再会の日/一六◆6/pMjwqUTk
「そう言えばさ、キャンディ。」
六分の一に割られたビスケットを頬張っていたキャンディは、みゆきの言葉に、クル?と顔を上げた。
「狼さん・・・えっと、ウルルンたちって、今どうしてるの?」
「あーっ、それ、ウチも気になっててん!」
みゆきの隣りから、あかねが身を乗り出す。やよい、なお、れいかも、一斉にキャンディの顔を覗き込んだ。
ここは星空家の二階にある、みゆきの部屋。大きめの窓からは、穏やかな春の日差しが射し込んでいる。
メルヘンランドに戻って、もう会えなくなったはずのキャンディが、再び五人の前に姿を現したのは、今朝のことだった。
お陰で五人の今日の予定は、全く違ったものになった。本当は、みんなで公園に満開の桜を見に行こうという計画だったのだが、みんな桜なんかそっちのけで、会えずにいた時間のお互いのことを話すのに、無我夢中だったのだ。
離れていたのはほんの数カ月だというのに、こんなに話すことが沢山あるということが、何だか不思議で、何だか嬉しいね、と六人で笑い合う。しかし、さすがにずっと外に居ては人目につくので、みゆきの部屋に場所を移したというわけだった。
メルヘンランドでのキャンディのこと。ポップのこと。そして次に気になるのは、やっぱりあの三人のことだ。
「ウルルンとオニニンは、お兄ちゃんと一緒に、道場を始めたクル。」
「道場?なんの?」
キャンディの言葉に、みゆきが首を傾げる。
「道場は、道場クル。メルヘンランドのヒーローたちに、本物の強さを教えるでござる!って、お兄ちゃん言ってたクル。」
「なるほど。と言うことは、武道の道場ですね。」
「ポップ、カッコいい!」
頷きながら解説するれいかの隣りで、やよいが目をキラキラさせる。もしもこの場にポップが居たら、大いに照れて、またテーブルの角に頭のひとつもぶつけたかもしれない。
「そうクル!お兄ちゃんが剣道、ウルルンが柔道、オニニンが金棒道を教えてるクル。」
「金棒道って・・・そんな武道、あるんかーい!」
得意そうなキャンディに、すぐさまツッコむあかね。その横で、なおが心配そうにキャンディを見つめた。
「ねぇ、キャンディ。マジョリーナ・・・いや、マジョリンは、どうしてるの?」
五人の中で、なおが一番、マジョリーナとは縁があった。それだけに、一層彼女のことが気になるのだろう。
「マジョリンは、最初は『誰もが若返る美容室』をやってたクル。」
「え・・・まさか、またマジョリーナ・ターイム!とか言って?」
なおの言葉に、キャンディが首を傾げる。
「ソリは知らないクル・・・。でも、お客さんがだぁれも来なくて、マジョリンも道場で教えることにしたクル。」
「ええ~っ!マジョリンは何を教えてるの?まさか・・・発明道!?」
「おおっ!また、ハッピーロボみたいなロボット作ってくれるのかな!?」」
両手を振り回して大騒ぎのみゆきに、鼻息の荒いやよい。あかねとなおは、眉毛をヒクヒクさせて苦笑い。れいかは真顔で首を傾げている。
キャンディはそんな五人に向かって、嬉しそうに首を横に振った。
「違うクル。マジョリンは、花嫁修業を教えてるクル。お料理とか、お掃除とか!メルヘンランドのヒロインに、女性の・・・女性の・・・何だったクル?」
「たしなみ、ですね。」
れいかが笑顔で助け船を出す。
「そうクル!その、女性のタノシミを教えるって言ってたクル。」
「た・し・な・み、や、キャンディ。そりゃ、楽しんでやれたら、それに越したことないけどな。そんでも凄いな~。ヒーローとヒロインのための道場っちゅうわけか。」
やっぱり高速でツッコみながら、あかねが感心したように、うんうん、と頷く。
「メルヘンランドにもまた、道を探し求めている人々がいるのですね。」
れいかは、何だか少し違うところに感じ入っているらしい。が、すぐに心配そうな顔になると、キャンディに向き直った。
「でも、キャンディ。ウルルンさんたちの道場に、ヒーローやヒロインの皆さんは、訪れているんでしょうか。」
れいかの声に、その場が一瞬、静寂に包まれる。
「だって、あの方たちは・・・」
「絵本の中では、悪役やもんな。」
口ごもるれいかの言葉を引き取るあかね。それを聞いて、なおが憤然と身を乗り出す。
「でも!あの三人は、辛い気持ちを乗り越えて、やっとメルヘンランドに戻ったんだよ?なのに、またいじめられるなんて、筋が通ってないよ!」
「うん・・・可哀そうだよね。」
やよいが寂しそうな声でそう呟いた、そのとき。
「大丈夫クル。」
相変わらずあどけない、でも確信に満ちた言葉に、五人は思わず、え?と小さく声を上げた。
「ウルルンたちは、昔に戻ったんじゃなくて、未来を変えようと頑張ってるクル。キャンディとお兄ちゃんは、そんなウルルンたちを応援してるクル。妖精のみんなも、きっと少しずつ、わかってくれるクル。」
「・・・そうだね。わたしたちも応援するよ!」
みゆきがニッコリ笑って、キャンディを抱きしめる。
「そうですね。千里の道も一歩から、と言います。」
と微笑むれいか。
「妖精さんたち、みんな臆病だったじゃない?だから、すぐには無理かもしれないけど、心は通じ合うよ。あたしたちもそうだったもの。」
「臆病って、それ、なおが言うか~?」
力強く言い放つなおに、ニヤリと笑いかけるあかね。
「そうだよ!だって、スーパーヒーローはみんな、勇気があって優しいもん。」
やよいの声も明るい。
「みんな・・・ありがとうクル!」
目を潤ませてお礼を言うキャンディに、五人が一斉に笑顔を向けた。
「そうだっ!ねぇ、キャンディ。キャンディがこっちに来られるようになったってことは、わたしたちも、いつかみたいにメルヘンランドに行けるの?」
みゆきの問いかけに、キャンディは少しの間考え込む。
「・・・お兄ちゃんに聞いてみるクル。でも、きっと大丈夫クル!」
「やったぁ!じゃあさ、今度みんなで、ウルルンたちに会いに行こうよ!」
「それ、ええなぁ。マジョリンのお料理教室で、ウチのお好み焼き、教えたる!」
「わたしは、アカオーニ・・・ううん、オニニンに、漫画のモデルになってもらいたいなぁ。今度の『ミラクル☆ピース』でね、ピースを助けるカミナリ様が登場するの!」
「あたしは、ウルルンとポップに武道を習いたいよ!そして代わりに、サッカーを教えるんだ。」
「私は、もしよろしければ、道場に掛ける額縁の文字を、書かせて頂きたいです。」
目を輝かせる仲間たちを、キャンディもキラキラした目で見上げる。
「みんなきっと、すっごく喜ぶクル!もう一度こっちの世界に来られるようになったって話したときも、すっごく喜んでたんだクル。」
「へぇ。じゃあもしかしたら、ウルルンたちもこっちに遊びに来てたりして。」
みゆきがそう言って、眩しそうに窓の外に目をやる。春の太陽は、まだまだ高いところから、世界を明るく照らしていた。
☆
「まぁ、そう落ち込むなって。」
見回りに出かける先輩に、ポンと肩を叩かれて、若い巡査は、はい、と素直に頷いた。チリリン、と置き土産のように鳴らされる自転車のベルが、何だか今日はヤケに明るく聞こえる。
ここは、七色が丘市にある、小さな交番。いつもニコニコと笑顔を絶やさず、小さな子供からお年寄りにまで人気のある巡査が、今日は見る影もなく萎れていた。
昨日の夕方、彼はものの見事に、引ったくり犯を取り逃がしたのだ。慌てて逃げようとした男を追って、自転車で追いかけたまでは良かったものの、そこに若い女が飛び出して、目の前で倒れてしまった。それを助け起こして介抱している隙に、男は人混みに紛れて消えてしまった。どうやら女が男とグルだったらしいと気がついたのは、その後だ。
幸い男はすぐに捕まったのだが、巡査の方も、署長から大目玉を食らったのだった。
(あーあ・・・僕はやっぱり、人を見る目が無いのかなぁ。まさかあれが演技だったなんて、少しも思わなかったよ。)
冷たいスチールの机の上に両手を置いて、はぁっと溜息をつく。そのときだ。
「落ち込んだ顔して、どうしたんだわさ?」
交番の入り口から、聞き慣れた声がした。
「あなたは・・・まじょ・りーなさん!お久しぶりです。今日は、どうしました?何か失くし物ですか?」
机の前に置かれているパイプ椅子に、我が物顔で座り込む老婆に、巡査は力無く笑いかける。
「そんなことより、なんでそんなに元気がないんだわさ?」
「私・・・昨日、職務で大失敗してしまいまして。」
巡査はそう言って、ハハハ・・・と乾いた笑い声を上げる。老婆はそれを聞いて、ふん、と鼻をならした。
「大失敗なんて、誰だってするだわさ。あたしなんか、少し前までずーっと臍を曲げて、失敗しかしてこなかったんだわさ。」
「えっ?」
驚く巡査に、ニヤリと笑って見せる老婆。そして歯の抜けた口をすぼめ、短い足をぶらぶらさせる。やがてその口からごく小さな声が、もごもごと吐き出された。
「あ・・・・・・だわさ。」
「はい?」
「だから!・・・あ・・・・・・だわさ。」
「すみません、あ・・・何ですか?」
困った様子でこちらを覗き込む巡査を、老婆は上目遣いでジロリと睨む。
「あんた、そんなに若いのに、耳が遠いだわさ?」
「いえ、そんなはずはないんですけど。」
「・・・まぁいいだわさ。そうだ、あんたにお土産を持って来たんだったわさ。」
そう言って、老婆はごそごそと何かを取り出した。
「ほれ。大阪土産の、納豆ぎょうざ飴だわさ。今、話題の飴だわさ。」
「これ・・・僕にですか?」
「他に誰がいるだわさ?」
それだけ言うと、老婆は老人とは思えぬ身軽さで、ぴょんとパイプ椅子から飛び降り、スタスタと交番を出て行こうとする。
「あ、あの・・・まじょ・りーなさん?何か他に、用があったんじゃ・・・。」
巡査の呼びかけに、老婆の足が、交番の入り口でぴたりと止まった。
「あ・・・あ・・・ありがとうだわさ!あんたは・・・あんただけは、あたしに優しかっただわさ!」
何度か口ごもった後に、叫ぶようにそう言って、後ろも見ずに駆け去って行く彼女。巡査は、交番の自分の席で椅子から立ち上がった格好のまま、あっけにとられてその小さな後ろ姿を見送った。
手の中には、老婆に押し付けられた、オレンジと緑の縞々の、派手な紙包み。
「ふふっ。」
小さな笑みをひとつこぼして、巡査はまた席に座った。まだスチール机の上に置かれている掌は、今はもう温まって、冷たくはない。
(僕は確かに、人を見る目が無いのかもしれない。でもだからこそ、ここを訪れる人全員に、いつでも心を込めて接するんだ。)
心の中でそう呟きながら、丁寧に紙包みを開ける。茶色いビニールでくるまれた飴を一粒取り出して、勢いよく口に放り込んだ。
「う・・・本当に、納豆とぎょうざの味だ。わ、判りやすい味ですね、まじょ・りーなさん。」
巡査は涙目でそう呟くと、机の上の湯呑みを手に、慌ててお茶を淹れに行った。
☆
「カーーーット!」
監督の野太い声が、時代劇映画村に響く。
「いいねぇ、キミ。面白いよ。」
丸めたシナリオを鼻先に突きつけられ、大声で絶賛されているのは、青鬼役の大柄な俳優だ。
頭を掻きながら嬉しそうに笑っている彼を横目で見ながら、スタッフたちは皆、苦笑いで顔を見合わせた。
「あ~あ、派手にやってくれたよなぁ!」
「仕方ないさ、今回はヤツがメインだから。」
鬼たちの襲撃で、本当に滅茶苦茶・・・ではないものの、青鬼が勢い余ってかなり壊してしまったセットを、手早く修繕する。
「まさか『妖怪
オールスターズDX』に続編が出来るとは思わなかったよなぁ。前に主演だった・・・ポップだっけ?あの俳優はホントに風来坊だったらしくて、どこの誰かもわからないんだろう?」
「ああ。それにしても、今回の青鬼は生き生きしてるよな!前とはエラい違いだ。」
「そりゃあ初主演だもの。張り切るのは、当然だろ?」
にこやかに談笑しながら、手を動かすスタッフたち。が、次の瞬間、その表情が一気に凍りついた。
ドスン、ドスンと地響きを立てて、誰かがやって来る。
青鬼よりも一回り大きな、筋肉質の赤黒い体躯。もじゃもじゃの赤茶けた髪と、ニョキリと突き出した二本の角。黄色と黒の絵に描いたような虎のパンツに、太くて重そうな金棒・・・。
「青鬼様!しばらくだオニ!」
やって来たのは、以前、映画村に突然現れて大暴れし、そしていつの間にかいなくなった、赤鬼だった。
「う~ん、キミ、どっかで見たね。」
監督が顎鬚を撫でながら、呑気そのものの声で言う。
「どっかで、って監督!前の撮影の時にも現れて、セットを滅茶苦茶にしたヤツですよ!」
若い助監督が逃げ腰になりながら、監督の耳元で囁く。
監督以外の誰もが固唾を飲んで見守る中、赤鬼と向かい合った青鬼は、持っていた小道具の金棒を、カランと取り落とした。
「あ、青鬼様!逃げなくていいオニ。俺は、ただ一言謝りたかっただけオニ。」
赤鬼が慌てた様子で、空いている左手を振る。その大きくて分厚い手を、青鬼は両手でガシッと掴んだ。
「何言ってるオニ!キミに大ファンだって言ってもらえて、俺、びっくりしたけど、凄く嬉しかったオニ。ありがとうオニ!」
「オニ~~~!?」
「あ、いけね。ついつられて、青鬼の台詞の口調でしゃべっちまった。」
青鬼役の俳優が、そう呟いて頭を掻く。しかし、目の前の相手が目をウルウルさせて喜んでいるのを見て、そのままの口調で言葉を続けた。
「俺、ずっと悪役専門だから、あんな風に言われたことなかったオニ。お陰で自信がついたオニ。」
「本当オニ?あのとき、俺は映画だなんて知らなくて、たくさん酷いことをしちゃったオニ。それなのに、ありがとうって言ってくれるオニ?」
赤鬼が、感極まった様子で、ガバッと青鬼に抱きつく。
「こちらこそ、ありがとうオニ~!」
「グッ・・・カハッ・・・ど、どういたしまして・・・オニ・・・」
そのあまりの力の強さに、青鬼が顔だけ真っ赤になった。
「いいねぇ、友情だねぇ。おぉーっ!ひらめいたぁ。君も、映画に出てくれないか!?」
監督が、椅子を蹴倒して赤鬼に駆け寄った。驚いた赤鬼から、青鬼がやっと解放されて、ケホケホと苦しそうに咳をする。
「いいオニ?俺も映画に出られるオニ?」
喜んで小躍りする赤鬼のステップに合わせて、直したばかりのセットが、ギシギシと揺れる。
若い助監督とスタッフたちは、やれやれ、と溜息をついてから、誰からともなくクスリと笑い合った。
「よぉい、スタートっ!」
再び監督の大声が響き渡る。
赤鬼は、青鬼と肩を並べて、意気揚々と金棒を振り回し始めた。
☆
山からの風が、コブシの花の匂いを運んで来た。タエは縁側に出て、ほんのりと甘い空気を胸一杯に吸い込む。
「春が来たわねえ。」
ゆっくりとそう呟くと、サンダルを突っ掛けて庭へ出た。
そろそろ夏野菜の種を撒く時分。畑を覆っていた雪は溶けて川を潤し、黒々とした土は、静かに命を芽吹かせる準備をしている。
「トマトにキュウリ、それに・・・ナスも植えようかしら。」
楽しそうに微笑みながら、納屋へと向かう。そのとき、ボチャン、と水の跳ねる音が聞こえて、タエの足が止まった。
家の前の坂道を、息せき切って駆けて来る人物がいる。いや、人物と言うよりは・・・。
「まあ、あのときの狐さん。あ、ごめんなさい、狼さんだったわね。」
タエはニコリと笑って、二本足で立っている、ずぶ濡れの狼に歩み寄った。
「ったく。なんでアイツは俺に会うたんびに、川の中に引きずり込むんだよ!」
狼が、息を切らせながら悪態をつく。
「あら、河童に引っ張られたのね。河童は悪戯好きだから、むやみに川に近付いたら危ないのよ。」
タエはそう言って、狼に向かって手招きする。
「良かったら、上がっていらっしゃいよ。今日は、お腹は空いてないの?」
その言葉に、狼の顔が少し赤くなった。ブルル・・・と頭を振って、再びタエに向き直る。
「いや、それより婆さん。今日は、そのぉ・・・聞きたいことがあって来たんだ。」
「聞きたいこと?」
「ああ。」
そう言ったきり、狼はまた少し赤い顔になって押し黙った。タエは微笑みを浮かべたまま、黙って狼の次の言葉を待っている。やがて、そんなタエに根負けしたように、狼が口を開いた。
「夏に来たとき、婆さん言ってたろ。えーっと・・・何があっても、笑顔で一生懸命生きてりゃあ、いつかきっと・・・いつか・・・きっと・・・」
狼の声が、次第に小さくなる。そのギュッと握りしめた拳を、タエの小さな手が、優しく包んだ。
「いつかきっと、幸せはやって来るわ。」
「あ・・・ああ、そいつだ。それって・・・本当なのか?」
小柄なタエに、大きくて逞しい狼が、すがるような視線を向ける。タエは真っ直ぐにその眼差しを受け止めると、ええ、と力強く頷いた。
「大丈夫。たとえ今日はお天気が悪くても、ずーっと真っ暗なんてことは、ないのよ。」
「うぐっ・・・!」
狼は、何か熱いものでも飲み込んだような顔で目をつむると、もう一度、ブン、と頭を振った。
「ふん、そうか。それだけ聞きたかったんだ。道理でバッドエナジーが出ないワケだぜ。」
目を細くして、初めてタエにニッと笑いかけてから、狼はくるりと背を向ける。
「あら、ご飯食べてかないの?すぐ支度するわよ?」
「ありがてえけど、今日は仲間に黙って出て来ちまったからな。心配させるとうるせえから、これで帰るぜ。」
「そう、残念ね。あ、だったら、今度はお仲間と一緒に、ゆっくりいらっしゃいよ。」
「また来ても・・・いいのか?」
首だけをこちらに向けて、囁くように尋ねる狼。その顔を見上げて、今度はタエが笑顔になる。
「もちろん!待ってるからね。」
狼はそれを聞くと、大きな口をぐっと引き結んで、首を元に戻した。
さっと右手を挙げるだけの挨拶をして、振り向きもせずに走り去って行く狼。
「頑張って。」
小さくなっていく背中にそっと呼びかけたとき、タエはふいに、去年の夏、今日と同じようにずぶ濡れで現れた狼の表情を思い出した。
「そうだ。忘れないように、トウモロコシも作らなきゃね。狼さん、食べたそうだったもの。」
タエは、また楽しそうにニコリと笑うと、納屋に向かって、ゆっくりと歩き出した。
☆
丘を駆け下り、川の傍をこわごわ通り過ぎた狼は、やっと平坦な道に出て、ホッと息をついた。
途端にボン!という音がして、狼の姿が消える。後には、狼と呼ぶにはあまりにも可愛らしい、小さな妖精――メルヘンランドのウルルンと、一冊の絵本があった。
「ふぅ。まさか変化の術で、またあの姿になれるとは思わなかったウル。」
本当は、好んでなりたい姿ではない。今日の相手はあの姿の自分しか知らないから、仕方なく姿を変えて会いに行っただけだ。でも・・・。
(あの婆さんなら、ひょっとしたら今のままの姿で会いに行っても、大丈夫かもしれないウル。)
もしもこの姿で現れたら、彼女はどんな顔をするだろう。ウルルンは、タエの家の方を振り返ってニコリと笑うと、持っていた絵本の中に飛び込んだ。
バサバサとページを羽のように羽ばたかせて、メルヘンランドへと向かう。やがて、新しい職場『メルヘン流道場』の建物が見えて来た。
「おーい、ウルルーン!どこに行ってたでござるかー?」
玄関の前に仁王立ちになって、ポップが大声で叫んでいる。
「急ぐでござる!初めての入門希望者でござるよ~!」
「本当ウル!?」
見下ろせば、ポップの後ろからそっとこちらを仰ぎ見ている
小さな影。つば広の帽子を粋にかぶったその姿は、長靴をはいた猫、ペロだ。
「よぉし、今行くウル~!」
ウルルンが絵本から飛び出す。そして満面の笑顔で、道場に向かって一目散に走り出した。
~終~
最終更新:2013年02月12日 14:14