天蠍アンタレスの宝具、『英雄よ天に昇れ』。
それは地上に在るべきでない存在を、その外側へ放逐する粛清宝具。
彼女を召喚したのは蛇杖堂寂句だが、人選したのはこの惑星そのものだ。
神寂祓葉は、もはや、地上にあり続けるべき存在ではない。
ガイアの意思、抑止力の決定で以って、天の蠍は再び現世に遣わされた。
そしてその段階から、この結末は決まっていたのだ。
「愚かしいな蛇杖堂寂句。おまえともあろう者が、まさか彼女の根源すら見誤っているとは思わなかったぞ」
神寂祓葉は理の否定者である。
生まれつき、抑止力の介入を受け付けない。
抑止の邪魔を受けずに二度目の聖杯戦争を開き、やりたい放題ができている時点でそれは推察できて然るべき事柄だった。
あらゆる魔術師が一度は抱く"抑止力からの脱却"という夢物語を、祓葉は産声をあげた瞬間から達成していた。
止められない故に際限がない。裁かれない故に自然体のまま奇跡を起こす。
そんな怪物を放逐するために、蛇杖堂寂句は抑止力の尖兵を起用させられてしまった。
その上で彼自身も、これこそ祓葉天昇に必要な力であると信じてしまった。
惑星の失策、寂句の失策、天蠍の失策。三種の失策が折り重なって、彼らは最後の最後で最大の絶望を味わう羽目になったのだ。
「おまえは間違いなく、〈はじまり〉の屑星どもの中で最も危険視すべき器だった。
今となっては恥ずべきことだが、このボクもおまえには警戒を寄せていたよ。
しかしすべては杞憂だった。論外だ、おまえに比べればイリスやアギリの方が余程見どころがある」
オルフィレウスの嘲笑が、彼だけの天空工房で静かに響く。
されど反論の余地はない。
寂句の失態は明らかなもので、その戦いは今となっては道化以外の何物でもなかったから。
「抑止などという古き法が、最新の神たる祓葉に通じると思うな。
英雄は天に昇らず、神は永久に地上に在り続ける。
それが真理だ。それが新たなる法だ。弁えろ、端役どもが」
愚かなり蛇杖堂寂句。
愚かなり天の蠍。
神寂祓葉は誰にも止められない至高の星だ。
再認するまでもない絶対の答えを論拠として、深奥の獣が彼のお株を奪う傲慢な勝利宣言を謳う。
「――おまえこそ真の無能だ、ドクター・ジャック。先に地獄へ行き、無限時計楽土の完成を見るがいい」
その声は、誰にも届くことはない。
獣は針音都市にあって、常に隔絶されている。
彼が自ずから舞台に干渉しない限り、誰もオルフィレウスの真意を解し得ない。
そう、その筈だった。
だからこれはただの偶然、単なる噛み合いに過ぎない。
『感謝するぞオルフィレウス、星の開拓者になり損なった無能の極み。貴様のおかげで、我が本懐は遂げられた』
地を這う狂人の言葉が、奇しくも時を同じくして、天上の造物主を無能と嗤ったのは。
◇◇
振るわれた赤槍が、祓葉の左腕をもぎ取った。
光剣を握っている方の腕ですらなく、よってこれは確定した結末を遠ざける役目すら果たせない"空振り"だ。
祓葉を殺すどころか、その微笑を崩すこともできない。
なんたる無様。まだ静かに敗北を受け入れて消える方が英霊の沽券は保てただろう。
どうせ誰も祓葉には勝てないのだから、いかにして去り際に美を魅せるかを希求した方が余程いい。
そんな嘲笑が聞こえてきそうな光景だった。
そうして祓葉の光剣は、哀れな天蠍の首を刈り取らんとして……
「……、……あれ?」
その途中で、突如停止する。
疑問符を浮かべたのは祓葉だけでなく、アンタレスも同じだった。
悪あがきの自覚はあった。だからこそ、光剣が落ちてこず空中で止まった理由に見当がつかない。
「え? え? あれ、なんで……」
答え合わせは、他ならぬ祓葉の肉体が示している。
アンタレスの"悪あがき"で切り飛ばされた左腕。
そこが、数秒の時間を経てもまだ再生していないのだ。
いや、正確には再生自体はちゃんと行われている。
問題はその速度だ。
明らかに遅い。元のと比べれば、見る影もないと言っていいほど遅い。
「――まさか」
アンタレスは知らず、呟いていた。
思っていた形とは違う、しかしそうとしか考えられない。
「効いて、いる……?」
『英雄よ天に昇れ』は、神寂祓葉に効いている。
即時の天昇も、運命と偶然による間接的殺害も起こっていない。
が、だとしても明らかな異変が祓葉の玉体を揺るがしているのは確かだった。
祓葉は腹芸を不得手とする。そんな彼女が動揺し、狼狽にも似た反応を見せているのだ。
白き神は嘘を吐けない。純真無垢を地で行く彼女だからこそ、超絶の難易度を超えて刻まれた不測の事態を自らの顔で認めてしまう。
「ッ――!」
「っ、わ、わわわ……!」
次の瞬間、アンタレスは疲弊した身体に鞭打って攻撃へ転じていた。
それに対する祓葉の迎撃は、先程までに比べあからさまに鈍い。
元々の稚拙さが、動揺のせいでより酷い有様になっている。
天蠍ごときの攻勢に防戦一方な時点で動かぬ証拠だ。ガードをすり抜けた穂先が彼女の頬を裂いたが、その傷もやはり、瞬時には再生しなかった。
「ちょ、待っ……な、何!? 急に、こんな……!」
祓葉は、自分の体質を正確に自覚などしていない。
だがそれでも、何かありえない事態が自分を見舞っていることは理解できていた。
これまで不滅を前提として暴れてきた彼女だからこそ、そこに楔を打たれた動揺は凄まじい。
一転攻勢と呼ぶに相応しい潮目の変化を前に、暴君はひとり破顔する。
「――ク。クク、ククク……くは、ははは、はははははははははは……!!!」
九十年の人生の中で、かつて一度でも彼がこうも抱腹した日があったろうか。
寂句は笑っていたし、嗤っていた。
大義を遂げた者特有の凄まじい高揚感が彼にそうさせる。
「感謝するぞオルフィレウス、星の開拓者になり損なった無能の極み。貴様のおかげで、我が本懐は遂げられた」
神寂祓葉は理の否定者である。
生まれつき、抑止力の介入を受け付けない。
故に『英雄よ天に昇れ』では、どうあっても彼女を滅ぼすことは不可能だった。
オルフィレウスは、おまえはそんなことにすら気付いていなかったのかと嘲ったが――愚問である。
気付いていないわけがない。
彼は暴君、蛇杖堂寂句なのだ。
「最初から、祓葉に対し打ち込むつもりはなかった。
その心臓、不死の根源――"おまえ"が授けた永久機関を狙い撃つつもりだったのだ」
アンタレスが寂句に課されていた条件とはそれだ。
祓葉ではなく、彼女の心臓/永久機関に対して『英雄よ天に昇れ』を投与する。
祓葉は明らかに抑止力の支配下から解脱している。
なればこそ付け入る隙はそこしかないと考え、プランを練っていた。
「だが懸念はあった。それは覚明ゲンジとおまえ達の戦闘で現実のものとなった。
永久機関は祓葉と高度に融合しており、仮に時計だけを狙ったとして、そこに対しても祓葉の体質が適用されるのではないかという懸念だ。
正直、もしそうであったらお手上げだったよ。しかし覚明ゲンジが、その岩壁をこじ開けてくれた」
祓葉の体質、抑止力の否定が心臓たる永久機関にさえ及ぶのならばもはや打つ手はない。
実際そうであったわけだが、その袋小路を破壊したのは覚明ゲンジであった。
彼のサーヴァント、ホモ・ネアンデルターレンシスの宝具はあまねく科学を滅ぼし、且つ抑止力に依らない破滅のカタチを備えていたからだ。
「原人の宝具は、祓葉を滅ぼせるモノだった。
だからおまえは堪らず天の高みから介入を決断したわけだ。
獣の権能を以って原人どもの呪いを跳ね除け、祓葉を救った。いや、"救ってしまった"」
そうして、覚明ゲンジは敗れた。
だが彼を下すためにオルフィレウスが取った行動が、巡り巡って寂句を救う。
不可能と確定していた手術計画が、他でもない敵の親玉のおかげで可能に変わった。
なぜなら、人類悪たるオルフィレウスが手ずから介入してしまったから。
祓葉の内臓のひとつと化していた永久機関に、獣の権能という形で己の色を付け足してしまったから。
「神の心臓は、獣として成立する前のおまえが埋め込んだものだ。
そこに今のおまえの、その醜穢な獣臭が付け足された。
最後だから種を明かしてやろう。私の助手(ランサー)の宝具は、今あるこの世にそぐわない超越者を放逐する猛毒だ」
クク、と。
寂句は今一度、それでいてこれまでで最も深く笑った。
「――人類悪(ビースト)がこの世に在っていい瞬間など、後にも先にも現在にも、一秒たりとて存在しない」
人類悪の獣とは、ガイアにとっても無論のこと不倶戴天の敵である。
よって条件は達成。祓葉の体質がある以上本来の薬効とまではいかないが、それでもオルフィレウスの介入した部分に関しては毒を回せる。
そうして引き起こされたのが、この"機能不全"。
不死性の零落。再生の遅滞、そして恐らくはそれだけではない。
そのことは、アンタレスの猛攻を徹底的に防御している祓葉の姿勢が証明していた。
彼女は幼稚で稚拙だが、野性的な戦闘勘は水準以上のものを持ち合わせている。
分かるのだろう、己に死の概念が付与されたことを。
かつて手放したそれが、戻ってきてしまったことを。
再生が遅くなったのなら。
命が肉体を離れる前に巻き戻すことが不可能なのは道理。
つまり。
「喝采しろ覚明ゲンジ。噴飯しろオルフィレウス。我らの〈神殺し〉は此処に成った」
神寂祓葉は、今後"即死"を防げない。
それは絶対神の零落の証明として十分すぎる、最新最大の陥穽であった。
「はは、ははは、ははははははははは――――!!」
暴君は、誰にもできない偉業を成したのだ。
その狂気は畏怖。奥底に隠したのは未練。
清濁を併せ呑み、恥を晒すことを許した傲慢の罪人は遂に神を穢した。
響く哄笑は積年の鬱屈をすべて発散するが如し。
たとえ死に体であろうと、彼の悦びを止められる者はどこにもない。
「ああ、本当によくやってくれたよ蛇杖堂寂句。
俺としてもあんたが最強で異論はない。
だから歓喜のまま、ここで死んでくれ」
そんな老人の胸から、彼のものでも、神のものでもない腕が生えていた。
溢れ出す鮮血、零れ落ちる喀血。
祓葉の二の轍は踏まず、位置のずれた心臓を刺し貫いて。
――かつて寂句と並び最大の脅威の一角と称された、〈非情の数式(ノクト・サムスタンプ)〉がそこにいた。
◇◇
時刻は、神寂祓葉の零落と蛇杖堂寂句の死の少し前に遡る。
「夢幻の如く面妖に揺れ動きおって。貴様、よもやウートガルズの王が遣わした尖兵か。
あぁおぉ許せぬ、何故吾輩を解放せぬのだヴァルハラの愚神ヴェラチュール。
我が奔放を許さぬならば疾く死ね神話よ、帝国の威光を貴様らに見せてやる」
「……話長ェーよ、ボケ老人が……」
〈脱出王〉ハリー・フーディーニのサーヴァント、〈第五生〉のハリー・フーディーニ。
彼の出現は、ノクト・サムスタンプの計画を大いに狂わせた。
強すぎる。たかが手品師が示せる力量ではない。
まったく強そうには見えないし、実際やっているのはスラグ弾の射出という分かりやすい攻撃だけであるというのに、ノクトは焦燥させられている。
(クソ面倒臭ぇ。逃げの技術を殺しに転用するのはいいとして、このジジイそれを究極まで極め切ってやがる)
英霊ハリー・フーディーニは九生にて成る。
その中でも、戦闘能力にかけて第五生の右に出る者はいない。
理性を犠牲に、あらゆる殺人技術をスラグ弾の射撃で体現するリーサルウェポン。
スカディを相手に一時とはいえ互角を誇った通り、彼の力量は神話の領域に到達して余りある。
夜のノクト・サムスタンプは確かに怪物だが、それでも手に余る相手がこの痴呆英雄だった。
「ヘイヘイどしたのよノクト。まだ〈脱出王〉はぜんぜん健在だぜ?」
「黙ってろよおんぶに抱っこのオカマ野郎。血ィ吐きながら言われても説得力ねえぞ」
ソレに加えて、敵陣には〈脱出王〉、狂気に冒されたハリー・フーディーニもいるのだ。
あちらは満身創痍。それに比べれば未だノクトは無傷に等しい。
スラグ弾の銃撃のみでしか攻めてこない手数の少なさは、敏捷性に優れる夜の彼にとっては多少やりやすい。
(とはいえ、どうしたもんかね。
〈脱出王〉が半グレどもの戦場に直接介入できなくしただけで御の字として損切りするべきか、もう少し試行回数を増やしてみるべきか……)
〈脱出王〉は涼しい顔をしてはいるが、苦悶が隠せていない。
少なくとも当分の間、彼女が前線であれこれ飛び回るのは不可能と見ていいだろう。
できるならここで排除し、彼女の死を以って均衡を壊したかったが……保護者が来てしまった以上は深追いするだけ不利になる。
(どうも、厄介なヤマに首を突っ込んじまったみてえだな……失策だ。
悪国征蹂郎のライダーをどこかで掠め取る算段だったが、そっちも雲行きが怪しくなってきやがった)
赤い空は、ノクト達が戦うその頭上にも例外なく広がっていた。
これがレッドライダーによる影響なことは明らかだし、だとするなら赤騎士は既に制御不能に陥っている可能性が高い。
港区で祓葉と戦ったと聞いた時から懸念していた事態が現実のものになった。
狂わされた戦争の騎士は走狗の枠を超え、この世界の終末装置に化けてしまった。
(放射能の塊をぶん取ったって仕方ねえ。やれやれ、貧乏くじを引かされたと諦めるしかなさそうだな)
いっそ〈脱出王〉打倒に全霊を尽くし、煌星満天のキャスターに嫌味言われるのを承知でロミオを呼び戻すか?
ノクトは考える。
彼は策士であり、それ以前に職業傭兵だ。
少なくないリソースを費やして臨んだ以上、得るものなしで帰るのは絶対に御免だった。
落ち武者狩りで生存者の頭数を減らすのも悪くはないが、いささか物足りないのは否めない。
さて、どうするか。思索する鼓膜を、サイレンの音が叩いた。
かなりの音量だ。新宿を見舞う惨事の鎮圧に警察組織が動くのは当然だったが、夜に親しんだその聴覚は単なるサイレンの音色からさえも無数の情報を読み取れる。
ドップラー効果の影響を受け始めるまでの秒数がやたらと速い。
時速120kmを超える速度で走っていなければおかしい計算だ。
緊急事態とはいえ、公道を無数のパトカーがそんな速度で走るだろうか?
何かが起きている。
そこまで考えて、ノクトは喉に小骨がつっかえたような違和感を抱いた。
(――――妙に引っかかるな。俺は何か見落としてるか?)
警察までもが〈喚戦〉にあてられていると考えれば、まあ想定の範囲内を出ない話だ。
しかしノクトは理屈ではない、ある種本能的な違和感を感じていた。
「なあ、〈脱出王〉よ。これは煽りでも心理戦でもないただの疑問なんだが」
「ん。どうしたんだい、らしくもない。君が私に質問をぶつけるなんて」
「お前、なんか知ってるよな?」
〈脱出王〉は答えなかった。
なんのことだか、とばかりに両手をひらひらと掲げてみせる。
その反応を見て、ノクト・サムスタンプは確信する。
自分は何かを見落としている。気付かねばならない、知らねばならない何かを。
漏らすはため息。
次の瞬間、ノクトは地を蹴って大きく跳躍した。
ただし〈脱出王〉の方に向けてではない。
むしろ彼女に対し背中を向けて、虎は夜の彼方へと消えていく。
「あー、追わなくていいよ。どうせ追い付けないしね」
咄嗟にショットガンを掲げた第五生に、〈脱出王〉はそう言う。
「私がこのザマな時点で分かるだろうけど、夜のノクトは只者じゃないんだ。
正々堂々戦えばもちろん君が強いよ? けどバカみたいなスペックに嫌らしい悪意を織り交ぜてくるのが夜のあいつなわけ。
せっかく見逃してもらえたんだし、ここは大人しく行かせてあげようよ」
「……………………」
「それに」
実際に戦ったのは初めてだが、正直言って死を覚悟させられた。
たぶん内臓が潰れているので、開腹して縫合する必要があるだろう。
医術に優れているのは何生のハリーだったかと考えながら、〈脱出王〉は仇敵の去った方角を見据えにんまりと破顔した。
「どうもその方が面白そうだ。予想だにしない未知が見られるかもしれないよ、楽しみだねぇ」
「……未知……。それにその意味深長な物言い……。貴様、よもやヴァルハラの追手に取って代わられているのか? であれば度し難い。実に度し難いぞ第二生よ。フーディーニの魂の螺旋をあのような穢らわしい神族に売り渡すとは。説教をくれてやるから首を出せ。撃ち抜いてくれる」
「あーはいはい、おじいちゃんご飯はさっき食べたでしょ。
ていうかあの、そろそろ九生の私に戻ってくれない? それか医者の私を呼んでくれると嬉しいんだけど。
たぶんこれ肝臓かどっか潰れてるんよね、実はめちゃくちゃ死にそうなんだよ私」
無論――。
ノクトも、〈脱出王〉も、既に気付いている。
この新宿に自分達の神が顕れ、恐らくもう事を始めていると。
夜と同調しあらゆる力を底上げされているノクトならば、正確な位置を特定するのも難しくはないだろう。
さて、彼はそこに向かい、何をするつもりなのか?
考えただけで、〈脱出王〉は高揚が止まらなかった。
自分も案外、祓葉と似た者同士なのかもしれない。
そう思いながら糸が切れたように座り込み、だぼー……とバケツをひっくり返したみたいな量の血を吐く。
あまりスマートな幕切れとはいかなかったが、斯くしてハリー・フーディーニは虎の巣穴から脱出を果たせたのであった。
◇◇
「悪いな、爺さん。
正直俺は、あんたは勝手に自滅するもんだと思ってた。
真っ先に祓葉に挑んで、何も成すことなく光剣の露と消える。
だからそれまでせいぜい利用してやろうって腹であんたに接触し、協力関係を取り付けたんだわ」
ぐじゅり、ぐじゅりと、突き刺した腕を回して傷口を押し広げる。
手刀は心臓を一突きにしているので、その動きに合わせて穴の空いたそれがひしゃげた。
蛇杖堂寂句は超人である。急所を貫いたとしても、最後まで油断するべきではない。
「あんたの狂気は読みやすかった。
あんたは明らかに祓葉を畏れていて、だからこそ誰より先に事を起こすと分かってたよ。
怖ろしいものを怖ろしいままにしておけるタイプじゃない。むしろ手ずから排除しなきゃ気が済まない手合いだろ、あんたは」
――ノクト・サムスタンプは、蛇杖堂寂句の末路を彼に接触したあの瞬間から予見していた。
卓越した人心把握能力。暴君は並々ならぬ怪物であったが、サムスタンプの傭兵の慧眼はそれをも超える。
蛇杖堂寂句は、"死へのはばたき"だ。
狂気の実験が生んだ哀れな一匹の蛾だ。
光に向かうしかないのは〈はじまりの六人〉共通の原罪だが、彼の狂気は最も破滅的である。
誰より祓葉を畏れているからこそ、彼女に挑まずにはいられない矛盾。
そして神寂祓葉を倒せる人間など存在しないのは自明であり、よって寂句の死は最初から確定している。
その上で利用し、死にゆく老人から出る搾り汁を多少啜れば御の字。
それがノクトの魂胆だったわけだが、実際起こった事態は彼の予想を遥かに超えていた。
結局のところノクト・サムスタンプすらも、蛇杖堂寂句という男の本気を見誤っていたのだ。
「だからこそ、腰が抜けるほど驚いたよ。
こんな真似しといてなんだが、同じ戦場で戦ったひとりとして心から敬意を示したい。
あんたは最高の男だ、蛇杖堂寂句。暴君の傲慢は宇宙(ソラ)に届き、俺達の神を引きずり下ろした」
彼を知る者は言動の一切を信用するなと口酸っぱく言うが、それでも今口にした科白は本心だった。
確かにノクトは冷血漢だが、決して無感の機械ではない。
神に挑み、地上に引きずり下ろした偉業は、卑劣な契約魔術師の心さえも揺るがした。
彼がやったことは、世界の常識を変える行いに他ならない。
不滅の神は打倒可能な存在となり、出来レースじみた遊戯に興じさせられていた演者達の全員に、神を超え戴冠するチャンスが生み出された。
今この瞬間を境とし、聖杯戦争のセオリーは大きく変化する。
祓葉は殺せる。滅ぼせる。箱庭の外に出られる可能性が、小数点以下の低確率だろうと確かに在る。
ゼロとイチの間を隔てる距離は無限。
蛇杖堂寂句は、その無限を切除したのだ。
――故にこそ、ノクト・サムスタンプが次に取るべき行動も自動的に決定された。
「けどなぁ。そうなると、あんたが生き延びる可能性が生まれちまうわけだ」
今の寂句は、神殺しに挑んだ代償として誰が見ても半死半生の有様を晒している。
だがこの老人に常人の基準は適用されない。
半身を焼き焦がされた程度なら、摩訶不思議な薬や備えを用いて復活してくる可能性は十分にある。
「それは困るんだよ。俺はあんたが敗けて死ぬのを前提に盤面を組んでたんだ。
神を落とした暴君が今後も好き勝手暴れ続けるとか、悪いが考えたくもねえ。
よって無粋は承知で、こうして確実に殺しに来たってわけさ」
己が狂気を乗り越えた寂句が仮に生き延びたなら、それはこれまでとは比にならない次元の脅威となる。
彼に抱いた敬意は事実だ。蛇杖堂寂句、その生き様は永遠に記憶に残るだろう。
されどそれはそれ、これはこれ。
神殺しの英雄には、築いた栄誉を胸に永眠して貰う。
罷り間違ってもその栄光を次に繋げさせなどしない。
確実に殺す。確実に潰す。
それにどんなに耳触りのいい言葉で取り繕っても、やはり心の奥に燃え盛るものはあるのだ。
「ありがとよ、ドクター・ジャック。よくぞ祓葉を堕としてくれた。
そしてふざけるなよ、ドクター・ジャック。よくも祓葉を汚してくれたな」
ふたつの感情をさらけ出すノクトの姿は、微塵の合理性もなく爛れていた。
彼もまた狂人。祓葉という太陽に灼かれ、狂おしく歪められた衛星のひとつ。
なればこそ、許せる筈がない。
たとえその偉業が自分を助ける希望になるとしても、彼らは皆、自分以外の狂人が星を汚した事実を許せない。
そういう意味でも、ノクトがこの行動を取るのは必定だった。
蛇杖堂寂句は狂気の超克を遂げた瞬間から、〈はじまりの六人〉共通の不倶戴天の敵に成り果てた。
いわばノクト・サムスタンプはこの場にいない彼ら彼女らの代弁者でもあるのだ。
「なんて言っても、もう聞こえてねえか」
寂句は、もう完全に沈黙していた。
神殺しの英雄は、背後からの凶手に倒れるというあっけない末路を辿った。
無情ではあるが、結末としては妥当なところだろう。
何故ならこの舞台の主役は祓葉。不滅が翳っても、その大前提は依然まったく変わっていない。
むしろ、そういう意味では"厄介なことをしてくれた"と言えなくもなかった。
祓葉は確かに不滅を失った。再生は全盛期に比べれば見るに堪えないほど遅くなり、頭部も心臓も"急所"に堕ちた。
絶対不変の主役に終わりの概念が付与されてしまった。
それが何を意味するのか、どういう事態を招くのか、ノクト・サムスタンプだけが理解している。
頭が痛いし胃も痛い。
起こってしまったルールの激動には、彼女を深く知る者にしか分からない地雷が混ざっている。
知らずに踏み抜いてしまったが最期、足どころか全身跡形もなく消し飛ぶ核爆弾だ。
故にノクトは狂気云々を度外視しても憂いを抱きつつ、屠った老人の骸から腕を引き抜こうとして――
「…………あ?」
抜けない。
そう気付いた刹那、彼の全身が総毛立った。
「ッ――まさか、てめえ……!?」
思わず漏れた言葉には、不覚を悟ったが故の失意が滲んでいる。
その声を受けて、もう二度と響かない筈の声が応えた。
「功を焦ったな、ノクト・サムスタンプ。
つくづく今宵の私は運がいい。よもや最後の心残りが、自ら目の前に現れてくれるとは」
ノクトは、確かに寂句の心臓を貫いた。
寂句がいかに超人でも、祓葉でもないのだから心臓を破壊されて生き永らえられるわけがない。
勝利を確信して気を緩めてしまった彼は責められないだろう。
これは単に、蛇杖堂寂句の組んでいた想定が、策士のそれをすら上回ったその結果だ。
「実を言うとな、貴様に対しての備えではなかったのだ。
祓葉との戦いが至難を極めることは予測できたからな……我が身を裂いて秘策を仕込んでいた」
くつくつと笑う寂句に戦慄する時間も惜しい。
ノクトの背を、本能から来る焦燥が強く焦がしていた。
脳内で喧しく警鐘が鳴っている。
致命的なミスを自覚した時特有の肝が凍てつくあの感覚が、契約魔術師の脳髄を苛んでいる……!
「『偽りの霊薬(フェイク・エリクサー)』。そうか、貴様に明かしたことはなかったな」
蛇杖堂寂句が持つ、正真正銘真の切り札。
死以外のあらゆる病みを棄却する、アスクレピオスの劣化再演。
彼は此度の戦争に、一本だけそれを持ち込んでいたのだ。
だが祓葉との戦いでさえ使われることはなく、なおかつどこかに隠している素振りもなかった。
仮に忍ばせていたとしても、至近距離で祓葉の爆光を浴びた時点で容器が割れるか中身が蒸発するかしていた筈だ。
ならば何故、暴君は今ここで、虎の子の存在を明かしたのか。
「私が志半ばに死亡した時のために。そしてもう二度と、同じ過ちを繰り返さぬように。私はそれを自身の心臓に縫い付けていた」
『偽りの霊薬』は、常に寂句と一心同体だった。
彼は己の身体をメスにて開き、霊薬を収めた試験管を心臓に縫合していた。
「所詮は贋作だ。死をも覆すというアスクレピオスの真作には届くべくもない代物。
だが、心臓が停止し命が抜け落ちるまでのわずかな時間さえ逃さなければ蘇生は間に合う。
ならば最初から心臓そのものに縫い付けておき、魔術的な仕掛けで心停止および損壊に合わせて自動で薬液が撒き散らされるようにすればいい」
結論から言うと仕掛けは不要であった。
ノクトが心臓を貫いた瞬間、試験管は割れ、中の霊薬は寂句の心臓にすぐさま触れた。
「簡単なトリックだよ、ノクト・サムスタンプ。
興味本位の質問なのだが、今どんな気分なのだ?
得意の知恵比べでさえ無能を晒すようでは、貴様など何の価値もなかろうになぁ」
「蛇杖堂、寂句……ッ!」
瞬間、偽りの霊薬はただちに仕事を果たし始める。
破られた心臓は再生し、祓葉の剣に灼かれた身体も、彼女のお株を奪う勢いの速度で元のカタチを取り戻していく。
疲労はゼロに還り、寂句がこの時までに背負っていたすべての不調と異変が、神の奇跡に触れたみたいに治り続けて止まらない。
寂句の手が、自らの胸を貫いたノクトの腕を掴んだ。
その意味するところは、当然彼にも分かる。
刺青の刻まれた精悍な貌が、一気にぶわりと青褪めた。
「貴様にはずいぶん煮え湯を飲まされた。
今だから言うがな、私も私で、いつ寝首を掻こうかずっと思案していたのだ。
このめでたい時に私怨を晴らす機会まで与えてくれて感謝が尽きんよ。
ありがとう、ノクト・サムスタンプ。御礼にこの世で最も無様な死を贈ってやろう」
「ぐ、ォ――ッ、が、あああああああああッ……!!?」
呪詛の肉腫が寂句の掌を起点に増殖し、ノクトに腕が圧潰していく激痛を届ける。
漏れた絶叫は心からのそれだった。
だが、目先の激痛などこの先に待つ最悪の事態に比べれば些事だ。
(やべえ……ッ、このままじゃ、呑まれる……!)
寂句の扱う肉腫は、接触時間に応じてその版図を醜悪に拡大する代物だ。
であればこの状況はまさに最悪。全身を腫瘍に食われて肉達磨と化して死ぬとなれば、確かにそれは最も無様な死に様であろう。
判断を迷っている暇はなかった。
ノクトは自由の利く左手を、肉腫に呑まれゆく右腕に向けて振り下ろす。
「づ――ッ、あ……! やって、くれるじゃねえか……! これだからッ、てめえは、嫌いなんだよ……!」
片腕が寸断され、どうにか暴君の侵食から抜け出すことに成功する。
しかし、勝ち誇った顔などできるわけがない。
夜に親しむ力がどれほど強力でも、失った身体部位を補うような働きはしてくれないのだ。
この序盤で片腕を"捨てさせられた"事実は言うまでもなく痛恨。
睨み付けるノクトの前で、遂に心臓の風穴をも修復して振り返る寂句。
トレードマークでもある灰色のコートは無残に焼け焦げていたが、逆に言えば陥穽と呼べる箇所はそれだけだ。
肌には傷ひとつなく、厳しい顔面に貼り付けた表情にも苦悶の名残さえ見て取れない。
万全な状態に復調し、回帰した蛇杖堂寂句が、暗殺を完遂するどころか癒えぬ欠損を負わされたノクトを笑覧していた。
「お互い、余白を抱えて戦うのは辛いなサムスタンプ。
同情するぞ、本心だ。かく言う私も"それ"にはずいぶん困らされた」
「――は。先輩風吹かすんじゃねえよ、老害が……!」
寂句の言う通り。
もしもノクト・サムスタンプに一切の陥穽がなかったのなら、こんなミスは冒さなかっただろう。
〈はじまり〉のノクトも、文字通りすべてを警戒していた。
その上で判断を一切乱すことなく、常に最善手のみを打ち続けたのが前回の彼だ。
だから寂句も手を焼いた。結果だけ見れば、ただの一度も寂句は彼を出し抜けなかった。
しかし今のノクトは違う。
彼もまた祓葉に殺され、精神をその輝きに灼かれている。
付与された狂気は生来の聡明を無視して、気まぐれに肥大化して理性を圧迫する。
寂句が祓葉を堕としたことへの激情。それが、狂わない筈の判断を誤らせた。
蛇杖堂寂句が策を布いている可能性を考慮せず、功を急いた行動に踏み切らせた。
片腕の欠損という痛恨の事態は、間違いなく狂気に背を押された結果のものだ。
「てめえは此処で殺す。名誉はくれてやるから、満足しながら地獄に堕ちろ」
「月並みだな、サムスタンプ。貴様ともあろう者が、出来もしないことを喚くとは……端的に失望を禁じ得んぞ」
かくして、神の失墜を経て尚狂人たちは殺し合う。
ノクト・サムスタンプ。〈渇望〉の狂人。
蛇杖堂寂句。〈畏怖〉を超え、狂気を超絶した暴君。
その激突が熾烈なものになるのは確実で、どちらが死ぬのも可笑しくない対戦カードなのは間違いなかったが……
(――とは言ったものの、此処までだな。どう考えても私に勝ち目はない)
暴君はごく冷静に、この激突の結末を見据えていた。
『偽りの霊薬』は、確かに彼が負ったすべての傷を癒やした。
ただし、その中には彼が未来を度外視して施したドーピングの効能も含まれている。
命をすり減らしやがて失わせるオーバードーズだったのだから当然だが、それを取り払われた寂句の戦力は数分前までとは比べるべくもない。
それでも常人基準であれば、十分すぎるほど強靭である。
しかし相手は"夜の"ノクト・サムスタンプ。最高峰の逃げ足を持つ〈脱出王〉をいいように圧倒し、やり方を選べばサーヴァント相手にすら応戦を可能とする正真正銘の魔人だ。
相手が悪すぎる。どう頑張っても、自分に勝ち目はない。寂句の算盤は一切の誤差なくその結末を導き出す。
(クク。つくづく難儀なものだ、結末が分かっているのに本能が敗北を良しとしない)
にも関わらず、寂句は目の前の凶手に勝ちを譲る気など欠片もなかった。
それどころか必ず殺す、踏み躙るのだと祓葉と相対した時に何ら劣らない闘志がとめどなく沸き起こってくる。
狂人を卒業しても尚、かつての同類へ抱く同族嫌悪の情は健在らしい。
難儀だ。面倒だ。死に際ですら殺し合いの中に在らねばならないとは。
だが――暴君は、嘆くということを知らない。
(さて、では戦いながら考えるとするか。
本懐を遂げ、死を目前にした私が、この先の世界に何を遺せるのかを)
死を前にしていようが、停滞(とま)ることなく考える。考え続ける。
それが彼だ。それが蛇杖堂寂句だ。
生きている限り、そこに彼の自我がある限り、蛇杖堂の暴君に停止はあり得ない。
混沌は既に最終局面。
だとしても尚、激動は止まらない。
◇◇
天蠍アンタレスは、蛇杖堂寂句の"最後の策"を念話で聞かされていた。
それはまさしく、ノクト・サムスタンプの腕が彼を貫くわずか前のことだった。
耳を疑ったし、事此処に至るまで知らせて貰えなかったことに不甲斐なさを感じもしたが呑み込んだ。
そんなことよりも大切な使命が、彼女を突き動かしていたからだ。
すなわち神の葬送。己が堕とした神を、今度こそこの地上から排除する尊い大義。
「神寂、祓葉ぁぁぁッ!」
「っ、く……!」
祓葉はやはり、自分に死の概念が戻ってきたことを自覚しているようだった。
その証拠に、これまで事もなげに受け止めてきた些細な攻撃にさえも光剣で迎撃してくる。
改めて実感する。目の前の現人神が、もはや不滅ではなくなったことを。
なのに天蠍の少女は未だ余裕のない顔で、攻め続けねばならないという強迫観念に突き動かされ続けていた。
(恐ろしい。何故、一撃も通らないのです)
明らかに動揺し、狼狽している祓葉が、しかしまったく殺せない。
これまでひたすらに稚拙だった太刀筋が、ここに来て一気に冴えを増している。
「はぁ、はぁ……!」
神寂祓葉の超越性を語る上で、不死も不滅もわずか一側面でしかないのだと思い知らされた。
祓葉はもう、不死が消えた現在に緩やかながら適応し始めている。
〈この世界の神〉を難攻不落たらしめていた絶対の不死性。
だがそれが抜けたとしても、彼女は依然圧倒的に舞台の主役である。
あれほど不死に頼って戦っていたにも関わらず、なくなった途端に祓葉は終わりのある器という設定に順応を開始した。
本来人間が数十年、ともすればその一生を費やして得る研鑽を無から生み出して、即興で駆使してくるのだ。
そのため、単純な彼我の優劣だけで見ると、先ほどよりもむしろ状況は悪化して見えていた。
けれど付け入る隙は、少なくとも今ならあった。
不敵に、無邪気に笑って戦っていた彼女が、今は息を切らしながらアンタレスの槍を捌いている。
おそらくこの聖杯戦争が始まって以来初めて見せる、動揺。
これが抜ける前に祓葉を屠れなければもはや未来はないと、アンタレスは本気でそう考えていた。
「――逃がしは、しません」
覚明ゲンジが道を作った。
蛇杖堂寂句がそれを切り開いた。
現代を生きるふたりの"人間"が、各々命を呈して〈神殺し〉に挑んだのだ。
そうして見えたこの光明を掴めずして、何がガイアの抑止力。
初めて抱く情熱が血潮に乗って全身を巡り、アンタレスに全力以上の全力を発揮させる。
機関銃の如く迸る刺突の雨で、祓葉の肉体を確実に抉っていく。
まだ致命打は与えられていないが、それでも時間の問題だろうと感じる。
脳の破壊。斬首。心臓破壊。道は三通りだ。何とかして、刺し違えてでもこの白神を即死させねばならない。
「それが当機構の遣わされた意義。
そして我がマスター・ジャックから託された使命」
百の刺突が九十九凌がれた。
それでも一発は再生した腕を再び落とし、立て続けに身をねじ込んで神の腹に膝を叩き込む。
「が、っ……!」
漏れる悲鳴の意味も、今やさっきまでとは変わっている。
潰れた内臓だって、瞬時に再生できないとなれば足を引く要因になるだろう。
勝てる。倒せる。その確信を前に、天の蠍は魔獣(ギルタブリル)の奮迅を実現させていた。
「ぐ、ぅあ……! ――――『界統べたる(クロノ)』、」
だが、手負いの獣が最も恐ろしい。
血を吐きながら後退した祓葉の剣が、再び極光を蓄えた。
最後の解放からもう十分な時間が経過している。
つまりこれから放たれるのは、今度こそ防ぐことなどできない全霊の神剣。
「『勝利の剣(カリバー)』――――ッ!」
大地が張り裂け、赤い夜空をも貫く光の柱が立ち上がった。
都市最高の火力のひとつが、このわずかな時間で幾度放たれたか。
隻腕での解放でありながら、驚くべきことに欠片ほども威力の減衰はなかった。
たとえ地に堕ちようとも主役は主役、神は神。
天の蠍何するものぞ、地母神(ガイア)の圧力などとうに克服している。
よって無用、速やかに太陽の熱で溶け落ちろ。
そう裁定する爆光が晴れるのを待たずして、しかし神の敵は血に塗れながら飛び出した。
「な……!」
「意義も使命も、何ひとつたりとも!
当機構は、譲るつもりはありません!」
蠍の足を用いた超高速移動と立体起動。
それらに加えて、祓葉をここで討つという限界を超えた意思の力。
すべてがアンタレスの背を押した。
必滅の神剣が撒き散らす破壊の中から標的に繋がる道筋を探り出し、遮二無二辿って好機を得る。
驚愕する祓葉に向け、〈雷光〉の如く疾走。
握り締めた骨が砕けるほど力を込め、赤槍を神へと放つ。
「――滅びの時です! 現人神・神寂祓葉!!」
祓葉が再び、光の剣を激しく感光させる。
連発であれば威力は落ちる。とはいえ、まともに受ければ今度こそ自分は死ぬだろう。
それでも足を止める理由にはならない。
赤の光条と化したアンタレスが、疾走の果てにとうとう零落した神の肉体を穿ち貫いた。
飛び散る飛沫。
頭の上から降り注ぐ、神の喀血。
が――天蠍の少女が浮かべたのは、己の無力を呪う表情(かお)だった。
「……か、は。惜しかった、ね。ランサー」
心臓を、貫けていない。
最後の一手で、外してしまった。
これまでの無茶で積み重なった疲労、ダメージ。
そのすべてが、よりによってこの瞬間に牙を剥いた。
それでも、胴をぶち抜けている時点で致命傷だ。
しかし相手は永久機関の最高適合者、〈この世界の神〉、神寂祓葉。
「ッ……まだです、まだ――が、ぁッ!?」
失意に手を止めるな。
一度で駄目だったなら二度、それでも駄目なら何度でも挑み続けろ。
そう自らを叱咤しつつ槍を抜き、後退するところで神の光剣が追いついた。
甲冑が裂かれ、胴体から血が飛沫をあげる。
霊核まで届いていないことは幸いだったが、この重要な局面で傷を負ってしまった事実はあまりに大きかった。
倒れ伏しそうなところを踏み止まれたのは奇跡。
が、そこが今度こそ本当に限界だった。
膝から力が抜け、かくんと落ちる。
胴に風穴を空けて見下ろす祓葉を討たねばならないのに、もう足がわずかほども動いてくれない。
「すごいよ。ゲンジも、ジャック先生も、あなたも……。私のために、本当に、ほんとうに頑張ってくれたんだね」
空の赤色を背景に佇む少女は、こんな状況だというのに魂が蒸発するほど美しく見える。
ありったけの尊さとありったけの悍ましさを煮詰めどろどろにして、少女の鋳型に流し込んだかのようだ。
これを指して神と表現することすら、きっと適当ではないのだろう。
まさしくこれは、星だ。何もかもが巨大で推し測れず、ありのまま輝くだけで生きとし生けるものすべてを灼いてしまう超巨大な惑星だ。
「忘れないよ。あなた達のことは、絶対忘れない」
「当機構は、まだ……!」
「ううん。もう終わりなんだよ、ランサー」
祓葉が、両の腕で光剣を振り上げる。
神々しく煌めくそれが、アンタレスには断頭台に見えた。
「こんな、ところで……」
実際、間違った形容ではないだろう。
神は不遜な小虫の叛逆を赦し、最高の栄誉を与えて審判を下す。
蠍の戦いは神話として永久に記録され、幾千年の未来にまで語り継がれるのだ。
「こんな、ところで、終わったら」
――ふざけるな。敗北は敗北だろう、そのどこが名誉なのだ。
抑止の機構は、予期せぬ不具合に視界を曇らされる。
眼窩部の奥から体液が滲出していた。
機構(システム)の少女にはあるまじき誤作動の副産物なのか、思考回路に泥のような悪感情が広がっていく。
悔しい。感情のままに、アンタレスは握った拳で地を叩いた。
「あの人達の戦いは、一体、なんだったというのですか……!!」
滂沱と流れる涙と、込み上げる激情で鉄面皮を崩壊させながら、少女は全身で敗北を噛み締める。
(――勝手に人の物語を終わらせるな。早合点は貴様の悪癖だと何度も言ったろうが)
(っ……?!)
その時。
不意に脳裏に響く、慣れ親しんだ声があった。
(ま、マスター・ジャック……!? どうか戦いを放りお逃げください。当機構は、その……)
(失敗した、だろう? フン、言われずとも分かっている。
我々は錠前を壊しただけだ。不滅を剥ぎ取った程度で、あの小娘が簡単に斃れるものかよ)
ノクト・サムスタンプと交戦している筈の蛇杖堂寂句。
彼の身に起きていること、今その肉体がどうなっているのか、いずれもアンタレスは把握している。
だからこそなおさら、祓葉に届かなかったことに絶望を禁じ得なかった。
お逃げください、などと言いつつ、天の蠍はもう己が主の未来を分かっている。
彼は確かに超人だが、それでも地に足のついた人間だ。
傷を癒やし、不滅のように振る舞うことはできても。
結局のところ、迫ってくる死そのものを破却することはできない。
しかし当の寂句はと言えば、平時と変わらない不遜さで言葉を紡いでいた。
ひょっとするとここで戦っている彼は影武者か何かで、本物はあの病院で今も安楽椅子に座りながらほくそ笑んでいるのはないか。
ともすればそんな希望さえ抱きそうになる。
無論、そのような都合のいい話などある筈もないのだったが。
(貴様も分かっているだろうが、私はじきに死ぬ。
神殺しのついでに憎たらしい小僧に吠え面もかかせられて気分は爽快だが、流石に生身でどうにかできる相手ではないようだ)
蛇杖堂寂句は嘘を言わない。
いつも通り淡々とした調子で放たれた"諦め"に、アンタレスは奈落に突き落とされるような感覚を覚える。
(…………申し訳ありませんでした。当機構はあなたのサーヴァントとして、あまりにも無能だった。
実はどこかで夢見ていたのです。神を葬る戦いがどれほど熾烈でも、あなたは傲慢な顔をして、平然と神の消えたその先の世界を生きていくのだろうと)
『英雄よ天に昇れ』を与えられたのが、自分よりももっと優秀な存在だったなら、こうはならなかったのではないか。
神殺しを成し遂げた上でマスターも守り、見事に使命を完遂することもできたのではないか。
(どうかいつものようにご叱責ください、マスター・ジャック。
あなたにはその権利があり、当機構にはそれを噛み締める責任が……)
(ならば言ってやろう、この大馬鹿者が)
吐露し、心の中で頭を垂れたアンタレスを寂句は容赦なく一蹴した。
無能が、とは言わなかった。
それどころかその声は、どこか上機嫌そうにさえ聞こえる。
(貴様の仕事はまだ終わっていない。
私は死ぬが、それでもお前がその労苦から逃れることは許さん)
(それは……、どういう……?)
(解らんか? では、間抜けにも分かるように伝えてやろう)
クク、と、暴君は笑って。
(令呪を以って我が傀儡に命ずる。
ランサーよ、貴様は引き続き己の使命を果たし続けろ)
(っ……!?)
(令呪を以って、天の蠍へ重ねて命ずる。
失敗は許すが、諦めは許さぬ。その霊基燃え尽きるまで、貴様は私亡き後も戦い続けろ)
走狗の困惑を無視して、大上段からふたつの命令を刻みつけた。
ただの命令ではなく、令呪によって刻む拒否権なき『遺命』だ。
精根尽き果てた残骸同然の身体に灯火が宿る。
それを認識したのか、寂句は含み笑いを漏らし続けていた。
高揚に身を委ねているようでも、どこか自嘲しているようでもあった。
(令呪を以って、我が助手に重ねて命ずる)
最後の輝きが。
敗残者と化した"助手"へ、傲慢に重荷を押し付ける。
蛇杖堂寂句は暴君だ。故に末期の瞬間でさえ、彼が他人を慮ることは決してない。
(――――神の箱庭を終わらせ、真の〈神殺し〉を成し遂げてみせよ)
三画目の命令が刻まれた瞬間、アンタレスは死にゆく主を放り捨て、戦線を離脱していた。
臆病風に吹かれたのではない。既に遺命を刻まれた彼女の霊基は、暴君の助手だった蠍に弱さを許さない。
むしろ逆だ。主の命令を果たすためにこそ、アンタレスは逃げねばならなかった。
逃げて、生き延びねばならなかった。この場に留まり、主なき身で挑み続けたところで、祓葉に勝てなどしないのだから。
(マスター・ジャック。聞こえていますか。まだ、私の声が聞こえますか)
アンタレスの胸中を満たすのは、死にたいほどの無力感と、絶対にこのまま消えてやるものかという業火の闘志。
当機構は生きねばならない。生きて、挑み続けねばならない。
次こそ神を討つのだ。
主が命を懸けても届かなかった、本当の意味での神殺し――極星の運命を破壊するのだ。
当機構(わたし)は、そう命じられた。
けれど、それでも。
(ありがとうございました。あなたは当機構にとって素晴らしき主であり、得難い恩師でありました)
別れの言葉くらいは、若輩のわがままとして許してほしい。
本来アンタレスはその手の贅肉を解する機構(もの)ではないのだが、今は自然とそれが出てきた。
自分もまた、あの白き神と、彼女が振り撒いた狂気の器に触れてどこか狂わされてしまったのかもしれない。
実に遺憾だ、不甲斐ない。しかしこの感情がもし狂気だというのなら、それはなんだか……悪くなかった。
(さようなら、マスター・ジャック。ヒトの身で神に報いた、厳しくて優しいあなた)
斯くして蛇と蠍は永訣する。
それは短くも長かったこの聖戦の、その幕引きを物語っていた。
◇◇
「――聞こえているぞ、出来損ないめ。
つくづくお前達は、ろくに噂話もできぬらしいな」
アンタレスの去った戦場で、蛇杖堂寂句は死体同然の有様で佇んでいた。
夜と契りを交わした魔人と、反則技のドーピングが抜けた正真正銘生身で決闘したのだ。
損傷の程度で言うならば、『偽りの霊薬』を用い疑似蘇生する前と大差ない。
破れていない内臓はなく、それどころか腹に空いた穴からその残骸がこぼれ落ちている始末。
あまりに惨たらしく、思わず目を背けたくなる惨状。
なのにそんな状態で立つ彼の姿には、見る者を圧倒する気迫があった。
修羅。彼をここまで破壊した魔術師は、これを内心そのように形容した。
「……唐突だな。それが遺言でいいのか、ジャック先生よ」
「気にするな、独り言だ。今更遺したい言葉などない」
「死ぬことは否定しねえんだな?
は……なら良かったよ。俺も流石にこれ以上は割に合わん」
――冗談じゃねえ。化け物なのは知ってたが、ここまでやるかよ。
"夜"のノクト・サムスタンプは、自他共に認める規格外の魔人である。
〈脱出王〉ですら、持ち前の逃げ技をすべて尽くしても完全には逃げ切れなかった。
それほどの男が息を切らし、呼吸の合間に喘鳴のような音が混ざり、片腕の欠けた有様を晒している。
容態で言えば全身に複数の打撲、大小数箇所の骨折、それに加えて右腕欠損。
このすべてが、目の前の老人によって負わされたものだ。
死を覚悟した瞬間も何度もある。明日を捨て、温存を捨てた暴君の強さをノクトは嫌になるほどその身で思い知った。
だが安堵もあった。蛇杖堂寂句を確実に排除する自分の判断は間違っていなかったと再確認する。
少なくともこの先、自分は彼という男の存在を勘定に含めず戦うことができるのだ。
それだけで今回負ったすべての傷と比べてもお釣りが来る。高い買い物ではあったが、大枚叩く価値は確かにあった。
「ジャック先生」
響いた声に、ノクトは全身が総毛立つ感覚を覚える。
巨大なオーロラを見た時のような畏怖と、それと同じだけの歓喜。
渇望の狂気が刺激され、思わず足が縺れそうになった。
けれどこの時ばかりは、彼の極星はノクトの方を見ておらず。
己の灯火を走狗へ譲渡し朽ちることを選んだ、枯れゆく暴君に視線を向けていた。
「……クク。ずいぶんなザマではないか、無能め。いつまでも胡座を掻いているからそうなるのだ」
「あはは……だね。ちょっと反省しなくちゃだ」
「やろうと思えばそれが本当にできてしまうのが、貴様の最悪なところだよ――祓葉」
長い付き合いというには短い。
前回を含めても、二ヶ月にも満たないだろう。
だが、暦の上の数字だけでは推し量れない深い縁がそこにはあった。
「先生、なんかちょっとスッキリしてる?」
「そのようだ。煩わしい狂気(もや)が晴れ、実に清々しい気分だとも。
欲を言えばこれが死に際でさえなければ、酒の一献でも呷るところだったのだが」
「え。ジャック先生ってお酒飲むの? なんか意外」
「下戸に名医は務まらん。何かと機会が多いのでな。まあ、とはいえ偏食だ。具体的には日本酒しか呑まん」
「あはは、なんかぽいかも。私はほろ酔いが好きだよ」
「貴様はジュースで満足しておけ。どうせ酒の味など分からんだろう」
命を懸けて殺し合い、生死すら超えた歪んだ因縁を育んだふたりとは思えない牧歌的な会話。
こうしているとそれこそ、先生と教え子のように見えなくもない。
「覚明ゲンジは見事だった。我がサーヴァントは最上の仕事を果たした。
私の認める相手など、オリヴィアとケイローン以外には現れぬものと思っていたが……世の中は広いものだ」
「すごいでしょ、私のゲーム盤は」
「確かにな。だが、必ず崩れる。貴様の遊戯は二度目で終わりだ」
そのために、自分はあの蠍を生かして野に放ったのだから。
マスター不在の英霊は弱体化するが、令呪を三画も使ってブーストしてやれば多少は長持ちするだろう。
あるいはどこぞで英霊に先立たれて途方に暮れるマスターを見つけ、其奴と再契約したっていい。
此処からは彼女自身の戦いだ。己はそれを、黄泉からのんびり鑑賞するとしよう。
「ねえ、ジャック先生」
「なんだ」
「オリヴィアさんって、どんな人だったの? あの時も言ってたよね、私を助ける前に」
「……聞いていたのか」
「えへへ。けっこう地獄耳なんだよ、私」
つくづく鬱陶しい娘だと、寂句は辟易したように肩を竦める。
だが、まあ、墓場まで持っていくような話でもない。
「私にはないものを持った女だった。
有り余る才能で満足せず、常に先へ先へと、稲妻のように駆けることを望む奴だったよ。
そういう意味では、やはり貴様に似ていたな」
「ふうん。だからジャック先生は、あの時私を助けたの?」
「我が生涯で最大の失態だが、恐らくそうなのだろう。
しかしアレには参った。やはり人間の心というものは、不可解な不合理さに満ちている」
妻子にも愛情など抱いた試しのない男だ。
無論、孫や曾孫もその例外ではなかった。
だが、自分にも世に溢れる孫に甘い顔を見せる老人と同じ素養がどこかに眠っていたのだろう。
だからオリヴィア・アルロニカを忘れられなかった。
星を滅ぼす絶好の機会に際して、彼女と祓葉を重ねてしまった。
蛇杖堂寂句の敗因は、つまるところ彼が早々に理解することを諦めた、ヒトの心によるものだったのだ。
「そっか。
あのね、先生。実は私さ、あなたにずっと言いそびれてたことがあって」
「手短に済ませろ。流石にそろそろ限界のようだ。末期の時くらいは生涯の総括に使わせろ」
「ありがと。じゃあ簡潔に、一言だけ」
あの時寂句が"失敗"していなければ、神寂祓葉はそこで終わっていた。
誰が聖杯を握るにせよ、この針音の箱庭も、〈はじまりの六人〉などという狂人集団が生まれることもなかった。
傲慢な暴君が犯したたったひとつの失敗が、今この瞬間につながっている。
多くの嘆きがあった。
多くの歪みがあった。
そしてこれからも、あらゆる命があの日討ち損ねた少女によって引き起こされていく。
けれど、それはあくまで狂わされる側の視点であり。
狂わせる側の極星が彼に対して抱く感情は、ひとつだけ。
「あの時助けてくれて、ありがとう」
「…………、…………は」
一瞬、愕然とした顔をして。
それから暴君は、呆れたように失笑した。
「やはり貴様は最悪の生き物だよ、祓葉」
◇◇
あまりに長い歳月を生きた。
失敗よりも成功の方が遥かに多い人生だった。
よって、何ひとつ悔恨などありはしない。
唯一の悔いは自らの手で濯ぎ、未来へ託せた。
自分で言うのも何だが、大往生というやつだろう。
十分すぎるほど、自分はこの世界に生まれた意味を果たした。
――いや。ひとつだけ、惜しく思うことがある。
不合理の一言で片付け、ずっと一顧だにしなかったブラックボックス。
心という名の不可解には、きっと自分が思っている以上の開拓の余地があった筈だ。
もしももっと早くそれに気付けていたら、解き明かせる真理は十や二十で利かないほど多かったかもしれない。
何せ完璧と信じたこの己にすら、ちゃんと心があったのだ。
死後があると仮定して、どこぞに流れ着いたなら今度こそ改めてそれを探求しよう。
手始めにまずは研究材料が欲しい。実験動物でも、先駆者でも、なんでも構わない。
だがこれを調達するのは難儀そうだ。ともすれば同じ轍を踏むことにもなりかねないから厄介である。
天国だの地獄だのに興味はなかったが、今になって前者がいいと思い始めた。
さんざん研究に付き合ってやったのだから、今度はお前が私に付き合う番だろう。
まずは家を建てよう。
そして書斎を作ろう。
そうすればお前はどこからともなく聞きつけて、呼んでもいないのにやって来るだろうから。
――安息になど浸っている暇はない。
さあ、次だ。私はどこまでも進み続ける。
私を破滅へ追いやった、いつかの〈雷光(おまえ)〉のように。
【蛇杖堂寂句 脱落】
◇◇
命を失った老人の身体が、仰向けに倒れ伏した。
ひとつの時代の終わりをすら感じさせる、威厳と気迫に溢れた死。
〈はじまりの六人〉、狂気の衛星が遂にひとつ宇宙から消えた。
これを以って、混沌の時代は到来するだろう。
均衡は崩れ、天蓋は破壊されたのだ。
神の零落すら霞むような、誰にも予測のできない世界がやってくる。
それはきっと、〈はじまり〉を知っている彼らでさえ例外ではない。
「ノクトはどうするの?」
「俺はそこのご老人ほどクソ度胸しちゃいないんでね。流石にお前とは揉めないさ」
ノクトが、祓葉の問いに苦笑いで応える。
「今はまだ、な。それに、俺も俺でノルマは達成できた」
新宿の戦いは、所詮日常が崩壊するきっかけに過ぎない。
デュラハンと刀凶聯合の戦争がどう終わったとしても、問題はその先にこそあるとノクトは踏んでいた。
これまでどうにか辛うじて、恐らくは運営側の都合で存続していた社会機能も、もう今まで通りとはいかないだろう。
六本木の災禍とは比較にならない。新宿決戦で流れた流血はやがて氾濫し、本物の世紀末を引き起こす洪水になる。
問題はその時、変わり果てた世界をどう生き抜くかだ。
そこで使えるカードの一枚を、既にノクト・サムスタンプは確保している。
蛇杖堂とはまた違った、もっと狡猾で悪辣な大蛇。
手痛い出費にはなったが、彼に取り入る手土産は用意できた。
神寂縁。あの存在は、間違いなく今後巨大な嵐を引き起こす。
ともすればレッドライダーを取り逃すことと比較しても勝り得るかもしれない、そんな災厄の祭りを。
「お前こそどうすんだ? 流石に今までほど無茶苦茶できねえだろ、縛りが付いたんだったら」
「んー、特に変えるつもりはないけど……まあでもノクトの言う通り、ここからはもうちょっと色々考えて行動しないとだよねぇ。
いっそ前の時みたいに仲間でも作ってみようかな? ていうわけでどう? 私といっしょに聖杯戦争頑張らない?」
「遠慮しとくよ。お前といると色んな意味で心臓が保つ気がしねえ」
だからきゃるんきゃるんした眼で見てくるな。
眼のやり場に困るんだよこっちは。可愛い顔しやがって。
平静を装ってはいるが、この男もまた狂人なのだ。
それも寂句とは違い、祓葉を望む形の狂気を抱かされている。
そんな彼にとってこの状況は、言うなれば天下一の推しアイドルとふたりきりで語らっているようなもの。
戦闘終わりで鼓動の早い心臓はぎゅんぎゅん言ってねじれているし、こころなしか体温もえらく上がっている気がした。
ここまであからさまに異変が起きているのに、自分がロミオと同類であるとは未だに気付く気配もない。
誰もが忌み嫌う詐欺師ではあるが、そういう思春期の少年のようないじらしさも、ノクトは持っているのだった。
「じゃ、またな。次会う時までにせいぜい残りの頭数を減らしといてくれよ」
「うん、善処する。"みんな"に会ったらよろしく言っといてね」
「こっちはできれば会いたくねえんだよ」
そうして契約魔術師も去れば、残されたのは白い少女ただひとり。
物言わぬ亡骸となった旧友を一瞥し、その隣に体育座りで腰を下ろした。
「……ヨハンに怒られそうだなぁ」
神は、終わりある存在になった。
神の箱庭を絶対たらしめる錠前が壊された。
よってこの先のことは、もう彼女達にすら予測しきれない。
――さあ、星が欠けたぞ。
均衡は崩れ、混沌の世界がやってくるぞ。
最後に笑うのは神なのか、ヒトなのか、それとも別なナニカか。
戦争の時代を告げる赤い騎士の預言をなぞるように、針音の運命は新たな局面へ踏み入った。
◇◇
【新宿区・新宿/二日目・未明】
【ランサー(ギルタブリル/天蠍アンタレス)】
[状態]:移動中、疲労(極大)、胴体に裂傷、全身にダメージ(大)、甲冑破損、無念と決意、マスター不在、寂句の令呪『神の箱庭を終わらせ、真の〈神殺し〉を成し遂げてみせよ』及び令呪による一時的な強化
[装備]:赤い槍
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:神寂祓葉を刺してヒトより上の段階に放逐する。
0:マスター・ジャックの遺命を果たす。たとえこの身が擦り切れようとも。
[備考]
※マスターを喪失しました。令呪の強化を受けていますが、このままでは半日は保たないでしょう。
【ノクト・サムスタンプ】
[状態]:疲労(大)、複数の打撲傷、右腕欠損、恋
[令呪]:残り三画
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:莫大。少なくとも生活に困ることはない
[思考・状況]
基本方針:聖杯を取り、祓葉を我が物とする
0:均衡は壊し蛇への手土産は用意した。さて、次はどうするか。
1:デュラハン側のマスターたちを直接狙う。予定外のことがあれば素早く引いて何度でも仕切り直す。
2:当面はサーヴァントなしの状態で、危険を避けつつ暗躍する。
3:ロミオは煌星満天とそのキャスターに預ける。
4:当面の課題として蛇杖堂寂句をうまく利用しつつ、その背中を撃つ手段を模索する。
5:煌星満天の能力の成長に期待。うまく行けば蛇杖堂寂句や神寂祓葉を出し抜ける可能性がある。
6:満天の悪魔化の詳細が分からない以上、急成長を促すのは危険と判断。まっとうなやり方でサポートするのが今は一番利口、か。
7:何か違和感がある。何かを見落としている。
8:相変わらず可愛いぜ(心の声)。
[備考]
東京中に使い魔を放っている他、一般人を契約魔術と暗示で無意識の協力者として独自の情報ネットワークを形成しています。
東京中のテレビ局のトップ陣を支配下に置いています。主に報道関係を支配しつつあります。
煌星満天&ファウストの主従と協力体制を築き、ロミオを貸し出しました。
蛇杖堂寂句から赤坂亜切・楪依里朱について彼が知る限りの情報を受け取りました。
【神寂祓葉】
[状態]:不死零落、軽度の動揺
[令呪]:残り三画(再生不可)
[装備]:『時計じかけの方舟機構(パーペチュアルモーションマシン)』
[道具]:
[所持金]:一般的な女子高生の手持ち程度
[思考・状況]
基本方針:みんなで楽しく聖杯戦争!
0:さようなら、ジャック先生。
1:にしても困ったなぁ。ヨハンに怒られそうだなぁ……。
2:結局希彦さんのことどうしよう……わー!
3:悠灯はどうするんだろ。できれば力になってあげたいけど。
4:風夏の舞台は楽しみだけど、私なんかにそんな縛られなくてもいいのにね。
5:もうひとりのハリー(ライダー)かわいかったな……ヨハンと並べて抱き枕にしたいな……うへへ……
6:アンジェ先輩! また会おうね~!!
7:レミュリンはいい子だったしまた遊びたい。けど……あのランサー! 勝ち逃げはずるいんじゃないかなあ!?
[備考]
二日目の朝、香篤井希彦と再び会う約束をしました。
ランサー(ギルタブリル/天蠍アンタレス)の宝具『英雄よ天に昇れ』によって、心臓部永久機関が損傷しました。
具体的には以下の影響が出ているようです。
- 再生速度の遅滞化。機能自体は健在だが、以前ほど瞬間的な再生は不可。
- 不死性の弱体化。心臓破壊や頭部破壊など即死には永久機関の再生を適用できない。
- 令呪の回復不可
『界統べたる勝利の剣』は連発可能ですが、間を空けずに放つと威力がある程度落ちるようです。
最低でも数十秒のリチャージがなければ本来の威力は出せません。
【新宿区・歌舞伎町/二日目・未明】
【山越風夏(ハリー・フーディーニ)】
[状態]:疲労(大)、腹部にダメージ(大)、内臓破裂
[令呪]:残り三画
[装備]:舞台衣装(レオタード)
[道具]:マジシャン道具
[所持金]:潤沢(使い切れない程のマジシャンとしての収入)
[思考・状況]
基本方針:聖杯戦争を楽しく盛り上げた上で〈脱出〉を成功させる
0:ますます面白くなること請け合い。腕が鳴るねぇ。
1:それはそうと流石にこのままじゃ死ぬので治療が必要かも。
2:他の主従に接触して聖杯戦争を加速させる。
3:華村悠灯がいい感じに化けた! 世界に孔を穿つための有力候補だ!
4:悪国征蹂郎のサーヴァントが排除されるまで〈デュラハン〉に加担。ただし指示は聞かないよ。
5:レミュリンの選択と能力の芽生えに期待。
6:祓葉も来てるようだからそっちも見に行きたいけど……!
[備考]
準備の時間さえあれば、人払いの結界と同等の効果を、魔力を一切使わずに発揮できます。
〈世界の敵〉に目覚めました。この都市から人を脱出させる手段を探しています。
蛇杖堂寂句から赤坂亜切・楪依里朱について彼が知る限りの情報を受け取りました。
【ライダー(ハリー・フーディーニ)】
[状態]:第五生のハリーと入れ替わり中
五生→健康
九生→疲労(大)
[装備]:九つの棺
[道具]:
[所持金]:潤沢(ハリーのものはハリーのもの、そうでしょう?)
[思考・状況]
基本方針:山越風夏の助手をしつつ、彼女の行先を観察する。
0:『――ヴァルハラか?』
1:他の主従に接触して聖杯戦争を加速させる。
2:神寂祓葉は凄まじい。……なるほど、彼女(ぼく)がああなるわけだ。
[備考]
準備の時間さえあれば、人払いの結界と同等の効果を、魔力を一切使わずに発揮できます。
宝具『棺からの脱出』を使って第五生のハリー・フーディーニと入れ替わりました。
神聖アーリア主義第三帝国陸軍所属。第四次世界大戦を生き延びて大往生した老人。
スラッグ弾専用のショットガンを使う。戦闘能力が高い。
ヴァルハラの神々に追われている妄想を常に抱いており話が通じない。
九生の中には医者のハリー・フーディーニがいるようです。
【天空・無限時計工房(座標不明)/二日目・未明】
【キャスター(オルフィレウス)】
[状態]:健康
[装備]:無限時計巨人〈セラフシリーズ〉
[道具]:
[所持金]:
[思考・状況]
基本方針:本懐を遂げる。
0:???
1:セラフシリーズの改良を最優先で実行。
2:あのバカ(祓葉)のことは知らない。好きにすればいいと思う。言っても聞かないし。
3:〈救済機構〉や〈青銅領域〉を始めとする厄介な存在に対しては潰すこともやぶさかではない。
[備考]
※覚明ゲンジに同伴していたバーサーカー(ネアンデルタール人/ホモ・ネアンデルタール人)50体は全滅しました。
マスターであるゲンジが死亡したため、再契約しなければ数時間で全個体が消滅します。
残る個体は歌舞伎町・決戦場にいるもののみとなるため、今回状態表は記載しません。
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最終更新:2025年08月13日 00:48