「今日の仕事が終わったら、私の家に来い」
昼下がりの執務室の空気が凍り付く。仕事をこなしていた
インディゴは、書類を手に持ったまま固まる。彼が数秒後ようやく声の主へ視線を向けると、そこには彼の妻、
サイアがどこか険しい表情で立っていた。今この部屋には、2人の他には誰もいない。
「いいな?」
「はい」
返事が遅いことに業を煮やしてか、彼女は返答を促す言葉を投げかけ、インディゴは咄嗟に同意の言葉を返す。だが、まだ内容を咀嚼しきれていない。
「準備があるから、先に帰ってる。待ってるからな」
そう言うと、彼女は足早に部屋を去っていく。それからまた数秒後、執務室に残されたインディゴの時間は、ようやく動き始める。
突然呼び出されたが、一体何が待っているのだろうか。何やら不機嫌にも見えたが、心当たりがさっぱりない。呆然としている間にサイアは帰ってしまったので、本人に尋ねることもできなかった。
この日の午後の間、インディゴは政務に手がつかない状態だったのは言うまでもない。
日が沈み、私服に着替えたインディゴがサイアの家を訪ねる。もしかして、と念のために着替えやら何やらも鞄に詰めて持ってきた。
戸を軽くノックする。一拍置いて、サイアが戸から顔を覗かせ、インディゴの姿を確認すると中に入るよう促す。有無を言わせない雰囲気を感じながら、インディゴは部屋に足を踏み入れる。とはいえ、何のために呼ばれたか分からないままだと弁明のしようもないので、理由を尋ねようとするが、まさにそのタイミングで
「荷物を置いて、動かずに前を向いてまっすぐ立ってくれ」
と指示を受けたので、尋ねる機会を逸し、とりあえず言われたままに従う。サイアは、何かの本を見ながら、直立不動のインディゴを後ろから、横から、前からじっくり観察する。居心地の悪くなってきたインディゴはようやく、
「何をしているんだ?」
と疑問の声を上げることこそできたものの、先程までぐるぐるとインディゴの周りをまわっていたサイアは足を止め、渋い顔をしたと思ったら、疑問には答えず言葉を返す。
「姿勢がなってない!」
どういうことか、話を詳しく聞くと、どうやら彼女は健康に関する異世界の文献を手に入れ、その内容を理解した上で改めてインディゴの様子を見ると、健康面がとても心配になったので、自分で診察することにしたらしい。そして案の定、放っておけないひどい状態らしい。
話の全容をここに至ってようやく理解したインディゴは、何か自分がとんでもないやらかしをしていたのではないかという疑念から解放され、ようやく一息つくことができた。
治療に移るために2人は部屋を変える。そこはサイアの寝室なのだが、部屋のところどころにランプが置かれて普段より明るい。そして中央に置かれていた台には数枚の敷物が載せられ、簡易的なベッドになっている。促されるまま、インディゴが台にうつ伏せに寝ると、サイアはひょいとその上にまたがる。当然、こういったことに慣れていないインディゴは、愛する妻の体がすぐ近くにあるという事実に自分の顔が赤く染まるのを感じる。胸の高鳴りを抑えてあくまで平静であろうとするも、サイアはお構いなしに腕や肩、首回りや腰の感触を、服の上からではあるが手で探ってくる。
「思った通りガッチガチ。よくこんな状態で仕事をこなせるものだと感心するね」
この状況に緊張しっぱなしのインディゴは黙って聞くしかない。とはいえ、鋭くも自分への心配を隠そうとしない聞きなれた言葉遣いに、わずかではあるがインディゴも落ち着きを取り戻す。
「まずは、固まった筋肉をほぐす。力を抜いてくれ、って言ってもすぐには難しいと思うから、頭の片隅にでも入れておいてくれ」
そう言って、サイアはインディゴの体を揉み始める。慣れない感覚にやはりインディゴは緊張するが、サイアは都度深呼吸を指示し、落ち着けるような出来事を思い出すことを勧め、力が抜けたタイミングを見計らって体をほぐす。左首回りから肩、腕にかけ、順番に、丁寧にかつしっかりと凝りをほぐしていく。最初は体に触れられることに緊張していたインディゴも、左上半身がほぐれる頃にはむしろ触れられる安心感が勝るようになってきた。右側の首回り、肩、腕を緩める頃には緊張は完全に解け、自分の体の全てを委ねる安心感に恍惚となっていたほどであった。特にひどく固まっていた腰をほぐす時は、快感に思わず声を漏らしてしまい、その声を耳にしたサイアも満足そうに、
「そう、それでいいんだ、それで」と囁くように応えた。
一通りマッサージを終えると、台からサイアが降りる。
「ちょっと休憩。何か欲しい飲み物あるか?」
「じゃあ紅茶を頼む」
インディゴも体を起こす。少し肩を回してみたり腰をひねったりしてみると、だいぶ体が軽くなったように感じる。サイアが階下に飲み物を作りに行ってしまったので、ふと部屋を見渡す。壁際の机には、ペンを挟んだ日記帳であろうものが置かれている。これを盗み見するのはさすがに野暮というものだろう。寝具はシンプルなデザインで広々としたものが一つ。そこにどこで手に入れたのか、白黒のまだら模様の変わった鳥のぬいぐるみがちょこんと置かれている。荒々しい顔つきのようで中々愛嬌のある鳥だ。ふと、足元を見ると、最初にインディゴの姿勢を見ていた時に持っていたであろう本が置いてある。どういうわけか読める文字で書いてあるようだが、デザインと構成から見るにどうやら地球の本らしい。一体どこで手に入れたのであろうか考えを巡らせ、苦手な同僚の顔が浮かんだところで階段を上がってくる足音が聞こえたので、そのことについて考えるのをやめる。
「随分と楽になったよ、ありがとう」
淹れたての紅茶をたしなみながらインディゴが言葉をかけると、悪巧みしているような微笑みを見せながらサイアは言葉を返す。
「何を言っているんだ、治療はここからが正念場だぞ? 姿勢の歪みを正さなければ、元に戻ってしまう。さっきは随分とご満悦のようだったが、ここからは痛いから覚悟しておけ」
「痛い痛い痛い! 」「力を抜くんだ、さっきまでできていただろう。ゆっくり息を吸え」
再び治療台に上がった2人は、さっきまでとは打って変わって賑やかな、あるいは悲痛な声をぶつけ合う。サイアが腰の骨をぐりぐり押し込もうとしても、反射的にインディゴが力を入れて抵抗してしまうので、中々進まない。サイアも辛抱強く力を抜く指示を出すが、その効果も長くは続かない。
「……やはり、私では力不足か」
そう言って、サイアは手を止める。インディゴが体をひねりながら何とか顔を上げると、不安と悔しさに歪む顔が見えた。
「さすがに無理があったんだ。前振りもなく突然治療台の上に乗せられ、よく分からない治療の不安と痛みを堪えられるほどの安心感を、私が与えられるはずもなかったな」
そう言うと、サイアは台から降りる。そして申し訳なさそうに言葉を続ける。
「無理をさせて悪かったな。今日はもう帰っていい。私はもう少し君の気持ちを考えるべきだった」
そう悲しそうに語るサイアを、インディゴが放っておけるわけがなかった。サイアの正面に素早く回りこみ、両肩を掴むと力強く語り出す。
「私の気持ちを考えるべきだったって? 確かにそれはそうだったかもしれない。でも私の悩むべき分まで何もかも一人で背負っていないか? どうも付き合うにあたり色々配慮することに義務感を感じているように思えるが、私だって『共に支え合う』と宣言したじゃないか。
さっきまではされるがままで君の心配や心遣いに思い至っていなかったが、今ならもう大丈夫だ。頼むから続けてくれ」
その言葉を受けても、サイアの顔から不安が消えることはない。だが、瞳に灯るものはあった。
「そう言ってくれるなら、こちらからも頼む。堪えてくれ。正直言ってこれ以上は、私が罪悪感に耐えられるか自信がない」
「堪えて見せるさ、これ以上君を不安にさせたりはしない」
再び台の上に戻り、施術を再開する。痛みに声を漏らすことはあっても、力を入れないようにインディゴは集中する。サイアも手や指に返ってくる感覚を頼りに、慎重かつ大胆にインディゴの体を整えていく。腰、肩、首、脚、それぞれを丁寧に整えていく……。
2人の息が合っていたこともあり、治療は存外早く終わった。とはいえ双方結構消耗したようで、サイアは台から降りると、床に尻もちをついて背中を台に預ける。インディゴも数分ほど台の上で息を整え、ようやく起き上がる。
「お疲れさま。痺れや痛みがないか軽く動かして確認してくれ」
「肩よし、首よし、腰よし、……うん、大丈夫。君こそお疲れ」
インディゴが体の調子を確認するのに合わせて、サイアは立ち上がる。そしてどちらが言い出すわけでもなく、自然に2人で階段を下りていく。置かれた鞄はサイアが拾い、インディゴに渡す。
「突然付き合わせてしまって悪かったね。今度こそ帰っていいぞ」
鞄を受け取ったインディゴは、『帰っていい』という言葉を聞くと同時に、鞄の中身を思い出し、こう言葉を返す。
「帰ってもいいというなら、帰らなくてもいいんだな?」
つい勢いで言ってしまったが、自分の言葉を認識すると同時に恥ずかしさで顔が赤くなるのを感じる。この顔を隠してしまいたいとも思ったが、言ってしまった以上は堂々と顔を向ける。その様子を直視してしまったサイアのほうが思わず顔を逸らす。こちらも同じように顔が赤くなっていく。嬉しさと恥ずかしさを抑えながら、いつもの調子で返そうとする。
「別に構わないが、本気で泊まっていくつもりか?」
「ああ」
言葉に出してしまった以上、2人に退路はない。サイアは嬉しさと恥ずかしさで飛び跳ねそうになるのを必死に抑える。
「すまないが、片付けを手伝ってくれないか? お楽しみは、その後だ」
「もちろん」
2人の夜は、これから始まる……。
最終更新:2019年12月13日 20:40