焚火の山のようだ、と少年は思った。
 野山に薪木を積んで、火を灯す。
 それを肴に話に花を咲かせて、肉や魚を焼いて食べる。
 厭世家の彼には実際にそうした営みに興じた経験はなかったが、それでも否応なしにそんな表現が脳裏に浮かんだ。

 世界でも有数の大都市である東京の摩天楼は、既にその面影をまったく失せさせていた。
 高層ビルから住宅街まで例外なく炎に包まれ、救援のために派遣されたのだろう自衛隊のヘリのスクラップがそこかしこに転がっている。
 およそ百年前にこの地を襲った空襲の戦火でさえ、これほどの地獄を具現させることはなかったろう。
 ヒトが比喩表現として用いる"地獄"ではなく、文字通りヒトが死後に行き着いて苛まれるとされる"地獄"。
 焦熱地獄と呼ばれる景色を、あまたの命と歴史を絵具にして描きあげたような光景。
 それが現在、この首都を覆い尽くす惨禍の絵図であった。

 そんな死の街、死の都の中にただひとつ輝くものが産声を響かせている。

 輝きながら、ちいさく蠢く王冠だった。
 まごうことなき聖性と、命の重さを思わす聖遺物。
 生まれたての赤子のようであり。
 百年の生涯を終えた聖者の遺体のようでもある。

 〈熾天の冠〉。
 魔術師たちは、これをそう呼んだ。
 少年は最後の歯車と呼んでいたが、大差はない。
 重要なのはこの杯、王冠こそが万人にとっての悲願であったということ。
 運命を覆し、艱難を制し、永遠の迷走を打破することのできる最後の鍵であったということ。
 すなわち聖杯。遠き神話に始まり、現代にまで連綿と信仰の継がれてきた最高峰の聖遺物だ。

「みんないなくなっちゃったね」
「自分で殺しておいて何を言ってるんだ、きみは」
「それもそっか。じゃあさキャスター、これで終わりなの?」

 聖杯の降臨が成り、その目前に立っているひとつの主従。
 この光景は、聖杯戦争という――ある大いなる儀式の終わりを明確に示していた。
 もはや隠蔽などはどうやっても不可能だろうが、兎角決着はついたわけだ。
 七つの願いは蠱毒の果てに、最後のひとつを残して散った。
 結局最後まで誰ひとり、神の実在を証明することはできなかったのだ。

「……終わりだよ。これですべては終わり、きみとボクの願いは叶う。
 ボクらの縁もこれで打ち止め、ということになるね。
 率直に言うとせいせいするよ。もうきみのお守りは懲り懲りだ」

 少女が、〈熾天の冠〉に手を伸ばす。
 止めはしない。杯と呼ばれたその王冠を、少女はゆっくりその手に担う。
 戴冠の時だ。この世界で誰より輝いていた彼女は、これで名実ともに神さまになった。

「そっかぁ……。私は嫌だな、もっと"みんな"と一緒にいたかったのに」

 だというのに、少女は少し寂しげな顔をしていて。
 それから何か思いついたように、ぱっとその表情を明るくした。
 頭の上に王冠を載せて、浮かれてるのを隠そうともせずにその場でターン。
 従者の、キャスターの方へと、振り返る。
 そして神さまではなく、王さまとして。
 この世のすべてに愛され、同時に恐れられた女は朗らかに笑って言った。

「――よし、決めた! もっかいやろうよ、もっかい! 聖杯戦争!」

 即座に起動される聖杯。
 おい待て、だとか。
 何をする気だおまえ、とか。
 そんな止める言葉を放つ暇さえ、彼女は少年に与えなかった。

「あの子たちも呼んでさ、今度はもっと大勢で遊ぶんだ。
 日が暮れても、夜が明けても。今度こそ、私を倒せる子が現れるのを信じて!」
「バカ、やめろ! ていうかボクの願いはどうなるんだ、おまえ――!」
「そのへんはもちろん考えてる! だってキャスターさ、冠(これ)だけじゃほんとにやりたいことはできないんじゃない?」

 その言葉に、少年は押し黙る。
 実のところそれは、図星だった。
 確かに〈熾天の冠〉、大聖杯に届く願望器ならば願いを叶えることはできる。
 だが聡明なる少年はこの時点で、既に分析を終えてしまっていた。
 おそらくこれだけでは、まだ足りない。まだ、真の大願を満たすまでには至れない。
 だからこそ願いを叶えて永遠にも思えた第一工程を突破した後で、次に進むか足を止めるかを考える気でいたのだが……

「欲張っていこうよ。私たちが勝ったんだもん、それくらいのわがままは許されてもいいでしょ?」
「……簡単に言うけどな、もう一回やるって具体的にはどうするつもりなんだ。
 ここまで派手にやらかしたらこの先はいよいよ遊びじゃ済まない。
 きみが欲しがってる"遊び相手"以外も山ほど首を突っ込んでくることになるんだぞ。きみはそれでいいのか?」
「やだよそんなの。だからね、新しく創ろうかなって」
「は?」

 王冠の少女が、両手を広げる。
 炎に包まれた死の街で、両手を。
 きっと、たぶん、本当に。
 何の冗談でもなく、世界のどこまででも届いてしまう両手を。
 少女は、広げて。そして――


「私たちのためだけの世界を創る。そこで新しく始めよう、私たちのためのゲーム盤を」


 そんな。
 神さまにしか許されないような、ことを。
 王さまのような尊大と、少女のような純粋さで――神寂祓葉はそう言った。



◆◆



 聖杯。それは――万物の願いを叶える、至高の聖遺物である。

 これをめぐり争うことを"聖杯戦争"と呼び。
 聖杯を求む魔術師たちは英霊を招き寄せ、従者(サーヴァント)として使役する。


 2024年1月。東京都内にて、聖杯戦争が開催された。
 聖堂協会の所有する〈熾天の冠〉を用い、開催が告げられた聖杯戦争。
 名乗りをあげた者は数多く、されど資格を得られた者はセオリー通りに七人。
 七人のマスターと、七騎のサーヴァントにより行われた、あらゆる魔術師の悲願を叶えるための戦いである。

 複雑に交差して絡み合う策謀と陰謀。
 行使される武力、日増しに苛烈化していく戦線。
 同盟、裏切り、工作、反則まがいの裏技に至るまであらゆる手管が飛び交い、摩天楼東京は魔境と化した。
 目指すは聖杯。狙うは成就。誰一人己の願いと未来を譲る気などなく、繰り広げられる誇りと汚濁に塗れた殺し合い。



 その均衡を破ったのは、魔術師ですらないひとりの少女だった。



 半ば偶然、巻き込まれるようにして戦火に身を投じた哀れな娘。
 呼び出したサーヴァントも、戦力的にほぼ意味を成さないと言っていい最弱の魔術師(キャスター)であった。
 だから誰もが気にしていなかったし、せいぜい他所の手札を引き出す当て馬にでもなれば御の字と高を括っていた。

 だが、少女は勝った。
 目の前に現れる、すべての争いに勝利した。
 臆することなく前線に立ち、何度も傷つき、時に致命傷さえ負いながらそれを跳ね除けて粉砕した。
 ある者は、それを奇跡と呼び。
 またある者は、悪夢と呼んだ。

 奇跡としか形容できない不条理。
 悪夢としか表現できない理不尽。

 光の剣を、その右手に握りしめ。
 いついかなる時でも微笑みながら、快活に、踊り舞うように勝利を重ねるハイティーン。
 それしか知らないように突き進む究極の勝利。
 彼女の進撃は、最後の一騎となるサーヴァントが消え去るまで絶えることなく続き。
 少女は、星降る炎の夜に聖杯を手にした。


 ――遊ぼうよ、もっかいみんなで。


 聖杯/王冠を戴いて、いつも通りに笑う顔を憶えている。
 まるで、みんなで楽しんだゲームをもう一度やろうと持ちかけるみたいに。
 少女は自分の手で殺し、そして蘇らせた六人の友達(マスター)へそう言った。

 そう。
 これは、ある少女の遊び場に過ぎない。

 少女は、常に勝者である。
 勝ち続ける者。そうでしかあれないもの。
 世界の主役。唯一神の否定者。根源に繋がらずして、すべての理の外にある特異点。
 絵空と現実の境目に立つ、無銘の神話の現人神。神の不在証明。無神論。

 だからこそ、結末は定まっている。
 自分で造って、自分で集めて、そして自分が勝つ。
 いつもの通りに。足並みを揃えることなんて知らないまま、先へ先へと歩んでいってしまう理不尽だけがここにはある。


 主役は、ひとり。
 その光に目を焼かれた亡霊が、六人。
 そして、もっと楽しく遊ぶために用意された演者(アクター)が無数。
 聖杯戦争は、新たな地平にて再演される。
 みんなは、願いを叶えるために。ひとりだけが、遊びのために。
 英霊を従え、術と天運を尽くして、踊るように旋律を織りなすのだ。


 演目の名は『第二次聖杯戦争』。
 あらゆる魂を灼く光のまわりで、廻り廻るは願いの星屑。
 故に、ここに成すべき命題を宣言しよう。



 それはかつて六人の魔術師たちが果たせなかった難題。
 世界の誰も果たせるはずのない、神さえ届かぬ星の理。

 一切鏖殺に並ぶ、聖杯戦争の勝利条件。
 果たさぬ限り、何人たりとも聖杯へ届くこと能わぬ。




 己が願いを叶えるため、星の奇跡を葬送せよ。

 時の彼方へ高らかに翔び立つ、"幼年期の終わり"を否定せよ。


 神寂祓葉に、勝利せよ。



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最終更新:2024年06月01日 23:30