【死】─The Strangers─
学校が終わると「桂木弥子魔界探偵事務所」に顔を出すのが、最近のわたしの日課になっている。
それが、『あの日』を境にして組みかえられた、わたしの日常だった。
それが、『あの日』を境にして組みかえられた、わたしの日常だった。
──わたしの『日常』は一度崩壊している。
わたしの父親は殺された。しかも、『密室殺人』という世にも奇妙な手段によって。
ミステリの世界にしか存在しなかったと思っていた『謎』という概念と、わたしは間近に接してしまったのだ。
それは、今まで信じて疑わなかった『日常』という一つの世界が崩れ去った瞬間だった。
その後、わたしは『謎』を解く(くう)という魔人ネウロと出会い、そいつが『トリック』を暴くことで事件は解決した。
かくして平穏な『日常』がわたしの元に戻ってきた。
だがそれは、決して以前の『日常』ではなかった。
わたしはこの世界の『悪意』を、「世界には『謎』が満ちている」ということを既に知ってしまった。
この世に永遠に変わらないものなんてない。『謎』と出会うことで、わたしの『日常』はまったく新しいかたちに変貌したのだ。
わたしの父親は殺された。しかも、『密室殺人』という世にも奇妙な手段によって。
ミステリの世界にしか存在しなかったと思っていた『謎』という概念と、わたしは間近に接してしまったのだ。
それは、今まで信じて疑わなかった『日常』という一つの世界が崩れ去った瞬間だった。
その後、わたしは『謎』を解く(くう)という魔人ネウロと出会い、そいつが『トリック』を暴くことで事件は解決した。
かくして平穏な『日常』がわたしの元に戻ってきた。
だがそれは、決して以前の『日常』ではなかった。
わたしはこの世界の『悪意』を、「世界には『謎』が満ちている」ということを既に知ってしまった。
この世に永遠に変わらないものなんてない。『謎』と出会うことで、わたしの『日常』はまったく新しいかたちに変貌したのだ。
──そしてわたしは今、『女子高生探偵』桂木弥子として、魔人脳噛ネウロの協力者(奴隷)として、日々『謎』に接している。
それが、一度崩れた世界の中からわたしが組み上げた、わたしの『日常』だった。
それが、一度崩れた世界の中からわたしが組み上げた、わたしの『日常』だった。
繁華街の一等地のビルの最上階に「桂木弥子魔界探偵事務所」は居を構えている。
それは、ネウロがその筋の金融会社の事務所だった部屋を乗っ取って設立したものだ。
この事務所を拠点として、わたしは「探偵役」をやらされ、ネウロは「助手役」という立場に隠れて『謎』を解い(くっ)ている。
「ただいまー、アカネちゃん」
応接用のソファーに鞄を投げ捨て、わたしは壁からぶら下がる黒髪のおさげに向かって挨拶をした。
傍から見るときっと間抜けな光景だろうが、わたしは冗談でやっているわけじゃなかった。
壁から垂れる一房の三つ編み──『彼女』はこの部屋の『先住者』であり、わたしたちがこの部屋に入居するはるか以前に何者かによって殺されている。
その死体はポーの黒猫よろしく壁に埋められていたのだが、ネウロの発する魔界の瘴気に当てられて髪の毛部分だけ蘇生してしまった。言わばリビングデッドだ。
以来、彼女は週五回のトリートメントを報酬として、事務所の秘書として内務を担当している。
「……あれ? ただいま、アカネちゃーん」
いつもはぶんぶんと髪の毛を振って応えてくれるアカネちゃんが、今日はなぜかぴくりとも動かなかった。
キューティクルの調子でも悪いのだろうか。それとも、なにか動くに動けない理由でもあるのだろうか。
「なにやってんだ、探偵」
驚き、背後を振り返ると、見るからにチンピラ丸出しの男が立っていた。
「あ……吾代さん。こんちわ。どうしたの?」
「あの助手に呼ばれたんだよ。つーか、誰だアカネって」
彼はネウロが魔人であることを知らない(普通の人間ではないことには気づいてるだろうが)。
だから当然、ネウロの影響で蘇ったアカネちゃんのことも知らない。
「わ、わたしの友達。……脳内の」
「お前……そんなに友達いないのか?」
なんか痛々しい目を向けられた。
物凄い誤解なのだが、アカネちゃんのことを説明するわけにもいかないので、黙ってその視線に耐えるしかなかった。
「そ、それでネウロに呼ばれたってなんのこと?」
「あ? 例によってテメーらのパシリだよ。ったくよ、あの化物、人使いが荒いったらねえ」
彼は元々はこの部屋の住人だった(アカネちゃんの後であるが)。
悪徳金融会社の社員として清く正しく真面目に働いていたのだが、
なんの運命のいたずらか社長を殺され、その『謎』を嗅ぎつけたネウロに事務所を奪われ、
挙句の果てに「桂木弥子魔界探偵事務所」の雑用(奴隷二号)としてネウロにこき使われているのだ。
今は民間の大手調査機関に副社長として出向しており、全国津々浦々に広がる情報網でネウロの主食である『謎』を集めている。
「おお、揃っているな」
なんかいろいろ入った紙袋を腕に抱え、ネウロが悠然とした足取りで事務所に現れた。
これで「桂木弥子魔界探偵事務所」のスタッフが勢揃いしたことになる。
もっとも、あくまでネウロを中心としたネウロのためだけの人材なわけであるが。
「おいコラ助手。人を呼びつけておいてテメーは気楽にお買い物かよ」
いかにも買い物帰り、といった感じのネウロを見咎め、吾代さんがネウロに文句をつけるが、
「まあそういきり立つな吾代よ。酒のつまみに特売品のドッグフードをくれてやろう」
「いらねーよ!」
「なぜだ? テレヴィのCMでは『犬まっしぐら』と謳っていたぞ。貴様もまっしぐらなのだろう?」
「テメェ……いつか殺す……」
「ほほう、貴様のような犬ころが我が輩を殺せるかな? 出来もしないことを言うものではない」
「上等だコラ……!」
このままだと血を見る結果になりそうだった。もちろん血を見るのはネウロで流すのが吾代さんだ。
いくら吾代さんが鬼のように喧嘩が強くても、所詮は魔人ならぬ身の上、
本当の意味で鬼のように強いネウロには敵わないのは火を見るより明らかだった。
青筋をぴくぴく言わせる吾代さんをとりなすように、わたしは二人の間に割り込む。
「ね、ねえネウロ。吾代さんになにを調べてもらったのよ」
「そうだったな。吾代よ、我が輩が命じた件はどうなっている? 餌を与えるのは言いつけられた仕事をこなしてからだ」
「だからドッグフードなんざいらねえっつーの! ……クソったれが、お望みどおり調べてやったよ。ほら、これ返すぜ」
そう言って、吾代さんは小さな紙片を投げて寄越した。
それは一枚の名刺で、そこに書かれている文字には見覚えがあった。
「ネ、ネウロ! これって……!」
「そうだ。その名刺は先日貴様があの『辺境人(マージナル)』とやらから受け取った物だ。貴様の財布から抜き取って吾代に調べさせた」
「ちょ、なんてことすんのよ! 人の財布を漁るな! アンタねえ、プライバシーって言葉知らないの!?」
「固いことを言うな。貴様の物は我が輩の物、我輩の物は我が輩の物だ。ジャイアニズムと言うそうだな。
なかなか洗練された思想ではないか。人間の中にもそれなりに進歩的な者がいるらしい。我が輩に相応しい概念だと思わぬか?」
「相応しいっちゃあ相応しいけどなんかダメだろそれ!」
「そんなことより吾代よ、さっさと結果を述べろ」
わたしとネウロの応酬に取り残されて手持ち無沙汰だった吾代さんが、意を得たように頷いて手元の書類に目を落とした。
「お、おう。……テメーの言う『香織甲介』『辺境人(マージナル)』って名前で殺し屋をやってるヤツは、その筋の業界にはいないぜ。
人相風体でもそれらしい人物に心当たりがあるやつは見つからなかった。
社長のコネで警察関係にも当たらせたけどよ、そういったヤツがマークされてるって情報はない。前科持ちでもないみてーだ。
住民登録とかで調べる手もあるが、名前だけじゃ身元を割り出すのに時間が掛かりすぎる」
「ふむ……」
吾代さんの報告を聞きながら、ネウロは顎に手を当てて何事かを考えているようだった。
「吾代よ、一つ確認しておく。『なにも見つからなかった』のだな?」
「ん? ああ、そうだよ。……言っとくけどな、手抜きなんてしてねーぞ。なんの情報も洗い出せなかったぜ。
テメーの気には食わないだろうけどな、ないもんはないんだ。なにかっつーとテメーはゴミだのクズだの言うけどよ──」
「フン、被害妄想も甚だしいぞ。いつ我が輩が貴様をゴミ呼ばわりした? それに、貴様は充分な働きをしている」
「なんだと? だって、なにも調べられなかったんだぞ?」
その点はわたしも意外だった。
てっきり、「この低能」だの「役立たず」だの「地球に優しくない二酸化炭素製造機」だの好き放題に言い散らすと思っていたのだが。
「いや、貴様は立派に我が輩にとって必要な情報を入手してきた。
浅薄で無知蒙昧で愚劣極まりなく知能の覚束ないゴミでクズの貴様には理解できないだろうが──」
(今言った! 『ゴミ』って言った!!)
「『なにも無い』──それも一つの真実だ。不在は存在と同等の価値を持つ。全ての存在認識は対なるものの不在を知ることから始まるのだ」
などと、分かるようで分からないことを言う。
わたしがクエスチョンマークを頭上に浮かべていると、
「例えば、だ──『アリバイトリック』はその認識に立脚したトリックだ。『そこにいない』ことを擬装することで、不可能犯を演出している。
また、ある種の科学実験や数学証明に於いては、ある命題を否定することで逆説的に別の命題を肯定する手法が取られることも多い。
吾代が情報を持ち帰られなかったということは──吾代の目の届く範囲にヤツはいないということだ。今回の調査でそれが判明したのは大きな前進だ」
「おお、なるほどね」
わたしの頭上に豆電球が閃いた。思わずぽんと手を打つ。
「こんなことも即座に理解できないとは、やはり貴様たちはダンゴムシ並の頭脳の持ち主だな。
だが安心しろ、貴様らの知恵など当てにしていないからな。三人寄ってもまだ我が輩のレヴェルに達し得まい」
……いつもいつも一言多いんだよアンタは。
「さて……ご苦労だった、吾代よ。望み通りに犬まっしぐらのドッグフードをくれてやろう。思うさま貪り喰らうが良い」
「そのネタをいつまでも引っ張ってんじゃねえ!」
「いいから帰れ」
「ぐごぉっ!」
ネウロの投げたドッグフードの缶が吾代さんの眉間に命中した。
なんか「めこっ」って感じの嫌な音がして、彼は仰向けにぶっ倒れてしまう。
「ご、吾代さん!?」
慌てて駆け寄って抱き起こすと、吾代さんはわたしの肩につかまってよろよろと起き上がりながら苦々しげにつぶやいた。
「……お前、よくあんな凶暴なやつと一緒に探偵やってられるよな。身体が幾つあっても足りねーぞ」
「うん。わたしもあと三つくらい自分の身体のストックが欲しいなって最近よく思うの」
それは、ネウロがその筋の金融会社の事務所だった部屋を乗っ取って設立したものだ。
この事務所を拠点として、わたしは「探偵役」をやらされ、ネウロは「助手役」という立場に隠れて『謎』を解い(くっ)ている。
「ただいまー、アカネちゃん」
応接用のソファーに鞄を投げ捨て、わたしは壁からぶら下がる黒髪のおさげに向かって挨拶をした。
傍から見るときっと間抜けな光景だろうが、わたしは冗談でやっているわけじゃなかった。
壁から垂れる一房の三つ編み──『彼女』はこの部屋の『先住者』であり、わたしたちがこの部屋に入居するはるか以前に何者かによって殺されている。
その死体はポーの黒猫よろしく壁に埋められていたのだが、ネウロの発する魔界の瘴気に当てられて髪の毛部分だけ蘇生してしまった。言わばリビングデッドだ。
以来、彼女は週五回のトリートメントを報酬として、事務所の秘書として内務を担当している。
「……あれ? ただいま、アカネちゃーん」
いつもはぶんぶんと髪の毛を振って応えてくれるアカネちゃんが、今日はなぜかぴくりとも動かなかった。
キューティクルの調子でも悪いのだろうか。それとも、なにか動くに動けない理由でもあるのだろうか。
「なにやってんだ、探偵」
驚き、背後を振り返ると、見るからにチンピラ丸出しの男が立っていた。
「あ……吾代さん。こんちわ。どうしたの?」
「あの助手に呼ばれたんだよ。つーか、誰だアカネって」
彼はネウロが魔人であることを知らない(普通の人間ではないことには気づいてるだろうが)。
だから当然、ネウロの影響で蘇ったアカネちゃんのことも知らない。
「わ、わたしの友達。……脳内の」
「お前……そんなに友達いないのか?」
なんか痛々しい目を向けられた。
物凄い誤解なのだが、アカネちゃんのことを説明するわけにもいかないので、黙ってその視線に耐えるしかなかった。
「そ、それでネウロに呼ばれたってなんのこと?」
「あ? 例によってテメーらのパシリだよ。ったくよ、あの化物、人使いが荒いったらねえ」
彼は元々はこの部屋の住人だった(アカネちゃんの後であるが)。
悪徳金融会社の社員として清く正しく真面目に働いていたのだが、
なんの運命のいたずらか社長を殺され、その『謎』を嗅ぎつけたネウロに事務所を奪われ、
挙句の果てに「桂木弥子魔界探偵事務所」の雑用(奴隷二号)としてネウロにこき使われているのだ。
今は民間の大手調査機関に副社長として出向しており、全国津々浦々に広がる情報網でネウロの主食である『謎』を集めている。
「おお、揃っているな」
なんかいろいろ入った紙袋を腕に抱え、ネウロが悠然とした足取りで事務所に現れた。
これで「桂木弥子魔界探偵事務所」のスタッフが勢揃いしたことになる。
もっとも、あくまでネウロを中心としたネウロのためだけの人材なわけであるが。
「おいコラ助手。人を呼びつけておいてテメーは気楽にお買い物かよ」
いかにも買い物帰り、といった感じのネウロを見咎め、吾代さんがネウロに文句をつけるが、
「まあそういきり立つな吾代よ。酒のつまみに特売品のドッグフードをくれてやろう」
「いらねーよ!」
「なぜだ? テレヴィのCMでは『犬まっしぐら』と謳っていたぞ。貴様もまっしぐらなのだろう?」
「テメェ……いつか殺す……」
「ほほう、貴様のような犬ころが我が輩を殺せるかな? 出来もしないことを言うものではない」
「上等だコラ……!」
このままだと血を見る結果になりそうだった。もちろん血を見るのはネウロで流すのが吾代さんだ。
いくら吾代さんが鬼のように喧嘩が強くても、所詮は魔人ならぬ身の上、
本当の意味で鬼のように強いネウロには敵わないのは火を見るより明らかだった。
青筋をぴくぴく言わせる吾代さんをとりなすように、わたしは二人の間に割り込む。
「ね、ねえネウロ。吾代さんになにを調べてもらったのよ」
「そうだったな。吾代よ、我が輩が命じた件はどうなっている? 餌を与えるのは言いつけられた仕事をこなしてからだ」
「だからドッグフードなんざいらねえっつーの! ……クソったれが、お望みどおり調べてやったよ。ほら、これ返すぜ」
そう言って、吾代さんは小さな紙片を投げて寄越した。
それは一枚の名刺で、そこに書かれている文字には見覚えがあった。
「ネ、ネウロ! これって……!」
「そうだ。その名刺は先日貴様があの『辺境人(マージナル)』とやらから受け取った物だ。貴様の財布から抜き取って吾代に調べさせた」
「ちょ、なんてことすんのよ! 人の財布を漁るな! アンタねえ、プライバシーって言葉知らないの!?」
「固いことを言うな。貴様の物は我が輩の物、我輩の物は我が輩の物だ。ジャイアニズムと言うそうだな。
なかなか洗練された思想ではないか。人間の中にもそれなりに進歩的な者がいるらしい。我が輩に相応しい概念だと思わぬか?」
「相応しいっちゃあ相応しいけどなんかダメだろそれ!」
「そんなことより吾代よ、さっさと結果を述べろ」
わたしとネウロの応酬に取り残されて手持ち無沙汰だった吾代さんが、意を得たように頷いて手元の書類に目を落とした。
「お、おう。……テメーの言う『香織甲介』『辺境人(マージナル)』って名前で殺し屋をやってるヤツは、その筋の業界にはいないぜ。
人相風体でもそれらしい人物に心当たりがあるやつは見つからなかった。
社長のコネで警察関係にも当たらせたけどよ、そういったヤツがマークされてるって情報はない。前科持ちでもないみてーだ。
住民登録とかで調べる手もあるが、名前だけじゃ身元を割り出すのに時間が掛かりすぎる」
「ふむ……」
吾代さんの報告を聞きながら、ネウロは顎に手を当てて何事かを考えているようだった。
「吾代よ、一つ確認しておく。『なにも見つからなかった』のだな?」
「ん? ああ、そうだよ。……言っとくけどな、手抜きなんてしてねーぞ。なんの情報も洗い出せなかったぜ。
テメーの気には食わないだろうけどな、ないもんはないんだ。なにかっつーとテメーはゴミだのクズだの言うけどよ──」
「フン、被害妄想も甚だしいぞ。いつ我が輩が貴様をゴミ呼ばわりした? それに、貴様は充分な働きをしている」
「なんだと? だって、なにも調べられなかったんだぞ?」
その点はわたしも意外だった。
てっきり、「この低能」だの「役立たず」だの「地球に優しくない二酸化炭素製造機」だの好き放題に言い散らすと思っていたのだが。
「いや、貴様は立派に我が輩にとって必要な情報を入手してきた。
浅薄で無知蒙昧で愚劣極まりなく知能の覚束ないゴミでクズの貴様には理解できないだろうが──」
(今言った! 『ゴミ』って言った!!)
「『なにも無い』──それも一つの真実だ。不在は存在と同等の価値を持つ。全ての存在認識は対なるものの不在を知ることから始まるのだ」
などと、分かるようで分からないことを言う。
わたしがクエスチョンマークを頭上に浮かべていると、
「例えば、だ──『アリバイトリック』はその認識に立脚したトリックだ。『そこにいない』ことを擬装することで、不可能犯を演出している。
また、ある種の科学実験や数学証明に於いては、ある命題を否定することで逆説的に別の命題を肯定する手法が取られることも多い。
吾代が情報を持ち帰られなかったということは──吾代の目の届く範囲にヤツはいないということだ。今回の調査でそれが判明したのは大きな前進だ」
「おお、なるほどね」
わたしの頭上に豆電球が閃いた。思わずぽんと手を打つ。
「こんなことも即座に理解できないとは、やはり貴様たちはダンゴムシ並の頭脳の持ち主だな。
だが安心しろ、貴様らの知恵など当てにしていないからな。三人寄ってもまだ我が輩のレヴェルに達し得まい」
……いつもいつも一言多いんだよアンタは。
「さて……ご苦労だった、吾代よ。望み通りに犬まっしぐらのドッグフードをくれてやろう。思うさま貪り喰らうが良い」
「そのネタをいつまでも引っ張ってんじゃねえ!」
「いいから帰れ」
「ぐごぉっ!」
ネウロの投げたドッグフードの缶が吾代さんの眉間に命中した。
なんか「めこっ」って感じの嫌な音がして、彼は仰向けにぶっ倒れてしまう。
「ご、吾代さん!?」
慌てて駆け寄って抱き起こすと、吾代さんはわたしの肩につかまってよろよろと起き上がりながら苦々しげにつぶやいた。
「……お前、よくあんな凶暴なやつと一緒に探偵やってられるよな。身体が幾つあっても足りねーぞ」
「うん。わたしもあと三つくらい自分の身体のストックが欲しいなって最近よく思うの」
吾代さんが帰り、わたしとネウロの二人きりになった(アカネちゃんもいるけど)事務所で、ネウロは椅子に深く腰掛けながら窓の外の夕日を眺めていた。
わたしはおやつのソフトせんべいをさくさく食べていたが、ふと、その手を止める。
「ねえ、ネウロ」
「なんだ」
「本当に……あの香織さんと全死さんを探すの?」
「無論だ」
「でも、見つけてどうするの? 『謎』は生まれなかったんでしょう?」
「『謎』の気配は確かにあった。奴等自身の手によるものではなくとも、遅かれ早かれ『謎』が奴等の身辺に発生するのは間違いない」
わたしに顔を背けて応えていたネウロが、ここではじめてこっちを見た。
窓を背にした逆光のせいで、その表情はよく読み取れなかった。
「ヤコよ。なにを怖れているのだ」
「べ、別になにも」
「そうか?」
──それは、きっと嘘だった。
わたしは、怖かったのだと思う。
「……香織さんが人を殺す理由、ネウロに言ったよね」
「『習慣』、だそうだな」
「そうだよ。習慣だから人を殺すんだって。信じられる?
わたしが家に帰ったらまず靴を脱ぐみたいに、ドアを開けたら閉めるように、そんな理由で人を殺してるんだよ?
それに、全死さんは『メタテキストをいじれる』って言ってた。
その意味はよく分からないけど、そうすれば『安全な標的』……安全に人を殺せるんだって」
「なにが言いたいのだ、ヤコ」
「だから……ネウロ、大丈夫なの?
『謎』を生む『悪意』がなく人を殺せる人間がいて、『謎』の生まれる必要のない『安全な標的』を作れる人がいて、
今はあの二人だけなのかもしれない、でも、もし、そんな人たちが他にもいて、それでそんな人たちが増えたりしたら……。
いつか、この世界から、『謎』が消えて無くなっちゃうんじゃないの? そしたら、ネウロはどうする気?」
「なんだ……貴様は我が輩の食料危機の心配をしているのか?」
「だ、誰がアンタの心配なんか!」
さらに言い募ろうとするわたしを手で制して、ネウロはふわりと椅子から浮かび上がった。
そして宙で身を反転させ、そのまま天井に降り立つ。
「だが、貴様にしては珍しく良い着眼点だ。
そう──まさにその故に、我が輩は奴等を見定めなくてはならない。
奴等が我が輩にとっての『天敵』になりうるかどうか、是非とも確認しておく必要があるのだ。
もしも奴等が『謎』を否定するような存在であるならば、早めに排除せねばなるまい。
理論上は存在するであろう、我が輩の脳髄の飢えを満たす『究極の謎』に到達するためにも、な」
夕暮れの中で逆さに立ちながら、『謎』喰いの魔人はそう言って不敵に笑った。
わたしはおやつのソフトせんべいをさくさく食べていたが、ふと、その手を止める。
「ねえ、ネウロ」
「なんだ」
「本当に……あの香織さんと全死さんを探すの?」
「無論だ」
「でも、見つけてどうするの? 『謎』は生まれなかったんでしょう?」
「『謎』の気配は確かにあった。奴等自身の手によるものではなくとも、遅かれ早かれ『謎』が奴等の身辺に発生するのは間違いない」
わたしに顔を背けて応えていたネウロが、ここではじめてこっちを見た。
窓を背にした逆光のせいで、その表情はよく読み取れなかった。
「ヤコよ。なにを怖れているのだ」
「べ、別になにも」
「そうか?」
──それは、きっと嘘だった。
わたしは、怖かったのだと思う。
「……香織さんが人を殺す理由、ネウロに言ったよね」
「『習慣』、だそうだな」
「そうだよ。習慣だから人を殺すんだって。信じられる?
わたしが家に帰ったらまず靴を脱ぐみたいに、ドアを開けたら閉めるように、そんな理由で人を殺してるんだよ?
それに、全死さんは『メタテキストをいじれる』って言ってた。
その意味はよく分からないけど、そうすれば『安全な標的』……安全に人を殺せるんだって」
「なにが言いたいのだ、ヤコ」
「だから……ネウロ、大丈夫なの?
『謎』を生む『悪意』がなく人を殺せる人間がいて、『謎』の生まれる必要のない『安全な標的』を作れる人がいて、
今はあの二人だけなのかもしれない、でも、もし、そんな人たちが他にもいて、それでそんな人たちが増えたりしたら……。
いつか、この世界から、『謎』が消えて無くなっちゃうんじゃないの? そしたら、ネウロはどうする気?」
「なんだ……貴様は我が輩の食料危機の心配をしているのか?」
「だ、誰がアンタの心配なんか!」
さらに言い募ろうとするわたしを手で制して、ネウロはふわりと椅子から浮かび上がった。
そして宙で身を反転させ、そのまま天井に降り立つ。
「だが、貴様にしては珍しく良い着眼点だ。
そう──まさにその故に、我が輩は奴等を見定めなくてはならない。
奴等が我が輩にとっての『天敵』になりうるかどうか、是非とも確認しておく必要があるのだ。
もしも奴等が『謎』を否定するような存在であるならば、早めに排除せねばなるまい。
理論上は存在するであろう、我が輩の脳髄の飢えを満たす『究極の謎』に到達するためにも、な」
夕暮れの中で逆さに立ちながら、『謎』喰いの魔人はそう言って不敵に笑った。
今となってはどうでも良い話だが、俺は中学生の頃、同級生の少女を殺した。
彼女に対してなんらかの恨みや欲望があったわけではない。ただ、俺には人を殺す習慣があり、その習慣に従って殺した。
だが、殺人という行為のリスクに鑑みるなら、見知った人間を殺すべきではなかった。
案の定というかなんというか、その殺人は幼馴染の女に嗅ぎつけられる仕儀に陥った。
それだけならまだいい。その女は(多分、面白半分で)俺の行為を勝手に『密室殺人』に仕立てあげたのだ。
俺は『習慣』を、日常を、レギュラーを大切にして生きている。
それまで俺は、自分の殺人行為にそんなミステリ風の茶目っ気を導入したことなど一度も無かったのだ。
まったくの話、余計なお世話もいいところだった。そのお陰で、俺は危うく司直の手に落ちる寸前まで行ってしまった。
俺の習慣を破壊したその女が悪いのか、それとも同級生という身分の人間を殺した俺が悪いのか。
それは俺には分からない。
彼女に対してなんらかの恨みや欲望があったわけではない。ただ、俺には人を殺す習慣があり、その習慣に従って殺した。
だが、殺人という行為のリスクに鑑みるなら、見知った人間を殺すべきではなかった。
案の定というかなんというか、その殺人は幼馴染の女に嗅ぎつけられる仕儀に陥った。
それだけならまだいい。その女は(多分、面白半分で)俺の行為を勝手に『密室殺人』に仕立てあげたのだ。
俺は『習慣』を、日常を、レギュラーを大切にして生きている。
それまで俺は、自分の殺人行為にそんなミステリ風の茶目っ気を導入したことなど一度も無かったのだ。
まったくの話、余計なお世話もいいところだった。そのお陰で、俺は危うく司直の手に落ちる寸前まで行ってしまった。
俺の習慣を破壊したその女が悪いのか、それとも同級生という身分の人間を殺した俺が悪いのか。
それは俺には分からない。
──はっきりとしているのは、このエピソードは習慣の重要性を改めて俺に教示する寓話であり、
飛鳥井全死という傍若無人で無軌道な女が俺の『日常』に組み込まれることとなった、その切っ掛けであるということだった。
飛鳥井全死という傍若無人で無軌道な女が俺の『日常』に組み込まれることとなった、その切っ掛けであるということだった。
いつものように大学の授業を終えて部屋に帰ると、(不本意なことに)いつものように全死がそこにいた。
「お帰り、辺境人(マージナル)」
ビールの缶を掲げる全死はそう言って笑ったが、元の面構えが凶悪なので、とてもじゃないが俺の帰りを歓迎しているようには見えなかった。
また勝手に人の部屋に上がりこんで──という抗議は胸中だけに留めておいた。言うだけ無駄であり、口を動かすカロリー分だけ損をするからだ。
「また昼間からビールですか。いいご身分ですね」
テキストやらノートやらを入れている鞄を床に投げ捨てながら思ったままを告げると、全死は「ふん」と唇を歪ませた。
「わたしがいいご身分なのは当たり前さ。それに、ドイツ人は昼間でもビール飲んでるぞ」
「ここは日本です。そこまで言うならドイツに帰化したらどうです? その方が俺も肩の荷が降りるというものです」
「馬鹿言うなよ。愛するお前を置いてそんな遠くに行けるもんか」
「それはどうも。身に余る光栄ですね」
そんなことは微塵も思っていないのだが、とりあえず自動的にそんな言葉を吐く。
見ると、テーブルの上にはビールの空き缶が散乱しており、おまけにだらしない全死が辺り構わずビールをこぼしたせいでべたべたに汚れていた。
ちょっと眉をしかめそうになるが、敢えて無表情を装って全死の向かいに腰を下ろす。
「それで、今日はなんの御用ですか?」
「まあ、とりあえず飲めよ。まだまだあるぞ」
「それは俺の家の冷蔵庫に入っていたビールでしょう。全死さんに『飲めよ』と勧められる筋合いはありません。
むしろここは、俺が怒ってもいい場面ですよ。他人の家の冷蔵庫を開けるのは礼に反します」
「飲まないのか?」
「……飲みますよ。俺のビールですからね」
全死はつまみもなしにビールを七缶も空けていた。変なところで器用な女である。
冷蔵庫になにかつまみになりそうなものがあったはずだと腰を浮かしかけたとき、チャイムが鳴り響いた。
「どうぞー、開いてるよ」
「全死さんに来客の応対をする権利はありません」
そう言いつつ、冷蔵庫へと向かっていた足を玄関口へと軌道修正した。
ドアを開けても、そには誰もいない──と思ったら、視界の底辺に小柄な人影が辛うじて引っ掛かっていた。
目線を下げてそこに焦点を合わせると、それが誰であるかは即座に判明した。
「こんにちわ。全死さん、いらっしゃいますか」
荻浦嬢瑠璃だった。薄地のセーラー服を折り目正しく着込んで、首筋にうっすら汗をかいていた。
「……なんであの人がここにいると思うんだ? 言っておくけど、ここは全死さんの家じゃないぞ。
俺が賃借契約をしている部屋だ。俺が全死さんと同棲してるとか気色悪いことを考えてるんだったら即座に改めてくれ」
「それは把握しています。ですが、全死さんから連絡がありましたので。ここに来い、と」
「なるほどね。納得した」
全死が呼んだというなら否も応もない。仕方なく嬢瑠璃を招じ入れる。
嬢瑠璃は律儀に「お邪魔いたします」を礼をし、「差し入れです」とスーパーの袋を差し出した。中を覗くと鳥の唐揚げだった。
この年頃の少女にしては実に気の利いた態度だろう。
いい歳こいて無断で他人の部屋に上がりこむどこかの誰かに、彼女の爪の垢でも煎じて飲ませたらいいと思う。
だが現実はいつだって悲しい。実際はその真逆で、この荻浦嬢瑠璃は全死の悪影響をモロに被る立場にあり、日々全死に毒されているのだ。
「やあ、嬢瑠璃ちゃん、早かったね。褒めてあげよう」
「お褒めいただかなくとも結構です。わたしは全死さんの奴隷ですから」
──そう、全死と嬢瑠璃の間には、およそ現実離れした『主従関係』が成立しているのである。
以前はおおむね普通の女子中学生だった彼女は、不運にして不条理なことに全死に目を付けられた。
「あの子をわたしのものにする」という自己中心的な全死の意向により、彼女の人生計画は大きく狂ってしまった。
数ある全死の悪癖のなかでももっとも過激なのが、この「気に入った少女を支配下に置く」というやつだろう。
果たして全死の常軌を逸した過干渉を受け、挙句に上手いこと言いくるめられ、終には全死の目論見どおりに全死の奴隷になってしまった。
本人は「嬢瑠璃ちゃんのメタテキストを改変したんだよ」と称しているが、その現場を傍観していた俺からすれば妙なロジックで言いくるめているようにしか見えなかった。
「香織さん、お皿を拝借します」
「ん? ああ、勝手に使えばいい」
嬢瑠璃は甲斐甲斐しくも全死のために鳥の唐揚げを皿に取り分けていた。
「──あ」
と、嬢瑠璃の手から箸がぽろっと落ちる。
咄嗟に伸ばした手がその小さな手と触れる。他人と手を触れ合わせる経験など大して持ち合わせていないが、
それでも嬢瑠璃の手には、はっきりと感覚できる違和感があった。
彼女の手には、薬指が無かった。
それは事故によるものではなければ自分で切り取ったものでもない。強いて言うなら、彼女の両手の薬指は全死にもぎ取られたのだ。
「強いて言うなら」という奇妙な表現なのには理由がある。実際には全死がその手で嬢瑠璃の指を切断したわけではない。
嬢瑠璃が全死の奴隷になった日──全死の言葉を借りれば「嬢瑠璃ちゃんのメタテキストが改変された」その瞬間、
嬢瑠璃の薬指がなんの前触れも無くパージされたのだ。
全死は「メタテキストをいじって他人を味方につけると稀にこうなるんだ」と説明したが、まるで意味不明だった。
メタテキストうんぬんを信じるにしても、それと嬢瑠璃の指が吹き飛ぶことの間に、どんな因果関係があるのか。
しかしまあ──結局はそんなことはどうでもいいことである。事実として嬢瑠璃の指は欠落してしまったのだ。
そうなっているのだから仕方が無い。世の中とはいつだってそういうものだ。
とりあえずの確定事項として、荻浦嬢瑠璃は全死に『飼われて』いる。
それだけしっかりと把握しておけば俺の生活にはなんの支障も無かった。薬指が無くて困るのは俺ではない。
彼女がエンゲージリングを填められない身体になっても、それは俺の知ったことではなかった。
「あの、離してくれませんか」
言われて我に返る。思考に気を取られて嬢瑠璃の手を握ったままだった。
顔を上げると、嬢瑠璃の平静で無感動な瞳が俺を捉えていた。
「おっと、悪い」
「いえ」
嬢瑠璃は顔色一つ変えずにそう述べた。まあここで頬を染められても俺が困るわけだが。
「おいおいおい、なにやってんだよ辺境人(マージナル)。わたしの嬢瑠璃ちゃんにセクハラなんて許さないぞ」
「人聞きの悪いことを言わないでください。ちょっと考え事をしていただけです」
「ふん、どうだか。──そういやお前、あの子どうするつもりだ?」
「あの子って?」
「桂木弥子ちゃんだよ」
さっぱり心当たりが無かった。さて、誰だっけ──と考え始めたところで、嬢瑠璃がそっと耳打ちする。
「『目撃者』ですよ」
「ああ、『探偵』の。言われてみればそんな名前でしたね」
「ん? なに、あの子、探偵なのか?」
「少なくとも受け取った名刺にはそう記されてましたはずです。ちょっと待ってください。
ええっと……あった。『桂木弥子魔界探偵事務所』──なんだか、ずいぶんとプログレッシヴな名前の探偵事務所ですね」
「そんな枝葉はどうでもいいんだ。お前はあの子をどうするつもりだって聞いてるんだよ」
正直に言って、全死の質問の意味が理解できなかった。
なんの必要があって、自分の殺人行為を目撃された少女と交渉を持たなければならないのか。
探偵だかなんだか知らないが、民間人である彼女は現行犯以外の逮捕権を持ち合わせていない。
つまり、彼女の証言によって俺の行為が明るみに出ても、それは別の証拠物件によって俺が逮捕されるのとなんら変わりが無い。
そして証拠隠滅とは行為の直後に行うものであり、「あ、消し忘れた」とのこのこ隠滅しに戻るものではないのだ。
下手に動けば動くだけ、自分の存在を外の世界に知らしめることになる。
こういう場合は何食わぬ顔をして日常を過ごすのが最上だろう。
「どうするって……どうもこうもありません。没交渉です」
「なんだよ、なにもしないのか? ──というか、お前鬼だな」
俺は鬼ではない。これでも自他共に認める人間である。
「俺は鬼じゃありません。れっきとしたホモ・サピエンスです」
「だってそうだろう? そんな鉄板もののフラグ立てておきながら、しれっとした顔してそいつをへし折るんだもの」
「……言ってる意味が分かりません」
「あん? この愚鈍が。孤高の殺人者とそれを目撃した少女なんてこれ以上ない純愛フラグじゃないか」
「全死さんはエロゲのやりすぎじゃないでしょうか。そもそも俺が孤高だってのはどこから発生した説ですか」
しかしというかやはりというか、全死は俺の意見など聞く耳持たずに好き勝手なことを並べ立てる。
「まあ、問題なのはお前が『辺境人(マージナル)』だってことだな。生粋のフラグブレイカーだよ、お前は。
こっち側とあっち側の境に立って、どっちにも引っ張られたくないっていう、どうしようもなく我侭な人種さ。
──ふん、まあいいさ。お前にその気がないってのなら、わたしも遠慮がいらないからな。
いや、もちろんお前にその気があっても遠慮しないけど」
「はあ、そうですか」
なにか、とてつもなく嫌な予感がした。
それは俺の頭痛の種が増えるような予感であり、俺のレギュラーが乱される予感であり、その感覚には覚えがあった。
無意識的に傍らの嬢瑠璃を見る。彼女は呆れているような困っているような、なんとも言い難い微妙な目線を返してきた。
「決めたぞ、辺境人(マージナル)。わたしは弥子ちゃんを自分のものにする」
そう言い、全死は実に悪意に満ちた──気の弱いやつなら思わず目を逸らしてしまいそうな禍々しい笑みを顔いっぱいに浮かべた。
「自分のものにする」という言葉の定義は場合によって様々である。
嬢瑠璃のように名実ともに完全に支配下におくこともあれば、ただお茶をするだけのこともある。
だが──どの道、全死に狙われた少女に最悪の災難が訪れるのは免れないだろう。
全死のような無秩序で破滅的な人間と関わりをもつということは、即ちそういうことである。
俺としては、『女子高生探偵』桂木弥子に降りかかるであろう空前絶後の災害を胸のうちで悼むことしか出来ない。
ただまあ、その前に一言だけ全死に苦言を呈しても罰は当たらないだろう。
「──またそれですか。もう少し自重したどうです。嬢瑠璃の日常を目茶苦茶にした失敗からなにも学んでいないじゃないですか」
すると、全死は意外にも真面目そのもの、といった口調で返してきた。
「なにを言ってるんだ。嬢瑠璃ちゃんの件でわたしは失敗なんてしていないぞ。──いや、『失敗できなかった』というのが実相に近い。
いつも言ってるだろう。わたしは常に正しいんだ。完璧なんだ。完全無欠で無謬で絶対に間違えないんだ」
それに対し、俺は精一杯の溜息をついてこう答えるだけに留めた。
「はいはい。そうでしょうとも」
「お帰り、辺境人(マージナル)」
ビールの缶を掲げる全死はそう言って笑ったが、元の面構えが凶悪なので、とてもじゃないが俺の帰りを歓迎しているようには見えなかった。
また勝手に人の部屋に上がりこんで──という抗議は胸中だけに留めておいた。言うだけ無駄であり、口を動かすカロリー分だけ損をするからだ。
「また昼間からビールですか。いいご身分ですね」
テキストやらノートやらを入れている鞄を床に投げ捨てながら思ったままを告げると、全死は「ふん」と唇を歪ませた。
「わたしがいいご身分なのは当たり前さ。それに、ドイツ人は昼間でもビール飲んでるぞ」
「ここは日本です。そこまで言うならドイツに帰化したらどうです? その方が俺も肩の荷が降りるというものです」
「馬鹿言うなよ。愛するお前を置いてそんな遠くに行けるもんか」
「それはどうも。身に余る光栄ですね」
そんなことは微塵も思っていないのだが、とりあえず自動的にそんな言葉を吐く。
見ると、テーブルの上にはビールの空き缶が散乱しており、おまけにだらしない全死が辺り構わずビールをこぼしたせいでべたべたに汚れていた。
ちょっと眉をしかめそうになるが、敢えて無表情を装って全死の向かいに腰を下ろす。
「それで、今日はなんの御用ですか?」
「まあ、とりあえず飲めよ。まだまだあるぞ」
「それは俺の家の冷蔵庫に入っていたビールでしょう。全死さんに『飲めよ』と勧められる筋合いはありません。
むしろここは、俺が怒ってもいい場面ですよ。他人の家の冷蔵庫を開けるのは礼に反します」
「飲まないのか?」
「……飲みますよ。俺のビールですからね」
全死はつまみもなしにビールを七缶も空けていた。変なところで器用な女である。
冷蔵庫になにかつまみになりそうなものがあったはずだと腰を浮かしかけたとき、チャイムが鳴り響いた。
「どうぞー、開いてるよ」
「全死さんに来客の応対をする権利はありません」
そう言いつつ、冷蔵庫へと向かっていた足を玄関口へと軌道修正した。
ドアを開けても、そには誰もいない──と思ったら、視界の底辺に小柄な人影が辛うじて引っ掛かっていた。
目線を下げてそこに焦点を合わせると、それが誰であるかは即座に判明した。
「こんにちわ。全死さん、いらっしゃいますか」
荻浦嬢瑠璃だった。薄地のセーラー服を折り目正しく着込んで、首筋にうっすら汗をかいていた。
「……なんであの人がここにいると思うんだ? 言っておくけど、ここは全死さんの家じゃないぞ。
俺が賃借契約をしている部屋だ。俺が全死さんと同棲してるとか気色悪いことを考えてるんだったら即座に改めてくれ」
「それは把握しています。ですが、全死さんから連絡がありましたので。ここに来い、と」
「なるほどね。納得した」
全死が呼んだというなら否も応もない。仕方なく嬢瑠璃を招じ入れる。
嬢瑠璃は律儀に「お邪魔いたします」を礼をし、「差し入れです」とスーパーの袋を差し出した。中を覗くと鳥の唐揚げだった。
この年頃の少女にしては実に気の利いた態度だろう。
いい歳こいて無断で他人の部屋に上がりこむどこかの誰かに、彼女の爪の垢でも煎じて飲ませたらいいと思う。
だが現実はいつだって悲しい。実際はその真逆で、この荻浦嬢瑠璃は全死の悪影響をモロに被る立場にあり、日々全死に毒されているのだ。
「やあ、嬢瑠璃ちゃん、早かったね。褒めてあげよう」
「お褒めいただかなくとも結構です。わたしは全死さんの奴隷ですから」
──そう、全死と嬢瑠璃の間には、およそ現実離れした『主従関係』が成立しているのである。
以前はおおむね普通の女子中学生だった彼女は、不運にして不条理なことに全死に目を付けられた。
「あの子をわたしのものにする」という自己中心的な全死の意向により、彼女の人生計画は大きく狂ってしまった。
数ある全死の悪癖のなかでももっとも過激なのが、この「気に入った少女を支配下に置く」というやつだろう。
果たして全死の常軌を逸した過干渉を受け、挙句に上手いこと言いくるめられ、終には全死の目論見どおりに全死の奴隷になってしまった。
本人は「嬢瑠璃ちゃんのメタテキストを改変したんだよ」と称しているが、その現場を傍観していた俺からすれば妙なロジックで言いくるめているようにしか見えなかった。
「香織さん、お皿を拝借します」
「ん? ああ、勝手に使えばいい」
嬢瑠璃は甲斐甲斐しくも全死のために鳥の唐揚げを皿に取り分けていた。
「──あ」
と、嬢瑠璃の手から箸がぽろっと落ちる。
咄嗟に伸ばした手がその小さな手と触れる。他人と手を触れ合わせる経験など大して持ち合わせていないが、
それでも嬢瑠璃の手には、はっきりと感覚できる違和感があった。
彼女の手には、薬指が無かった。
それは事故によるものではなければ自分で切り取ったものでもない。強いて言うなら、彼女の両手の薬指は全死にもぎ取られたのだ。
「強いて言うなら」という奇妙な表現なのには理由がある。実際には全死がその手で嬢瑠璃の指を切断したわけではない。
嬢瑠璃が全死の奴隷になった日──全死の言葉を借りれば「嬢瑠璃ちゃんのメタテキストが改変された」その瞬間、
嬢瑠璃の薬指がなんの前触れも無くパージされたのだ。
全死は「メタテキストをいじって他人を味方につけると稀にこうなるんだ」と説明したが、まるで意味不明だった。
メタテキストうんぬんを信じるにしても、それと嬢瑠璃の指が吹き飛ぶことの間に、どんな因果関係があるのか。
しかしまあ──結局はそんなことはどうでもいいことである。事実として嬢瑠璃の指は欠落してしまったのだ。
そうなっているのだから仕方が無い。世の中とはいつだってそういうものだ。
とりあえずの確定事項として、荻浦嬢瑠璃は全死に『飼われて』いる。
それだけしっかりと把握しておけば俺の生活にはなんの支障も無かった。薬指が無くて困るのは俺ではない。
彼女がエンゲージリングを填められない身体になっても、それは俺の知ったことではなかった。
「あの、離してくれませんか」
言われて我に返る。思考に気を取られて嬢瑠璃の手を握ったままだった。
顔を上げると、嬢瑠璃の平静で無感動な瞳が俺を捉えていた。
「おっと、悪い」
「いえ」
嬢瑠璃は顔色一つ変えずにそう述べた。まあここで頬を染められても俺が困るわけだが。
「おいおいおい、なにやってんだよ辺境人(マージナル)。わたしの嬢瑠璃ちゃんにセクハラなんて許さないぞ」
「人聞きの悪いことを言わないでください。ちょっと考え事をしていただけです」
「ふん、どうだか。──そういやお前、あの子どうするつもりだ?」
「あの子って?」
「桂木弥子ちゃんだよ」
さっぱり心当たりが無かった。さて、誰だっけ──と考え始めたところで、嬢瑠璃がそっと耳打ちする。
「『目撃者』ですよ」
「ああ、『探偵』の。言われてみればそんな名前でしたね」
「ん? なに、あの子、探偵なのか?」
「少なくとも受け取った名刺にはそう記されてましたはずです。ちょっと待ってください。
ええっと……あった。『桂木弥子魔界探偵事務所』──なんだか、ずいぶんとプログレッシヴな名前の探偵事務所ですね」
「そんな枝葉はどうでもいいんだ。お前はあの子をどうするつもりだって聞いてるんだよ」
正直に言って、全死の質問の意味が理解できなかった。
なんの必要があって、自分の殺人行為を目撃された少女と交渉を持たなければならないのか。
探偵だかなんだか知らないが、民間人である彼女は現行犯以外の逮捕権を持ち合わせていない。
つまり、彼女の証言によって俺の行為が明るみに出ても、それは別の証拠物件によって俺が逮捕されるのとなんら変わりが無い。
そして証拠隠滅とは行為の直後に行うものであり、「あ、消し忘れた」とのこのこ隠滅しに戻るものではないのだ。
下手に動けば動くだけ、自分の存在を外の世界に知らしめることになる。
こういう場合は何食わぬ顔をして日常を過ごすのが最上だろう。
「どうするって……どうもこうもありません。没交渉です」
「なんだよ、なにもしないのか? ──というか、お前鬼だな」
俺は鬼ではない。これでも自他共に認める人間である。
「俺は鬼じゃありません。れっきとしたホモ・サピエンスです」
「だってそうだろう? そんな鉄板もののフラグ立てておきながら、しれっとした顔してそいつをへし折るんだもの」
「……言ってる意味が分かりません」
「あん? この愚鈍が。孤高の殺人者とそれを目撃した少女なんてこれ以上ない純愛フラグじゃないか」
「全死さんはエロゲのやりすぎじゃないでしょうか。そもそも俺が孤高だってのはどこから発生した説ですか」
しかしというかやはりというか、全死は俺の意見など聞く耳持たずに好き勝手なことを並べ立てる。
「まあ、問題なのはお前が『辺境人(マージナル)』だってことだな。生粋のフラグブレイカーだよ、お前は。
こっち側とあっち側の境に立って、どっちにも引っ張られたくないっていう、どうしようもなく我侭な人種さ。
──ふん、まあいいさ。お前にその気がないってのなら、わたしも遠慮がいらないからな。
いや、もちろんお前にその気があっても遠慮しないけど」
「はあ、そうですか」
なにか、とてつもなく嫌な予感がした。
それは俺の頭痛の種が増えるような予感であり、俺のレギュラーが乱される予感であり、その感覚には覚えがあった。
無意識的に傍らの嬢瑠璃を見る。彼女は呆れているような困っているような、なんとも言い難い微妙な目線を返してきた。
「決めたぞ、辺境人(マージナル)。わたしは弥子ちゃんを自分のものにする」
そう言い、全死は実に悪意に満ちた──気の弱いやつなら思わず目を逸らしてしまいそうな禍々しい笑みを顔いっぱいに浮かべた。
「自分のものにする」という言葉の定義は場合によって様々である。
嬢瑠璃のように名実ともに完全に支配下におくこともあれば、ただお茶をするだけのこともある。
だが──どの道、全死に狙われた少女に最悪の災難が訪れるのは免れないだろう。
全死のような無秩序で破滅的な人間と関わりをもつということは、即ちそういうことである。
俺としては、『女子高生探偵』桂木弥子に降りかかるであろう空前絶後の災害を胸のうちで悼むことしか出来ない。
ただまあ、その前に一言だけ全死に苦言を呈しても罰は当たらないだろう。
「──またそれですか。もう少し自重したどうです。嬢瑠璃の日常を目茶苦茶にした失敗からなにも学んでいないじゃないですか」
すると、全死は意外にも真面目そのもの、といった口調で返してきた。
「なにを言ってるんだ。嬢瑠璃ちゃんの件でわたしは失敗なんてしていないぞ。──いや、『失敗できなかった』というのが実相に近い。
いつも言ってるだろう。わたしは常に正しいんだ。完璧なんだ。完全無欠で無謬で絶対に間違えないんだ」
それに対し、俺は精一杯の溜息をついてこう答えるだけに留めた。
「はいはい。そうでしょうとも」
ある意味犯行予告とも取れる全死の宣言の後も、酒盛りはしばらく続いた。
気の抜けてぬるくなったビールを口に運びながら、全死がぽつりと漏らした。ついでにビールも口の端から垂らしていた。
「なあ、辺境人(マージナル)。お前、弥子ちゃんと脳噛ネウロに『仕事』の現場を見られたと言っていたよな?」
「はい。その通りですけど」
全死の依頼を受けて有栖川健人という高校生を殺害した夜、いったいなんの間違いか、俺はあの二人にその現場を目撃された。
実に遺憾なことに、すべての元凶はそこにある。
それさえなければ桂木弥子も全死に見初められることもなかっただろうに。
そのささやかな偶然のせいで、俺と彼女はどうしようもない厄介ごとを抱え込む破目になっている。世の中とはままならないものである。
「それなんだけどさ……お前、誰を殺したんだ?」
「はあ? ……有栖川健人という男子高校生ですよ。全死さんが持ってきた『依頼』じゃないですか」
「そいつ、生きてるぞ」
「はあ?」
知らず、声がわずかに大きくなっていた。
「だからさ、生きてるんだよ、そいつは。依頼主からクレームが来たぞ。『まだ殺してくれないのか』ってな」
ふと気がつくと、いつの間にか夜になっていた。
嬢瑠璃は床に横になってすうすう寝息を立てている。
神経質が服を着て歩いているような嬢瑠璃のこんな姿を見るのは、ネッシーを肉眼で確認する程度には希少なシチュエーションだった。
だが今はそれころではなかったので、そのレアケースに対してはなんの感想も抱かなかった。
「それは……つまり……どういうことですか?」
「まあ単純に考えるなら『人違い』だろうな。そりゃ目撃されるわな。だってわたしの保証外だもの」
──なんということだ。
気の抜けてぬるくなったビールを口に運びながら、全死がぽつりと漏らした。ついでにビールも口の端から垂らしていた。
「なあ、辺境人(マージナル)。お前、弥子ちゃんと脳噛ネウロに『仕事』の現場を見られたと言っていたよな?」
「はい。その通りですけど」
全死の依頼を受けて有栖川健人という高校生を殺害した夜、いったいなんの間違いか、俺はあの二人にその現場を目撃された。
実に遺憾なことに、すべての元凶はそこにある。
それさえなければ桂木弥子も全死に見初められることもなかっただろうに。
そのささやかな偶然のせいで、俺と彼女はどうしようもない厄介ごとを抱え込む破目になっている。世の中とはままならないものである。
「それなんだけどさ……お前、誰を殺したんだ?」
「はあ? ……有栖川健人という男子高校生ですよ。全死さんが持ってきた『依頼』じゃないですか」
「そいつ、生きてるぞ」
「はあ?」
知らず、声がわずかに大きくなっていた。
「だからさ、生きてるんだよ、そいつは。依頼主からクレームが来たぞ。『まだ殺してくれないのか』ってな」
ふと気がつくと、いつの間にか夜になっていた。
嬢瑠璃は床に横になってすうすう寝息を立てている。
神経質が服を着て歩いているような嬢瑠璃のこんな姿を見るのは、ネッシーを肉眼で確認する程度には希少なシチュエーションだった。
だが今はそれころではなかったので、そのレアケースに対してはなんの感想も抱かなかった。
「それは……つまり……どういうことですか?」
「まあ単純に考えるなら『人違い』だろうな。そりゃ目撃されるわな。だってわたしの保証外だもの」
──なんということだ。
間違えていたのは、俺だった。
「でもおかしいですよ、それ。俺はちゃんと相手の家から尾行して殺したんですから。
それに、なら……俺が殺したのは誰だったんです?」
状況を整理するべく脳のフル回転を始めた俺の眼前に、全死の顔が近づいてきた。
窓から差し込む月光を照り返して、ノンフレームの眼鏡がきらりと光る。
「おいおい、まさかとは思うが、お前この『謎』を解こうとか考えてるんじゃないだろうな。
辺境人(マージナル)は考えない、変化しない、成長しない、謎を解かない、世界はあるがままでわが友──それがお前のモットーだろう?」
「勝手に俺に変なキャッチコピーを付けないでください」
「そんなことより……いちゃいちゃしないか?」
そう言って、あぐらをかいた俺の膝に全死が座り込んできた。そして、俺の耳たぶを軽く噛んでくる。
それへの答えは一つしかない。
それに、なら……俺が殺したのは誰だったんです?」
状況を整理するべく脳のフル回転を始めた俺の眼前に、全死の顔が近づいてきた。
窓から差し込む月光を照り返して、ノンフレームの眼鏡がきらりと光る。
「おいおい、まさかとは思うが、お前この『謎』を解こうとか考えてるんじゃないだろうな。
辺境人(マージナル)は考えない、変化しない、成長しない、謎を解かない、世界はあるがままでわが友──それがお前のモットーだろう?」
「勝手に俺に変なキャッチコピーを付けないでください」
「そんなことより……いちゃいちゃしないか?」
そう言って、あぐらをかいた俺の膝に全死が座り込んできた。そして、俺の耳たぶを軽く噛んでくる。
それへの答えは一つしかない。
「──嫌です」