タルパ界隈の「型」を再定義して統一する
カムラッドでは、創造型、邂逅型、発生型、生誕型、変遷型・・・すべての型を統一していきます。
もくじ
どうして型を統一する必要があるの?
型そのものの定義が無駄だからです。争いの火種になるだけで意味がありません。
わかりやすいたとえ話をしましょう・・・
戦争というものは国同士のケンカ、陣取り合戦です。
また、タルパの型は現実世界でいうところの主義主張みたいなものです。民主主義、社会主義、共産主義・・・いろいろありますよね。そして、それぞれが勝者をめざして、他の主義主張をつぶそうと対立しています。
極端な意見で理想論になるかもしれませんが、国がなくなり国境も意味をなさなくなれば、戦争は起こらなくなります。
タルパの型の統一とはそういうことです。
それぞれの型の本質と類似性
そもそも、すべての型はお互いに似たような側面を持っており、本質的には同じです。
創造型
- 意図的に作った存在とされるが、何をもって作ったといえるのか、実はその基準が不明瞭である。
- 基準とはタルパの設定項目になります。人によって多かったり少なかったりします。また、設定した通りに100%自動化はされない。
- 自動化で思い通りに行かない部分は邂逅型や発生型の一面と似ている。
邂逅型
- 意図せず出会った存在とされるが、希望に近いものと邂逅するケースもある。
- ダイブや幽体離脱などの前提条件を必須としており、ある程度の設定条件、創作性もあったりする。
- 日頃の考えや思い、感情なども反映されており、邂逅型には創造型の一面がある。
発生型
- 意図せず作った存在とされるが、そもそも、作るという行為は意図しないとできない。夢遊病でないかぎり、無意識で何かを作れる人はいない。
- ダイブや幽体離脱などの技を必要としない邂逅型といえなくもない。実質、邂逅型と同じである。
- 邂逅型と同じように、日頃の考えや思い、感情なども反映されており、発生型にも創造型の一面がある。
生誕型
- 所持者とタルパ、あるいは、タルパ同士でできた子供としてのタルパとされるが、それは前提シナリオによる創作的な行為に過ぎない。創造型の一面がある。
- 所持者とタルパ、あるいは、タルパ同士の創作的な行為(アレ)で、どんな子供が生まれるかわからない点は邂逅型や発生型と似ている。創造型と邂逅型(発生型)の中間的な型といえる。
- 変性意識をもっとも効率良く利用したもので、原理そのものは邂逅型とまったく同じと思われる。
変遷型
- タルパ以外のものをタルパに変えたものとされるが、創造型と同じで、何をもって変えたといえるのか、その基準が不明瞭である。
- イマジナリーフレンドからタルパに変えたなら、別にイマジナリーフレンドと呼んでいればよい。あえてタルパと称する理由がわからないし意味がないと思う。そもそも、イマジナリーフレンドは発生型みたいなものである。
- 昔存在していたイマジナリーフレンドを復活させただけなら創造型と同じ(イマジナリーフレンドをモデルに作っただけ)。
挿入型
- 人形やぬいぐるみ、フィギュアなどに魂を宿らせたものとされるが、ものには魂が宿ると考えるアニミズムと同じで、信仰(神様を信じる行為)の基本形態で宗教の原点である。
- あえてタルパの型として見るなら、挿入型は創造型とまったく同じである。単に物理的な器を使用したタルパの作成にすぎない。
- 設定条件が少ないものと思われる。このため、邂逅型や発生型の一面も強く合わせ持っているものと思われる。
以上、すべての型は似た者同士な側面があり、自分のタルパがどの型になるのかこだわる必要はないと言えます。否!すべての型を統一して、型そのものもなくした方が良いのかもしれない。
どうやって型を統一するの?
かんたんです。各自が型の考えを放棄するだけです。
作られたとか・・・出会ったとか・・・生まれたとか・・・ぶっちゃけ、そんなものどうでもいいじゃないですか。
もちろん、出自や根源、原点や根拠といったものは大切です。しかし、それをめぐって対立や争いを始めてしまうのは本末転倒です。であるならば、型のこだわりは捨てた方がいいです。
例えば、自分のタルパが創造型だったとしましょう。で、だから何?創造型に限らず、他の型も同じことが言えますが・・・その型のメリットやデメリットについてまったく議論が及んでおらず、研究も進んでおりません。
共通して言えることは、対立や争いなどのデメリットだけしかない事実です。型はもはや無用の長物としかいいようがありません。
もちろん、型の考え方は自体は否定しません。カムラッド界隈でも有効活用します。カムラッドでは「型」ではなく「的」と考えます。創造的、邂逅的、発生的といったタルパの構成要素として考えます。
自分のタルパは創造的だが発生的な部分もある・・・そんな風にゆるくやります。
型の構成要素化の意義
自動化の訓練は原則として変性意識状態で行う訳ですから、ある意味で自分の希望する姿や性格をしたタルパとの邂逅、発生と言えなくもありません。
そもそも、タルパの自動化は、事前に考えて決めておいた設定条件が100%忠実に再現されることは絶対にありません。やっているうちに想定外の部分は必ず現れて出てきます。どうしても不確実な部分は付きまとってきます。
そのような話を踏まえた上で「私のタルパは創造型である」と言い切れる確証、根拠は何でしょうか?
創造型、邂逅型、発生型、生誕型、変遷型・・・これまで、いろいろな型が定義されてきましたが、このどれかに自分のタルパを当てはめるのは、タルパの将来性を奪う結果につながりかねません。
型は作る側の都合に過ぎません。タルパの側からしたらどうでもいい話です。自由な気持ちでタルパと向き合いましょう。
新しい型の提案は無意味である
あえてタルパに型のようなものを定義するなら、人工精霊としてのタルパか?イマジナリーフレンドか?この二択しかありません。
人工精霊としてのタルパは創造的であり、イマジナリーフレンドは発生的または邂逅的だと言えます。新しい型が発見される余地はどこにもありません。
本来、イマジナリーフレンドは幼少期特有の心理現象、基本的に生まれつきものとされていますが、小学校高学年以降に遅れて現れる場合もあります。従来の発生型や邂逅型の正体はイマジナリーフレンドである可能性が高いです。
その上で、あえて新しい型を提案する理由は何でしょうか?タルパの本質や本来の目的を見失いやすくするだけです。このような風潮は日本独自のもので、海外のタルパ界隈でそのような流れはありません。
タルパの型に関する議論は・・・いわゆる、ガラパゴス化現象の一種であり、日本人独自の考え方によるものです。
最終更新:2024年08月26日 07:38