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 ないない尽くしとは、まさにこの事か、と、警官達は実感する。
人手もない、キャパシティもない、そして何より、希望がない。まるで、大海の水をコップ一つで全て掻き出す作業に従事させられているような。
そんな、終わりの知れぬ作業を、彼らは行わざるを得なかった。

 事此処まで及んでしまっては、彼らの様な現場で一番下っ端の警官達。いや、聖杯戦争の参加者からNPCと呼ばれている彼らですら、認識する他ない。
此処<新宿>が、最早異常な街に成り果ててしまっている事を。余りにも立て続けに、異常な事件が頻発する。
黒礼服の殺人鬼の引き起こした大量虐殺や、度々発見される原形を留めぬ程破壊された人間の死体、<新宿>のみに起こる異常な降雨、
歌舞伎町で見られた謎の大鬼、所々で見られる黄金の光とそれの発生地で起る大破壊。そして、新国立競技場で起こった、未だ原因の知れぬ大量殺人etcetc……。
結論から言えば、連続して起こるこれらの大事件、それらの事後処理及び事情聴衆で、<新宿>警察署のキャパシティがオーバー。
事態解決の為に、<新宿>警察署が擁する、現場レベルから指揮官レベルに至る全ての人員を動員してはみるも、圧倒的なまでに人手が足りない。
故に、支援要請を他区の警察署にも出し、支援を得てはみても、それでもなお人が足りていないのだ。それ程までに、大事件が起こり過ぎている。
そもそも、上に上げた事件の中で、時系列がかなり早い方に位置する、歌舞伎町に現れたという鬼の大暴れ、それによって生まれたスクラップの自動車の、
撤去作業ですらまだ終わっていないと言う始末だ。勿論、この後の時系列で起こった事件の進捗など、語るまでもない、と言う奴であった。

 数百人規模の警察官及び、優れた技術職の警官を本来ならば必要とする事件が起っていると言うのに、
事態を解決に導く為に必要な最低限の基準人数を満たす人頭ですらが、全く集まらない。
単純な話で、余りにも重大な事件が連続して一つの区内で発生する為、その人員を起こった事件の現場及びそれぞれの当該事件の調査に割いて振り分けねばならないのだ。
つまりは、分散だ。ただでさえ貴重な人員を、<新宿>で起こった多くの事件に適材適所、と言った風に配置していれば、足りる物も足りなくなる。
とは言え、これは間違った判断ではない。区内で今も、市民を怯えさせている事件の多くは、時間が解決してくれる類のものでは勿論なく、
寧ろその逆、早急の解決が要求されるものなのである。一つとして、他の事件が解決するまで保留、と言う選択肢が選べぬ大事件なのだ。
並行して、タスクを進めねばならない。しかしそれをやればやる程、解決までに掛かる時間が指数関数的に増えて行く。
現場の人間は終わらぬ作業に疲弊し、ブレーン役を務める人間は婦って湧いてくるような新しい難題に知恵熱を引き起こしそうになる、など。
およそ今回の<新宿>で起った事件、それに携わる警察関係者の中で、誰一人として楽を出来ている者など、いないのであった。

 場所は、施設の質や大学自体が社会に広げている根、そして生徒の質。
どれをとっても、日本の私学の中でも最高峰の一つに数えられる、早稲田大学の戸山キャンパス。その近辺の交差点であった。
あの恐るべき殺人鬼が現れた訳ではないし、超常の力を操る魔人の類が姿を現した訳でも、全てを破壊するあの黄金色の爆光が降り注いだ訳でもなし。
では何故この場所に人だかりが出来ているばかりか、喧騒と混乱が今も渦を巻き、警察官達が、濡らして絞らないままの雑巾の如く、
制服を汗で滲ませながら忙しなく動き回っているのか。それは、一時間と数十分程前に起こった、不可解な出来事の故であった。
何の前触れもなく、幾つもの車両が突如として衝突・追突事故を引き起こし、更に、全く面識も関わりもない無関係の人間同士が突如として殴り合いの喧嘩を始めたり、
と言った、まるで突発的に発生する躁病めいて、奇怪な乱闘や車両事故が発生したのである。
喧嘩が乱闘に発展し、事故が事故を呼び、ヒステリーがヒステリーを招く。その様子は、人間の有する心理と理性のタガが外れ、封じられている獣性の解放・発露のようであった。

 現在、この戸山キャンパス前で起こった集団ヒステリーは、猛暑の中で必死の思いで警官達が行っていた必死の尽力もあって、一応収束に向かいつつあった。
単純な話、騒動を起こしていた人間及び、現在進行形で喧嘩や乱闘をしていた者を現行犯逮捕及び隔離すると言う、病巣の切除めいたやり方をしていたからだ。
先ずは、事態をややこしくし、そして深刻な物にしようとする者のパージ。これが重要と言う訳だ。
一先ずは、血気盛んな人間達は粗方片付け終えたが、問題は、その者達が作り上げた産物の後始末である。
そう、殴られたりして気絶したり虫の息であったりしている人々や、事故車両の片付けは、遅々として進んでいない状態なのだ。
事故車両は牽引車が必要である為即自的な撤去は不可能であるし、軽重問わぬ傷を負った人間は、負った手傷の度合いや手傷の箇所・種別によって、
処置を一々変えねばならない。そして何よりも、負傷者を受け入れる為の病院が区の内外を問わず、パンク寸前ばかりか、病院への輸送手段ですら、
立て続けに起こる事件の影響で限界に達していると言う有様だ。そして何よりも、死体だ。不幸で哀れな話だが、警察が此処に介入した頃には、
決して少なくない死者が既に転がっていた状態だったのだ。打ち所が悪くて、と言う者もいれば、銃殺されている死体まであった。
これもまだ回収出来ておらず、この炎天下に放置状態。鼻をつく、吐き気を催すような死臭は既に当たりに充満。若手の警部や警官が、吐き気を堪えきれず吐瀉していたのが、随分昔の事のようにすら警察達には思えていた。

 まさに、ないない尽くしである。
人もいない、キャパシティもない、そして何より、事態を解決へと導く為のヴィジョンも未来も展望もない。
賽の河原にいるかのような錯覚すら、この場にいる警官達は憶えていた。この上、茹だるような暑さが、彼らの思考も身体の動きも、緩慢なものにしていた。
警察官と言う職務上、事件の解決は優先されるべき事柄なのは、無論この場にいる誰もが理解している所ではあるが、此処まで手段がない状態であると、さしもの彼らもお手上げの状態になる。

 せめて。せめて、怪我人だけは何とか病院にまで送るか、隔離させたかった。
車の撤去までは無理でも、まだ息のある怪我人や負傷者だけは、何とかして助けてやりたかった。
そして今は、それすら困難であると言う状態。自分達の組織力の限界を、こんな所で知らされ、己らの無力に打ちひしがれかけていた、その時であった。

 現場に立ち入らせない為に展開させていた、黄色のバリケードテープの前に、一台の車が停まっていた。
黒塗りの、リムジンであった。マメな拭き上げや、コーティング処理を行っているのだろう。
宇宙空間を思わせるような、吸い込まれそうな程に黒いその車体は、ギラギラと光る太陽の光を全て吸収、どの角度から見ても、太陽の光を反射している様子はなかった。
サイドウィンドウ。勿論こちらも非常にクリアで、汚れも水垢も一切付着していない。大変綺麗なガラスであるので、このリムジンは購入したばかりの新品である、
と言うイメージを見る者に与えるのだ。だが、外からでは全く車内を窺う事が出来ない。フロントガラスからならある程度は窺えようが、
見えるのは運転席と助手席側のみ。後部席の方は、白いレースのカーテンで仕切られてフロントからでは見る事は出来ない。
此処にいる警官の中には、要人警護を担当した事のある者もいる。現与党の首相及び、各大臣の乗った要人警護車を白バイや警察車両で護衛した回数も、
十や二十では利かない程である。そう言った経験から抱く、当然の疑問。あの車には、何処の何様が乗っているのか、と言う事。
まさか今の<新宿>の現状で、リムジンに乗れる程の要人が物見遊山に来る筈がない。だが、万が一、と言う事もある。
現場の責任者である、中年の警部補が直々にリムジンまで駆け寄り、迂回して別ルートから目的地へと移動する様にと注意しようとする。
大方、カーナビの案内ルートと此処が被ってしまったのだろう。警部補の男はそう考えたし、そう思ったのも何の間違いもないだろう。

 ――だが、男は知らなかった。
自分の予想の半分は正しく、もう半分。このリムジンに乗る主が、己の意思で此処まで近づいた、と言う事実を。
リムジンの後部ドアが開き、その何様が、炎天の下に姿を現す。

 皆の動きが、静止した。
怪我人に声掛けや簡易的な治療を施している警官達。事情聴衆を行う警官及びされている被害者。現場検証を行っている鑑識。
バリケードテープ越しに警察達を眺めていた野次馬。そして、リムジンに近付いていた警部補。
いやそれどころか、この場に在る全ての自然現象が、停止した様な錯覚すら、この場にいる全ての人間は憶えていた。
ありとあらゆる音が遠い。蝉の鳴き声、スマートフォンから流れるメロディ、己の心臓の拍動すら、彼らには聞こえていなかった。
全ての意識が、目線の先に佇む、美麗な白闇に注がれていた。自分達と同じ、人に似た形をしていながら、その実、自分達と同じ人間である、と定義する事を絶対的に憚ってしまう程、美しいその何者かに、だ。

「治療を欲するかね」

 この男を再度、神が作ろうと志しても、最早その試みは二度と叶うべくもないだろう。
疫病に当てられ熱に魘されていたか、浴びる程飲んだ酒が齎す酔気の魔力を借りていたか、或いは、狂気に当てられていたか。
どちらにしても、神であろうとこの男を再び創造する事は、最早不可能なのであろう。一時の気分の高揚、軒昂。それらが最高頂度に達した状態で、かつ、
技の冴えも合わせて最高度に達していた状態で作られたような、自身を生み出した美の神よりもなお美しい男。ドクター・メフィストは、人・神・魔、その誰であろうとも、その美声を再現する事は出来ないのであろう。

 その言葉の意味を理解するまで、どれ程の時間が経過したであろうか。
メフィストは、何も大声を上げた訳ではない。尤も、この男が声を張り上げる様な事など、世界が終焉を迎え、
地球が真っ二つにならんばかりに深い裂け目が大地に刻まれようと先ずあり得ないだろうが。ただ男は、平素と変わらぬ大きさで言葉を紡いだに過ぎない。
それなのに彼の声は、この場にいる文字通り『全員』に、距離的な問題を一切無視して均質に響き渡った。
言外不能の美しさの持ち主のあらゆる仕草は、物理の法則すらも超越するようであった。大気と風を司る精霊は、義務感に満ちていたのかも知れない。
この男の美しい声は、世界の遍く所にまで送り届けねばならぬと。故に、声が均質に響いたと説明されても、誰も彼もが文句を言う事はないであろう。
しかし……メフィストの言葉の意味を理解している者は、今の所誰一人としていなかった。あまりにも簡単な話だ。今もメフィストの美しさに、圧倒され過ぎていて身体の全てがフリーズしているのだ。故に、理解も出来ない、言葉すら発せられない。唐突にメフィストの姿を見てしまったせいで、この場にいる百人を優に超す人間達は、一切の例外なく、白痴の状態に陥ってしまったのだった。

「……あ」

 三十秒程は、経過したろうか。最初に意識を取り戻したのは、メフィストから最も近い位置にいた、現場の責任者。中年の警部補であった。
三十秒と言うと、余人にとっては短い時間であろうが、それは正常の時空を生きる者の感覚だ。魔界医師の美に当てられた者にとっての一秒は、
それこそ一時間、いや、一日、一年にも匹敵しようかと言う程の、永遠のそれにまで延長される。意識の戻った警部補は先ず、驚愕した。
体感していた筈の時間と、実際に過ぎ去っていた本来の時間。その差異が、余りにもかけ離れていた事に、だ。昼夜が幾度も幾度も繰り返されたような感覚を味わっていたのに、実際には、一分程も経過していなかったのだ。

「今一度、訊ねても宜しいか」

 メフィストが再度問う。目線と身体の向きを、警部補から外している。真正面から直視すれば、再び先程の状態に陥るだろうからだ。
メフィストが無礼なのではない。寧ろこれは、メフィストのみが行って許される、最大限の配慮なのだ。美そのものたる男が凡人と相対する時、このような迂遠な手順を踏まねばならない。美し過ぎるのは、ある意味で面倒でもあるのだ。

「治療を、欲するかね」

「ち、治療……?」

 メフィストの口にした言葉を、間抜けの様に鸚鵡返しする警部補。

「見た所、怪我人の治療に相当難儀しているもの、とお見受けしたのでね。私の拙い治療で宜しければ、事態解決の手伝いをしてさしあげたい、と思った次第だ」

 メフィストの言葉を朧げに理解した警部補。掠れるような声で、「は、はい……」と口にしたのを、メフィストは聞いた。

「我が治療の門戸を叩く者に生を」

 そう口にするや、スッ、と警部補の横を通り過ぎるメフィスト。 
バッと、警部補が振り向くと、既にメフィストは怪我人の一人の下に足を運んでいた。顔を殴られ続け、顔面の形が変形してしまったばかりか、歯の何本かが折れ、
鼻の骨も頬の骨も滅茶苦茶に砕かれてしまったOLが其処にいた。そんな状態の彼女ですら、メフィストの姿に痛みを忘れて茫乎としているではないか。恐るべき、美の魔力よ。

 メフィストは、滅茶苦茶にされたそのOLの顔を、右手で撫でるように触れて見せた。
――果たして、誰が信じようか。その動作一つだけで、その女性の変形した顔がテレビの逆再生の如く巻き戻って行き、元通りの顔になったなど!!
その場で応急処置にあたっていた警官は勿論、治された当のOL本人ですら、信じられないと言うような、愕然とした態度を隠せていない。
礼など要らぬ、と言わんばかりに、メフィストは彼女らに背を向ける。完治させた患者や怪我人には、メフィストは一切の興味関心を払わないのである。

 次にメフィストが向かったのは、電柱に正面から激突し、バンパー部分を電柱にめり込ませたセルシオの所であった。
一応内部がサイドウィンドウから確認出来るが、エアバッグがしっかりと作動していた為、命に別状はない。だが、正面衝突のせいでドアの形が変形して、
運転手が出られないばかりか、激突の際の衝撃で足を何処かにぶつけたか。アクセルを踏んでいた右足が、曲がっては行けない方向に折れている事に、
メフィストは気付いていた。兎にも角にも、先ずは運転手を外に出さねば話にならない。だが、ドアが歪んでいる為に、普通の手段では開けられない。
それこそ専用の器具を持ちいて、力付くにでも抉じ開ける位しか、この場合方策はない。
それなのにメフィストはドアに手を掛け――歪んでいるとか変形しているとかそんな事は一切お構いなしに、ドアを開けた。
誰が信じられようか、普通ならば動かす事すら不可能な状態に歪んだ扉を、解き慣れた簡単な知恵の輪でも分解する様に、メフィストは普通に開けて見せたのだ。
エアバッグとシートに挟まれた状態の運転手を外に出させてやるメフィスト。その時には既に、運転手の脚は元通りになっていた。
「え、あれ……!?」と、混乱を隠せないでいる。それはそうだ、地に足をつけても痛みを感じず、姿勢も崩れず。平然と直立出来ているのだから、つい数秒前まで脚の骨が折れていた当人からすれば、不思議としか思えないだろう。

 確固たる足取りでメフィストは、怪我人の下へと足を運び続ける。
肋骨が折れた者の胴体を服の上から撫でる。骨が独りでに動きだし、元の所に収まり、完全回復する。
勢いよく殴られたせいで目が飛び出している人間の目を摘まみ、押してやる。目が綺麗に収まったばかりか、低下気味であった視力が両目共に復活する。
頭蓋骨が陥没してグッタリしている子供に近付き、羽織っている白いケープでふわりと頭を撫でる。パチ、と子供は目を開けて立ち上がり、自分の身体の変化に戸惑っている。

 そんな事を繰り返す事、十回程。
特に命に深刻な影響を与えかねない怪我を負っているNPC達を粗方治し終えたメフィストは、用は済んだと言わんばかりに、降りて来たリムジンの方へと戻って行く。

「さしあたって、命に関わる傷を負っていた者は治療した。時間さえあれば、他の怪我人も見たい所ではあるが……私はこれから人に会わねばならない。この辺りで、此処を去らせて貰おう」

「あ、あの――」

「御心配は不要だ。君が私に助けを求めた瞬間に、当院の救急センターにTELを送っている。当院に属する救急救命士は頗る優秀だ。じきにこの場に着くであろう」

 独りでに、リムジンのドアが開く。リムジンの運転手が操作しているらしかった。
車内に入ろうとするメフィストを、警部補が引きとめる。「待って下さい!!」、その言葉を絞り出すのに、男は、四十年以上生きてきた中で、一番の勇気と度胸が必要となった。凶悪犯の立て籠もりの事件を指揮した事もあるし、逆上してナイフを取り出した犯人を取り押さえた事すらある、この男がだ。

「あ、貴方は一体……」

「怪物を見るような目をされるのは、心外だ。医者以上の何者でもないよ」

 そう言ってメフィストは己のケープの裏地から、一枚の長方形の白紙を取り出す。名刺であった。
これを、白磁に万倍する白さと艶やかさを保有する指で挟み、警部補の方に差し渡した。それを恐る恐ると言った様子で彼は受け取る。
メフィストの名前と、彼が管理運営しているメフィスト病院の院長の肩書、そして、病院内の救急相談センターと、救急センターの電話番号が、其処には記載されていた。

「お困りならば此処に電話を掛けたまえ。当院は、病める者、傷付く者の聖域であるが故に」

 其処でメフィストは、リムジンの後部席へと入り込み、それを運転手が確認するや、ドアが閉まって行く。
メフィストから貰った名刺を眺めていた警部補は、エンジンが音もなく掛かり始め、スッと来た道を戻り始めたリムジンに、漸く気付いた。
「待って下さい!!」、と引き留めている事が、メフィストにも解る。核が轟いてもその爆音をシャットアウトしきる、完全防音の性質を付与した金属であるが、
メフィストのみは何故か、外部の声を聞く事が出来るのである。しかし、それを異常だと思う者はかの魔界都市には誰もいない。誰もがそれを、当然だと思うのだ。何故ならば彼は、ドクターメフィストであるが故に。

 それに、止まれと言われて、最早止まれないのだ。
メフィストが先程言ったように、彼はこれから人に会わねばならない。いや、厳密に言えば、人に制裁を加えねばならない、か。
怜悧な表情からは想像も出来ないだろうが、今のメフィストは、嘗てない程の怒りに燃えている。
それを表情や挙措に億尾にも出さぬのは、そう言う次元を越えて、今のメフィストは怒っていると言う事なのである。

 向う先は、百人町の高級ホテル。そして其処にいる、ロザリタ・チスネロスと、彼女を保護する何者かの下。
メフィストの双眸は、超高高度の山峰の頂点に、数万年以上もその形を保ち続ける、一粒の氷の如くに冷たく、無慈悲に煌めいているのであった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 人が思う以上に、キャスター・タイタス一世の仕事は多かった。寧ろ、多忙を極ると言っても良いのかも知れない。
タイタスは基本的に、百人町はムスカが宿泊している高級ホテルの地下、其処を異界化させた空間に鎮座し、諸々の作業を行っている。
暗所に引き籠っている訳ではない。そもそもキャスターは籠城戦を旨とするクラスだ。キャスタークラスに有るまじき近接戦闘能力を誇るタイタスと言えど、
赤コートのセイバーや黒軍服のバーサーカーであるクリストファー・ヴァルゼライド、などと言った恐るべき戦士達を相手取れるかと言えば、それは難しい。
王は運命を左右する程の決断を幾度となく迫られる存在であるが、今彼らと雌雄を決するのは時期が早い。つまり今の時期は、必然的に雌伏の時と言う事になる。

 こんな地下に閉じ籠っていてもなお、やるべき事は山ほどある。
行うべき事の一つ目は、自身の配下である夜種の創造である。極めて低級な子鬼や獣鬼の類であるのなら、簡単な知能を搭載した低級夜種を働かせて作らせる、
と言う事も可能であるが、少し上等な夜種――つまり、魔将及びそれに準ずる格の者を作ろうとするとなると、これはタイタスの領分になる。
とは言え魔将は同じ存在はこの世に二体同時に活動させられない上に、一度葬られた魔将を再度想像するとなると、かなりの時間と魔力が入用になる。
中~上級の夜種となると、同じ個体を現世に同時活動させる事は可能になるが、これもまた魔将程ではないが、時間と魔力が必要となる。
つまり、低ランクの夜種と比較して人並の知能とそれなりの強さを兼ね備えた夜種となると、その数は少ないのである。食物連鎖の下位と上位の関係に似ている。
生前タイタスが練っていた計画の為に運用していた数に比べれば余りにも微々たるもの。だから、中~上級の夜種は、外に放つよりも寧ろ、
このホテルの地下から上部に至るまで放って置き、此処を警備させると言う方法で活用していた。そしてこれらの夜種は、タイタスの片腕である魔将・アイビアと並行して、タイタスは創造を続けていた。

 次にタイタスが行うべき仕事は、道具の創造である。
つまり、武器や防具や礼装の類及び、アルケア帝国の史書や詩集、戯曲に戦記に小説、果ては骨董品などと言った類である。
武器や防具を作る理由は単純で、タイタス自身及び、魔将の面々や武器の扱いに長ける夜種の強化や、他ならぬ運命共同体であるムスカの保護と言う大事な面がある。
次に史書や詩集に骨董品と言う、文化面の側面が極めて強い道具を作る理由は、自身の宝具である『廃都物語』の効果をより高める為である。
廃都物語の魔力収集の効率を高める事は、目下最大の目的である。そもそもムスカが表社会で暗躍を続けていたのは、正しくこの目的達成の為であった。
勿論タイタスも、この任務を遂行する為に腐心している。自身の居場所が特定されないよう、しかしそれでいて、自身の名である『タイタス』の名は広めさせるような工夫を凝らし、現在は<新宿>を中心としてあらゆる所にアルケアの伝説を流布していた。

 そして最後の仕事とは他でもない、聖杯戦争の戦局の注視である。
サーヴァントである以上タイタスが、聖杯戦争の推移を注意深く見守る事は、当然の義務である。況して、他クラスよりも戦局の見極めが重要となるキャスタークラス。
舞台の何処で、何が起こったのかの把握は、特に肝要となる。だからタイタスは<新宿>の至る所に、己の視界とリンクさせた、不可視の使い魔を哨戒させていた。
その数は決して多くない。何せ彼らに施した術式は極めて特殊なそれ、優れた魔術師であるのなら、この術式から逆に、タイタスの位地を逆探知しかねない。
さりとて、<新宿>の状況を監視しない訳には行かない。だから、哨戒や監視を担当する使い魔は、その任の重要さに反して少ない。少数精鋭で臨んでいた。

 場所は、タイタスが異界化させたホテル地下。その地下の更に地下の、そのまた最奥。
つまり、夜種や歴代皇帝、そして魔将達が『地下玄室』と呼ぶ空間の最深部、タイタス一世のみが入室出来る、始祖帝の間であった。
現在彼はそこで、戯曲の編纂に精を出していた。無二の友にして、彼が認める討竜の勇者、万夫不当の大英雄であるク・ルームの活躍がテーマであった。
タイタスはこの戯曲を、アルケア帝国で用いられた言語は勿論、彼が生きた世界の言語でもなく、この世界の言語で執筆しているのだ。
日本語、英語、中国語……主要だった言語は凡そ、タイタスは極めている。語学の極意を極めたタイタスにとって、新たな言語を学ぶ事など赤子の手を捻るが如き。
今ではムスカ以上に、この世界の言語に精通し、当世風の表現を用いて多くの作品を世に流通させているのだ。

 纏めると、タイタスの仕事と言うのは、以下のようになる。
『聖杯戦争の推移を注視しこれについての戦略や作戦・計画・サーヴァント達の対策を立てつつ』、『下級~上級までの夜種を常に生み出し続け』、
『一時間~二時間の間に原稿用紙百~三百枚分もの量に相当する史書や詩集、戯曲等を新たに執筆・推敲、完成させ』、『これらの合間を縫って彼自らが武器や防具・骨董品を自作せねばならない』、と言う事だ。

 凡そ殺人的なスケジュール、と言う言葉ですらなお形容と修飾が足りないであろう。人間にはどだい、並列して行える作業と業量ではなかった。
しかし、これを実際に人の身でやれてしまうと言うのであるから、史書に記される偉大なる王としての逸話が箔付けのそれではなく、真実の物であったのだ、
と言う事が伝わって来よう。そう、王が偉大である為には、その気風やカリスマのみではない。知恵や肉体に至るまで。
凡夫の百倍、いや、千倍の質を誇っていなければならない。その事をタイタスは、この働きぶりで如実に証明しているのである。

 この世界に足を運んでから、二十と六作目の新作を書き上げ終えたタイタスは、手にしていたクイルズ(羽ペン)をテーブルの上に置いた。
御影石や大理石とはまた違う、しかし、見ただけで『値の着けようがない』程の価値であるのが解る石材を削ったテーブルである。
机には金や宝玉、種々様々な宝石が埋め込まれており、それが、タイタスの圧倒的な権威と偉大さで作らせた物である事が伝わってくる。
本来この部屋に置いてあったのは机ではなく棺であったが、今はそれは験が悪い。タイタスは棺の代わりに円卓を用意させ、これを執務机として利用していた。

 席に腰を下ろし、頬杖を付きながら物思いに耽るタイタス。
ムスカがこのホテルに五体無事で帰って来てから、始祖帝の心を掻き乱すのは、虚無の黒海に堕ちた新国立競技場での一件であった。
サーヴァントとしての実力を最高峰のそれに連ねているタイタスは、如何な強者に相対したとて、その心を焦燥させる事はない。
赤い外套を纏い、己の背丈に近しい大剣を苦も無く振う剣士も。青い外套に腕を通し、神の速度と悪魔の技量を乗せて細身の剣を操る剣士も。
黒い軍服に身に着けて、黄金色に光り輝く剣を操る狂戦士も、四枚の黒羽を操る恐るべき魔女も、破魔の弓術を憶えた銀色の髪の美女も、少年の姿をした悪魔の王も、、
天候を操り裁きの稲妻を叩き落とす隻眼の女戦士も、黒い礼服を羽織った恐るべき殺人鬼も、夢を操る不思議の青年も、虹の刃を振う少女も、悪意の鎧を纏う長躯の鬼も。
警戒するべき存在ではあったが、新国立競技場を監視していた使い魔の存在に気付けなかったと言う点では、まだ安心が出来る。

 タイタスが真に注目していたのは、『那珂ちゃん』と自分を呼ばわっていた、可憐な少女であった。
強さに関して言えば、あの場に集っていた面子の中では下の方であろう。美しさにしても、分があるとは言い難い。
そんな女性がどうして、タイタスの興味関心を引けたのか。それは実に簡単な話で、『タイタスの使い魔を無力化させていた』からである。
あの競技場の顛末を見届けていた使い魔は、一体だけではない。あれだけ大規模で、今後の聖杯戦争の行く末をも決めかねない戦闘が起っていたのだ。
タイタスは四体の使い魔をあそこに派遣させ、多角的にサーヴァント同士の戦いを監視させていたのである。
その内の、四体。競技場内部に侵入させ、至近距離で事の様相を監視させる為の二体と、元々フレデリカライブを見届ける為に派遣させた一体。
透明化させていたこれら三体を、那珂を名乗る少女は、自分の歌で透明状態を引っぺがさせ、その姿を白日の下に露にさせ、使い魔達をその場から動けなくさせていたのである。

 それだけなら、まだ良かった。
本当に命の危機を感じたのは、使い魔の見た物をリアルタイムでその視界にリンクさせていたタイタスである。
那珂の歌で身動きの取れなくなっていたサーヴァント達からは、絶妙に見え難い位置で実体化してしまっていた使い魔達。
彼らを通じてタイタスも勿論、那珂の歌唱の様子を見ていた。――結論から言う。『タイタス自身も、那珂の歌う謎の歌唱の影響で、身動きが取れなくなっていた』。
時間にして四分三十一秒。その間タイタスは、金縛りにでもあった様に、座ったままの状態から一歩も身動きが取れなくなってしまっていたのだ。
正に、無力な状態その物。この間にサーヴァントの襲撃にあっていたのなら、たちどころにタイタスはその命を散らしていただろう。
悲痛な声を上げタイタスを救助しようとアイビアがあの手この手を尽くすも、全くタイタスの金縛りは解けない。那珂の歌が関係している事は間違いなかった。
指一本動かす事は勿論、タイタスは言葉すら発する事が出来ず、魔術を組み上げる事も不可能な状態の為、その身を縛る不可視の縄を解く事も出来ない。
つまりタイタスは、那珂が歌い終えるまでの四分三十一秒もの間、ずっと行動不能の状態に陥っていたのである。
この後、タイタスを間接的に動けなくさせていた使い魔達は、どうなったのか? ……『消滅した』。
夜の神・ミルドラの化身を想起させる、恐るべき少年の悪魔が生み出した、黒い泥。使い魔が動き出し、退避しようと動き出したその時、泥は彼らを呑み込み、一切の抵抗すら許させずその三匹は虚無に堕ちていったのである。

 己の虎の子である監視用の使い魔を滅ぼされたのは、痛手も痛手。
だがそれでも、新国立競技場の様相を最後まで見届けられたので、差し引きプラスと言う所だ。
高度数百m上空を飛行させていた、競技場を監視していた最後の使い魔一匹。結局これが、あの場所の顛末を見届けるのに一役買っていた。
この個体だけは那珂の影響を受けなかったと言う事は、あの歌は一定の距離を離すと呪(まじな)いとしての効果が消え失せる可能性が高い。
距離的に数㎞も離れていたタイタスが行動不能に陥っていたのは、視界をリンクさせていた使い魔が、那珂の歌の効果範囲内にいたから、と言う可能性が高い。
距離を離していたとて、『実際歌っている姿を見ている見かけ上の位置が効果範囲内のそれであるのなら、那珂の歌は問答無用で効果を発揮』するらしかった。

 ――那珂とやら……恐るべし――

 よもや魔術を極めたタイタスを、遥か遠くから金縛りにさせるとは、並の事ではない。
あの特徴的な装備や、歌唱或いは祝詞(のりと)を以って不可思議を成すと言う技術。それらから考えるに、那珂なる少女は、さぞや名のある巫女であったに相違ない。
恐らくは生前、彼女は数多の神殿に求められ、あらゆる礼を尽くされていたのだろう。世が世であるのなら、諸侯を超える権勢を誇っていた事は間違いない。
アルケア帝国でも、彼女の程の力ある巫女であったなら、始祖帝は相応の地位と財を約束していただろう。それ程までに、那珂は優れた巫女であった。
あの少女は特別警戒しておく必要があろう。そしてもしかしたら、なら。アーガの都を天に結ぶ為の、キーになるかも知れない。利用価値は、多分にあった。

 聖杯戦争の前途は、タイタスであろうとも決して明るい物ではない。
その事を認識しながら彼は、一息吐き出した。まだまだ、仕事を続けねばならない。そう思い立ち、再び羽ペンを手に取ろうとした――その時であった。

 ――タイタスのいる部屋が、揺れた。
いや、この部屋だけではない。ホテルの地下全体に広がる、異界化した墓所全体が、揺れているではないか。
錯覚では、ない。何事かと思い、タイタスは急いで部屋から飛び出す。揺れの強さから考えるに、震源は此処から近い位置である事を確信したタイタス。
始祖帝の間へと繋がる、渦巻き状の螺旋階段を一度の跳躍で登り切る。高度にして六十~七十m近い高さを、タイタスはジャンプの一回で登頂し終えた。

 恐るべき鬼気が、タイタスの身体に烈風の如くに叩き付けられてゆく。
後階段を十段上がると、震源となった場所に赴く事が出来る。其処は、大河の国から湧き出た水によって形作られた泉へと繋がる、鍾乳窟であった。
尤も、今現在<新宿>に産み出したこの墓所の異界に存在する泉の水は、女神アークフィアの霊力の満ちた正真正銘本物の神水ではない。
あくまでも、普通の水より澄んでいるだけの麗水に過ぎない。そんな物を態々タイタスが墓所に配置したのは、言ってしまえば彼なりの懐古の念であった。
その泉の方向から、タイタスが――いや、正真正銘本物の始祖帝ですら、感じた事などなきや、と思わせる程の妖気が噴出しているのである。
何者か。タイタスはまずそう思った。そして、これだけの妖気を醸す存在でありながら、墓所の最奥に等しいこの空間まで、夜種一匹にも気付かれずやって来れたのか。
急いでタイタスは階段を駆け上がり、ドーム状の広大な鍾乳洞へと躍り出る。全く同じタイミングで、タイタスが出て来た階段とは正反対の位置にある、
タイタス二世を幽閉している石室からク・ルームが飛び出して来た。『来るな!!』、と彼を目で制止させた一世。
驚愕の表情を浮かべながらも、その意を受けてク・ルームが立ち止まった。始祖帝は一人で、泉へと繋がる漏斗状の階段を駆け下りて行った。

 水晶を思わせる透明度の水の上に、果たして、水面に浮かぶには全く矛盾はなくしかし、この場で浮かんでいるには余りに不適当なものが遊弋していた。
船である。タイタスの時代によく見られた櫂船であるが、その船体の色は夜の闇を煮溶かして塗料にしたように黒く、船首は竜か蛇の如くに逆立っている。
マストが二本ついている所から、帆船である事は疑いようもないが、何故だろう。この船は、風の頼りなどなくとも、自律的に動ける、
と言うような根拠のない確信がタイタスにはあった。この船は、魔船だ。悪魔の行軍を地上へと送り込む為に、地獄の底で生み出されたナグルファルだと、
言われてもタイタスには信じる事が出来た。この船が、勢いよくこの場所に漂着した事が原因で、揺れが起こったのだろうと言うのはタイタスも既に知っている。
では、この船は一体何なのか。そして、この船を操る悪魔とは――? その事だけが、今はタイタスにとって気がかりであった。

「……誰じゃ」

 ――いや。この声は、悪魔、か? 
妖美かつ妖艶な、女の声が、船の方から聞こえてきた。この声の主は、姿を見るまでもなく美しい。
そんな確信が、タイタスにはあった。斯様な美声を授かって生まれておいて、その外見が醜女のそれであるなど、人界に生きる人間にとっての裏切りである。
姿を見せぬが故に、その声の持ち主とは? と言う事を想起せずにはいられない。この声の主は間違いなく、女神に例えられるべき美女であり――悪魔に例えられるべき、悪女である。タイタスは優れた直感能力で、船の主と思しき存在の事をこう認識した。

「余の墓所の深部にまで、船を引き連れ、誰に気付かれる事なく入り込めたその手腕。見事な腕だと称賛しよう。姿を見せよ。褒めて遣わす」

 常ならば、己の卓越した魔術の腕で、目の前の船など木端微塵にしていた所である。
だが、今はそうではない。この船の女主人を、己の目でタイタスは見て見たかったのだ。一体、何処の誰が、自分の墓所に入り込んだのか。
その勇敢な女傑の姿を、その目に焼き付けておきたかったのである。人類が宿す、根源的感情の一つ、知的好奇心。タイタス程の男であっても、その根源は消せなかった。

 ――そして女性が甲板に姿を露し、船首まで足を運んだその時。
タイタスは、己の身体が稲妻で貫かれるような衝撃を、憶えてしまった。零れんばかりに見開かれた両目に映る、船首から此方を見下ろす女性の姿。
仄暗い泉の間が、月輪が放つ高貴な光に満ちたと言う錯覚を、この白貌帝は憶えた。月が、この間に堕ちて来たという錯覚を覚える程、部屋の光度が上がった。
そしてその月とは、船首に佇む女性の事であった。まともな者なら、直視出来まい。白子(アルビノ)のタイタスよりもなお白く、白雪が汚泥にしか見えぬ程純白の肌を持った、あの美女は、一体――。

「貴様が、私を褒めるじゃと?」

 後ろ髪を伸ばした、全裸で黒髪の女性。言葉だけで大雑把に外見を語るのであれば、これに尽きる。
だが――余りにも、美し過ぎた。俗世の塵埃から遠くかけ離れた山の頂にのみ降り注ぐ澄んだ月光。これのみを集めて人の形にすれば、この女性に……いや、なるまい。
この女性は人為的にも、そして神の意思によっても生まれる事はない。神や悪魔ですら振る事の許されない賽子、それを幾千幾万個も振い、
その全てが同じ目を出す確率よりも、目の前の女性が生まれる可能性は低いだろう。天文学的可能性、と言う言葉ですらまだ温い。ゼロだ。彼女が生まれる可能性は。
しかし、もしもそのゼロが覆されるとしたら? それをこそ、もしかしたら奇跡と呼ぶのかも知れない。そして、その奇跡の末に生まれたのが、この女性なのだろう。
が、その奇跡は人類にとって間違いなく、正しい意味ではない事は確かだ。タイタスもまた、それを肌身で実感していた。
この女性は、生まれて来てはならなかった。美の到達点、誰もが夢想するも成就する事も生まれる事もない、美のイデアとして人心を惑わすに終わらせておけば良かったのだ。だが、彼女は現れてしまった。人界に混乱を齎す為に。神『無き』世界を、神『亡き』世界へと変えんが為に。

 そう……姫と呼ばれるこの女吸血鬼は、存在自体が罪であり、悪なのだ。
その美の故に、男を惑わし、女ですら破滅させる。そして、内に燻る邪悪な性根の故に、国と世界とを破滅させる。
極点に達した美貌を以って此方を見下ろす女は、疑いようもない、混沌の化身である事を。タイタスはその神域の叡智を以って理解したのであった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「貴様が、私を褒めるじゃと?」

 その声音には、果てぬ嘲りと侮蔑の念が込められている。
この声だけで、マゾヒズムの気がある男は意識を失うだろう。同じ女性であっても、永劫の隷従を思わず誓ってしまいかねない程の、カリスマ性がその声には秘められていた。

「読み違いも甚だしいぞ、白子の賤夫よ。王や帝王と言うのは常に思い上がる。この私に褒美を与えるのだ、と、誰も彼もが口にする。違う。『貴様らが褒美を献上するのを私が許し、褒美を与える事を私が私自身に許す』のじゃ。貴様ら如きが私に褒美を与える等、思い上がるな下郎め」

 何と言う、唯我独尊ぶり。
この女性にとって褒美とは、賜る物ではない。献上される物であり、そして、献上する事にも許可がいるのである。
そして、気が向いた時に彼女自身が与える物でもあるのだ。世界の中心に自身がいる、そんな強烈な自負心と倨傲がなければ、こんな言葉は口に出来まい。
だが、その思い上がりが、全く間違っていないとタイタスにですら理解させてしまうのは、姫が発散する、地上の人類には醸し出しようもない『高貴』の気風の故なのであろう。この自信は、何処から来るのか? その美か? それとも――タイタスですら戦慄を覚える程の、その強さからか?

「……成程。世の言の葉がそなたの不興を買ったと言うのなら、このタイタス一世。その非礼に詫びよう。そして、あるがままに余はそなたと接しよう。尤も、悪魔の王と接した過去は、ないが故。多少の無礼には目を瞑って欲しいが」

「ほう、私を指して悪魔の王、か。愉快な感性を持っておるの、白面の者よ。それに、纏う運命も良い。暴君にして名君となるべき星と相を背負っておるな、貴様」

 様々な諸侯、様々な王は勿論、『神』すら目の当たりにした事もある姫は、始祖タイタスの霊性をその炯眼で見抜いていた。
姫が嘗て見て来た、王や皇帝、帝王を自称するあらゆる男達の中でも、目の前のタイタスは、『王』としての資質を特に高いレベルで備えている。
時代が時代なら、この星全土を全ていただろう。王は神よりその支配権を神授された、地上における神の現身に等しいと言う。
勿論現代においてそれは絵空事に等しい考え方であるのだが、タイタスの場合は、この絵空事が事実だったのでは、と思わせるに足る気風があるのだ。
姫ですら認める、王としての器の持ち主。白子の王・タイタス一世が、並ではない事を如実に示すエピソードではあるまいか。

「幾度か、問い掛けの機会を設けさせて欲しい」

「赦す。心と頭に渦巻く謎、言葉の閃きを以って祓って見よ」

 姫は船首から降りない。タイタスは、姫を見上げる形で言葉を交わす事になる。
地上を我が物顔で闊歩していたあらゆる種族を討伐し、支配・幽閉させた偉大なる王を、下に立たせて話させるのだ。
正に、人界の王など自身の悦楽を満たす為だけに存在する玩具としか思わぬ姫だからこそ出来る事であった。そしてタイタスは、その事について憤らない。
何せ『この』タイタスには、自身が嘗て王ではなく、王となる以前、誰かの付き人として活動していた時期があったと言う記憶が備わっている。
誰かを立てる、と言う事についてはタイタスと言う男は実は慣れているのだ。だから今更、姫に大上段に構えられても、怒りはしないのである。……とは言え、姫程の存在にこんな振る舞いをされて、怒れる王が存在するのか、と言う疑問の方が、寧ろ尽きぬが。

「一つ。そなたは、何者か」

「好きに呼べ。そして、好きに思え。それが、私になる」

 事実、姫には名前はない。姫・妖姫・妲己・マーラ・サロメ……過去にこの女が名乗った事のある名は、この他にもまだまだある。
そしてそれらの名前のいづれもが、尊崇と憧憬、そして、畏怖と恐怖を以って歴史の表裏に刻まれて来た。
だが、これらの名前ですら便宜上の名に過ぎない。それもその筈、姫は、己を定義する名を授からずに生まれて来た。
名とは、入れ物である。水を溜める瓶であり、桶である。姫の美とは、定義されない――出来ない――美だからこそ、美しいのだ。
姫は、己の存在は定義されてはならず、言語される物でもないと思っていた。自分自身の在り方を固定化させる『名付け』と言う行為は正に、
何かを縛ると言う上で最も重要な行為の一つ。だから姫は、名を持たないし、持とうとも思わない。
しかし、名前がないとコミュニケーションを取る上で不便に陥るのもまた事実。だから彼女は、誰かに名前を認識させるのだ。
これが私の名であると、思わせるのである。その行為自体に、なんの意味もない。何かの呪いですらない。自分を見てそう思い、そう名乗ってみたいのならばそうすればよい。それが、自分になる。姫はそう考えているのである。

「では、『ミルドラ』と、余はそなたを呼称する。その名は、我が世における夜の女神の事を指す」

「ほほ、夜を司る神に女が多いのは、貴様の世界でも同じ事か。ならば、その名で私を呼ぶと良い」

 不興を示した様子も、姫には無い。冷たい、ともすれば酷薄とも嗜虐的とも取れる笑みを、浮かべるだけだった。

「二つ目の問を投げ掛けても構わぬか」

「良いぞ」

「ミルドラよ、そなたは何処からこの空間に彷徨いこんだ。まさか、招かれた訳ではなかろう」

「斯様な場所、招かれても来るものかえ」

 陰性の笑みを浮かべ、姫が即座に否定した。

「この“船”に任せるがまま流れていたら、偶然此処に辿り着いた。それだけよ」

 タイタスに姫の言葉の真贋を精確に図る術はないが、彼女の言っている事は紛れもない事実であった。
姫の宝具である船は、この世のものではない空間、つまり、現世と他の世界、並行世界や異世界を隔絶するように流れる時空の河や壁を潜り、遊弋する事が出来る。
聖杯戦争の舞台となっているこの<新宿>の時空は、やけに強固の上、姫自身もサーヴァント化した弊害か、弱体化が著しいので、その河や壁を突破する事は出来ない。
だが、誰にも認知されずに、その時空に潜航する事は可能であり、彼女は夜になるまで時空の川流れの上で、<新宿>での事象を眺めていたのである。

 ――そんな折に、姫は此処に衝突した。
タイタスの創造した墓所、即ち異界もまた、現世とはまた違う座標に存在する別時空の空間。
そこに、姫の宝具である船の移動ルートと重なった瞬間、無理やり船が、タイタスの陣地の空間に引きずり出される結果となってしまったのだ。
そしてそのまま、泉に向かって船が勢いよく着水。これが、タイタス達が感知した揺れの真相であった。姫自身、意図して此処に来た訳ではないのだ。
移動ルートの偶然によって、此処に招かれたに過ぎない。その事を必要最小限の言葉で姫は説明し、タイタスも得心したらしい。

「次が、最後の問だ」

「はよせい」

 欠伸をし始める姫。

「ミルドラよ。そなたは、本当にサーヴァントか?」

「貴様にはどう見える?」

「……解らんな」

「ほほほ」

 その答えに、姫は満足が行ったらしい。
解らない、と言う答えは実は正解であった。タイタスの言葉は実は、正しかったのである。姫の正体は、解らない。これが答えであった。

 分類上は、吸血鬼、と言う事に姫はなるのだろう。だが、それすらも、精確ではない。
姫は、吸血鬼と呼ぶには余りにも吸血鬼の性質からかけ離れている。流れ水のタブーも、十字架のタブーも、姫には通用しない。
彼女が中国産の吸血鬼の性質を引き継いでいるからだ。だが、逆に中国産の吸血鬼が弱点とする桃の種や、吸血鬼全般が弱点とする白樺の杭を心臓に打つと言う行為も、
日光と言う最大の弱点ですら姫は克服しているのだ。吸血鬼にですら、滅びは来る。だが、姫は滅びない。『死』と言う事象が存在しないのである。
ひょっとしたら姫は、吸血鬼としての最大の特徴である、吸血と言う特徴だけを備え付けた、超高次元の生命体である可能性ですらある。
そもそも彼女は、多くの吸血鬼が生存を続ける為に必要な、自身の名の由来ともなっている吸血と言う行為すら必要としていない。
血を吸わずとも、姫は存在出来るのだ。余りにも、吸血鬼離れをし過ぎている。

 だから、タイタスの疑問も尤もだった。
この吸血鬼『もどき』については、謎が余りにも多い。多いが、確かな事が一つある。姫は間違いなく、順当な方法ではサーヴァントとして呼ばれ得ない。
サーヴァントとして呼ぶには、余りにも姫の存在はイレギュラー性が強すぎる。と言うより、斯様な存在を召喚出来るのであれば、聖杯など元より不要の長物。
この姫自身がある種、聖杯以上の奇跡で以ってしか召喚出来ない、神霊に半ば以上足を踏み入れている、恐るべき『何か』であるが故に。

 どちらにしても、タイタスですら、姫の正体については理解が及んでいない。そして、姫自身もこの謎については答えるつもりもないらしい。
いや違う――姫自身も、自身が何者であるのかよく解っていないのだ。四千年以上前に生まれた吸血鬼……と自分は嘯いているが、実際はそれ以上前から活動している。
それこそ、まだ地上の支配権を神々が握っていた時代から、だ。自身ですら、何年生き永らえて来たのか解らぬ時間を生きて来た『何か』。それが、姫であった。

「貴様の思う通りよ。私はこの聖杯戦争とやらに正式に呼ばれた者ではない。いわば、数合わせの為に呼び出されたようでの? 此処とは違う時空で、時の流れの上で微睡んでおったが、粗忽者の儀式で目を覚まさせられて、此処におるのだ」

「正式に……だと? サーヴァントがサーヴァントを呼び出す術を、誰かが会得しているとでも?」

「そんな事、造作もなかろうよ」

 如何やら、タイタス自身が知らぬだけで、サーヴァントを召喚出来るサーヴァントと言う者が、此処<新宿>には存在するようだ。
勿論、理屈上はそれが可能である事はタイタスも勿論知っている。但しそれは、莫大な魔力と言うリソースがあって初めて可能となる芸当だ。
この<新宿>で、其処までの魔力をプールしている所など自身の墓所以外に――いや。待て。あった筈だ。信濃町と呼ばれる一角に、姫を呼び出し得る施設。
タイタス自身が怪しいと睨み、あらゆる魔術の技を駆使して幾度となく監視を行おうにも、一向にその内部の様相を確認出来なかった、白亜の宮殿が!!

「メフィスト病院……か」

「流石に知っておったか。貴様も<新宿>に生きる者であれば、その名を肝に銘じておけ。事と次第によりては、奴と魔道の技を競い合うかも知れぬからの」

 「尤も、そのような段になる頃には貴様の命もなかろうがの」、と、悪辣な高笑いを浮かべる姫。
確かに、サーヴァントでありながらサーヴァントを呼び寄せる術を持った存在は、尋常の事ではない。
召喚に必要な莫大な魔力を貯蔵できると言う技量から、恐らくはキャスタークラスかそれに準ずるスキルや宝具の持ち主だろう。
魔力を溜め置くと言う行為は、魔術師にとって初歩にして極意。民草が稼いだ日銭を貯金するのと同じだ。
魔術師は平時、何か魔術的な儀式や実験、鍛錬を行うのに魔力を消費する。そして、余剰の魔力を何処かにプールしておかなくてはならない。
まるで勤め人が、稼いだ給金を預金するが如く。だから如何に大量の魔力を供給し、これを上手くやりくりするか、と言う技術は優れた魔術師を指し示す指標となるのだ。

 如何に世に稀なる魔術師達が多く名を連ねるキャスタークラスのサーヴァントとは言え、その身の上に宿る実力は生前のそれより遥かに落ちる。
魔力などその最たるものだ。そもそもサーヴァントは活動するのに魔力を常に消費し続けねばならないのに、
この厳しい条件の下で魔力を増やすような運用をせねばならないのだ。タイタスやムスカが諸処の行為に尽瘁するのを見れば解る通り、これは大変な事柄である。
現にタイタスですら、虎の子である魔将を召喚するのにかなりの魔力を消費してしまった。これが正真正銘、宝具すら保有する本物のサーヴァントを召喚するとなると、
宝具・廃都物語でかき集めた魔力が根こそぎなくなってしまう。それを考えるにメフィスト病院の主は、魔力にかなりの余裕があったから、サーヴァントを召喚したのだろう。並の技量ではない。

 姫の言う通り、何時の日かは魔術の腕を競って殺し合う可能性もゼロではない。
と言うのも、魔術師と言うのは根本的に、他の魔術師と反りが合わない事が多いのである。
信奉する神や思想で諍いが起きるのは只人でも同じ事であるが、魔術師の辿った人生と言うのは概ね特殊な物が多い。捻くれた人生、とも言うべきか。
だから魔術師同士がコミュニケーションを取る場合、相手か自分が譲歩して接するか、波長が合うか、とかでもない限りは大抵の場合不和に終わる。
況して、その道を極めた魔術師ともなれば、その人間性は特殊を極める。少なくとも、一般人よりもズレた感性の持ち主である事は確かである。

 ……とは言え、魔術師が何よりも重視するのは、『利害』である。これは、魔術師のみならず、世間に生きる俗人、聖職の道を歩み僧籍を獲得している人間とて同じ事。
これらを侵害されぬ限りは、魔術師と魔術師は、気に入らない間柄であっても手を組むのもまた事実。
逆に言えこれらを侵害されると、真理の地平を開き叡智の何たるかを見聞する為の手段が、恐るべき殺生の手段へと変転するのであるが。
兎に角、今のタイタスは待ちに徹せねばならない。無駄な争いはなるべく避け、勝てる戦にだけ時と次第によって駆けつける。これが、現状のモアベターなのである。

「事は済ませたか? ならば、此処から去ね。私は暫し微睡む」

「去ね、とは此方の言葉ぞ。ミルドラよ」

「私の船の進む道に、斯様な賢しい異界を作る方が悪いのだ。嵐に見舞われた、と思って諦めるのだな、白面の王よ」

 其処で姫は、タイタスから顔を背け、船内へと入って行こうとする。
迎撃するか、と彼も思ったが、姫は別格に強い。世界の裏側に隠れた本体……その彼が、イーテリオの星を手にして漸く、勝ちの目が? と言うべき存在である。
腹の立つ話だが、此処は姫を受け入れるか――そう思い立った、その瞬間である。

「――ほう。奇異な縁もあったものよな、貴様。いや、不運な運命、と言うべきかの?」

 船内に入ろうとした姫が足を止め、タイタスの方を見下ろしてくる。
何を言っているのか、と一瞬だけタイタスは思った。……それは、本当に一刹那の事だった。
カッ、と、タイタスは瞠若する。拠点としているホテルの回りを巡回させている、不可視の使い魔。
それが、一人の男性の姿を捉えた。その使い魔の見ている物と、己の視界を同期させているタイタス。当然、それが何を見ているのかを理解していた。

 姫に勝るとも劣らぬ、美貌の持ち主。
白いケープを羽織り、黒メノウを煮溶かして線状にして見せた様な、艶やかに煌めく黒い長髪を持った、美しい男。
人界に生まれる事は先ずあり得ない、神界・天界の美。いやあれは、悪魔の美ではあるまいか? 
タイタスは男を見た瞬間、恐怖と無慈悲さを、その麗姿から感じ取る事が出来た。親しみやすさが、姫同様にその男の美には無いのである。
美の純度が高すぎて、寧ろ『死』を想起してしまうのだ。隔絶した美の故に、頬を赤らめるとか見惚れるとか言う反応すらが、最早起きる事がない。
不興を買えば、死ぬ。見てしまえば、醜い自分に耐え切れず死を選ぶ。そんな剣呑さを、タイタスは感じ取ってしまったのである。

「あれがメフィスト。病院とは名ばかりの、自己満足の城を管理する自惚れ者よ」

 大層愉快そうに、姫が行った。
泉へと下る為の階段の頭上から、船の揺れを察知した夜種達が、今になって大挙して来る音を聞きながら。
タイタスは、急いで……しかし冷静に、メフィストと、ついでに姫のもてなし方を、考えているのであった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 つくづく、ドリー・カドモンを依代に召喚したサーヴァントの人選が、おかし過ぎるとメフィストは思う。
チトセとパムは、まだ良い。どちらも多少血の気が多いが、まだ分別のつく性格であるからだ。
残り二名は、駄目だ。<新宿>の情勢を混乱させる為に、わざと選んだとしか思えない。
姫はそもそも論外であるし、ベルク・カッツェも、相当性質が悪いサーヴァントだ。仮にもしマスターが、サーヴァントをどれか一体好きなのを選んで、
それで聖杯戦争を勝ち抜けと言われたら、この二名は共に間違いなく選ばれる事はないであろう。それ程までに、悪質なサーヴァント達であるからだ。

 そして、これを知っててわざと、彼らの情報をドリー・カドモンに固着させたルイ・サイファーもルイ・サイファーだ。
アカシア記録制御装置(コントローラー)は、アカシア記録と言う高次空間に接続する都合上、接続した者に知りたい事柄を完璧に教えてくれる。
隠された歴史、これからの未来、根源への到達方法、そして……未知なる異世界の秘密。アカシアへの接続とは、有体に言えば、全知になれると言う事に等しい。
アカシア記録に接続してサーヴァントを召喚すると言う方法を用いると言う事はつまり、呼び出すサーヴァントがどう言う存在なのか、
初めから解っているに等しいのだ。解らない上で、姫やカッツェを召喚すると言うのならばいざ知らず、解っててあれらを召喚するのは、愚の骨頂である。
……いや。ルイは、愚者の行いだと解った上で、あの二名を召喚したのだろう。わざと、姫とカッツェを<新宿>に招いたのだ。
何の為に? 実を言うとメフィストですら、その真意は図りかねる。だが、およそまともな理由ではあるまい。最悪、面白そうだったから、と言う線すらあり得るのだ。考えるだけ無駄、なのかも知れない。

 どちらにしても言える事は一つ。
メフィストは、ルイ・サイファーの求めに従い<新宿>に招き入れた、四騎の内の一騎。赤のアサシン、ベルク・カッツェの尻拭いをやらされたと言う事である。
リムジンから降りて治療した者達は皆、あの悪鬼の跳梁の犠牲者だと言う事をメフィストは見抜いていた。
自分の患者に危害を加えなければ、極端な話世界が滅ぼうがメフィストは瑣末な事なのであるが、それでも、手を煩わされ、時間を潰されたとなると、
苦い顔を浮かべざるを得ない。カッツェよりも寧ろ、文句の一つをルイに対して言いたくもなろうと言うものであった。

「到着致しました」

 運転手の言葉に呼応し、シートに深く背を預けながら不満げに瞼を閉じさせていたメフィストが、ゆっくりと開眼。
見事な運転技術であった。ブレーキを掛けた事すら余人は認識する事が出来ない、プロのそれである。

「地下の駐車場で待機していろ」

「御意に」

 短いやり取りの後、運転手は扉を開け、其処からメフィストは外へと出て行く。
間違いなく、この場所である。メフィストが生み出した、彼自身を模したホムンクルス、その道具作成担当が生み出した『猟犬』と呼ばれるカーナビシステム。
その場所は明確に、百人町に建てられたこの超高級ホテルを指していた。猟犬、と言う物騒な名が指し示す通り、このカーナビゲーションはただのカーナビではない。
全体で十cm程の大きさしかない超小型人工衛星。秘密裏に宇宙へと打ち上げていたこれを利用する事でメフィストは、今や<新宿>の全貌を監視する事が出来る。
この人工衛星はいわゆるGPSの機能も兼ね備えており、これが発する特殊な電波を使用する事で、上記のカーナビシステムを用いる事が出来るのである。

 何故、そして何時? こんな物を用意していたのか? 
簡単だ、メフィスト病院を襲撃したジャバウォック達を抹殺する為に、彼らが去ってからメフィストは急ピッチで、このカーナビシステムと人工衛星を構築したのである。
このカーナビシステムには特徴がもう一つあり、対象の体組織が少しでも残っていれば、カーナビそのものを管理するサーバーにその『情報』を登録。
こうする事で、宇宙空間に存在する人工衛星が情報を解析し、その場所を一瞬で探り当てるのだ。地下に潜ろうが無駄だ。
この人工衛星は宇宙空間から人間の顔を完璧に識別出来る程の分解能を持った超望遠カメラと、地下数㎞までの空間であれば透視する事が出来る霊鏡レンズを搭載している。
超魔術と超科学によって構成され、相手が何処に逃げようが監視し続け、恐るべき狩人であるメフィストにその位置を送り続ける。成程、猟犬の名は伊達ではない。
ではメフィストは、ジャバウォックの何を情報源として、この場所を発見したのか? 体組織がなければ、猟犬は臭いを探り当てられないと言うのに。
実は体組織に類する部位を、あのジャバウォックは明白に放置させていた。魔界医師と魔獣が戦った場所に放置された、ジャバウォック自身の『黄金化された腕』。
これを情報源としてサーバーに登録。彼らの居場所を探り当て、そして現在メフィストは、カーナビが指示した位置である、この百人町の高級ホテルへと足を運んだのである。

 実を言うとメフィストは、来る前まで訝しく思っていた。彼が自身の発明品の一抹の疑念を抱く事など、天が雲や星辰ごと地球に落ちてくる事象よりもあり得ない。
それなのに何故、魔界医師は猟犬の検索結果を疑問に思っていたのか。と言うのも、正しい位置を確実に捉える猟犬の検索結果が、不確定要素で揺らめいていたのである。
此処にいるかも知れない、しかし、いないかも知れない。そんな曖昧な状態の時に、猟犬の検索システムは、此処に対象がいる可能性はフィフティ・フィフティ、とする。
そして、こう言う検索結果が弾き出される時と言うのは、相手がこの世の時空ではない異界や、異なる位相や座標の別空間・別次元にいる時が殆どだ。
こうなると厄介である。異界や別時空の法則と言うのは、メフィストも今いる三次元空間の法則に囚われない。
ある場所に発生した、別時空に繋がる裂け目に呑み込まれ、その別時空から脱出しようと内部の出口から脱出したら、イタリアのベニスだったと言う事が平然と起きる。
衛星システムの検索結果上<新宿>の何処かにいても、ちょっとした契機で全く別の場所に移動される可能性が高いのだ。
メフィストとて暇ではない。手早くジャバウォックと、その主であるロザリタ・チスネロスを粛清したいのである。
それなのに、折角この場所まで足を運んだのに、また別の場所に逃げられたとあれば二度手間も良い所である。だからメフィストは内心では、この場所に来るまでジャバウォックに逃げられるのでは、と考えていたし、そしてこの百人町のホテルに発生している時空間異常は、サーヴァント同士の戦闘の余波によって生まれたか。或いは――<新宿>が、メフィストの知る『魔界都市』のそれへといよいよ変貌を始めたか、と当初は思っていた。

 だが、違った。メフィストの推理は良い意味で裏切られた。
魔道を極めたメフィストだから解る。このホテルに発生している時空間異常は、自然発生したのではない。人為的に『施された』のだ。
それも、ただの魔術師にではない。あの魔界医師が、顔を見ずとも白眉の才能の持ち主だ、と確信させる程の技量の魔術師が、である。
それに、メフィストも既に気付いている。自身を監視している、透明化の迷彩を行っている使い魔の目線に、である。
その方向に目線を送るメフィスト。それを受けた瞬間、メフィストの目線をモロに受けた使い魔が、一瞬。半透明の馬体としての本体を露にし、そのまま大気に還っていった。
メフィストが特別な力を送った訳ではない。メフィストの美しい姿を真正面から目視する形となったその使い魔は、精霊でありながら人に縛られた状態の奴隷の身の上の己を恥じ、あの男に見られ続け恥を認識される位なら、と死を選んだのである。

 如何やら、ジャバウォック達の主従は誰かの魔術師の差し金か、或いは、その魔術師に匿われたかのどちらかであろう。
だから猟犬は、こんな場所を指し示しているのである。このホテルは高い確率で、メフィストの知らぬサーヴァントの拠点。それも、並のサーヴァントでは此処に拠点がある事すら気付けない程、高度な隠匿処理がなされている程の、だ。こうなると、メフィストの振る舞い方は一つ。サーヴァントと交渉し、ジャバウォックを譲って貰うか、その魔術師を相手に少し過激な手段を取るかのどちらかである。

「話の通じる相手なら良いが」

 いつの間にか、メフィストをこの場所に送っていたリムジンは、音もなくホテルが有する地下駐車場に消えている。 
自分も、何処ぞのサーヴァントが生み出した、ホテルと言う名の内臓へと入り込むべきであろうと、ホテル内部へと消えて行く。
……メフィストが持つ、人界に出て来る事自体がタブーとも言える禁断の魔貌に当てられ、フリーズした様に動けないでいる<新宿>のNPC達に。ホテルに消え行くこの魔界医師は、注意関心を払っていたのかどうか。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 魔術師とは元来、神秘を秘匿する物である。これは当然の理屈である。
魔術師とはその言葉が表すように、魔術を生業とする者であり、その魔術とは神秘によって成り立つ物である。
そして神秘とは何か、と問われた場合、人間が『不思議だ』とか『超常の力だ』とか思われるような力の事を指す。
つまりは、一般に流布されていない、魔や神の世界の常識、と換言出来る。
結局魔術師が何故魔術を振う事が出来るのかと言えば、この神秘と呼ばれる概念があるからに等しいのである。神秘とは彼らにしてみれば、卑近な言葉で言えば飯の種だ。
では、神秘が白日の下に詳らかになってしまえば、どうなるのか。露見された神秘は一瞬にして一般化、大衆化され、途端に神秘ではなくなるのだ。
誰もが知らないから、隠されていたから。神秘は神秘の魅魔を帯びると言うのに、誰もが知る常識に変貌してしまえば、途端にその価値は下落する。
これが究極的な段階にまで進んでしまうと、魔術師は魔術を使えなくなる。根源・真理・神座。これらに至れる研究を続けられなくなるばかりか、
今日の飯にすら有りつけなくなる。勿論死活問題である事は言うまでもない。アクもクセも強く、人間的にもズレている魔術師達が、例外なく守っている、黄金律とも呼べる程に絶対的な了解。それがこの、神秘の隠匿なのである。

 神秘の隠匿と言う都合上、魔術師はその拠点を人間の目につかない場所に設置する事が多い。
地下、山中、森林の中の洞窟。腕の立つ魔術師は異なる時空を生みだし、其処を拠点とする者もいる。神秘を隠そうとした場合、これらの場所は道理とすら言える。
だが、真に腕に覚えのある魔術師達は、市井の真っ只中に堂々と拠点を築く物だと、メフィストは考えている。と言うより、メフィスト自身がそうであるからだ。
しかしメフィストの場合は、神秘を隠匿するまでもなく、神秘と言う概念が世界中を覆い尽くしたに等しい世界の生まれであったからこそ、斯様な考えなのである。
そうでない人物が、都会の真ん中に魔術的な拠点を設営する等、これは並の心臓ではない。余程の狂人か、自惚れ者か。
そしてメフィストは、百人町のホテルに陣地を作成したサーヴァントを、恐るべき手練だと認識していた。自惚れ家であろうとも、これだけの実力なら文句はない。

 何せ見かけは本当に、地方からやって来たエリートサラリーマンや、金のある外国人達が宿泊の為に使う、典型的な高級ホテル。
そしてホテルの回りは明白に、日に千台は優に超す程の交通量を誇る道路に囲まれ、ちょっと歩けばチェーンの食事処や、コンビニエンスストアが見られる、
呆れる程に東京の風景なのである。そんな場所に、異界化させた陣地と言う大規模な拠点を構える等、尋常の精神では考えられない。
何よりも、それだけ大規模な陣地であるにも拘らず、NPCは勿論サーヴァントですらその存在に気付けないと言う事実が、この陣地を作成した者の腕前を証明している。
高田馬場の魔法街を拠点としていた、あの大魔法使いに匹敵する存在が、世にいたとは。そう思いながらメフィストは、ホテルのロビーに踏み入れていた。

 ロビーもまた、呆れる程普通の、グレードの高いホテルのそれである。
塵一つ落ちていない、清潔でピカピカの床。染み一つない壁紙。高い天井。そして、乱雑と見る者に思わせないよう考えられて設置された、ソファやテレビ等の配置。
メフィストにって全く見るべき所もない、普通のロビーだ。此処に、魔術師の拠点がある、と言われても果たして誰が信じられよう。
<新宿>で起こった諸々の事故のせいで人が少ないとは言え、今も疎らに人が行き交いしているこのホテルの何処に、そんな物があると言うのか。

 ――地下か――

 時空を弄って拠点とすると言う方法論の最大のメリットは、何処にでも拠点が作れると言う事である。
見かけ上の広さに左右されないのである。十畳程の狭さのない空間の中に異界を作ったとして、その空間の大きさは最早十畳のそれではない。
何故ならば魔力さえ潤沢であるのならば、数平方mしかない空間の内部に、東京ドーム一億個分もの広さの空間を収めさせる事だって可能なのだ。
時空の謎を理解してしまえば、その程度の真似事は造作もない。現にメフィストも病院でジャバウォックを迎え撃った際、このロジックを応用して見せた。
当初メフィストは、このホテルを虱潰しに探し回らねばなるまいかと覚悟していたが、意外や意外。直に拠点の位置を探り当てる事が出来た。

 ――否。拠点の位置を探り当てたとか、暴き立てたと言う言い方だと語弊がある。
精確な言い方は、『向こうの方が此方を誘っている』と言うべきだ。メフィストレベルの術者であるのならば、探知出来るレベルの妖気。これを、地下から此方に向かって相手は発散し続けている。

「私を試すか」

 それもまた良い。この拠点の主にとって自分は招かれざる客、或いは、歓待を受くるに値する存在なのか疑問な存在。そう思われているのだろう。
ホストがあちらにあるのなら、ゲストは今の待遇に文句を言ってはならない。試されていると言うのであれば、それに応えるまでだ。
白日の具現のようなメフィストの美貌を見て、呆然とした状態の従業員達に関心を払う事もなく、メフィストは、廊下へと繋がる所へと歩いて行き、
レストランやバーにビリヤードルームなどと言った憩いの場へと足を運べる所を抜け、従業員達の雑務雑居の場所。
即ち、彼らの休憩室や、ボイラー室などへと繋がる、関係者以外立ち入り禁止の場所へとメフィストは到達。
この間、メフィストの姿を従業員達に見られたが、特に何も咎められなかった。メフィストは気付いたが、この陣地の主に軽い洗脳めいた物を掛けられている。
迷い込んだ者は大抵追い返されるのであろうが、メフィストに限ってはそれがなかった。向こうがメフィストを追い返さないようにと命令したか、それとも、メフィストの美しさに下された命令を忘れてしまったか。そのどちらかなのだろう。

 メフィストはボイラー室へと繋がるドアを開ける。
何の変哲もないボイラー室だ。駆動する音も、設備自体にも、何も異常な所はない。
だが、メフィストの優れた感覚は既に捉えている。此処が、敵の腹中に繋がる口腔である事を。何かの契機一つで、自分は敵の胃の中に潜り込めるのだと言う事を。

 ケープをはためかせ、誰の目から見ても平等に『其処には何もない』と言う事実が確認可能な、何もない空間を打擲するメフィスト。
何もない。そう、メフィスト以外の者からすれば、そうなるであろうと、皆は思うだろう。しかし、実際にはメフィスト自身も、何かを叩いた訳ではない。
真実、ケープが虚空に美しい白波を打った場所は、メフィストの目から見ても何もないのだ。――何処を打とうが、結果は同じだからである。
特別なアクションを、メフィストレベルの位階の魔導の技の持ち主は、最早起こす事すら必要がない。何気ない一動作で、異界への入り口を手繰り寄せる。
それはまるで、異界や魔界、常世と言うこの世ならざる空間が、メフィストの誘蛾灯の如き美貌に当てられて魅了され、一人で勝手にやってくるように。

 そして真実――姿を世界に隠していた、異界がその姿を現した。
異なる世界だから、異界と言うのか。はたまた、異形と化した世界の故に、異界と言うのか。
恐らくは、その両方の意味合いもあるのであろう。メフィストが今現在いる空間は、正しくそんな世界だった。
嫌な冷たさの空間だ。雪山の身を切るように厳しい寒さとも、氷の海の上の清冽な冷たさとも違う。
この世界はまるで、薄暗く湿った洞窟の中の様な、ジメッとした冷たさを誇っていた。否、まるで、ではない。そこは真実洞窟であったのだ。
厳密に言えば、洞窟の内部を削って作り上げた神殿、または遺跡とでも言うべきなのだろうか。
地球が生まれた時からずっと、天変地異や地殻移動、大地震や噴火を免れ、原初の暗黒をそのまま最奥に宿し続ける洞穴の中にいる様な暗黒。
一筋の光すらも拒み続けた黒闇の中にあって、メフィストは確かに、人為的に削って作り上げた痕跡をその目に見た。メフィストの炯眼は、闇さえ暴く。或いは、闇の方から、情報を教えるのかも知れない。此処がいかなる場所なのか、闇と語らう術を魔界医師は知って居たとて、誰も異な事とは思わないだろう。

 この空間には、自然独特の無秩序(カオス)がない。人間が手を込めて作り上げた秩序(コスモス)が確かに存在する。
壁に刻まれた、メフィストですら知らぬ言語体系から成る文字の数々もそうだが、自然界ではあり得ぬ程、壁が磨かれていた。凹凸一つ、存在しない。
何よりも、床だ。床と言う概念は、自然界には存在しない。自然に存在するのは『地面』である。
今メフィストが立っている所は、磨かれ、象徴的なモチーフの刻み込まれた『床』だ。竜や獅子、侏儒の軍勢や鉄の武器を纏った軍隊を打ち払う、
たった一人の人間の意匠が其処には在った。シチュエーションを考えるに、この男は英雄と呼ばれる存在と見て間違いはないのだろう。
恐ろしく力強い印象を見る者に与えるレリーフだ。戦士を象徴しているに違いない。となれば、この異空間の主は、戦士或いはそれを束ねる者――。
詰まる所、『王』である可能性が極めて高い。王であるのならば、メフィストの周囲を取り巻く強権的な床や壁の事が説明出来る。
王が、己の権勢を以って生み出した空間であるのだろう。これだけの物を作り上げる王権である。
さぞや、歴史と人理に名を刻み、神の玉座にも王手を指しかけた者に相違あるまい。メフィストはそんな、己が名すら知らぬ覇王の存在に思いを馳せながら、一歩。
敵の腹中と断じても全くの間違いのない空間の中を、確かな足取りで歩いて行く。すると、不思議な事が起こった。
『闇自体が、真っ二つに分かれ、両端の壁にわだかまって行くのだ』。闇と言う概念自体が一か所に凝集され、白日に晒されたかのように、メフィストの歩く空間が明るく照らされ始める。闇は、人の心を掻き乱し、不安にさせ、絶望させる力を持つ。その力が、メフィスト相手には一切通用しない。この男を絶望させる事を無理だと悟った闇の方が逆に絶望し、諦観を起こしたのかも知れなかった。

 一歩、また一歩と進んで行く毎に、メフィストは、己が敵の内臓の奥深くを進んで行っていると言う実感を得る。
そして同時に、悟る。奥に奥にと進む度に、相手が己を進ませたくないと言う事を。身を以ってメフィストは、思い知らされる。
十m続く、下り階段をメフィストは音も立てずに降りて行くが、ある一段に足を付けた瞬間、階段が無数に分岐を始めた。
あり得ないのは、踊り場まで一直線のその階段の下り先が、数多に生まれ始めたと言う事もそうである。だがそれ以上に、その分岐の数である。
その数は優に、数千を超え、一万とんで二五〇にまで達している。しかもその別れ方たるや、一種のフラクタル構造を描いており、
分岐の先に無数の分岐があり、その分岐の先にこれまた分岐が無数にある、と言った風に、空間の連続性を一切無視しているのだ。しかもその分岐の全てに、踊り場がある。
ウィンチェスター・ミステリーハウスですらが足元にも及ばぬ程、狂的な構造である。理路整然を好む所とする人間が今の光景を見ようものなら、発狂は免れまい。

 メフィストが、眼前に現れた怪異に足を止めていた時間はしかし、一秒にも満たない。
目の前の分岐を玲瓏たる瞳で一瞥した後、メフィストは、分岐の一つに向かって歩いて行く。
そのルートを選んで歩いた事が誰の目にも明らかな段数、下がったその瞬間だった。魔界医師を惑わす為に生み出された全ての階段が、幻のように消え失せた。
残った一つは、言うまでもない。今この美貌の医師が歩く階段一つに他ならなかった。間違った階段を歩いていれば、どうなっていたか?
メフィストは知っている。誤ったルートを選んでいたら、その人物は死ぬまで階段を下り続ける定めを強いられる。
其処を選んだ瞬間に、上る為の段が消えるのだ。その者に残されているのは、今自分が立っている一段と下に降りる為の一段。
一段下れば、新しい一段が与えられ、また一段下れば、新しい一段が与えられる。しかし、それ以上は絶対与えられない。上への段がない為上れないし、来た道を戻れない。
だからその人物は一生、階段を下り続けるしかなくなる。しかも、一足飛びは許されない。一段一段、丹念に、永久に下り続けねばならないと言う、恐るべき運命を背負う事になるのだ。悪夢のような、トラップであった。

 この異界の構造を、メフィストは見抜いている。よく知っている、と言っても良い。
異界の主は、己の意のまま、子供が積み木を組み立て直すように、この異界の構造を千変万化させる事が出来るのだ。
今の階段の一件など、その一環。此処に来てから既にメフィストは、十三の妨害に出会っている。
『一歩、また一歩進んでいく毎に』と言ったが、その一歩とは、正解のルートと言う意味での一歩であった。
歩いていたら突如分厚い壁が現れた事もあった。無視して進むと、壁が霧散する。幻影の壁だった。
足元が脈絡もなく、槍の穂先が敷き詰められた剣山に変わった事もあった。真実本物であったが、メフィストは槍の上に立っているにも拘らず、足に槍が突き刺さらなかった。
全ての床や壁が消滅し、何もない暗黒空間に投げ出された事もあった。前に進むのではなく、『上に向かって重力を無視して歩いた瞬間』、道が現れた。
こんな調子の妨害を、ずっとメフィストは受け続けている。これもまた、このおぞましい異界迷宮を生み出した主の試練なのであろう。
この程度の事をクリア出来ぬようであれば、謁見は許されない。そんな声なき声を、メフィストは聞いているかのようであった。
並の魔術師であれば、この迷宮に惑わされ、無惨な死を晒してしまうのがオチであるが、メフィストには斯様な目晦ましは通用しない。
この仕掛けが、子供騙しだからと言う訳ではない。実際には、極めて高度な魔術的技術を以って仕掛けられた物である。
メフィストにこの迷宮が通用しないのは、単純明快。メフィストもまたこのような、突如空間を迷宮化させる技術をよく使うからだ。
メフィスト病院など、まさにそうであろう。魔界医師の意思一つで、如何なる者の侵入を許さぬ白亜の大迷宮と化すあの病院。勿論、様々な罠もおまけで付随する。
蛇の道は蛇、だ。空間を自由自在にカスタマイズ出来る程の魔術の才を持つ者が、この局面でどう動くか、どんなトラップを仕掛けるか。
メフィストはそれを重々承知している。何せ、自分も良く同じ事をするからである。だから、相手の技は通用しない。鏡に映る我を騙す事が不可能な事に、その理屈はよく似ていた。

 階段を下り続けると、岩壁が出て来た。此処だけ、全く人の手が加えられていない。
本物の、自然石。ゴツゴツした岩肌、雫が伝う湿った岩肌。どれもこれも、人の握る彫刻刀やノミ、槌の手が及んでいない事の証であった。
その岩肌を、メフィストは左の人差し指で触れた。触れた所から、岩がその指を離さじと、融解を引き起こし、メフィストの指と岩とが永久の融合を果たそうとするのではあるまいか。それ程までにメフィストの指は、蠱惑的だった。

 だが、現実は違った。触れた所から、岩壁に縦方向に亀裂が生じ始め、其処から、ゴゴ、と言う音を立てて真っ二つに分かれて行った。
襖や障子が開かれる様子にそれは似ている。まるで、アリババの『ひらけゴマ』のようになった岩壁を見たメフィストが、壁の先に存在する、
大理石に似た石を削って作った螺旋階段を下りて行く。左の人差し指以外の箇所で、あの岩肌に触れれば、その生命は岩壁に吸収、融合され、己の意思を保ったまま岩の一部となってしまう。あれは、そう言うトラップであった。

 カツン、カツン。と、わざとらしく音を立て、メフィストが螺旋階段を下って行く。
此処まで、侵入者を迎え撃つガーディアンが見受けられない。仮にメフィストが試す側に回ったのなら、相手の力量も試そうとするものだが、
全くその傾向が空間の主には感じられない。まるで、メフィストの実力は既に知っており、量るだけ無駄だと言わん風であった。
己の実力を、病院以外で示した覚えはないが、と思うのはメフィスト。美貌には、一抹の疑問も浮かばない。謎に思いを巡らせても、それを億尾にも出さないのは、メフィストに培われたある種の癖であった。

 三分程の時間をかけ、螺旋階段を下りきるメフィスト。
透明感のある桜色の鉱石で出来た、巨大な扉が、白衣の男の前に立ちふさがっている。横幅十m、高さ十五m。単純に開扉するだけで、ヘラクレスの膂力が求められよう。
扉を眺める魔界医師。現世に渦巻く欲望の塵埃を超克した仙界の住民にですら、美しい物は手元に集めたいと言う人間誰しもが有する普遍的な欲を思い出させる、その男の美。
それに真正面から見据えられた瞬間、扉は、さくかに震えた……ような気がした。メフィストよ、お前の美は、命は勿論、心すら宿らぬ木石にですら、情欲を宿して見せるのか。

 扉の材質は、塩化ナトリウム。言ってしまえば、この扉は塩……つまり、岩塩で構成されている。
だがそれよりも重要なのは、この扉の先に、この領域の主が存在すると言う事実。岩塩の扉から漏れ出る気風は、緩やかにメフィストに自分の存在を知らせしめて来る。
凡百の存在でない事は、既にメフィストとて理解している事柄ではあったが、事此処に来て、その理解を更に強めさせる。
相応しい対応をせねばならないな、と心を新たにし、メフィストは扉に向かって歩いて行く。
だが、どうやって扉に入るのか? 何故ならこの岩塩の扉は、見た目上扉である事が窺えると言う形をしているだけで、閂も鍵穴も、ドアノブも取っ手もない。
来た者に、それが仕切っている先の空間を開放させる為の機構を持たないのである。だがメフィストは何て事はない。
その扉に向かって迷う事無く歩いて行き――塩の扉をすり抜けて行き、その先の空間に足を踏み入れた。
そして、ほう、と。メフィストには珍しい、嘆息の声を、塩の扉が護っていた先の空間は漏らさせたのである。

 若草と華花の香りが、濃いスープのように大気と溶け合った草原だった。
空気を構成する、窒素や酸素、その他の雑多な要素と、草木の匂いが深く結びつきあっている、と思う程、青の香りが心地良い。
踏みしめる青い草は、土の状態がとても良いのか、生命力の強さが靴の上からでも伝わってくる程、生き生きとしている。
華の香り。薔薇や百合、金木犀に銀木犀、杏子に水仙などの花々の香りが、微風と交ぐわいながら、メフィストの身体を包み込む。
さぞ、花も幸福に相違なかろう。己の香りで、宇宙の意思が現世に遣わせた、美のヘラルドとしか思えないこの男を喜ばせているんだ、と思っているであろうから。
だが、香りに反してメフィストの顔は、元々の表情から微動だにしていない。花や草木を司る妖精(ニンフ)の落胆が、此処まで伝わってくるようであった。

 医師が患部を探り当てるかの如き、非情かつ冷徹な目線で、周りを見渡すメフィスト。
花の蜜を吸う為に薔薇や杏子の花に群れ集い、黄色や黒、薄青色などと言った色彩を乱舞させる無数の蝶。
遥か彼方に広がり、自然の雄大さと億万年とかけて築き上げた地球の芸術性の高さを見る者に伝えさせる、山々の稜線。
仲睦まじく湖の水を口にする馬のつがい、象のつがい、鹿のつがい。湖底まで見える程の透明さの湖には、数十どころか数百に至る程の雑多な種類の魚が、海の広さを知る事もなく泳いでいる。

 嘗てアダムとイヴが知恵の果実を齧った事で追放された楽園(エデン)。
審判者ラダマンティスが管理しているとされる、世界の西端に存在すると言う死後の楽土(エリュシオン)。
不老不死の果実や尽きない肉で満ち満ちた、女神西王母が管理する神聖なる山崑崙。
其処とは宛ら、此処の事だったのではないかと、この世の誰もが思うだろう。此処は正しく、人にとっての理想郷であった。
人の世の社会が軋み合い、衝突しあう事で生まれる様々な諍い、欲望、恐怖と、罪。それらとはこの世界は、全く無縁の場所であった。

 それがつまらぬとばかりに、メフィストは言いたそうな雰囲気であった。
最早見るものはないと言わんばかりに、彼は歩を進めさせて行き、此方を誘う気を放つ者達の方へと向かって行く。
小高い丘の頂上に生えた、密集した枝と葉々が傘のように広がった、一本の巨大な樹木。俗に、アメリカネムノキと呼ばれる大木の、その木陰。目的地を、メフィストは此処に定めていた。

 やがて、メフィストが丘の上に到着する。
ネムノキの木陰には、白い石のような物を削って作り上げた円卓があった。メフィストから見て真正面、対面の方向に、一人の男がいた。
灰色のトーガを纏った、アルビノの男である。肌の色も、後ろを長く伸ばした髪の色も、全て白い。しかし、老いと不健康、ストレスからくる白ではない。
初めからそうと定められた者のみが有する、生まれつきの『白』。だからこそ、墨を垂らせばその痕が永久に残るだろうと思わせるその白さが、力強いのだ。
そして、その双眸の紅きの、何と強壮たる事か。王の宿星を背負った男である事を、メフィストは一瞬で看破し、そしてその才覚の全てを、
頬杖を付きながらメフィストの事を眺めるトーガの覇王に認めた。それに、顔付きの方も、険が無意味に強い事を除けば、好みのタイプであった。

 白の似合う、整った顔立ちの男。それが、メフィストの相手する者であったのならば、どれだけよかったか。
メフィストの眉が、不快に釣りあがっている。当たり前だ。メフィストから見て円卓の右端に座る、『姫』の魔貌を見てしまえば。
一瞬でその心証が、最悪の閾値を振り切ると言う物であった。

「厄介な者に憑かれているようだ」

 姫の方に一瞥をくれてから、覇王……いや、始祖帝・タイタス一世に目線を向け、メフィストはそう言った。病人に、医者が病状を告げる時のような声音だった。

「在る者に憑き纏いたる、厄介な霊に厄介な魔。これらを退散させる、この世で最も良い方法。……白麗の卿よ。貴殿は知っているか」

「簡単な事。憑依されている依代よりも、『憑依し心地の良い依代』を用意すれば良いだけだ」

「卿よ、見事な解なり。余の知る賢者と称された者ですら、卿の前では浅学をひけらかす蒙昧な輩であった事を、今この瞬間に認めよう」

 凡そ、乱暴極まりない理論を口にするメフィスト。要するに、今までその幽霊や悪魔が憑いていた人間よりも、更に憑き心地の良い人間を用意する。
言っている事はこう言う事である。だが、このメソッドは実は、狐憑きや犬神憑き、悪魔憑きなどと言った、この世のありとあらゆる霊障の特効薬なのである。
現にメフィストのいた魔界都市<新宿>においては、このような霊障に悩まされる人間の為に存在する、『憑かれ屋』と言う職業が成立していた程である。
この仕事の最上位に君臨する者の肉体は、幽霊や悪魔にとってスィート・ルームと言える程の極上の憑き心地であるらしく、
上位層の稼ぎは年収にして数億円とすら睨まれる程であったが、その分憑かれている霊や魔の数も凄まじい。一つの肉体に十の霊や魔に取り憑かれて、初めて一端と言われる程である。何れにしても、霊を退散させるのに、より良い憑依体質の依代を連れて来る事は、メフィストのレベルであっても認める有効な治療手段なのである。

「しかし残念だが、王よ。そこの疫病神を引き受けるだけの度量は私には無い。人からケチ、と言った評価をよく賜る男なのだよ」

「私を指して疫病神などと口にする男など、貴様以外にはおるまいの」

 美の精髄たる姫の姿を見て、疫病神などと言う最低以外の言葉が見つからない程の評価を下せるのは、遍く世界を探し回ったとて、
この魔界医師か、<新宿>の煎餅屋位しかあるまい。下々の者に疫病神扱いされれば、姫も立腹するが、言っている相手がこのメフィストだ。いつもの事だと、軽く流した。

「卿とて、ミルドラの女神は手に余るか、卿よ」

 ふっ、と笑みを零してタイタスが言った。

「ミルドラ、とは」

 メフィストですら、その神格の名は初耳であった。

「余の世界にて崇拝される、夜を司る神。即ち、夜に跋扈す全ての化外の者共、黒く暗き夜に煌めく星辰と月輪、この世に息づく全ての生命の安息たる眠りを司る、偉大なる大霊なり」

「其処の女性がそんな存在であったとは、驚きを通り越してどう反応して良いのか解らん。私の世界では、其処の女は『女顔のサタン』と呼ぶ。女神などと言う大層な物ではないとは、断言しておこう」

「揃いも揃って愉快な者共よ」

 口元を嗜虐的に吊り上げ、姫が言った。メフィストやタイタスの顔にも、微かながらの笑みが浮かぶ。
この会話の内容で、朗らかな空気を彼らは発散させている。何かを違えれば、一触即発の雰囲気に即座に変転する。そんな懸念から来る震えが、クスノキの葉を揺らす。
この場にいる者達は、メフィスト、タイタス、姫の三人だけに非ず。タイタスの従者として、彼の背後には、フードを目深にかぶった妙齢の美女……魔将・アイビア。
及び、彼女の配下である夜種が二十体程控えていた。凡百のサーヴァントならいざ知らず、メフィストと姫が乱心を起こした際には、
これらは何の役にも立たないとは、タイタスの考えだ。『御傍に』、と言うアイビアの意思を汲んでタイタスはこの場に侍らせる事を許しはしたが、戦力所か、彼女も彼女の抱える夜種も、肉の盾とすら彼は数えていない。この場に於いて、アイビアも夜種も、空気も同然の存在であった。

「遠方の客は、もてなすのが王の務め。卿よ。試練の疲れもあろう。かけるが良い」

 そう言ってメフィストは、円卓に備えられた、これを構成する材質の素材と同じ物で作られた椅子に目を向ける。
それをメフィストは、手でどかし、ケープの裏側から、野球ボール程の大きさの球体を取り出し、それを地面に落とした。
するとそれは、自由落下の際にあちこちに亀裂を生じさせて行くばかりか、己の真の形を思い出したかの如く、亀裂から内部がグワッ、と展開。

一秒と言う瞬間的な速度で、球は、事務用のキャリー付きの椅子へと変貌した。フリーマーケットやバザーで投げ売りされているような安物ではない。
然るべき通販サイトや店舗で買えば、十数万円は下らない、大会社の役職付きの社員が腰を下ろすような、ハイ・グレードの椅子である。
メフィストが開発した、携帯用の折りたたみ椅子である。メフィスト病院の外で、大量の患者を診察する時、メフィストはこの椅子に患者を座らせ触診するのである。
だが果たして、直径二十~三十cm程の球体の内部の何処に、球の体積よりも大きな椅子が内包されているのか。それは、メフィストのみが知る秘密の技術が織りなす一種の奇跡であった。

「私はこの椅子で良い」

 と言ってメフィストは、その椅子に腰を下ろす。ククッ、と姫の方から忍び笑いが零れる。
それと同時に、凄まじい怒気が、タイタスの背後から発散され始めたではないか。だが、同時にある矛盾も両立している。
その怒りに、恐怖の感も混じっているのだ。怒りを発散させている主は、タイタスの妻でもある魔将・アイビアであった。
一世が用意した、竜骨を削って作った椅子に座る事を拒否し、自身が持っていた粗末な椅子に腰を下ろすと言う行為。
それは、タイタスの好意を無碍にするばかりか、『お前の用意した椅子に座る事は我が沽券が許さぬ』と暗に主張しているのも同然の事。
メフィストが、自分のしている行為が何を意味するのか、どう受け取られるのか、知らない訳ではあるまい。知っていて、やったのだ。
それを理解した瞬間アイビアは、嘗てない怒気を目の前の魔界医師に覚えるのと同時に、タイタスを此処まで虚仮にするメフィストの恐るべき度胸に、心胆を寒からしめる程の恐怖を覚えた。タイタスをよく知るアイビアだからこそ、解るのだ。魔界医師よ、お前の心には、生命ならば誰しもが抱く感情である恐怖がないのか? と。

「素晴らしい側近をお持ちのようだな、王よ」

「我が愚妻に卿がかけるには、余りにも過ぎた言葉。出来の悪い女よ、誰に怒気を放っているのか、理解すらしていない」

 言ってタイタスが、頬杖をつかせていた右腕を離し、その状態を解き、パチン、とフィンガースナップを効かせる。
その動作を受け、アイビアが背後の夜種に命令を飛ばす。すると、小柄な体躯を持った、何とも醜い子鬼が、銀の盆を持って竜の骨を削って作った円卓へとやってくる。
直視に堪えぬその子鬼がもつには、人の持てる手技術の精髄を尽くした銀盆の意匠の美しさも、その上に乗せられた薄焼き菓子の甘く蕩ける様な香りも、余りにもミスマッチしている。

 それを竜骨の円卓に置いた瞬間、子鬼は、驚愕の表情を浮かべるや、即座に塵に還り、草の上に汚れた灰を堆積させる。
慄然の表情を浮かべるアイビア。今の子鬼は、視力をアイビアによって強制的に奪われていた。メフィスト、タイタス、姫。
この三人の会合の為だけに、アイビアが作った特製の夜種。戦闘能力など持たない。ただ、この三人の会合を彩る菓子に茶。
そして、それを乗せる銀盆を運ぶ為だけに生み出された哀れな生命。目が見えずとも、この円卓に菓子と茶を運べさせるようアイビアは教育を施していた。
何故、視力を奪ったのか? 簡単な話だ、メフィストと姫の美貌を見て、粗相を犯させぬようにする為だ。タイタスですら気を強く持たねば心を揺さぶられる、両名の美。
夜種如きが耐えられる筈もない。だからこそ夜種から光を奪っていたのだ。だが、菓子を運び終えたその瞬間、塵に還れなどと言う命令を埋め込んだ覚えは、アイビアにはない。果たして、如何なる現象が、あの刹那の間に起こったと言うのか。

「悪女だな」

「その言葉は最早褒め言葉よ」

 メフィストの言葉にそう返す姫。メフィストも、そしてタイタスも。姫の行いを見抜いていた。
そして、アイビアは永久に知る事はあるまい。あの夜種が盲目である事を見抜いた姫が、戯れと言わんばかりに、己の姿を夜種の精神に投射したと言う事実を。
生まれてから盲目を宿命づけられた存在が初めて、心の瞳で目の当たりにした存在が、星辰の王たる日輪と星辰の女王たる月輪よりも美しく気高い姫の存在であった。
その事実に、夜種は己の存在を保てなくなった。美意識と言う観念が植え付けられていなかった存在にですら、美しいと認識させる程の姫の美貌。その衝撃を受け、夜種は塵に還ったのだ。

「ほう。妖精の世界にも通じるか、白面の王よ。私の目に狂いがなければ、妖精共のみにその製法が伝わると言う、薄焼き菓子ではないか。二五〇〇年前のブリテンで、それと同じ物を齧るエルフの戦士共を、見た事があるぞ」

「正直な所、ミルドラよ。余は驚いている。そなたもまた、深遠たる智の持ち主であったとは」

 世事でも何でもなく、タイタスは驚いていたらしい。メフィストではなく、よもや姫に、この茶会で振る舞う菓子の正体を当てられるとは。
この世の全ての事柄を知り付くし、その知を以って世界を支配したタイタスですら、この事は予測出来なかったらしい。

 ――伝説に曰く。
妖精達の王或いは貴族として君臨する、長耳の美青年と美女で構成される一種族・エルフ。
そのエルフの中の特にハイ・クラスの戦士階級の者が、有事の際に携行すると言う幻の保存食と言う物が存在する。
妖精の言語で『レムバス』とも呼ばれるこの携行食は、一説には乾パンであるとも、ビスケットであるとも伝えられており、細やかな姿は伝わっていない。
確かなのは、その携行食は、ある種のレーションでありながらも大変甘く大変美味である上に、一枚口にするだけで一日分のカロリーと、
一日に必要な全ての必須栄養素を全て賄えると言う、完全食なのだと言う。その製法は、エルフの最上位階級である王や姫の間にしか伝わっていない。
下々のエルフや、エルフ以外の妖精はその製法は勿論、存在自体すら知らない事もあるのだと言う。当然、ただの人間がその薄焼き菓子の事を知る筈もない。
だが、そんな幻の一品は、何かの偶然で外の世界に流出してしまったらしく、そのレシピが一時、西欧に伝わってしまった事がある。
一説によると、ヘンゼルとグレーテルを誑かす為に魔女が生み出した『お菓子の家』の屋根や床には、この妖精の薄焼き菓子が使われていたとも言う。
だが現在、このレムバスに纏わる伝説もそのレシピも、初めから存在しなかったと言うレベルにまで抹消されている。――何故か? 己の特権を侵害されると考えたエルフの王族達が、虱潰しにこの存在を知る人間達を探して行き、その全てを己の魔法で、樹木や小石に変えて制裁したからだと言う。

 それを何故、タイタスは当たり前のように振る舞えるのか?
そしてどうして、姫はその知識を当たり前の様に知っているのか? 謎は何処までも、尽きない。

「治療しか能のない男に振る舞うには、余りにも勿体ない品。謹んで、その味を堪能させて貰おう」

 言ってメフィストは、指先に魔力を収束、薄焼き菓子の一枚を浮遊させる。
そしてそれを指下まで近づけさせ、それを手に取る。軽い事は勿論の事だが、意外としっかりとしている。
見た目はビスケットだが、頑丈さは厚い煎餅を思わせる。元来は戦士の携行食であったと言うが、その特徴は堅さに現れているらしい。
そしてこれを、メフィストは齧った。一瞬だけ見えた白い歯が、ダイヤのように眩しく輝く。メフィストの歯など、数百億円の価値があるどころか、<新宿>中の住民の命を全て差し出したとて、等価ではなかろう。

「成程。音に聞こえた物だけはある。香りからは連想させるようなくどい甘さではなく、スッキリとした甘さだ。それに、舌の上に甘さを筆で塗ったように、上品に後を引く。私好みの味だ、当院の茶請け菓子として参考にさせて貰おう」

 メフィストだから、自制が効く。
これがもし、他の人間であったのならば、何枚でも平らげられるような、手の止まらない甘さと味だ。
菓子好きにこのセットを与えてしまえば、一週間分どころか、一ヶ月分のカロリーを一日で蓄えてしまうだろう。それ程までに、中毒性のある味であった。
尤も、姫の方は満足する味ではなかったらしい。一枚齧るや、それを後ろ手に放り捨てた。余りにも、行儀が悪い態度だったが、この場に姫の行いを咎める者はいない。咎められる実力を持つ者がいない、と言うのが正しいのかも知れないが。

 一枚だけ、レムバスを口にし終えた後、メフィストは、対面に座るタイタスと向き直る。もう、レムバスは良いらしい。銀盆の上には、あと十数枚も残りがあった。
さて、タイタスと言う男は、見れば見る程、生まれながらの帝王だなと、メフィストは感じ入る。アレクサンドロス大王も、カエサルも、始皇帝も、ヒトラーも。
この男の威風堂々さと比してしまえば、褪せて見えてしまうであろう。そんな確信を思わせる程のカリスマ性を、タイタス一世は確かに醸していた。
本物は、一目見ただけで如何なる人間にも本物と思わせる力を有する。その絶対則を、改めてメフィストは認識するのであった。

「この世界は、お気に召さなかったかな、白麗の卿よ」

「そう、思う訳は」

「貴殿の感情の動きが余りにも小さいからだ。賢者が、日銭を稼ぐ為に薬を錬成する時ですら、もう少しまともな目をするものだ。余の生み出せしこの空間は、貴殿にとってはつまらぬものだったか」

「私の無表情は生まれつきの物だ、気にする事はない。それが誤解を生んだのなら訂正をするが、王の生んだこの世界は、素晴らしいものだと思っている。完璧なアルカディアだとも換言出来る」

 言ってメフィストは、小高い丘から一瞥出来る、アルカディアの光景を眺めながら、その所感を口にする。

「この世界には、争いもなく、死もない。平穏と生命に満ちた世界だ。遍く人類が理想とするアルカディア。イデアの中にしか存在し得ない、天上楽土であろう」

 「だがしかし――」

「王よ。貴方の作った世界には欠点が一つ存在する。そして、その瑕疵こそが、この世界の価値を損なわせる最大最悪の欠点だと思っている」

「それは、何か」

「『この世界には、人がいない』」

 メフィストは即答する。姫も、そしてタイタスも。やはりそこを突くか、と言う顔をした。

「人がいない事でよってのみ、この世界は理想郷として成立している。人がいない世界で理想郷を作り上げる。何と容易な試みであろうか。誰にでも出来る事だよ、決して難しい事じゃない」

 更にメフィストは言葉を紡いで行く。

「人がいない事で生まれる、完璧な世界(パーフェクトワールド)。私はその歪んだ世界を個人的に、完璧とは認めたくない。理想郷だとも、個人的には思わない」

「問う。人のいない世界を、不完全だとする訳を」

「私が医者だからだ」

「医者だから、とは」

「患者のいない世界は、私にとって酷く退屈でつまらない、拷問の様な世界だからだよ」

 顔を抑え、姫は笑いを上げ始めた。「やはりそう答えるか、この阿呆は!!」、堪らず姫は叫んだ。

「白面の王よ。貴様が其処の愚か者に何を見たのかは解らぬが、メフィストはそう言う男ぞ。聖人君子に見えるのは、見た目だけよ。その本質は、医者であると言う己の本質に依拠していなければ、生きる意味すら見いだせぬ弱者。それがこの男、魔界医師よ」

「だから言った筈だ。『個人的に』、このような世界はつまらないのだ、と」

「……人のいない世界だからこそ、この世界は完璧に程遠い……」

 姿勢を正しながら、タイタスは更に言葉を口にして行く。

「卿よ。その言葉は、何処までも正しい」

 その言葉に反応を示す、メフィスト。

「余は、人の本質は陰であり邪であると肯定している。争い、傷つけ合い、欲を遵守し、肉欲に耽り、欺瞞で身体を鎧い、己の財と地位とで増上慢を気取る。哀れで救いようのない生物だ」

 「だが……」

「それが元で、滅んでも良いと言う理屈にはならない」

 深紅の双眸が、メフィストと姫の双方を睨めつけた。
王の赤目、その奥底で光り輝く、鋭い剣の先端を思わせるような眼光は、只人を威圧させるだけの圧倒的な力があった。
邪眼(イーヴィル・アイ)と言う特異な力とは元来、人には持ちえぬ凄まじきカリスマを持った者の眼光であったのではないか。そうと余人に確信出来るだけの、タイタスの瞳の底光りを見て、人のカテゴリの遥かな外に君臨する、二人の『美しき者』達は、眉一つ動かさず、タイタスの瞳を見据えた。

「人の持つ宿命と魂。それらの根源の属性が罪であると言うのなら、それを認め、それに従い、それを利用する事こそが、王たる者の務め」

「性悪説を支持するのか、王よ」

「然り。人の心に善は匙の一掬いより少なく、人の心に悪は海より広く。その事実を先ず認め、その上で動く事が肝要なのだと、余は古の昔に悟ったり」

 更に、タイタスは言葉を続ける。

「国が、階級が、宗教が、民族が。それらが互いにいがみ合い、争い合う状況は、人がいる限り避けられぬ定め。人の歴史とは結局は、平和を堅固した時代よりも、争いを収束させようとした時期の方が長かった事が、これを証明している」

「愚かな者共よの」

「然り。人とは斯様に愚かな者。その愚かしさが故に、一度は神の涙と怒りの発露たる、荒れ狂う洪水で流されたが……この世に息づく人間の殆どが愚かで、その人類を神が見限ろうとも、余は人を見棄てない。余が、遥かなる未来世までに君臨するべき定めを負った王であるが為に」

「貴方が王だからか?」

「人の上に君臨するのが王であり、王とは、余以外の人間がいなければ成立しない。この世の何処に、たった一人で星に君臨する孤独を標榜する王がいようか? 世界の破滅を希う者……それは最早王に非ず。狂気の精霊に魅入られた、哀れなる者である」

 タイタスは確かに、己の目的の為に世界に戦火を望んだ者である。
だが、全ての人間の絶滅を願った男ではなかった。今彼が口にした事は、嘘偽りのない事実そのもの。
王とは、その王権や威光を認める他者、即ち、自分以外の人間がいてこそ初めて成立する。この点に於いて王とは、商売相手がいる事で成立する商人や、
主がいてこそ成立する奴隷、戦う相手がいてこそ成立する軍人や戦士達と、何の違いもない。結局タイタスも、患者に依拠する医者であるメフィスト同様、人に依拠する王であったのだ。故に、タイタスは世界の滅亡を望んではいない。いないからこそ――である。

「この世界には虫唾が走る」

 語気を荒げて、タイタスが言った。

「人の本質が悪であると言う現実に耐え切れず、人がいなくなれば世界が平和になると言う空想に逃げるしかなかった、哀れなる童(わらし)の夢の世界。知識はあるが、世故に疎い。知識はあるが、経験がない。幼稚な秀才が考え付きそうな、つまらぬ世界よ。人がいる上で、理想郷を作り上げようとすると言う気概を、この童子からは感じる事も出来ぬ」

 この世界は、どのようにして作られたのか?
口ぶりからも解る通り、この世界はタイタス自身が練り上げたイメージを元に産み出した世界、と言う訳ではない。
今現在タイタスが匿う、ロベルタの従えるサーヴァント、高槻涼の中に閉じ込められていた、ある一人の少女の残滓。
その存在を見抜いた始祖が、彼女が何者なのかを探るべく、己の魔術でその全てを知悉しようとした時に見つけた、彼女の精神世界。
それが、この歪んだ理想郷であった。メフィスト同様、タイタスはこの世界には強く否定的であったが、同時にこれは、相手を試す為にも使えると思った。
メフィストは知っているのか知らないのか解らないが、実はこの、高槻涼の中にいる黒いアリスの精神世界は、タイタスが設定した最後の試練であった。
最終的にメフィストは、タイタス同様この世界はつまらないと言ったが、この答えこそがタイタスの設定していた正解の解答である。
もしもこの世界に対して肯定的な様子を見せていたら、タイタスはこの世界からメフィストを弾いていた――無論、出来るかどうかは別としてだが――。
何から何まで、メフィストは、タイタス好みの男だった。……これがもし、互いに陣営を異にする陣営でなければ、三顧の礼を尽くして味方に迎え入れたものであるのだが。

「――その童について、協力を仰ぎたいが為に、私は今日此処にやって来た」

 来たな、とタイタスは構えた。メフィストが本題を切り出しにやってきた、と言う事が一瞬で伝わってくる。
他愛ない世間話の場が、権謀術数と腹の探り合いが交錯し、少しでも自分に有利な条件を引き出そうと言う駆け引きが表と裏とで行われる伏魔殿へと変貌した。
メフィストの方も、此処が本題だぞ、と言う事を隠しもしない。水晶がガラス球にしか見えぬ、美しい瞳の奥底で、鋭い光が煌めいていた。

「ロザリタ・チスネロス。私はその女性の行方を追っていたのだが、懸命な追跡の結果、王よ。彼女はこの場所にいるのではと私は睨んだ」

「卿が口にした名の女は、確かに余の庇護下にある」

 ロベルタを手に入れてからタイタスは、己の魔術で彼女の来歴を暴いていた。名前を彼が知っているのも、その為である。
そして、メフィストの言葉に対してタイタスがシラを切らなかったのには、訳がある。この事柄だけは、騙せないし隠せないと踏んだからだ。
この魔界医師は何処で、始祖帝がロベルタの身柄を手に入れたと知ったのか、と言う疑問は敢えて訊ねない。知っていてもおかしくない、と言う奇妙な確信と信頼が、タイタスの間に芽生えていたからだ。どちらにしても、此処で下手な嘘をつき、心証を損ねるのは悪手だとタイタスは考えている。だからこそ、彼は真実を開帳したのであった。

「彼女の身柄を、私に引き渡して貰いたい」

「卿よ。かの女に貴殿が其処まで心を掻き乱される所以とは、何か」

「酷い癇癪と、ヒステリーをお持ちのようでね。それを発散させてしまった為に、当院が大変な迷惑を蒙った」

 此処で姫が、メフィストの言うロザリタ・チスネロスが何者であるのか気付いた。
姫は、ジャバウォックの姿形こそ理解してはいるが、ジャバウォックの真の名と、あのバーサーカーを操るマスターの存在は全く知らなかった。
今の今まで、メフィストがタイタスの領地にやって来た理由を理解しなかったのには、此処に原因がある。

「……あの醜い鉄の怪物が、此処におるのか」

 冷気を、姫は放出し続けている。否、大気より遥かに冷たい物が放出する、白い色をした帯或いは霞状をした、真実本物の冷気ではない。
人は、この仮初の冷気をこう呼ぶのであろう。殺意、と。姫の殺意は、凍て付くように冷たい。それに当てられた人間は、
裸でブリザードの中に放り出されたように震え出し、その場から身動きが取れなくなる。人によってはそのまま、殺意の放射で全身の細胞が凍結して死んでしまう。
姫の繊手によって与えられる、とてつもなく恐ろしく、そして、美しい死。それに絶望した細胞が、主の脳や魂に反逆し、自殺を選ぶのである。
そんな殺意を、姫はタイタスに叩き付けている。鷹揚とした様子でそれを受け止めるタイタス。主君の危機に何時でも対応出来るよう、鎌を構えるアイビア。
だが、アイビアの手は酷く震えている。姫に対する恐れである事は言うまでもない。だが、こんな反応をアイビアが取れただけでも、まだ上出来であった。
彼女の配下である夜種など、蜘蛛の子散らして逃げ惑おうとするも、この世界が、タイタスの許可なく入る事も出る事も出来ない閉鎖空間であると、出口に類する物が何処にもない事を悟るや、ついに発狂を起こしてしまった。俺達は此処で終わりだ、と言う悲鳴が上がる。

「語る必要もなかったのでな、ミルドラよ」

「道理だな、姫よ」

「……成程。私にすら獲物の気配を悟らせぬ、高度な結界を張り巡らせておるか。斯様な真似、黄帝(ファンディ)の奴めにしか出来ぬと思っておったわ」

 殺意を霧散させ、姫は、ほう、と一息ついた。
吐く息にすら、桜色の香気と色気がつきそうな、扇情的な動作。人の女には真似したくても永劫出来ぬ、無限大の色気が其処にはあった
黄帝……それは中国の神話に輝く、三皇五帝の帝王・皇帝の内、最も偉大とされる王である。
彼の治世で、医薬、服装、住居、貨幣、測量、道徳、楽器、文字等の文化が興って栄え、彼の治世で中国を脅かす蛮族や悪鬼共の群れが平定されたと言う。
正に偉大な王である。姫すらが認める程に。姫が、その黄帝と同一視する、と言うのは、無上の評価であると言っても差支えがないのであった。

「卿よ。余は、卿程に聡明と言う言葉が相応しい者を相手に、小賢しい者共の生きる術たる権謀術数や腹芸など、無意味かつ時間の空費であると考えている」

「私も、王と同じ考えだが」

「余は、ロザリタなる女性が此処にいる事をしかと認めた。なれば、貴殿も認めるべきであろう」

 瞳から放たれる威圧の視線が、メフィストの麗しい貌を射抜いた。

「ロザリタ・チスネロスを狩りに来たと」

「強い言葉を用いれば、そう言う事になるな」

 あっさりと、メフィストは認める。要するに、ロベルタを殺しに来たのだ、と言う事を彼は明言した。

「卿には悪いが、あれは最早余の所有物だ。欲しいと言われても、所持者である余が認めぬ限りには――」

 タイタスが全てを言い切るよりも前に、メフィストは懐から皮袋を取り出し、それを竜骨のテーブルの上に置いた。
ズン、と微かに円卓が揺れる。相当重い物が、中に入っているようだ。皮袋の口を縛る麻の紐をほどき、メフィストはその中身を机の上に広げさせ――
カッと、タイタスは目を見開かせた。誰の目から見ても明らかな、驚きの反応。

「ただで譲れとは、私も言わん」

 竜骨の円卓の上では、様々な色の宝石が乱舞していた。
ルビー、サファイア、エメラルド。アクアマリンにトパーズ、オパール、メノウにヒスイにガーネット。
宝石の王たるダイアモンドから、有機物由来の珊瑚や真珠や鼈甲まである。どれもこれもが、宝石の輝きを最大限際立たせるカットが施されているばかりか、
ビワの果実のように大きいと来ている。オークションにこんな物が出品されようものなら、その値段は天井を突き抜け、空の天蓋にまで達し宇宙にまで到達する程の額になるだろう。

 テーブルの上に、宇宙の星々を縮小させ撒いてみたように、宝石はキラキラと輝いている。
誰もがその光景に人は目を奪われ、こっそり失敬、と言って黙って持って行く盗人ですら、この宝石の輝きの前には数分と忘我の境地に立たされるだろう。
だが、タイタスが真に驚愕しているのは、この宝石に内包された、圧倒的なまでの魔力量!!
ムスカやタイタスの努力とは、果たして何だったのか? そうと自問自答せずにはいられぬ程大量の魔力を、これらの宝石は有しているのだ!!

「敵に塩を送る、と言うのじゃろう。こう言う時は」

「敵と断定するには、まだ早いよ」

 姫の言葉を否定するメフィストであるが、それが本心からの言葉でないのは、タイタスも姫も理解している事であろう。
聖杯戦争に参加するサーヴァントが二人出会い、しかも、その二名ともが人理と歴史に名を刻む希代の魔術師であったのであれば。
行き着く先は、高い確率での反目なのである。それが解らぬメフィストでもあるまい。解った上で、メフィストよ。お前は、タイタスにそれを送ると言うのか?
全ての粒を使えば、宝具・廃都物語が完全に成就してなお、余りが残る程の魔力総量の宝石の数々を。お前は、譲ると言うのか? その選択が、聖杯戦争の全ての決着を今この瞬間に着けてしまう事を、知っているのか!?

「キャスターのサーヴァントに対し、魔力のプールがどれ程重要であるのかは、説明するべくもなかろう。ロザリタ・チスネロスの身柄とこれらの宝石は引き換えだ。悪い取引ではないと思っているが……いかがかね」

 否。悪い取引なものか。
寧ろ、破格と言う言葉ですらが生温い程、圧倒的にタイタスに有利な交換であった。
ロベルタ一人を諦めれば、即日の内に、思わぬ妨害で成就出来なかった、帝都アルケアを<新宿>の上空に結び出す事が出来るのだ。
それだけじゃない。前述の通り、この宝石の魔力量は、アルケアを浮上させてなお、御釣が来る程潤沢なのだ。
それも、大魔術や儀式魔術を一・二回行う程度、と言うケチな量じゃない。複数名のサーヴァントを召喚、それを維持出来るだけの量である。
これだけの魔力があるのなら、間違いなくタイタスは、今この瞬間に聖杯を獲得する事が出来る。今までムスカやタイタスが肺肝を砕いて来た努力、
それらが一瞬で過去の物となるのだ。それを考えたら、メフィストの提示したこのビジネスは、正に破格。最高の取引であった。

 メフィストの言葉に、裏はない。
本気で、ロベルタの身柄とこれらの宝石が対等だと思っている。それは、メフィストが物の価値が解らぬ程愚昧な者、と言う考えとイコールにならない。
それだけの対価を支払ってでも、ロベルタを殺したいと言う事の証明である。メフィストもまたキャスターであり、魔力が重要な要素である事は理解している筈。
そしてその魔力を、敵サーヴァントであるタイタスに送ってでも、メフィストはロベルタを葬り去りたいのだ。
敵が強くなっても、構わない。敵が聖杯を手にしたとて、知った事か。メフィストは、始祖帝が優勝すると言う結果を確固たるものにしてでも、
死に掛けのサーヴァントを御する死に掛けのマスターをこの手で葬ると言う結果を選んだのである。何たる、執念深さか!!

 タイタスは、初めてこのサーヴァントが、まともじゃないと本気で確信した。
姫の言った通りであった。この男がまともなのは、見た目だけである。いや、見た目がなまじ美しいからこそ、誤認する。
この男の価値観は根っこから、タイタスと相いれるそれではなかった。メフィストの本質は、徹底したエゴイスト。男性原理の結晶であった。
患者の治療と言う目的の為なら何でもする。そして、己の利害を害する者については、万策を尽くしてそれを滅ぼそうとする。
これらの目的の達成の為なら、恐らくメフィストは、己がどれ程不利になる条件でも呑むであろう。今回の件は正しく、メフィストのそんな歪みを象徴していた。
己の目的の為にメフィストは、タイタス以外の全てのサーヴァントを犠牲にする心算なのだ。その犠牲に、メフィスト自身も含まれている事を、彼は重々承知している。
これを、気狂いと呼ばずして何と呼ぼう。放っておいても死ぬのが定めのマスターを、自分の手で殺す為に。聖杯への到達や、<新宿>の命運をも擲とうとするこの男を。狂気の精霊の魅入られた男じゃないんだと、誰が否定出来ようか!!

「返答や如何に、王よ」

「否、である」

 タイタスは、メフィストの再度の問いに、即答した。
メフィストの表情は動かない。姫の方は、タイタスの解が心底から面白かったらしい。喜悦の表情を浮かべていた。

「余の本心を告げよう。貴殿の提示した宝石。余は、心の内が渇き、余裕と言う名の泉が枯れ果てる程に欲しい。ロザリタを手中に収めたまま、この宝石を手に入れる策はないかと、今も思案を巡らせている程にだ」

 そんな方法はないのだ、と言う事は、タイタスとて理解していた。

「宝石と、ロザリタ。そのどちらかを選べと、厳正と公平を司る大いなる天秤の皿にかけられれば、余は、ロザリタの方を選ぶ」

「王よ。彼女を選ぶ理由とは」

「一つ。あの女は余が美しいと認める、黒く燃え上がる闘争の性根と魂を持つ者であるから。その魂を包む焔と、貴殿の持つ宝石とでは、失礼だが、比べるべくもない」

「然りだ。如何に私の宝石であろうとも、魂と等価には流石にならん」

「もう一つ」

 これが肝要だ、と言う事を強調する、タイタスの語気の強さ。

「あの女は、余に助けを求めた」

「――ほう」

 メフィストの瞳に、好奇心の光が瞬く。

「ロザリタも、奴が従えるサーヴァントも、放っておけば消滅を免れぬ程の傷を負っていた」

 それは、メフィストとしても初耳であった。
サーヴァントの方、高槻涼が大ダメージを負って消滅寸前と言うのなら話は分かる。其処まであのバーサーカーを追い詰めたのが、他ならぬメフィストと姫だからだ。
だが、そのマスターの方まで死ぬ寸前であった、と言うのは、本当に初めて聞く事柄であった。あの時メフィストは、院内及びその敷地内に、
高槻のマスターの存在を感知出来なかった。あの場にはいなかったのだろう。考えられる可能性としては、ロザリタ・チスネロスは高槻と別個に行動していた。
そしてその折に、他の主従に叩かれたが、その主従はロベルタを殺し損ねてしまったのだろう。其処でロベルタはバーサーカーを令呪で無理やり召喚し、
高槻の力を借りてその場から逃走。その際に、タイタスに見つかってしまった。これが、事のあらすじになるのだろうかとメフィストは予想し――そしてそれは、何処までも正しい推論なのであった。

「息も絶え絶えの状態で、彼奴は言った。余に、『救って欲しい』と」

 これは、嘘だった。
タイタスはロベルタや高槻など意思などお構いなく、二名を己の庇護下に於き、自身の都合の良い手駒にしようとしていた。
二人を消滅から救おうとしていると言うのは事実だ。だが其処に、二人の意思も自我もない。タイタスの恣意と独善によって、二名は生かされようとしているのだった。
その事実を、メフィストは理解しているのか否か。黙って、タイタスの瞳を見据えながら、彼の言葉に聞き入るのみ。

「卿よ。余は、貴殿の不興を買うような不穏な因子を、何時までも我が領地に留め置きたくない。ロザリタ・チスネロスが卿と斯様な因縁にあるのなら、余はあの女を手放そう」

 「――但し」

「それは今ではない。余が、彼奴の治療を終えたのなら、余は自身の魂に誓って、ロザリタもそのサーヴァントも貴殿に返還しよう。それで、手を打ってくれまいか」

 そして、性質の悪い事には、この言葉は本心だった。
ロベルタの、彼女自身をも焼き尽くさん闘争の焔にタイタスが魅入られた、と言うのは紛れもない事実。
そしてそんな彼女を救ってやりたいと思ったのも、またタイタス自身の偽らざる意思なのだ。
道具としては利用する、だが、ロベルタを救い、彼女に魅力を感じたと言うのも、真実。
確かにメフィストの持つ宝石は欲しい。だが、目前の魔力に目が眩み、自信の観念と美意識に合致する『物』であるロベルタを手放す、と言う事は、
タイタス自身の矜持にも反するのである。始祖は、この瞬間、魔力と言う確かな利よりも、プライドと自尊心を取ったのである。愚かな決断であるとはタイタス自身も理解しているが、自身の根幹を、彼は偽れなかった。

「良いだろう」

 驚くべき事に、タイタスの条件をメフィストは呑んだ。
馬鹿な、と誰もが思うだろう。彼の魔界都市<新宿>の住民であれば、メフィストのこの決断を耳にすれば、自分自身が何を聞いたのか、信じる事すら出来はすまい。
メフィスト病院に仇名す者は、メフィストの手による絶対の死が待ち受ける。区民の常識である。だからこそメフィストは、腹の中に妖物を飼っていたり、
時速数百㎞の速度での恒常的な移動を可能とするサイボーグ手術を施していたり、マッコウクジラですら即死させる『拳銃』を平然と所持する住民が跋扈する、
あの<新宿>の街に於いて畏怖の神話として語られ続けてきたのである。そんなメフィストが、自らの病院に明白な害を成したロベルタを、今この瞬間は見逃すと言ったのだ。これが果たして、どれ程アンビリーバブルな選択なのか、タイタスは知らないのである。

 だがしかしこの選択は、メフィスト当人からすれば何処も矛盾はない物なのである。
メフィストの怒りの要点の一つに、自身あるいは彼の運営する病院が治療中の患者を横取りされるか、殺されると言う物がある。
これを犯して、メフィストの手から逃れた存在は、姫を除いて一人もいない。それ程までにメフィストは、自身の患者に害を成され、奪われる事を嫌う。
だがもしも、彼の怒りの要訣を抉った存在が、怪我人或いは病人となり、他の医者に治療されていると言うケースの場合、メフィストはどう出るのか?
答えは、単純。『治るまで待つ』のである。しかしこの出方には、何処も矛盾はないのだ。
簡単だ、メフィストが結局如何して怒るのかと言えば、病院に害を成され、患者を奪われ殺されたから、と言うのが大きいのである。
そんな彼が、下手人とは言え他の医者に治療されている最中であると言うのに、そんな事などお構いなしにその人物を殺せば、どうなるか。
勝手に一人で考えている事とやっている事に矛盾を起こしているのと同じではないか。
自分の患者を奪われるのは堪え難いが、『相手の患者を奪う事には何の躊躇いもない』。他人の医者の患者を殺すと言うのは、とどのつまりはそう言う事。
つまりは、信義則に違反しているのである。自分がやられるのは許さないが、自分がやるのは肯定される。それは、通らないだろうとメフィストは考えている。
プライドの高い医者であるからこそ、同じ医者の治療が終わるまで待つ。それは、魔界『医師』であるメフィストが己に課しているルールなのだ。

「だが、失礼な事をお伺いするが、王よ。貴殿に医術の心得はあるのか?」

「卿には及ばぬだろうが、多少の治癒術は心得ている」

 多少、どころではない。
タイタスのいた世界において、現存するあらゆる医術及び今日使われている殆どの回復の魔術は全て、このタイタス一世に端を発する。
即ち、元居た世界においてタイタスは全ての医術の産みの親と言っても過言ではないのだ。
神官の使う呪祓いや病祓いも、戦場において戦士の傷を癒す治癒の術も治癒力場の発生の魔術も彼が産みだし発展させた術である。
また、帝政を運営しながら、地上に咲き乱れる遍く薬草の薬効や毒草の効能を解析し、この世界で言う所の漢方を発展させたばかりか、
麻酔を利用した手術のメソッドをも最初に考案し、魔術を利用したレントゲン治療やCTスキャンの類似治療、果ては様々な医療器具をも生み出したのも、このタイタスであった。多少の治癒術、など過小評価も甚だしい。タイタスは片手間に、かつたった一人で、世界の医術を著しく発展させ、死に行く多くの命を救った文化英雄なのである。

「交渉は成立したな。だが、私は何処で、ロザリタ・チスネロスの身柄を受けとれば良い?」

「――『今日の、夜の八時』。20:00、と言った方が解りやすいか」

 提案するタイタス。

「約束しよう。その時刻に、貴殿らが『市ヶ谷駐屯地』と呼ばれる地にて、遅滞なく、治療をし終えたロザリタと、そのバーサーカーを引き渡すと」

「承った」

 メフィストは、タイタスの提案を呑んだ。
……嗚呼、何と不穏な取引か。誰もがきっと、疑問に思おう。何故、普通にタイタスは渡さぬのだと。
引き渡し場所を、タイタス自身が領地とするこのホテルでもなく、メフィスト病院でもなく。行政及び防衛の要となる施設、市ヶ谷駐屯地に。
何故、タイタスは設定したのかと。この場に於いて、そのタイタスの提案を指摘するような、常識と良識あるような者は、いないのだ!!

「姫よ。お前にとっては業腹だろうが、暫し耐えるが良い。そちらとて、死に掛けを殺すのはつまらなかろう」

「そうよな……。癪に障るが、貴様の助言、有り難く受け取っておこう。あの鉄の怪物を殺すのは、白面の王の治療が終えた時としよう」

 ジャバウォックの反物質砲に貫かれた左脇腹が、疼く。
姫に備わる埒外の回復力で、快方には向かっている。だが、完治しない。数億度の炎に焼かれようが、秒で復活する姫が、完治に難航する程の威力。
貫かれた痕を埋めるように、姫の白い柔肉が隙間にパテの如く補填されては来ているが、やはりこの状態を、回復したとは言い難い。
残り数時間程の時間を、完治に有するであろう。それだけの傷を、この自分に負わせるとは。つくづくも、腹ただしいサーヴァント。
だが、そんなサーヴァントを、何の反応も下手すれば寄越さぬ状態で殺しても、姫の溜飲は下がらない。殺すなら、反応を如実に示してくれる状態で、殺したいのだ。
その瞬間が来るまでなら、姫も待つ。姫の時間のスケールからすれば、数時間程度の時間など、瞬きも同然の一瞬であるのだから。

「私が、貴方の下を訪れた目的はこれで終わってしまったな。少々早いが、この場で私も失礼しよう」

「暫し、待つが良い。魔界医師。白を魅入らせ、白を従える、美界の君主よ」

 席から立ち上がろうとするメフィストを、タイタスは制止する。言葉を受け、メフィストは座ったままの姿勢を維持。
心なしか、世界がほっと安堵したようなようであった。そう、まるで。まだこの空間に、この美しい人がもう少しだけいてくれる事を喜んでいるかのように。
大気が、空が、山が、大地が、草木が、花が。そして、其処に宿る精霊と妖精が。タイタスの判断と、メフィストの寛容さを、祝福しているかのようであった。

「余の悪い癖でな。相手が魔術に堪能だと知っていると、ついつい、ある遊びを提案したくなる。それに少しだけ、つきあってはくれまいか」

「喜んで」

「すまぬな。この退屈な穴倉では、無聊を慰める術を探すのにも難儀する。愚妻では、余の遊びには全く不敵でな。仕事も遊びも二流では、つくづく面白くない」

「仕事も遊びもこなす事を望む伴侶に、女を選ぶからだよ」

 一瞬だけメフィストの言葉の意味の理解が、タイタスもアイビアも遅れたが、この男がそう言う趣向の持ち主だと理解したのは、タイタスの方が速かった。
女を使った色仕掛けや誘惑など無意味か、と機械的に判断したタイタスは、直にその『遊び』の準備を始める。

「術比べか。ふん、何処の世界の魔術師も変わらぬの」

 姫は、これから二人が何をするのかを理解していた。
これは古の昔から、それこそ人類が王政或いは帝政、それに類するシステムの下多数の人間を支配していた時代から行われていた風習。
国王或いはそれが召し抱える魔術師と、遠方からやって来た他国の使者や使節が抱える腕利きの魔術師の、術比べであった。
この風習は、王族達の娯楽としての側面を有しているのと同時に、自国と他国の力関係を当国一流の魔術師の力量で図ると言う意味をも持つ、極めて重要な側面もあった。

 姫は知っている。
歴史書は巧妙にひた隠すが、数千年もの時を生きる姫は、歴史に記されぬこの秘密の儀式。歴史の裏で綺羅星の様に輝いていた、一瞬の出来事を数多く見て来た。
紀元前十三年頃の、エジプトは第十九王朝の偉大なりし王、ラムセス二世ことオジマンディアスは、出エジプトの主人公であるモーセと術比べを行ったのを知っている。
己が魔術を用いて、エジプトの砂漠に直径百㎞以上の小型太陽を創造したオジマンディアスに対し、モーセは異界の海を招聘し、太陽を鎮火させた。
この勝負においてモーセは見事、エジプトから同胞である奴隷を解放させると言う約束を勝ち取ったのだが、負けたのが余程悔しかったのか。
奴隷は解放させてやるからもう一度勝負をしてくれとせがむオジマンディアスに、付き合ってられぬとモーセと奴隷達は逃走。
それをオジマンディアスは軍を率いて追い立てるが、モーセは紅海を割り、迫るファラオの軍勢から見事逃れた。この世の誰もが信じられぬが、旧約聖書において燦然と輝くこのエピソード、俗に出エジプトと呼ばれるこの物語の真実は、これであった。

 また、同じく旧約聖書に語られる、シバの女王とソロモンの逸話の真実も姫は知っている。
と言うより、そのシバの女王と姫は、同一の存在であった。使節団と言うの名の、己の吸血鬼の配下を率いて、ソロモン統治下のエルサレムにやって来た姫は、
その王国を乗っ取り我が物にし、ソロモンを腑抜けにしてエルサレムをこの世の地獄に変貌させんと画策していた。
しかし、流石に彼の賢王だった。シバの女王を名乗る姫の正体に気付いた彼は、術比べで負けた方は潔く、宝を置いてこの国を去ると言う条件を提示。
それを呑んだ姫は、彼と互いの術を比べ合った。聖書に語られる、壮麗さたるやこの世に比類ないソロモンの王宮は姫の術一つで、
この世のありとあらゆる不浄かつ醜怪な怪物や食屍鬼、悪霊に妖怪が蔓延る万魔殿と化し、大臣に近衛兵、侍女にハレムの美女達を忽ち狂乱に陥れた。
これをソロモンは、術を口にし天に祈ると、国中に立ち込める血色の暗雲を切り裂いて、巨大な光の柱が国中に降り注いだのだ。
全ての悪しき魔物達は、その光で灰すらも残らず消え失せたばかりか、存在の在り方を改竄され、地に咲く香草と花々に変換されてしまった。
一方人間の方は全くの無傷。肌にも服にも、傷一つない状態。そしてそれは、姫にしても同じ。ソロモンの実力を認め、この男とは争っても無為と知った彼女は、
潔く船に乗ってエルサレムの国を去った。これが、聖書に語られる、シバの女王とソロモン王の謁見のエピソードの真実。
シバの女王とは何処の国の女王で、そして、これだけの大悪事を行ったにも拘らず、女王の誹謗も中傷もない理由は、単純明快。歴史を記す書記官が、死の間際まで、姫の恐るべき美貌に魅入られ、彼女についての否定的な文章が書けなかったからであった。

 古代と違って、魔術師の生息域が著しく制限されたこの現代で。
今再び、古の大魔術師達が繰り広げた、術比べと言う輝かしく、そして煌めく様な一時が行われようとしていた。
況して当代でそれを行う魔術師が、美を司る女神であるヴィーナスですら嫉妬を禁じ得ぬ美貌を誇る魔界医師・メフィスト。
そして、現代に蘇った魔術の祖にして神の叡智をその手で盗んだ、人類の中から生まれた白子のプロメテウス、タイタス一世だ。
どちらも時代ばかりか、生まれた世界すら異なる大魔術師。その祈りだけで、世界をも動かさんばかりの力を誇る者達。
それらが今、この世界で術を比べ合おうと言うのだ。これを聞き、誰が、胸を躍らせぬと言うのか。これだけの演目で、聴衆の数が百にも満たぬなど、最早一種の罪であった。

「先手は王に譲ろう」

「痛み入るぞ、魔界医師よ。それでは、その言葉に甘えるとしよう」

 言ってタイタスがそう言った瞬間、アイビアから、五感の全てが失われた。
「始祖!?」と叫ぶや、地面に彼女は不様に倒れ伏す。視覚や聴覚ばかりか、地面に足を付けていると言う触覚すら奪われた彼女は、
自分が直立していると言う実感すら得られず、そのまま倒れてしまったのである。このままでは最早、自力で起き上がる事すら彼女には出来はすまい。

 そんな事などお構いなしと言わんばかりにタイタスは、手元に寄せてあった、先程姫が美を叩き込んで塵に還した夜種が持ってきていたカップに指を通す。
白磁で出来たそのカップの中には、我々が言う所の紅茶――に似た茶が満たされていた。此処に来た時は湯気が立つ程の熱を持っていたが、
メフィストとタイタスの会話が長丁場であったせいで、すっかり冷めてしまっていた。それでもなお、タイタスにまで香って来るその芳しい香気には、嗅ぐ者に蕩けるように甘い菓子を食べたくなる欲求を喚起させる魔力が顕在だ。妖精の薄焼き菓子は、きっと良く合うであろう。

 タイタスは、カップを傾け、その紅茶の中身を竜骨の円卓の上に注いだ。
如雨露のように、カップから琥珀色の液体が零れて行く。正味一〇〇デシリットル程の紅茶を、カップは吐き出し終えた――筈だった。
紅茶はまだ零れ続ける。――否!! カップが吐き出しているのは紅茶に非ず。それは、透明な液体であった。
一見して水に見えるそれは、一秒が経過する毎に、カップから吐き出し続ける勢いと量が指数関数的に強くなって行く。
テーブルに零した紅茶は一瞬で洗い流され、メフィストが先程散らばらせた宝石も、カップから迸る水の奔流で、何処ぞへと消えて行く。
透明な水が零れてから数秒後、比喩抜きで、カップからは水が、瀑布の如き勢いで流れ続けている。
そしてその水に、アイビアが従えていた、姫の殺意に恐れて発狂していた夜種の全てを呑み込んだ。所々で上がる悲鳴。ぎゃあぎゃあと、不愉快な声が響き続ける。
タイタスが傾けるカップから、水が流れ続けて三十秒後程経過した。恐るべき風景だった。高槻涼の中に眠る、とある少女の心象風景を元にした、この閉鎖空間。
その殆どを、タイタスのカップから迸る水が満たしていた。水は直に、メフィスト、タイタス、姫の三名が茶会を楽しむ丘まで侵食。
そして遂に――三名を呑み込んだ。三名の頭の高さにまで水が侵食する。この世界の全てを、水が包み込む。
アメリカネムノキの梢まで水の高さは達し、その数秒後には、遂にこの世界を満たす水の高さは高度数千mのそれにまで達した。

 そんな、この世の終わり、聖書に語られる所のノアの洪水のエピソード宛らの光景にあって、タイタスも、メフィストも、そして姫も全く動じない。
目を見開いたまま、メフィストも姫も、タイタスを眺め続けている。三人の髪が、水中にあって広がりもしないのは、如何なる魔術があっての事なのか。
退屈そうに、姫が欠伸をする。口内に水が入ってくる。真水ではない。海水だった。タイタスは、カップから海水を放出していたのだ。
周囲を一瞥するメフィスト。タイタスが放ち続ける海水で、この世界で平和を謳歌していた様々な野生生物が溺死し、苦しみ抜いた後に死んだ事が窺える姿で、
ゆっくりと、何処にあるのかとも知れぬ水面に向かって浮かぼうとしているのを認めた。夜種に至っては、元が汚泥や塵の集まりだ。すっかり水に溶け、跡形もなく消え去っていた。

 ――私の番だな――

 メフィストが呟く。水中なので言葉も発せない。故に、タイタスにも姫にも、メフィストの言葉など届かぬ筈だった。
しかし、二名は確かに、この医師の言葉を理解していた。それは、二人が読唇術を理解していたからなのか、それとも、水の中にあってもこの美魔の言葉は問題なく届くからなのか。それは、この場に於いてまともに生き残っている三名と言う当事者でなければ、解らないのであった。

 肯じたタイタスの姿を認めたメフィストは、懐から一本のメスを取り出し、それを空中に向かって弾いた。
果たして、メフィストの透き通るような白い肌に包まれた細指の何処に、そんな力があったのか。
音速の九倍の速度で急浮上して行ったそれは、現在の海面の高さである高度十㎞以上の高さまで、水面を貫いて浮上。
外気に触れた瞬間それは、激しく赤熱し始めた。秘めたる温度は、摂氏数百万度。海水など一溜りもなく、水蒸気爆発を引き起こさせ、大量の水蒸気となって行く。
温度が更に強くなる、メスが内包する温度は今や摂氏二千と五六七万度にまで達し、海面がせり上がる速度よりも、海を蒸発させて行く速度の方が勝る。
一分と半秒程の後、世界に満ちていた海水が遂に、完全に蒸発。後は、地上に染み込んだ海水をも余さず蒸発させるだけだった。
周囲に満ちる、大量の白靄は全て水蒸気。三人の身体に堆積する大量の白い粉は、タイタスが呼び寄せた海水が蒸発した事による塩分だった。

 ――これだけに終わらなかった。メスは凄まじい勢いで地上へと急降下して行く。
それは即ち、摂氏数千万度の熱源が、大地に迫るのと同義。ある高度に達した瞬間、水分を全て失い尽くした地上の全ての物が、灼熱と化した
大地に生える草木が、山脈の木々が、橙色の炎の海と変貌する。勿論それは、アメリカクスノキの大樹にしても同様。
更にメスが迫る。竜骨の円卓が、融解を始め、ガス蒸発を始めた。それにすら、タイタスもメフィストも、姫も動じない。
寧ろ姫に至っては、『まだ終わらぬのか』とでも言うような表情を隠してすらいなかった。
やがてメスが、地面に突き刺さった。異世界の大地全体が、一秒でマグマ化したばかりか、岩石蒸気となって空中を漂い始める。
メフィストらが鎮座する丘まで蒸発するのに、一秒も要らなかった。丘が完全に蒸発し消えてなくなるが……果たしてこれは、如何なる夢魔の光景か。
三人は、落ちない。丘が今まで存在し、三人が茶会を開いていた高さをそのままに、三人は、座ったままの姿勢を維持したままであった。客観的に見れば三人は、空に浮かんで空気椅子をしているようにしか見えなかった。

 フッ、とタイタスが右手で仰ぐような動作を行う。
その瞬間、凄まじいまでの突風が、世界を薙いだ。風速は、時速数百億㎞。
忽ち三名は、その風に流されるがまま、数秒で、大気圏外にまで放り出された。いやそれ以前に、これだけの風に叩き付けられて、何故この者達は、五体無事なのか。
普通であれば、身体が粉々所か、ナノレベルよりも細かい粒子となって、即死していると言うのに。
暗黒の大海に放り出された三名は、なおも座ったままの姿勢を維持したまま。此処は確かに宇宙だった。
燃え盛る橙色の星となった、岩石の塊。嘗て母なる星と呼ばれていた地球の惨状は、遠く離れて宇宙から見れば酷く破滅的な美に彩られていた。
そして、その風景を眺める地球の伴侶たる月は。隣の惑星である、金星と火星は。星辰の王たる太陽の如き有様となった地球を見て、何を思うのか?

 虚黒の海に放り出された三人。その内のメフィストが、取り出したメスを横に一閃させる。
刹那、空間に裂け目が生じ出し、それが、秒速数十億光年の速度で無限長の宇宙の端から端にまで延長して行った。
宇宙の端から端まで到達した切れ目が、音もなく開いて行き、其処から、白色の奔流と、宇宙の根源的破滅エネルギーを放出し始めた。
光に数億倍する速度で、破滅の力が流れ出す。嘗て地球が内包されていた太陽系のみならず、それすらも含有させていた銀河系が、
白い波濤に呑み込まれ、そこに存在していた全ての星々を砕いて塵にしながら消滅して行き、ものの数秒で更に隣の銀河を併呑し、破壊して行きそして――

「下らん」

 姫のその一言がピシャリと響いた瞬間――夢が、醒めた。
全てが、元通りになっていた。果たしてあれは、一口齧った妖精の薄焼き菓子を食べたいと言う願望が見せた、一抹の夢幻であったのだろうか。
メフィストのメスによってマグマ化させられていた地表も全て無事。地面に萌える草や花、生命の力強さの何たるかを示す木々の数々。
地球と言う惑星の雄大な時の重みを示す山脈も、全ては元のまま。「悪い夢を見ていたのは、お前達の方だよ」。世界の全てが、そうと諭しているかのようだった。
身体の何処も、海水で濡れていない。竜骨のテーブルもその上に散らばる宝石も、元のまま。勿論、三人の周囲には、宇宙の暗黒など広がってすらいない。

 ――決定的な違いと言えば、この世界の偽りの平和を謳歌していた様々な生物及び、アイビアを除いた全ての夜種が、この地上から消滅していた、と言う事であろうが。

「いつまで茶番を続けるつもりじゃ、退屈過ぎて思わず眠り落ちてしまいそうだったぞ」

 苛立ちを隠しもしない姫。心底下らない物で時間を取られたと、本気で憤っている様であった。

 メフィストとタイタスが繰り広げていたのは、所謂幻術の出し合いであった。
インドに於いては、これらの技術はマーヤーと呼ばれ、ゴータマが現在の時代においては、このマーヤーで生計を立てていた幻術士は、西はインド、
東は春秋時代の中国に至るまで、珍しい存在ではなかった。彼らの使う幻術とは、人間の心に訴えかけて作用させるものだった。
幻術には一種の催眠状態に陥らせる効果のあるものも珍しくなく、掛けた術者の技量と掛けられた物の感受性次第では、実際に火を当てていないのに火傷を起こさせる、
と言った芸当も当然のように可能であった。しかし、無条件でこんな事が出来ると言う訳ではない。肝心なのは、術者の腕前もそうだが、真に肝要なのが、かける相手。
例えば、親に我が子を殺せと幻術を掛けたり、近衛兵に王を刺し殺せと言う幻術を掛けたとしても、これは通常成立しない。
何故ならば、幻術を掛けた事で予期出来る結果が極めて破滅的で、かつ、掛けられた当人からすればその幻術によって行う事が突拍子もない物だからだ。
結果、何が起こるかと言うと、掛けられた当人は幻術による命令と当人が有する自意識や良識・常識の間で苦しみ、遂には、幻術から覚醒してしまうのだ。
そう、幻術とは掛けられた当人の精神力と、有しているモラルや常識に極めて強く左右されてしまうのだ。それに、幻術は感受性がない相手には通用しない。
つまりは、心の総量が余りにも少なすぎる虫や寄生虫、ウィルスと言った存在を催眠に掛ける事は不可能であり、無機物に至ってはそもそも催眠に掛けられない。
高位の幻術士とは正に、どんな人間にも、どんな突拍子もない幻術を掛けられる者の事を指し示すのであり、史上それが出来た幻術士など、数える程しかいない。我国で言えば、多くの大名を一杯喰わせた、あの果心居士がそれに当たろうか。

 そして二人は正に、この高位の幻術士……いや。魔術の歴史にその名を残す、高名な幻術士でもあった。
二人がどんな幻術を引き起こさせたのかは、先程の通り。彼らは己の有する魔術の才能、そして幻術への理解で以って、
あのようなこの世の物とは思えぬ大破壊を繰り広げさせたのである。しかし、所詮は刹那の幻に過ぎぬ幻術であるのに、何故夜種も動物も消え失せたのか。
その答えはシンプル。幻術に巻き込まれた者は、それが一度『本当に己の身体に起っている事だ』と思い込んでしまったら、最後。
真実、今自分に叩き込まれている幻術と同じ様な結果がその身に舞い込んでしまうのである。動物らも夜種も、あの幻術を本物だと思い込んでしまったせいで死んだのだ。
メフィスト、タイタス、姫が全く無事である理由は、単純明快。最初から幻術だと看破し、自分の身体に何が起ころうとも、現実の世界では全く問題がない、
と強く心の内で思っていたからに他ならない。幻術への対策は、初めからこの光景や結果は幻だと思い込む事と言う簡単な物であるが、これが恐ろしく難しい。
何せ今回の幻術の仕掛け役は、メフィストとタイタスと言う、恐るべき魔術の冴えの持ち主である。
『この二名なら、こんな事が出来ても仕方がない』。『この二名なら、出来るだろう』。そう思わせるだけの凄味と実力が、二名には確かにある。
おまけに如何に幻の現象とは言え、水の感触や熱の感覚、風の当たりも二名は限りなく本物に近づけさせている。そんな現象に直面する内に、大半の者はこう思う。
もしかしてこの現象は夢ではなく、現実の……。そう思えば最後、待っているのは、重さ数兆を超えて数京tの大海水の奔流に、摂氏数千万度の超高熱、風速は時速数億㎞超の台風に、宇宙をも滅ぼす根源から流れ出る破滅エネルギーだ。幻術とは、掛ける相手によっては最強の魔術にもなるし、その反対。全く役にも立たない魔術にもなるのだ。今回、タイタスが仕掛けた幻術は、後者に終わってしまったと言う訳だ。

「素晴らしい幻術を御見せ頂いてしまったな、王よ」

「とんでもない。卿の見せた反撃の幻術……とても幻想的で、示唆に富む」

 全く本心から言っているとは思えぬ、社交辞令的な言葉のやり取り。
これが終わると同時に、アイビアの身体から、五感が取り戻される。「タイタス様!!」と言う叫びが上がる。一際煩い声だった。
何故、他の夜種や、動物達が死んで、アイビアが無事だったのか? それは、タイタスが彼女から五感を奪っていたからに他ならない。
幻術にそもそも掛からなくするには、無機物であるか、視覚や嗅覚、聴覚に触覚に味覚を封じていれば良い。
つまりは、何も感じなくさせれば良いのだ。あのまま行けばアイビアは、確実に幻術を本物と理解し死んでしまう。
それを懸念したタイタスは、彼女から五感を奪って無力化させていた、と言う訳だ。彼は、確かにこの魔将を救っていたのである。

「今の幻術が、余が勝負する手札。卿よ、貴殿は何を以って余に挑む」

「そう大それた術は使えん。所詮、患者を直す事しか出来ぬ男だよ。大した期待は、しないで欲しい」

 言ってメフィストは、その手に透明なメスをアポートさせる。
水晶で出来ているようなクリアーさのそれはしかし、握られている手が悪すぎた。これでは、全く余人に美しいと見られぬではないか。
手に握ってしまえば、どんな宝石の輝きをも褪せさせてしまう、メフィストの魔性の手。それによって握られたメスは果たして、喜んでいるのかどうか。
これを以てメフィストは、空間に切れ目を刻み、其処に、空いた左手を突き入れる。その状態のまま、一秒程。これで良いと言わんばかりに彼は手を引き抜き、一言。

「私からの魔術はこれで終わりだ。そうだな……三分後程に、効果は現れる。その間、此処で待っている時間も惜しい。今も、我が病院に新しい患者がやって来て、私が必要だと呻いていると思うと、気が気でならないからな」

「心得た。三分、余はこの場で待てば良いのだな」

「勿論。勝敗がどちらに上がるのかは、其処のサタンが、貴方の奥方様の判断に任せて構わん。それを以って、今回の術比べは終了としようではないか」

 最後の最後まで軽口を叩くの、と言うような顔の姫。

「相解った。白麗の卿よ、帰り道の案内は必要か」

「其方の手を煩わせるまでもない。一人で帰れる」

 その言葉を聞いて、本気か、と思ったのはアイビアだ。
タイタスの許可がなければ、永久に此処から出られぬばかりか、施された様々な罠、放流されている様々な夜種や怪物達に無惨に殺される、この恐るべき魔迷宮から、どのようにしてこの男は、退散すると言うのか?

「何から何まで、貴殿には迷惑を掛けてしまったな」

「気にする程の事ではない。今回は表敬訪問だ、多少の事は気にしない」

 皮袋に、竜骨の円卓の上の宝石をしまいながらそう口にするメフィスト。
その言葉の裏に、凄まじい意思が内包されていると気付けたのは、流石にタイタスと、姫だった。

「今後は、別の付き合い方をするかも知れない。その時は、また宜しく頼もう。タイタス一世……古帝国アルケアの始祖帝にして、彼の世界の遍く文化の発端となった男よ」

「お手柔らかに頼もうか。魔界医師」

「――ではな。この空間に、戻る事はないだろう」

 言ってメフィストは、メスを縦に一閃させる。
空間に生じた切れ目が、横に開いて行く。空間の先には、タイタスの領地にしている高級ホテルの、地下駐車場の風景が広がっているではないか。
其処にメフィストは歩いて行き、主がこの世界から消え失せるや、彼が作った切れ目は閉じて行き、ピッタリと癒着。
そして遂に、切れ目は透明さを増させて行き、この世界から消え失せて行く。麗しい魔と、恐ろしい王の、神話の一説の如き邂逅は、斯様な風にして終わったのだった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「おかえりなさいませ、ドクター」

 リムジンのドアを開け、帽子を被った細面の運転手が、外に出て深々と一礼した。角度は、三十度キッカリ。

「変わった様子はなかったか」

 メフィスト。

「全く以って何事もない、三十分で御座いました」

「結構だ。早速、病院に戻るとしよう。患者達が私を待っている」

「畏まりました」

 言って運転手は、己の指定席へと入って行き、ボタンを押して、後部席のドアを開ける。
其処にメフィストはスルリと入って行き、シートに深く腰を下ろし、一息吐く。

「鹿は、狩れましたかな?」

 リムジンのパワースイッチを押しながら、運転手は訊ねて来た。主が、狩り損ねる筈がないだろう、と言う絶大の信頼感が、声音にはあった。

「夜に持越しだ」

「!! ……それは、それは」

 それ以上は、運転手は聞かなかった。狩り損ねた事に驚いたが、もっと深い考えがあっての事だったのだろう、と思い直す事にしたのだ。
それに、後の自分の責務は、安全にメフィストを目的地に送り届けるだけ。これ以上の質問は野暮と言う物。

 音もなくリムジンが動き出す。革製のシートの下にエクトプラズムを充填させたシートから伝わる、至福の感覚も、揺れも何も一切ないリムジンの運転手の抜群の運転スキルが約束する至上の乗り心地も、今のメフィストの憂鬱さを吹き飛ばすには、到底至らない。

「覚悟を決めるのは、白子の王か。それとも……」

 「私か」。
その呟きは、狭い車内の中で、蚊の羽音のようにさくかに響いたのだった。
決戦の時間は、想像以上に残されてない事を、リムジンのカーラジオに取り付けられた電波時計から、メフィストは知ったのであった。






高田馬場、百人町方面/1日目 午後4:00分】

【キャスター(メフィスト)@魔界都市ブルースシリーズ】
[状態]健康、実体化、殺意(極大)
[装備]白いケープ
[道具]種々様々
[所持金]宝石や黄金を生み出せるので∞に等しい
[思考・状況]
基本行動方針:患者の治療
1.求めて来た患者を治す
2.邪魔者には死を
3.高槻涼を治療し、その後に殺す
4.ロベルタを確実に殺す
5.姫を確実に殺す
[備考]
  • この世界でも、患者は治すと言う決意を表明しました。それについては、一切嘘偽りはありません
  • ランサー(ファウスト)と、そのマスターの不律については認識しているようです
  • ドリー・カドモンの作成を終え、現在ルイ・サイファーの存在情報を基にしたマガタマを制作しました
  • そのついでに、ルイ・サイファーの小指も作りました。
  • 人を昏睡させ、夢を以て何かを成そうとするキャスター(タイタス1世(影))が存在する事を認識しました
  • アーチャー(八意永琳)とそのマスターを臨時の専属医として雇いました
  • ジョナサン・ジョースター&アーチャー(ジョニィ・ジョースター)、北上&モデルマン(アレックス)の存在を認識しました
  • 番場真昼/真夜&バーサーカー(シャドウラビリス)の存在を認識しました
  • 浪蘭幻十の存在を確認しました
  • 浪蘭幻十のクラスについて確信に近い推察をしました
  • ライダー(大杉栄光)の存在を認知しました。
  • ライダー(大杉栄光)の記憶の問題を認知、治療しようとしました。後から再び治療するようになるかは、後続の書き手様にお任せします。
  • マスターであるルイ・サイファーが解き放った四体のサーヴァントについて認識しました
  • メフィスト病院が襲撃に会いました。が、何が起こったのかは、戦闘の余波はロビーだけで、院内の他の患者には何が起こったのか全く伝わっていません
  • ロベルタ&バーサーカー(高槻涼)の存在を認識、彼らの抹殺を誓いました
  • 上記の抹殺について、キャスター(タイタス1世から)、1日目の午後8時に、市ヶ谷駐屯地でロベルタとバーサーカー(高槻涼)の身柄を貰い受けると約束しました
  • 蒼のライダー(姫)の抹殺を誓いました




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 今でもタイタスは、あの魔界医師との逢瀬は、真夏の昼が見せた幻であったのではないかと考えずにはいられなかった。
あれだけ美しい男が、この世にいても良いのか? 神界に通じる魔力と魔術を有するタイタスではあるが、あれ程美しい存在は、天と神との世界にも見た事がない。
果たしてメフィストと言う男は、神の手から成る最高傑作なのか。それとも、神の意思をも超越する何らかの大いなる意思の気まぐれによりて生み出された、
この世全ての美の基準を嘲笑う悪魔なのではないのかとも、思っていた。どちらも正しく、どちらも間違っている。
酷く曖昧な結論を下さざるを得ない程に、メフィストの美は、謎めいていた。解る事は一つ。あの男との邂逅は確かに、タイタスの精神力と体力を削ったと言う事だ。

 タイタス自身は平然としていた様子だったが、実際には、あの美貌に射竦められると、鋼に鎧われたその心ですら、亀裂が入って行くのを彼は感じる。
内臓どころか、魂、前世すら見通していると言われても、お前ならしょうがないと納得してしまう程のあの目には、当惑を超えて、恐怖しか感じられない。
あんな存在が、自分と同じキャスタークラスで召喚されている。その事実に、総毛立つ戦慄を覚えてしまう。
あれと事を争う……その本当の意味を知らないタイタスは幸福だった。彼がもしも魔界都市の住民であったのなら……事を争う前に、区民なら皆、区外へと一目散に逃走する事を、選んでいたであろうから。

 もうすぐ、メフィストが口にした三分が経過しようとしている。
既にメフィストは、大仰な黒塗りのリムジンに乗ってホテルから出発しているのは確認済み。これ以上はタイタスも追跡しない。
するだけ無駄であろうと思っていたからだ。その判断を姫は、悪い物ではないと礼賛していた。
果たしてメフィストは、術比べに於いて何を仕掛けていたのか。それが非常に気になるタイタス。そして遂に、その運命の瞬間が、訪れた。

「……? 始祖よ、これは……?」

 アイビアが、疑問気な声を投げ掛ける。何が起こっているのか、解らないらしい。
だが、タイタスは何が起っているのかを瞬時に理解したらしい。見開かれた瞳が、その証拠。
姫は愉快そうな表情を上げ、ふわっ、と宙に浮かんだと見るや、纏う衣服ごと大気に溶けて行き、遂には完全な透明な姿となり、この世界から消え失せる。
タイタスは、自身とアイビアの間に隔たる空間を睨む。するとそこに、彼ら二人なら並んで通れる程の大きさの虫食い穴が空間に穿たれ、其処に

「入れ!!」

 とタイタスが一喝。すると、驚いた顔をしたアイビアが、反射的に穴の中に入って行き、遅れて始祖も、その中に駆け出す。
出た先は、ホテルの地下に作った墓所に、新しく作った広大なスペース。広さにして、三キロ平方mはあろうかと言うこの空間に、
タイタスはあの、高槻涼の中に住まうアリスが望んでいたアルカディアへと続く、異次元を創造していたのである。
異次元を創造と言っても、今現在タイタスがいる時空から見れば、何処にも、あのアルカディアへと続く入口は見つからない。
当然だ、然るべき手段がなければ、其処には干渉出来ない。何せ、異なる位相の空間に在るからこそ異次元なのである。三次元空間から其処に侵入するには、特別な才能と手順が必要、と言う訳だ。

 ――そう、其処には何もない、筈だったのだ。
アルカディアでも感じた揺れが、異次元を通じて、この墓所全体にも生じて行く。
立っていられない程の、震度五以上を想起させる直下型の地震。タイタスが、何もない空間を睨みつける事、二秒。変化が訪れた。
メフィストとの会合の為に誂えたこの広大なスペースの空間全体が、鶏卵の殻を剥くように、ボロボロと剥がれ落ちて行く。
その様はまるで、黒雲母の表面がポロポロと地面に落ちて行くようなそれに似ている。空間が剥がれた先には――地獄があった。
其処が、メフィストと姫が会話をしていたアルカディアであると理解したのは、一瞬。青空の風景をそのまま収めた、巨大な破片が地に落ちる。
それは、さっきタイタスが見た様な、空間の剥離のスケールを極大にした物だった。青空の破片の大きさは、優に数十~数百㎞にまで達している。
それが地面に衝突すると、大地には深い亀裂が生じて行き、地割れが巻き起こって行く。
山にぶつかった青空の破片は、腹に響く様な轟音と、空にまで達する程の朦々とした砂煙を立てさせる。
剥がれた青空の先には、其処に身体を投げ入れれば二度と元の所には戻って来れないと言う、絶対的な確証を抱かせる、光すら逃さぬ黒色の空間が広がっていた。
本当に、其処には何もない。眼球や人間の口、鼻が浮かび上がり、それらが笑いの声を上げ相を浮かべる、と言う不気味の風景を演出してくれた方が、まだ安心感がある。不安感しか、その黒の空には抱けない。

 そして、その黒が、閉じた世界を侵食する。黒い空が、タイタスの生んだ世界の果てまで伸びて行き、それ以上広がりようがないと思ったのか、
墨が壁を流れるが如く、黒が何もない世界の果てを伝って行き、遂に大地にまで到達。そしてその状態から物凄い速度で、嘗てタイタスらがメフィストと話をした、
あの小高い丘目掛けて収束する。山を呑み込む。黒いタール状の物が覆われたと思うのは、ほんの一瞬。直にストンと凹凸が消えてなくなり、大地と言う平面と一体化した。
黒が呑み込む。草木を、泉を、丘を、山々を。凄まじいとしか言いようがない速度で、世界の全てを黒が侵食して行き、そして最後に、あの丘を呑み込んだ時。真実世界の全てが黒に染まった。

「こ、これは……」

 震えた様子で、アイビアが訊ねて来る。
手元に一枚残していた、妖精の薄焼き菓子を、タイタスは、剥がれた空間の先に広がる黒い闇の中に放った。
その空間の中で、薄焼き菓子が、菓子としての形を保てたのは、ほんの二秒程。ある一定の深さ、いや、距離を進んだ瞬間、
それは蒼白い粒子となって分解され、跡形もなく消え去った。この空間に入ったが最後。タイタスであろうとも、その魂ごと先程のように分解され、消滅してしまうだろう。

 メフィストが去り際に行った、タイタスの術比べに対抗するべく行った技。
それは医者として彼が出来る、ごく当たり前の技術。『手術』。誰を、手術したのか?
答えは、誰に言っても信じて貰えまい。タイタスがメフィストとの話し合いの為に創造した、あの閉鎖空間であった。
メフィストが行ったのは、簡易的な自我を無機物に埋め込むと言うもの。心を持たぬ器物に、自意識を覚醒させると言う神業。
勿論これは、彼の魔界都市においても神憑り的な技術であった事は言うまでもないが、メフィストの行うそれは、更にその先を往く。
平時であれば、人の質問に対してYESかNOと答えられ、極々簡単な会話をこなせる程度の自我しか埋め込まないが、メフィストが行った技術は更に高度。
手術した無機物に、『美意識』を抱かせるそれをおこなったのだ。では、これを行って何故、空間が崩壊を始めたのか?

 それは、極めて簡単かつ合理的、そして――誰に言っても馬鹿げているとしか返答のしようがないもの。
生まれて初めて意識を持った空間が、最初に見た男があの『メフィスト』であった。それが、全ての始まりでもあり、終わりでもあった。
月の光を吸って生きる、夜にのみ咲く花。その花びらに浮かぶ雫を丹念に集めて作り上げた様な、美の結晶たる男を初めて空間が見た時、空間が『惚れた』のだ。
もっとこの男の姿を見ていたい。空間の抱いた純粋な思いに、誰が「馬鹿め」と口に出来ようか。メフィストの姿をこの目で一生眺め続けたいと思うのは、
魔界都市の住民であったのならば誰もが心に抱く、普遍的な感情であったからである。たかが空間の戯言、と誰も馬鹿に出来ない。

 ……だが、メフィストは去り際にこう言ったのだ。

 ――ではな。この空間に、戻る事はないだろう――

 そう、この一言は、何の考えもなくメフィストは口にした訳ではない。
もう、自分と言う空間には何があっても足を運ばない。そうと理解した瞬間、空間は、酷い絶望とショックを憶えた。
あのアルカディアを模した空間にとって、メフィストとは産みの親であり、初めて見た美しいもの。彼に産み出されたとなるや、その誇りたるや並ならぬ物だったろう。
そのメフィストに、捨てられた。そうと理解した瞬間――空間は、『自殺』を選んだ。二度と、あの男に会えぬのなら、自分が形を留め続ける意味など何もない。
そう逸った空間は、空に亀裂を生じさせ、空間の先に存在する、数学的に完全な『無』である事が証明されている虚無に、自身の存在を塗り潰させ、嘗て存在した、
と言う事実をそのまま消し去ろうとした。これこそが、メフィストがタイタス一世に見せた、王の幻術に対抗する手術。
魔界医師は、空間の自殺によって生じた虚無に、タイタスを呑み込ませ、本当に此方を殺そうとしたのである。

「……魔界医師、か」

 そうと呟き、タイタスは、一呼吸を置いた後、再び口を開いた。

「その字(あざな)、一切の偽りなし」

 身体が、震えた。
恐れからではない。肉の身体を持つ自分が、あの神の美貌を持つ悪魔に対して仕掛けられると言うその事実に対する武者震いであり――喜びでもあった。
そしてその様子を、この世の全ての悪をかき集めて女の形にした様な、骨が震える様な美貌の持ち主である姫が、笑って眺めている事に。
タイタスは、果たして気付いているのであろうか。






【高田馬場、百人町方面(百人町三丁目・高級ホテル地下・墓所)/1日目 午後4:00分】

【キャスター(タイタス一世(影))@Ruina -廃都の物語-】
[状態]健康
[装備]ルーンの剣
[道具]墓所に眠る宝の数々
[所持金]極めて多いが現貨への換金が難しい
[思考・状況]
基本行動方針:全ての並行世界に、タイタスという存在を刻む。
1.魔力を集め、アーガデウムを完成させる。(75%ほど収集が完了している)
2.肉体を破壊された時の為に、憑依する相手(憑巫)を用意しておく。(最有力候補はマスターであるムスカ)
3.人界の否定者(ジェナ・エンジェル)を敵視。最優先で殺害する。
4.メフィスト……魔界医師……恐るべし
[備考]
  • 新宿全域に夜種(作成した魔物)を放って人間を墓所に連れ去り、魂喰いをしています。
  • また夜種の他に、召喚術で呼び出した精霊も哨戒に当たらせており、何らかの情報を得ている可能性が高いです
  • 『我が呪わし我が血脈(カース・オブ・タイタス)』で召喚したタイタス十世を新宿に派遣していますが、令呪のバックアップと自力で実体化していたタイタス十世の特殊な例外によるものであり、アーガデウムが完成してキャスターが真の姿を取り戻すまでは他のタイタスを同じように運用する事は難しいようです
  • キャスター(ジェナ・エンジェル)が街に大量に作り出したチューナー(喰奴)たちの魂などが変質し、彼らが抱くアルケアへの想念も何らかの変化を起こした事で『廃都物語』による魔力回収の際に詳細不明の異常が発生し、魔力収集効率が落ちています
  • 現在作成している魔将は、ク・ルーム、アイビア、ナムリス(故)です
  • ロベルタ&バーサーカー(高槻涼)を支配下に置きました
  • 現在ロベルタの為の義肢を作っています
  • 葛葉ライドウ&セイバー(ダンテ)の存在を認知しました
  • キャスター(メフィスト)の存在を認知しました
  • キャスター(メフィスト)に、ロベルタ&バーサーカー(高槻涼)の身柄を、1日目の午後8時に引き渡す約束を交わしました


【ライダー(美姫)@魔界都市ブルース夜叉姫伝】
[状態]左脇腹の損傷(中。時間経過で回復)、実体化、せつらのマスターに対する激しい怒り、
[装備]全裸
[道具]
[所持金]不要
[思考・状況]
基本行動方針:せつらのマスター(アイギス)を殺す
1.アイギスを殺す、ふがいない様ならせつらも殺す
2.ついでに見かけ次第ジャバウォックを葬る(近くにいるのは解ってるけど先送り)。
3.セイバー(ダンテ)、アーチャー(バージル)バーサーカー(クリストファー・ヴァルぜライド)に強い関心。彼らを力づくで捩じ伏せたいと思っています
4.血を飲むなり紅湯に浸かるなりして傷を癒したい
[備考]
  • 宝具である船に乗り、<新宿>の何処かに消えました(現在タイタス1世(影)の拠点にいます)
  • 一ノ瀬志希&アーチャー(八意永琳)、不律&ランサー(ファウスト)の存在を認識しました
  • セイバー(ダンテ)、アーチャー(バージル)バーサーカー(クリストファー・ヴァルぜライド)を認識しました
  • 人間を悪魔化させる者がいる事を知りました
  • 高田馬場・百人町方面に向かって移動中です
  • アナスタシア・鷺沢文香・橘ありすの三人を妖眼で支配しました
  • 部下としてあるサーヴァントに目を付けました



時系列順


投下順



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46:It`s your dream or my dream or somebody`s dream キャスター(メフィスト) [[]]
46:It`s your dream or my dream or somebody`s dream キャスター(タイタス1世(影)) [[]]
54:お気に召すまま 蒼のライダー(美姫) [[]]

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最終更新:2021年03月31日 18:18