———衣は鮮血に燃ゆ——
時は平成末期。
混沌世界 大和。
鴉が降りる、地に足という枝を挿し、骨肉という養分を啄ばみに降りてくる。
服をあられもなく肌蹴させた女が一人。
それを庇わんとばかりに覆い被さった、背をぱっりと割った男が一人。
いずれも既に抜け殻、いずれも既に仏、世に非ず。
されど噫無情かな、死してもなおこのようにして辱められている。
野晒しにされ、死肉を喰らいに来た畜生共にまで、奪われる富はないといふのに、
残した遺骸さえもがこのようにして辱められている。
その有様に、小汚いボロ切れで申し訳程度に身を包んだ童が独りベソをかいた。
童の名を喜久一という。
喜久一のこの亡骸は父母である。いいや、父母であった。
喜久一は百姓の子である。
喜久一には政治がわからぬ、学がなく財産もない。
喜久一には世の不条理がわからぬ。
喜久一は理不尽がわからぬ。
故に、喜久一には火に焼べる薪がない。
忿怒という業火に焼べる薪がない。
「これ、童や。如何なされたのです」
最早膝を抱いて眠る以外に己を慰める術のない無力な童に、
ここではない遥か遠くに在るであろう真水のよう、そう思わせる程の透き通った女の声が語りかける。
孤独で脆弱な童を喰らいに来た鬼か?邪神の類か? 恐る恐る顔を上げると、
そこには骨にそのまま皮を貼り付けたのでは言わんばかりに色白で、
しかしながら凛と、霧のように霞みがかった気配を漂わせる少女が微笑みを讃えていたのであった。
何者か、喜久一が問おうと口を開けるとそれを見越したように、女は口元に指を立てた
「私は何者かなどと些末なコトです。答えが欲しくば、歩く地蔵とでも思えばよろしい」
そう、笑んだまま言葉に襖を閉めると、再びそれを開き『何があったのか』と同じことを女は尋ねた。
話したところでどうということもあるまい、何もあるまい、喜ばしくも悲しくも何もないのだ。
そのように納得すると喜久一は言われた通り、女を地蔵と捉え目も合わせず淡々とこの有様までの過程を語った。
「おっとぉおっかぁが『地上げ屋』に殺されちまっただ
この田んぼ出たら俺らには何もねえからって、せめて出てくにせよ金がねえと困るって言っただよ
そしたらあいつら、体なり腎臓なりわしらに売りゃええじゃろうがって、
おっかぁの服ひっぺがして、おっとおが止めに入ったらおっかぁと一緒に斬り殺されただ」
つらつらと、事が酷な割にはよく動く口だ。
余程応えたのか、まだ過去の事実と捉えていないのであろうと女は納得したのか、うんうんと頷き。
「ちなみに地上げ屋、衣に何の花背負ってたましたか」
「椿の花だ。俺、あれから油取ってるからよく覚えてるだよ」
「そう、ありがとうね童や。 そうだ、これをお食べなさいな」
事の酷悪さに微塵も応えていないのか、女も女でその笑みが地蔵の讃える物であるかのように崩れず、
簡潔に礼を述べると懐から団子を取り出した。
「あんがとぅ。けんど俺、もう畑も無くなった出しおっ死ぬだ。屍にやる飯はねえっておっとぉじいじが死んだ時言ってただ。泣いてただが」
「なら尚更お食べなさい。人生末永き童が、ひもじくするものじゃありませんよ。それと」
「おっとぉ、おっかぁとは……きちんとお別れを済ませてあげなさい
二人のためでもあるけれども、あなたの為に」
女はわずかばかりか笑みを西風に靡く白髪で翳らせ、地に屈みながらそう囁いた
あんなにも綺麗で、しなやかで、潤った肌の手でありながら、
野良犬のようにして墓穴を掘り始めたのだ。
喜久一は同じようにして死ぬ、だから父母だけ墓穴に埋まるのは孤独で嫌だった。
自分は埋めてくれる誰かがいないから、自分だけ野晒しになって死ぬのだ。
それがどうしようもなく嫌だった。
だが、この女は生きろというのだ。
生きるなればこそ、ここに愛した者は在ったのだと示す為に墓標を立てろといふのであった。
喜久一はベソをかいた。
女に、水はあまりないから里に送り届けてからわんわん泣きわめくといいと止められたが、そうもいかなかった。
それを尻目に、女は遥か遠くを薄ぼんやりと見据え・
「—————椿の代紋ですかぁ」
と、どことなく嬉々として愉うので在った
◆
金一郎は武家崩れの若者で、遊郭へ向かう金がないのが嫌だからとヤクザな商売に手を染めた、
一層欲深き若者である。今となってはその名に意味はない。
同じく、乾吉や、長右衛門、晋三、太郎など似たり寄ったりな老若男女が、
それなりに金があったのでそれを元手に『椿の花の代紋』を将軍直々に授かり、
全くと言って良いほど無い年貢の代わりに、違法にみかじめ料なるものを巻き上げていたのであった。
越後屋のお菓子ともいふ。
だが、如何なる経歴があろうと名があろうと、もはやそれはせんなき事であった。
金一郎はジムショなる場所から用を足しに、酒でだらしなく赤らんだ顔を提げて路地裏へ出る。
丁度曲がり角を出るとまず足の感覚が急に ふ っ と消えて失せてしまい、うつ伏せに倒れた。
何につまづいたのかとそこを見ると、草鞋を履いた足がそこに並んでいるのだ。
ああ、草鞋を履いた足につまづいたのか。そう納得し一息つくのつかの間。
では己の足は何処へ消えたのか? 答えは自ずと見えてくる、赤らんだ顔がぞぉっと青冷めた・
「強引に引き止めて御免なさいね。少しばかり道をお尋ねしたいのですが
耳と口があればお話しはできますよね」
意訳すると足は無用だろうとのことだ。 そこには幽霊のような白髪に色白に白装束の女が、
一振りのこれまた白染な日本刀を片手に携え、こちらへ微笑みかけていたのだ。
その刀で、凶刃でバッサリと足が泣き別れしたのだと理解した。
あまりに綺麗な切り口だったのか、痛みも感覚もなく、ただどくどくと絶え間なく赤が流れ体が冷たくなって行く。
助けを請うた なぜこんなことをするのか問うた 慈悲を求めた
だが女は、微笑みを絶やさず『私が聞いた事柄か、断末魔しか許しませんよ』と吐き捨てる。
その後は何とも酷い有様だ。
まずは攻めて苦しむこともあるまいと首を落とされ死に絶える。
だがこれでは、絵的にあまり味気がない。女はそう思ったのか、
わざわざ『生きたまま爪先から輪切りにした』と思わせられるように、
死に別れた首に猿轡をくわえさせ、丁寧にまな板の上で山菜を刻む要領で金一郎の亡骸を輪切りにした。
身分を薬売りと偽るべく、空の薬箱を背負っていたのでこれはいいと輪切りにした遺体を乱雑に詰める。
後はそれをそれに『みかじめ』と札を貼りジムショの前に置いて物陰で様子を伺った。
数刻後のことだ。
門前で集金したブツを忘れて言ったのかと晋三が薬箱をジムショへ持って帰る。
悲鳴の時限爆弾といったところか、それからさらに僅かばかり時が過ぎ聞く者が真っ当であれば背筋が凍え上がる悲鳴が、
事務所から延々と児玉した。
それを合図に、女は悠々自適にジムショへ草鞋の底打ち鳴らし門を潜った。
金一の惨殺死体は既知の事実だ。ここまで酷い、あまりにも酷いことをする悪鬼羅刹が、
それはもう夜道を口笛を吹きながら歩く悪癖持ちのあどけない少女であると言わんばかりの、
何食わぬ笑みで門をくぐって現れたのだから、
だから
女にとって、それはもう清々しいほどに出会う全ては腹の底から恐怖を放り出して顔を歪めていた。
悪党が、脆弱ながら力を持ち、最強の霊長類を自負していたかのように鼻息を荒くしていた悪党共が、
たかだか一人の少女如きにみじんこのように惨めな様を晒しているのだ。
その変貌が、女にとってはたまらなく甘味な快感であった。
一瞬の断末魔、刹那的な死であったが、それらすべてが恐怖一色に染まっているのだ。
ああ外道、何と酷悪な!何と非道な!もはや人の所業ではない、人の持ってしかるべき愉悦ではない!
ひとでなし!化け物!畜生!屍山血河を子君よくかける悪鬼羅刹が!
そんな罵詈雑言が、知として知り得る限りの『人』である己の口から『修羅』である己へ浴びせられる!
どうしようもない、どうしようもなくひとでなしだ、どうしようもなく『私』なのだ!
人の視覚に捉えられる内はまだまだ遅い、だがそれでも歩みは軽快になる、
弱者の生き血を啜った屑共を解体しながら切り進むのは実に愉快だ。しかしてそれは正義の所業ではない。
殺しが、ましてや虐殺が正当化される世の中などない、時代も金輪際ない、あってはならない!
だからどうしようもなく私は『敵』なのだ、『外道を外道が殺す』ただそれだけの悪の横行に過ぎない!
何とでも言うがいい、何とでも評するがいい、裁きを下してみせるがいい!甘んじて受け入れよう!
乾吉、長右衛門、晋三、太郎。死ぬ、死ぬ、死ぬ! 皆等しく首を落とされ朽ちて逝く!
殺されるなど思わなかったろう
思わなかっただろう!
ああどうだ、殺しておきながら!殺されるなどと夢にも思わなかっただろう!
だがどうだ!死ね!死ぬのだ!お前達はすべからず!
呆気なく惨たらしく死に果てるのだ!!
「何故殺す!俺らがおまんに何をしたがか!」
最後の一。初手、一撃は防いで凌いだそれなりに骨のある相手。
ジムショの窓を割って外へ転がり出、雨ざらしにされたこんくりぃとの路上で、刀を手にその男は女へ問いただした
「喜久一……そう、喜久一の家です。覚えておいでですか」
「喜久一……? あん土地のもんか? いや違う、おまんはよそもんじゃろう!
何の関係があるがか! わしらはあっこでヤク耕そうしただけじゃ、
よそもんのおまんにここまでされる言われはなかろうが!」
「ええ、実際恨めしく恋しくも何ともありません。ただね」
二撃目は多少腕に力を込める
最後の一人。組長、椿乃の刀を巻き取って弾き、頚動脈を切っ先で……軽く引っ掻く
ひゅうと、喉から息が開いた第二の口から漏れる音が響いた。
首元を抑え、首を垂れて椿乃は懇願した。
「頼む……頼む……。死にとうない
あの土地が欲しければやるきに、金ならうちのジムショから好きなだけ持ってったらええ
だから、だから命だけは……」
「ない、何を許しても『命だけは許さない』
「喜久一はそういうでしょう。たとえ喜久一の父母が望まずとも、喜久一はそう望むでしょう
だから私は、いっときその想いを借りただけです。恨みなさい、呪いなさい、私を。
ああそうだ、私を見ろ。 捨て犬のような無様な目か、怨嗟で煮え繰り返った醜い膿で汚れた目か
何でもいい。呪え、私を呪え」
最後に床に転がった面は、彼女を呪っただろうか
或いは心底恐れを抱いたまま逝ったのだろうか
それを伺い知る術はなく既に虚無であった。
死を理解し、納得した時。事切れるより先に、魂は消え失せていたのかもしれない
◆
事を終えて喜久一と会うた。そして大層驚かれた。
そして驚愕の後、酷く恐怖された。
羽織は鮮血に燃えている。
残り火は消えず、ただ焼け跡を残し黒く染まっていたのだから。
「畑を荒らす輩はもういませんよ。みーんなころ……。
ああ失敬、しょっ引かれましたから」
であればその血糊は何なのか、問う言葉もなく喜久一は草鞋も履かず上ずった金切り声を上げて、
天敵に出会った獣のように駆けて消えようとした。
「おかしいですねぇ。何か間違えましたかね?」
小首を傾げ疑問をそのままに言の葉を紡ぐ。
女は颯爽と喜久一の後を追って駆け出し、翡翠が魚をつまむかのようにひょいと喜久一の服の袖を拾い上げる。
そのまま気を失ってしまったので、仕方なく知り合いの和尚に預けた。
将軍による無年貢、法外みかじめ政策は影で確立されている。
法ではなく、影によってこの大和の世は成り立っている。
陽は何者にも汚すことは叶わず、そして陽はただ照らす存在でなければならない、与える存在でなければならない。
そんなお題目を良いことに、光が栄えれば影は一層濃く蠢く。
みぶろ、『
オリヴィエ』の衣は鮮血に燃ゆ。
ただ己の悦を満たすため、そしてどうしようもない己の獣性が、
或いは弱者の糧になればいいと、己を絶対悪と定めたままに。
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最終更新:2020年03月23日 23:24