『宋史紀事本末』翻訳wiki
契丹盟好1
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(01)真宗の咸平二年(999)冬十月、契丹の主の隆緒が大挙侵入した。
当時、鎮定高陽関都部署の傅潜は八万余の歩兵と騎兵を擁していたが、臆病風に吹かれ、陣営を閉ざして自衛に務めていた。将校が出撃を願い出ても口汚く罵るだけだった。朝廷は裏道から使者を派遣して潜出撃を督促したが、潜は命令を聴かなかった。このため范廷召は「女でも貴方のような臆病者はいない」と罵った。また鈐轄の張昭允もなんども出撃を勧めたので、潜はやむを得ず廷召に騎兵八千を授け、兵を出して防衛させた。廷召はさらに都部署の康保裔に援軍を求めたところ、保裔はすぐに兵を率いて出撃した。かくして契丹兵と瀛州で遭遇した。
たまたま日が暮れたので、廷召は、翌日に合流して契丹と戦うべく、各軍に約束を取り付けた。ところが廷召はこっそり逃げ出してしまった。保裔はこれに気付かなかった。夜が明けると、契丹兵は保裔軍を数重にも包囲していた。保裔の側近は武具を取り換えて逃げるよう勧めたが、保裔は「難に臨んで逃げるなどあり得ぬ。いまこそ命をかけて国恩に報いるときだ」といって戦いに赴いた。かくして戦うこと数合、多くの敵兵を屠ったが、兵尽き矢折れ、援軍も至らず、ついに保裔は討ち死にした。
契丹は勝利に乗じて遂城を攻めた。城は小さく、備えもなく、人々は恐怖に陥った。遂城守将の楊延昭は、業の息子だった。延昭は人々を集めて城壁の守りを固め、援軍を待った。折からの大寒のため、水を城の上から流すと、城壁はたちまち厚い氷に覆われ、氷に足を取られて壁を登ることができなくなった。このため契丹軍は遂城から撤兵し、祁・趙・邢・洺州を掠奪すると、徳州・棣州から黄河を渡り、さらに淄州・斉州を掠奪してまわった。
(02)詔を下し、辺境の民が拒馬河を越えて砦の北で交易することを許した。
雄州知事の何承矩の請願――「辺境の戦櫂司は淘河から泥姑海口まで、屈曲九百余里、これを天然の要害としております。太宗は十六の砦、百二十五の宿駅、十一人の廷臣、三千余の守備兵、百艘の船を置き、往来を監視して奸邪を禁じられました。そのため緩急の備えが生まれ、強力な要害となりました。今、公私の交易を認めれば、人馬の交流を許すことになります。これでは全く敵に対する備えになりません。これでは砦や宿駅も無用になりましょう。」承矩の意見書が上奏されると、すぐに前の詔書を取り止めた。
(03)十二月、帝みずから兵を率いて契丹の防衛に向かった。李沆を東京留守とした。
(04)甲寅(五日)、帝は京師を出発し、陳駅に到着した。
(05)戊午(九日)、澶州に到着した。
(06)辛酉(十二日)、行宮で近臣たちと宴を催した。王超らを先鋒とし、戦陣を図示し、各兵の配置を通達した。
(07)壬戌(十三日)、近臣に甲冑・弓・剣を授け、浮橋まで兵を進めた。臨河停に到着すると、澶州の長老に錦袍や茶帛を与えた。
(08)甲子(十五日)、大名に到着した。
銭若水は意見書を提出した。――
孫武はその書物において「陰謀を見破るのが最上だ」と言い、漢の高祖はその戦いにおいて「軍法を守ることが第一だ」と言っております。陰謀を見破るとは何を意味するのでしょう。それは、将軍たるもの敵を知り勝を制さねばならぬ、という意味です。では軍法を守るとは何を意味するのでしょう。それは、朝廷たるもの賞罰を公平にせねばならぬ、という意味です。
ところがいま傅潜は精鋭数万を擁しながら、自陣を守って出撃せず、敵兵の掠奪行為を座視しております。上は重用の恩に背き、下は精鋭の気を挫いております。潜は勝を制すことができず、朝廷は軍法を守ることができなかったのです。軍法によりますと、戦争で命令を無視したものは斬ることになっております。もし潜を斬って見せしめとし、それから楊延朗(楊延昭のこと)・楊嗣など五七人を抜擢し、地位や俸給を与え、兵権を分与し、万人の兵に強弩を与えて率いさせ、多方から賊を掃討させたなら、命令を聴かぬものなどおりますまい。命令を聞かぬ将軍や逃げるものは死罪であると、このような我が方の態度を知れば、必ずや適は逃げ出すでしょうし、毎年のように国境を侵すこともなくなるでしょう。さすればおのずと辺境は平和になりましょう。かくして陛下が京師に帰還されましたなら、その権威は四海を圧倒することになりましょう。
私は史書を読みましたところ、次のような逸話がございました。――周の世宗が即位したばかりのころ、劉崇は契丹と結んで周に侵入しました。契丹は将軍の楊袞に騎兵数万を与え、崇とともに高平まで南下してきました。当時、樊愛能や何徽といった将軍たちはみな臆病者で、敵を前にしても戦おうとしませんでした。そこで世宗は大宴会を催すと、愛能などを斬り、かわりに副将ら十余人を抜擢して兵を分け与え、太原を討伐させました。劉崇はこの世宗の処断を知ると震え上がり、敢えて周と戦おうとしませんでした。また契丹もその日のうちに逃げ去りました。これ以後、周の武威はいよいよ猛くなり、淮甸を併呑し、秦・鳳を屈服させ、関南を平定し、全土を席捲したのです。ましてや神武をおもちの陛下のことです。なにゆえ世宗に後れを取るようなことがありましょう。これが今日にあって敵を防ぐための奇策です。
末永く辺境を安定させる方法については、近しい過去に例を取りましょう。太祖はまことにうまく辺境を処置なされました。郭進は邢州にあり、李漢超は関南にあり、何継筠は鎮・定にあり、賀惟忠は易州にあり、李謙溥は隰州にあり、姚内斌は慶州にあり、董遵誨は通遠軍にあり、王彦昇は原州におりましたが、彼等は周辺の巡検を与えられただけで、行営部署を与えられはしませんでした。さらに彼等は十余年も同じ職務に就き、もし功績が挙がれば厚く褒美を取らせました。しかしそれでも彼らが観察使になることはなかったのです。身分の低いものは制しやすく、長らく同じ職務に就いておれば、己の管轄地のことはよく分かるようになります。こうしておいて太祖は彼等に策略――敵が来襲すれば不意を衝いて殺し、逃げれば深追いしない――を授けられたのです。これが十七年の間、契丹や西夏が我らの陣営を侵さぬどころか、しばしば和平を乞うてきた理由です。これらは陛下も御存知のことでしょう。
太祖の故事に従い、名臣に辺境を治めさせ、部署の職を罷めて各軍の指揮権をばらばらにし、巡検を設けて相互に救援させるのです。こうすれば兵を出せば必ず敵を破り、城を守っては必ず敵襲を防ぎ、数年ならずして辺地の烽火は不要に帰しましょう。
孫何も意見書を提出した。――
陛下は即位以来、兵隊の鍛錬と将軍の選抜に心を砕かれておられました。まことに漢の高祖の叡智に蕭王(光武帝)の真心を兼ねたというべく、その神武は百王に冠たり、精兵は前代に倍しております。
兵を指揮するものは、兵士に先んずる心がなければならず、君父の命を違えることに恥を感じなければなりません。しかるに昨今の将軍らは、敵兵を城壁から眺め見ては固く城門を閉ざして保身に走り、強兵の指揮を担いながら成算を失い、ついに凶悪な者どもを好き勝手に暴れさせ、我が辺境の村々は敵方に劫掠され、我が黎民は敵方の災禍を被りました。
陛下は人神として激しい憤りを発せられ、河朔の生霊を哀れまれ、ここに六師を率いてみずから澶淵に向かわれました。ひとたび天の声が発せられるや、敵の騎兵は四散いたしました。しかし鎮州と定州の道が通じたとはいえ、徳州と棣州の戦禍はいまだ息んでおりません。これは将帥に人を得ていないこと、辺境からの伝達に滞りのあること、近隣が互いに救援に赴いていないこと、兵粮は運送を待たねばならぬことが理由であると思われます。
この中、将帥については、このような理由から申し上げるのです。――彼等のあるものは勇を頼んで思慮がなく、またあるものは功を嫉んで辺境の混乱を坐視しております。彼等はただ己の城塞を守ることだけを考え、人民のことなどなんら考えていないのです。また辺境の伝達については、このような理由から申し上げるのです。――城塞を守る臣下は、恋々と俸禄や地位を固執し、城や池が戦火にさらされても事実を朝廷に伝えようとしないのです。また老人や幼子が敵兵に殺されても、それを盗賊の責任になすりつけております。また相互に救援しないことについては、このような理由から申し上げるのです。――国境近辺の州や県は城塞が入り組んでおりますが、これはちょうど頬骨と下顎、唇と歯が互いに助け合うように、また頭と目や手と足が互いに助け合うような関係にあるはずです。しかるに兵が少ないため出撃できないと言ったり、陛下からの許可が出たら出撃するのでそれまで待ってくれ言っておるのです。また兵粮を待たねばならぬことについては、このような理由から申し上げるのです。――敵の騎兵が往来し、犬が馳せ鳥が飛び交うときになってから、ようやくあり余る食料がようやく運び出され、その食糧隊が到着したときには、既に賊は逃げ去っておるのです。
この四者は当今の急務とすべきものです。そこで将帥の選択には、文武官の両者から謀臣を選ばなければなりません。伝達の滞りを防ぐためには、国境の紛争を陛下に直接通達させなければなりません。相互に救援させるには、軍令によって促すとともに、必要な判断を辺境に与えなければなりません。必要に応じて兵粮を運搬するためには、小量の食料を運搬し、運搬速度を競わせなければなりません。
既に陛下の御車は鄴に到着なされました。このため契丹はわが南方を襲う気配を消しました。敵方の掠奪を被ったところは、東北地区の中でも防備のなかったところだけですから、それらには修繕を施して敵に備えさせなければなりません。しかしながら蜂や蠍には毒があり、山犬や狼には飽きというものがありません。既に契丹は西方の大軍を畏れ、北方の帰路を失っております。獣は窮すれば丸くなりますが、事態を軽く考えてはなりません。まだわが国に残るものは討伐し、次の侵略に備えなければなりません。大河には渡し場が方々にあります。禁軍を要害に配置させるのです。かくすれば契丹から講和の使者はすぐにもやって来るでしょう。
(09)丁卯(十八日)、大名の長老を招いて褒美を与えた。康保裔の戦死が伝えられると、保裔に褒美として侍中を授けた。またその子供二人と孫一人に官を授けた。傅潜を呼びつけて房州に配流した。
(10)三年(1000)春正月己卯朔、大名府に到着した。契丹は帝の親征を知ると、掠奪の限りをつくしてから本国に引き上げた。
(11)丁亥(九日)、范廷召らが契丹兵を莫州まで追撃した。そこで契丹兵万余の首を斬り、掠奪品を奪い返した。残余の契丹兵も国境外に逃げ去った。
(12)庚子(二十二日)、帝は大名から都に到着した。
当時、帝は手詔を出して銭若水に北方防備の方法を諮った。若水は次のように応えた。
前代の史書には、匈奴について議論したものが多く残っております。しかし漢の婁敬・樊噲・季布・賈誼・晁錯・主父偃・徐楽・王恢・韓安国・朱買臣・董仲舒の議論は、和親と征伐の二つについてだけです。また唐の李靖・魏徴・温彦博・郭正一・狄仁傑の議論も、戦争か防衛かの二つにすぎません。晉の桑維翰の「盟約に背いてはならぬ」という言葉は、微弱であったがために出た言葉にすぎません。故宰相の趙普は軍を撤退させ、しばらく民に休息を与えるよう申し出ました。しかしこれらは未来まで見すえた計略とは言い難く、臣の賛同できぬものばかりです。一方、厳尤は「昔から戎狄の制禦に上策はない」と言っておりますが、臣は心ひそかにこの発言を笑っております。そもそも「守りは四夷にあり」「勝ちを制するには静を以てす」が上策でなくて何なのでしょうか。
臣が聞くところによりますと、唐の魏博は一鎮のみ、兵数も今日ほど多くありませんでした。しかるに戎狄の騎兵が南方に進まなかったのは、幽州・薊州の険阻を北門として守っていたためです。石晉がその地を割譲して以後、定武(定州)から滄海までの千里の長きにわたり、敵の攻撃を受けることになりました。二つの関所を設け、そこを精鋭に守らせても、敵を抑えられるものではありません。ですから晉の末に契丹は長河を渡り、漢の初めにまた国境を騒がしました。周の世宗の英武をもってして、なお夷狄の中山侵入と上党攻撃を止めることができませんでした。
このたび陛下は防禦策と殲滅策をご諮問なさいました。私は、これに対し、幽州を奪還しないでは夷狄を殲滅できないと思っております。後唐の荘宗は河北から周徳威に幽州を取らせ、その後に南下して天下を争いました。まず万全の計を用い、敵に勝機を与えないこと。――これこそ善く兵を用いるもののすることです。
今日の問題は、攻守が心を同じくしないこと、将軍が敵の実情を知らぬこと、大軍を国境沿辺におき、朝廷に少数の兵しかないことにあります。陛下におかれましては、辺境を任すに足る人間を択び、勇壮の士を親衛軍に招き、官から俸給を与えなさるのがよろしいでしょう。また人を集めて招収軍をつくり、手厚く兵粮を与え、税を免除するのです。彼等はわが国と契丹の両方に行き来しており、各々に親族がおりますので、彼等を用いれば契丹の動静を窺い知ることもできましょう。
このように攻守が心を同じくすれば、将軍は敵の実情を知ることができ、国境沿辺の兵の数も減らせましょう。しかし指揮官がなければ兵は用いられず、勝機を制せぬようでは百戦百勝とは申せません。そこで大臣に河北近辺を守らせ、大軍を与えて辺境の問題を一任なさるのです。契丹への警戒が必要なときには督戦させ、平和なときには兵を退かせるのです。こうすれば一々兵を動かす必要はなく、用兵の妙を得られましょう。全軍で力を合わせ、上下で心を一にする。――防備の計略はこれに尽きます。
もし民力の困難に心を痛められるというのであれば、辺地の田畑を広げるなさるとよろしいでしょう。守備兵が驕慢になるのではないかと思われるのなら、将帥への取り締まりを厳しくなさることです。古諺に次のようにあります。――「法は変えてはならず、令は違えてはならぬ」と。また「功あるものに褒美をやらぬ、これ善を止めるに等し。罪あるものを懲らさぬ、これ悪を許すに等し」と。むかし太祖は郭進に兵を与えて西山を守らせましたが、きつく兵卒を戒め、こう仰いました。――「諸君は必ずや軍法を守らねばならぬ。私が諸君を許そうとも、郭進が諸君を殺すだろう」と。兵への対処がこうであればこそ、郭進の至るところ少しの敗北もなかったのです。臣が請い願いますには、かつて太祖の進に対する心をもって諸将を遇すれば、つねに軍法は厳格に適用されましょうし、賞罰もつねに正しく下されましょう。
帝はこれに賛意を示した。
(13)雄州知事の何承矩がこう訴えた。
契丹は軽率で統率がとれず、貪欲で親しまず、勝てども譲らず、負けれども救わず、馬を駆ることを儀礼と思い、戦争や狩猟を農耕や漁労と心得、風雨にさらされても労とせず、野宿や草原を進むことも苦とせず、さらには騎馬戦の利を恃みとして、連年国境を侵しております。
臣が聞き及びますところ、兵には三つの陣がございます。日月風雲は天の陣。山陵水泉は地の陣。兵車士卒は人の陣。いま地の陣を用いて険難を設け、水泉を集めて溜池を作り、それを連綿と滄海に導けば、敵の騎兵の到来にも気勢を削がれることはありません。さきほど契丹が国境を侵したとき、高陽の一路のみ、東は海を背後に置き、西は順安を恃みとし、官民ともに安全でした。これは屯田の賜です。いま順安の西から西山にいたるまで、数軍の地をまたぐとはいえ、距離はわずかに百里。丘陵あり、川泉も多くございます。これを広げて溜池を設ければ、おのずと国境の問題も止みましょう。
いま国境周辺の守将には不当な者が多く、『詩経』や『書経』を悦ばず、礼や楽を習わず、境界を守ることもできず、制禦にも心得がなく、ややもすれば国家を危険にさらしております。たとえ彼等では貔虎のような勇猛な兵隊を指揮しても、犬羊ほどの弱々しい集団すら止められないでしょう。
臣が兵法について考えますに、およそ用兵の道は、計略によって彼我の情実を知ることにあります。将軍はどちらが有能か、天地はどちらに有利か、法令はどちらが行き届いているか、兵はどちらが強いか、士卒はどちらが熟練しているか、賞罰はどちらが正しいか。等々――これが敵を計り勝利を制する方法です。これを理解して戦争すれば必ず勝ち、さもなくば必ず敗れます。そもそも思慮もなく敵を軽んずるものは、必ず敵に敗れることになります。陛下におかれましては、慎重に優れた官吏を選び、国境周辺の民を治めさせ、手厚い俸禄を与えることで彼等を満足させ、権威を貸しすことで彼等に禁令を守らせるようにして頂きたい。この後で城の溝を深くし、防塁を高くし、兵馬を養い、兵卒を鍛え、戦守の備えとするのです。仁を修め、徳を重んじ、恩恵を施し、按撫の道を広げるのです。士卒を訓練し、田野を開き、農耕を進め、米穀を蓄え、凶作の年に備えるのです。長戟を整備し、勁弩を鍛え、砦を繕い、外患を防ぐのです。敵がやって来れば防禦し、逃げ去れば備えを設ける。こうすれば国境周辺は安定するでしょう
臣はまたこのようにも聞いております。――古代の優れた王は、官吏や人民を安住させ、土俗に従って教化し、能力あるものを選んで不慮の事に備えた、と。斉の桓公や晉の文公は、兵を集めて隣国を服従させました。つまり強国の君主は、必ずその人民の中から勇猛なものを集めて一卒(軍人百人のこと)とし、喜び全力で戦う忠勇のものを集めて一卒とし、跳躍して善戦するものを一卒とします。この三者は兵の中でも精鋭のものです。内から出ては囲みを破り、外に出ては城を破ることができます。そのうえ小大は形を異にし、強弱は勢を異にし、険易は備えを異にします。身を卑しくして強者に仕えるのは小国の形です。夷狄でもって夷狄を伐つのは中国の形です。ですから陳湯が西域を治めると郅支は滅び、常恵が烏孫を用いると辺境は安定しました。また勇気ある者、戦いを楽しむ者、命を軽んずる者を集めることは、古代の良策です。試みに行って頂きたい。
また辺境の人は勇壮なものが多く、国外の情実や山川の形勢も知っております。辺境に軍営を設けて人を集め、品格や能力を問わず、ただ若く勇壮で武芸あるもの一万人を求めるのです。契丹に万一があったときには、知勇あるものに彼等を指揮させれば、必ずや大きな功績があがり、中国にとっての長計となるでしょう。
また榷場の設置についてですが、先朝は随時に処置なされ、契丹に恩恵を与えておられました。彼等が盟約に違反してもこれを廃止しなかったのは、中国のあり方を示したものと言えるでしょう。いま国境周辺の榷場は契丹の侵略のため停止しております。去年、臣が申し上げたことにより、雄州に榷場を設けて茶を売りましたところ、物資は移動しましたが、辺境の民の移動はありませんでした。これについて朝廷の大臣に諮問し、可否を議論していただきたい。もし文武官の中で持論あるものがおれば、必ずやよい方策があるはずです。そのものに辺境の任務を委せ、その政策を実施させ、事の成否でもって責任を取らせるのです。空論浮議で陛下の聡明を惑わすとどうなるかは、霊州〔の陥落〕がいい証拠になるでしょう。ましてこの契丹は夏州の比ではありません。(1)
(14)四年(1001)冬十月、契丹が進入したので、王顕を鎮定高陽関三路都部署に命じて防衛させた。この月、顕は遂城で契丹を打ち破り、二万余を殺した。契丹は満城まで進軍してから引き返した。
(15)六年(1003)夏四月、契丹の耶律奴瓜と蕭撻凜が定州を襲った。
高陽関副都部署の王継忠は大将王超・桑賛らと兵を率いて康村まで向かい、奴爪と戦った。継忠は東方に陣取っていたが、敵の計略に陥り、兵粮の道を断たれた。超と賛は怖じ気づいて軍を撤退させたが、継忠だけは麾下の兵とともに馬を走らせた。継忠の装飾は兵卒と違っていたため、契丹に感づかれ、数重にも包囲された。軍卒はみな決死の覚悟で戦い、戦っては進み戦っては進み、西山に沿って北上した。白城まで進むと力尽き、ついに捕らえられた。帝は継忠の敗北を知り、すでに死んだものと思い、褒美として官を贈った。継忠は契丹の主に炭山で謁見した。蕭太后は継忠の才智を惜しみ、戸部使を授けた。
(16)景徳元年(1004)八月、畢士安と寇準を同平章事とした。
これ以前、士安は参知政事となると、謝礼のため帝を謁見した。すると帝は「まだだなあ。誰かに君を補佐させようと思ってるんだが」と言い、「誰を参知政事にしたらいいと思う」と尋ねた。
士安、「寇準は忠義を兼ね備えております。大事を決断するに当たっては、私も彼には及びません。」
帝、「剛腹に過ぎるという噂も聞いたのだが。」
士安、「準は我が身を忘れて国に殉じ、正しき道を信じて邪悪を悪む男です。だから世間には喜ばぬものがおるのでしょう。いま中国の民は陛下の恩恵を忝なくしているとはいえ、北戎の跋扈は辺境の問題となっております。準のような男こそ必要です。」
帝、「分った。」
かくしてこの任命があった。
(17)九月、契丹が大挙して侵入した。
当時、契丹兵が内地にまで進入したというので、天下は騒然となった。帝は群臣を集めて対策を問うたところ、王欽若は〔江西の〕臨江出身だというので、金陵に避難するよう申し出た。また陳堯叟は〔四川の〕閬州出身だというので、成都に避難するよう申し出た。
そこで帝は準に意見を求めた。
準、「この二策を申し出たのは誰でしょうか。」
帝、「まずはこの二策の是非を判断して欲しい。誰がいったかは聞かないでほしい。」
準、「私はそのものを捕らえて斬り、軍太鼓の生贄にしとうございます。それが追われば北伐あるのみです。陛下の神武と将臣の協和、この二つをもつ陛下が親征を断行なされたなら、敵はみずから逃げ出すでしょう。逃げぬというなら、騎兵を出して敵の謀略を攪乱し、守りを固めて敵軍を疲弊させるのです。どちらが疲弊し、どちらが安逸か。――勝算は我にあります。それだのに社稷を棄て去り、楚や蜀に逃げるようなどと言い出せば、人々の心は崩れ落ち、敵はこの勢いに乗して中国奥深くにまで侵入いたしましょう。そうなれば、もはや二度と天下を手に入れることはできますまい。」
帝は意を決し、また準にたずねた。――「敵は侵略は速い。天雄軍は守りの要だ。万一にも陥落するようなことがあれば、河朔の地はみな敵のものになってしまうだろう。誰に守らせればよいか。」すると準は王欽若を薦め、「すぐに呼び出し、陛下がじかに敕書を与えて赴かせるとよいでしょう。」欽若はやって来ると、茫然としてまだ何も言えないうちに、準はせかしてこう言った。――「主上が親征なさるのだ。臣子として困難を辞すべきときではない。参政は国の舵を執るもの。この意を実践してほしい。」欽若はこの気迫に押され、辞退できなくなった。
(18)閏月乙亥(二十四日)、参知政事の王欽若を判天雄軍兼都部署とした。
(19)契丹の君主隆緒とその母蕭氏は、その都軍の順国王蕭撻覧に威虜軍と順安軍を攻撃させた。しかし三路の都部署はこれを撃退し、副将を斬って物資を奪った。
また北平砦と保州を攻めたが、再び州や砦の兵に敗北した。撻覧と契丹の君主とその母は兵を合わせて定州を攻めたが、宋の兵は唐河で防ぎ、遊撃騎兵を攻め立てた。契丹はついに二十万の兵を陽城淀に留めると、遊撃騎兵を出して掠奪を行い、少しでも不利になればすぐに兵を引き返すといったように、気ままに立ち回り、戦う意思を示さなかった。寇準はこれを聞くと、「我等を侮っているのだ。精鋭を将軍に与え、要害の地を守らせなければならぬ」と言った。
このとき、かつて宋の将軍だった王継忠は、契丹のために和平の利を説きいた。契丹は継忠の発言を認め、李興に継忠の書状と密表を持たせ、莫州部署の石普のもとに派遣し、そこで和平について議論させた。普は朝廷にこれを報告したが、朝廷首脳に是非を判断できるものはいなかった。
畢士安は契丹を手なずけ、段階をふんで和平を許してはどうかと言った。
帝、「敵はあれほど兇悪なのだ。和平は保ち得まい。」
士安、「むかし契丹の投降者を捕らえたのですが、そのものが言うには、中国内地に侵入しても跳ね返されることが多く、思ったほどに利を得られなかった。だから撤退したいと思うのだが、それでいて戦功を立てられないことに恥を感じている、と。ならば彼等もその心の中では、隙に乗じて誰かが本拠地を攻めやしないかと、戦々恐々なのです。恐らくこのたびの要求は嘘ではありますまい。継忠の上奏について、臣は容れられるべきだと心得ます。」
このため帝あ継忠に詔書を与えてこう言った。――「朕はあくまで戦争を求めるものではなく、むしろ争いを止めたいと望んでいる。もし和平を望むのなら、すぐにでも使者をつかわすがよい。」
(20)己卯(二十八日)、高継勲は兵を率いて岢嵐軍で契丹を破った。李延渥はまた瀛州で破った。
(21)冬十月、曹利用を契丹軍に派遣した。
当時、契丹に戦利が乏しく、さらに王継忠が和平を上奏してきたこともあり、帝は利用を派遣した。利用が契丹軍を訪れると、蕭太后は関南の地を求めたが、利用は拒絶した。
(22)十一月庚午(二十日)、帝は親征を決定し、その車駕が京師を出発した。李継隆と石保吉を駕前排陣使とした。
この日、司天がこう言った。――「太陽が暈(かさ)を包み、黄気が充ち塞がっております。戦わずに退くべきです。」
(23)癸酉(二十三日)、韋城県に到着した。
(24)甲戌(二十四日)、寒さのため近臣が貂帽毳裘を差し出すと、帝はそれを退け、「臣下が寒さに苦しんでいるときに、朕だけが着れるものだ」と言った。
(25)壬申(二十二日)、契丹兵が前軍の前に陣を張った。まだ接戦になる前、蕭撻覧が地形を調べるべく陣から出たところ、李継隆の部将張瓌がその牀小弩で射殺した。撻覧には機略武勇があり、その麾下はみな精鋭だった。撻覧が死ぬと、敵は戦意を喪失させた。
当時、王欽若は天雄軍にあったが、城門を閉ざし、無為無策で、ただ身を清めてお経を唱えるだけだった。安肅軍の守臣魏能と広信軍の守臣楊延朗は敵境に最も接近しており、敵兵に包囲にされていたが、百戦してなおも屈服しなかった。敵兵が国境まで退くと、延朗はこれを追撃して転戦して勝利を収めた。そのため当時の人は二軍を銅梁門・鉄遂城と名付けた。二将が敵の攻撃を防ぎきったからである。
(26)王旦を東京留守とした。
これ以前、帝は親征に際して、雍王元份を東京留守とし、旦らはみな帝に従って戦地に向かった。ここに至り、元份が急病に倒れたと報告されたため、旦を東京に帰還させ、元份に代えて東京留守とした。
旦、「寇準を呼び下さい、申したいことが御座います。」準がやって来ると、旦はこう申し上げた。――「十日しても勝利の報告がなかった場合、如何に処置すればよいでしょうか。」帝は黙り込んでしまったが、しばらくして「太子を立てよ」と言った。
旦は京師に到着すると、すぐに禁中に入ると厳命を下した。このため誰一人として内情を漏らすものはなかった。
(27)丙子(二十六日)、帝は澶州に到着した。
ここでも金陵遷都を申し出るものがおり、少しく帝に迷いの色が生じた。そこで寇準に意見を求めた。
準、「陛下は一尺でも多く進まねばならず、一寸も退いてはなりません。河北の諸軍は日夜陛下の到来を待ちこがれ、その士気は百倍しております。もし陛下が数歩でも退かれたなら、万余の軍は瓦解するでしょう。敵がその背後に乗じたなら、金陵にも到着できますまい。」
準は退出すると殿前都指揮使の高瓊に出会った。
準、「太尉は国の厚恩を受けておられるが、今日にあってそれにどう報いられるおつもりか。」
瓊、「命をかけるまでです。」
準は帝の御前にもどると、瓊は庭に立った。
準、「陛下がもし私の言葉をお疑いなら、試みにそこの瓊に問われなさいませ。」
瓊はすぐに「寇準の発言は正しい」と言った。
準、「時機を失ってはなりません。すぐに出発なされませ。」
かくして帝は軍を進め、澶州の南城まで到達した。遠くから契丹軍の盛強さ目にして、多くの人々は車駕を止めるよう申し出た。しかし寇準は力強くこう言った。――「もし陛下が河を渉らなければ、人々に動揺が生じ、敵の恐れはしません。これでは勝機を掴むことはできません。王超は精鋭を率いて中山の要害に駐屯しており、李継隆と石保吉は大軍を率いて左右を守っており、四方の軍将の来援も毎日のように到着しております。何に迷って進まれないのです。」高瓊も強く賛成したので、帝は衛兵に車駕を進めさせた。かくして帝は河を渉り北城の城門に到着し、諸将をよびよせ慰撫した。車駕を望み見たものは、遠きも近きも勇躍して万歳を叫び、声は数十里まで届いた。たまたま鄆州で契丹の諜者が捕らえられ、連行されてきたので、これを斬り捨てた。かくして契丹兵の間に動揺が広がった。
帝はすべての軍権を準に一任した。準は制を称して専決したが、号令は明白肅然だった。士卒はこれを畏れるとともに悦びもした。ほどなく契丹兵数千騎が城下に迫ったので、士卒に迎え撃たせ、敵兵半数近くを斬殺捕縛したため、契丹兵は引き返した。
帝は行宮にもどると、準を城北に留めた。こっそり寇準の行動を調べさせると、準は知制誥の楊億と賭博や飲酒にふけり、歌や冗談に興じていた。帝は「準がこんな調子なら、なにも心配することはない」といって喜んだ。
(28)十二月庚辰(一日)、契丹は韓杞に書状をもたせ、曹利用ととともに〔宋軍を〕訪れ、和平を求めてきた。
契丹は関南の地を求めていると利用から報告があったが、帝は「土地の返却については全く大義名分がない。どうしてもというなら、朕には戦う決意がある。しかし財貨が欲しいというのなら、漢は玉帛を単于に与えたというではないか、このような故事もあることだから許してやろう。」
しかし準は財貨の下賜を認めず、さらには〔契丹が宋に対して〕臣と称すべきこと、幽州や薊州を献上することをも望んでおり、一計を案じてこう主張した。――「私の主張通りにしてこそ、百年の無事が保証できるというものです。さもなくば数十年の後にまた夷狄が野心を抱くことになりましょう。」しかし帝は「数十年後にもまた我が国を守るものが現れよう。私は人々の苦しみを坐視できない。しばらく和平を許せばよいではないか」と言った。準はなおも認めなかったが、「準は兵権を利用して権勢を得ようとしている」と讒言するものがいたため、契丹との和盟を許した。
再び曹利用を契丹軍に派遣し、歳幣について議論させることになった。帝は「どうにもならねば百万でもいい」と言った。準はこれを耳にすると、利用を帷幄に呼び入れ、「陛下のお許しがあろうと、三十万を過ぎれば私がお前を斬る」と言いつけた。
利用が契丹軍に到着すると、蕭太后はこう言った。――「晉は我に関南を与えたが、周の世宗はこれを奪った。ならばいま返還されるべきではないか。」
利用、「晉や周のことは我が朝の知るところではありません。もし歳幣の金帛を軍費に充てることすら、帝が納得されるかどうか分からぬものを。地を割譲せよなどと、とても帝に申し上げるわけに参りません。」
契丹の政事舎人高正始は急ぎ進み出ると、「我々が大軍を率いてやって来たのは、〔関南の〕故地を回復せんがため。もし金帛だけで国に帰ろうものなら、我が国の人々になんと申し開きをしてよいものか。」
利用、「貴君はどうして契丹のために熟慮せぬのだ。契丹が貴君の計を用いたなら、恐らくは戦端が開かれ不和を起こし、国の利益にはなるまい。」
契丹はなおも関南の地を求め、監門衛大将軍の姚東之に書状を持たせ、〔宋と〕議論させた。しかし帝はこれを許さず、東之は契丹軍に戻った。かくして利用はついに銀十万両、絹二十万匹で和約を成立させて帰還した。
(29)癸未(四日)、帝は李継隆の陣営に出向き、従軍の将校に飲食を与えた。諸軍にも身分に応じて褒美を与えた。詔を下し、軍事の終了を両京に伝えさせた。
(30)甲申(五日)、契丹は姚東之を派遣し、御衣や食物を献上させた。
(31)乙酉(六日)、帝は陣営の南楼に出向いて江河を眺め、そこで側近および契丹の使者と宴会を催した。
(32)丙戌(七日)、李継昌を派遣し、和盟を締結させた。また諸将には契丹の帰路を勝手に攻撃しないよう戒めた。
(33)甲午(十五日)、車駕が澶淵を出発した。
(34)乙未(十六日)、契丹は丁振を派遣して誓書を送り届けた。かくして契丹は帝に兄事することになった。
(35)丁酉(十八日)、契丹の兵が国外に出た。
(36)戊戌(十九日)、帝は澶淵から帰還した。
(37)辛丑(二十二日)、契丹の誓書を書き写し、両河の諸州に頒布した。
(38)二年(1005)春正月庚戌朔、契丹との和議が成立したことにより、天下に大赦した。
(39)壬子(三日)、河北諸州の強兵を帰農させ、諸路の行営を罷め、鎮・定両路を一路とし、北面部署・鈐轄・都監・使臣二百九十余人、河北の守備兵の十分の五、辺境守備兵の三分の一を省いた。
詔を下した。――「国境沿辺のものは国境を出て掠奪してはならぬ。契丹の馬牛を手に入れた場合はすべて返還せよ。」交易を行い、城池を修復し、流浪者を招き、貯蓄を広げた。こうして河北の民の生活は安定した。すべて畢士安の策略の賜である。
また士安は国境要害の地に守将を配置するよう求めた。そこで馬知節を定州知事、楊延昭を保州知事、李充則を雄州知事、孫全照を鎮州知事とした。他の地区の守将もみな適任者であった。
これ以後、契丹と和約を結んだことから、慶弔の使者があれば国信司に任せ、これを宦官に管理させた。
(40)二月癸卯(二十五日)、太史中允の孫僅を契丹に派遣し、契丹の太后の生辰(誕生日)を慶賀させた。また書状を送り、みずから南朝と称し、契丹を北朝とした。直史館の王曾が「『春秋』は夷狄を中国として扱わず、爵位も子爵に止めております。契丹の国号に随えば十分です。なぜ両朝として扱うのです」と批判したが、帝は聞き入れなかった。
(41)秋七月、歳幣を契丹に送った。これ以後、毎年送った。
(42)冬十月、職方郎中の韓国華を契丹に派遣し、正月元旦を祝賀させた。
(43)十一月、契丹は使者を派遣し、承天節(真宗の生辰)を慶賀させた。
(44)十二月、契丹は使者を派遣し、明年の正月元旦を祝賀させた。これ以後、毎年行うことになった。
(45)大中祥符元年(1008)夏四月、契丹は使者を派遣し、歳幣以外に銭幣を貸して欲しいと言ってきた。帝が宰相の王旦に尋ねた。
旦、「東封が近うございますので、これで朝廷の意向を探ろうというのでしょう。」
帝、「なんと答えればよい。」
旦、「粗末なものでもやって、軽くあしらってやればよろしいでしょう。」
そこで歳幣三十万以外に三万を貸し与え、それを来年分から除かせた。契丹はこれを受け取ると、大いに恥じ入った。
(46)二年(1009)十二月甲辰(二十四日)、契丹の太后蕭氏が卒した。
蕭氏には機略があり、巧みに大臣を任用し、彼等に死力を尽させた。〔宋に〕侵略するたび、みずから甲冑をまとって督戦した。和平のことも、彼女のその謀略から出たものである。しかし人となりは残忍で、人を殺すことが多かった。韓徳譲と姦通しては、耶律隆運なる姓名を与え、さらに大丞相を授け、晉王に封じた。ほどなくして徳譲も死に、陵墓の脇に附葬された。
(47)三年(1010)五月、契丹は回鶻を伐ち、肅州を破った。
(48)六月、契丹は飢饉となり、米の買い入れにやってきた。そこで雄州に詔を下し、粟二百万を与えた。
(49)冬十月、契丹は耶律寧に高麗討伐を報告させた。
これ以前、高麗の康肇はその主君誦を弑し、誦の兄の詢を立て、その宰相になった。契丹の君主隆緒は、群臣にむかって、「康肇は君主の誦を弑して詢を立て、宰相になった。これは大逆である。兵を派遣してその罪を問うべきではないか。」蕭敵烈は凶作を理由に時期尚早と主張したが、隆諸は聞き入れなかった。
十一月、契丹兵は鴨緑江を渡った。肇は敗れ、銅州まで撤退した。契丹は兵を進めてこれを捕らえ、ついに開京を攻めた。詢は城を棄てて平州まで逃げた。契丹は開京の宮室や府庫を焼き捨てて帰還した。これ以後、兵を用いること数年にしてようやく止んだ。
(50)乾興元年(1022)二月、帝が崩御した。
契丹の君主隆諸は、蕃族と漢族の大臣を集めて哀悼を捧げ、耶律僧隠らを弔祭に派遣した。〔燕京の憫忠寺に〕帝の御霊を置き、資福道場を建てさせたが、これは百日で完成した。各州軍に音楽の演奏を罷めさせ、契丹国の文字で帝の諱を犯したものは、すべて改めさせた。