「あら、また来てくださったのね」
空は青と白、地平の果てまで続く緑、私と君の傍らに赤と黄色
この世界には、それだけあればいい
混沌の守人
ー夏の章ー
「おかしな人影?」
それは
寄宿舎に気紛れでふらりと立ち寄った日の事だった
いつもと同じ、まだ生きているかのような木の香りが鼻をくすぐる思い入れ深いそれは健在で
いつもの、
カオスマスターが知る
寄宿舎に他ならなかった
そう、入り口の前で見知った顔の誰もが眉を潜め円を描き、口鎚に何かを囁いて物々しい雰囲気を醸し出している事を除いて
なんでも、
寄宿舎ではあまり見ない顔を見たのだそうだ
「別段、入居者はよく入れ替わりますしそう怯える事ではないのでは」
そう、この混沌世界は他世界から『飛ばされた』住人が集い、通用する経歴も活かせる経験もキャリアもない人々が多く、
身分証明のない住民の多くを無償で受け入れて来たのがこの
寄宿舎であるとすらなら別段おかしい事ではない筈だ
「それがまあ妙なお話なのですよ、ねぇ最強ちゃん」
「そうそう、あたい知ってるよ!ああいうのを屋敷妖怪と言うのさ!」
2人組みの妖精、この組み合わせからして既に妙ではあるのだが、
屋敷妖怪…何を根拠にそう思うのか解いてみると青い方の小柄な妖精のお嬢さんはこう言った
「『見える様で見えない』なんかすけすけなのよさ!」
「……ほほう、それはなんとも恐ろしい」
「全然本気にしてないように見えるのですが」
と、口を挟んだのは保険医…もとい
寄宿舎でも出張営業をしてくださっているめーりん先生であった
彼女の言う通り、仮面の下で
カオスマスターはいつもの如く穏やかに笑んだままであった
「こういった事は別段珍しい事ではないでしょう。もっとも、それでも怖いものは怖いというお気持ちも理解できますけどね」
「ええ…私はまあ、これといって問題視するところではないと思うのですがこの通り姫様がですねぇ」
「ユウレイコワユウレイコワイユウレイコワイ」
……第一人者は働かないかぐや姫だったそうな
別段、それが何か住民に悪さをすると決まった訳ではない、いや、寧ろその可能性すら皆無だろうとカオスマターは考える
しかしこうして
寄宿舎の安普請な床を軋ませ、透明人間探しに赴いているので興味が無いと言えば嘘ではある
害があると確定した訳ではあるまいし恐れる事はないだろうと住民を落ち着かせようとは試みたが一度根付いた不安を完全にぬぐい去るのはなかなか至難の業で、いっそのこと、不安の根源を失くしてしまう方が早いだろうというのが結論だった
仮に透明人間が居て、『ただそれだけの事』で皆から恐れられるというならそれはどれで不憫なのは寧ろその透明人間の方だろう
最も、完全に姿が消せる訳でも無さそうだ。もしそうならこうやって騒ぎが広がる事もないだろうから、
恐らくはこういった騒動に発展し驚いて何処か、誰も行きそうにない場所に身を潜めているのかもしれない
さて、そうなるとやはり屋内の何処か……–––––––––
思考を張り巡らせているからなのか、『それ』が目の前を通り過ぎる事に気付くのが彼にしては珍しく遅かった
鈴の音が耳を擽り、顔を上げれば先程まで薄暗かった廊下に日が差し込んでいる。閉じていた筈の雨戸が空き、外の爽やかな風が吹き抜けて髪を逆なでしていた
その視界一杯に広がる深緑、その中に私は、茂みにぽっかりと人の形を成した隙間が開き、僅かな光彩を放って消えるのを見た
何か、また変わり者が変わった現象を引き起こしているのだろうか
寧ろ、それが普通な事に思えるがそれがまた良い、至って普通の日常、これが返って安心するのだから
別段、それに興味がないと言えば嘘にはなるが、もしかしたらまた奇妙な出会いと奇妙な人脈だできるかもしれない
なんでもない日常の中に新しい風、期待に胸を膨らませ彼はそれを追うように茂みの向こうへ消えた
「……驚きましたね」
この茂みを抜ければ
寄宿舎から隣町へと出る筈だ
街とは、こんな広大な空間が存在するような距離には存在せず、この空間が茂みの向こうに存在するのは位置関係的に不自然である筈だった
空は青と白、地平の果てまで続く緑、私の傍らに赤と黄色
そう、ここは広大な花の庭園。『チューリップの楽園』と称するに相応しい空間であった
本日の天気は雨、そう、本来なら大気の群衆が空を多い影を落とす筈だ
しかしこの庭園はどうだろうか。荘厳な輝きがそれこそ豪雨のように降り注ぎ、
陽光をたっぷりと浴びたチューリップ達は喜びでむせび返るかのように風に揺られ、子守唄の如く安らかなせせらぎを奏でる
ここはいわゆる『平行世界』なのだろう
それにしても見事な庭園だ、こんな広大な空間であるにも関わらず隅々まで手入れが施されているのだろう
主の、庭へかける愛情は並大抵のものではない
……と、この天国を絵に描いたような平和な情景には似つかわしくない物音が耳に突き刺さった
どうやら、銃口、らしき何かをうなじに押し当てられているようだ
こういった威嚇には慣れっこだ、慌てて距離を置いては敵対行為と認識されるばかりだろうと、ただ横目をやり背後の獲物に眼をやる
「動かないで」
「おっと失礼しました」
首を捻る事すら許さないのか、
凛とした透き通る女性の声がピシャリと頬を打ち肩を竦め再び先程目に焼き付いていた光景を焼き回すように進行方向へ視線を戻す
「入念に結界を張り巡らしておいたのに、土足で私の家に上がり込んだあなたはいったい何者」
声が微かに震えている
撃つ、という覚悟は有ってもその手を血で染めた事は一度もないといったところか
彼は真水のように汚されず濁りの無い空気を、花の香りと一緒に吸い込んで吐き、少女が握っているのであろう武器の銃身に手を添える
「…! 動くなと…ッ!」
「大切な事なので、名乗るより先に言っておくべき事があります」
カオスマスター、ヴィナミスは振り向きこう告げる
仮面の下に隠された微笑みを、声に乗せて
「あなたは私の散血なんかで、この子達と、この庭園のようなあなたの心を汚してはいけない」
ようやく、『透明人間』の姿を身納める事ができた
このチューリップ達のような、燃えるように赤く夕日のように切なさを秘めた右目、
そして太陽のように、この世界一杯に広がる花に分け隔てなく注げる程の愛情を秘めた、まさしく太陽の金色を携えた左目
淡い色彩、風に舞い、雲に解ける草木を思わせる緑のメッシュがかかった銀髪
白いワンピースと、茶色の麻のコートを靡かせ、その少女は呆気に取られ佇んでいた
「初めまして、私はヴィナミス・ティルク・カオス。よろしければ、あなたのお名前を聞かせてくださいませんか?」
先程まで自分に銃を向けられていた男が片膝を付き、胸に手を当て親しげに名乗りを交わそうとする
この時、その少女は何を思ったのだろうか
ましてや『彼女の世界に上がり込んだ侵入者』だ。まず、その時点で無事に返しそうには無いが、彼女は違った
「……知ってたわ」
眼を伏せ銃を捨て、ただ肩を竦めて吐息をなびく風に乗せて解かすだけだった
「幾らあなたでもこうされれば少なくとも嫌悪して足早に去ってくれると期待してたんだけど」
「おや、私はやはり邪魔者ですか。仕方有りませんね、では出直すとしましょ…」
「いいよ、今更出て行ったところで、『最初の感動は返ってこない』わ」
そういって頬を膨らませいかにも不機嫌といった様子で少女が取り出したるはジャム瓶の中に大人しく収まったチューリップ
これまた見事な色彩の深紅色だが、それ以外目立った特徴は無い
「さっき開花したの。きっとこの子、何より強いお花に育つだろうなって…そう思って名前を考えてたのに…」
「ああ、だから図書館から参考にと資料を」
「ちょ…なんで知ってるのよ」
「その片手にある書籍はなんです?」
「う〜…」
凛々しい目つきをしているがやはり女の子、こういった時の反応は愛らしい
「して、私の事を存じていた、との事ですがあなたはいったい……」
いざ問いかけてみると
少女は暫くだんまりを決め込み、書籍を背に隠して後ろ足で後退し微妙な距離の間を無音が通り過ぎて行く
よく見ると私や、彼女が立つ場所にあるチューリップは道を開けるように反り返っていた
首を傾げ仮面越しにじっと様子を見つめるが、何が気に入らないのか眉を潜めてこちらの瞳を覗き込もうとしているばかりだ
「そっちが本当の意味で素性を明かしたらお答えするします」
フイッとそっぽを向き横目で睨むような威圧的、なつもりなのであろう視線が仮面の裏へ刺さった
ああ、成る程そういうことか
「ははは、いや恐縮なのですがこの仮面は……」
「いいから」
「……強情なお嬢さんですね」
「何か言った!?」
「ひぃーこわいこわい、恐れ入りました……–––––」
流石に観念したのか、焼きが回ったのか仮面に手を添え、相手が失神してしまうらしい素顔を晒す
露になった前髪が、初夏の風に揺られ靡き、頬をなでられる
「これで……−−−−よろしいでしょうか」
苦笑いを浮かべ、たぶんまた失神してしまうのだろうな、その時は後の祭だと思考を巡らせているとその少女は
「ふぅん……––––––悪い人ではなさそうね」
と、外見ではなくあくまでも雰囲気らしき何かの感想を述べ上げ腕を組み涼しい顔をして佇んでいた
仮面越しではなく、本当の意味で初めて青を合わせる少女。仮面を外した今見る彼女は、また何処か違って見える
「……ま、いいでしょう。私は『守人』の一人、みんなからは19代目と…」
「あ、肩書きは知ってますので」
「は?」
「いや、私はお名前を聞いただけですよ。あなた個人のお名前をね。守人なら知り合いにも居ますので存じてますよ?」
そう、
寄宿舎の周辺、平行世界、姿が見えない
この現象には聞き覚えがある。この
寄宿舎が建設された土地には『守人』という『人間』の一族が人知れず暮らしているそうだ
何故そのような事を始めたのかは不明だが、災厄など、人の力で防ぐ事が困難な現象から結界でその土地を護っていたのだそうな
土地が賑わい出すと、祭やら何やらは豊かになると信じられ、
寄宿舎に集まる人々を陰ながら見守っているのだという
「それがあなた達、なのですよね」
「え、ええ……私はそんな大層な事…する義理ないけどそういう血筋だから…その……」
「良いのですよ。恥じる事はありません、私はあくまでも守人のあなたではなく、ただ一人の女性と接しているつもりなんですよ?」
そう、確かに軽んじられる職務でこそ無いが、人、一人の生き方は血筋などに縛られ無くても良いと思う
彼女が守人としての人生を拒んだとしても、私は彼女が一人の人間として認められるべきだと思う
「さて、もう一度お互い名乗りを交わしておきましょうか。私はヴィナミス・ティルク・カオス。よろしければ、あなたのお名前を聞かせてくださいませんか?」
「……––––––」
––––––––千夏。 四華 千夏、私の名前
これが、後に愛おしい彼の喪失を嘆く、
血の涙を落とす事となる少女の出会いとなる事を、まだ……誰も知る余地はなかった
–––––––––––
最終更新:2024年04月11日 02:48