絶望の帳

平穏な日常から隔離された、一切の妥協すら許されない戦場。
頬を流れ伝い喉元に垂れる数滴分の汗が、重力に倣って焦げた地面へ落ちる音。
一人ひとりの極度の緊張が窺える、喘ぐような呼吸音。
眼前には数十はおろうかという私たちの命を奪わんとする敵、敵、敵。
―――ふざけるな、たったの5人でどうにかなるものか。
そう、私は思った。直感的だが、それは決定的。
恐らく散開している4人の仲間たちも同じ事を考えているに違いない。
汗で滑りそうになる拳銃をきつく握り直す。最後の希望を手放してしまわないように、きつくきつく。
コンクリートの柱に身を潜めていると、30歩は離れている仲間の一人が閃光手榴弾を宙へ抛った。
空を躍る石ころ大の塊が、その体を地面に打ち付けるとバンッと乾いた破裂音と共に光源となり、一瞬の眩い光が敵の目を焼く。
―――手を汚す準備はできた? その身を罪の炎に焦がす準備はできた? ならば蹴散らせ、ならば望めよ。
「ゴー!!」
遠くから合図が聞こえた。
私は駈ける。我先にと、針の穴ほどのか細い蜘蛛の糸を捜して、我武者羅に。

絶望の帳は、まだ上がらない。



一週間前。レリアは食べていた。
大盛りラーメンに大盛り麻婆豆腐に、大盛りシチューに大盛りムニエル、山盛りサラダに大盛りスープ。
そして極めつけに、特盛りのご飯。
「ん~……幸せー」
「よしよーし、じゃんじゃん食べていいからね」
黄ノ国に建てられたイルミナティ本部、会議室と銘打たれているはずの部屋は、もはや食堂と化していた。
20分以内に完食できれば三万円くらいは貰えるのではなかろうか。
だがそれもレリアにとっては容易い事であり、側でにこにこと眺めていたアクセリナは更に料理を追加しようと席を立つ。
「こら…いい加減にしろ、依頼だぞ」
「わっ、ご、ごめんなさい」
と、席を立ったアクセリナの肩を掴んで座らせるフリアン。
フリアンはそのまま円卓の椅子に座り、隣を歩く見慣れない人物を椅子に座るよう促した。
「どうも初めまして……名倉です」
黒いコートを揺らして椅子に座り、名倉と名乗る眉目秀麗という言葉を具現化したような痩身の美青年はにこりと笑ってみせた。
警戒や悪意を全く感じさせない完璧な笑顔で、だ。
「私がここへ依頼しにきたのは他でもない。何やら、友人がですね、不審なバッグを提げた複数の男たちが○○区のマンホールを出入りしているのを目撃したらしいのです。それがまた近所で、警察などを呼んで騒ぎを大きくしたくないんですけど……どうにかなりますか?」
「マンホール、下水道か…○○区の下水調査は月に一度だったな。……わかりました。我々の部隊を調査に向かわせますよ。組織犯罪の臭いがする」
少しだけ彼の笑顔が気になったが、それ以外は特に引っ掛かるような事もなく順調に話が進んで行った。…このムニエルちょっと味が濃い。

それから数日に亘り、青年は私たちと混じって綿密な話し合い――作戦会議を続けていった。
下水道の詳細な地図を広げて、今回の任務に抜擢されたエージェントと名倉があれこれと意見、提案をしていく。
この青年が実に聡明で、特に進んで具体的で有効そうな作戦を提案する。決定された事を理解するだけで精一杯な私とは大違いだ。

作戦決行前夜、現地へ出発する前。
「遂に、ですね。何もなければ良いのですが」
明るく装飾された、閑散としたエントランスで神妙な面持ちに名倉が誰ともなくつぶやいた。
「ハッハッハ、心配いりません。我々はプロ……ではありませんが、並の警察以上には訓練を受けてますから」
エージェントの一人が微笑しながら返し、ちからこぶを作って見せる。
そんなやりとりに私は興味を示さず、車内で食べる予定だったアクセリナ特製のサンドイッチを頬張る。
「それでも心配です、特に君。レリアちゃんだったかな。まだ年端もいかない子供だろうに……怖くはないかい?」
「ん、んっ…!? あ、んー……まぁ、お仕事だし……」
急に名前を呼ばれて喉にパンが詰まりそうになるのを堪え、私は聞き飽きた問いに言い飽きた答えを返す。
「へぇ、そう……気をつけてね」
と、青年は興味深そうに私の身を案ずる言葉を投げ掛け、
「よし、お前たち!車両に乗り込め!出発だ!」
リアセュリティのポジションを与えられているエージェントの合図で、名倉との会話を終わらせた。

車両の中、私の脳内を嫌な予感がぐるぐると駆け巡っていた。
優しく私の身を案ずる言葉を吐いたその顔が、歪曲した笑顔に満ちていたのだ。
―――もしかすると。本当にもしかすると、このお仕事が、最後になるかもしれない。



作戦開始から、ゆうに3時間は経とうとしていた。
静寂に包まれた下水道――爆発で瓦礫となったコンクリートの岩に、背中を預けてずり落ちるように座る。
噎せ返るような血の臭いが鼻をつく。
幾度となく鼓膜を叩き、つんざくような破裂音がまだ耳の奥で木霊しているような気がする。
銃弾を受けた肩と脚が、熱された金属棒を押し当てられているかのように痛む。
だけど、3時間ぶりの安堵の中ではそんな痛みも些細なものに思えた。
―――今回の作戦で、たぶん3人死んだ。1人は気を失ってる…部隊壊滅だ……本部に回収を要請しないと。
耳にかけているイヤーフック型の無線に手を添え、本部へ連絡を取ろうとした時、
ひとりの男が岩の裏から現れ、素早く私の無線を取り上げてしまった。
「やぁレリアちゃん。ご苦労様、よく生きてたね」
―――名倉だ。やはりこの男が裏で手を引いていた。私たちは嵌められたんだ。
「うわ、うっわー。そんな怖い顔しないでよ。似合わないぜ?」
言うが早いか、私は脇のホスルターに収納してある拳銃を引き抜いていた。
しかしそれは名倉も予測していたようで、私が拳銃を引き抜いて照準を合わせる動作の途中で蹴りが飛び込んできて、強い衝撃を受け拳銃が遠くへ滑っていった。
「子供がそんな危ない物持っちゃダメだって、玩具じゃないんだよ?それ」
「どうして……こんなことッ……!」
なんとか声を絞り出す。悔しさと苛立ちで唇を強く噛み、口の中に鉄くさい血の味が広がっていく。
薄ら笑いを貼り付けて剥がさない名倉は、まるで青空が明るく話しかけてくるような透き通った声で言った。
「君が弱った姿を、写真に撮りたかっただけだよ!」
―――この、外道……ッ。
「ほらほら、いいから写真撮ろうよ!写真!ピースだよ、いいね?」
にこにこと楽しそうにスマートフォンを取り出し、凭れて座る私の横に身をかがめ、カメラのレンズをこちらに翳した。
当然私はピースをする気など毛頭なく、目を伏せて項垂れていた。黒幕が隣に居るのに何もできないのが悔しくてたまらない。
「つれないねぇ、ピースしてくれないんだ。いいよ、俺だけでもピースするから……いくよー?ハイ、チーズ」
名倉は満面の笑顔でシャッターボタンを押す。スマートフォンがカシャリと無機質な音を立てた後、名倉は腰を上げて続けて言葉を発そうと口を開く。
そしてその言葉は突然で、私が予想だにしないものだった。

「ねぇ、この血まみれな君の写真さあ……槭くんに見せたら、どんな顔すると思う?」

「――――えっ?」

絶望の帳は、まだ上がらない。

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最終更新:2024年04月11日 01:02