『宋史紀事本末』翻訳wiki

天書封祀1

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(01)真宗の景徳三年(1006)二月、平章事の寇準を罷免し、陝州知事とした。

準は宰相になると、年功序列で人事を決めなかった。このため多くの同僚にが不満に思っていた。人事査定あったとき、同僚らが人事案に目を通しているのを見て、準は「宰相の仕事は、賢者を進め、不肖者を退けることだ。慣例に従うだけなら胥吏でもできる」と言い放った。澶淵から帰還すると、準は己の功績を鼻にかけ出し、帝も準を優遇するようになった。王欽若はこれを深く妬んでいた。

朝礼の日のこと、寇準が先に退出すると、帝はこれを目で見送った。欽若はすかさず進み出て、「陛下は準を大事にされておられますが、彼に社稷の功があったとお思いなのでしょうか。」

帝、「もちろんだ。」

欽若、「陛下は澶淵の役に恥じられぬどころか、かえって『準に社稷の功あり』などと仰せになる。また何故そのように思し召されるのでしょう。」

帝は愕然としてその理由をたずねた。

欽若、「『春秋』の教えによりますと、『城下の盟を恥である』とあります。澶淵の役は、万乗の君主が城下の盟を取り結んだことに等しい。これがどれほど恥ずかしいことか。」

帝はむすっとしてしまった。

欽若、「陛下は賭博を御存知でしょうか。賭博打ちは全財産をつぎ込もうとします。持て全てを注ぎ込むのを孤注と申しますが、陛下は寇準の孤注でございます。これでは陛下の身はどうなることやら。」

これ以後、帝は準を疑い出し、とうとう宰相を罷免してしまい、刑部尚書・陝州知事として都から追い払った。

これ以前、張詠は成都で準の宰相就任を聞くと、その部下に「寇公は逸材ではあるが、惜しいことに学術がない」と言った。準が陝州知事になると、ちょうど詠も成都からの都に戻ってきた。準は郊外で出迎えると、「なにかご教授を」詠はおもむろに、「必ず〔『漢書』の〕霍光伝を読まれよ。」準は意味が分からず、もどって霍光伝を繙いてみると、「学術がない」との言葉に出くわした。そこで笑って、「張公が私に言いたかったのはこれか」と言った。

それから時をおかず準は天雄軍知事に移った。契丹の使者が大名府を通過したとき、準にこう言った。――「貴公ほどの重鎮がなぜ中書(宰相府)におられぬのです。」準、「主上の思し召し。朝廷に混乱なきいま、北門の守護は準でなければ駄目だとね。」


(02)大中祥符元年(1008)春正月乙丑(三日)、承天門で天書が発見された。大赦し、元号を改めた。

帝は王欽若の言葉を聞いてからというもの、澶淵の盟を深く恥じ、いつも悶々と鬱ぎ込んでいた。欽若は帝の厭戦を見て取ると、ざわとこう進言した。――「もし兵を率いて幽州・薊州をお取りになれば、この恥を雪ぐことができましょう。」

帝、「やっと河朔の民は戦乱から免れたのだ。戦争するのは忍び難い。他の方法を考えよ。」

欽若、「封禅はどうでしょう。天下をなびかせ、外国に誇れるものといえば、これしかありますまい。しかし封禅というのは、むかしから天瑞や希有の出来事があったればこそ行ったものです。」すぐにまた「ではその天瑞はなぜ生まれたのでしょう。むかしの天瑞の中には、人手によって作られたものがあったはずです。しかし君主が心から信じて天下に示したことで、天瑞と同じ効き目がありました。陛下は『河図』や『洛書』が本当にあるとお思いですか。聖人があの不思議なものを利用して、教化の手助けになされただけです。」

帝は考え込むと、「王旦は反対しないだろうか。」

欽若、「陛下のご意向を伝えましょう。きっと反対しません。」

欽若はこっそり旦に言い含めた。そこで旦も協力することになった。しかし帝はなおも決心できなかった。たまたま秘閣に出向いたとき、ふと直学士の杜鎬に聞いてみた。――「伝説にある『河は図を出し、洛は書を出す』というのは、どういうことだろう。」鎬は碩学であったが、上の意図を理解できず、「聖人が不思議なものを利用して、教化の手助けになされたのです」と安易に答えた。帝はついに腹をくくり、旦を酒宴に招いて楽しく酒を飲み過ごすと、「帰って妻子と飲むがよい」と言って禁中所蔵の酒を与えた。旦は帰宅してから包みを開けると、そこには宝石ばかりが入っていた。旦は帝の意向を悟り、この後は異議を挟まなくなった。

ここに至り、帝は群臣にこう宣言した。――

去る冬の十一月庚寅(二十七日)の夜半、朕は床に就いたところ、たちまち部屋が照り輝き、星冠絳服の神人が現れ、「来月、正殿に天書を授かるための礼拝場を設け、一ヶ月待つがよい。『大中祥符』の天書三篇を降さん」と告げた。朕は驚いて起きあがったが、すでに神人は消えていた。そこで十二月の朔日から朝元殿で斎戒し、礼拝所を設けて神人の賜与を待っていた。そして今日だ。皇城司からこう報告してきたのだ、黄布帛が左承天門の鴟尾(しゃちほこ)南方に掛かっている、と。中使に調査させたところ、布帛の長さは二丈ばかり、封のある書簡の形状であり、また青糸が巻き付き、封上にかすかに文字が見えたという。恐らくは神人の宣うた「天が降した書」であろう。

旦らは再拝して慶賀した。帝はすぐに徒歩で承天門に向かうと、〔天書を〕仰ぎ見て再拝し、内侍二人を屋根に登らせ、地上に奉じさせた。旦は跪いて進呈すると、帝は再拝して受け取り、みずから御輿に奉納した。御輿を礼拝所に運び、陳堯叟に授けて封を啓かせた。布帛の上には「趙受命、宋を興し、慎に付し、其の器に居り、正を守り、世七百、九九定まる」と記されていた。

帝は跪いて受け取ると、堯叟にこれを読ませた。黄色の字で書かれたものが三幅、文章は『洪範』や『道徳経』に似ており、まず帝が孝行と道義によって天下を受け継いだこと、次に寡欲にして節倹を貴ぶべきこと、最後に末永く天下が受け継がれるであろうことが書かれていた。読み終わると、帝はまた跪いて両手で奉じ、もとの布帛で包み、金匱に納めた。

群臣が崇政殿で慶賀すると、宴を与えた。帝と宰相は粗食ですませた。官僚を派遣し、天地・宗廟・社稷に報告させた。大赦して元号を改め、群臣に褒美を取らせ、京師に五日間の酺(さかもり)を与えた。左承天門を承天祥符と改名した。天書儀衛扶侍使を設け、大礼のときには宰執(宰相と執政)や近臣にこの職を兼任させた。

欽若の計略が行われると、陳堯叟・陳彭年・丁謂・杜鎬らは経書を用いて天書に箔を付け、天下の人々は我先にと祥瑞の発見を報告し出した。しかし龍図閣待制の孫奭だけは「私の聞くところによりますと、天は何も申さぬもの、まして書物などは」と帝に忠告した。しかし帝は黙って聞くだけだった。


(03)三月、詔を下し、封禅について議論させた。

宰相の王旦らは、文武百官、諸軍の将校、官吏、夷狄、僧侶や道士、長老など二万四千三百余人を率い、五たび意見書を提出し、帝に封禅の挙行を勧めた。帝は心を固め、丁謂に必要経費を打診した。謂は「財政には充分余裕があります」と答えた。封禅の議は定まった。翰林院と太常礼院に儀式の次第を決めさせた。

これ以前、西北で戦争していたころ、帝は便殿での政務に追われ、食事もままならなかった。王旦はこれに嘆いて「労せずして太平を招き、安穏無事にのんびりと暮らすことなど、我々にはできそうにありませんなあ」と言うと、宰相の李沆は「外に強敵がおればこそ身が引き締まるのだ。後々、天下が安寧になっても、朝廷は決して暇にはならんよ」と言った。旦はそう思えなかった。

また、沆は天下の水害や旱害、盗賊のことについて、毎日のように帝に上奏していた。旦はそのような些細なことで帝の耳を煩わせるのはどうかと思っていたが、沆は「人主はまだお若い。天下の人々の苦労を知らねばならぬ。さもなくば血気盛んなお年頃にでもなれば、きっと女色や宝石に関心をお持ちになろう。さもなくば宮殿の造営や戦争、祭祀といったものに乗り出されるに違いあるまい。」ここに至り、沆の言葉は現実のものとなった。


(04)夏四月乙未(五日)、王欽若を参知政事とした。


(05)丙申(六日)、王旦を封禅大礼使とし、王欽若などを経度制置使とし、馮拯と陳堯叟をそれぞれ礼儀使とし、丁謂などに費用を算出させた。謂は権三司使だった。そこで『景徳会計録』を編纂し、これを献上した。封禅大礼の経費を算出し、その参考に供したものである。帝は大いに褒め称えた。


(06)六月乙未(六日)、王欽若は〔兗州〕乾封県に到着すると、「泰山には醴泉が湧きあがり、錫山には蒼龍が現れました」と報告した。時をおかず、木工の董祚が醴泉亭の北で黄木に掛かった黄布帛を見つけた。文字があったが識別できず、皇城使の王居正に報告した。居正は布帛の表面に御名があるのを発見し、急ぎ欽若に報告した。欽若は布帛を奉じて社首山まで運び、跪いて中使に授け、急ぎ宮城に向かわせた。

帝は崇政殿に赴くと、群臣を集めてこう言った。――

朕は五月丙子(十七日)の夜、夢にかの神人が現れ、「来月の上旬、天書を泰山に賜うであろう」と言った。すぐさま欽若らに密命を与え、瑞祥や災異があればすぐ上奏させるよう配慮していた。ここに至り、確かに夢の通りになった。もしこれが上天の御加護であるなら、ただただその御心に違うことを畏れるばかりだ。

王旦らは再拝して慶賀し、天書を含芳園の正殿に奉迎した。帝は斎戒し、法駕(天子の車駕)で御殿にむかい、礼拝してこれを受け取ると、陳堯叟に授けて封を啓かせた。天書には「汝、孝を崇び吾れを奉じ、民を育み福を広ぐ。爾(なんじ)に嘉瑞を錫(たま)う。黎庶(みなのもの)咸(み)な知れ。斯の言を秘守し、善く吾が意を解せ。国祚延永し、壽歴遐歳(ながいき)ならん」と書かれてあった。読み終わると、またこれを奉じて御殿に納めた。

ここにおいて群臣は意見書を提出し、帝に崇文広武儀天尊道宝応章感聖明仁孝皇帝なる尊号を献上した。すぐに欽若は〔瑞祥として〕芝草八千本を献上した。趙安仁も五色の金玉丹と八千七百余本の紫芝を献上した。他の地方からも芝草・嘉禾・瑞木・三脊茅など多くの献上された。


(07)九月、有司に大辟(死刑)案件の上奏を禁じ、太廟に天書の降臨を報告した。


(08)乙酉(二十八日)、帝は崇政殿で封禅の儀の作法を習った。


(09)玉清昭応宮を建てて天書を奉納した。知制誥の王曾と都虞候の張旻は意見書を提出してこれを諫めたが、聞き入れられなかった。


(10)冬十月辛卯(四日)、帝は京師を出発した。天子の車馬に天書を載せ、先に進ませた。十七日かかって泰山に到着した。王欽若らは芝草三万八千余本を献上した。斎戒すること三日にして山に登った。険難な道のりだったが、帝は車を降りて前に進み、鹵簿儀衛は山下で待機した。

昊天上帝を圜台に祭り、天書を左に置き、太祖と太宗を配した。群臣に命じて五方帝と諸神を山下に祭り、祀壇に封じた。帝は福酒を飲むと、摂中書令の王旦は跪いて、「天は皇帝に太一神符を賜った。一回りしてまた始まり、ながく兆人を綏靖たらしめんことを」と言葉を副えた。三たび献じ終わると、天書を金玉匱に封じた。王旦は玉匱を奉じて石函に置いた。摂太尉の馮拯らは金匱を奉じて降ろし、将作監が受け取って石函に封じた。帝は圜台に登り、見聞を終えてから、御座所に戻った。宰相は従官を引き連れて慶賀した。明日早朝、封祀の儀式と同様のやり方で、皇地祇を社首山に祀った。

大礼が終わると、帝は壽昌殿で群臣の朝賀を受けた。天下に大赦し、文武官は増俸された。開封府および大礼のため通過した州と軍に科挙を行った。天下に三日間の酒盛りを許した。乾封県を奉符県に改めた。穆清殿に大宴を開き、また泰山の父老に殿門で宴を開くことを許した。


(11)十一月戊午(一日)、帝は曲阜県を通過し、孔子廟に謁見した。酒を献じて再拝し、近臣には七十二弟子を各々祀らせ、ついに孔林に行幸した。孔子に諡を加えて玄聖文宣王とした。祭祀には太牢(牛羊豚の三種の生け贄)を用いさせ、銭三十万、帛三百匹を与えた。また斉の太公望に昭烈武成王なる諡を加え、周文公旦にも文憲王なる諡を加えた。太公の廟を青州に立て、周公の廟を曲阜に立てた。また孔子廟に従祀された人々に諡を加えた。――顔回を兗国公、閔損・曾参および漢の儒者や左丘明以下を郡公・郡侯・郡伯とした。


(12)丁丑(二十日)、帝は泰山封禅の儀式から宮廷にもどった。

群臣は先を争い帝の功徳を称えたが、進士の孫籍だけは意見書を提出して、「封禅は帝王の盛事です。陛下におかれましては、極盛の日にこそ我が身を引き締められ、みずから事足れりとお考えなさいませぬように」と訴えた。知制誥の周起もまた、「天下に対処する場合、常に安逸に流れること、脅威を疎遠に考えること、この二つに心を砕かねばなりません。天下太平に泥まれませぬように」と発言した。


(13)十二月辛卯(五日)、帝は朝元殿に赴き、尊号を受けた。宰相の王旦らは各々増俸された。


(14)二年(1009)二月、術者の王中正を左武衛将軍とした。

これ以前、汀州の王捷は「南康の地で道士にあいました。姓を趙というもので、仙丹の術と小鐶神剣を授かりました。司命真君ではないかと思われます」と報告し、〔その家の堂に真君が降りたので〕これを聖祖とした。(1)宦官の劉承珪がこれを上奏すると、捷に中正なる名を授け、龍図閣で帝との面会が許された。泰山での封禅が終わると、聖祖に司命天尊なる号を加えた。中正は左武衛将軍を授けられ、頗る恩寵を受けた。


(15)十二月辛丑(二十一日)、権三司使の丁謂は『封禅祥瑞図』を献上し、朝堂で百官に披露した。

封禅以後、士大夫は争って祥瑞を言い立て、帝の功徳を褒め称えた。しかし崔立だけは「徐州と兗州に洪水があり、江淮の地に旱魃があり、無為軍は烈風に襲われ、金陵には大火事がありました。これらは天が訓戒を垂れたもうたものです。しかるに天下の人々はみながみな雲霧や草木といった瑞祥を献上しております。これらが治世に役立つものだとでもいうのでしょうか」と指摘したが、無視された。


(16)三年(1010)六月、河中府進士の薛南、長老、僧侶、道士ら千二百人が、汾陰に后土を祭るように訴え出た。


(17)八月丁未(一日)、詔を下した。――「明年の春、汾陰で祭事を執り行う。」


(18)戊申(二日)、知枢密院事の陳堯叟を祀汾陰経度制置使とし、王旦を大礼使とし、王欽若を礼儀使とした。


(19)冬十月庚申(十五日)、丁謂は『大中祥符封禅記』を献上した。


(20)十二月、陝州から黄河の水が澄んだと報告があった。集賢校理の晏殊は『河清頌』を献上した。帝は『奉天庇民述』を作って宰相に示した。


(21)四年(1011)春正月辛巳(七日)、汾陰で祭祀を行うべく、担当官僚に怠惰があれば厳罰に処すよう詔を下した。

当時、旱害がひどく、京師近辺の穀貨は高騰していた。龍図閣待制の孫奭は意見書を提出してこのように言った。――

古代の偉大なる王たちは、征討に先だって占うこと五年、年々吉が重なり、吉が〔五年の間〕重なれば征伐に行き、〔一年でも〕吉でなければ、改めて徳を修め、その上で改めて占いをしたものです。陛下は東方で封禅を終えられるや否や、また西方に行幸を計られておいでですが、これは偉大なる王たちが征討に先だち五年も占いを続けられた慎重な心遣いとは申せません。これが止めるべき一つ目の理由です。

そもそも后土を汾陰に祀ることは経書に書かれておりません。むかし漢の武帝は封禅を計ったとき、先に中嶽を封じ、汾陰を祀り、郡県を巡幸し、最後に泰山で封禅を行いました。ところが陛下は封禅を行われた後で、また汾陰に行幸しようとされておいでです。これが止めるべき二つ目の理由です。

そのむかし円丘や方沢は天地を郊祀するものでした。今の南郊と北郊がこれにあたります。漢初は秦の制度を承け、ただ五畤を設けて天を祀り、后土には祀りがありませんでした。ですから武帝は汾陰に祠を立てたのです。元帝・成帝以来、貴族らの議論に従い、ついに汾陰の后土を北郊に移しました。後の王たちにも汾陰を祀らぬものが多くおりました。いま陛下は既に北郊を立てながら、それを捨て、遠方の汾陰にて祀りをなさろうとしておいでです。これが止めるべき三つ目の理由です。

西漢は〔長安近郊の〕雍を都としておりました。ですから汾陰までは至って近うございました。ところが陛下は要害の関所を通り、険阻を越え、軽々しく京師の根本を棄てて西漢の虚名を慕うておいでです。これが止めるべき四つ目の理由です。

河東は唐の礎となった大地です。唐もまた雍に都を置きました。ですから明皇(玄宗)はまま河東に行幸し、后土を祀っておりました。我が聖朝の興りは唐とは異なります。それにも関わらず、陛下は理由もなく汾陰を祀ろうとしておいでです。これが止めるべき五つ目の理由です。

むかし周の宣王は災禍に遭遇するや、身を恐懼させました。そこで詩人は宣王の中興を褒め称え、賢主と見なしたのです。しかるにここ数年というもの、水害や旱害が相継いでおります。ならば陛下は恐懼して徳を修め、天譴にお答えしなければなりません。ところが奸邪の者共の発言に従い、遠方の庶民を苦しめ、遊興を繰り返し、社稷の大計を忘れておいでですが、これでよいのでしょうか。これが止めるべき六つ目の理由です。

そもそも雷は二月の啓蟄に始まり、八月に雷鳴が収まります。万物を育むことは君主の責務ですが(2)、しかるべき時を失えば天は災異を下します。いま雷が冬に起こるのは、災異の甚だしきものです。天が繰り返し陛下を戒めているのです。ところがこの御心に気づかぬというのであれば、ほとんど天意を失うことになりましょう。これが止めるべき七つ目の理由です。

そもそも民は神の根本です。そのため聖人は民の生を全うさせ、それが終わってから神への奉仕に勤しみました。ところがいま国家の土木工事は累年止まず、水害や旱害は頻りに起こり、飢饉は多く起こっております。それにも関わらず、民を苦しめて神に奉仕しようとされていますが、はたしてこれで神は陛下の心をお享けなさるでしょうか。これが止めるべき八つ目の理由です。

陛下が強く汾陰の祀りをお望みなのは、漢の武帝や唐の明皇のまねごとをし、行幸の所々で石にその功績を刻み、虚名を飾り立てて後世に誇示するためと思われます。しかし陛下は天性聡明であらせられるのです。〔漢や唐ではなく、むしろ古代の偉大なる〕二帝や三王に心を馳せられるべきなのです。それをなぜ卑しき漢や唐の虚名をまねる必要がありましょう。これが止めるべき九つ目の理由です。

唐の明皇は邪悪な臣下を寵愛しました。そのため内外こもごも争乱が起き、その身は逃亡し、その国は危機に瀕し、兵は宮城に入り乱れました。その亡乱の跡はこのとおりです。承平に泥み、肆ままに非義をなしたため、少しずつ廃滅の道を招き寄せたのです。いま汾陰の祭祀を主張するものは、明皇の開元の故事を引き合いに出し、それをもって盛世のことだと言い、陛下が因襲されるよう導こうとしております。私は決して陛下のためにこれを認めるわけに参りません。これが止めるべき十番目の理由です。

私にはまだ言い足りないところがございますが、陛下におかれましては、臣の言葉に取るべきものがあるとお思いなら、願わくは少しく御下問を賜い、私の発言を終わらせていただきとうございます。

帝は内侍の皇甫継明を派遣し、奭の真意を調べさせた。奭はまた意見書を提出してこう述べた。

陛下は汾陰に行幸のご予定ですが、京師の民は心安らかならず、江淮の民は調発に苦しんでおります。本来ならば彼等を安心させ、哀れみを垂れ賜わらねばなりません。また土木工事は息まず、掠奪盗賊は横行し、外国の軍は国境近辺にたむろしております。使者を派遣したからといって、彼等の心を繋ぎ止めることはできますまい。

むかし陳勝は徭役の中から起こり、黄巣は飢饉から出で参りました。隋の煬帝が遠征に心を奪われていたとき、唐の高祖は晉陽に兵を挙げました。晉の若君が小人に心惑わされていたとき、耶律徳光は中国に長駆しました。陛下は姦佞に従われ、遠く京師を捨てて累年飢饉の地に向かい、経書に違え、久しく廃れた祠を修復なさろうとしておられます。民の疲弊を考えず、辺境の人々に憐憫の情を向けられておられぬのです。果して今日の兵卒の中に陳勝がおらず、飢えた民に黄巣が居らず、英雄が陛下近辺で隙を伺っておらず、外敵が辺境の隙を探っておらぬと言い切れますでしょうか。

先帝はかつて封禅を計画なされましたが、天の災異を畏れ賜れ、すぐに詔を出して計画を止められました。いま姦臣どもは、陛下に強く東方への行幸を勧め、それをもって先帝の志を継承するものだと申しております。先帝はむかし北方には幽州・朔州の平定を、西方には継遷の奪取を望まれながら、大功を成就することなく、後を陛下に任されました。ところが群臣は一つの謀を献じ、一つの策を画し、陛下が先帝の志を継承なさる手助けをせず、かえって卑しくも賄賂を送っては契丹に和平を求め、国爵を卑しめては継遷に姑息の計をなしております。「主が辱めらるれば臣は死す」ことを戒めとし、「下を誣い上を罔する」ことを恥ずべきものと考えておらぬのです。祥瑞を作為し、鬼神に仮託し、東方で封禅が終わるやいなや、西方に行幸を願い、軽々しく車駕を労し、飢えた民を苦しめ疲れさせております。陛下の車駕が無事に往来できただけで、大功績などと言う始末です。これでは祖宗艱難の事業を奸邪僥倖の餌にしたようなものです。これこそ私が長嘆し痛哭する所以です。

そもそも天地神祇は聡明正直であり、善をなせば百の祥瑞を降し、不善をなせば百の災禍をもたらします。籩豆簠簋(祭祀の用具)でもって福を求めるなどとは聞いたこともございません。『春秋伝』には「国が隆盛するときは民に聴き、滅亡するときには神に聴く」とあります。私はあえても妄言を吐いたわけではありません。ただ陛下の御採択を請い願う次第です。

当時、群臣は先を争って祥瑞を報告していた。奭はこれについても意見書を提出し、こう言った。

昨今、野鵰(ワシ)や山鹿が報告されると、秋の旱害や冬の雷があるにも関わらず、祝賀を称しております。しかし誰もかも陛下の前を退いては、心で非難し、せせら笑っているのです。だれが上天から逃れらましょう。だれが下民をだましおおせましょう。だれが後世を欺き得ましょう。人心がこのようであれば、損なうものは決して少なくありません。陛下はこの点を深く御明察いただきたい。

帝は奭の忠誠に気づきはしたが、その発言に従うことはできなかった。

〔注〕
(1)〔〕内は『続通鑑』に拠って補った。
(2)以上、『続資治通鑑長編』に拠って一部増補した。
(3)以上の一文、典拠不詳につき意味不明。
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