彼にとって、人の心とは不合理の塊であった。

 彼は物心ついた時から才気の片鱗を滲ませていたが、だからこそ子どもの時分から数多の"心"に曝されてきた。
 例えば嫉妬。己より優れた幼子という存在を許せず、なんとかして蹴落とそうとしてくる輩だ。
 凋落しゆく家に稀代の新星が生まれたのならどう考えても皆で一丸となって支えるのが合理的だろうに、何故かそうしない馬鹿がいる。
 そうでなくとも、純粋に疑問だから口にした指摘に顔を真っ赤にして噴飯したり、落涙して何やら情けない感情論をぶつけてきたりする。

 何故やるべきことを粛々やれないのか。
 現状の誤りを指摘されたなら速やかに改善すればいいものを、なぜ理屈の話を個人の感情の話にすり替えて無駄な時間を費やすのか。
 幼く純粋だった彼にはそれがまったく不明だったが、ある時少年は悟りに達した。

 "――――そうか。つまりこいつら、そんなにも能が無いのか"

 それが、傲慢の目覚めであった。
 この日を境に、蛇杖堂寂句は他者を無能と謗るようになる。

 わずか十三歳にして、寂句は現在の人格をほぼ完成させていた。
 自分以外の全人類は愚か者であり、慮るに値しない下等生物であると信じた。
 その生き方は多くの敵を作ったが、彼はいつも誰より優れていたので問題はなかった。
 次第に逆らう者は減り、無能呼ばわりされてでも自分に媚びへつらう人間が増えてきた。
 気色は悪いが、都合のいいことだ。
 同じ無能でも、身の程を弁えているなら使いようがある。
 そうして彼は分家筋の生まれでありながら、わずか一代にして落ち目の本家を経済面・技術面の両方で立て直した。
 本来なら時計塔に顔を出すなりして名声を上げるべきなのだろうが、好き好んで無能どもの権力闘争にかかずらう意味が分からなかったので、寂句は先代と同じ日陰者の道を行くことを選んだ。

 数多の叡智を蓄積し、それに見合った実績を積み上げながら、蛇杖堂寂句は気付けば老年に入っていた。

 表でも裏でも知られた人となった。
 知識ある者は、蛇杖堂の名を畏敬するようになった。
 若い頃の喧騒は今や遠く、家を継がせる子孫を誰にしたものかと思い悩むようになった頃。


『はじめまして。不躾な訪問ごめんなさい、ジャクク・ジャジョードー。
 正面からお願いしても絶対会ってくれないって聞いたので、勇気出してアポなしで来ちゃいました』


 ひとりの若い女が、蛇杖堂の本家を訪ねてきた。
 追い返そうとも思ったが、この手の輩は袖にしてもしつこく食い下がってくる。
 何が目的か知らないが、今ここで受け入れることで未来の時間の浪費を防ぐ方が有益かと、その時彼は思った。

 女は、オリヴィア・アルロニカと名乗った。
 アルロニカの名は知っている。スタール家と並び、時間制御分野の両翼と謳われる家柄だ。
 先駆者・衛宮矩賢の死後、根源到達に時間を用いようと考える魔術師達の注目は少なからずこの両家に集まっていた。

『頼る相手を間違えている。
 極東くんだりまで足を運ぶ予算と時間は、ロードの一人二人と面会するために使うべきだったな』
『先輩から助言をいただいたんです。あなたはもっと広い世界を見たほうがいいって。
 人づてにいろいろ調べている時にジャクク氏の名前を知りました。
 分家から成り上がり、一代にして本家を立て直した"暴君"のお知恵をぜひ借りたいなと』
『勤勉は富だが、使い方を間違えればただの時間の無駄でしかない。
 日本語は苦手と見えるな。仕方がないので、分かりやすく伝えてやろう』

 美しい女だった。
 少女のような活力と、熟女のような度胸を併せ持っていた。
 とはいえ色香に惑わされる歳でも柄でもない。

 愛想よく微笑むオリヴィアに寂句が伝えたのは、もはやお馴染みのあの文句。

『帰れ、無能。
 貴様のために割く時間など、私には一秒たりとも存在しない』

 これを言われた魔術師の反応は、おおよそ二分だ。
 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするまでは一緒。
 そこから猿のように赤くなって憤慨するか、逆に気圧されてそそくさと立ち去るか。
 が、オリヴィア・アルロニカはそのどちらでもなかった。

『加速させた思考を限界まで収斂させ、根源を観測するんです。
 でもどうにも手詰まりが否めなくて。
 そりゃ私の代で到達できるとは思ってないですが、どうせならよりよい形で遺したい』
『おい』
『構想はあります。名付けて〈電磁時計〉。
 全容も固まってないのに名前だけ付けてるなんて我ながら馬鹿みたいですけど、不思議と手応えみたいなものはあるんですよ。
 ただ次の工程に移るにあたって、三点ほどどうにも解決できない問題があって』
『何のつもりだ貴様』

 寂句の宣告を無視して、勝手にぺらぺら自分の要件を語り始めたのである。
 これには寂句も怪訝な顔をした。
 世に無能は数いれど、こんな無法で自分を丸め込もうとした人間は初めてだったからだ。

『イギリスから日本までの旅費、高かったんですよ? はいそうですかで帰るわけにはいきません』
『蹴り出すぞ』
『なら抵抗しながらでも話を聞いてもらいます。
 でも私、自慢じゃないけど防戦に回らせたらめんどくささ随一な魔術師ですよ。
 すばしっこいネズミ追いかけるのに時間を浪費するなら、素直にこのちょっぴり失礼な客人をもてなす方が合理的だと思いません?』

 意趣返しのつもりなのか、オリヴィアはいたずらっぽく舌を出して笑った。

 その日蛇杖堂寂句は、得難い経験をした。
 後にも先にも、他人の熱意に根負けしたのはあれが最初で最後だ。

 ――暴君はこうして、後に〈雷光〉と呼ばれる魔術師と出会った。



◇◇



 宣戦布告の完了と、戦線の開幕は同時だった。

 寂句の背にする空間から実体化し、赤い甲冑の英霊が疾走する。
 天の蠍(アンタレス)。蠍座の火。
 三対六本の脚で加速したその実速度は音に迫る勢いであった。
 勇猛果敢を地で行く吶喊を見せながら、しかし少女の顔には焦燥と苦渋が貼り付いている。

(よもやこれほどとは――当機構の愚鈍をお許しください、マスター・ジャック)

 覚明ゲンジとそのしもべ達を一太刀にて屠った、白い少女。
 神寂祓葉の姿を視界に収めた瞬間、アンタレスは己の現界した理由を理解した。

 こいつだ。間違いなく、この娘だ。
 己はこれを放逐するために喚ばれたのだと、魂でそう理解する。
 それほどまでの、圧倒的すぎる存在感。
 超人だなんて生易しい形容では到底足りない。
 これはもう、この時点で神の領域に達している。
 聖杯戦争を、いや星を、いいや地球を、ともせずとも世界そのものを思い通りにする力を持っている。

 天昇させなければならない。
 生み出されて以来最大の使命感が、彼女の五体を突き動かす。
 閃く槍の鋭さは、スカディやレッドライダーと戦っていた時の比ではない。
 漲る使命感が現世利益として強さを後押しする理不尽を引き起こしながら、しかしそれは何のプラス要素にもならなかった。

「わお。結構速いね、まだ目で追えるけどギリギリだぁ」
「ッ……!」

 防がれる。鍔迫り合う互いの得物。
 英霊と人間という圧倒的な違いがあるにも関わらず、それがすべてあべこべになっていた。
 押し切れない。己が槍の穂先を受け止めた光の剣を、小揺るぎすらさせることができない……!

「あのね、私いま結構アガってるんだ」

 覚明ゲンジが魅せた生き様が、初動から祓葉のギアを上げている。
 相手に応じて強さを増す特性、そして気分の高揚がそのままパフォーマンスに直結する精神性。
 激戦の熱冷めやらぬ今の祓葉は初段からトップギア。
 アンタレスの放つ剛槍の乱舞を一発余さず迎撃しているのがそれを物語っていた。

「あなたはどんな宝具を持ってるの? どうやって私を倒すの?
 楽しいね、楽しいね楽しいね! 全部見せてよ、出し惜しみなんか許さない!」
「――その手の倒錯に付き合うつもりはありません!」

 言われなくても、出し惜しんでいる余裕などない。
 アンタレスは多脚を駆動させ、近距離の攻防の中でさえ一秒たりとも停止しないよう心がけていた。
 神寂祓葉は個の極致。力比べで勝てる道理はないし、そこに持ち込まれればドツボに嵌る。

 よって可能な限りあらゆる角度から攻撃を加えつつ、無駄な被弾を避けるのが肝要だ。
 蛇杖堂寂句の助言のひとつ。
 祓葉は最強の生物だが、そこには繊細な技というものが一切介在しない。
 言うなれば子どものチャンバラだ。打ち合うとなれば至難だが、避けるだけならそれほど難しくはなかった。

「ひと目見て確信しました。
 貴女は存在するだけで世界を、あるべきカタチを狂わせる。
 当機構の全霊を懸けて、その穢れた神話を葬送しましょう……!」
「いいね! やってみなよ、できるものなら!」

 光を躱しながら、実現できる最速で刺突を重ねる。
 祓葉は避けない。その必要が彼女にはない。
 肉が散り、眼球を抉られても止まらず光の剣舞を撒き散らす。

 災害だ。なのに見惚れそうなほど神々しい。
 抑止の機構であるアンタレスでさえ、気を強く持っていないと魅了されてしまいそうだった。
 赤い蠍が神を葬るべく躍動し、百を超える火花を散らして踊り舞う。
 大義があるのは間違いなくアンタレスの方だというのに、端から見ると善悪すらあべこべに見えるのが皮肉だ。

 祓葉の光剣が、大きく真上に振り上げられる。
 避けるのは容易だが、すぐに意図を理解して退いた。
 その判断は正しい。渾身の唐竹割りが振るわれた瞬間、爆撃もかくやという衝撃波が彼女を中心に轟いた。

(勘がいい。実戦の中で活路を探し出す嗅覚がずば抜けている)

 敵が回避に執着しているのなら、拮抗ごとぶち壊してしまえばいい。
 実際それが適解だ。現にアンタレスは後退し、構築した戦闘体制を手放すのを余儀なくされた。
 祓葉が地面を蹴る。天蠍の移動速度に匹敵する速さで迫り、神速の一閃で破壊光を飛ばしてくる。
 原人戦では見られなかった、事実上の飛び道具だ。
 刀身の延長線上に光を飛ばして切り刻む――原人どもを一掃した対城攻撃の片鱗を引き出している。

 野性的な戦闘勘と奔放な無法が噛み合った最悪の猛獣。
 襲い来る光閃の網を掻い潜りながら、アンタレスが再び間合いを詰めた。
 刺突と斬撃が織りなす狂おしい交響曲。
 千日手を予感させる再びの拮抗。しかし今度は、天蠍がそれを破壊した。

「わ……!?」

 ここまで移動にのみ使っていた蠍の脚が突如振るわれ、鉤爪のように祓葉の肉を引き裂いたのだ。
 当然有効打になるような攻撃ではないが、不意を突けたのは事実。
 そしてこの少女は、あらゆる感情にとても素直だ。
 驚けば動きが乱れるし、ただでさえ盤石とは呼べない佇まいが総崩れになる。
 原人達との戦いを観測して、アンタレスはそれを見抜いていた。

 ――くるり。ひらり。

 その場で宙返りをし、空へ舞い上がる。
 そこで蠍の多脚は、あろうことか風を掴んだ。
 祓葉が力任せに暴れたことで吹き荒れた強風を利用し、洞窟の天井を這い回るように空を伝って祓葉へ迫る。

 戦闘の優位は常に上方にある。
 縦横無尽を地で行くアンタレスはその恩恵に自在に預かることができる。
 降り注いだのは、赤いゲリラ豪雨であった。
 そう見紛うほどの、赤槍による怒涛の刺突。

(覚明ゲンジがそうだったように、普通に戦ったのでは勝ち目など皆無。
 必要なのは『英雄よ天に昇れ(アステリズム・メーカー)』の投与。
 もとい、そのための前提条件を満たすこと――!)

 主から賜った策を反芻しながら、アンタレスは眼下の少女を肉塊に変えていく。
 "叩き"にされた豚肉のようにぐちゃぐちゃの塊と化すまではすぐだった。
 やはり予想通り。死なないだけで、強度自体は人間の域を出ない。
 再生する前に潰し続ければ、神寂祓葉は封殺できる。

 ひとしきり打ちのめし、原型を完全に失わせたところで、アンタレスは槍を引いた。
 勝負を決める。この状態なら、"狙い"を外すこともない。
 かつて超人を夜空へ送った一刺しを放たんとし、そこで天の蠍は、自分の想像がこれでもまだ甘かったことを思い知った。

「な……ッ」
「つ、か、ま、え、た♪」

 肉塊の中から、腕だけが伸びて赤槍を掴んでいる。
 戦慄に身が硬直した。
 そのわずか一瞬の間にも、ひしゃげ潰れた挽肉の中から神が甦ってくる。

 吐き気を催す光景だった。
 腕の次は顔が再生し、その次にはもう片方の腕。
 胴の修復が始まった時点で、アンタレスはようやく我に返る。
 槍を振るい再殺しようとするが、得物がぴくりとも動かない。

「何か、しようと、してるよね?」

 女怪のように、肉の中から上半身だけを生やした祓葉が微笑む。
 次の瞬間、アンタレスは文字通り、地に引きずり降ろされた。
 なんのことはない。ただ力任せに天から地へ、引っ張ってやっただけだ。
 アンタレスが英霊であることを考慮しなければ、微笑ましい戯れにも見えたろう。

「が、ぁッ……!」
「ゲンジのことがあるからね。我ながららしくないけど、ちょっと警戒してみようかな」

 叩き付けられただけで地面が抉れ飛ぶ。
 喀血し、腕一本で圧迫されている姿は猿に遊ばれる蠍に似ていた。

「ふふ」

 その間に再生は滞りなく完了し、いつしか立ち位置は逆転。
 アンタレスを押さえつけたまま、祓葉が光剣を振り翳す。
 もちろん彼女も無抵抗ではなく、六脚を振り乱し祓葉を切り裂いていたが、臓物を撒き散らしてやった程度でこれが止まるわけもない。

「かわいいね」

 告げられる死刑宣告。
 天の蠍が背負わされた任務はあまりに難題だった。

 何しろ相手は〈この世界の神〉。
 人類悪と友誼を結び、自由気ままに理を踏み砕く絶対神。
 アンタレスひとりの双肩で討ち取るには荷が勝ちすぎる。
 よって結末は予定調和、誰もの予想通り。
 神寂祓葉は勝利する。蠍は踏み潰されて、オリオンの神話は再現されない。

「――――ぶ、ぐぇっ」

 戦うのが、彼女ひとりであったならば。

「え……」
「無能が。何を呆けている?」

 横から割って入った老人の拳が、祓葉を紙切れのように吹き飛ばしていた。
 アンタレスの驚きも無理はない。
 "彼"は、自身も参戦するなんて一言も伝えていなかったから。

「光栄に思え、無能な貴様の尻拭いを務めてやる。
 この期に及んでめそめそと謝るなよ、元より貴様一人でどうにかできるとは思っていない」

 彼は時間の浪費を嫌う。
 アンタレスに参戦の旨を伝えたなら、彼女は頑として反対しただろう。
 それはサーヴァントとして当然の反応だが、暴君にとっては煩わしいタイムロスだった。
 だから介入を行うその時まであえて黙っていたのだ。
 味方をも騙して決行された不合理な奇襲攻撃は神の王手を突き崩し、敗色濃厚の盤面をリセットする。

「お前もさっさと立て、祓葉。化物が堪えたふりなぞするな、おぞましい」
「……ジャック先生、なんかちょっと変わった?」
「お前がそれを言うのか? クク、ありがとうよ極星。どうやら今回は、同じ轍を踏む心配はなさそうだ」

 彼の狂気は〈畏怖〉。誰より星を畏れているから、死ぬことなんて怖くない。
 蛇杖堂寂句は静かに拳を構え、アンタレスの横に立って、因縁の白神を見据えていた。



◇◇



 オリヴィアはその後も幾度となく蛇杖堂本家を訪れた。
 死ぬほど嫌そうな顔をする寂句はお構いなしに、イギリスの手土産片手に門を叩くのだ。
 頻度はまちまちだったが、大体年に一~二度のペースだった。

『ようやく雛形ができてきました。なんだか感慨深いですね、えへへ』
『六年だぞ。私ならとうに完成させ、実用段階に持ち込んでいるところだ』
『先生と一緒にしないでくださいよ。
 自虐は好きじゃないんですけど、さすがに私と先生じゃ頭の出来が違いすぎます。
 いっそ正式に共同制作者になってくれたら助かるんですけどね? ちらっ、ちらちらっ』
『興味がない。第一、私はただ貴様の話に相槌を打っているだけだ』

 オリヴィアの厄介なところは、疑問が浮かぶとそれを掘り尽くさなければ気が済まないところだ。
 こうなるともうなんでなんでの質問攻めで、寂句はその気質を知って以降、彼女の話は作業の片手間に聞くようにしていた。
 今日も寂句は机へ向かい、オリヴィアはその背中へ、座布団に座り粗茶を啜りながら話しかけてる格好である。

『先生。今日はね、設計図を持ってきたんです』

 自動書記かと見紛う速度で筆を走らせていた寂句の手が、ぴたりと止まった。
 振り向きはせず、そのままの格好で口を開く。

『雛形が"できてきた"と聞いた筈だがな。相変わらず日本語は不得手と見える』
『まあまあ、固いこと言わないでください。
 実はまだ誰にも見せてないんです。もちろんこれからいろいろな知人に意見を求めて回る予定ですけど、やっぱり最初は先生がいいなって』

 背を向けているので顔は分からないが、さぞや鬱陶しい笑顔をしているのだろうと思った。
 手荷物をまさぐる音。鞄から、書類の束が取り出される音。
 音が止んだかと思うと、オリヴィアは立ち上がって言った。

『――――診て、くれますか。先生』

 数秒、音のない時間が流れる。
 それを切り裂いたのは、暴君のため息だった。
 万年筆を机に置き、されど振り向かぬまま、腕だけを後ろへやった。

『貸せ』
『……! はい!!』

 受け取った紙束は、どの頁も無数の図形と数式、彼女の研鑽と受け継いだ叡智の結晶で埋め尽くされていた。
 当然、内容はきわめて難解だ。
 時計塔の講師陣でさえ、読み解いて咀嚼するには相応の時間を要するだろう。者によっては、完読すらできないかもしれない。

 だが蛇杖堂寂句は、小説本でも読むようにすらすらと読み進めていく。
 その上で前の頁に戻らない。初読で理解し、噛み砕いて、嚥下していた。
 時間にして四十分ほど。落ち着かない様子のオリヴィアの視線を背中に浴びながら、寂句は束を置く。

『ど……、どうでした……?』
『設計書に希望的観測を盛り込むな、無能め。
 理論の陥穽をパッションで誤魔化してどうするのだ、貴様は出世が目的でこれをしたためたのか?』
『う』
『それと可読性にも多大に難がある。
 私だから問題なく読み解けたが、構成がとっ散らかりすぎだ。
 この有様では実際これを元に何かを成す時、間違いなくつまらんミスをやらかすぞ』
『そ、そこは、ほら。私はちゃんと要点押さえてますから。大丈夫ですよ、…………たぶん』
『ほう、"たぶん"とは具体的に何パーセント大丈夫なのだ?
 八割か九割か、それとも大きく出て九割九分九厘とでも言ってみるか?
 私に言わせればそれでも論外だが。己の手落ちで時間と資源を浪費するリスクは甘んじて飲み込むと? であれば実に大したものだが』
『――ごめんなさい。飲みません。ちゃんと直します』
『最初からそう言え。つまらん意地で私に食い下がるな、青二才が』

 辛辣。
 痛烈。
 オリヴィアががっくり肩を落としている姿が見なくても想像できる。

『……だが』

 そんな彼女に、寂句は鬱陶しそうに続けた。

『それ以外は概ね、よくできている』
『……!』
『初めてここに押しかけてきた時の稚拙な発想と比べ、見違えていると言っていい』

 寂句は誰に対しても辛辣だし、見下すことに憚りもない。
 が、それはプライドや慢心から来る悪癖ではなかった。
 様々な観点から評価して、自分より劣っていると看做した上で罵倒するのだ。
 逆に言えば、評価に値するものは正しく評価する。

 彼は他人を慮れない男だが、かと言って真実を隠してまで貶し倒す真似はしない。

『実際に根源へ到れる可能性は零に等しいだろうが、それはどこの家も同じだ。
 〈電磁時計〉は確実にアルロニカの歴史を変え、時計塔に轟く"発明"になるだろう』

 以上をもって、寂句は評価を結んだ。
 耳栓を買っておくべきだったなと後悔した。
 この女のことだ、さぞやうるさく喚くのだろう。
 しかしそんな予想に反してオリヴィアは静かで。

『う……ぐす、ひっく……』

 歓喜の代わりに響いてきたのは、ちいさな嗚咽だった。

『ご、ごめんなさい。
 その……気が、抜けちゃって。
 よかったぁ……よかったよぉ……』
『人の家で泣くな、煩わしい。荷物を纏めてとっとと失せろ』
『ありがとう、ございました……。
 ジャック先生のおかげで私、わたし、ここまで来れた……』

 六年、この部屋で議論を交わした。
 おかげでアルロニカ家の魔術を深く理解してしまったほどだ。
 秘密主義を是とする魔術師の世界では、それは自分の急所を晒す"無能"めいた行いだったが。
 オリヴィアはそれを承知で足繁くここに通い、理論を編み、遂にこの偏屈な暴君に太鼓判を押させたのだ。

『勘違いするな。
 貴様が私の元へ通い詰めている事は既に多くの同業者が知るところとなっている。
 にもかかわらず貴様が不出来を露呈すれば、私の名声にも傷がつくだろうが』

 追い返そうとするのが億劫になったのもあるが、三年目辺りからはそんな理由もできていた。
 不本意にも恩師になってしまった以上は、大成して貰わねば沽券に関わる。
 寂句としてはそれは正当な動機で、だからこそこうして堂々告げたのである。

 けれどオリヴィア・アルロニカは、泣き濡れた目元を拭いながら――

『……ジャック先生は怖いくらい優秀だけど、少し真面目すぎるみたいですね』

 呆れたように、それでいてとても嬉しそうに。
 そんなことを、言った。



◇◇



 光剣の軌跡は、既に英霊基準で見ても異常な速度に達していた。
 空を切り裂くだけでソニックブームめいた衝撃波が発生し、粉塵を舞わせ著しく視界を損ねる。
 アンタレスが前線で祓葉を相手取り、寂句は隙を見て彼女を削る――というのが彼らにとっての理想形。

 しかし案の定、祓葉はそれをさせてくれる相手ではなかった。
 まず攻撃を受け止めることができない。よって隙を見出すことも叶わない。
 神のやりたい放題を前に、天蠍と暴君は早くも圧倒的な劣勢に追いやられていた。

「ぐ、ぅっ、う……!」
「あは、ちょっと軽すぎるんじゃない?
 速いのはいいけど、ちゃんと削らないといつまで経っても終わんないよ?」
「不死身の貴女に言われても、嘲弄にしか聞こえませんね……!」

 鍔迫り合いで場を凌ぐことも不可能になって久しい。
 赤槍と光剣がぶつかれば、衝撃だけでアンタレスは吹き飛んでしまう。
 そこで毎回攻めのリズムを破壊されるため、結果として彼女の手数は大幅に目減りしていた。

「ごまかさなくてもいいのに。
 あるんでしょ? 私を殺せるかもしれない、そんな素敵なジョーカーが」

 覚明ゲンジの奮戦は見事だったが、彼の特攻は祓葉にとある気付きを与えてしまった。

 この世には、不滅を超えて迫る死が存在する。

 祓葉にとって未知とは悦びである。
 よって焦るどころか、祓葉はますますそのギアを上げていたが。
 アンタレスの分析した通り、彼女は馬鹿だが並外れた戦闘勘を持っている。
 〈神殺し〉という概念を知られたあの瞬間、寂句達のプラン遂行の難易度は途方もなく跳ね上がったと言っていい。

「教えてくれないなら、ジャック先生に直接聞いちゃお」

 健気に向かってくるアンタレスを光剣のフルスイングで跳ね飛ばし、地面を蹴る。
 向かう先は暴君・蛇杖堂寂句。
 祓葉は手加減のできる性格ではないし、そもそも彼女はそれをとても失礼なことと捉えている節があった。

 一緒に遊ぶのなら、どんな相手だろうとみんな平等。
 誰が相手でも差別せず全力で戦うからこそ楽しいのだと信じる。
 そんな神の純真は聞こえこそ立派だが、相対する者にとっては最大の絶望を意味した。
 英霊でさえ手に余る速度とパワーで迫ってくる祓葉を、人間の身で捌かなければならないのだ。
 至難なんてものではない。ほぼほぼそれは"不可能"と同義だ。

 できるわけがない――――寂句(かれ)でなければ。

「舐めるなよ小娘。たかだか一度まぐれ勝ちした程度で、格付けが済んだと思っていたか?」

 瞠目したのは、祓葉も、そしてアンタレスもだった。
 英霊の彼女でさえ対処に苦心する神の斬撃を、寂句は見てから避けたのだ。

 それがまぐれでないことは次の瞬間実証される。
 なにくそと振るわれる剣閃の嵐の中でさえ、蛇杖堂寂句は致命傷を躱し続けた。
 無論掠り傷なら無数に負っていたが、逆に言えばその程度。
 本気の祓葉を人間の身で相手取り、損害をそれしきで抑えることがどれほど難しいか。

「……嬉しいよ、ジャック先生。
 この前はのらりくらりと躱されちゃったけど、今日は本気で来てくれるんだね」
「これが望みというならうまくやったな。
 まんまと私は貴様の希望通り、未来を捨てる羽目になったのだから」

 祓葉は慌てるでもなく、嬉しそうに笑った。
 それに対する寂句の言葉が、その常軌を逸した挙動の種明かしだ。

「マスター・ジャック……あなたは、やはり――」
「言ったろう、私は"この先"に興味などない。
 今この時、この瞬間こそが、私の焦がれた聖戦なのだ」

 暴君は傲慢に人を治し、壊せる。
 その対象には無論、彼自身も含まれている。

「手持ちの薬剤の中から有効なものを数十種以上手当たり次第に投与した。
 おかげで地獄のような苦痛だが、不思議と気分は悪くない。やはり私も狂っているのだと実感するよ」

 明日(みらい)を度外視した極限量のドーピング。
 九十年の叡智をすべて注ぎ、人間はどこまで神に迫れるのか人体実験した。
 成果はこの通りだ。時間制限付きだが、今の寂句は英霊の域にさえ足を踏み入れている。

 代償として彼の身体には神経をやすりがけされるような激痛が絶え間なく駆け巡っていたが、暴君はそれを気にも留めない。
 痛みも時にはある種の麻薬だ。耐えられる精神力さえあるのなら、持続時間の長い気付け薬として戦闘を助けてくれる。

「さあ来い、祓葉。
 さあ行くぞ、ランサー。
 他の者など待ってはやらん。今此処で、我らの運命に決着をつけるのだ」

 蛇杖堂寂句は狂っている。
 合理を棄て、畏怖を纏い、そして〈はじまり(オリジン)〉を取り戻した暴君に陥穽はない。
 死をも超えて演じあげるは、至大至高の逆襲劇。



◇◇



 〈電磁時計〉が完成したことで、オリヴィアが蛇杖堂本家を訪ねてくる理由はなくなった。
 それでも彼女は、毎年季節の変わり目には欠かさず絵葉書を送ってきた。
 結婚した。娘が生まれた。スタール家の"先輩"と激論を交わしすぎて喧嘩になった――そんなどうでもいい文章を添えて。
 会いに行きたいが多忙でどうにもならないらしい。寂句としては、煩わしい客人が来なくなって大層清々しい気分だった。

 最後の訪問から、二桁の年数が経過したある年の春。
 オリヴィア・アルロニカは、あの頃と同じように突然訪ねてきた。

『ぜんぜん変わらないですね、ジャック先生』
『貴様は変わったな。窶れて見えるぞ』

 以前に比べ雰囲気の落ち着いた物腰と、たおやかな笑顔。
 しかし寂句は対面するなりすぐに、彼女の身に起きていることを理解した。
 病んでいる。心ではない、身体の話だ。
 不健康な痩せ方、血色の悪さ、ほんの微かに漂う死臭と腐臭の中間のような匂い。

 いずれも、現場で何度となく出会ってきた重病人の特徴である。
 この時点で寂句は、オリヴィアが深く冒されていると悟っていた。

『目的が診察なら正規のルートを辿れ』
『あはは。ごもっともですね。
 でも、診てもらうならやっぱり先生がよくて……』

 オリヴィアは、ぽつりぽつりと語った。

 腕を動かすと違和感を覚えるようになったのが最初だった。
 疲れだと思って放置していたら、どんどんひどくなってきた。
 友人から譲り受けた薬を服用して誤魔化すうち、次第に息切れや頭痛が増えた。
 今ではもう、全身が痛くて鎮痛剤なしでは起き上がるのもままならない。

 不定愁訴の放置は無能の証だ。
 そう吐き捨てながらも寂句は結局、オリヴィアの診療を承諾した。

 結果は――


『手遅れだ、来るのが遅すぎる。この無能が』


 手の施しようがない。
 彼をしてそう罵るしかない容態であった。

『恐らく骨肉腫だろう。
 全身に転移した末期状態だが、私なら素材と手段に固執しなければ治せる。
 しかし貴様のは最悪のケースだ。腫瘍が突然変異を起こし、魔術回路へ浸潤し絡みついている』

 寂句でさえ、実例を見るのは初めてだった。
 彼の知る限り、記録上数える程度しか観測されていない希少癌。
 魔力という埒外のエネルギーにあてられ、腫瘍が魔的に変異する症例。
 一般の病院はおろか、治癒に精通する魔術師でも実態に気付ける者は稀だろう。
 "なんてことのない、どこにでもある病気"と看做し、その上であまりの進行度に匙を投げる筈だ。
 しかし寂句に言わせれば、そんなありふれた病の顔をして這い寄った彼女の死病は、禍々しい呪詛の塊のようでさえあった。

『言うなれば腫瘍自体が一種の魔物と化している状態だ。
 回路の摘出を試みようが、瞬時に転移して末期多臓器不全を引き起こすだろうな。
 それ以前にその弱りきった体では手術自体に耐えられない。どうあがいても詰んでいる』

 寂句は言葉を濁さない。
 手の施しようがないなら、率直にそう伝える医者こそ優秀と彼は考える。
 そんな気質を知っていたからだろう。
 オリヴィアは泣くでも青ざめるでもなく、ほころぶように笑った。

『先生が言うならそうなんでしょうね。
 そっか、これで終わりかぁ』
『そうだな。来世があれば不養生は慎むことだ』
『ふふ。あとどのくらい生きられそうですか、私?』
『半年といったところだろう。
 奇跡が起きればもう少し伸びるかもしれんが、それでも一年は無理だ』

 人の死にいちいち胸を痛める感性は持ち得ない。
 この時点でも尚、寂句にとって"心"とは不可解な不合理の塊でしかなかった。
 あらゆる才能を自在に修めてきた男が、唯一得られなかったもの。

『ありがとうございます、先生。
 ……ううん、今まで、ありがとうございました』
『珍しいこともあるものだ。もう帰るのか』
『はい。残りの時間は少しでも、娘と一緒に過ごしてあげたいので』

 娘なら寂句にもいる。
 無論、愛情など抱いた試しはない。
 しかしオリヴィアにとっては違うようだった。
 仮に寂句が彼女の立場なら残り時間はすべて後継への引き継ぎ作業に使うだろうが、こういう辺りも彼女は"らしくない"女だと思った。

『あんまりいいお母さんをしてあげられなかったのは、ちょっとばかり心残りですけど。
 だからこそ、できる限りは取り返そうと思います』
『そうか。せいぜい励むことだ』

 最後の最後まで変わらない寂句に、それでもオリヴィアは親愛の微笑を向ける。
 思えばこれほど長い時間、この己に向き合い続けた人間は初めてだった。
 血を分けた子孫でさえ畏怖を以って臨む暴君へただひとり、何度払いのけられても食らいついてみせた女。

『……先生からは、本当に多くのことを学ばせていただきました。
 先生なくしては今の私もアルロニカの魔術もありません』

 オリヴィアもオリヴィアで、最後の最後まで恨み言のひとつもこぼさなかった。

『さようなら、ジャック先生。
 あなたは私にとって最高の恩師で、そして誰より信頼できる友人でした』

 そう言って、〈雷光〉は暴君のもとを去っていった。
 オリヴィア・アルロニカの訃報が届いたのは、それからちょうど一年後のことだった。
 彼女は奇跡を前提に告げられた刻限さえ超えてみせた。
 最後まで、ただの一度も、思い通りにならない女であった。



◇◇



「無意識制御(Cerebellum alter)―――」

 アンタレスが駆ける。
 祓葉が喜悦の形相で剣戟を繰り出す。
 生と死の狭間めいた状況で、蛇杖堂寂句は世界を遅滞させる。

 出陣前――寂句は小脳に作用する薬物を魔術的製法で"改悪"し服用。
 該当部位への甚大な損傷と引き換えに一時的(インスタント)な異能を創造した。
 後先のことを考えなくていいのなら、彼にとっては朝飯前の芸当である。
 ましてやこの分野。脳に鞭打ち思考を加速させる手法なら、頼んでもいないのに飽きるほど聞かされてきたのだ。

「電信速(neuro accel)―――!」

 運動を制御し、無意識を無意識のまま最適化して運用させる小脳を刺激し。
 思考と命令のプロセスを吹き飛ばし、無駄を極限まで削ぎ落とすことで加速を成す。

 まごうことなき付け焼き刃だが、現時点でさえ〈雷光〉の娘の速度を超えている。
 二倍速の世界にいる人間をシラフで圧倒できる男が同じ世界に踏み込んだなら、もう誰がこの暴君を止められるというのか。

「ッッ……! 速いね、先生……!」
「貴様からの賛辞ほど虚しいものはない」

 踏み込みと同時に、剣を振るう間も与えず胸骨を粉砕する。
 鉄拳一閃、常人なら即死だが無論神寂祓葉にその道理は適用されない。
 喀血しながらたたらを踏み、文字通りの返す刀で寂句を狙う。
 が、今度はそれを追いついたアンタレスの赤槍が阻んだ。

「マスター・ジャック!」
「今更狼狽えるな。
 英霊の貴様で持て余す相手だ、当然私だけで敵う筈もない。
 補ってやるから、お前も私を補ってみせろ」

 未だ葛藤はあったが、四の五の言ってられる状況ではない。
 アンタレスは頷くと、再び祓葉との絶望的な接近戦にシフトした。

 速く、重い。やはり打ち合うことは不可能と言っていい。
 多脚での高速かつ不規則な移動ができるアンタレスだからこそ、まだギリギリ対抗できている。
 並の英霊であれば武器ごと押し潰されて終いだろう。
 戦慄の中でますます大きくなっていく使命感。これを放逐できないなら、当機構(わたし)が生み出されたことに意味などない。
 大袈裟でなくアンタレスはそう考え、その切迫した焦燥が天蠍の槍をより鋭く疾く冴えさせた。

(だんだん慣れてきました。極めて凶悪な敵ですが、しかし捌けないわけではない)

 神寂祓葉は依然として全容を推し量ることもできない災害だ。
 しかしやはり、その攻撃は稚拙に尽きる。
 確かに悪夢じみた強さであるし、無策に競べ合えば確実に潰されると断言できるが、冷静に目を凝らして分析していけば生存圏を見つけ出すことは十分に可能と判断する。

 熟練のサーファーは天を衝くような大波であろうとボードひとつで乗りこなし、踏破する。
 それと同じで、祓葉はきわめて巨大な津波のようなものであるとアンタレスは認識していた。
 たとえ力で勝てなくとも、頭と技を駆使すれば、凌ぎ切るだけなら何とかできる。
 九割九分の臆病に、わずか一分の裂帛を織り交ぜて戦うこと。
 寂句の守護もこなさねばならないアンタレスが辿り着いた境地はそこだ。
 休みなく振り翳され続ける光の暴虐を目にも留まらぬ高速駆動でくぐり抜けながら、天の蠍は死力を尽くして神を翻弄していく。

「悪くない」
「っ……!?」

 寂句の小さな微笑と共に、祓葉の首筋に一本の注射器が突き刺さった。
 暴君が投擲したこれには、彼が調合した即効性の神経毒が含まれている。
 蛇の毒液をベースに精製し、自身の血を混ぜ込んだきわめて凶悪な代物だ。
 耐性のない人間なら一瞬で全身麻痺に陥り、三十秒と保たず死に至る上、魔力に反応して毒性が増悪するおまけ付き。

 魔獣や吸血種の類でも行動不能に追いやれる、今回の聖杯戦争に際して蛇杖堂寂句が用意していた虎の子のひとつである。
 赤坂亜切との戦闘では彼が超高熱の炎を纏う都合、相性的に使うことができなかったが、祓葉相手ならその心配もない。

「甘いよジャック先生。薬なんかで私をやっつけられるとか思ってる!?」
「思うかよ」

 もちろん、この怪物に想定通りの効き目が出るとは思っていない。
 現に祓葉は首の動脈から件の毒を流し込まれたにも関わらず、わずかによろけた程度だった。
 やはり根本から肉体性能が逸脱している。祓葉に対して使うなら、最低でも神話にルーツを持つ宝具級の強毒を持ってこなければ話にもなるまい。

 が――

「それでも、一瞬鈍る」

 "わずかによろけた程度"。
 その程度でも効いてくれれば、寂句としては上出来だ。

「無意識制御(Cerebellum alter)―――電迅速(high neulo accel)!」

 二倍速から三倍速へと更に加速して踏み込む。
 祓葉の剣が迎え撃たんとするが、ここで彼の作った一瞬が活きた。
 アンタレスの赤槍が閃き、迎撃の剣戟を放たんとする彼女の右腕を切断したのだ。

「やはり、四肢の切断は有効なようですね」
「く……! あは、やるじゃん……ッ」

 静かに御し方のレパートリーを追記するアンタレスと、頬に汗を伝わせながら口を歪める祓葉。
 後者の間合いに踏み込んだ寂句が、拳ではなく、五指を開いた掌底で祓葉の腹部を打ち据える。

「ぎ――が、はッ」

 骨の砕ける音、筋肉がひしゃげる音、内臓が潰れる音。
 どれも祓葉に対しては有効打にはなり得ない。
 が、重ね重ねそんなことは百も承知だ。蛇杖堂寂句の狙いはそこではない。

「捉えたぞ」
「ぇ……、ぁ、ぐ……!? ぐぶ、ご、ぉあッが……!!??」

 掌底の触れた箇所から、祓葉の身体が膨張を始めた。
 肉が盛り上がり、骨格や臓器の存在を無視して華奢な少女のシルエットを歪めていく。
 この手管は祓葉も知っていた。
 何なら食らうのも初めてではなかったが、しかしかつて受けた時とは増殖の速度が違いすぎた。

 増えるべきでない細胞を活性化させ、急速に腫瘍を発生させる蛇杖堂寂句の十八番。
 明日を捨て去るオーバードーズにより強化されたのは身体能力だけではない。
 治癒魔術の性能も異常な域に高められ、それを攻撃に転換したこの邪悪な魔術も当然のように強化の恩恵を受けていた。
 腫瘍発生速度の驚異的向上。わずか数秒の接触でありながら、既に祓葉の全身は人間のカタチを失っている。
 肉の風船めいた有様になり、四肢も腫瘍の下に隠されて、剣を握ることすら物理的に不可能な様相だ。

「これでは得意の光剣も振るえまい。
 ようやく実践の機にありつけて嬉しいぞ。実のところこうして貴様を潰すプランは、前回からずっと頭にあったのだ」
「ァ゛…………ご、ァ゛ッ……――!」

 わななく、というよりもはや"蠢く"と形容した方がいいだろう。
 か細い抵抗をする祓葉の胸に、寂句は右腕を潜行させる。
 策が通じた形だが、この拘束がそう長く続いてくれるとも思えない。
 であれば直ちに本命を遂行し、穢れた神を葬ってしまうのが先決なのは言うまでもなかった。

「――マスター・ジャックッ!」
「……チ。ああ、分かっている」

 が、アンタレスの叫びを聞くなり、寂句は目前にあった勝利を捨てて腕を引き抜く。

 真の意味での肉塊と化した祓葉の体内から、破滅的な量の魔力反応を感じ取ったからだ。
 名残惜しくはあったが、道理の通じぬ相手に深追いするほど無能なこともない。
 そしてその判断が正しかったことを、寂句はすぐさま思い知る。

 ――祓葉自身を起点として、純白の爆発が夜を揺らした。

 飛び散る五体、肉片。かつて命だったもの。
 まったく意味不明な状況だったが、寂句とアンタレスだけは起こった事象の意味を理解していた。

「なんて、出鱈目な……」
「それがこの娘だ。分かったら胸に刻んで切り替えろ」

 身動きを封じられた祓葉は、肉腫に埋もれた自分の手……つまり肉の内側に光剣を生み出したのだ。
 その上で自壊を厭わず魔力を注ぎ込み、過重状態(オーバーヒート)を引き起こさせた。
 永久機関から供給される無尽蔵の魔力でそれをやれば、暴発の規模は洒落にならない。
 自分自身を跡形もなく爆散させ、鬱陶しい肉を除去した上で、まっさらな状態で新生する。

 不滅の神が握る光の剣は凶悪な兵器であると共に、自分自身をゼロに戻すリセットボタンでもある。
 まさに出鱈目。まさに理不尽。
 幼気のままにあらゆる策を蹴破って進軍するからこその、神だ。

「来るぞ」

 粉塵が晴れ、爆心地に佇む白神の姿が再び晒される。
 腫瘍はおろか傷ひとつさえない玉体で、彼女は剣を握っていた。
 嬉しそうな。本当に楽しそうな笑みを浮かべて、刹那……

「界統べたる(クロノ)――――」

 その純真が、すべての敵を薙ぎ払う。

「――――勝利の剣(カリバー)!」

 魔力枯渇の概念がないということは、一切の戦略的制限が不在であることを意味する。
 つまり祓葉に奥の手などというものは存在しない。
 その場その場で状況と機嫌に合わせてぶちかまし、敵をねじ伏せる"通常攻撃"だ。

 爆裂した白光が、寂句達の優位を一瞬で奪い去った。
 原人を彼らが纏う呪いの鎧ごと一掃する、あらゆる意味で規格外の爆光閃撃。
 呑まれれば人間だろうが英霊だろうが、まず跡形も残らない。
 アンタレスが寂句を抱え、最高速度で退避する。

 『第零次世界大戦』の展開によって崩壊した街並みが、次は神の威光を前に蹂躙されていく。
 閃光。轟音。いやそれだけではない、祓葉は今回『界統べたる勝利の剣』を横薙ぎに放っている。
 つまり対城級の爆撃が、より広範囲を薙ぎ払う形で炸裂したのだ。

 それでもアンタレスは、死線の中でできる限り最大の働きをした。
 甲冑が灼け溶けるほどの熱を感じながら、しかし足を止めない。

「く――!」

 さながら絵面は怪獣映画。
 恐ろしい巨大怪獣が美しい少女に置き換えられただけで本質は同じだ。

 劣化して崩れたビルの瓦礫が蒸発し、巻き込まれた人間の生死など問うまでもなし。
 鏖殺のクロノカリバーは、地上には神がおわすのだとその厄災で以って証明する。
 祓葉の極光が解放されていた時間はせいぜい十秒前後。
 だがその時間が、アンタレスには永遠のようにすら感じられた。

「凌いだ……!」
「いや」

 網膜を灼く光が消えたところで、思わず漏らした安堵。
 されどそれを、他ならぬ守るべき主の口が否定した。

「まだだ」
「な――!?」

 アンタレスの視界が、今度は光ではなく影に覆われる。
 思わず見上げ、絶句する。
 空に祓葉がいた。赤い夜空を背に、両手で光剣を振り上げ、神が見下ろしている。

「貴女は……っ、どこまで……!」
「界統べたる(クロノ)」

 女神の口が、破滅の音を紡ぐ。
 時とは界、界とは時。
 その法則で廻る針音都市における、絶対の破壊が感光し。

「勝利の剣(カリバー)!!」

 上空から下へ、天の神から人へと、無邪気な粛清が降り注いだ。
 連発だからなのかは定かでないが、火力自体は先程よりも低い。
 しかしそれでも、直撃すれば即死を約束する神剣なのは変わらない。

「く、あ、あああああああああ――!」

 ふざけるな。
 論外だ、こんなところで殺されてなどやるものか。
 アンタレスは赤槍で神剣の一撃を受け止めたが、それだけでどこかの骨がへし折れた。
 そうでなくとも皮膚が直火焼きされているかのように熱く、霊基が阿鼻叫喚の悲鳴をあげているのが分かる。

 長くは保たない。
 悟るなり、彼女は思い切った行動に出た。

「申し訳ありません……落とします!」
「ああ、それでいい」

 寂句を抱えていた腕を緩め、彼を地へと放り落としたのだ。
 そうなった経緯に思うところはあるが、今の寂句はこれしきの高度からの転落では死ぬまい。
 神の爆光で消し炭にされるよりは、一か八かせめて爆心地から遠くに逃した方がいい。
 その判断は、寂句にとって期待通りのものだった。

「すごいね。ジャック先生に褒められてる人なんて、ケイローン先生以外見たことないよ」

 とはいえ無茶の代償は、アンタレス自身が払うことになる。

「お名前を聞かせてほしいな。後で思い出した時、名前がわからないと寂しいからさ」
「そう、ですか……! そういう理由でしたら、謹んでお断りします……!!」

 解放された祓葉の神剣を単独で、その上至近距離で相手取らねばならないという最悪の状況。
 が、アンタレスは必死の形相ながらも冷静だった。

(先程の真名解放に比べて、明らかに出力が弱い。
 さっきの規模で放たれていたなら、拮抗など許されず蒸発していた筈――ッ)

 推測でしかないが、この〈光の剣〉はエネルギー兵器のようなものなのだろう。
 無限の供給源がある時点で理不尽ではあるものの、察するにチャージ時間が要るのだと思った。
 覚明ゲンジ達を屠った一刀から街を消し飛ばした"薙ぎ払い"まで、時間にして三分も経過していない。
 この通りリチャージの速度も化け物じみているし、威力を問わないなら矢継ぎ早に連発できるのも間違いない。
 ただ、頭抜けた火力を出すためにはそれなりの充電が必要なのは恐らく確実だ。
 であれば――『界統べたる勝利の剣』を凌ぐことは、決して不可能ではない。そう賭けることにする。

 それすら的外れな勘違いだったとしたら、もはや自分に未来はない。
 一か八か、運否天賦。
 己を産んだガイアに、この時アンタレスは初めて祈った。

「つれないなぁ! じゃあいいよ、後でジャック先生に聞くからさ……!」
「ぐ、ぅうううううう、ぅ、ぁ――!」

 光が、天の蠍を失墜させる。
 水柱と見紛うような土砂の塔が噴き上がり、祓葉は悠然と地に降り立った。

「はい、まずはひとりね」

 共に戦う者にとっては、祓葉はその純真さの通りの、麗しく素敵な神さまに映る。
 だが敵として挑む側にしてみれば、彼女は白光の魔王でしかない。
 すべてが無茶苦茶。すべてが理不尽。
 寛容な顔をして、その実そこに一切の慈悲もない。
 きゃっきゃと騒ぎながら蟻の手足を毟る子どもが、そのまま大きくなったような生命体。

 神とは本来純粋なもの。ヒトの穢れを知らず、故に行動のすべてに嘘がない。
 そういう意味では、まさしくこれは現代の神なのだろう。
 神が地を蹴り、光の軌跡を残しながら友(てき)の元へと駆けていく。

 蛇杖堂寂句。
 一足先に地へ降り、二発目の神剣から難を逃れた傲慢な暴君。

 彼の目前に、ひと足跳びで祓葉は到達していた。

「そんでもって」

 いかなる加速も妨害も、この間合いでは間に合わない。
 人間の身で祓葉とわずかでもやり合えたのは奇跡と呼ぶべき奮迅だったが。
 奇跡とは、何度も起こらないからこそそう呼ばれるのだ。

「これで二人目」

 あらゆる反応を許さぬ、神速の一突きが放たれた。
 光剣は切っ先から暴君へ吸い込まれ、その胸を穿っていた。
 飛び散る血潮、溢れるか細い呻き声。
 そして、誰かの絹を裂くような悲鳴。

 笑っていたのは、ひとりだけ。



◇◇



 オリヴィアの葬儀にはもちろん参列しなかった。
 そも、弔いという行為に寂句はまったく興味がない。
 そこに合理的な意味を見出だせないのだ。
 無駄に長い時間と費用を使って、死んだ人間のために骨を折ることに何の意味がある。
 息子が幼くして死んだ時にすら、彼は欠片ほどもそれを弔わなかった。
 なのに今更、赤の他人のために道理をねじ曲げる意味もない。
 訃報を受け取ったその日も、寂句は筆を走らせていた。
 オリヴィアと何度も何度も語らった書斎の中で、彼はいつも通りだった。

 作業を終え、顔を上げた時。

 ふと、視界の隅に一本のガラス瓶を認めた。
 手の中に納まる程度のサイズ。
 コルクで栓をされたその中には、微かに輝く液体が収まっていた。

 『偽りの霊薬(フェイク・エリクサー)』。
 蛇杖堂家の研究成果、その最たるものだ。
 素材の厳選、精製の複雑さと難易度、精製にかかる所要時間。
 すべてが冗談のように困難で、それだけ諸々費やしてようやくこれだけの量が得られる。
 まさしく、蛇杖堂の家宝だった。
 生きてさえいるのなら、たとえ半身が吹き飛んでいても脳が飛び出ていても全快させられる究極の傷薬。
 死を破却したアスクレピオスの偉業に、人間の知恵で極限まで迫って創り出したちっぽけな奇跡。

 "ご、ごめんなさい。
  その……気が、抜けちゃって。
 よかったぁ……よかったよぉ……"

 ――もしも。

 "ありがとう、ございました……。
  ジャック先生のおかげで私、わたし、ここまで来れた……"

 ――あの時。

 "さようなら、ジャック先生。
  あなたは私にとって最高の恩師で、そして誰より信頼できる友人でした"

 ――これを使っていたなら、あの女は今も書斎(ここ)で煩く囀っていただろうか。

 蟀谷を押さえて、吐き捨てるように嘆息した。
 その一息で、降って湧いた不可解を振り払う。

『私の物欲も大概だな。今になって電磁時計が惜しくなったか』

 クク、と苦笑して、寂句は作業へ戻った。



◇◇



「――――クク」

 笑っていたのは、蛇杖堂寂句。
 心臓を貫かれ、串刺しにされたままで喉を鳴らしている。

「え……?」
「貴様の阿呆さは底なしだな、無能娘が。
 バケモノなりに情でも湧いたか? 敵を殺すと決めたなら、胸ではなく首を刎ねろよ」

 確かに心臓を破った筈なのに、何故寂句が生きている?
 疑問の答えを知る前に、祓葉はその腕を掴まれていた。
 奇しくもそれは、さっきアンタレスが彼女にされたのと同じ光景だった。

「無能どもの多くに共通する特徴だが、視野が狭い。
 せっかく情報を得ても、それを多面的な角度から考察する勤勉さを持ち合わせない。
 何を呆けている、祓葉。貴様とその相棒のことを言っているのだぞ?」
「……はは。ごめんね、知ってると思うけど私って頭悪くてさ。
 どういう意味なのか、バカにも分かるように説明してもらってもいいかな」
「貴様は私の魔術を、前回の経験で知っていた。
 加えて先程もその身で受けた。つまり、気付く機会は明確に二度あったわけだ」

 蛇杖堂寂句の有する攻撃魔術――名を〈呪詛の肉腫〉。
 かつて彼が診断した希少症例、"魔力に触れて突然変異した肉腫"を参考に開発した治癒の反転。
 手で触れ、掴んだ部位に腫瘍を発生させ、接触時間に応じて増悪させる。

「少しは頭を使えよ。自分自身には使えないなどとは、私は一言も言っていないぞ」

 寂句はアンタレスの機転で地に降りるなり、まず己の胸元に五指をねじ込んだ。
 その上で体内に肉腫を生成。発生させた腫瘍で押し退けることにより、心臓の位置を元ある場所からズラしていたのだ。
 いま光剣の貫いている位置に、彼の心臓など存在しない。
 それでも主要な血管が何本か焼き切られてはいたが、その程度なら寂句は瞬時に治癒できる。致命傷と呼ぶには程遠い。

「そんな、コト――思いついてもやる、普通……?!」

 もし祓葉の狙いがわずかでも狂っていたら?
 突きではなく、単純に割断されていたら?
 そんな"もしも"、寂句は微塵だって考慮していない。

「貴様が狂わせたのだろうがよ」

 なぜなら、彼もまた狂人だから。
 死など恐ろしくも何ともないし、失敗の危険など足を止める理由にならない。

 寂句の腕に力が籠もり、再び祓葉の身体に肉腫が萌芽する。
 老人の口が、ニタリと邪悪な形に歪んだ。 


「共に踊ろう、我が最愛の畏怖よ。
 ――――最高速度(トップスピード)だ」


 無意識制御(Cerebellum alter)―――雷光速(over neulo accel)。

 いま薪木となるエモーション。
 脳が弾け不可逆に損傷する、全身の血管と筋肉が弾けて体表から皮下組織の花が咲く。
 正真正銘の最高速度、究極の加速と共に廻る魔術回路。
 祓葉の身体は、一秒を待たずして再び原型を失った。

「っ、あ、ああああああああああああああああああああ!!??」

 肉腫は魔獣のあぎとのように彼女の体内を噛み潰していく。
 内臓は全損し、脳は圧潰。骨も筋肉もすべてが肉腫の密度に圧されて搾り滓と化す。
 それでも祓葉は死なないだろうし、じきにさっき見せた"新生"が来る。

「く、ろ、の――――」

 どんな速度で肉塊に変えても意味はない。
 神寂祓葉は、この世の誰にも殺せない。
 不滅の神。悍ましき白光。
 されど。

 ――蛇杖堂寂句は最初から、神寂祓葉を殺すことなど目指していない。

「今だ」

 彼の腕がようやく、祓葉の手を離す。
 刹那、先程の焼き直しのように、その拳が肉塊の胸部に埋まった。
 達人も裸足で逃げ出す練度で磨き上げられた、傲慢なる暴君の鉄拳。
 それが肉腫の層を貫き、そして、彼女の不死の根源へとうとう触れた。

 永久機関――『時計じかけの歯車機構』。
 〈古びた懐中時計〉そのままの形をした時計細工が体外へと押し出される。
 今度は間に合った。祓葉の新生が発動する前に、寂句は彼女の心臓を露出させることに成功した。

 結論から言うと、成功したところで意味はない。
 祓葉は永久機関の最高適合者。
 オルフィレウスの時計と彼女は魂レベルでの融合を果たしており、引き離したところで問題なく再生は続行され、時計も体内に戻っていくだろう。
 意味はない。そう、意味はないのだ。


「――――――撃ち抜け、ランサー!」


 増長した生命体を死以外の手段でこの世から放逐できる、そんな協力者(パートナー)でもいない限りは。


「マスター・ジャック」


 声が響く。
 ごぼりと、肺に血が溜まっていることを窺わせるものではあったが、確かにその声は戦場に響いた。
 闇を切り裂くのは、何も光だけの特権に非ず。


「その命令――――――受領いたしました……!」


 赤き甲冑が、それを纏った蠍が、主君に倣う最高速度で躍り出た。
 甲冑は溶け、砕け、傷だらけ。
 神剣を浴びた代償は決して安くない。
 だとしても彼女は確かにそこにいて、この赤に染まった夜の中で尚燦然と輝く紅を体現していた。

「…………かりばぁあああああああああああッ!」

 祓葉の肉体が弾ける。
 光に包まれ、寂句さえもがそれに呑まれる。

 だが、時計はまだ空にあった。
 肉体の爆散と、その再生の間にはわずかなれど時間がある。
 ならば成し遂げられない理由はない。
 いいや、あっても当機構がねじ伏せてみせる。

(届くか? ……いいや、届かせてみせる――!)

 アンタレスが、静謐をかなぐり捨てて駆けていた。
 赤槍と時計(しんぞう)の距離が、瞬く間に縮まっていき。
 そして……


「…………英雄よ(アステリズム)、天に昇れ(メーカー)ぁぁぁぁッ!!!」


 確かに蠍の毒針は、神の心臓に触れた。



◇◇



 〈はじまりの聖杯戦争〉にて、蛇杖堂寂句は台風の目のひとつだった。東京を襲ったその台風は多眼であった。

 都市を弄ぶ傭兵ノクト・サムスタンプ。
 神をも恐れぬ爆弾魔ガーンドレッド家。
 その二陣営と並んで恐れられるだけの武力を、寂句は単独にして有していた。

 ギリシャ神話に伝わる"大賢者"。
 数多の英雄を門下に有し、自身も最高位の技量を持つ最強クラスのサーヴァント。
 真名ケイローン。
 彼と寂句が組んだことで生まれたのは、ただでさえ無双の賢老だった寂句がケイローンとの議論を糧に日を追うごと強化されていくという悪夢だ。

 軍略までもを生業に加えた寂句が、星を穿つ究極の弓兵を従えるのだ。
 勝てる理由がない。そも、それと張り合える陣営が複数存在していたことがおかしい。
 もしこれが普通の聖杯戦争だったなら、間違いなく彼らの勝利で早々に決着していただろう。

『禍津の星よ、粛清は既に訪れた』

 "その時"、神寂祓葉の脅威性を正確に認識していたのはまだ全員でなかった。
 散っていった者。生き永らえ、彼女の破格さを目の当たりにしたもの。
 ケイローンは後者だった。文字通り星を穿つために、彼の宝具は開帳された。

『星と共に散るがいい――――"天蠍一射(アンタレス・スナイプ)"』

 弓からではなく、星から放たれる流星の一撃。
 瞬足の大英雄でさえ逃げ遂せることの叶わない、最速必殺の究極矢。

 当然、避けられる筈もない。
 迎撃することも無論不可能。
 祓葉は撃ち抜かれ、地に伏した。

『貴様は横槍に備えろ、アーチャー。祓葉(ヤツ)は私が摘む』
『ええ、お願いします。ですが――我が友よ、くれぐれもお気をつけて。
 祓葉……あの少女は私をして、未知と呼ぶ他ない危険な存在です。
 何が起きるかわかりません。あらゆる事態を想定してください』
『言われるまでもない。獣は死に際が最も恐ろしい』

 唯一、朋友(とも)との呼称を否定しないほど優れた英雄に背を向けて。
 寂句は、倒れ伏して動かない白い少女へ歩を進めた。

 思えば、その存在は最初期から認識していた。
 楪依里朱が見つけてきた、不運にも巻き込まれた少女。
 オルフィレウスの永久機関などという絵空事を寄る辺に戦う、無知で蒙昧な娘。
 だが、やはりさしたる興味はなかった。
 むしろ寂句は彼女よりも、その心臓に埋め込まれた永久機関(ペースメーカー)の方に関心を抱いていたほどだ。

 されどそれも、長い観測の末に実用に値せぬと判断した。
 であれば惜しくはないし、恐れることもない。
 完全に適合を果たせば脅威だが、こうしてそうなる前に潰すことができた。
 後はとどめを刺すだけ。それで、永久機関を宿した少女の猛威は永遠に失われる。

『無能め。だが同情するぞ、神寂祓葉。
 過ぎた力を与えられ、幼稚な万能感のままに成功体験を積み重ねてしまった哀れな娘』

 死んでいるならそれでよし。
 まだ生きているなら、念入りに踏み躙るまで。
 単なる確認作業だ。勝利はすでに確定している。

『恨むなら貴様の相棒を恨め。
 恨まぬというなら安心しろ。すぐに冥土で再会できるだろうよ』

 足を止める。
 そして見下ろす。
 そこにあるのは、倒れ臥して動かず、か細い呼吸を繰り返すばかりの少女の姿。

『……、……』

 胸元が上下している。
 わずかだが、まだ生命が身体に残っている。
 ならば終わらせてやるまで。その筈だった。
 なのにその時。もはや記憶の屑籠に放り込んだ筈の、いつかのことを思い出した。


 "はじめまして。不躾な訪問ごめんなさい、ジャクク・ジャジョードー。
 正面からアポを取ったんじゃ絶対会ってくれないって聞いたので、勇気出してアポなしで来ちゃいました"


 思い返せば、実によく似ていた。
 人懐っこくて、物怖じしない。
 無能かと思えば、妙なところで芯を食ったことを言う。
 何度振り払っても懲りずに、喧しく囀りながら寄ってくる。
 いつも笑っている。嬉しいときも、悔しいときも、悲しいときも。
 自分の死を前にしてすら、切なげに笑ってみせる。

『――――――――――――オリヴィア』

 気付けば、呟いていた。
 眠る"それ"の顔が、記憶の中にしかいない"あれ"のと重なった。

 初めて訪ねてきた時は正気を疑った。
 二度目は辟易した。五度を超えた辺りから風物詩になった。
 いつしか袖にするのを諦め、挑まれる対話に応じるようになっていた。
 吐露される疑問に意見を返し、その度議論を交わしてきた。
 納得いかない時はできるまでめげずに噛み付いてきた。
 実力で蹴り出すことなどいつだって可能だったのに、自分でも気付かない内に選択肢そのものが消えていた。

 蛇杖堂寂句にとって、心とは理解の及ばぬ不可解だ。
 すべてを理屈と、それを参照した合理で判断する彼には、いつだってヒトの心が分からなかった。
 なまじ自分の中にはそう呼べるものがなかったから、他者の心に阿るという道は存在しない。

 彼には心がなかった。
 有象無象の無能どもが恥ずかしげもなくひけらかす情動を、彼は知らずに生きてきた。
 例外はただの一度だけ。オリヴィア・アルロニカの死を聞いた日、書斎で『偽りの霊薬』が収まった瓶を見たその日だけ。


 ――もしも。
 ――あの時。
 ――これを使っていたなら、あの女は今も書斎(ここ)で煩く囀っていただろうか。
 ――私は。
 ――オリヴィア・アルロニカを、救えたのだろうか。


 蛇杖堂寂句は不合理を許さない。
 だからその感情を放逐し、忘れ去った。
 だが因果とは巡るもの。報せとは応えるもの。

 この時彼の目の前には、ひとつの〈未練〉が転がっていた。


『……クク』

 似ている。
 本当に、よく似ていた。

『すまんな、ケイローン。貴様が正しかった。なるほど確かに祓葉(これ)は、地上にあるべきでない怪物だ』

 失って初めて気付き。
 故に忘れた、生涯初めての"後悔"。
 それを思い出させ、すでに確定した結末をねじ曲げたこの白色が、怪物でなくて何だというのか。

 ああ、吐き気がするほど恐ろしい。
 這いずって、恥も外聞もなく逃げ出してしまいたい。
 なのに心は歓喜に震え、眼輪筋が痙攣している。

『いいだろう。今回は私の負けだ』

 気付けば手が、懐から虎の子の家宝を取り出していた。
 『偽りの霊薬』。
 そこに命が残っているならば、いかなる病みもたちまちに癒してしまう叡智の結晶。
 あの日自分が差し出せなかった、最大の〈未練〉。

『貴様はこの戦争を制するだろう。
 そうして聖杯を手にした貴様が何をするのか、私には想像がつく。
 私は甦り、貴様の舞台を彩る走狗として恥を晒し続けるのだろうな。
 まったくもって、笑い出したいほどに最悪だ。"おまえ達"は、いつも人の都合などお構いなしだ』

 コルク栓を抜き。
 中身を、目の前の瀕死体に向けて傾ける。
 淡く輝く液体が、祓葉/オリヴィアに注がれていく。

 それは自分の詰みを意味していたが、止める理性は働かなかった。
 きっとこの時、蛇杖堂寂句の魂は真に灼かれたのだろう。

『私の脳髄はいつだって合理的だ。
 未練(こ)の不具合は忘却の彼方に葬り、貴様を葬るために有用な狂気を被るのだろう。
 さしずめ、そうだな――〈畏怖〉といったところか。ちょうどいい。喜べよイリス、〈未練〉はお前に譲ってやる』

 瓶の中身が、すべて注がれた。
 白い少女の、閉ざされていた瞼が開く。
 右手に握られる、網膜を灼くように眩い〈光の剣〉。
 それが、彼の末路を端的に示していた。

『だが忘れるな。私は、決して敗けん』

 祓葉が立ち上がる。
 記憶の中の彼女と、その微笑みが重なる。

『貴様がいちばん、それを知っているだろう。
 私は誰より私の頭脳と、重ねてきた月日の値打ちを信じている』

 剣が、振り上げられた。
 死が目前にある。ケイローンであろうともはや間に合うまい。
 だが、恐れはなかった。
 あの時の彼女はこんな気持ちだったのかと、思った。

『あの世で見ておけ、愛弟子(オリヴィア)よ。貴様の師は神をも挫く男であると、遅い餞別を魅せてやる』

 そうして訪れた、最後の一瞬。
 助けてしまった少女は、後に神となる極星は、さびしそうに微笑んで――


『さようなら、ジャック先生』


 愛弟子と同じ科白を吐いて、壊れた暴君を終わらせた。



◇◇



 一瞬、意識が飛んでいた。
 瞼を開き、己のあまりの有様に苦笑する。

「……これでまだ生きているとはな。私も他人のことは言えんようだ」

 左の視界がない。
 それもその筈だ、寂句の左半身は完全に焼け焦げていた。
 仮に余人が見たなら、焼死体が歩いていると絶叫されても不思議ではないだろう。
 そんな有様で、寂句はなんとか生を繋いでいる。
 充填の浅い神剣ならば、平均的な英霊級の強度を持っていれば死寸前の致命傷程度で済む可能性もあるらしい。

 などと新たな知識を補充しながら、寂句は視界の先にその光景を捉えた。
 それは――無慈悲なる現実であり、神々しい奇跡そのものだった。

 結論から言おう。
 蛇杖堂寂句と天蠍アンタレスは、神寂祓葉を天昇させることなどできなかった。

「な、ぜ……」

 這い蹲って、アンタレスは絶望の表情でそれを見上げている。
 神は再生していた。時計は再び心臓へ収まり、世界からの放逐が始まっている気配もない。
 平時のままの微笑を携えて、神寂祓葉は天蠍の少女を見下ろしている。
 無傷。肉腫はすべて吹き飛び、血の一滴も流すことなく、再臨した神はそこにいた。

 アンタレスの問いに、祓葉は何も答えない。
 その無言が却って、彼女の神聖を引き立てて見える。
 断じて毒を食らわされた者の顔ではなかった。
 彼女の涼やかな健在が、寂句達の奮戦がすべて無駄だったことを静かに、そして無情に物語る。

「……なぜ……っ」

 鉄面皮こそが天蠍の在り方だ。
 なぜなら彼女はガイアの尖兵、粛清機構。
 そこに感情があれば贅肉となるし、だからこそ彼女はその手の余白を生まれながらに排されていた。

 そんなアンタレスの顔はしかし、今だけは無感とは程遠かった。
 失意と無力感。絶望と憤怒。交々の感情が、やるせなさでコーティングされて美顔に貼り付いている。

「なぜ、まだ、此処にいるのですか……!」
「ごめんね。私、そういうのは卒業してるんだ」

 祓葉がようやく返した答えは、しかしすべての答えだ。
 彼らの計画は、そのスタート地点からして失敗していたのだ。
 奇しくもそれは、覚明ゲンジが到達したのと同じ結論。
 最初からこの戦いに意味などなかった。
 自分達は勝手に、届きもしない星の光に焦がれて、夜空を舞う虫螻の如く踊っていただけ。

「私の勝ちだよ、ジャック先生。そしてランサー。
 遊んでくれてありがとね。ゲンジもあなた達も、とっても楽しく私を満たしてくれた。
 だから、さようなら」

 神のギロチンが静かに掲げられる。
 アンタレスはその現実を受け入れられず、気付けば槍を振るっていた。
 確定した結末を拒む、惨めで無様な幼子の駄々。
 不格好な赤槍が、この夜で最も情けなく煌めいた。


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最終更新:2025年08月13日 00:45