陣営

BF1918のプレイアブル勢力

目次

連合軍(Entente Powers)


フランス共和国(République française)

百年戦争以来数百年間に及ぶイギリスとの対立は1904年4月8日に解消されたが、ドイツとの関係は普仏戦争以来約40年間現在進行形で悪いままであり、ドイツ軍のシュリーフェン・プランには戦争でその問題を一気に解決しようという目論見も含まれていた。8月3日、ドイツはフランスに宣戦布告、両国は再び交戦状態となる。


イギリス帝国(British Empire)

イギリスの「名誉ある孤立」も20世紀に入るころには限界に達していた。1904年にフランス、1907年にはロシアと協商を締結し三国協商を形成、勢力を伸ばし続けるドイツに対抗した。「フランス及びベルギーに侵攻した場合は宣戦布告する」と表明しつつ悪化しているドイツとの関係改善は何度も試みるも、1914年8月4日のドイツ軍によるベルギー侵攻によりドイツへ宣戦布告、参戦する。


カナダ(Canada)

イギリスの第一次世界大戦参戦によってイギリスの自治領であるカナダも自動的に第一次世界大戦へ参戦することになり、カナダ軍を派兵する。


ロシア帝国(Российская империя)

1914年6月28日にセルビアで発生したオーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者フランツ・フェルディナント大公暗殺事件について、ロシアは汎スラヴ主義を基に民族的に近いセルビアを味方し、最終的に皇帝ニコライ2世は7月31日に軍総動員令を命令した。これに反応したドイツも軍総動員令を発令し8月1日にロシアへ宣戦布告、戦いの火蓋は切られた。


ベルギー王国(Koninkrijk België / Royaume de Belgique / Königreich Belgien)

1914年8月2日にドイツより要求された軍の国内通過を永世中立国ベルギーはその要求を拒否し、その結果ドイツは8月4日に宣戦布告し侵攻を開始した。ドイツ軍とは兵力、装備、戦闘能力などあらゆる面で劣っていたベルギー軍だが、ドイツ軍の予想を覆す抵抗を繰り広げ、ドイツ軍のシュリーフェン・プランを大きく狂わせることになる。


イタリア王国(Regno d'Italia)

イタリア、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国は1882年に締結した三国同盟により同盟関係であったが、イタリアとオーストリア=ハンガリー帝国はオーストリア領内にある「未回収のイタリア」の問題で対立しており、1902年にはフランスとの秘密協定で三国同盟を無効にしていた。第一次世界大戦勃発直後は中立を宣言していたが、未回収のイタリアの返還を約束する連合軍とのロンドン条約を1915年4月26日に結び、5月23日にオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦布告する。


オーストラリア・ニュージーランド軍団(Australian and New Zealand Army Corps)

通称「アンザック(ANZAC)」はイギリスの植民地から事実上独立して間もないオーストラリアとニュージーランドの二ヶ国からの志願兵で編成された軍団であり、第一次世界大戦に参戦したイギリスを支援するためにイギリス軍の指揮下に入った。ガリポリ上陸作戦以降、中東戦線と西部戦線に従軍する。


アメリカ合衆国(United States of America)

第一次世界大戦勃発直後から孤立主義を理由に中立を保ち両陣営に軍需物資を提供していたが、1915年5月7日のドイツ軍によるルシタニア号撃沈で自国民に犠牲者が出たことに激怒し、そして年月が経つごとに反ドイツへ傾いていった結果、1917年4月6日にドイツへ宣戦布告し参戦する。


フランス植民地帝国 セネガル兵(Empire colonial français)

イギリスとの植民地戦争に敗れ植民地の大半を失ったものの、ブルボン朝の復活によりフランス植民地帝国は復活、年月を重ねる事にその勢力を大きく伸ばしていく。現在のセネガルに当たる場所も当時は植民地帝国の一部であり、現地のセネガル兵は植民地帝国の中で非常に勇猛であった。そのためフランスの第一次世界大戦参戦後セネガル兵は重要な最前線に送られ、その勇猛さを存分に発揮していく。


ネパール王国 グルカ兵(नेपाल अधिराज्य)

インドにおける植民地拡大を狙い侵攻してくるイギリスから祖国を守るべくネパールはイギリスに立ち向かい1814年にグルカ戦争が勃発。1816年、結果としてネパールはイギリスに敗北し領土の多くを失いさらに保護国となる。一方イギリスは山岳民族で構成させるグルカ兵が戦争中に示した非常に高い戦闘能力に目を付け傭兵としてのイギリス軍志願を認める。イギリス軍が関わる数々の戦闘でグルカ兵達は強力な戦力として目覚ましい活躍を見せ、イギリス参戦後の第一次世界大戦においてもイギリス軍の一員として派兵される。


中央同盟軍(Central Powers)


ドイツ帝国(Deutsches Reich)

1894年にフランスとロシアが同盟を結んだことでドイツは敵に挟まれることになり、その二ヶ国との二正面軍事作戦の可能性が高まった。そこで陸軍参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェン上級大将は戦争発生時に備えとなる「シュリーフェン・プラン」を立案。7月31日のロシアの軍総動員令に対しドイツも8月1日に軍総動員令を発令し同日中にロシアへ、そして8月3日にフランスへ宣戦布告。シュリーフェン・プランを実行に移す。


オーストリア=ハンガリー帝国(Österreichisch-Ungarische Monarchie / Osztrák–Magyar Monarchia)

1914年6月28日、フランツ・フェルディナント大公夫妻は訪れていたオーストリア領サラエヴォでセルビア人に暗殺され、逮捕した実行犯グループに対する尋問でセルビア政府が関与していたことが判明しセルビア政府を激しく批難、48時間以内に全条件を無条件で受け入れなければ宣戦布告するという最後通牒を突き付けた。そしてセルビアが一部を受け入れなかったため1914年7月28日に宣戦布告、第一次世界大戦が勃発する。一方、1882年以降同盟国であるイタリアとは「未回収のイタリア」問題で対立しており、この対立が後にイタリアの同盟破棄、第一次世界大戦で連合軍側に立つことへ繋がる。


オスマン帝国(دولتِ عليۀ عثمانيه‎‎‎)

地中海周辺の大半を手中にした強大な帝国も18世紀末以降、ロシアの南下と二度の露土戦争での敗北、帝国勢力内で頻発する影響力低下や混乱、東方問題など様々な負の要素を抱えた結果、「瀕死の病人」と呼ばれるほど弱体化していた。統一派政権発足後、政権はトルコ民族主義へと傾いていき、汎スラヴ主義拡大の脅威に対抗すべくドイツとの同盟を締結。第一次世界大戦勃発直後は中立の立場であったが11月1日にロシアから宣戦布告を受け参戦する。


ドイツ領東アフリカ アスカリ(Deutsch-Ostafrika)

1908年にマジ・マジ反乱を鎮圧して以降ドイツは植民地統治の方法を改め、その結果植民地の原住民から絶対的な忠誠心を得ることに成功する。アスカリとはアラビア語、ペルシア語、ソマリ語、スワヒリ語などで「兵士」を意味し、主にヨーロッパ植民地軍に従軍した原住民兵士及び部隊を指す。


純正マップ未使用勢力(BF1918 3.1時点でデータのみ存在)

セルビア王国(Краљевина Србија)
未執筆


ルーマニア王国(Regatul României)
未執筆


ギリシャ王国(Βασίλειον της Ελλάδος)
未執筆


ブルガリア王国(Царство България)
未執筆

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最終更新:2016年08月20日 19:19
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