――そうして、種は間引かれた。
 此処は少女のための楽園。
 ひとりの願いによって回る叙事詩(ラグナロク)。
 回る舞台は時計の針と同期している。運命という名の、時計の針と。
 故に此度の戦に名を与えるならば、それはきっと〈針音聖杯戦争〉。
 既に終わった物語が、子どもじみたわがままを唱えて罷り通ったあり得ざる"もう一周"。
 それを望み、そして引き金を引いた少女は今、東京の町並みを一望できる摩天楼の縁に腰を下ろして足をぶらつかせていた。

「おもしろかったねえ」

 そう言って、にへら、と笑う。
 この聖杯戦争に調停役の人員は存在しない。
 だが強いて言うなら、それは彼女なのだろう。
 ゲームマスターにして主人公。
 主人公にして、最大の脅威。
 神寂祓葉。あまねく神話を否定しながら自分の神話を綴り上げる、人類最美の冒涜者。

 彼女にとって、この聖杯戦争は遊戯である。
 そして同時に、映画のようなものでもあった。
 だからこそどこまでも邪気なく、予選の一月をこう締め括る。
 本当に楽しかったし、面白かった。
 つい介入して両手の指では収まらない数の演者を間引いてしまったほどには、祓葉にとってそれは愉快な娯楽であった。

 物語は進み。
 ゲーム盤は、じきにその真の姿を顕す。
 あらゆる演者は今も、この聖杯戦争の真実を知らない。
 この物語は実に公平。誰もが血で血を洗う骨肉の争いを越えて熾天の冠に辿り着く権利を有している。
 故に彼らは端役(エキストラ)ではなく演者(アクター)なのだ。
 思い思いの演技を魅せ、主役の座を勝ち取るべしと造物主は彼らへそれを望んでいる。
 だからそう、ただひとつこのゲーム盤に陥穽のようなものがあるとすれば、それは。

 最初から、〈主役〉の座が埋まってしまっていること。
 誰も彼もに物語を求めながら、その生き様を皆が欲する主役の座から楽しげに笑覧する女がいる。
 そして彼女に侍り、妄想の淵から這い出した理想の成就を掲げる男がいる。
 この物語はとても公平。だがその実、呆れてしまうほどに"どうしようもない"。

 だって、そう。
 物語に主役がいるのが当然ならば。
 それと同じくらいには――〈黒幕〉がいることだって当然だろう。

「時は満ちた。これから聖杯戦争を始め、そして速やかに終わらせる」
「もういいの?」
「ああ、もういい。慣らしは済んだし、好んで手を拱く趣味もない。
 此処からは早急に事を進める。元よりこんなもの、ボクに言わせれば試作機を動かすまでの煩わしい準備段階に過ぎない」

 非常に不快だった、と目を細める少年科学者。
 名を、オルフィレウス。捨て去った名を、ヨハン・エルンスト・エリアス・ベアラー。
 世界を救えたかもしれない、片田舎のちっぽけな天才である。

 だが、今やその霊基。その存在。いずれも、芥に非ず。
 彼は虚空に神を見た。調子に乗るので絶対に口には出さないが、確かに未知との遭遇はあったのだ。
 溢れ出したインスピレーション。突破された到達限界。あまねく理論は眩い現実の前に淘汰され、今その指先は星に迫っている。
 かつての戦争で、彼はまったくの役立たずだった。
 死にゆく少女を〈主役〉に変えてしまったこと以外で、彼ができたことはほぼほぼ何もない。
 されど今は違う。それが単なる意気込みの類でないことは、彼が痩身から放つ既存のどれとも類似しないまったく未知のエネルギー反応が証明していた。

「とはいえ基本方針は変わらずだ。
 外付けの部品で性能を底上げしたとはいえ、ボク自身が何かの達人になったわけじゃない。
 素人の付け焼き刃ほど容易いものはないからね。ボクは変わらず裏方に徹し、前線での野蛮な戦闘はきみに委ねる」
「うんうん、それがいいよ。ていうかそれなら私も安心。
 ヨハンがすごい英霊達に囲まれて無双してる絵面とか、どうやっても想像できないもんね」
「……うるさい。きみの方こそ、好きにやるのはいいがボクの存在だけは忘れるなよ。実のところボクはそれを一番恐れてるんだからな」
「もう。ヨハンって私のこと、山猿か何かだと思ってない?」
「今更になってようやく気付いてくれたかい? だったらボクも常々通じない皮肉をがんばって言い続けてきた甲斐があるよ。ありがとう」

 〈主役〉と〈黒幕〉が、肩を並べて言葉を交わし合っている。
 まるで竹馬の友のように。真実、死線を共にした相棒同士のように。
 そして彼らの向いている方角は、いつだとて常に同じなのだ。
 その事実が、この物語において誰かが名乗りを上げる難易度を極悪なまでに高めていた。

 〈主役〉たるは神寂祓葉。
 光の剣を右手に握り、笑顔で戦場を駆け抜ける。
 時に人を救い、時に人を殺し、時に人を狂わせる常世の光。

 〈黒幕〉たるはオルフィレウス。
 孤独ゆえに真理へ辿り着けなかった男の物語は既に終わっている。
 肩を並べて戦う相棒を得た彼に隙はなく。その計画は、針音と共に廻り続けて久しい。

 最弱は、最強に成った。
 理論値を暴力的に破壊するかつてのダークホース、現在の勝ち馬筆頭。
 彼らはゲームマスターであると同時に、プレイヤーでもある。
 故に悪夢。自分達でお膳立てをし、自分達で役者を集め、自分達でゲームを閉じる清々しいまでのマッチポンプ。
 そう、結末は最初から決まっているのだ。
 勝利は主役の特権で、敗北すべき黒幕がそれと手を繋いでいるなら物語に破綻の二文字はあり得ない。

「まあ、冗談はさておき」
「本当に冗談かは疑わしいものがあると言わざるを得ないね。何度もボクはそれを見ている」
「安心したよ。ずっとボクと一緒に後ろに引っ込んでろー、とか言われなくてよかった。
 まだ会えてない子も多いし、これから会いたい子も多いしね。
 やっぱり一緒に遊ぶなら、顔を突き合わせて楽しまなくちゃ。そのために私は、王冠を被ったんだから」

 神寂祓葉の人格は、聖人と言ってもそう差し支えないものだ。
 困っている人がいれば手を差し伸べる。人を美醜や生まれで判断しない。
 人間が当然に持ち合わせる感情の中から、"憎"が欠落していることを除けば、彼女はむしろ人間らしすぎるほどに人間らしい。
 だからこそ、オルフィレウスほどの厭世家でも流石に理解させられてしまう。
 この言葉にも、きっと嘘や含み、ましてや皮肉など微塵もないのだと。
 この少女は本当に"みんなで楽しく遊びたくて"、だからこそこれから始まる第二次聖杯戦争に胸をときめかせているのだと。
 それはさながら、行事の前日に何度も寝返りを打ちながら明日の楽しみを空想する子女のように。

「楽しみだなあ。ふふ、ふふふふふ!
 どんな子がいるんだろ。どんな子とお話できるんだろ!
 どんな子が、私をやっつけに来てくれるんだろ――ああ、もう! ない心臓がどきどきしちゃうよ~!」
「……やっぱり、きみは化物だな」
「む。その台詞何回目? 私だって年頃の女の子なんだから、何回も言われると傷ついちゃうんだけど?」
「言葉の裏を読めないバカはこれだから困る。
 ……、まあ。きみがそういう人間じゃなかったら、ボクは早々にやる気を失って放り出していただろう、とだけ」
「?」
「………………"?"じゃなくて」

 首を傾げる主役に。
 黒幕は、気まずそうに目を逸らした。
 それからややあって、ぱあっ!と、向日葵でも咲いたみたいに満面の笑み。
 祓葉はぎょっとして逃げようとしたオルフィレウスの矮躯を、その歳の割には豊満な身体でぎゅむっと抱擁する。

「…………ヨハン~~~~!! かわいいこと言ってくれるじゃん、うんうん! お姉ちゃん嬉しいよ~~~!!!」
「わぶっ……! ひっつくな熱い苦しい重い離れろバカ! ああもう、これだからきみと真面目に話すのは嫌なんだよっ」
「えへへへへへ~~~……。もう、もう! ヨハンったら照れ屋さんなんだから~~~~!! ぎゅ~~~!!!」
「はーなーせー! ……あっやばいマジで離して、この身体になっても痛いものは痛いんだってば離痛っいたたたたたた」

 ぼきぼぎごぎごぎっ、という嫌な音を立てながら相棒をインスタント抱き枕に変える少女に、脅威の色は毛ほどもない。
 それでも今日この日、この夜。選ばれし役者たちを乗せて、静かに針音の仮想都市は、とある男の巨大な歯車機械は動き始めたのだ。
 第二次聖杯戦争が、ここに真の開幕を迎える。
 忌まわしき幼年期を真に終わらせるべくして、いつか破れた誰かの夢が再起動され。そしてあまねく〈物語〉は、その存在意義を奪われる。

 ――星の降る、とても美しい夜に。
 ――その日誰もが、運命を開幕(はじ)めた。



◇◇



 未来なんて、どこにもありゃしないのにね。



◇◇



 雨が降っている。
 暦は既に五月の頭だ。
 仄かに暖かな陽気の日が増え始めるこの頃に降る雨は、都心特有の熱気と合わさってじっとりとした湿気を生み出してくる。

 "いつか"のことを、思い出していた。
 いつものように顔を殴られて、でもその日は少し打ちどころが悪かったみたいで。
 頭の中がぐわんぐわんと揺れているのが分かって、立てもしないまま湿った畳の上で外を見つめていた。
 しとしとと雨の降る五月の空には鉛の雲が垂れ込めて、曰く自分達を見ているらしいお天道様は影も形もない。
 ああ、と思った。自分はそういうものにさえも見て見ぬふりをされているのかと、子どもながらにそう感じた。

 灰色の天井。
 灰色の世界。
 少女の原風景は、やはりそこにあって。
 そして今、果てのないことだけが取り柄だったそれすら自分という中心を消し去るべく丸く崩れ落ち始めている。
 医者という、この科学社会では巫覡にも等しい存在が告げた世界の終わり。箱庭の死。
 それを告げられた日からさらにひと月。恐らくこの身体の残り時間は、もうすぐそこにまで迫っているのだろうと思いながら、華村悠灯は傘も差さないで青空でさえなくなった空を見上げていた。

「思ったより、なんとかなっちゃったな」

 独りごちた言葉は本心だった。
 聖杯戦争。魔人と怪物のひしめき合う人外魔境と聞いていたが、蓋を開けてみれば悠灯はここまで一滴の血も流さずにやって来れてしまった。
 もっとも、取り残されているのは悠灯だけだ。
 華村悠灯という演者がたまたま幸運だっただけで、この東京の街は既にひと月前と比べてだいぶその情勢を変化させている。
 それも含めて、なんとかなってしまっているのだ。
 災厄に出くわさず、寿命を早めるような凶事とも無縁のまま、経験した交戦は片手で数え切れる程度。その戦いも、キャスターに委ねていればどうにかなった。

 安堵。そして、ちいさな焦燥。
 今こうしている間も、この東京で大きな何かが蠢いているのではないか。
 自分には想像もつかないような大きなことが、この踏みしめている大地という水面の下で静かに進行しているのではないか。
 そんな何かが今にも、風前の灯火のようなこの生命を刈り取っていってしまうのではないか――

 悪い想像が、うねうねと奇怪な芋虫のように頭の中でのたくって。
 思わず顔を顰めそうになったその時、ぴう、という小さな笛の音が悠灯の耳朶を優しくくすぐった。

「……キャスター?」
「私の部族に伝わる指笛の音だ。術と呼べるほど大袈裟なものではないが、悪心を覚えた時にこれを吹く。
 なんとも下らない子供だましだが、これが不思議とよく効くのだ」

 言われてみれば確かに、なんだか少し心が落ち着いた気がした。
 ただ単に突然の行動で面食らっただけと言えばそれまでだが、そう言い切りたくはない不思議な優しさが心を包んでいた。

「恐らく、君の想像は当たっている」
「え」
「凶兆が見える。造り物の都市に、巨大な影が幾つも射している。
 君も知る〈厄災〉はその先触れに過ぎない。じき、遠からぬ内にこの東京は恐ろしい戦火に包まれるだろう」
「……、……」

 唾を呑む。
 自然と親しみ、精霊と語らい、そうして育ってきた男の言葉には単なる子女の希死念慮とはわけの違う含蓄があった。
 そう――既に都市は冒され始めているのだ。悠灯はおろか、都市の誕生と同時に創造された無垢な人形たちでさえそれを認識している。
 都市を喰らう〈厄災〉。黙示録の騎士が世界の終焉を告げに現れるが如く、悠灯が先ほど思い描いた通りの不穏がどこかでとぐろを巻いているのだとしたら。

「だが、君や私が変わる必要はない。
 蛮勇は死を招き、焦燥は滅びを招く。勇敢な戦士よりも怠惰な怠け者が戦場で長く生き延びた例など、私はごまんと知っている」
「でも……、そんな悠長なこと言ってたら、その内手遅れになっちゃうんじゃないの」
「悠灯」

 何か、しなくてはいけない。
 滅びに対抗するための何かを。そう進言しようとした悠灯を遮って、シッティング・ブルはこう言った。

「君の願いは、何だ」
「……生きること。今度こそ、腐ったりしないで、ちゃんと――」
「そうだ。そして私の願いは、かつて救われなかったすべての同胞を救うことだ」

 ならば滅びさえ、我々は風として乗りこなさなければならない。
 そう告げるシッティング・ブルの鉄面皮はひどく頼もしく、そしてどうしようもないほどに哀愁を孕んでいた。

 生きる。勝つ。 
 救う。今度こそ。
 たとえ世界が、どう歪もうとも。
 都市が、人が、どれほどの災いに呑まれようとも。
 この戦の意義は守護(まも)ることに非ず。戦って、乗り越えて、勝つ。願いを叶える。
 忘れかけた初心を思い出させられて、悠灯は自嘲気味に「はっ」と笑った。

「そうだね。あんたの言う通りだ」

 言いながら、煙草を取り出す。
 愛飲している銘柄ではない。たまたま切らしてしまって、知り合いから分けてもらった一本だ。
 別にわざわざ受け取る必要もなかったのだけど。こんな日はどうしても、煙草が欲しかった。
 一服でもしてないとやってられない日というのが人生には度々ある。そのことを、煙を嗜む人間は知っている。悠灯もそのひとりだった。

「……まっず。あの人、あんなナリでこんな甘いの吸ってんの?」

 ウィンストン・キャスターの5ミリ。バニラの後味をむしろ鬱陶しく思いながら、脳にニコチンを供給する。
 ――生きている。今、私は、生きている。
 ――死にたくない。こんなところでなんて。


 ――だって私、まだぜんぜん幸せになってない。


 そんなちっぽけな命の残り火だけが、華村悠灯の足を前へと進める活力だった。



◇◇



「おや。遅かったですね、何かありましたか?」
「特に何も。知り合いのガキを見かけて、それで遅くなっただけだ」
「ああ、"いつもの"ですね。そのナリで後輩思いとは、まったくお笑いですが」
「そんな高尚なもんじゃねえよ。若ぇ奴ってのは恩売っときゃ役に立つだろ? 半端にプライド肥やした年寄りよりよっぽど使えるぜ」

 周鳳狩魔は、たまたま見かけた"一匹狼"の少女と別れて都内某所のマンションの一室を訪れていた。
 不良という生き物は、基本的に群れたがるものだ。こればかりは老若関係なく、習性と言っていいものだと周鳳は思う。
 孤高(ひとり)で最強を証明する、なんて手合いは今日びフィクションの世界にしか存在しない絶滅種だ。
 孤高とはすなわち自暴自棄と同義。あの華村悠灯という少女もそうだ。満たされない、満ちることのない現実の中で哭いている。

 ゴドフロワにはこう言ったが、実のところああいう人間を取り込むことにそれほど益はない。
 うまくやれば忠臣に出来るだろうが此処ではいかんせん時間が足りないし、そうまでしたところでただの人間で果たせる役目には限りがある。
 故に実のところ、悠灯を見かけてわざわざ声を掛けたのは周鳳のいつもの悪い癖だった。
 自分も過去にそうして貰ったから、その記憶を素知らぬ顔でなぞっただけ。
 そんなひどく不合理で、意味がなく、自慰と言われても反論のできないお節介。
 思考を切り替える。有情から無情へ。温感から冷感へ。――正気から、狂気へ。

「それで?」
「殊の外強情で」
「そうか。部下に恵まれてるな、あの野郎」

 部屋の中には、血の臭いが満ちていた。
 だが問題はない。このマンションは元々、周鳳が首が回らなくなった債務者から奪い取った彼の所有物件だ。
 どれだけ叫ぼうが、臭いが出ようが、余程でなければ外に漏れることはない。
 そんな部屋の中で、天井から男が吊るされている。周鳳と同じくらいの年齢だろう彼には、既に手足がなかった。

「おい。今なら芋虫として生きるのを許してやるぞ」
「だ、れが……吐く、かよ。てめえらみたいな外道と、あの人は違う……!」
「何が違う? 狂犬にリード付けて仲間ごっこしてるだけだろうが、何も変わらねえよ。
 よく聞けよ、お前には二つの選択肢がある。ボス犬野郎の居所と手の内を俺に教えて命だけは助かるか、それとも」

 ゴドフロワに生きたまま手足を輪切りにされて、小便を漏らし下唇を噛み潰した程度で黙秘を保てていることは驚嘆に値する。
 周鳳達が追っている"とある集団"の頭目は、さぞかし良い調教をしているらしい。
 一蓮托生ってやつか――辟易しながら、周鳳は目の前の宙吊り達磨の顔を覗き込んで言った。

「此処で地獄を見るかだ。時間はやらねえ。さっさと決めろ」

 言った瞬間。
 ペッ、と、周鳳の頬に赤い唾が吐きかけられた。

「……『刀凶聯合』はてめえらとは違う! 俺達と、あの人が、天下を取る!
 いいか、俺を殺すのはいい。ただすぐに皆がてめえを殺しに来るぜ。
 『刀凶聯合』は仲間を絶ッ対ェに見捨てねえ……! てめえが膾切りにされるのを、地獄から見ててやるよ……周鳳ォ……!!」
「そっか。よく分かったよ」

 つまらなそうに、嘆息して。
 それから、懐から取り出した"道具"を達磨の臍に押し当てた。

「知ってるか? 一番キツい地獄には、"死"ってもんがねえんだと」
「ぁ゛……?」
「あっちで先にボスを待っててやれよ。心配すんな、すぐに悪国の野郎も送ってやっから」

 独りぼっちは寂しいもんなぁ。
 そう言った周鳳が人体と辛うじて判別のつく肉塊を前に奏でる旋律に、聖騎士は手土産のハンバーガーを頬張りながら肩を竦めた。

「やだやだ。生かさず殺さずやるのは苦手なんですよ。そりゃやれと言われたらできますが、野蛮人みたいじゃないですか」

 勇ましい啖呵の余韻を掻き消すような絶叫をバックグラウンドに、ゴドフロワ・ド・ブイヨンは回想する。
 『刀凶聯合』を名乗る半グレグループの存在に、周鳳狩魔は注目していた。
 どのグループからも、ともすればヤクザからも持て余された血の気の多い狂犬ばかりを好んで飼い慣らすという新進気鋭の不良集団。
 ひとたび敵対すれば死をも恐れず蛮行に及ぶ有り様はまさに狂犬だったが、重要なのはそこではない。
 どうも此処最近――彼らが明らかに一介の半グレ集団には不似合いな、過剰と言っていい重武装を行っているらしい事実だった。

 たかだかNPCの集団が、そんな全体の輪を乱すような動きを見せる筈がない。
 確実にその背後には、ないし内側には、聖杯戦争の〈演者〉がいる。
 であれば潰さない理由はない。ゴドフロワとしても大義を阻む神敵だ、ぜひとも聖罰を下さねばならない集団である。
 そこで。ちょうど周鳳の部下の不良に手を出してきた聯合の数人を殺害。ひとりを生け捕りにし、現在こうして演奏会に興じている。

「あ。派手にやりすぎてこっちに血飛ばさないでくださいよ? せっかくのビッグマックセットを台無しにしたら本気で怒りますからね」
「キリスト教ってハンバーガー食っていいの?」
「あなたはクリスチャンを何だと思ってるんですか」
「お前らパンとワインがあればそれでいいと思ってたよ。ただまあ、それにしてもお前は俗に染まりすぎな気するけどな」
「大義の前には腹ごしらえが肝要です。主もお赦し下さることでしょう……いやあ、しかし旨いものですね。特にソースが良い」

 狂気とは、無計画に振り翳すものではない。
 綿密に計算して、理屈の上で抜くべき"武器"なのだ。
 彼らはそのことを知っていた。狂気を愛し、狂気を扱う、人間ふたり。

 真昼の演奏会は結局、三分弱に及んだ。
 絆を語った口で命乞いをする哀れな狂犬はその遅すぎた選択により許されたが、いかんせん遅すぎたらしい。
 演奏がやんだ数分後にはもう、白目を剥いて動かなくなっていた。

「お上手お上手。やっぱりこういう汚れ仕事はあなたの適任ですねぇ」
「押し付けてんじゃねえよ。疲れるし腹減んだわ、これ」

 手を叩いてにこにこ笑うゴドフロワへ毒づきながら、自分の分のハンバーガーを大きめの一口で咀嚼する、周鳳なのだった。



◇◇



 『刀凶聯合』のアジトの中でも、最も滞在することの多い場所。
 それは、足立区の一角にある一軒の廃マンションだった。
 廃マンション。公的には、そうなっている。だが此処は、悪国征蹂郎が流浪の果てに流れ着いたすべての始まりの地だ。
 だからこそ今も時折征蹂郎は此処で過ごすし、彼の仲間も主の好むこの場所に溜まっていることが多かった。

「征蹂郎クン。それ、片付けねえの?」

 プリンヘアーの青年が、部屋の隅に無造作に散らかった品々の山を指して言う。
 破竹の半グレである悪国征蹂郎は、その一見するとゴミ山にしか見えない光景の前で胡座を掻いていた。
 確かに、ゴミと形容しても問題のないような品々ばかりだ。
 使い古されたジッポライター、電源の点かない携帯電話、ひび割れた腕時計、中身が申し訳程度に残っている湿気ったタバコの箱。
 されど征蹂郎は、プリンヘアーの問いかけに首を振って応える。
 それは、少なくとも彼にとってはこの"ゴミ山"がとてもではないが捨て去り難い価値のある光景だということを示していた。

「お前も知っているだろう。これは、俺達の歴史だ」
「……まあ、知ってるけどさ。でもよ、いつまでもそうやって残しといてもキリないんじゃ」
「そうだな。……だが、俺はそれでもいい。必ずしも"無駄なこと"が悪ではないと教えてくれたのもまた、こいつらだからな」

 ゴミ山の正体。それは、死んでいった聯合メンバーの遺品であった。
 半グレの世界で、"死"は必ずしも遠い世界の概念ではない。
 軽率に人は死ぬ。ひどくあっけなく、死んでいく。
 昨日まで隣で笑っていた仲間が、次の日にはドブ川に浮いているなんてことも日常茶飯事なのがこの世界だ。

 この仮想都市たる東京にて経過したひと月の間にも、聯合の同胞達は度々命を散らしてきた。
 それもその筈だ。彼らに武器を与え、真実を教え、刀凶聯合を対聖杯戦争用の兵隊に変えたのは他でもない悪国征蹂郎自身である。
 彼らが戦力に加わってくれたおかげであげられた戦果もある。だが、失う命も生まれてしまうことはやはり避けられなかった。
 これは、その喪失の山だ。時に笑いながら、時に泣きながら、時に感情を表に出す暇もなく――ただ死んでいった彼らの記録。

「俺は必ずこの戦いに勝利する。そして俺は……いずれ辿り着くその瞬間(とき)に、死んでいったこいつらも連れていきたい」

 刀凶聯合の本質は依然として変わっていない。
 敵を倒す。仲間が危害を加えられたなら、あらゆる手管を尽くして報復(カエシ)を行う。
 狂犬の群れ。あぶれ者の群れ。居場所のない者達が集まって生まれた、"誰か"にとっての生きる場所。
 それを征蹂郎は尊んでいた。誇張抜きに、この世の何よりも大切なものとして愛していた。

 だからこそ、彼は死を記憶する。
 失ったものを、背負い続ける。
 たとえそれが、願いが叶えば消えてしまう泡の箱庭の人形達だったとしても。
 自我なんてものが本当にあるのかどうかも疑わしい、針音の調べに従って歩く人造の獣達だったとしても。
 その"無駄"を、悪国征蹂郎は黙し背負うのだ。
 幸いにしてこの心は空っぽの洞(うろ)。物を詰め込むスペースなんて、有り余るほどある。

「……ハハ。征蹂郎クンらしいなぁ! クールガイって顔しといて、実は人一倍熱い男なんだうちのボスは!」
「からかうのはよせ。……俺は、そんな男ではない」
「俺らはあんたに地獄の底までついてくぜ。
 うちにはあんたのために死ねる奴しか残ってねえんだからよ、いつでも征蹂郎クンの意思で"死ね"って命じてくれや」
「……、そうだな」

 これから先、恐らく何度もそれを命じることになるだろう。
 そうでなくとも、戦いが続く中で何人もの仲間が死んでいく。
 このひと月で嫌というほど認識させられたことだ。聖杯戦争は、甘くない。
 この都市で繰り広げられる戦いは、恐らく地球のどこの戦争よりも過酷で激しい殺し合いだ。
 暗殺者として技を磨き続け、自己を極限まで練り上げてきた征蹂郎でさえ――ともすれば死に得る。
 そういう状況が、容易に訪れる。それは明日かもしれないし、今この瞬間かもしれない。
 そんな世界で"仲間"と共に戦うことの意味。守ることではなく殺すことばかりを極めてきた征蹂郎は、改めてそれを噛み締めていた。

「ォ、オ、オオオオオ……!」

 血塗れの騎士が、哭いている。
 血の赤。溶鋼の赤。炎の赤。激情の赤。
 ――世界の終わりを告げに現れる、滅びのさきがけ。

 【戦争(レッドライダー)】の昂りは、日増しに強くなっていた。
 本来は性別も、人格も、願望も、ましてや感情など持つことの決してない無我の厄災たるこれが。
 どういうわけか、時折こうして癇癪を起こしたように哭き、吼えるのだ。
 その理由に、征蹂郎は見当が付いている。というのも、これ自身がその口で教えてくれるからだ。

「クロ、クロ、クロ、クロ……! スベテヲ、ヌリツブス、シッコク……!
 チヘイセンノハテヨリキタリテ、ヒト、カミ、ヒトシククライツクスモノヨ……! 
 オオ、オオ……! クロキ、カゼガ、ミエル……!」
「……、頭が痛いな」

 ――【黒】。
 この【赤】が戦争を運ぶ騎士ならば、それが運ぶものは決まっている。
 飢餓だ。世界を枯らし、万人の腹を空腹で膨らす黒き騎士。
 黙示録の【黒(ブラックライダー)】。レッドライダーの同族が、終末の騎士がどこかに現界している。

 また、心当たりもあった。近頃東京を襲い、各地に深刻な被害をもたらしている原因不明の〈蝗害〉。
 本来日本に生息しない筈のバッタがどこからともなく無数に発生し、食糧という食糧を食い尽くしては死骸で道路を埋め尽くしているのだ。
 現在、既に東京の食糧事情は危険域に突入して久しい。〈蝗害〉が到達した地域など、スラム街の様相を呈してさえいるという。
 まさしく〈飢餓〉が起こっているというわけだ。ヨハネの黙示録の予言通りに、この狭い世界へ逃れ得ぬ終末の風が吹いている。
 レッドライダーの昂りも、同族の気配を察知した故のものなのだろう。
 今のところは制御できないほどの暴走を見せてはいないが、征蹂郎としては願わくば単なる昂りの範疇で収まってほしいと祈るばかりだった。

「……役に立つならばいいがな」

 返事など期待してはいない。
 だがそれでも、征蹂郎は猛る【赤】へ言わずにはいられなかった。

「その戦火が俺達まで蝕むというのなら……お前だろうと許さんぞ。"第二の騎士"」
「オオ、クロ……ソシテ、ケモノ、ノ――」

 赤騎士は答えない。
 答えぬまま、血のような雫を全身からどろどろと垂れ流し、うわ言と共に彼方の空を見据えるばかりであった。



◇◇



「キナ臭いことになってきたの」

 陰陽師・吉備真備はアパートの窓から鉛色の空を見つめ、心底面倒臭そうに呟いた。
 一見すると単なるどこにでもある若者の部屋といった様相だが、見る者が見ればすぐに分かる。
 この部屋、並びにアパートの周囲一帯は魔術師(キャスター)の陣地にも決して劣らない強固な結界と化していた。
 真備のマスターが構築し、そこに真備が多少の手を加えた結果、その完成度は現状ひと月前とは比にならない状態に高まっている。
 『まだまだじゃのう、ほれココ。こんな分かりやすい陥穽、突っついてくれと言っとるようなもんじゃ』などと厭味ったらしく指摘された経験は、天禀で通ってきた青年にはそれなりに苛立ちを禁じ得ないものだったが……それはさておき。

「なんです、あの人形どもの襲撃がよほど堪えましたか? だったらこれに懲りて、もう少し素行を改めることですね」
「違うわ阿呆。あんな骨クズどもに臆するかよこの儂が。
 "本体"が出てくるならいざ知らず、陰陽師相手に式神もどきを送るなんぞ笑える采配よ。
 まあ、あの程度の襲撃で傾ぐような結界を作って得意げにしとった誰かさんには多少辟易したがのう」
「……、……」

 平常心、平常心。
 浮かびかけた青筋を理性で鎮めながら、香篤井希彦は「ははは」と乾いた笑いを返した。
 この老人を相手にいちいち素直に反応していたら時間がいくらあっても足りない。
 反論したとて減らない口で、(なまじ実績も実力もあるから言い返せない)痛烈な言葉が飛んでくるに決まっているのだ。

 数日前のことである。
 希彦の拠点(アパート)に、数体の"骨人形"が襲撃を仕掛けてきた。
 いわゆる〈竜牙兵〉と呼ばれるものだろうとすぐに察しは付いたが、戦闘力が異常だった。
 希彦をして冷や汗が背筋を伝うほどに勇猛。そして、まるで本当の戦士のように頭を使う。
 まったく苦々しい経験だったが、尊大なる希彦にある種の危機感を根付かせるに足る一夜であったのは間違いない。
 その翌日、希彦は結界の破損箇所の修復を行い――そこで、今までその手の備えは彼に丸投げしていた真備が急に口を出してきた。
 だからこの鼻持ちならない老人も、実はあの襲撃を受けて結構肝を冷やしていたのでは、と希彦は思ったのだったが……

「……〈蝗害〉ですか?」
「ああ、アレは無理じゃ無理。伝え聞く限りでも分かる。
 お前が"できてる""できてない"に関わらず無理。相手にするだけ無駄ってヤツじゃな。
 よしんば儂が無い事全力出してあれこれしても、むしろ飛蝗どもに餌くれてやるだけよ。
 来たら大人しく荷物纏めて夜逃げするしかないわな、うははははは」

 まあ"奥の手"でも使えば話は別じゃが、と笑う真備に、希彦は何度目かも分からないため息をつく。
 無責任というかなんというか。本当にこいつは勝つ気があるんだろうか、と思わずにはいられない。
 ――と。そこまで考えたところで、当然の疑問が降って湧いた。

「……じゃあ何を見てるんです、あなたは」
「数え切れん。最低でも六つほどだな」
「六つ……?」
「〈蝗害〉も含めれば七つ。……いや、八つか九つは居るかもしれんのう。
 久々の浮世と浮足立っとったが、こりゃ本当に聖杯でも獲れんと割に合わん労働じゃな」

 脳内にある聖杯戦争に対する知見と照らし合わせると、確かに今回の"これ"は異様な様式だった。
 東京都というひとつの都市に数十を超える英霊を押し込めて、現状一ヶ月もの間戦争を続けさせている。
 結果として都市に出た被害は現段階でも既に無視することのできないものだ。
 挙句、誰かがそれに責任を取る気配もない。やりすぎた主従を罰する討伐令の発布なども行われていない。
 まるでそれは、液体を濾過してより純度の高いものを抽出しようとしているかのよう。
 そして今の真備の言葉を信じるならば、その試みは成功している、ということになるのだろうか。

 ……なるほど当然だ、と希彦は思う。
 何しろこの自分が此処まで生き残っている。
 選ばれし者が当然に選ばれ、そうでない役者は淘汰されていく。
 それは実に分かりやすく、また希彦の自尊心を満たしてくれる趣向だった。

「希彦よ。お前さんもそろそろ、"遭う"頃やもしれんなあ」
「そいつらにですか? 上等ですよ。むしろ歯応えがなくて退屈してたところです」
「かーっ、予想と一言一句違わないバカを宣って来たわい。お前という奴はなんというか本当、……単純!」
「事実でしょう。僕は聖杯を獲得すること以上に、僕という人間の能力を証明することをこそ求めているんですよ。
 ムカつくことに陰陽師の頂点に近いあなたでさえ認めた脅威を退けることができれば、それこそ箔が付くってものです」

 そう、香篤井希彦は既に聖杯を手に入れたその先の未来を見据えている。
 彼にとってこの戦いは、自分が望んだ未来を生きていくための通過点でしかないのだ。
 敵が誰であろうが何であろうが、成し遂げられる成功の数をケチるつもりは毛頭ない。
 確固たる自信を胸にそう答えた希彦に、今度は真備がため息をつく番だった。

「……ま、遭ってみればお前さんもちったぁ分かるじゃろ」

 ――そこで伸びるか折れるかが、運命の分かれ目って奴じゃな。
 後半の部分を声には出さず内に秘めたのは、真備なりの後輩への親心というやつなのか、それとも単なるいつもの諧謔なのか。
 そこのところを知る者は彼しかいない。希彦が察することも、少なくとも現状はない。

「真に恐ろしいのは人の業、なんて言葉は現実も知らん似非の常套句だがの。
 実際に"力"と"業"を併せ持った手合いっちゅうのは、まあ面倒臭いもんじゃ。
 チクタクと風情のない都だと思ってたが、いやはや全く、キナ臭くて堪らんわい」

 吉備真備は世界を視る。
 千里眼は持たずとも、その練り上げられた感覚は萬に通じている。
 この都市にはいくつもの〈厄災〉が蠢いており、それらは演者の数が減ったことでとうとう互いを認識し始めていた。
 こうなるともう、事態に収拾を付けるのはまず至難だ。
 草の根残らず滅ぼされるのは確定で、後はその不毛の地で最後に立つのが誰かという話になってくる。

 ――儂もじきに仕事かの。

 憂いを帯びた瞳で、陰陽爺は手元のグラビア雑誌(希彦にわがままを言って買ってこさせた)に目を落とすのだった。



◇◇



「……やはり一筋縄では行かんな、この局面にもなると」

 老王が、青銅の玉座に片肘を付いて忌々しげに嘆息する。
 王の名はカドモス。テーバイの都を創り上げた建国の父にして、幾多の英雄を生み出した偉大な男"だったもの"。
 彼はこの聖杯戦争が始まってから今に至るまで、この玉座を一度も降りることなく戦果を挙げ続けてきた。
 宝具『我が許に集え、竜牙の星よ(サーヴァント・オブ・カドモス)』。
 かつて殺した泉の竜の牙を基に生み出した、精強なるスパルトイ。
 スペックの高さに加えて戦士の戦術を駆使する彼らは、カドモス本人の出陣なくして数体の英霊と演者を討ち取ってきた。

 だがその戦術にも限界が来ていることを、カドモスは既に悟っていた。
 数日前の、スパルトイ三体を用いて行った魔術師の拠点襲撃が失敗に終わったのがいい例だ。
 この段階まで生き残ってきたような手合いにもなると、もう小手先の格下狩りで取れる相手の方が少なくなってくる。
 苦々しい話だったが、認めざるを得ない現実だった。戦略の組み立て直しが要る、と老王は考える。

「東洋に根付く独立した術理体系。陰陽術、であったか」
「はい。私も詳しいわけではありませんが、そのような印象を受けました」
「面倒だな。伝え聞く限り、単なる魔術師の方がまだ御し易い」

 臣下のように膝を突いて答えたアルマナの言葉を受けて、カドモスはそう呟く。
 まさに人外魔境。中華に伝わるところの蠱毒の壺である。
 この東京は今、あらゆる神話と術理、文化のひしめく魔界と化している。
 型に嵌った考えと戦略では、いずれ足元を掬われ突き崩されるだろう。
 カドモスの戦士としての勘が、そう告げていた。

 ――あるいは、やはり自我を簡略化したのは失敗だったか。

 一瞬浮かんだ考えを、すぐに切って捨てる。
 スパルトイの自我を希薄に設定したのは他でもない自分自身だ。
 その理由は、まったくもって合理性を欠く。
 戦場では"感情"のような不定形で曖昧な観念が、しばしば状況を変える。手の届かない場所にある勝利を手繰り寄せる。
 カドモスもそれを知っていた。知った上で、あえて奪ったのだ。この老いさらばえて耄碌した心を守るために、無駄を冒した。
 であればその無駄も噛み含めて自軍と据えなければならない。
 振り向いて後悔することほど無意味なことはない。
 思考を、切り替える。後ろから前に。過去から未来に。感傷から、冷徹に。

 ――そんな主君のことを、従者はただ静かに見つめていた。
 アルマナは、カドモスの考えていることなど知る由もない。
 竜殺しの英雄。テーバイの父。偉大なる王。それでいいし、それ以上を考えることもない。
 麻痺した心はただ淡々と戦争へ臨んでいる。彼が殺せと言えば殺すし、守れと言えば守る。アルマナにあるのはそれだけだ。

 だから、自分を文字通り我が子のように愛してくれた養父母のことも彼の命令通り暗示で木偶に変えた。
 今や彼らの愛情が原因で、王のもとに参じる失態を犯すことはない。
 そのことに何かを思うことも、ない。
 必要だからそうしただけ。必要なことをする上であれこれと考えを巡らせるのは、無駄なことだ。
 仮に王が彼らを餌として捧げよ、と命じたとしても、アルマナは迷うことなく首を縦に振るだろう。
 彼女はもう、そういう装置になってしまった。虐殺のあの日から、少女は機械的な針音の音色を絶えず聞き続けている。

「時に、アルマナよ」
「なんでしょうか」
「槍の英霊に会ったと言ったな」
「二日前に。そのことに関しては、既に詳細をお伝えしたと記憶していますが……」
「確認だ。もう一度話せ」

 こくり、とアルマナは頷く。
 遡ること二日前。陰陽師・香篤井希彦の拠点を襲撃した翌日。
 損傷を回復したスパルトイ達は、あるひとりの槍兵と激戦を繰り広げていた。

「数多の槍と、盾を操る英霊でした。目算ですが、数は百を超えていたと思います。
 秀でた技と勇猛さもさることながら、槍盾を組み合わせた攻防一体の戦略が一番の脅威でした。
 決して押し切れぬ相手ではないと感じましたが、こちらの受ける損害も無視のできない領域に達すると判断。七分の交戦を経て撤退しました」
「……、……」

 百を超える槍盾を駆使する槍の英霊、と聞けば珍妙だ。
 だが、恐らくは生前に率いた軍の威容を宝具で再現でもしているのだろう。
 となれば、カドモスの脳裏には浮かぶ名前がひとつあった。
 更に言うならば。交戦を終えて帰還したスパルトイが纏っている懐かしいあの国の"匂い"が――彼にそれを確信させた。

「……やはり貴様か。スパルタの大軍を打ち破った、神聖隊の大将軍よ」

 苦々しい、と形容するのが適当だろう渋面で老王は吐き捨てる。
 カドモスは国父である。であれば当然、自分の国に生まれた英雄で存ぜぬ者はない。
 ああ、また"匂い"がしてきた。悲劇の匂い。血と、断絶と、破滅の匂いだ。
 何故にまろび出る。何故に、沸いて来る。よりにもよってこの都市に、針音響く悲劇の丘に。

 ――まだ儂に、見届けろと言うのか。

 傅いた褐色の小鳥を見つめながら、カドモスは小さく拳を軋らせた。
 偉大な王は、かつては確かにいたのかもしれない。
 だが王は老いた。どこまでも老いてしまった。
 もはやその萎びた身体に、泉の竜を討ち倒した時の若さなど、どこにも残ってはいないのだった。



◇◇



「にしても、思ってた以上に筋がいいな。もちろん俺に言わせりゃまだまだだが、とにかく飲み込みが早え。
 いやはや、この歳にもなっていい弟子を持ったもんだぜ」
「歳も何も、貴方はもう死んでるだろう」
「わははは、細かいことは気にするな! それもまた武に生きる男の条件さ。
 拳術であれ、槍術であれ、何であれ……迷い躊躇いは敵にすぐバレる。
 考えるのも悩むのも生きてる人間の特権だが、正しく噛み分けてこその一流だ」

 古代ギリシャにて、神聖の名を冠する勇壮なる男達を率いて奔った男。
 名をエパメイノンダスという彼の課す鍛錬は、正直なところ高乃河二が思っていた以上に苛烈過酷だった。
 流石にサーヴァント。英霊の座という"天"に買われる生き様を残して死んだ、人類史の影法師。
 幼い頃から魔術と武術に親しみ、鍛え上げられてきた河二だが、それでもこれほど密度の高い修行に打ち込んだ試しはなかった。
 豪快なようでいて、すべてに無駄がない。粗雑なようでいて、すべてが理に適っている。
 亡き父も草葉の陰で嫉妬しているのではないかとそんな益体もないことを思ってしまうくらいには、将軍の指導は凄まじい勢いで実になっていた。

 河二は此処まで、サーヴァント戦というものを一度も経験していない。
 強いて言うならばあったのは二日前、〈竜牙兵〉に類するだろう数体の使い魔の襲撃を受けた程度だ。
 率直に、なかなか肝の冷える戦いだった。エパメイノンダスは流石だったが、敵も単なる傀儡とは思えないほどに秀でていた。
 事実、撃退したエパメイノンダスも『アレがただの尖兵とは、いやはや恐れ入るしかないな』と讃えていたほどだ。

 ――しかし、それも含めて有意な体験だったと思う。
 魔術師の常識さえ彼方に吹き飛ばす人外魔境の片鱗に触れたことで、自己に対する慢心のたぐいは完膚なきまでに消し飛んだ。
 もっと強くならねばならない。そうでなければ目的を遂げるどころか、この世界で生きていくことすら不可能だと察した。
 そんな彼ら主従は今、なんてことのない散歩の帰り道だ。

「ランサー。毎度聞こうと思ってたんだが、飽きないのか?」
「何がだ?」
「こうして常々貴方は僕を散歩に連れ出すだろう。進んで敵を探しているわけでもなし、今ひとつ意味が見出だせないんだが」
「なんだそんなことか。固いことを言うな。
 だがまあ、そうさな……これは確かに俺のワガママだ。ささやかながらお前に、授業料というものを要求しているのさ」
「……授業料?」
「おう。俺はな、このトーキョーという街に興味がある」

 清々しそうな顔をして、エパメイノンダスは答えた。
 この男は強く、そして豪快である。一見するとその有様は、脳筋気質の馬鹿にさえ見える。
 彼の生涯を知ればそんな誤解は決して抱けなくなるだろうが、絵に描いたような豪放磊落な性分をしているのは本当だ。

 要するにこのエパメイノンダスという男は、どこまでも気持ちのいい男なのである。
 喩えるならば、快晴の日の青空のような。山の頂上から見下ろす景色のような。
 そんな、曇りなき人柄を彼は自然体で体現し続けていた。
 そんな男は、現代日本の中枢であり、世界有数の大都市でもある東京の街をこう評する。

「良い街だ。活気があり、建築は見事で、メシもうまい。歩く度に新たな発見がある。
 いやはや、こればかりは英霊の座では味わえない娯楽だ。正直、俺は今とても満足している」
「……ピンキリだけどな。綺麗な部分もあれば汚い部分もある。そこは貴方の時代と、大して違いもないと思うぞ」
「それもまた良しだ。絶景ばかり見ていればいいというものでもない。俗には俗の良さがあるのさ」

 なんともこの男らしい理由と物言いだと、河二は思った。
 ただ、確かに遠い昔の時代を生きた者からすればこの街はさぞかし未知の巣窟だろう。
 その技と身体で自分の背を押してくれる彼に払う授業料がこれだとすれば、確かに付き合ってやってもいいと思える。
 と、そこで――エパメイノンダスが足を止めた。その視線を追うと、先には一軒の教会があった。

「ふむ。改宗した覚えはないが、一度立ち寄ってみてもいいかもしれんな。琴峯教会、か」
「……いや、日を改めた方がいいと思う。今日はずいぶん混んでるみたいだから」

 琴峯教会。その敷地は、傍目に見ても分かるくらいには盛況だった。
 今日はミサの曜日でもないだろうに、これほど賑わっているというのは驚きだが……頷ける話でもある。
 神に祈りを捧げる場所が賑わっているということは即ち、藁にもすがる思いな人間がそれだけ多いということでもあるからだ。
 それを不思議に思わない程度には、今の東京は荒れていた。

「……それもそうだな。確かに心穏やかにいられる情勢ではないか」

 エパメイノンダスも、そう言って頷く。
 日々版図を広げる〈蝗害〉に、街のあちこちに残されたこのひと月の――聖杯戦争の爪痕。
 彼に付き合って散歩をする日課の中でも、それらしき場所を何度も見かけた。
 流石に蝗害が現在進行形で幅を利かせている場所には足を向けていないが、それでも明らかに、このひと月で東京の様子は様変わりしたと感じる。

 ――平和が崩れる光景というのは、見ていて気分のいいものではない。
 河二は、そう思う。覚えがあるからだ。"当たり前"だった日常が崩れ、変わり果てる様というものに。

(……許し難い、な)

 今はもう、仏壇に飾られた写真の中でしか目にすることのできない父の笑顔が脳裏をよぎる。
 他人の痛みに寄り添って、手を差し伸べてやるほどお人好しになったつもりはない。
 だがそれでも、心を動かすものはあった。その感情を分類するならきっと、"怒り"という言葉になるのだろう。

(聖杯戦争。古びた懐中時計に誘われ、足を踏み入れたこの針音響く仮想都市。
 ……ただの偶然と片付けるのは簡単だが、もしも僕の手を引いたのが因果と呼ばれるものならば)

 ――この世界に、断片(ピース)が存在するのだろうか。
 果たすと決めた目的。復讐。その足がかり、あるいは答えとなる何かが。
 虚空に解を求める趣味はない。しかし此処は聖杯戦争。運命の交差する場所、針音の特異点。
 すべての可能性は脳裏に入れておく必要がある。教会の喧騒を横目に通り過ぎながら、人として鬼に成らんとする少年は唇を噛んだ。



◇◇



 しんどい。
 本当にしんどい。
 自他共に認めるストイック気質の琴峯ナシロ、両親亡き今教会をひとりで切り盛りする少女も流石に此処最近の忙しさには眉根が寄っていた。

(不謹慎だが、休校になってくれて助かった。これは流石に平日に捌ける範疇を超えている)

 心の中ではともかく、口に出して愚痴を漏らすことはしない。
 ナシロは自分の選んだ道、教会を継いだという事実に誇りを持っている。
 迷える人を受け入れる教会の主がそれに不平を漏らすようになったら終わりだ。
 だからすべての弱音は心の中に留める。その甲斐あってか、ナシロの教会はこの動乱の東京において小さなオアシスとなっていた。

 〈蝗害〉の拡大と、各地で絶えず勃発する不可解な事故、殺人、失踪事件。
 今、東京は現在進行形で震源もわからぬ揺れに曝され続けている。
 ナシロの通う高校は、昨日付けで一週間の臨時休校が決定された。
 全部ではないが、都内の結構な数の学校が同様の措置を講じているらしい。無理からぬことだと、ナシロも思う。
 ナシロは世界の真実を知っているが、自分が人間ではないなどとは知る由もない市井の人々はそうではない。
 世が傾けば神に縋る。仕方のないことだが、現状の琴峯教会の規模でそれと向き合うのはなかなかの重労働だった。

 とにかく、教会を閉める選択肢はもちろんない。論外だ。
 とはいえこのままでは、まず間違いなく自分の身体にガタが来る。
 早い内に何か手を考えないと潰れて本末転倒になりかねないな、と思いつつ、表をシスターに任せて昼食に向かうことにした。
 その道中でふと、不吉な考えがよぎる。このまま聖杯戦争が加速したなら――この仮初めの教会を守るなんてことは言ってられない、そんな状況が近々やってくるのではないか、と。

「…………う、ウワーーーーーーッ!!!!!!!!」

 ……そんなナシロの悪い考えを断ち切ってくれたのは、たいへん耳障りな甲高い叫び声だった。
 もしこれがシスターやら来訪者の声だったなら足早に駆けつけるところだが、この声に限ってはそれに能わない。
 何しろこの声の主こそ、ナシロの頭痛を加速させるもうひとつの要因。
 聖杯戦争という非日常で相方に据えるにはあまりにも貧乏くじすぎる、ぽんこつ悪魔なのだから。

「うるさい騒ぐな耳に響く。……ってもう昼飯食べてるのか。コンロの使い方なんていつ覚えたんだ?」
「あっ、ナシロさん! ふふん、双翅目だって学習するんですよ。ナシロさんがやってるのを目で盗みました」
「人間の次に生まれた火を使う動物がハエか。チンパンジーやゴリラもさぞかし情けないだろうな」

 ちゃぶ台の前にちょこんと座って、カップラーメン(シーフード)を啜る羽根つきの黒髪少女。
 彼女こそ、琴峯ナシロのサーヴァント。真名をTachinidae/ヤドリバエという。一応自称はベルゼブブ。
 ない胸を張ってえっへん! と自炊――カップ麺――を自慢する姿はとてもではないが自称・地獄の大君主とは思えなかった。

 彼女がナシロの前に現れ、情けないぽんこつっぷりを存分に披露してから早一ヶ月。
 ナシロは嫌がる彼女を引っ立てて、隙間時間で鍛えることを繰り返してきた。
 その結果、最近はとりあえず動かない的には当てられるようになった。ナシロも思わず天を仰いで神に感謝するほどの進歩だった。
 とはいえ今も彼女の戦闘能力は下の下と言っていい。まあ根が完全に悪寄りなので、劇的に強くなられても困るのだが――それはいいとして。

「って、それどころじゃないんですよナシロさん! これこれ! これ見てください!!
 今、まさに! この東京で! 私の尊厳が脅かされているんですよみてみてこれみて!!」
「尊厳なんてあったのか? お前みたいな生き物に……」

 あまりにも毎日暇だ暇だと喚くので、Tachinidaeにはタブレットを与えていた。
 どうやら今日も今日とて動画サイトを巡回し、ナシロがいない間の暇を潰していたらしい。
 こいつベルゼブブになるのやめたのかな、とか思いながら渋々画面を覗き込む。
 自称悪魔の寄生虫少女のちいさな指が、動画の再生ボタンを押した。

『黙って聞いてれば、さっきからねちねちねちねちぐちぐちぐちぐち…………!!』

 どうやらそれは、アイドルの公開オーディションを中継した動画らしい。
 審査員のひとりに対して、憤懣やる方ない、といった様子で壇上の少女が青筋を立てている。

『あのねえ! 言いますけどね! 私達だってね! が、ん、ばっ、てん、』

 ナシロにはこの手のジャンルは、今ひとつ興味のない世界だった。
 いよいよ現代かぶれも此処まで来たか、と思いながら見つめていると。

『の――――――――――――!!!!!!!』

 びっくりした。
 目を疑った。
 突然、今まで苛立ちを表明していた少女が"異形"になった。

 それまでは普通だったはずの頭から、にょきっ、とツノが生えた。
 衣装越しのお尻部分から、衣装を突き破るようにしてシッポが出てきた。
 おまけに叫びに合わせて、ステージがどかーん!!と盛大に爆発した。

「…………、えぇ…………」

 思わずそんな言葉が漏れる。
 なんだこれは。なんの意図がある映像なんだ。
 困惑するナシロに、Tachinidaeはわなわなと震えた。そして叫んだ。それこそ、動画の中の彼女ばりに。

「――悪魔! ですよ! これ!!! このわたしを差し置いて!! 悪魔をやってるふてえ奴がいるんです!!!
 きーーーーーーっ!!! 許せない!!! 許せません!! ナシロさん!!! 今すぐこいつの事務所にカチコミですよ!!!
 魔王ベルゼブブの存在なくしてすべての悪魔は成り立たないということを教えてやらないと!! さあ行きますよ!!! なにもたもたしてるんですか!?! ほらさっさと行きますよのろま!!!」

 本当にそのへんにあったハンカチを噛みながら絶叫する自称悪魔と、動画の中の"彼女(あくま)"に囲まれて。
 ナシロは、本当に気が遠くなる思いだった。なんだか自分だけ、物語のジャンルが違わないだろうか。
 なんだって自分はこんなアホに、バカみたいな動画を見せられて対応を迫られているんだろうか。
 大体これ、どう見てもトリック映像だし。そうでなかったとしてもやっぱりただのバカなのではないだろうか。
 おお神よ、どうか私をお救いください。流石にそろそろナシロは疲れてきました。
 らしくもなく祈りながらナシロは、とりあえずヒートアップしてる目の前のコバエにチョップを落とすことにしたのだった。



◇◇



 ネットの力ってすごいや、と煌星満天は此処最近のアイドル生活の中でひしひしと実感していた。
 忘れたい、思い出しただけで顔から火が出そうになる(今は、比喩じゃなく)あのオーディション大爆破の日から一ヶ月弱。
 今まで頭角を現してもいなかったアイドルが突然、ド派手な特殊効果でオーディションをぶち壊した。
 おまけに番組の名物兼、ファンからのヘイトタンク役でもあった審査員を感情任せに一喝した一連の流れも凄まじく拡散された。
 そう、今も尚、である。
 誰もがノーマークだった鳴かず飛ばずのへっぽこアイドルの起こした放送事故は、まさしくひとつの旋風を巻き起こしていた。

「す、すごい……しょうもない日常ツイートしただけで三桁返信つく……これが……ッ、これが天上人の景色……!!」
「分かっていると思いますが、くれぐれも出過ぎた発信はしないようにしてくださいね。
 人気出始めの頃にもっともやってはいけないことが"調子に乗ること"です。
 大衆は常に正直ですから、そういう気配を悟られると一気にブームが引いていくでしょう。まずは謙虚に、それでいて無難に」
「……分かってる。うん、そういうの何回も見てきたし。大丈夫」

 そこで調子に乗れるタイプじゃない、ということに此処まで安心を覚えたのは初めてだった。
 今だけは自分の引っ込み思案で臆病な性格に感謝だ。そうでなければきっと、さぞや調子に乗り倒していただろうことが容易に想像できる。
 〈プロデューサー〉……兼、キャスターのサーヴァント。ゲオルク・ファウストの釘刺しに、満天はこくんと頷いた。

「とはいえあなたの場合はそれ以前の問題ですね、やはり」
「あうぅ……」
「せっかくの番組収録だったというのに、あれではいてもいなくてもそれほど変わりません。
 道端の地蔵なり道祖神なりを引っ張ってきて置いておいた方がまだ目立っていた可能性さえあるでしょう。
 アイドルとして芽が出ればユニットやコンビでの活動や、他所様との共演の機会もある。いつまでもコミュ障だからでは済みませんよ」
「悪かったねお地蔵さんで……でも一応ほら。"あの子"にずっと応援してましたってことは伝えられたし!」
「初めて握手会に来たファンと同じ程度の挙動不審具合でしたが」
「そこはもうしょうがないじゃん! 推しに会ったら誰でもそうなるの! ……いやそれにしても……話思いっきり遮っちゃったけど……MCの芸人さんにやんわり窘められちゃったケド……ケド……」

 オーディションでの"暴走"で波に乗った満天だけれど、彼女個人の問題は何も解決していない。
 即ちコミュ障。おどおど、挙動不審、話の切り出しのタイミングが終わり散らかしていること。役満である。
 そんなこんなで、オーディション不合格の代償に引き寄せた番組出演は"想定通りの"失敗で終わった。
 ただ、そこはプロデューサーの面目躍如。彼は独自に番組関係者のひとりに接触し、交友を持つことで満天を売り込んでくれた。
 その結果、相手方も"ぜひともじっくり育てたい"と前向きな返事をしてくれ、なんと失敗したにも関わらず次が決まった。
 いや、次どころじゃない。なんと現在、満天のスケジュール帳(ここ数年で使ったページ数をこの一ヶ月で追い越した)には五件もの予定がひしめいている。少ないと思うかもしれないが、どれも以前の満天ならば絶対ありつけなかったような大口の仕事ばかりだ。

 そして何より――先の番組で、推しに会うことができた。
 最強の仮想敵にして、最高の憧れ。
 〈天使〉。いずれきっと、トップアイドルになるだろう少女(ライバル)。
 ゲストで呼ばれていた彼女がいたからこそただの地蔵では終わらず、がむしゃらでも何でも自分から口を開けたと満天はそう思っている。

「しかし。念願叶ったにしては、あまり嬉しそうではありませんね」
「えっ。嬉しいよ、メッチャ嬉しい。ウン年分の承認欲求が一気に満たされて隙あらば表情筋ゆるゆるになってるよ」
「そっちはうんざりするほど見ていますので別に。私が言っているのは、〈天使〉の方ですよ」
「……あー……」

 ファウストの指摘を受けて、満天は少し申し訳ないような、寂しいような、そんな顔になる。
 そう。確かに会えたのは嬉しかった。不器用でも喋れてよかった。
 それでも――こんな時じゃなければな、とどうしても思ってしまったことは否めない。

「うん。なんていうか、さ。ライブの動画なんかじゃ普通に見えてたけど――実際会ってみると、やっぱり結構参ってるんだろうなって」

 無理もない。
 収まる兆しを見せないネットの業火。その渦中にあって、自分と同じくらいの年頃の女の子が普通でいられるわけはないのだ。
 むしろああして気丈に仕事をこなし、"アイドル"であり続けていることは嘘偽りなくすごいと思う。心から、尊敬する。
 ただ、やはりどこか違った。満天の憧れてきた微笑みと、可憐さ。天使の魅力に一点、黒い染みが落とされているのを感じた。

「あの番組も番組だよ。いや、出して貰えた私が文句なんて言ったらバチが当たっちゃうかもしれないけど……
 よりによってこんな時に呼ばなくたっていいじゃん、って思った。少しでも休ませてあげればいいのにって」
「その点ですが、少し奇妙ですね」
「うんうん。デリカシーないよね、ちょっと」
「いえ、そうではなく。
 ……これだけ炎上し続けているにも関わらず、何故"彼女"のメディアへの露出量には減少傾向が見られないのかが謎です。
 先日私も敵情視察として彼女のグループのライブに足を運んできましたが、会場は過去の映像と変わらない大熱狂でした」
「えっ。そんなことしてたの? ひとりで? エンジェのライブに行ってサイリウム振ってきたの?」
「とてもではありませんが、炎上中のアイドルがセンターを張り続けているグループのライブとは思えませんでしたね。あれは少々異常です」

 満天の発言を無視して語る、ファウスト。
 その怜悧な眼光は、どこか訝しげに細められていた。

(インターネット上では未だに見るに堪えない風評と共に穢され、叩かれ続けている。
 にも関わらず現実(リアル)では炎に包まれたまま〈天使〉であり続けている。不可解だな。注視しておく必要があるか?)

 "キャスター・ファウスト"としてではなく。"プリテンダー・メフィストフェレス"として。
 正真の悪魔は、思考する。煌星満天という契約者をよそに、悪魔としての思考を深めていく。

(育成計画(プロデュース)は未だに途上。にも関わらず舞台は、俺の想定を飛び越して加速し続けている。
 それに――)

 先日、それこそ〈天使〉のライブを偵察した帰り道。
 路傍ですれ違った、白髪の少女。
 率直に。――視界に収めた瞬間、戦慄した。
 悪魔の中の悪魔が、愛すべからざる光が、その"光"に絶対的な否を抱いた。

(つくづく不味い仕事だ。俺もそろそろ、なりふり構っちゃいられねえな)

 世界は狂っている。都市は終末の秒針を進め続けている。
 であれば、悪魔は悪意さえ飛び越えた異形の摩天楼にて何を描くか?
 その答えは未だ秘められたまま。詐称する光輝の嘘は、眩い舞台の隅で人知れず羽ばたく。
 ――時計の針を前に進める。シンデレラを創り出す時計を、悪魔の爪が動かした。



◇◇



「……にしても、すっごい子だったなあ。
 ちょっと人見知りさんなのはあれだけど、私もうかうかしてられないや」

 〈Angel March〉――通称エンジェのセンター。
 愛称〈天使〉こと輪堂天梨は、先日共演した"悪魔系アイドル"の代名詞的な動画を見ながらそう振り返った。
 この前代未聞な大暴走動画を初めて見た時は、さしもの天梨も思わず言葉を失ったものだ。
 アイドル業界、いろんな子がいる。キャラ付けで売るアイドルなんて、今時珍しくもない。
 だがいくらなんでも、会場を爆破して審査員に啖呵を切る子なんてのは見たことがなかった。
 そりゃバズるのもわかる。業界が放っておかないのもわかる。実際に共演してみると動画の彼女とはだいぶギャップがあったが、それでも天梨の彼女に対する印象はかなり好意的だった。
 あれは伸びる。育て方次第では、きっと大きく化ける。それを楽しみに思いつつ、ちょっぴり怖く思いつつ。

 ……はあ、とため息をついてアプリを落とした。
 未来のことは、今はあまり考えたくない。
 天梨は前向きな性格をしているが、それでも現実を見ずに突っ走れるほど無敵の精神はしていなかった。
 ――この先自分は、アイドルを続けていけるのだろうか。こんな有様で、いつまでステージに立てるのだろう。

(……ていうかまず、なんでまだ仕事が来るんだろう。
 あっちの世界じゃ活動休止秒読みって感じだったのに。こっちだとそんな話ぜんぜん出てこないし、ライブも番組もオファー来続けてるし)

 輪堂天梨は、自分の体質について自覚していない。
 魔術回路の後天的獲得に伴って萌芽した異能。
 無自覚な、自身の周囲に対する魅了魔術。オン・オフの利かない、天使の魅惑(チャーム)。
 だからライブは盛り上がる。番組も然りだ。彼女と直接会った業界人は、誰もが〈天使〉に魅入られる。
 けれど、顔の見えない相手には天使の光は届かない。だから、火は消えない。火だるまのまま、歌い続けることになる。
 それが今の天梨の現状だった。頑張っていれば想いは届く、なんてご都合主義的な展開などあるわけもなく。
 こうしている今も――SNSや匿名掲示板を中心に、天梨の悪評は拡散され続けている。虚偽一色の冒涜が、その尊厳を犯し続けている。

「……いいなあ」

 ふと、呟いていた。
 悪魔のあの子はきっと、これからぐんぐん伸びていくだろう。
 たくさんのステージと、たくさんの祝福が彼女を待っている。少なくとも天梨は、そう思う。
 いいなあ、と思った。羨ましい、と思った。楽しそうだなあ、と、思った。

 ――ああ、だめだ。
 ――また、黒くなっちゃう。

 胸をきゅっと押さえる。
 心の中に、どうしようもなく黒い、汚いものがあるのを天梨は自覚していた。
 これが溢れ出してしまったら、自分は自分でなくなってしまう。
 今まで作り上げてきたものが、全部終わってしまう。そんな確信があった。
 それはきっと、普通の人間なら当たり前に持ち得る感情。
 他者への悪意とか、妬みとか、不平とか不満とか。何も咎められる謂れはない、当然の"黒"。
 ……けれど。〈天使〉なら、持っていてはいけない感情。天使は、白くないといけないから。

「君も強情だねえ。嫌いな奴、憎らしい奴、妬ましい奴。
 そいつらを一緒くたにまっさらにできる手段が目の前にあるのに、それでも倫理とやらを守るのかい?」
「……何回も言ってるよ。私は、そっちには行かない」
「どうだか。君も理解しただろう? この世界では"こっち"が普通だってコト。此処まで来ると善良とかじゃなくただの莫迦に見えるよ」

 悪魔が、嗤っている。
 彼はとても哀しい人。そして、天梨にとって決して頷いてはならない誘惑を囁きかける悪魔。
 和人憎悪の復讐鬼が、人を超え神(カムイ)に至った怨念の火が、くつくつと天使の葛藤を嘲笑していた。
 華々しい英雄ではなく、悍ましい災厄として定着してしまった殺戮者。シャクシャインにして、パコロカムイ。

 ――彼の言葉に、天梨は思い出したくもない記憶を否が応にも想起させられる。
 天梨の前に現れた初めての"敵"。ひどく禍々しい炎と、寒空を裂く烈風の如き矢。
 怖かった。初めて、骨の髄まで凍り付く恐怖というものを天梨は味わった。
 もしも自分のサーヴァントが、果てしなく燃え上がる憎悪の毒火というひとつの"規格外"でなければ。
 ぞっとするほど恐ろしく、悍ましく、そして哀しいこの〈悪魔〉でなければ――間違いなく、天梨はあの夜に死んでいただろう。

「輪堂天梨。いい機会だから白状するけどね、俺は君をそれなりに気に入ってるんだぜ」

 ああ、悪魔が囁いてくる。
 耳を塞ぎたい。でも、目を逸らすことはできなくて。
 それは、それだけは――してはならないと分かっていて。

「君は和人には相応しくない器だ。感服するし、尊敬するよ。
 だからその上で、俺は君と地獄に堕ちたい。
 君が和人らしく染め上げられて、俺と同じ鬼畜に堕する姿が見たいんだ」

 ニタニタと、ニヤニヤと、嗤うシャクシャインの顔がぐっと近付けられる。
 端正な顔立ちの美男子の顔は、途方もない憎悪と悪意にひどく歪んでいた。

「早く堕天しなよ〈天使〉。地獄(こっち)で俺と手を繋ごう。
 なぁに、血の池の水も慣れればひどく甘美なものさ。
 楽しいぜ! 嫌いな奴らを話も聞かず、一方的にブチ殺して回るのは!!」

 この悪夢は、いったいいつになったら覚めるのだろう。
 夢が終わらない。朝が来ない。炎が灯ったあの日の夜から、自分だけがどこにも行けてない。
 ――助けて。誰か。私が、私でなくなる前に。
 小さく身を丸めて震える〈天使〉の背中に翼はなく。やはりその姿は、年相応の少女のそれでしかなかった。



◇◇



 巷を賑わせている、アイドルの動画を見ていた。
 型落ちになって久しい旧式のスマートフォンは貧しさの証だ。
 以前までは人並みにアプリゲームで暇を潰すこともあったが、今ではもはやどれもこれもがデバイス非対応にアップデートされてしまった。
 よって使えるアプリは本当に基礎的なものばかり。恐らく世界で一番有名だろう動画サイトのアプリ版も、そのひとつだ。

 以前推していたアイドルは、自分自身のせいで誰かの"好き"を汚してしまった日から足が遠のいた。
 それから密かに好んで追っていたのが、今動画の中で暴れ散らかしている子だった。
 ただ、なんというか。こういうノリになってしまったのか、と少し残念に感じる。
 それが世では"解釈違い"という言葉で形容される感情であることを、覚明ゲンジは知らなかった。

 この世界で過ごした時間も、今までの日々と何ら変わらない。
 最初にボケた老人を殺してからは――ゲンジは、あれは自分が殺したようなものだと思っている――すべて同じだった。
 〈好奇〉〈嫌悪〉〈嘲笑〉〈軽蔑〉など、似たり寄ったりの矢印を向けられるだけの日々。
 虚しく、さびしく、ひとえに何の価値も見出すことのできない毎日だ。
 プラスの感情を誰に渡すことも受け取ることもできない、それはまさに今の自分のことではないかと自嘲さえした。
 サーヴァントという身の丈に合わない武器を手に入れても尚、そのことはゲンジの日常を何ら変えてはくれなかった。

 とはいえ、この現状を変えるために行動を起こす度胸はゲンジにはなかった。
 何故なら、ゲンジのサーヴァントは弱いからだ。
 この針音の都市に喚ばれた様々なサーヴァントの中でも、間違いなく下から数えた方が早いと確信している。
 ホモ・ネアンデルターレンシス――ネアンデルタール人。特定の誰かではなく種。故に凡庸。原人呼ばわりされてきた自分への皮肉か。

 彼らを引き連れて聖杯戦争の常套策をやろうと思ったら、確実に返り討ちに遭って死ぬとゲンジは確信していた。
 だから、彼は日常を変えることをしなかった。
 それが彼の見出した、身の丈に合う生き方というものだった。
 彼なりの、聖杯戦争に対する向き合い方。この苛烈な世界で生きていく、凡人なりの最善策。

 時々。その生き方が、ふらりと揺らぎそうになる。
 頭の中を離れない、いつかの日に見た白い少女。
 悪意と、偏見と、嘲笑に溢れたこの世界には不似合いなほど。
 数多の人間を狂わせ、己の運命に引き込み、それをひけらかすでもなく無邪気に微笑む巨大な渦。
 覚明ゲンジは、そういうものを見た。見ると同時に、理解した。
 彼女は、この世界の中心だ。針音響く都市にて玉座に座り、そしていずれ聖杯を戴くだろう絶対的な〈主役〉。
 強い光は、網膜を焼く。日光を凝視し続ければ視力に異常を来たし、二度と戻ることはない。

 ゲンジが彼女を見ていた時間は、ごくごくわずかだった。
 それが功を奏したのだろう。
 人の感情を矢印として視ることのできるゲンジは、他人の何倍も早く彼女に"染まる"ことができただろうから。
 だから幸いにも、ただあり方が揺らぐ程度で済んでいる。
 ふらりと、あらぬ方に歩きそうになる程度。時々、ふと忘我の境地に立たされてしまうくらい。
 ――ゲンジが今までにどんな生き方をしてきたのかを思えば、その時点でかつてない異常が生じているのは瞭然なのだったが。

 一度だけ、彼女に向いていた巨大な矢印の主を見かけたことがある。
 探ったわけではない。誓ってただの偶然だった。
 少し体調を崩して都内の病院に足を運んだ時、たまたま見かけた……もとい、"遭って"しまった。
 しかしゲンジは、それを見るなりすぐに踵を返して走り出していた。恐らくは、きっと、願わくば、相手に認識される前に。
 それはきっと、生物としての本能。知性にも文化にも悖る原始人類が、理屈など分からないのに天変地異の兆しを感じ取って逃れるように。

 ――おれは、何をするべきなんだ?

 ゲンジは思う。
 ゲンジは考える。
 ゲンジは、途方に暮れる。

 バーサーカーの"力"については、既に把握していた。
 夢を通じての意思共有。いくら顔が原人似だからって、さしものゲンジも本物と会話することはできない。
 なのにそうまでして伝えてくれたということは、あいつらもあいつらなりに自分を仲間――とまでは行かずとも。
 共生する相手くらいには思ってくれているのだろうか、とゲンジは思ったのだが、それはさておき。

 ゲンジは、確信している。
 恐らくバーサーカーの総力を使ったところで、"彼女"や"奴ら"には勝てない。
 未来は絶望的に閉ざされている。いつもの通りに、ゲンジの進む先には光がない。
 先の見えないトンネルのようなものだ。はじめの挫折の日から……いや、もしかするとこの世に産声をあげたその時からずっと。
 ゲンジの目の前には暗闇だけが続いていて、今もなおその出口は見えないままだ。

 勝てるのだろうか。
 勝てないと思う。
 じゃあ、おれは、どうすればいい。
 おれはどうやって、この"さびしい"世界で生きていけばいい?

 考えながら歩いていると。
 ふと、肩を叩かれた。
 ああ、と思う。やはり見た目が悪いと怪しく見られやすいのか、ゲンジは昼夜を問わず警官に職質されることが多かった。
 ただ、今回は違ったらしい。振り向くとそこに立っていたのは、壮年の草臥れた男性だった。

「君。財布落としたぞ」
「あ……。ありがとう、ございます」
「いやいや。最近はこの辺も物騒だからな、気を付けろよ」

 ふと思って、〈矢印〉を起動する。
 誰も信用できないのがこの世界、針音の仮想都市だ。
 とはいえ半分は、興味本位だった。自分の落とし物をわざわざ拾って、手渡してくれた人の〈矢印〉が見てみたくなった。
 そうして、起動してみて――ぎょっとした。

 立ち去るその背中から、空中に矢印が伸びていた。
 矢印の先は、しかしどこにも向いていない。
 あの"六人"にも迫る太さの矢が空中で捻じくれて、行き場を失っている。
 だから自分への矢印を見ようとしたのに、自分宛てでないものが例外的に見えているのか。
 まるでそれは、どこの誰とも分からない"何か"を、探しているようで。

 蛇みたいだな、とゲンジは思った。

 ちなみに、ゲンジ自身へ向いている矢印は〈心配〉だった。
 所在無げに歩いている自分を慮ってくれたのだろう。優しい人なんだな、と思う。
 じゃあ、この人は。一体どこの何に、こんな矢印を向けているのだろう。
 少しだけ気になったが、追いかけて声をかける気には、何故かどうしてもなれないのだった。



◇◇



 いつかと同じ喫茶店の、たぶんあの日と同じ席で。
 雪村鉄志は、懐かしい知り合いと対面していた。
 聖杯戦争絡みで作った協力者というわけではない。単に昔、世話になった人というだけ。

「……まあ、思ったよりは元気そうで安心したよ。昔から君はどこか危ういところがあったからなあ。
 自分が正しいと思ったことに対しては絶対に止まらないっていうか、まさに粉骨砕身って言葉の似合う男だった」
「昔の話ですよ。あなたこそ、変わりないようでなんだかホッとしました」

 "魔術師"や"神秘"絡みの犯罪に対するカウンターとして、それ専門の部署を設けろと訴え続けていた頃。
 当然ながら、上層部は雪村の求めに簡単に頷いてはくれなかった。
 あの手この手でのらりくらりと訴えを躱し、場合によっては雪村自身はもちろん、その周りの人間の進退さえチラつかせてくる始末だった。
 巨大な岩盤のように雪村の前に立ちはだかった上層部。
 そんな状況で、いち早く雪村の考えに賛同し――その上で賛同者を集め、力添えしてくれたのがまさに今目の前に座っている男である。
 警視庁公安部捜査一課長。それほどの立場を持つ彼が背中を押してくれたことが、どれほど雪村の励みになったかは言うまでもない。

「……東京は、ずいぶんおかしな街になっちまったねえ。
 こっちじゃ今更になって特務隊の必要性を訴える声がまた出てきてる始末だよ。何が起こってんだかさっぱりだ」
「……ええ、そうみたいですね。俺もゾッとしないですよ、まるで違う世界に来ちまったみたいだ」

 自分で言って、ちくりと罪悪感が胸を刺す。
 目の前にいる自分がまさに、東京を"おかしな街"にしてしまっている側の存在だということも。
 そしてそれ以前に、この世界は単なる張りぼてのテクスチャを貼り付けただけの代物で。
 自分の身を案じてくれているあなたもまた、そこに置かれた人形のひとつでしかないのだということも。雪村は、言えなかった。

「急に呼びつけて悪かったね。僕も最近はてんてこ舞いでさ、久しぶりに昔馴染みの顔が見たくなったんだ。生存確認がてらにね」
「くれぐれもお気をつけて。あなたに何かあったら、俺もまた一段と草臥れちまいますよ。……根室さん」

 律儀にテーブルの上に一万円札を置いて、恩人は雪村の前から去っていった。
 固辞したい気持ちはあったが、この男はそれをするとむしろ機嫌を損ねる厄介なところがあることを知っていた。
 だから素直に受け取る。処世術として、かつて彼にあちこち連れて行ってもらった後輩として。

「……はあ……」

 深いため息が出た。
 分かっていても、どうしても気が重くなる。
 すべてが造り物と分かっている街で生き、見知った誰かと関わるのは想像以上に心労だった。
 この都市でも特務隊は同じ経緯で生まれ、同じ経緯で散ったらしい。だからこそ境遇も変わってないのか、と合点が行った。
 一体どこの誰がこんなこと始めやがったんだ。心の中でそうぼやかずにはいられなかった。

 机の上にノートパソコンを置き、スリープモードを解除する。
 公安を退職する際に、捜査資料を無断で私物のUSBに取り込んだのはきっと未練だった。
 単なる職務規定違反でしかなく、職を失った挙句法廷に立たされるリスクさえある自傷じみた悪あがき。
 完全に"折れて"からは存在さえ忘却していた未練の塊が今になって、雪村の歩みを支える杖の役割を果たしてくれている。
 何しろ道なき道を歩んでいるのだ。完全に白紙(ゼロ)から挑むのと、過去の続きから始め直すのとではハードルの高さがまったく違う。
 もっとも、だとしても。目の前にあるハードルは雲の向こうまで天高く伸びる、未踏の絶嶺もかくやの無理難題であることは変わらない。

『――くえすちょん。進捗は、いかがです?』
「いかがもクソもねえ。砂漠で落とし物探してる気分だよ」

 言ってから、はっとなる。
 まずい、根を詰めすぎて念話と発話の区別が付かなくなっていた。
 周りの奇異の目を誤魔化すようにごほん、と咳払いをしてコーヒーを口に含む。
 落ち着くために閉じた瞼を開くと、先ほどまで恩人が座っていた席に――鋼の少女がどん、と座っていた。
 ぶーッ、と思い切り含んだコーヒーを噴き出してしまう。もろにそれを浴びてべちゃべちゃのべとべとになった彼女が、アルターエゴの機巧少女が、こてんと首を傾げた。

「ばっ、おま……! 人前だぞ、人前……!!」
「? 念話ではなく発話での対話を望まれているのかと思ったのですが……何か当機は間違いをしたでしょうか。ますたー?」
「と、とにかく出るぞ。会計済ませるから、嬢ちゃんはなんとかコスプレイヤーって体で外に出ててくれッ」
「こすぷれいやー。ふむ。なるほど。わかりませんが、わかりました」

 とてとて、と小さな歩幅で歩いて外に出ていくアルターエゴ。
 ついさっきまで中年と初老が語らっていた席に、突然小柄で目を引くドレス姿の少女が出現したのだ。
 周りの客はまるで(というか、まさに、なのだが)超常現象でも目撃したみたいな顔をしている。
 それにぺこぺこと愛想笑いで頭を下げながら、逃げるように会計を済ませて雪村も外へ出た。

 心地よく冷房の利いた店内だったはずなのに、皺のよれた私服は冷や汗でじっとり湿っていた。
 店の前では雪村の気も知らず、ちょこんと、まるで飼い主を待つ愛犬のようにマキナが待機している。
 その姿を見ると、焦らされたはずなのになんだか不思議と笑いがこみ上げてきた。
 ――今はもう記憶の中にしかない"彼女"との思い出が、目の前の少女の姿と重なって。少しだけ、また心が痛んだ。

「……せっかくだし、少しふたりで散歩でもしていくか」
「いいのですか? 先のますたーの反応を見るに、当機の装いは些か悪目立ちするようですが。
 こ、こす……こすふれ……? こすぷれ……でしたか。えぇと……」
「"コスプレ"したいお年頃ってことで通すさ。嬢ちゃんも、いつも霊体で付いて回るだけじゃ飽きちまうだろ」
「……当機に"飽きる"という観念はございませんが……。ますたーがそう仰るのでしたら、お供いたします」

 機械とは思えないほど、素直な子だと思う。
 どこか抜けているし、そのくせ大願に向かうための向上心はきちんとある。
 せめて重ねることだけはすまいと決めているのだったが、こうして四六時中一緒にいると度々それが揺らぎかける。
 ……小さな歩幅で一生懸命付いてこようとしているのを見て、歩く速度を抑える。これも、娘が消えて以来のことだった。

「なあ。嬢ちゃんはさ、神様になって――みんなを幸せにしたいんだったよな」
「はい。それが当機の意義にして、存在を懸けて挑む至上命題です。
 〈機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)〉。悲劇の迎撃者たる、無謬の平和機構。
 確かに当機はそこを最終到達点と見据えていますが、如何しましたか?」
「いや。まあ、大したことじゃあないんだけどな」

 ふ、と笑って。
 春風の吹く街路をふたりで歩きながら、雪村は小さく言った。

「――そりゃいいな、ってさ。思っただけだよ」



◇◇



 警視庁公安部捜査一課長・『根室清』。
 職務熱心で公明正大。年齢や性別で人を区別せず、有用なら若輩の意見にも進んで耳を傾ける。
 その姿勢は公安の中でも課の枠組みを越えて多くの人望を集め、上層部でも無視のできない存在感を放っている。
 かつて警視庁に対超常・神秘を生業とする特務隊が組織されるに至った際にも、発起人の訴えにいち早く賛同の姿勢を示し発足の一助を担った。

 そんな男が、たおやかな微笑みを浮かべながら道を歩いている。
 やがて人通りが途切れ、折よく防犯カメラの死角に入り。
 科学的、魔術的、その他法則も含めすべての"目"が途切れたタイミングで――
 白髪の混じった初老の男性という"よくある"その姿が、テクスチャを貼り替えるみたいに別人のそれへ切り替わった。

「うん。健在のようで何よりだったなあ、雪村くん。
 彼のことは結構可愛がってあげたからねえ……僕も少しだけ、懐かしい気分になってしまったよ」

 美しい、黒髪の女性の姿が現出する。
 年の頃はおおよそ二十歳といったところだろうか。
 どれだけ歳を重ねても衰えないだろう造形の良さと、まだ幼さの名残を残す、女性として理想的と言っていい顔立ちだった。
 背丈は160に少し及ばないかといった程度。体格は細身で、スタイルはスレンダーだ。なのに貧相さを感じさせないのは、その美貌故か。
 以上。これは、『雪村絵里』という既にこの世にはいない――もとい。
 この〈蛇〉の腹の中にのみ残っている、当時十歳だった少女の成長した姿である。

「ああ、ああ、可哀想な僕の後輩。せっかく懇切丁寧に未練を取り除いてあげたのに、君は屑籠からまたそれを拾い上げてしまうのか。
 荒れ果てた住まいでひとり孤独を慰め続けていたのなら、君はただ僕の肴になるだけで済んだというのに。
 愚かなことだ。哀れなことだ。どうして人は……蛇が棲むかもしれないとわかった上で、藪の中を分け入ってしまうのだろう?」

 変化の光景を見た者は、この都市にひとりとして存在しないが。
 それでも、もしも目撃者があったならば――誰もが瞬時に理解したことだろう。
 これは、人間ではない。人の形をした、ひどく悍ましくて冒涜的な"ナニカ"であると。

 東京には、日本には、蛇が棲む。
 蝮。赤楝蛇。青大将。これはそのどれでもない。
 これを形容するには、それらの種では矮小(ちいさ)すぎる。
 長大な体躯を深い藪の中に横たえて、とぐろを巻いて常に獲物を探し目を光らせる。
 この世のものとは思えないほど美しく、そして悍ましい、一匹の蛇。
 喩えるならそう――錦蛇。〈ニシキヘビ〉が、彼の素性だ。

 かつては神寂縁。
 そして今は、無数の貌と名を持つ異形の蛇。
 骨の髄までヒトではなくなった、簒奪者の極みである。

「ずいぶんと楽しそうね。いいの? あの男は、あんたを探してるんでしょ」
「構わないよ。彼の仲間は見る価値もないから雑に散らしてきたが、僕と同じステージに立ったというなら話は別だ。
 既に僕に〈支配〉されている、過去に呪われている彼は蹴落とすよりも愛玩したい。踊らせることも他の子達より容易だろう。
 それはそうと、雪村くんの英霊を見そびれたのは残念だなあ。もし良い子だったら、ぜひ啜ってみたかったんだが……」
「相変わらずゴミクズの変態ね。死ねばいいのに」

 この東京に、〈蛇〉は無数に存在している。
 元を辿ればすべて同一の存在だが、彼はその事実を決して悟らせない。
 今日も彼は誰かの恩人で。脅威と思われることもなく、たおやかに笑っているのだ。
 日本の黒幕(フィクサー)。政治ではなく、陰謀でもなく、ただ己の欲望のためだけに君臨し続ける藪中の王。

「あらかた"それらしい"子は視野に入れることができた。
 聖杯戦争の内情も、まあ、ある程度は見抜けた。
 祓葉ちゃん。いつか会った時には単に可愛い娘というくらいの認識だったが、はてさて、何があってああも化けたのやら」

 あの時食べておけばよかったかなあ。
 くつくつと、他人の娘の"あったはずの"未来の顔で含み笑う怪物を、かつて神に祀り上げられた女は嫌悪を隠そうともせず見つめていた。
 天津甕星。〈まつろわぬ神〉。土蜘蛛ならぬ、空から下りてきた凶星の化外。
 人の世に何の希望も期待も抱いていない彼女でさえ、この〈蛇〉の醜悪さには思わず眉根が寄る。
 なのに反目する気配を見せていないのは、ひとえに彼の力を買っているからだ。
 この男はひどく醜悪で、残忍で、吐き気がするほどに不愉快な生命体であるが――しかし、強い。
 恐らくこの世界で、英霊も含め、彼を正面打倒できる存在は相当に限られる。ともすれば、存在するかも疑わしい。堕ちた女はそう思っていた。

 外道の誹りなど今更だ。
 失う名誉も、この身には最初からない。
 であれば、望む結末を叶えられるのならば。
 あの日昇れなかった空に、今度は自分もヒトとして昇っていけるのならば――頼る相手は何でも構わない。
 禍星の矢は恐るべき支配の蛇(ナーハーシュ)の悪意の指し示す方向へ恙なく放たれ、あまねく敵を射殺すだろう。

「しかし、しかしだ。あの子はいい舞台を設けたね。造物主としての素質があるようだ。
 何しろ僕がかつて食べ損ねた、あるいはあえて食べずに取っておいた命を、よりによってこの僕と同じ舞台に立たせている。
 狙ったのなら大した策士だし、偶然ならばまさしく神の如し。
 ――いいじゃないか、腹が空いてきた。仕方ない、今夜は数週ぶりに新しい女の子を迎えようか」

 蛇の悪意は日本中に張り巡らされている。
 いや、それどころか。
 蛇が海を渡る機会があったなら、世界にさえその鱗は散りばめられている。

 例えば、そう。
 父親に守られて間一髪難を逃れた少年/少女だとか。

 例えば、そう。
 便利な手足兼"果樹園"として作った殺し屋集団を、新しい顔の実績作りのために自ら処分してみたりとか。

「うぅん、素晴らしいな。
 今日も世界は僕に支配されている」

 蛇が、蠢いている。
 ずるずる、ぬるぬると。
 悪意の鱗を、照り輝かせて。
 ――〈支配の蛇〉は、そこにいる。



◇◇



 炎の夢を見た。
 それは、かつて見ることのなかった赤色。
 けれど、確かにあったのだろう赫色。
 死の、色。大切なものを奪っていく、目には見えない焔の色彩。

 目を覚ます――夢に見たのは久々だった。
 レミュリン・ウェルブレイシス・スタールは、額の汗を拭って目を覚ます。
 起床するには遅い時刻だが、ついつい寝すぎてしまったようだ。
 無理もない。日々激化していく戦争のプレッシャーと、その他諸々の要因で最近は特に睡眠不足が続いているのだ。
 だから夢見も悪かったのだろうと思いつつベッドを立ち上がり、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出して喉に流し込む。
 清らかな冷たさが魘されて乾いた喉を伝い落ちていく感覚に、思わず「ぷは……」と声が漏れた。

 思い出と喪失の横たわる家。
 そこで〈古びた懐中時計〉に触れたレミュリンは、この世界では祖国からの留学生というロールを与えられていた。
 慣れない異国の学校にも最初はおっかなびっくり通っていたのだが、最近休校が決定されたので、日中からこうして家にいるというわけだ。
 都内某所のマンションの一室。懇意にしているカトリック教会の神父、『アンドレイ・ダヴィドフ』を後見人とし、レミュリンはここでひとり暮らしをしている。

「……ねえ、ランサー」
「おう。起きたか、マスター。どうした?」

 リビングのソファに座って新聞を読んでいるランサーの姿は、奇妙にこの仮初めの日常に馴染んでいる。
 その外国人としても規格外に部類されるだろう背丈さえなければ、彼は日本で暮らす陽気な外国人にしか見えないだろう。
 しかし、レミュリンは知っている。彼がケルト神話の英雄神で、偉大なる〈光の御子〉の生みの親であることを。
 ルー・マク・エスリン。それが、レミュリンのサーヴァントの真名だった。

 ルーの問いに、レミュリンは少し黙る。
 言い淀んでいるのではない。どう表現したものかと、言葉を選んでいるのだ。
 それからおずおずと、少女は神の座を離れた英雄に言う。

「もうすぐ、こうしてもいられなくなっちゃうのかな」

 レミュリンは、魔術師と呼んでいいかも怪しい存在だ。
 単に生まれと、受け継いだ回路があっただけ。〈古びた懐中時計〉に選ばれ、運命を手にしただけのちいさな演者。
 そんな彼女にも、しかしやはり魔術師の血は流れていたのだろう。
 朝起きた時、悪夢の残滓で沈んだ気分の中で漠然と思ったことがある。
 いや。あるいは、気付いた、とでも言うべきか。

 レミュリンの言葉は曖昧で漠然としたものだったが、ルーは新聞を閉じて目を閉じ頷いた。
 それは、この嫌な予感がどうも当たっているらしいことを実に端的に示す所作だった。

「そうだな。じきに大きな戦乱がやって来るだろう。そうなれば俺も、君を守るために前へ出なきゃならん。
 誓って負けはしないと断ずるが、……どうもこの箱庭は妙な気配が多くてな。
 この先具体的に何が起こってどうなっていくのかは、正直なところ俺にも分からん」

 やっぱり……と、レミュリンは唇を噛んだ。
 最初は平和だった都市が、日を追う毎におかしくなっていく。
 感覚の狂った時計のように、間違いが正されないまま次の間違いが生み出される。
 その悪循環で、世界を覆う針音の鼓動は狂っていく。
 そして今日。未熟者の自分にも分かるほど明確に、世界の色が変わったのを感じた。

 とうとう、始まるのだ。
 聖杯戦争――願いを叶えるための聖戦が。
 レミュリンにとっても、生死どうこうを別としたって無関係な話とはとても言えない。
 あらゆる願いを叶える願望器というその触れ込みが真実ならば、虚空に消えたあの日の真実を知ることだって可能かもしれない。
 いや、それどころか……手を出すこともできず、ただ失うしかできなかった悔恨を濯ぐことだってできるかもしれないのだから。

 ……では実際に何を選び、何を求めるのか。
 その命題の答えを、まだレミュリンは出せていないのだったが。

「怖いか?」
「……怖いに、決まってるよ。考えないようにしてたけど、正直怖い。
 何かをなくすのも、何かと戦うのも――わたしはやっぱり、すごく怖い」
「生き方ってやつはいつの時代も千差万別だ。
 戦場に立って勝つことを悦とする者もいれば、暖炉に当たりながら編み物をするのが好きなやつもいる。
 どの生き方も、間違ってるってこたぁ決してないが。それでもな、やっぱり生涯に一回はどうしてもあるんだよ。
 魂懸けて、何かと戦う――って局面がな。どう生きるも当人の自由だが、そいつから逃げちまうことだけは……俺は、薦められねえ」

 ルーの言葉に、ますます気分が暗くなりかけるが。
 そんなレミュリンの頭を、ぽん、と彼の大きな手が撫でた。

「だが嬢ちゃんは運がいい。なんでか分かるか?」
「……、ランサーがいるから?」
「大当たり」

 ニカッ、と白い歯を見せて笑う顔は、悩んでいるのが馬鹿らしくなるほどまっすぐで。
 レミュリンは思わず、「なにそれ」と小さく苦笑してしまっていた。
 そう。レミュリンを待ち受ける運命はとても過酷で、恐ろしいものだが。
 それでも彼女は、ひとりじゃない。もう、ひとりではないのだ。

「どんと構えときな。露払いは俺が請け負ってやる。嬢ちゃんはこの箱庭で、嬢ちゃんだけの戦いに挑めばいい」

 断ずるその姿を見て、レミュリンは改めて思う。
 ああ。やっぱり、この人は――英雄、なのだなと。
 あまねく闇を払って立つ、寝物語の主役(ヒーロー)のような〈光〉なのだなと。
 そう思って。気付いた時には、少しだけ心が楽になっていた。

(……ありがと、ランサー)

 心の中でそうお礼を言って。
 今度はちゃんと、前を向く。
 これから何が起こるにせよ、自分なりにそれを見て、生きていこうと。
 レミュリンは思って、それから、とりあえず寝不足なので顔を洗ってくることに決めたのだった。



◇◇



 レミュリン・ウェルブレイシス・スタールの寝不足の原因は、過去と不安。
 だが、それだけではなかった。もうひとつ、とても現実的な理由が彼女の安眠を妨げていた。
 ――隣の部屋が、とにかくうるさいのである。昼夜問わず大騒ぎ、どうもカップルか何かが住んでいるらしいのだが、まったく慎みというものが感じられない。
 では彼女の隣には、いったいどんな非常識な隣人が住んでいるのかというと。

「う゛ぁぁあぁあ゛ぅ……。あったま、いたぁい……。吐きそう、っていうか吐く、うぷ……!」

 中学生と見紛うほど背の小さい、されど立派……かどうかは別として、ひとりの成人女性だった。
 今年で彼女は二十四歳になる。ただし職はない。この前職場は、晴れて大炎上し文字通り消し炭になってくれたからだ。
 寝不足な隣人が来たる戦いを知覚していたその頃、天枷仁杜はトイレに駆け込んでマーライオンになっていた。
 そんなことになっている理由は魔術の反動、サーヴァントの酷使による魔力消費、いずれも違う。
 ストロングでゼロな安酒をついつい飲みすぎて、ふわふわとろとろ幸せな睡眠に就いたことの代償だった。
 つまり。要するに、二日酔いである。

「う゛~……。ぎもぢわるい……ロキくぅん、ロキくんの力でなんとかならない……?」
「あー、無理無理。俺暗示とかそういうのは専門外なんだよねー。
 奇術師ではあっても催眠術師じゃあないっていうか。ていうかこの話前もしなかったっけ」
「した……。したけど、なんかもっかい聞いたら違ったりしないかなって……」
「しゃーないなーにーとちゃんは。お茶漬けでも作ったげるからちょっと待ちな~?」

 この世の終わりみたいな表情と顔色でソファにぐでんと横たわった主君に、奇術師の王はけらけらと笑っている。
 遥か北欧の神話の片隅に列せられた、臓腑の裏まで黒々と腐りきった性悪巨人。
 ウートガルズの王たるロキが、二日酔いのルームメイトのためにお茶漬けのもとを白米にかけ、湯を沸かしている光景はえらくシュールだ。
 彼にとってもこうして誰かと気安く過ごすのは、この東京に来てからが初めてとなる。
 時空も種族も立場も越えて巡り合った運命の相手。最高の親友にして最高の相棒、運命共同体。
 ウートガルザ・ロキにとっての天枷仁杜は、ひとえにそういう存在だった。
 冗談でも皮肉でもなく、何の含みもなく心から、ロキは〈にーとちゃん〉を親愛しているのだ。

「ほい、できたよ。今日はわさび入り」
「ありがと~……。んむ……はむむ……」

 ずじじ……と汁を伴った白米を口に含めば、わさびのツンとした爽香が頭痛と重さを訴える脳を突き抜ける。
 はあ~……と気の抜けた声が思わず口をついて出た。
 二日酔いになるたびに二度と酒なんか飲むかと思うのだけど、この翌朝に啜るお茶漬けの味は他の何物にも代えがたいものがある。
 相変わらず顔色が悪いが一口食べると食欲が湧いてくるもので、次々と口に米を運びながら、仁杜はふとロキへ問いかけた。

「そういえばロキくんさ~。昨日ゲームした後、どっか出かけてなかった?」
「お。起こしちゃ悪いからそーっと出ていったんだけどな。よく気付いたね」
「えへへ。ニートはお部屋の変化には敏感なんだよ……!」

 まったく誇れないことで胸を張る仁杜の対面に座って、ロキは炭酸飲料の缶を開ける。
 喉を鳴らして甘い刺激を嚥下してから、さて何から話したもんか、と口元に指を当てた。

「ちょっと面白い気配があってね。割と近場で戦ってるみたいだったから、ちょっかい出しに行ってみたのさ」
「ふぅん……。で、どうだったの? おもしろかった?」
「超~面白かった。いやあ凄いね聖杯戦争。俺も長々生きてきたが、あんなもんを見たのは初めてだよ」

 基本、自分以外の全部を馬鹿にしているこの奇術王がそう言うのはとても珍しい。
 きょとんとした顔をする仁杜に、ロキは上機嫌そうに続ける。
 それはまるで、何かすごいものを見た子どもが家族に感動を話して聞かせるような調子だった。

「マスターがサーヴァントと戦ってんの。何でか自分の英霊は連れてなくてさ、ヘンな光の剣片手に大立ち回り」
「へー。世の中には強いマスターさんもいるんだねえ」
「まあ探せばそういう奴もいるだろうけどね、ありゃちょっと異常が過ぎた。
 相手、アーチャーだぜ? それも趣味は狙撃です、みたいな性能したヤツ。つまり圧倒的不利なの。
 なのにそいつが剣振るたび、なぜだか距離が縮んでく。どんどん相手の方が焦ってく。意味分かんなかったな、騙し絵見てるみたいだった」

 んで、早速茶々を入れてみた。
 ロキは言う。
 そしたら、そいつどうしたと思う?
 ロキは問う。
 どうしたの? と聞く仁杜に、ロキは歯を見せて言った。

「――そいつさ、フェンリルを真っ二つにぶった斬りやがった。
 幻とはいえ俺の創った"世界を騙す幻想"だ。そこに実在するのと変わらない、質量を持った蜃気楼さ。
 それを一太刀で持っていって、返す刀で俺と弓野郎を同時に斬ろうとしやがったの」

 ウートガルザ・ロキの大幻術は確かに万能ではない。
 限りなく全能に近いが、その実いくつかの制約と弱点がある。
 だがあの時成し遂げられた理解不能な奇跡は、冬の狼を両断した芸当は。
 幻術の克服だとか、幻を跳ね除ける意思の発露だとか、そういう細かい理屈とはまったく無縁の"何か"に見えた。

「なんかあれだね、昔のゲームのバグ技みたい」
「あーそれ、だいぶ言い得て妙。うんうん確かにあれはバグだわ。
 いや~~、面白いわ聖杯戦争。にーとちゃん、俺を呼んでくれてマジ感謝よホント」
「えへへへ~。どういたしまして~……わたしもロキくんといれて毎日楽しいよ~……!」

 まったくもって、実に面白い。
 ああいうのがいるなら、ますますやり甲斐が出てくるというものだ。
 目の肥えている観客こそまんまと騙して横転させたくなるのは奇術師の職業病。
 最高の相棒を抱えて、最高の〈未知〉に挑む。なかなかどうして唆る趣向ではないか。

 そして〈未知〉は、〈異常〉は目の前にもいる。
 天枷仁杜。ひと月を共にして思ったことだが、彼女は間違いなく異常者だ。
 性格ではない。純粋に、魔術師としての……いや、そうと表現していいのかも分からない才能が彼女にはある。
 常々感じていた違和感と、言語化することのできなかった畏れ。
 昨夜の出来事は、それに対する答えにもなってくれた。


 ――天枷仁杜は恐らく、あの白髪の少女にもっとも近しい存在だ。
 あるいは、"あれ"とはまったく別種の極点に到達できる可能性を彼女は秘めている。
 見たいと思う。共に歩みたいと思う。そこへ、到らせてあげたいと思う。
 奇術王はかつてなく高揚していた。結局は彼もまた、退屈な現実や凝り固まった理屈の類を一切合切まとめて消し飛ばす……そんな劇的な大手品に憧れる、ひとりの観客なのだ。



◇◇



 今度、久々にそっち行っていい?
 そんなメッセージに対しての返信はおろか既読もないのを見て、高天小都音は仕方のないやつだ、とため息をついた。
 〈にーとちゃん〉こと天枷仁杜は、腐れ縁の親友である小都音からしてもフォローのしようのない社会不適合者である。
 なのでこうして連絡をしたのになかなか返ってこない、というのは彼女に言わせれば"よくあること"だった。

「あの子スマホ依存症だし、見てないってことはないな……いつもの悪い癖か、また二日酔いで潰れてるか。どっちにしろ相変わらずだこと」

 曰く、彼女にとって連絡を返すという行為はたいへんに労力の要るものなのだという。
 小都音にはまったく分からない理屈だったが、前に指摘した際にはこんこんとそのように語られた。
 こんな堂々と自分のダメさを語れる人間ってこの世にいるんだ、としみじみ思ったものである。
 とはいえ、"よくあること"なので別に気分を害したりすることはない。
 むしろ仁杜に関して言えば、先日の大火事から難を逃れてくれていただけでも小都音は大概のことを許してあげたいくらいの気持ちなのだ。
 彼女の会社が文字通りの意味で燃えたことを知った日は、業務をほっぽり出して鬼電をした。
 それでもなかなか連絡がつかず、こうなったら家に直接乗り込んで安否確認を、と思ったところで『うちで寝てた!』というあんまりにも端的な返信(スタンプつき)が返ってきた時は思わず床にへたり込んでしまったものである。

「……ま、これでまた本当の意味での〈にーとちゃん〉に戻ったってことね」

 悪運の強いやつだ、と思いつつ、小都音は口元に笑みを浮かべる。
 そのさまを見て、彼女の相棒であるセイバーのサーヴァント……トバルカインは呆れたような顔で言った。

「お前さあ、よくそんな奴と付き合えるよな。私だったら途中で百回くらいぶち切れてると思う」
「だろうね。でもさ、結構いいとこあるんだよ。かわいいし、意外と律儀だったりするの」
「真っ先に出る擁護が"かわいい"って。コトネそういう趣味でもあんの?」
「下世話。ていうか現代じゃそういう勘繰りと決めつけはご法度だよ、有名人がしたらマジで炎上するやつだから」

 とはいえ、かく言う小都音も今だけは仁杜のことをあまりとやかく言えない立場である。
 というのも数日前、小都音は会社に退職届を提出してきたのだ。
 理由はもちろん、聖杯戦争の被害がどんどん洒落にならない規模になってきているからだ。
 自分でも結構な社畜気質だと自負しているが、さすがに会社、それも偽物の職場と心中覚悟で付き合ってやる気にはなれない。
 そのため、今は小都音も親友の彼女と同じ"ニート"だった。
 平日の真っ昼間から家でごろごろしてスマホを弄っていられるのも、そういう事情に起因している。

「……それにしても、よかったの? この間出くわしたあのなんとかって魔術師の男。
 割と交渉とか、前向きに検討してくれそうな感じだったのに。あんたが全拒否して殺しにかかるからおじゃんになっちゃったけど」
「あんなキモいサーヴァント連れてるような奴と話すことなんて何もねぇだろ。
 それに――」

 しかし、まったく小都音たちが聖杯戦争に関わらずに過ごしているかというとそんなこともない。
 むしろつい最近、小都音とトバルカインは共々一組の主従と邂逅、交戦していた。
 マスターの方もやけに屈強な体格の外人だったが、その印象を彼方に吹き飛ばす程度には、その連れているサーヴァントは異質だった。
 見た目が、ではない。見た目はむしろ、馬鹿みたいな美形だった。
 前情報を入れずに顔だけ見たなら、百人中百人の女子が華麗だと称するような美青年。
 個人の趣味を除いて論ずるのが前提だが、きっと"格好いい男"という概念の理想像に近いだろう英霊であった。

 だが。
 あまりにも、言動が常軌を逸していた。
 脳みそが溶けているとしか思えない、酔っ払ったような言動の数々。
 それだけでも小都音は彼の真名に行き当たることができたのだが、その上でもう一度驚いた。
 まっとうな教育を受けて育った現代人なら誰でも知っているだろう"恋する男の代名詞"が、こうも過激に歪み果てているだなんて。と。

「むしろ、駄目なのはその魔術師(マスター)の方だ。
 目を見りゃ分かる。ありゃちぐはぐなようで似た者同士だよ、イカレポンチ同士で引かれ合ってんだ」
「……ぜんぜん普通に見えたけどな。話も通じたし」
「それが一番怖ぇし、きめえだろうが。
 話のできる狂人ってことは、傍から見たら区別が付かねえってことだ。
 まだ分かりやすく涎垂らして電波受信してる方が信頼置けんね。だからぶった斬ろうとした。無理だったけど」

 持ちかけられた対話に対し、小都音がまごまごしている間にトバルカインが動いていた。
 『黙れ。まず死ね』『死んでから聞いてやるから首をよこせ』『とにかく死ね、話はそれからだ』という具合だ。
 本来なら、彼女はそこで件の魔術師の首を落としてしまいたかったのだろう。
 しかしそう上手くも行かなかった。――予想以上に、敵の狂える美男子が"強かった"からだ。

 最終的に業を煮やしたトバルカインが隙を突いて、小都音を担いでそそくさ撤退。
 家路を辿られないように東京中周る勢いであちこち走り回って、帰った時には空はすっかり白んでいた。
 そのせいで翌朝、小都音は退職届を出すための通勤を盛大に寝過ごし、とても気まずい気持ちで遅刻からの退職をかましてくることになったのだが、それはさておき。

「とにかく、ありゃ私のミスだった。面目ない」
「えらく素直じゃん。ってことはやっぱり話聞いとけばよかったってこと?」
「違えよ。あの場で面倒がって逃げるんじゃなくて、きっちり首落としとけばよかったってことだ」

 そう語るトバルカインの眼には、いつものだらけた自堕落な色はなかった。
 そこにあるのは、原初の鍛冶師にして数多の屍を積み上げてきた戦士の瞳。
 罪の継嗣、生き竈と称された女の放つ本気の殺意が介在していた。

「――ありゃ駄目だ。まずはうだうだと理屈で語ったが、それ以前に私の直感が告げてる。
 あの男は、生かしといちゃいけないやつだった。もしも、もしもあんなのが他にも彷徨いてんなら……はー、面倒臭ぇナ」

 やはり職人、ということなのだろうか。
 こうなった時のトバルカインは、ひとりでブツブツ何事か呟いて自問自答するモードに入ってしまう。
 なんだか物騒なことを言っているが、まあ、こんなのんきなことを思ってられる段階もそろそろ終わりなのは間違いない。

 はあ、やだね。
 平和が一番だよ、ほんと。
 高天小都音はそう言って、せめて完全に崩れてしまう前にこの平穏を少しでも満喫しておこうと、大の字で畳に身を投げるのだった。



◇◇



 アンジェリカ・アルロニカは窓辺に座り、曇天の空を見つめていた。
 いや、空を見ているわけじゃない。何を見ているのか、見ようとしているのか、自分でも今ひとつ判然としていなかった。

 太陽は今、雲に隠されている。
 なのにアンジェリカの心には、瞼を閉じれば思い出せるほど鮮烈に太陽の如き輝きが蔓延っていた。
 聖杯戦争。それは言わずもがなに〈魔術の世界〉。
 求む安寧とは程遠い、ひねり潰したくなるほど憎たらしい非日常の箱庭。
 あの日〈古びた懐中時計〉を手にし、この針音響く都市に迷い込んだ時からずっとそのことは承知していた。
 だが、今。アンジェリカは慣れるどころか、この世界、ひいては"そういう世界"への嫌悪を遥かに強めている。

 嫌悪。
 いや。
 これは、そんな単純な言葉で形容していい感情なのか。

 それさえ、分からないのだ。
 分かることはひとつだけ。
 昨夜、愉快犯のように現れた金髪のサーヴァント。
 突然、天を衝く巨体の白狼をけしかけてきた"横槍"の彼に。
 自分はきっと、跪く勢いで感謝しなければならないということ。
 もしもあの夜、彼の働く無粋がなかったならば。
 自分は――こんなものでは済まなかっただろうという確信が、アンジェリカにはあった。

「……ねえ、あめひこ」
「なんだ。アンジェよ」
「ごめん。もう何回目か分かんないけどさ、聞かせて」

 夜に、太陽に遭った。
 アンジェリカの体験したことは、それがすべてだ。
 間違いなく空は夜天の相を帯びていたし、時刻は深夜の三時を回っていたと記憶している。
 なのにアンジェリカは確かに、太陽を見たのだ。
 白い、白い――輝く恒星(ほし)を、地上に見た。

「……あれ、何だったの?」

 白髪の少女だった。
 光の剣を携えた、よく笑う女の子だった。
 最初、アンジェリカは躊躇った。アーチャーの矢を彼女に向けることをだ。
 それもその筈。少女は得物こそ持っていたが、サーヴァントを連れていなかった。
 アーチャーの強さは知っている。その矢が当たれば、人体など軽く爆ぜ飛ぶことも聞いている。
 だから、躊躇ったのだ。なのに最終的にアーチャーを制止しなかったのは、ひとえに――悪寒が走ったからだった。

 遊ぼうと。
 真昼のように微笑む、少女。
 その姿に、怖気を覚えた。
 魔術師として、望まないながらも相応の才覚を有していたアンジェリカにとって、それは初めての感情であった。

「分からぬ。だが、不確かな私見で発言して構わぬのならば」
「……、……」
「"神"の如き"人"だ。そうとしか言えぬ。私は、あの娘を形容する言葉を他に持ち合わせていない」

 アーチャー。真名を、天若日子。
 荒れ狂う悪神を撃ち、神の使者を撃ち抜いた高天原の神子。
 誰よりも神を知り。そして地に下って愛を知った英霊が。
 分からぬと言う。何を見たのか、判断が付かぬと顔を顰める。
 ――アンジェリカ・アルロニカが遭ったのは、ひとえにそういうものだった。

「……わたしはさ、魔術師になんてなりたくなかったけど。
 でも、別にそういう生き方や世界を全部否定する気はなかったよ。
 あくまで私がやろうとしてることは、私のわがままを通したいってだけのこと。それ以上でもそれ以下でもない、そこはちゃんと弁えてる」

 でも、と。
 アンジェリカは、弱音を零すようにちいさく足した。

「わたし――アレがいる世界は、怖いよ」

 ああ、そうだ。
 これはきっと、恐怖なのだ。
 嫌悪ではなく、恐怖。理屈などない、きっとすごく原始的な感情。

「……ああもう。らしくないこと言っちゃったよね、忘れて。はー、かっこ悪……」
「恥じることはない。それは人として当然の感情だと、私は思うぞ」
「そうかな。いや、でもさ。
 犠牲がどうとか、偉そうに啖呵切っといてこうやって窓辺で凹んでるって、なんかすっごい情けない気がして」
「なんだ。アンジェは意外と気にする性格なのか? 何を無粋な。私とアンジェの仲ではないか」

 そう言って、弓兵は朗らかに笑った。
 自分を元気付けようとしてくれているのが分かって、アンジェリカもなんとか微笑み返してやる。
 目に見えて分かる空元気だったが、それでも、此処でそういう顔をしないのはひどく不誠実に思えた。

「じゃあ遠慮せずに言っちゃうけどさ。やっぱり怖いや、すっごく怖い。
 ……だけど呆れたもんでさ、あめひこに語った夢を諦めたいって気持ちはぜんぜんないの。これって、おかしい?」
「恐れを抱くことと夢を追うことは別腹の話だろうに。アンジェはアレだな、うむ、アレだ。もう少し肩の力を抜くべきだな!」
「他人事だと思って……」

 恨みがましくじっと見つめるアンジェリカに、弓兵は「何を言うか!」と憤慨したように言う。

「他人事なものか。私は主のサーヴァントだぞ?
 一蓮托生、生きるも死ぬも、進むも戻るも共にある。
 アンジェが笑うなら私も笑おう。アンジェが曇るなら私が励まそう。
 だからまあ、なんだ。――少しは頼れ! 聖杯戦争はひとりで戦うものではないのだぞ、まったく!」

 あまりに直球でそう言われて、アンジェリカは今度こそ、空元気ではない自然な苦笑をこぼした。
 そうか。そうだな。今はひとりじゃなくて、こいつもいるんだ。
 加速など必要ない。"今""此処にある"ぶんの時間だけで、アンジェリカはこの小さな隣人の存在を思い出せた。



◇◇



 名前を聞けば誰もが頷く、ある名門女学園。
 そこでも、いや、そういう"身分の高い"家の子どもが多い学校だから尚更か。
 東京を襲う〈蝗害〉を始めとした複数の惨禍を受けて、学校は休校措置が取られていた。

 とはいえ、この学園は寮生活か自宅通いかを生徒の任意で選択することができる仕組みだった。
 だから授業や諸々の活動自体は止まっているものの、学校自体は開いているし、用件があってもなくても自由に出入りできるのが実情だ。
 無論、伊原薊美にそれをする理由はない。
 授業に付いていけないなんて情けない事情はなかったし、学業以外に関しても薊美は常に並ぶ者なき先頭を歩んでいる。

 走ってすらいない。ただ、普通に歩いている。
 それなのに誰も、薊美の隣に立てない。
 薊美の歩みに、付いて来れずに折れていく。
 薊美はそれを、果実のように踏み潰す。
 さながらこの学園は、薊美にとって果樹園のようなものだった。
 赤々と実っているのならばいざ知らず。
 地に落ちて腐り始めた林檎を踏み潰すことに躊躇いを覚える者など、そうそう居はしないだろう。

 そんな薊美は今、体育館にいた。
 無人の体育館だ。部活動も止まっているのだから当たり前だが、別に自主練習をしようと訪れたなんて殊勝な話ではない。
 そのような月並みなことしなくたって、茨の王子はあるがままに無敵なのだ。
 あるがままだからこそ、最強なのだ。最美なのだ。玉座をほしいままにする、女王なのだ。

 ……半月ほど前に。
 この体育館で、とある余興が繰り広げられていた。
 此処はお硬い校風の学園だが、それでもそんな学校なりに生徒の不安を和らげて息抜きをさせようと一計を案じたのだろう。
 授業の日程を変更して、方々で名を馳せているという話題のマジシャンをひとり、呼んだ。

 ――"天才"。
 ――"王の再来"。
 ――"現代の脱出王"。

 そんな仰々しい呼び名の付き纏う彼女の舞台は、まさしく奇術だった。
 種が見えない。そもそもあるのかどうかさえ、疑いたくなってしまうほど。
 すべてが華麗で、隙がなく、トリックの推測という無粋に介入の余地さえ与えない。
 疑う以前に端から興味さえなかった薊美でさえそうだったのだ。
 他の生徒たちの眼からはさぞかし、本物の魔法のように――魔術のように見えたに違いない。

『君――』
『ふふ。いいね、素晴らしい。喩えるならば花、かな。
 ひどく美しいのに、鋭い棘のせいで誰も周りに近寄れない茨の王子さま』
『強くて、綺麗で、華々しい。誰もが憧れて、尊敬の眼差しを向ける。そんな王子さまで、女王さまだ』

 舞台が終わり、満足げな顔の生徒たちが捌けていく中で。
 それを見送るマジシャンは、薊美を呼び止めてこう言った。
 当然だ、と思ったことは言うまでもない。
 驕りではなく、事実として。自分はそういうものだと、薊美は理解していたから。
 周りはきゃあきゃあ言っていたり、苦々しい顔をしていたり様々だったが。
 そんな中でひとり。薊美だけが、言葉の続きを聞いていた。

『だけどいつまでもただ咲いてはいられないよ。
 どんなに綺麗な花も、日照りが続けば枯れてしまう』

 奇術師は、笑って。

『――備えなさい、茨の君。
 美しく咲き続けたいのなら、あなたは"太陽"に勝たなきゃいけない』

 そうとだけ言い残して、人混みに紛れた。
 どういう意味、と問い質そうとしてもまったくの無駄。
 まるで人混みの中という"檻"から、お得意の奇術で脱出してみせたみたいに――少女の姿は、次の瞬間には見えなくなっていた。
 その事象だけを見てすごいすごいと騒げる周りの林檎たちを、薊美は見てすらいなかった。
 そして今も。茨の王子は、言葉の意味を求めて……既に脱出が終わった後の棺桶/体育館に、こうして意味もなく足を踏み入れている。

「……馬鹿馬鹿しい」

 思わず口をついて出た言葉は、果たして誰に対してのものだったのだろう。
 幻影を追っている自分自身にか。それとも、あのいけ好かないマジシャンに対してか。
 定かではないが、らしくもなく無駄を冒した自覚は薊美にもあった。
 だからこれで無駄の時間は終わりだ。そう決めて歩き出し、そこで。

「――ライダー?」

 自分の相棒である、あの"将軍"がやけに静かなことに気付いたのだ。
 足を止めて、今も霊体化して近くに侍っているだろう彼を呼ぶ。
 するとすぐさま、虚空に米国的(アメリカン)な伊達男の姿が具現化した。

「カスターは此処に。どうかなさいましたかな、我が令嬢(マスター)?」
「いや……今日はなんだか静かだな、と思って。何かあった?」
「――ああ。いえ、別に大したことではないのですよ!
 憂いを与えてしまったのならお詫び致しましょう!
 このカスターは依然として不変、貴方と共に覇を往く騎兵なれば!」

 ただ、と。
 薊美のサーヴァントである彼は、す、と微笑みを消して斜め上を見た。
 そこには窓がある。体育館の窓は換気のためなのか開け放たれていて、曇り空が隙間からよく見える。

「ただ……少々、忌まわしい音が聞こえたような気がしましてな。
 そう、何か――指笛のような。そんな音が」

 そんなカスターの言葉の意味を、薊美は理解できない。
 そして当の彼も、それをただの気のせいだとして片付けてしまったのだろう。
 『万事滞りなく! 私の心配など一切不要ですぞ、はっはっは!!』と言い残し、反響もやまぬ内に霊体化してしまった。
 薊美は少し鼻で息をして、一度止めた足を再び動かし始める。
 太陽は空に昇っていない。太陽は、地上にある。
 それは果たして、伊原薊美という美しき王子か。それとも――



◇◇



 ――。
 時計の針を、少し廻す。
 順ではなく半に。
 逆さに、時が戻っていく。

 演者の数は十七人。
 だが、舞台には未だ語られぬ六人の役者が残っている。

 彼らは、残骸。
 彼らは、残響。
 既に役目を終え、されど眠ることを許されなかった六つの遺骸。
 魂までもを光に焼き焦がされた生ける焼死体(リビングデッド)。
 かつては人間。
 今は、何でもない存在。

 ――〈はじまりの六人〉。

 時に取り残された、哀れな器たち。



◆◆


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最終更新:2024年08月29日 23:53