビウスの視線が再び動き、少女を離れた。
「国民たちの姿が見えぬ……。インフィニティはどうした!」
「インフィニティ、って……」
せつなが押し殺したような声で呟く。
「ウエスターよ、サウラーよ。その姿はなんだ? 幹部の身なりとは異なるようだが」
「やはり、最後の戦いの時の記憶は無いようだね」
どうやら同じことを考えていたらしいせつなが小さく頷くのを見届けてから、サウラーは幹部時代とさして変わらない平坦な声で答えた。
「我々はもう、幹部ではありませんから」
「俺たちもイースと同じく、あなたに消去されるところだったんです」
ウエスターもぶっきら棒にそう言って、巨大な元の主の顔を挑むような目で見つめる。
「そうか。消去されるはずだったお前たちがここに居るということは……私の計画は、失敗に終わったのだな」
メビウスが、意外にも静かな声でそう呟くと、途端に風の勢いが増した。
「メビウス様!」
風の音に負けまいと、少女が再び声を張り上げる。
「愚かにもラビリンスの国民たちは、メビウス様を裏切り、醜く争ったり、悲しみや不幸を味わったりする世界で生きようとしております!」
そう言って再び胸を張った少女が、ここぞとばかりメビウスの方ににじり寄る。
「ですから私は、メビウス様のために……」
「そんなことは分かっている」
少女の言葉を、天からの声がにべもなく遮った。
「このラビリンスのことは全て、我が手の内にある。騒ぎ立てずとも、私がもう一度管理すればいいだけの話だ」
その言葉が終わると同時に、メビウスの目が爛々と赤く輝いた。
次の瞬間、不幸のゲージから再び不幸のエネルギーが噴き上がった。が、今度は黒い霧にはならず、何本もの細い灰色のコードのようなものに姿を変える。
無数のコードは、投網のように放射状に放たれて、街のあちこちへ向かって伸びていく。そして今は避難所となっている建物の中に、次々と飛び込んだ。
「みんなが危ない!」
せつなが、ウエスターが、サウラーが、一斉に空中高く跳び上がる。
せつなはさっき使った刃物で、ウエスターは力任せに、サウラーは水色のダイヤを飛び道具に使って、一瞬で大量のコードを切り落とす。だがそれも一瞬、強烈な突風にあおられて、三人は地面に叩きつけられた。
「せつな! ウエスター! サウラー!」
泣きそうな顔で三人に駆け寄ろうとするラブを、老人が後ろから懸命に引き留める。
すぐさま起き上がった三人の頭上を、大量のコードが飛んでいく。廃墟と化していた建物はその形を変え、元の建物よりさらに大きく、メタリックな要塞のような姿となって立ち並ぶ。そして巨大な街頭モニターが、目が覚めたように突然明るい光を放った。
その画面に、かつて見慣れた映像が大きく映し出される。それを睨むように見つめるせつなの、睫毛だけが不安げに小さく震え、少女は勝ち誇ったように、ニヤリと笑った。
☆
せつなたちが居るところから、少し離れた場所。普段は教育施設として使われているこの建物は、窓ガラスが一部割れてはいるものの、その他の損傷はほとんど無い。
避難してきた人たち全員が建物に入ったのを確認してから、警察組織の若者たちは扉を閉め、窓のシャッターを下ろした。
(ここまで来れば……)
仲間たちに気付かれないように、少年がホッと小さく息をつく。ウエスターに誘われて警察組織の手伝いをするようになってから、この避難誘導は、初めてウエスター抜きで経験する大きな任務だった。その直前には、仲間たちと一緒に怪物から避難所を守る役目を買って出て、元幹部たちの鮮やかな戦いぶりを目の当たりにしている。
たった一日で、まるで数日分にも数週間分にも匹敵するような経験をしたような気がして、さすがに疲れを覚える。が、着いた早々、建物の中から何やらゴトゴトという複数の物音が聞こえて来て、少年は驚いて後ろを振り返った。
そこには少年たちを取り囲むように集まっている、避難者たちの姿があった。それも、皆が手に手に机や椅子など、この建物の中にある備品を携えて。
「あの、それは……」
意味が分からず、仲間たちと顔を見合わせてから怪訝そうに問いかける少年に、二人がかりで大きなキャビネットを抱えて来た男たちが、少しバツが悪そうな顔で言った。
「みんなが俺たちを守るために戦ってくれているんだ。俺たちにも、何か手伝えないかと思ってね」
「大した役には立たないかもしれないが、出来ることがあるならやってみたいんだ。これでも少しは攻撃を防ぐ足しになるかもしれないから」
そう言いながら、人々が持ってきた備品を使ってバリケードを築き始める。
仲間たちの間に、ゆっくりと静かな笑みが広がった。
「僕たちも手伝います」
仲間の一人の言葉に全員が頷き合って、すぐさま避難者の元へと向かう。
だが、少年は動こうとしなかった。ぽかんとした顔で仲間たちの様子を眺めながら、相変わらず低い声でボソリと呟く。
「出来ることがあるなら……やってみたい、ですか……」
そう呟いてしばらく考え込んでから、少年は自分に言い聞かせるように、うん、とひとつ頷いた。そして、避難者たちに混じってバリケードを築いている仲間たちに声をかける。
「悪いけど、俺……ちょっと行ってきてもいいですか? もう一人、ここに連れて来たいヤツがいるんです」
いつになく真剣な少年の口調に、仲間たちが顔を見合わせて、ああ、と頷く。
「一人では危険だ。俺も行こう」
そう言って手を挙げてくれた仲間と共に、二人連れ立って建物を出ようとした、まさにその時。突然、部屋の奥にあったモニターの画面が明るくなった。
「何だ? まさかライフラインが復旧したのか?」
「いくら何でもそれはないだろう」
仲間のうちの二人がそう言い合いながら、モニターの様子を見に行く。その途中で、二人は同時に、ヒッ……と喉を詰まらせたような声を上げると、その場に棒立ちになった。
「おい、どうした!」
仲間たちが一斉に二人の元へ駆け寄り、全員がそのまま凍り付く。まるでミイラ取りがミイラになったようなその反応に、まだ入り口近くに居た少年も、警戒しながら彼らの元へと向かった。
「みんな、どうしたんだ?」
そう言いながら恐る恐るモニターを覗き込んで、少年もまた、その場に立ち尽くす。
そこに映し出されていたのは、このラビリンスで誰一人知らない者の居ない顔――。かつては国民全員が彼のために存在していた絶対者・総統メビウスの顔だった。
ゴトン、と避難者の一人が椅子を取り落とす。そのまま床に崩れ落ちる者。言葉にならない悲鳴のような声を発する者――。
やがて、さざ波のように部屋の中に広がったいくつもの声が、そこに突っ立ったままの少年の耳に入って来る。
「メビウス様だ……。とうとうメビウス様が復活した!」
「あの通達は、やっぱり本当だったのか……」
「私たちは、どうなってしまうの?」
「またメビウス様に、管理されるだけさ」
「い、嫌だ! 僕は、命令になんか……」
「そんなことを言っていられるのも今のうちだ」
「そうよ。私たちはきっと、制裁されるわ!」
「そんなことを言っていられるのも……今のうち……?」
少年がまるで抑揚のない、間延びしたような声で呟く。
仲間たちは皆モニターに釘付けになったまま、まるで金縛りにでもあったように動かない。そんな中、少年は重たいものを無理矢理動かすようなぎこちない動きで、ゆっくりと踵を返した。
「今のうち……。そうだ。俺に出来ることを……やりたいことをやるのは……今しかないんだ……」
まだ半ば呆然とした頭の中に、さっき脳裏に浮かんだものが――ボロボロの戦闘服に身を包んだ傷だらけの少女の姿が浮かんだ。立っているのがやっとのように見えたのに、一緒に来ることを頑として拒んだ赤い瞳。その瞳に宿っていた強い光も、まるで霧の向こうで輝いているように、ぼんやりと浮かび上がる。
その光に導かれるように、その姿を追いかけるように、少年の足取りは次第に確かなものになり、歩調も少しずつ速くなっていく。
無理矢理にでも連れて来れば良かった――ここへ来る途中、何度もそう思った。あんな状態で手当てもせずに戦場に居て、大丈夫なはずがない。だが本人があそこまで嫌がっているのだから……そんな言い訳で納得しようとして、でもやっぱり放っておけなくて。
(今、俺がやりたいこと……。あいつに会って、言ってやりたい。無茶をするなって。ウエスターさんが、お前を心配してるって。それに、俺も……)
やがて少年は、さっき出来たばかりのバリケードに辿り着いた。扉の前に立てかけてあるのは、仲間たちが三人がかりで運んだ大きなテーブル。それに無造作に手をかけると、少年はグッとその手に力を込めた。
「ぐうっっっ!!」
喉の奥で、押し殺した叫びが上がる。それと同時に、カッと胸の中が熱くなった。
悔しさなのか、怒りなのか、それともヤケになっているだけなのか――自分でも正体の分からないその熱がエネルギーになって、さっきまでやっと動いていた身体にようやく力が湧いて来る。
ダーン、という大きな音と共に、テーブルが横倒しになる。その響きに、モニターの前に居た仲間たちや避難者たちが、呪縛が解かれた様に一斉に振り返った。
少年はそちらを見ようともせずにテーブルを軽々と跳び越えると、扉を開けるのももどかしく外に飛び出した。
少年が飛び出すと同時に、今出て来たばかりの建物が変化し始めた。破れた窓は元に戻り、壁は黒々としたメタリックな色調に変わる。だが少年には、それに気付く余裕は無かった。
外へ出た途端、立っているのも困難なほどの強風に襲われて、やっとのことで踏み止まる。少年は、目を閉じてもう一度少女の姿を思い浮かべてから、ゆっくりと細く目を開けた。身体を屈めるようにして、少女が居るはずの場所――さっき出て来た警察組織の建物の方向に向かって、一歩一歩、じりじりと前進を始める。
空の高いところには、メビウスの巨大な姿がある。だが、地を這うようにして吹き荒ぶ強風と戦っている少年には、その姿は全く見えていなかった。
☆
「我がラビリンスの国民たちよ! もう心配は要らん。私が再び皆を管理してやる。そうすれば、もう二度とこのような突然の不幸に巻き込まれることもない。皆はただ、私に従っていればいいのだ」
巨大モニターからメビウスの声が響く。重厚で威厳に満ちたその声は、以前と少しも変わることはない。
臣下の礼をとったまま、満足げな表情でそれを聞いていた少女は、メビウスの言葉が終わらぬうちに再び空中へと跳び上がった三つの影を見て、不快そうに眉根を寄せた。
「はぁぁっ!」
「たぁぁっ!」
「どぉりゃぁっ!」
鋭い雄叫びが響くと同時に、空の様子が一変する。張り巡らされていた無数のコードはことごとく切り落とされ、後にはどんよりと空を覆う黒雲だけが残された。
サウラーが、目の前にある“不幸のゲージ”をじっと見つめる。僅かではあるが、さっきより明らかにゲージの液面が下がっているのが見て取れた。
(やはり不幸のエネルギーを使っているのか……。だが、こうやって着実に消費させられれば、いずれは……)
わずかばかりの光明が見えた気がして、引き結んだ唇からそっと息を漏らす。その時、天から再び重々しい声が響いた。
「愚か者どもめ。この私に敵うとでも思っているのか」
声と同時に新たな気配を感じて、三人が身構える。するとゲージの後ろから、突然わらわらと人影が現れた。
二十人、いや三十人はいるだろうか。揃いの戦闘服に身を包んだ彼らは、隙の無い動きでじりじりと間合いを詰めて来る。その一人一人の顔に目をやったウエスターが、驚きに声を詰まらせた。
「お前たち……どうしてここに……!」
それは、ウエスターが先発隊としてE棟に向かわせた、警察組織の精鋭たちだった。
間髪入れず、メビウスの声が飛ぶ。
「私に逆らう者は排除するのみ。者ども、こいつらを消せ」
次の瞬間。せつなが、ウエスターが、そしてサウラーが、ごくりと唾を飲み込んだ。
「はっ。全てはメビウス様のために」
何の感情も伴わない、一糸乱れぬ声が響く。
まるでかつてのラビリンスの姿が蘇ったかのように。
この国の新しい姿など、所詮はただの夢幻――そう嘲笑うかのように。
が、三人は再びグッと拳を握り締めると、ゆっくりとこちらに向かって来る人々を、静かに見据えた。
「イース」
人々の方に目をやったまま、ウエスターが低い声で呼びかける。
「ここは俺たちに任せろ」
「今更何を言って……」
そう言いかけて、せつなが口をつぐむ。ウエスターは太い指で、真っ直ぐに空を差していた。
「お前はあっちを頼む」
「こうしている間にも、メビウスの支配が進んでしまうからね」
サウラーもそう言って、チラリと空に視線を走らせる。彼らの頭上には、再び不幸のエネルギーで作られたコードが放たれ、空に張り巡らされようとしていた。
「俺たちもすぐに合流する。だから、頼む」
「分かった」
せつなが二人の仲間を見上げて小さく頷く。それを聞くと、ウエスターは初めてせつなに視線を移し、腰を落として、ぽん、と膝を叩いて見せた。
「はぁっ!」
せつなが膝の上に駆け上がって跳躍するのに合わせて、ウエスターがその身体を思い切り高く投げ上げる。それが合図だったかのように、ゲージの前で激しい戦闘が始まった。
前後左右、ありとあらゆる方向から襲い来る攻撃。咄嗟に背中合わせになったウエスターとサウラーは、それらを時に受け流し、時に避け、時に受け止めて、ことごとく挫いていく。
「おい、俺だ! 分からないのか! いい加減、目を覚ませ!」
「無駄だ、ウエスター。彼らは既に、メビウスに管理されている!」
相手に一切反撃せず、ただ攻撃を受け止めたりいなしたりしながら必死で呼びかけるウエスターに、サウラーが冷静な一言を投げかける。かく言う彼は、相手に余計な手傷を負わせないようにして、専ら昏倒させる作戦に出ていた。
その時、上空からバラバラとコードの破片が降り注ぎ、地面に触れると同時に消えた。高々と舞い上がったせつなの刃物が高速で閃く。空を覆いつつあったコードを次々と切り落とし、繰り出される新たなコードに挑みかかる。
そうしている間にも、辺りの廃墟は徐々に形を変え、メタリックな要塞のような姿になっていく。
「全てはメビウス様のために……」
いつの間にかモニターの映像が切り替わり、今は黒々とした壁に囲まれた避難所の中で、かつてのように空ろな声を響かせる人々の姿が映し出される。
だが、三人の動きは変わらない。目を見開き、歯を食いしばって、それぞれの“敵”に全力で立ち向かう。そんな三人の――とりわけ、せつなの動きを鋭い眼差しで見つめていた少女が、再び跪き、空を見上げた。
「メビウス様! どうか私にもご命令を」
メビウスの視線が、チラリと少女の方に流れた。だがそれも一瞬、もう少女の方を見ようとはせず、メビウスがさらに大量のコードを空へと放つ。そして宙を舞うせつな目がけて、強風を吹き付けた。
「うわあぁぁっ!」
まともに風を受けて吹き飛ばされたせつなが、辛うじて一本のコードに掴まる。
木の葉のように風に翻弄され、ハァハァと荒い息を吐きながら、それでも必死で手の届く範囲のコードに刃を向け続ける。その苦し気な姿を、少しの間睨むように見つめてから、少女が再び声を張り上げた。
「メビウス様! どうかお命じ下さい。私が必ず、彼女を倒して見せます!」
闘志と言うより、むしろ必死さが溢れる表情で、主の答えを待つ少女。だが返って来た答えは、少女の期待を裏切るものだった。
「その必要は無い。奴が力尽き、地に斃れ伏すのも時間の問題だ」
「……しかし!」
「お前は……そうだな」
メビウスが、眼下の戦場の様子をチラリと眺めてから、もう一度少女に視線を戻す。
「その身体では、彼らと共に戦うことも出来まい。お前は国民たちと共に、我が“器”を用意するがいい」
「お待ち下さい、メビウス様!」
少女が、とうとう悲鳴のような叫びを上げた。
(冗談じゃない!)
少女の視線が、ウエスターやサウラーと戦っている、無表情な人々を捉える。既に半数以上が二人の元・幹部に昏倒させられて、人数はもう十人ほどしか残ってはいなかった。
自分と同じく軍事養成施設で育ち、メビウスへの忠誠を誓って幹部を目指していた者たち。
それなのに、まるでそんなことなど忘れたように、メビウスを否定し、今のラビリンスで楽しげに生きようとしていた愚かな者たち――。
(私は……あいつらとは違う。断じて違う!)
激しくかぶりを振って、今度は上空に見えるせつなの姿に、もう一度目をやる。
彼女はようやく体勢を立て直し、逆に風を利用して、さらに高く舞い上がろうとしていた。
その息は相変わらず荒く、コードを掴んでいるその手は擦り傷だらけ。だが、挑むような目の輝きは変わらない。
その勇猛果敢な姿を見ていると、強烈な平手打ちの記憶と共に、あの世界で聞いた彼女の言葉が蘇って来た。
――どうしても私に勝ちたいのなら、こんな夢の中なんかじゃなくて、現実の世界で勝負するのね。
(私はあの人に勝って、メビウス様の僕になる。新しいイースとして生きるために、あの人と決着をつける。いや……つけなくてはいけないんだ!)
いつの間にか、鼓動が耳元で鳴っているかのように、やけにせわしなく響いている。それを鎮めるように胸に手を置いてから、少女が意を決して主の姿を見上げた。
「私は、あの者たちとは違います! いつかメビウス様にご復活頂き、誰よりもお役に立ちたい――その想いだけを胸に生きてきました」
「……」
黙ってこちらを見下ろすメビウスに、少女はなおも言い募る。
「私はイースの“ネクスト”として、裏切り者と――先代のイースと、決着を付けたいのです。メビウス様、どうかご命令を……」
「“想い”だと? くだらん」
深く深く頭を下げた少女の頭上を、メビウスの冷たい声が通り過ぎる。
顔も上げられずに口ごもる少女。だがメビウスの次の言葉を聞いて、その目が大きく見開かれた。
「新しいイースなど、必要ない」
「メビウス様……。今、何と……」
「必要ない、と言ったのだ。イースだけではない。今の私に、人間の幹部は不要だ」
少女が勢いよく顔を上げ、今にも立ち上がらんばかりの勢いで絶対者に向かって言い募る。
「し、しかし! 新しいラビリンスを統治されるには、幹部が……」
「元々、彼らは国の統治には関わっておらぬ。ノーザとクラインを復活させれば、それで事は足りる。インフィニティの正体を掴み、不幸の集め方を習得した今、人間の幹部は用済みなのだ」
さっきまでと変わらない口調で、メビウスが淡々と語る。その主の顔を見上げようともせず、少女は平伏した姿勢のまま、わなわなと身体を震わせていた。
(イースが……必要ない? もう人間の幹部は、用済みだと……?)
頭をガツンと殴られたような衝撃だった。
頼みの綱が――いや、糸が切れてしまった。かつてのラビリンスが崩壊したあの時から、必死で手繰り寄せようとしてきた細い細い糸。かつての世界から未来へと、唯一繋がっていたはずの糸が、ぷっつりと断ち切られてしまった。
世界がぐらぐらと大きく揺れ、今度こそ音を立てて崩れていくような気がする。
(嘘だ……。嘘だ、嘘だ、嘘だ……!)
そう繰り返していれば、崩れ行く世界が、未来が、元に戻るとでも思っているかのように、少女は心の中で叫び続ける。
不意に、E棟の光景が蘇った。
直立不動の子供たちで一杯の講堂で、誰よりも姿勢を正し、スピーカーから流れてくるメビウス様のお言葉に耳を傾けた日々。
来る日も来る日も訓練に励み、何人もの幹部候補生と命がけの手合せを行ってきた日々――。
――私が管理した世界ならば、悲しみも、争いも、不幸も無い。
毎日のようにメビウス様の素晴らしさを聞かされて、いつか必ず最もお傍近くでお仕えするのだと、必ずその高みまで辿り着いてみせると、そのたびに決意を新たにした。
そこから見える景色は、きっと誰も見たことがない素晴らしいものに違いないと、それだけを信じて生きてきた。
(嘘だ……そんなこと、メビウス様がおっしゃるはずが……)
極限まで見開かれた赤い瞳が、ただ目の前の地面を、穴があくほど見つめる。その時、一本のコードがゆっくりと、音も無く少女に近付いた。
「お前は良く働いた。もう心配は要らぬ。この私が復活した今、お前がすべきことはただひとつ。それは私に従い、私の言うがままに生きることだ」
そう言って、もう興味がないと言わんばかりにメビウスが少女から目を離す。それと同時に、コードが蛇のようにするすると動き出した。だが、少女は座り込んだまま、それに反応しようともしない。
コードが間近に迫り、今にも少女に飛びかかろうと細い身体を縮めた、その時。
「危ない!」
鋭い声と共に、少女の身体が突然地面に投げ出された。誰かが自分を突き飛ばし、もつれ合って一緒に転んだ……そう気付いて、少女が身体を起こそうとする。
だが一瞬早く、少女に覆い被さっていた人物が、彼女を抱きかかえるようにして素早く地面を転がった。さっきまで二人が居た、まさにその場所の地面に灰色のコードが激突し、跡形も無く消え失せる。その様子をぼんやりと眺めていた少女は、隣で素早く立ち上がった人物を見て、驚きに目を見開いた。
「さあ、逃げるよっ!」
少女の手を掴み、グイっと引っ張って立たせてから、そのまま彼女の手を引いて走り出したのは、物陰に隠れていたはずの、ラブだった。
人一人がやっと通れるような建物と建物の隙間を、ラブは少女の手をしっかりと握って、ジグザグと走り抜ける。
どうやら新たなコードが追ってくる気配は無い。高い建物の裏手に回り込んだところでようやく足を緩めたラブが、少女の方を振り返って笑みを浮かべる。だがその途端、地面に落ちていた瓦礫につまずいて、ラブの身体は前へつんのめった。
「うわっ!」
転びそうになったラブを、少女が素早く抱き留める。ふうっと大きく息を吐いてから、ラブは今度こそ少女の顔を見つめて、にっこりと笑った。
「また助けてもらっちゃったね。ありがとう!」
「いや。助けられたのは私だ」
少女がそう言いながら、ラブの身体からそっと手を離す。と、そこで何かに気付いたように、しげしげとラブの顔を見つめた。
「あなた……どうしてさっき、あんな風に動けたの?」
「え?」
「あのコードの化け物から、私を助けてくれた時」
ラブの身体能力がどの程度のものかは、一度の手合せで分かっていたはずだった。普通に考えれば、せつなならともかく、ラブの力であの素早い動きを見切って避けられるはずがない。
少女の質問の意味がどこまで分かっているのか、ラブは、んー……と間抜けな声を上げてから、照れ臭そうな顔で頭を掻いた。
「よく分からないけど、あなたを助けなきゃ、って必死だったから……かな」
そう言ってアハハ……と笑う場違いなまでに明るい顔を、少女は信じられないものを見たような目で見つめる。だがすぐに、その顔は下を向いた。
「何故、私を助けたの?」
「友達を助けるのは、当然だよ」
「ともだち……」
オウム返しに呟いて、少女がくるりとラブに背を向ける。
「……そんなものになった覚えなどない」
「でも、あたしは友達だと思っているよ」
「それに、私はもう用済みだ。助ける価値など……」
「そんなことないよ!」
皆まで聞かず――いや言わせず、ラブは激しくかぶりを振った。
「あなたはあたしのこと、二度も助けてくれたよね。ううん、二度だけじゃない。あの施設に居た時だって、ノーザから何度も守ってくれた」
「……」
「あなたはとっても強くて、優しい人だよ。だからこれから、きっと幸せになれるって!」
一点の曇りも淀みも無く、力強くそう言い切る声。それを聞いて、少女が再びラブの方に顔を向ける。
驚いたような、怒っているような、そしてほんの少し嬉しそうな……だが、それも一瞬。すぐにその顔は、再び力無く下を向いた。
「……そんなこと。それに、私はもう……」
少女がそう言いかけた時。彼女たちの隣に建っていた高い建物が、何の前触れもなく忽然と消えた。
「えっ……うわっ!」
その途端、再び強風が吹きつけて、ラブの驚きの声が小さな悲鳴に変わる。
突然広々と開けた視界に、中空で両手を広げたメビウスの巨大な姿が飛び込んで来る。まさにこの世界の全てを、今にもその手に納めんとするような姿が。そして近くに目を移すと、建物を消した張本人らしいグレーのコードが二本、ゆらゆらと揺れながら、二人の様子を窺っている……。
「こっちだ!」
今度は少女がラブを引きずるようにして、路地に逃げ込もうとする。
行く手を阻むように襲い掛かるコード。だが飛び出した途端、二本とも真っ二つに切り落とされ、あっけなく消え失せた。ラブの窮地に気付くや否や、せつなが遥か上空から、手にしていた刃物をコード目がけて放ったのだ。が、すぐさま新たなコードが二人めがけて放たれる。
「ラブ!」
せつなが地上に飛び降りようとするが、風に煽られ、思うように動けない。
ついにコードが二人に迫る。だが次の瞬間、横合いから飛び出した人物が、コードをむんずと掴み、それを無造作に引きちぎった。
引きちぎられたコードが、瞬く間に霧消する。それを不思議そうに眺めてから少女の方を振り向いたのは、さっき少女に「一緒に来い」と言った、あの少年だった。
「ありがとう! でも、どうして……」
「何故戻って来た」
嬉しそうに、そして不思議そうに問いかけるラブの声と、ぶっきらぼうな少女の声が重なった。
「お前に言いたいことがあって来た」
早口でそう言ってから、少年は中空に目を留める。そして驚きと焦りの色を隠そうともせず、少女に詰め寄った。
「今のは何だ。それにあれは、メビウスなのか!?」
少女が、ああ、と頷いた時、新たなコードが三本、こちらに向かって伸びて来た。
「早く逃げろ!」
少年が二人を庇う様に立って身構える。二本を右手で、もう一本を左手で掴んで、力任せに引きちぎろうとする。だがその時、コードがもう一本、少年に向かって高速で迫って来た。
咄嗟にコードの軌道を避けようとして、少年の動きが止まる。ここで避けたら、コードは一気にラブと少女に襲い掛かるだろう。
(それだけは――絶対に食い止める!)
少年は三本のコードを掴んだまま、通せんぼでもするように両手を大きく広げて、もう一本のコードの前に立ちはだかった。
「ぐわぁぁぁっ!」
少年の絶叫に、少女とラブが足を止める。一本のコードが少年に絡みつき、その先端が彼の身体に突き刺さっていた。何とかコードを外そうとする少年の身体に、さらに何本ものコードが絡みつき、がんじがらめにしている。
「おいっ、大丈夫か!?」
「こっちに来るなっ!」
少年がそう叫びながら、懸命に腕を動かして、両手に持ったコードを引きちぎる。そして自分を拘束しているコードを両手でグッと掴むと、何とか首だけを少女の方に向け、苦し気な声を張り上げた。
「これだけは……覚えておけ。お前は不満かも……しれないが、俺たちは……仲間……だっ!」
「おい、しっかりしろ! お前の馬鹿力で、そんな拘束など引きちぎれ!」
少女の呼びかけも空しく、少年の瞳から、次第に光が失われていく。だが、少年は叫ぶのをやめようとしない。さらに途切れ途切れになった声を必死で張り上げて、何とか言葉を繋ごうとする。
「たくさんの……人が、お前を……しん……ぱい、してる。だか……ら……これ以上、無茶は……するな!」
そう言うと同時に、少年は顔を真っ赤にし、渾身の力で右手を動かすと、拘束しているコードの一本を、自分の首元へと動かした。
「よせ! そんなことをしたら……」
「いいんだ。俺は……お前と……は、戦いたく……」
そこまで言ったところで、少年の右腕が、だらりと垂れ下がった。
少女がギリッと音を立てて、強く奥歯を噛み締める。
次の瞬間。今度は地上から、一陣のつむじ風が巻き起こった。小さな風は、まるで天からの強風に逆らうように、少年の方へと迫っていく。
やがて、キラリと何かが煌めいて、少年を拘束していたコードが一本残らずすっぱりと断ち切られた。
風が収まった後には、少年を抱きかかえ、右手にさっきせつなが投げた刃物を握り締めて、赤い瞳を輝かせて立つ少女の姿があった。
「無茶はお前だ」
少女が腕の中の少年に、そっと囁く。そして、泣きそうな顔で駆けてきたラブに、静かな声で言った。
「安心して。気を失っているだけ」
少女の言葉に、ラブがホッと小さく息を付く。その時ようやく駆け付けたせつなが、少女と一緒に少年の身体を支えた。そして三人で少年を避難させようとしたその時、天の高みから、再び冷ややかな声が響いて来た。
「随分と不幸のエネルギーを無駄にしてくれたようだな。お前は私の忠実な僕ではなかったのか」
メビウスが、相変わらず何の感情も読み取れない淡々とした口調で語りかける。少女はせつなとラブに少年を預けると、メビウスの方に歩み寄り、その顔を見つめ返して、あろうことか――ふん、と鼻で笑った。
「あなたが下らないと切り捨てた、“想い”の力です」
「何だと?」
僅かに怪訝そうなメビウスの顔から目をそらし、少女がラブと、気を失っている少年の顔を交互に見つめる。
“想い”の力が、普段からは信じられないような力で私を守ってくれた。
“想い”の力が、メビウスの管理にすら抵抗して、私に大切なことを伝えてくれた。
少女がグッと両手の拳を握り締め、絶対者を赤々と輝く瞳で見上げる。
「確かにこんな無茶苦茶なこと、普通じゃないかもしれない。が、私にとっては大切なもの。それが……やっと分かった」
「ふん、戯言を……」
「戯言を言っているのは、あなただ!」
一言で切り捨てようとしたメビウスが、少女の言葉に、初めて驚いたように目を見開く。その大きな瞳に向かって、少女が凛とした声を張り上げる。
「私に、イースとしてお役に立てと言って下さったのは、メビウス様だ。E棟の高い塀の中で、悲しみも争いも不幸も無い世界――素晴らしい外の世界を、思い描かせて下さったのも、メビウス様だ」
「……」
少女の拳が、ブルブルと小さく震える。赤い瞳の中の炎が、より赤く、より大きく、より激しく燃え盛る。
「私のこの“想い”は、メビウス様によって育てられた大切なもの。たったひとつ、私が持っていたものだ。それを……愚弄するなぁっ!!」
魂から振り絞るような叫びと共に、少女の身体は、弾丸のように空を目がけて飛んだ。
「……身の程知らずがぁっ!」
数秒の沈黙の後、メビウスもまた雷のような雄叫びを上げる。
ゲージに向かって飛び出した少女目がけて吹き付ける強風。が、彼女はそれを読んでいた。
風に逆らわずにその空気の動きに乗るようにして、空に張り巡らされたコードの一本を掴む。そこからさらに風に乗ってより高く舞い上がり、手当たり次第にコードを切り落としていく。それは、さっきせつなが見せた動きと、そっくりの動きだった。
だが、やがて少女はハァハァと荒い息を付き始めた。ほんの数時間前までナキサケーベに蝕まれていた身体は、まだ癒えていないのだ。
「ええい、ちょこまかと。これでとどめだ!」
メビウスの声と共に、ひときわ強い風が襲い掛かる。それをまともに食らって吹き飛ばされた少女が、瓦礫の上に叩きつけられようとした、その時。
白く細い腕が、しっかりとその身体を抱き留めた。
「あなたは……凄いわ」
少女をそっと下ろしながらせつなが囁く。
(私はあの頃、この世界のあるべき姿なんて……自分が見たい景色なんて、考えたことも無かった……)
幼い頃から教え込まれ、叩き込まれたただひとつの答え。心から崇拝し、ひたすらにお役に立ちたいと願っていた、唯一無二の存在。
でも、自分はその輪郭を描いてみたことなど無かった。ただメビウスが素晴らしい存在だと思い込んでいただけで、外の世界がどう素晴らしいのかなんて、考えて見たこともなかった。
もしかしたら、少女もかつてはそうだったのかもしれない。突然世界の秩序が崩れ、以前ならば信じられないような有様を幾度も目の当たりにすることで、自分が崇拝するメビウスの姿が、そのあるべき世界が、彼女の中に姿を、形を持ったのかもしれない。
だとしても――。
(そんな形を、もしあの時の私が持っていたとしたら……もう少し、メビウス様と分かり合うことが出来たのかしら)
「ふん、何を言う」
せつなの言葉に、少女が少し赤い顔でそっぽを向いてから、何とかもう一度立ち上がろうとする。
「無茶をするな。ここは俺たちに任せろ。お前はアイツに付いていてやれ」
そう言ってその肩を押さえたのは、ウエスターの分厚い掌だった。その隣には、腕組みをしてこちらを眺めているサウラーの姿もある。どうやら二人は警察組織の連中を全員眠らせて、ここに集結したらしい。
「まだもう少し、先は長いよ。君に協力してほしいことも、これから出て来るからね」
サウラーがいつもの皮肉めいた口調でそう言ってから、ふん、と口の端を斜めに上げる。その顔を見て、せつなが僅かに瞳をきらめかせた。
「何か策があるの? サウラー」
「まだ何とも言えないが……少し僕に時間をくれないか。試してみたいことがある」
真顔になったサウラーに、せつなとウエスターが頷く。
「お願い。あたしも一緒に、ここに居させて」
最後にラブが少女の手を握り、真剣な眼差しでその顔を見つめた。
少女は、まるで怒っているように顔をしかめて、自分を取り囲む四人の顔を見回した。そして少し呆れたような表情になって、ハァっとわざとらしいため息をつく。
「言っておくが、仲間になったつもりは無いからな」
そう言い捨てて、彼女はずっと握りしめていた刃物を、そっとせつなに手渡した。
中空に跳び上がったせつなとウエスターが、再び次々にコードを破壊する。そこにサウラーの姿は無い。だが、メビウスはそれを気にする様子も、特に慌てる様子も無く、眼下の様子をぐるりと見渡した。
「そろそろ管理したデータと私自身を、“器”に移す時が来たようだ。その前に、裏切り者たちを始末しなければ」
まるで地に響くような、不気味な呟き。やがて、その射るような眼差しがあるものを捉え、その引き結ばれた唇が緩んで、メビウスは小さくほくそ笑んだ。
~終~
最終更新:2018年01月21日 21:34