クラス、バーサーカー。
 真名、婆稚阿修羅王。
 それが、〈一回目〉の聖杯戦争にて、ホムンクルス36号が召喚したサーヴァントであった。

 "前回"の聖杯戦争。
 未だ全貌の明かされない戦いにおいて、ガーンドレッド家は必勝を期していた。
 ホムンクルス36号を創造し、極東の島国へ末端の魔術師と共に派遣した一族。
 慎重と秘匿を家訓に掲げる彼らは迂遠な手段に終始し『聖杯戦争の結果など二の次、今回はあくまでホムンクルスの実験場と捉えている』。
 といったポーズを気取りながら、実のところ全陣営の中で最も本気であり、必死だった。

 用途こそ不明だが、彼らは〈熾天の冠〉を喉から手が出るほど欲していたのだ。
 自らの意思を獲得したホムンクルスは、〈一回目〉の自陣営について、そのように振り返っている。

 ホムンクルス36号が自らをミロクと定義する前。
 序盤から中盤戦に至るまでの詳細な戦闘経過は今も曖昧な記憶となっているが、ガーンドレッド家が採用した基本戦略については把握している。

 それは悪辣極まる遊撃(ゲリラ)戦法。
 彼らは自陣営のサーヴァントを爆弾(ボム)と呼んでいた。
 過剰なまでに狂化深度を底上げして召喚したサーヴァントは一切の制御を受け付けず、もとより彼らは制御するつもりがなかった。

 霊体化を解いたバーサーカーは周囲一帯を修羅場と定め、過日の帝釈天との戦闘を再現する。
 修羅道の化身が目にする全てが討ち倒すべき敵であり、狂乱する戦闘神の瞬間最大出力は草の根も残さぬ、文字通り爆弾の如しであった。

 無論、見境が無いということは自陣営が近寄ることもできず、高すぎる破壊力は工房の防衛や長時間戦闘には適さない。
 隠れ潜みながら、局所的な大混乱と番狂わせを齎す、暴れ馬(ピーキー)な性能。
 その真価とは、他陣営から見て、それが唐突に目の前に現れる奇襲性にある。
 混戦の真っ只中、撤退戦が終わる直前、不用意な偵察行為の応報等、クリティカルなタイミングで炸裂するように仕込む爆弾。
 一切指示を受け付けない代わりに正面戦闘では負け無しの武力を、彼等はブービートラップのように扱ったのだ。

 召喚者としてホムンクルス36号に求められたのはバーサーカー起動時の苦痛の肩代わり、そして安全装置としての役割。
 派遣された三人の魔術師は"信管"と呼んでいたが、"心臓弁"がより正しい例えであったと36号は考えている。
 魔力という血を瞬時に流し、堰き止める弁としての機能。
 これが無ければ奇襲性は担保されず、なにより意図的に暴走させたサーヴァントを強制停止させることができない。

 つまるところ、召喚者(マスター)とは名ばかりの、罠を起爆し再利用するための装置。
 それが、前回の聖杯戦争における、中盤までのホムンクルス36号の実態だった。

 召喚者の叛意を許さぬよう、不自由な旧式ホムンクルスとして創造するのみならず、ステータスにも極端な調整を加えられた。
 感知、解析、知識に極振りされたパラメータは従者とは真逆の方向に尖りきっており、戦略面での弱点を補うと同時に、
 魔力保有量を極小にすることで術行使すらも制限する徹底ぶり。
 さらに現場で意思決定を行う三人の魔術師も、魔力を大食いするバーサーカーを起動するために、ホムンクルスに魔力を置換するべく調整された特別製。

 特別のサーヴァント、特別のマスター、特別の魔術師達。
 大量のコストを投入して挑んだ本気の聖杯戦争に、結局、ガーンドレッド陣営は敗北を喫したのである。
 それでも中盤までは三人の魔術師の読み通りに進んだ筈だ。
 遊撃戦の罠は効果的に作用し戦場の主導権をある程度握ることに成功した彼等は、他陣営と互角以上の立ち回りを成し遂げていた。

 開戦当初、彼等が特に警戒した陣営は2つ。

 一つ目は異色なる闖入者。
 脱出王とそのサーヴァント・ライダー。
 彼等はその在り方からして、ガーンドレッド陣営の天敵と言っても全く過言ではなかった。
 奇襲と番狂わせで立ち回ろうと画策した彼等にしてみれば、定石そのものを掻き乱す予測不能の厄介者。
 それも稀代の脱出王(トリックスター)の参戦は想定外であり、早急に潰す必要性に駆られたのだ。

 2つ目の陣営は、開戦以前から存在を把握しており、脱出王とは別の意味で脅威に成り得る事が明らかだった。
 そのため、事前に入念な下調べと準備を進めていた。
 だが、結局のところ、彼等が用意してきた"対抗策"を実行する機会は巡ってこなかった。

 理由はシンプルなものである。
 その前に、唐突に、見るも無惨にあっさりと、ガーンドレッド陣営は自滅したのだ。
 他陣営から見ればまるで意味不明な経緯での脱落。
 ガーンドレッド本家も、三人の魔術師も、他陣営の誰一人として、予想出来なかった特異点によって齎された破滅。

 誰も警戒していなかった最弱の少女と、"信管"でしかなかったホムンクルスの、偶然の接触。
 ホムンクルス36号を、ミロクへと変えてしまった少女の笑顔。
 些細な、なんてことない触れ合いが、ガーンドレッドの大願を呆気なく崩壊させたのだった。
 その後〈一回目〉がどのような結末を迎えたのかは、もはや語るまでもない。

 だが、もしも、仮の話。
 あの少女が居なければ、聖杯戦争はどうなっていたのだろうか。
 殺し合いが順当に進んだ場合、誰が勝ち残ったのだろうか。
 ガーンドレッド陣営に果たして勝機はあったのだろうか。

 そんな事を考察することに、きっと最早なんの意味もない。
 しかし、敢えて、一つを選ぶなら。

 瓶の中の赤子は述懐する。
 単純スペックのみで測るなら、開戦当時、最も強く君臨した筈の陣営とは。
 総合的に、もっとも勝者に近かった者とは。


 ―――やはり、あの男だったろうな、と。





 病院という場所は、正直今でもあまり好きじゃない。

 大事な人と分かれた思い出の舞台は、いつもそこだったから。

 小さい頃にお父さんが、その数年後にお母さんが居なくなった。

 どちらも、なんてことない普通の病気。

 誰にとっても平等(ランダム)に訪れる運命のような、よくある死病だった。

 母の最期の姿を、今でもたまに夢に見る。


 ―――アンジェ、その刻印は我が家系の誇りです。


 薄暗い病室の中、息が止まるまでの僅かな猶予。

 痩せ衰えた母の姿を、幼いわたしが、たった一人で見つめている。

 思えば自分の死期を悟った母が、刻印(しるし)を移植すると告げた時、果たしてそれは分岐点だったのか。

 あのとき首を縦に振らなければ、失望を受け入れてでも固辞していれば、わたしの運命は変わったのだろうか。


 ―――後は、頼みましたよ。


 母は最期に残すものに、家族としてではなく、魔術師としての言葉を選んだ。

 わたしはそれが堪らなく悲しくて、本当は泣きたかったのに。


 ―――ああ、よかった。アンジェ、どうかあなたの代で、少しでも、一族の悲願に前進がありますよう……。


 精一杯の作り笑顔で、きっとゴールには辿り着かない、空虚な運命(バトン)を受け取ったのだ。








 悪鬼、暴君、数式、魔女、そして脱出王。
 ホムンクルスから提示された五つの情報、そのいずれかを選び取り、辿ること。
 あるいはその全てを避けるべき脅威として遠ざけること。
 選択肢。突然5枚ものカード(情報)を配られた場合、多くの者は判断に迷う。
 アンジェリカ・アルロニカもまた、それなりに迷った。
 迷いながらも素早く結論を下し、行動を開始出来たのは、彼女の手に、既に6枚目のカードが存在していたからだった。

 ホムンクルスと出会う以前、遭遇していた一人の少女。マスター単独でありながらサーヴァントに引けを取らぬ戦闘能力を見せつけた存在。真夜中の白光。
 彼女を見た時から、アンジェリカの瞼の裏には光の残滓が消えぬまま。
 アンジェリカが巻き込まれた聖杯戦争はきっと、時計塔で聞きかじったそれと比べて全く異質のモノだ。
 針音の街には恐ろしいものがいる。それも一つではない。
 その脅威達と、何の覚悟も準備もなく遭遇することこそ、致命的な事態に発展するような、薄暗い気配。

 明らかな危険を避け、安全な場所で息を潜めて期を待つ。そういったサバイバルの鉄則に反してでも、知る必要がある。
 そう思った。その判断は、果たして正しかったのか。
 答えは未だ見えぬまま、今、少女の前には城が聳え立つ。

 漂白されたコンクリートの外壁。均一に並べられた窓枠の列。
 正面玄関まで近づいてしまえば、軽く首を上向けた程度では視界に収め切ることができないほどの、泰然たる白い巨塔。

 ――蛇杖堂記念病院。都内でも有数の大病院である。

 その場所に至る理由はそう複雑でもない。
 ホムンクルスとの邂逅の後、自宅に戻ったアンジェリカはアーチャーとの話し合いの上、偵察行動に出ることを決定した。
 ある意味では順当な流れだろう。ホムンクルスから齎された情報の中で、工房の場所が明確なマスターはただ一人。

 蛇杖堂寂句。
 魔術師、蛇杖堂一族の現当主にして、日本医学会に絶大なる影響力を持つ蛇杖堂記念病院の名誉医院長。
 そして"前回の聖杯戦争"に参加していたという、マスターの一人。

『いやはや、これはなんとも潔癖な城塞だな、アンジェ』
『城っていうか病院だけど……まあ、もしかしたら別に間違ってないのかも。
 これが全部工房だとしたら、相当な規模っていうか。そんなのアリかーって感じね』

 病棟のエントランスホールを前に、アンジェリカは思案していた。
 自宅からそう離れていなかったという理由もあり、目の前まで来たは良いものの。
 侵入に及ぶか否かの判断に迷いが生じている。

 通常、魔術師の工房とはアンジェリカの自宅のような一軒家であったり、その地下であったりが一般的なものだ。
 ホテルのワンフロアを工房化するなんて例もあるが、それも建造物の限られた区画が精々といったところ。
 ホムンクルスからの情報通り、この病棟全てが工房だというのなら、それは神殿の領域に近い。
 だが現実として、それほどの備えを完成させたという信憑性には、幾つもの疑問が湧き上がる。

 まず病院という場所が、そもそも工房や神殿といった魔術師の領域には不適当であるからだ。
 昼夜問わず不特定多数の一般人が出入りし、魔力の巡りも悪い近代科学の集合地。
 そんな場所を拠点に定めるなど、真っ当な魔術師には絶対にあり得ない発想だろう。
 しかも間違いなく、侵入することそのものに危険は無いと言い切れる。そうでなければ病院というシステムが成り立たない。
 見てくれは巨大でありながら、患者に混じってどこまでも入り込めてしまう病院という場所。
 転じて、それは内側から容易に崩されてしまう、ハリボテに等しい砂上の楼閣ではないか。

「……そんなの工房として成り立ってない。でも、だからこそ不気味なのかも」

 侮るなかれ。
 あのホムンクルスはこの城主を、〈一回目〉において、"総合力では最も強かった"とまで言い切ったのだ。

『そっちはどう? アーチャー』
『屋上から中庭までざっと覗いたが、罠らしき物は見当たらぬ。
 とはいえ内がどうなっているかは入ってみるまでなんともだな。
 進むか、引くか。後はマスターの判断よ』

 霊体化させたままのアーチャーと念話を交わしながら、アンジェリカ・アルロニカは思案する。

『どうする? 私はアンジェの意思を尊重するぞ』

 今のところ、アーチャーが強く止める様子はない。
 アンジェリカ自身の見立てとしても、ただ入るだけなら危険はない筈だ。
 安全を優先して早々に引き上げるのは簡単だが、それで得られるものはなにもない。
 進むべきだ。しかし、心のどこかで、何かが引っかかっている。

「…………」

 日は少しずつ、落ち始めている。
 だが日没までは少しばかり、時間があった。

「…………よし、決めた」




 ガラス越しに過ぎ行く風景を眺めている。
 透明な膜の向こう、流れていく民家の屋根、横切る電柱、曇り空。
 ホムンクルスの短き手足は瓶の檻に囲われ、外界に影響を及ぼすことはない。
 それでも彼が今、時速70キロ程の高速で移動できているのは、彼を抱えたサーヴァントの超人的脚力によるものだ。

「……なんというか、大将のやりてえこと、叶えてえ目標ってのは、俺様もある程度は理解したんだがよ」

 黒い影が住宅街を跳ね回る。
 アサシンのサーヴァント、継代のハサンはホムンクルスの入れられた瓶を抱えたまま、屋根から屋根へと飛び移り、移動を続けていた。

「けどな、結局、なんで大将がその……カムサビ某の為に、そこまで体張るかってのは、未だに納得できてねえのが正直なところだ」

 一度、町工場に戻った後、方針を整理したうえで。
 再度活動を開始した彼等は、動きながら今後の方針について話を続けていた。

『無理もないことだ。貴殿は未だ光に触れていない。
 だが、一度照らされてみれば、仕えるに値する光を目にすれば、理解できるはずだ。
 故に、その時まで、どうか私に従ってほしい』

「ハイハイ、俺様も別に大将の見立てを疑ってるわけじゃねえよ。
 大将の能力は変わり種だが、解析や感覚ついて言やピカイチだ。
 今まで何組か摘んできた中でよおく分かったし、そこは信頼してるつもりだぜ」

 けどなあ、とアサシンは心の中で付け足す。
 勝つための意志が希薄というのはやはり心配になる。
 ミロクにとって聖杯は二の次かもしれないが、アサシンにとっては替えの効かない第一目標。
 事と次第によれば、鞍替えも検討からは外せない。

 だが一方で、仕えるべき光という言葉には無視できない響きがあった。
 もしかすると、それはアサシンの願い、"答え"に直結する重要な鍵になり得るのだから。

「とりあえず、そのカムサビサンを拝見するまで、ちゃんと従うつもりだよ」
『感謝する』
「それはいいとしても、だ。もう一回だけ確認するが、さっきの話……マジなんだな?」
『さっき、というのは?』
「大将が言ってた、再定義、ってやつの件だよ」
『……ふむ』

 少しだけ溜めを作ってから、ミロクは言い切った。

『私は至って真剣に伝えたつもりだが』
「だよなぁ……大将そういう冗談言うタイプじゃねえもんなぁ……」

 トホホと肩を落とすアサシンを見上げながら、ミロクは先ほど町工場で話した内容を思い返す。
 二度目の聖杯戦争に挑むに当たり、ホムンクルス36号、ミロクは自らの在り方を再定義することを決めた。
 それは脱出王の言葉をきっかけに齎された契機。

 ―――過去の焼き直しなんてやめた方がいい。

 過去に、一度目に、後悔など無い。"彼女"の生存と勝利を願って、身を捧げた。
 その行いが間違いであったとは思えない。
 だが同時に、一度目と同じ行動を辿るだけでは、この忠誠(きょうき)を果たすことは出来ぬという事も分かった。

 彼女に勝利を届ける。かつてはそれだけで良いと思った。
 だが、2度目が始まった今、それだけでは成らぬと知っている。
 最後の一人まで勝ち残る。それだけでは、きっとあの少女は満足しない。
 何故なら、彼女は既に1度勝っている。勝利して尚、満足できなかったからこそ、2度目があるのだ。

 故に、次に届けるものは、ただの勝利に非ず。
 ただの勝利(せいはい)以上に、少女が欲するもの。
 そうして新たに定義した、2度目の生の使い道、新たな動き。
 ミロクが"彼女"に届けるべき、勝利よりも価値のある、『最も素晴らしきもの』とは―――

「やれやれ、世話の焼けるマスターに呼ばれちまったもんだ」

 アサシンはその方針を聞いた時、まず素直に呆れた。
 呆れると同時に、更に一層興味が湧いてしまったのも事実。
 この変わり者のマスターがそこまで熱を上げる少女とは、一体どれほどのものなのか。
 故に今のところ、契約を反故にする気も起きず、文句を言いながらも無茶振りに付き合っている。
 本音としては、この脆いマスターには工房でじっとしていてほしいのだが。

 とはいえ、厄介ごとのお鉢が回ってくるのは何も初めてではない。
 先代ハサンが急死した時の混乱を思えばなんのその。
 つまり、継代のハサンは結局のところ、とても面倒見の良いサーヴァントなのであった。

「けどま……こういう事があるから憎めねえ。ずるいね大将。ホントに言う通りになっちまってる」

 そして今、蛇杖堂記念病院。
 その広大な敷地の2百メートルほど手前にて、アサシンは足を止め、己がマスターの読みの深さを素直に称えた。

『別に大した推測でもない。提示した数パターンの想定の、内一つが運良く当たっただけだ』

 アサシンが覗く双眼鏡。
 その中には大病院の中に入っていく少女の背中があった。
 今日、休戦協定を結んだばかりの同盟相手、アンジェリカ・アルロニカ。

『蛇杖堂の暴君。奴の居城はあの少女の工房から近い位置にある。私の話を聞いてしまった以上、無視はできまい。
 遅かれ早かれ、場所と状態の確認程度は行うのが自然な動きだろう』

「なるほどな。それで『前回の参加者の中で、総合力で測るなら一番強え』、
 なんて過剰な持ち上げまでかまして焚き付けたわけだ。悪いねえ大将」

『いや、蛇杖堂の実力については、何一つ誇張していないが』

「そうなのかよ……」

 さて、アンジェリカは今、大敵の工房に侵入した。
 期待した札が、まずは一枚。

 在り方を再定義した結果生まれた、新たな目的。
 それとは別に、ミロクは前回からの方針そのものを覆すつもりもない。
 つまり、太陽を勝利に近づけるという、転じて、及ぶ危険を排除するという、至極単純な忠誠のカタチ。

 太陽を害する者の排除。
 ミロクが知る限り、最大最悪の敵とはなにか。
 何れ全て屠るべき忌まわしき屑星ども、ミロク以外の〈はじまりの六人〉、その中で、最速で殲滅すべき脅威とは。

『蛇杖堂寂句。奴しかいまい』

 前回、最も彼女を死に近づけた男。
 そして6人の中で最も、明確に彼女を討たんとする意思の確固たる者。
 気質に限った話ではない。その潤沢な備えは決して放置の許されない台風の目だ。
 老蛇の知恵に時間を与えれば与えるほど、備えは強化され根城を盤石にしてしまう。

 故に、蛇杖堂の暴君を滅する機会を見逃すことは、絶対にできない。
 あの男の恐ろしさを知る者であれば、決して無視することは許されない、超えるべき共通の鬼門。
 これに関してのみ、ミロクは他の亡霊達と意見を同じくすると考えていたのだが。

「で、結局のところ、仕掛けるのかい? 大将」

『……まだ、手札が足りていない』

「そりゃそうだ、安心したぜ。ひと目見りゃ分かる、ありゃ無理。
 アサシン一騎で崩すにゃ、ちょいと規模がでかすぎる工房だ」

『そうだな……行こう』

「了解。今日は出直し、また後日、チャンスがあればってことで」

『そうではない』

「……え?」

 手札は2枚。
 1枚はアサシンのサーヴァント。それも、前回の聖杯戦争でその高い性能を証明した暗殺者の伝説。
 そして、もう1枚。

『我々も彼女らに続こう。急ぎ、奴の工房に侵入する』

 2枚目はアンジェリカ・アルロニカとそのサーヴァント、アーチャー。
 ある程度の誘導はかけたものの、殆ど幸運の働きによって、居合わせた彼女たち。
 そして、

「おいおい……そりゃ確かに、あのアーチャーがいりゃあ多少は勝算も出てくるかもしれねえけど、にしたって……」
『それだけではない。たった今、状況が変わった』

 ここで更に引き当てた、3枚目。
 ホムンクルス36号の驚異的な魔力感知は、サーヴァントよりも早く、それを感じ取っていた。

『事は今に大きく動く。時間がない。アサシン、済まないが貴殿にも……』
「あーはいはい、また体張れって言うんだろ? ったく、わかりましたよっと」

 最期に、伏せていた4枚目。
 これで札は揃った。ミロクはそう判断した。
 必勝、と言えるほどの手札かと問われれば、断言することは出来ない。
 だが後にも先にも、蛇杖堂の暴君に対し、これほどの手で勝負できる場がやってくる保証はどこにもない。

 新たに定めた目的も、忠誠の完遂も。
 全ては太陽の光が絶えず注がれてこそ。

 己が狂気を遂げるため。
 ガーンドレッドのホムンクルス36号ではなく。
 〈はじまりの六人〉、その一人、ミロクとして。
 彼は今、その真価を問われる初陣へと臨むのだった。






 一歩、踏み込んだ瞬間に理解した。
 アンジェリカも、その従者(サーヴァント)も、今、自らが怪物の腹に入り込んだ事実を。

 少女は思わず反射的に振り返る。
 背後、内と外の境界線、エントランスホールの自動ドアが緩やかに閉まっていく。
 ガラス越しに見える外は変わらず、午後の斜陽に満たされた平凡な風景。

 今いるエントランスの状況も、外から見ていた時と何ら変化は見られない。
 患者や見舞いに来た家族、病院スタッフやドクターが歩き回る日常の景色。
 それでも、何かが切り替わったことがハッキリと分かる。

「これって……」
『ふむ……』

 いまや疑うべくもない。
 この病院は、工房、要塞、どちらも否、その実態は檻に近いものだ。
 侵入してみてやっと分かる。確かにこれなら、内側にいくら入りこまれても関係ない。

『むむ……なるほど、なるほど。
 結界の守りが内向きに働いている……と、どうやら、城主は大した偏屈者のようだな。
 私の千里眼も、魔力探知も、敷地の内部までに抑えられてしまっている』

 アーチャーの念話に心中で頷き返しながら、アンジェリカは慎重に院内を進んでいく。
 一般の患者と一緒にエレベーターに乗り込み、4階のナースステーションまで来ても、視界に怪しいものは確認できない。
 それでも魔術師であるならば、どんなに勘の悪い者でも感じ取れるはずだ。
 建造物全体から発せられる強烈な圧迫感。壁、床、天井、その全てに内向きの対魔術防御が仕込まれている。
 要するに、内部からの破壊工作にこそ対策を特化することで、病院と工房の施設機能を両立させているのだ。

「でも……それだと、別の疑問が出てくるよね」
『そんな"あべこべ"な要塞を作る意味は何なのか、ということだな』

 内への防御に特化することで、多数の一般人が出入りする公共施設を、破壊工作に強い工房に変えたカラクリは理解できた。
 だがそうすると今度は外部からの単純打撃に脆く、広大な施設規模に意味を見出すことが出来ない。
 一応、巨大なコンクリートの塊を、単純なる物理防壁として扱っているという解釈もあり得るが。

 エントランスからいつでも簡単に外に出られることも確認済み。
 不用意に入り込んだ魔術師を捉えるトラップも確認できない。
 結局、意図のわからない施設であることに変わりはない。

 結界を構築するために院内に打ち込まれた楔。要石の数は想像もできない。
 実際、各フロアをつぶさに見ても、全ての場所を特定する事は出来なかった。
 掛けたコストに対して、あまりにリターンが少なく感じる。

「いや全然わかんないんだけど……効率的なのか非効率なのか、でも……」

 少なくとも、とアンジェリカは思う。
 これほど複雑な備えを成立させた魔術師が、意味もなく巨大な工房を構えたとは考え難い。
 何か、まだある筈だ。気づけていないカラクリが残っている。

 ふと、廊下の窓から差し込んだ日が妙に眩しく感じて、アンジェリカは足を止めた。
 陽光は少しずつ、だが確実に傾き始めている。
 調査に没頭するあまり、いつの間にかそれなりの時間が経ってしまっていたようだ。
 侵入前にアーチャーと取り決めた調査時間は『2時間以内』、そろそろ潮時だろう。

 少し開いた窓から涼しい風が吹き抜ける。チチチ、と中庭の小鳥の鳴き声が耳に届く。
 音も風も絶たぬまま、内と外を結界で分かつことを成功させている。
 それだけで、凡百の魔術師の腕ではないと言い切れるのに、ずっと感じる引っ掛かりは何なのだろう。
 アンジェリカのよく知る型や礼式に拘る魔術とはまるで違う。これでは、まるで……。

『ときに、アンジェよ』

 黙考していたアンジェリカの意識を引き戻したのは、少し寂しげな従者の声だった。

『ん、なに? アーチャー、なにか気付いた?』

『いや……一度、聞いておかねばならぬと思っていたことなのだが』

 珍しく歯切れの悪い従者の調子。
 敵地とはいえ霊体化させたまま長く放置してしまい、少し拗ねてしまったのか。
 などと考えていたアンジェリカに、

『―――アンジェは、同朋を殺めたことはあるか?』

 発せられた問いは、意外と真剣な内容だった。

『なに……いきなり』

『そうだな、すまぬ。だがやはり、これは聞いておくべきことだと、ふとな』

 霊体化したアーチャーが何を見ているかは分からない。
 周囲には沢山の患者や医療スタッフ、日常を生きる人々の姿。
 そして、どこかの病室を覗き込めば、死に近い誰かの姿を認める事もできるだろう。
 病院、生と死の、日常と非日常の交差点。アンジェリカにとって、今でも少し苦手な施設。
 この場所に、弓兵は何かを感じ取ったのだろうか。それとも単純に、ずっと聞くタイミングを考えていたのだろうか。

『人を、殺したことは……』

 少女は深く息をすって、答えを告げた。

『まだないよ』

 それでも、とアンジェリカは思う。

『でも、それは偶々、まだってだけで』

 いつかの、学友との決闘を思い出す。

『魔術師として、ちゃんと殺し合ったこともあるから分かる』

 アンジェリカにとっては些細な失言、だけど学友にとっては重大な侮辱を切っ掛けに、始まってしまった決闘。
 友人の拳には殺意があった。だからアンジェリカも殺意をもって応えるしかなかった。
 だから、死ななかったのも、殺さなかったのも、ただの結果論でしかなかった。

 犠牲は最小限に抑えたい。そう、心から思っている。
 人の善性を捨てたくない。
 それは普通の人生を始めるための、失くしちゃいけない切符であるように思うから。
 だけど、どうしても避けられない犠牲なら。今は、まだ、

『必要なら、わたしは人を殺してしまえる』

 そんな人でなしの一人なんだよと、告げた。
 だって、アンジェリカ・アルロニカは、まだ魔術師だから。
 手首に刻まれた刻印が、それを証明し続けている。
 アルロニカ家の魔術を継ぐ魔術師アンジェリカである限り、その運命は逃がしてくれない。

 この戦いに勝ち抜いて、綺麗さっぱり魔術と縁を切る、そのときまでは。
 運命を否定し、自分の選んだ『普通の人生』を始めるまでは。
 どれほど"人として"の善性をかき集めたたって、"魔術師として"の自分は消えてくれない。

 いまは、まだ、アンジェリカは魔術師だ。
 少し哀しいけど、そんな答えを、受け入れるしかない。
 だからこそ、この小さな従者には安心してほしかった。

『大丈夫、わたし、覚悟なら出来てるから』

『違うぞ……アンジェ、それは……』

 霊体化したアーチャーは表情が見えない。
 なのに何故か、アンジェリカは感じ取ってしまった。
 今、この従者は悲しんでいる。だが、一体何を、

『違う……?』

 彼はいま、アンジェリカの何を、否定しようとしたのだろう。

『いや、相済まぬ。やはりいま話すことではなかったな』

 アーチャーはそれ以上続けるつもりもないようで。
 少女もまた、一旦、追求するのを止めた。

『……お腹もすいたし、そろそろ引き上げよっか』
『そうだな』

 話の続きは今日の夜、晩ごはんを食べながらでも遅くはない。
 これ以上の長居で成果を得られる気配もなし、いざ帰路につかん、と。
 一階を目指して歩き出した。その直後だった。

「―――え、嘘でしょ」

『―――ふむ、不味いな』

 マスター、サーヴァント、同時に察知する。
 たった今、魔術工房はその意味を反転させた。
 内向きに閉じていた結界が裏返るように外へ展開されていく。
 圧迫感が消え去り、アーチャーの千里眼や魔力探知も本来の射程に及ぶようになる。
 これが何を意味するのか、複雑怪奇な結界の意味を、アンジェリカはようやく理解したのだ。

 結界の指向性を裏返すなんて芸当を仕込む為の、コストや技術など想像もつかない。
 だが、理由だけならば簡単に読み取れる。
 つまり、内側を守る理由がなくなったから、外側の守りに切り替えた。それだけのこと。
 そして、内側の守りを固める理由が無くなる要件とは。

『どうやら城主が戻ったようだ』

 蛇杖堂寂句。人呼んで―――

「……ドクター・ジャック」

 一階の方から僅かなどよめきが上がる。
 吹き抜けから見下ろしたエントランスホールには、果たして、その男の影があった。

 180センチ近い高身長。
 卒寿に至る年齢を一切感じさせぬ筋骨。
 灰色のコートの裾が、ほんの一瞬視界を過ぎ去る。

 今や全てのカラクリに答えが与えられていた。
 工房であり城塞であり檻でもある大病院は、城主の在否によってその役割を変えるのだ。
 登城の際には要塞に、そして空けているときは、檻、あるいは―――

『罠だ、アンジェ。すぐに退くぞ』

 入り込んだ魔術師が敷地外に及ぶ探知能力を喪失する。
 内向きの結界の副次効果に見せて、実態は鉄格子の落下を悟らせぬ仕込みだったとしたら。

「うん、窓から……いや、正規ルートから出ないと警報に絡め取られる可能性もあるし。
 慎重にやり過ごして、正面エントランスから脱出しよう」

 幸い、未だに格子は降りていない。
 エントランスから出るぶんには安全だろう。
 敵はまだアンジェリカに気づいていない。

 彼が最初に向かうのはおそらく院長室。
 そこが工房の最奥とすれば、たどり着かれた時点で侵入がバレてしまう可能性がある。
 何れにせよ、面倒な事態に発展する前に、敷地の外に出るべく動き出そうとした。
 その矢先、

『―――!』

『なに? もう見つかっちゃった?』

 絶句するアーチャーの声音は襲い来る異常事態を予感させた。

『違う! 奴にはまだ勘付かれておらぬ……が、しかし……ええい不覚ッ、もう説明している時間もないぞ!』

 突如として霊体化を解いたアーチャーがアンジェリカの腕を掴む。
 彼の視野がおそらく何らかの脅威を捉え、警報に引っかかる危険を承知で窓からの脱出を図ろうとしていると分かった。
 しかし結局、それが果たされることはなかった。

「……あの、アンジェリカさん。ですよね?」

 アンジェリカのもう一方の腕を掴む手が、そのラストチャンスを潰してしまったから。

「あんた……誰?」

 それはピンク色のパジャマを着た、三十代半ば程の年齢に見える女性患者だった。
 アンジェリカは話したことも見たこともない。見ず知らずの他人。
 そんな女性が、名前を呼び、腕を掴んでくる。
 最初は、バレたのだと思った。この病院の主に。
 だが、すぐにおかしいと気付いた。

 アンジェリカはこの素人然とした女性の気配に、触れられるまで気づくことすら出来なかった。
 そしてなにより、嫌悪感を顕にしたアーチャーの反応が、その推測を裏付ける。

「なんの真似だ暗殺者。よもや舌の根も乾かぬ内に裏切るつもりか?」

 素早く回り込んだアーチャーは片手で女の腕を払い除け、もう片方の手で握った矢を首元に突きつけている。

「さすがだぜ。やっぱ目が良いな、弓兵」

 女の目元にほんの一瞬、白き髑髏の仮面が現れるやいなや。
 すう、と輪郭が薄れ、景色に溶けていくと同時に。

『早い再会になったな。アンジェリカ・アルロニカ』

 間髪入れず頭に叩き込まれた念話によって、呆気なく答え合わせが為されたのであった。

「ホムンクルス……!」

『まず誤解しないで頂きたいのだが、我々の同盟関係は続いている。其方を害する意思はない』

 思考に直接差し込まれる、ホムンクルスの念話。
 今日聞いたばかりの声を忘れるわけもない。

『ただ、これから起こる事態を思えば、いま其方に去られると困る故、少し引き止めさせてもらった』

「都合の良い事ばかり言ってくれるな。やはり貴様ら、気に入らぬぞ」

「アーチャー、抑えて」

 努めて冷静に、アンジェリカは息を整えた。
 周囲を見渡せば、あれだけ居た筈の患者や医療スタッフが見当たらない。
 皆、病室やナースステーションに戻ってしまったのか、辺りは静寂に包まれている。
 誰もない廊下の真ん中で、姿の見えないホムンクルスの念話だけが脳に届く。

『いずれにせよ貴殿らにはもう、選択肢はない。状況はそちらの弓兵が理解しているはずだ』

 アーチャーは答えない。
 先ほど何かに気づいて以降、様子がおかしい。
 アーチャーはもう、アンジェリカの腕を掴んで強引にこの場を離れようとしていない。
 それはつまり逃げるという行為が、今やなんの意味も為さないことの証明ではないのか。

『では改めて、我々は其方に協力する。共に、この危機を脱しよう』

 そうして、白々しい共闘宣言とともに、訪れるタイムリミット。
 壮絶なる脅威の気配とともに、2つの恐ろしい出来事が同時に起こった。

 無人の廊下、既に患者もスタッフも居なくなった、静まり返ったその場所に、遠く、足音が鳴る。
 こつ、こつ、と。それは近づいてくる。
 いま、廊下の向こうに人影が見える。
 翻る白衣。威風堂々の佇まい。この城塞の支配者。

 目前に迫る、蛇杖堂寂句。
 暴君の到来。そして―――

 病院という工房、要塞が、戦闘態勢を整える。
 換気のために空けられていた廊下の窓、病室の扉が一斉に締まり、ひとりでにロックされる。
 風も絶え、小鳥の声も絶え、傾いていた日光すら―――陰り―――。

 最期の変化は、流石におかしいとアンジェリカは気付いた。
 時は夕刻、迫る逢魔が刻。
 それでも、日没まではまだ早い、はずなのに。

 ―――ぶぶ。

 耳に届く、不快な羽音。 

 ―――ぶぶぶ、ぶぶぶぶ。

 ガラス戸に衝突する黒い塊。
 日食のように窓からの陽光が途絶えていき、闇が世界を侵食していく。
 薄暗い廊下に、空間を歪めるような異音だけが切り込んでいく。

 ―――ぶぶ、ぶぶぶぶ、ぶぶぶ、ぶぶぶぶぶ。

 ビリリと、閉め切れられた窓が大音響の振動で揺れている。
 少女は一瞬、巨大なウーハーを乗せた何かが接近しているのかと思って、あり得ないと直ぐに分かる。
 ここは4階であり、聞こえる方向は一方向ではない、360°全方位から、かき鳴らされる不快な羽音と、
 素人が聞いても分かる程度には調子の外れたギターソロ。それが徐々に近づいてくる。

 ―――ぶぶぶぶぶ、ぶぶぶぶぶぶぶ、ぶぶぶぶぶぶぶぶぶ、ぶぶぶぶ、ぶ。

 一層、不気味さを際立たせる電子音のロック、羽音の合唱が織りなす不協和音。
 窓に、外壁に、豪雨の如くに叩きつけられる無数の黒。
 日を喰らい、空を貪るように旋回する。飛蝗の大軍。悪夢のような包囲網。

 今や何もかも手遅れとなった状況で。
 アンジェリカ・アルロニカは、自らが立つ位置を理解した。
 それはおそらく、人生で初めて経験する本物の、死地であると。



 ―――第三の騎士、黒き終末が来たる。



 もう、誰も逃げられない。








 東京の街を砂嵐が横断する。
 空を覆い尽くすように飛来し、津波の如くうねり逆巻く黒き暴風。
 目を凝らして見れば砂の一粒一粒に翅が生え、足が有り、顎が開き、生命として自立していると分かるだろう。

 吹き荒ぶ黒点の全てが生きている。蠢いている。
 個々として、同時に一体として、軍勢としての生命活動を持続している。
 喰らい、産み、喰らい、産み、また喰らう。その繰り返し。

 それは神の時代から途切れなく続く災厄。
 人の世を終わりに導く黒の騎手。
 文明を滅ぼすたった4つの冴えたやり方、その3つ目。

 飢餓の権能。
 飛蝗の軍勢、サバクトビバッタ。
 ただ滅び逝く地平の暴風(Schistocerca gregaria)。

 異常に塗れた針音の聖杯戦争。
 その中でも単純武力トップクラスの騎兵(サーヴァント)が襲来する。

 主の命を受け、定められた狙いは蠍飼う暴君の根城。
 蛇杖堂記念病院。
 はじまりの六人、蛇杖堂寂句の本丸である。

 聳え立つ白塔に到達した黒波は衝突の勢いそのままに旋回を開始。
 漆黒の台風(ハリケーン)が巨大建造物を飲み込み、完全包囲を実現する。
 羽音で包み込み、陽光すら断ち切り、外界との交通経路を遮断する。
 群れはいま、取り囲んだモノの内外の何もかも、一切合切残さず貪り食うと決定を下した。
 その司令塔がここに、

「G―――!」

 空中を滑りながらカタチを成す。  

「――――GIGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGAAAAAAAAAAAAA!!!!!」

 爆音奏でるギターソロ。
 大病院を取り囲んだハリケーンの障壁、吹き荒ぶ黒嵐の中から伸びる手足。
 形成されるつなぎの服装、この頃お気に入りのキャラメイク。
 背中を黒嵐に押し上がられるようにして、空中を滑らかに飛行する黒髪の男。
 その両腕には、一本のエレキギターが握られていた。

 アンプに繋がっているわけもなく。
 そも、ギターそのものが蟲の集合体で作られた模造品。
 にも関わらず掻き鳴らされた弦は強烈な電子音を弾き出し、不気味な旋律(ロック)を拡散させる。
 ギュイイと放たれた異音はハリケーンの反対側に衝突し、障壁を形成する蟲達の羽音によって更なる鳴音(ハウリング)を巻き起こす。

「やっぱ病院ってやつは好かねえなぁー。薬臭くて食欲失せるわ」

 適当な演奏を続けながら男は、シストセルカはそう言って嘲笑うように口端を上げた。

「まあけど、噛みがいはありそうでなによりだな」

 神話級の災害が襲い来る悪夢のような景色のなか、ここにもう一つ在りえぬ事態が発生している。
 蛇杖堂記念病院は未だ原型を留めてそこに在った。
 蝗害の到来から既に3分経過、たとえ巨大なコンクリートの塊であろうと、常ならば1分もかからず食い尽くされている。
 それを未だに、内部の人間を食うことはおろか、外壁に穴すら開けられていない。

 病棟の窓や壁に、あらゆる方角から殺到した飛蝗の数は既に5千匹を優に超えている。
 にも関わらず、それらは堅牢な防御結界を前に全て弾かれ落とされ続けている。
 認めよう。なるほどこれは、凄まじい要塞だ。
 たった一匹でも侵入を許せば瞬時に崩壊に追い込むシストセルカの軍勢を、ただの一匹も通さないという無茶を実現して対応し切っている。

 ―――会えば分かるよ。

 主(マスター)の言葉を思い出す。
 確かに、これは退屈しなさそうだ。
 神寂の少女に散らされた戦力は未だ回復途中にある。
 だが万全な状態にないとはいえ、マスターの仕立てた防御結界だけで飢餓の軍勢を押し留める。
 それほどの相手がここに居るのだ。

「空振らなくて良かったぜ」

 シストセルカに下された命令は『嫌がらせ』。
 留守中に陣地を荒らし回るだけでも良かったし、寧ろよっぽど簡単な仕事になったろうが、やはりそれではつまらない。
 こうして、きちんと正面から戦うことが出来て良かった。ちゃんと食い殺すことが出来てよかった。
 と、彼は自らの勝利を疑うべくもない前提として、本気でそう考えている。

「それで? どうする? いつまでも引きこもっていられねえぞ」

 今のところよく耐えている。しかし時間の問題でもあった。
 いくら蛇杖堂の備えが盤石であったとしても、シストセルカが全快でなかったとしても、このまま無限に耐え忍ぶ事はできない。
 一刻も早く黒き軍勢の侵攻を止めなければ、やがて結界は崩れ、一匹が内部に到達する、それだけでゲームセットだ。

 敵は動く必要に駆られている。その筈だった。
 しかし、なかなか敵のサーヴァントが現れる気配がない。
 このまま削りきって終わり、そんな結末は簡単だが、つまらない。
 シストセルカが徐々に冷めた気分になってきた、到達から5分後のタイミングにて。

「―――来たな」

 病院の屋上に、2つの像が結ばれる。
 従者(サーヴァント)。
 この場においては、黒き終末を退けるべく使わされた2騎の英霊。

 一つは槍兵、赤い髪、真っ赤な甲冑で全身を覆った、異形の者。
 一つは弓兵、黒き髪、小柄な体躯に平安の直衣を纏う、美しき者。

「おおっと、デザートまで付いてくんのかよ。どっちが主食かわかんねえけど」

 敵は2騎。つまり狙いとは別の陣営も巻き込んでしまったらしい。
 結果として2対1。
 うーんツイてるなと、シストセルカは心から思って、旋回する嵐に号令をかけた。

「喜べお前ら、今日は豊作だ。腹いっぱい喰って帰ろうぜ!」

 槍を構える蠍、矢を番える神。
 殺到する黒き暴虐。

 襲い来る終末と、迎え撃つ神威。
 今ここに、数多の神話がせめぎ合う、英霊の戦いが始まった。








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最終更新:2024年11月05日 00:32