義兄の顔は見たくもないが、甥っ子のことは気になる。気は重いが、寄るだけ寄ることにした。
相変わらず、大きな家だ。
姉上がここで暮らしていた時期、何度か来たことはある。
あの頃の姉上は、まるで別人のように穏やかな顔をしていた。
過去のことなんて、全部、忘れてしまったんだろうと思ってた。本当はまったくそんなことなかったってことは、今の姉上を見れば明らかだが。
きっと、あのまま、本当に忘れていくことだって、できたんだろう……でも、それができないのが姉上だ。
ノックしようとして、ちょっと躊躇していたら、中から思い切り扉が開いて、僕にぶつかった。
「わあっ!?」
「あー」
扉を開けたのは、癖のある銀髪の、ナイトメアの子供。
リヴァだ。……大きくなった。
僕の姿を見ると、驚いたように中に駆け込んで行ってしまった。その奥から声がする。
「こら、リヴァ。廊下を走っちゃいけないって……あれ」
……出た。
「アーニー君じゃないか。久しぶり」
彼にこう呼ばれるのもまぁ慣れた。友達が増えてから、僕をアーニーって呼ぶ人も増えたし。
「えぇ、お久しぶりです」儀礼的に頭を下げる。
「珍しいこともあるものだね。君が僕に会いに来るなんて」
「あなたに会いに来たわけじゃありませんよ」
義兄がリヴァを抱き上げた。慣れた動作だが、やっぱり以前より随分重そうだ。
「リヴァ、憶えてるかい? アーニー君」
「あーに?」
「そうそう」
子供の成長って早いな。一年も経たないのに、本当に大きくなった。感動したけど、義兄の前で態度には出さない。
「元気そうで、よかったです。リヴァ」
手を伸ばして頭を撫でてやると、リヴァはびっくりしたような顔をした。かわいい。この義兄と姉上の子だとは思えない。顔はどっちにも似てるけど。
「まぁ、上がっていきなよ。ついでに掃除してくれると嬉しい」
「客に頼むことですか、それ」
とは言ったものの、確かに散らかり方が気になる。姉上がいないとこれだから。
「ここの所、野暮用が嵩んで忙しいのと、リヴァが走り回るようになったからさ。さすがに、危険なものは片付けたけどね」
「それは何よりです」
野暮用とか危険なものの内容については、心から聞きたくない。
「あ、茶葉は上の棚の右のほう。ポットとカップは食器棚の一番下」
「……はい?」
「リヴァの分はミルクでね。朝の残りがまだあるから」
「…………」
もうなんか諦めた。厨房に行って、二人分のお茶とリヴァのミルクを用意する。厨房だけはやたら綺麗なので逆に心配になる。ちゃんとしたもの作ってるんだろうか。
「はい、どうぞ!」居間のテーブルに、お盆をがちゃりと置いた。
「乱暴だなぁ」そう言って、義兄はポットからカップにお茶を注ぐ。自分の分だけ。
「横暴な人に言われたくないです」
仕方ないので、自分の分は自分で注ぐ。やたら香りがいい葉なのがむしろ腹立たしい。
リヴァはコップを両手でしっかり持って、おいしそうにミルクを飲んでいる。その顔が、ちょっと姉上に似て見える。
「レンデは、どうしてる?」義兄が言った。
「気になるなら、会いに行ったらどうですか」
「行ったよ、夏に」
……思わず椅子からずり落ちそうになった。聞いてない。いや、聞きたくもなかったが。
「……えぇ、まぁ、それからなら、そんなに変わってないと思いますよ」
一年前と比べるなら、姉上も結構変わったとは思うけど。
「つまり、可愛くて素敵な僕の
ファーレンディアのままだってことだね」
「はいはい」
こいつのありえない惚気には大概慣れている。慣れるまでが遠かったが。
「まぁ、レンデはいつだってレンデだけど」
茶を一口啜って、義兄が言う。
「君は、変わったかな」
「……そうですか?」
「良かったね。だいぶ立ち直ったみたいじゃないか」
「あなたと会ってませんでしたからね」あながち冗談でもない。
「随分、苦労した?」
「そうでもないですよ。一年前のほうが、ずっと辛かった」
冒険者になってからは……そりゃ、怪我もするし、死にかけたこともあるし、仲間が傷つくことだってよくあるけど。それでも、なんていうか楽だし、嬉しいこともある。逃避と言われれば、それまでだけど。
何より、友達が増えた。
「元気そうで何より。僕にとっても、君は大事な弟だし?
「……はっ」
思わず本気で鼻で笑ってしまった。
「あっはっは。まぁ、前向きに生きる気になってくれたなら嬉しいよ」
……同じようなことはよく言われるけど、こいつに言われるとむしろ死にたくなる。
「ま、あなたより先に死ぬのも癪ですからね」
義兄は何がおかしいのか、肩を震わせてくつくつと笑っている。こういう所が心底苦手だ。
「うんうん。……もう、大丈夫そうだね」
何だか満足げなのが腹立たしい。
「えぇ、まぁ。ご心配おかけしました?」
「僕はともかく。ご両親、心配してたよ? あれでも」
「…………」
こいつに言われる筋合いはないが、心配をかけたのは事実だと思うので反論できない。
「しばらく居るんだろ? 親孝行して行けばいいさ」
「……あなたに言われなくても、多少の埋め合わせは出来るように頑張りますよ。そう、長くは居られませんけどね」
「なんだ。せっかくだから、ついでに色々頼もうと思ったのに」
冗談じゃない。
「あなたに使われる気はありませんよ。仕事としてならそりゃ別ですけど、それなら相応の報酬で……」
「心配しなくても、君にゴーレムを倒してこいだの、アンデッドを倒してこいだの頼まないさ」
……殴りたい。
「……じゃあ、何をしろって言うんですか」
「ほら、リヴァの遊び相手とか」
ミルクを飲み干した後、ぬいぐるみを振り回して遊んでいたリヴァは、突然名前を呼ばれて、きょとんとした顔をした。
「それはもちろん、構いませんけど。というか、喜んでやりますけど」
「リヴァ、アーニー叔父ちゃんと遊びたい?」
「うー?」
リヴァは、なんだか、よくわからない、といったように、僕のほうをちらちら見ている。
「大丈夫。ちょっと心に余裕がないからトゲトゲしい態度になりがちだけど、ほんとはいい人なんだよ?」
リヴァの頭を撫でながら、義兄が言う。
「いーひと?」
「うんうん。アーニー君はいい人」
「あーに、いーひと?」
……この行き場のない感情をどうすればいいんだ。
「はいはい、どうせいい人ですよ……」
「いーひと!」
なんだかわからないが、リヴァは機嫌が良いらしい。にこにこしながらぬいぐるみをぺしぺし叩いている。こういう仕種が、姉上によく似ている。
と、子供を見て多少和んでいたら、父親のほうに声をかけられた。
「あ、そこのいい人。ポットとカップ洗っておいて」
「…………」
ポットごと盆をひっくり返してやりたくなったが、それをやってもどうせ後片付けをするのは僕だろう。
「そういう態度、教育に悪いんじゃないですか?」机の上を片付けながら、そう言ってやる。
「大丈夫。僕がこんな対応するのは、君が相手の時くらいだから」
「何が大丈夫なんですか……」
やっぱり、こいつだけはどうにもならない。大概慣れた自分が嫌だ。
再び厨房へ向かうと、リヴァがついてきて、僕が食器を洗う手元をじっと見ている。この子には、出来た性格に育ってほしいものだ。できれば父親にも母親にも似ずに。
恐る恐る抱き上げてみる。以前に比べればすっかり重くなったけれど、やっぱりまだ小さくて柔らかくて、ちょっと怖い。リヴァのほうは慣れたもので、うまく安定するようにしがみついてくる。
子供の匂い。なんだか落ち付く。
「……い、いたた」
髪を引っ張られた。両手が塞がっているので抵抗もできない。
やっぱり、子供の相手って重労働だと思う。だからって義兄に同情もしないし尊敬もしないが。