結論からいうと、輪堂天梨がその騒動に巻き込まれたのは不幸な偶然によるものだった。
 日中の外出を終え、渋谷から自宅に戻る帰り道。
 時刻は夕方、迫る逢魔が刻の道中に、少女はそれに行き合った。

 徐々に落ち始めた陽の光は傾きを得て、建造物の影を伸ばし、明暗の境を如実に表す。
 曇り気味の空は燃えるような茜に染められ、幻想的な美しさと不気味な怪しさを同居させる。

 自宅近くの人通りのない道を、天梨はひとり歩いていた。
 心の内側では、今日あった様々なことが巡っている。

 伊原薊美との邂逅。
 煌星満天との通話。
 そして、知らされた、重要な事実。

 ――私のクラスはキャスター。そして同時に、今は"彼女"のプロデューサー業も兼任しています。

 煌星満天はマスターだった。
 天梨と同じ、この聖杯戦争に招かれた者の一人だった。
 真実は、天梨に悲しみと希望を同時にもたらした。 
 あの純烈で真っ直ぐな少女が、戦いに巻き込まれていたという、悲しみ。
 あるいは、この子と一緒に、力を合わせて状況を打開できるのではないかという、希望。
 色々なことが起きて、少し混乱してしまったけれど、

(……やっぱり、少しだけ、嬉しい気持ちの方が強いな)

 初めて出来た仲間。同盟関係。その響きを反芻して思う。
 マスターとして、ずっと一人ぼっちだった天梨にとって、どれだけ安心できる響きだったことか。

(ごめんね。満天ちゃん、ほんとはこんなこと、思っちゃいけないのに)

 あの子が、ここに居てくれてよかった。
 言い換えれば、自分と同じように巻き込まれてくれてよかったと、そういう意味になってしまう。
 それでも天梨は、彼女が同じ立場っだと分かったとき、嬉しかった気持ちを否定できない。

(駄目駄目、せっかく気分が上向いてきたんだから)

 自虐的になってはいけないと、天梨は思い直す。
 伊原薊美との会話や、満天との通話によって、今日は確かな勇気を貰えた気がする。
 また、胸の真ん中が黒くならないように、前をみなければ。
 それに今日は偶然にも時間があったけれど、明日からまた忙しくなるかもしれない。

 新たに入ったお仕事、アイドル同士の対談イベント。
 輪堂天梨と煌星満天の対談バトル。その段取り合わせに大人たちは大慌てで奔走しているようだった。
 天梨はマネージャー業にそこまで明るくないけれど。
 それでも普通ではあり得ない勢いでスケジュール調整が行われていることは分かる。
 場所が仮想の東京であることを差し引いても異常な手際だった。
 さらに今、ぴろり、と鳴ったスマホを開けば、トークアプリに新たなメッセージが届いていた。

『天梨さん。お疲れ様です。ひとまず報告だけになりますので返信は結構です。
 進行している対談イベントの件なのですが、早くも会場と時間の候補が決まりそうです。
 ただ、公開対談の後、可能なら〈ライブパフォーマンス〉を行う、なんて案も上がっていて―――』

 マネージャーの余裕なさげな文章から、交渉相手に振り回されているのは明らかだった。
 想像以上の速さで調整が進んでいく。
 相手側の事務所が綿密な根回しをしていたとしか思えないし、それだけでも説明がつかない。
 やはり、あのプロデューサー兼キャスターは只者ではないようだった。

 そして天梨が考えなければならないのは、少し先の未来に設定される対談イベントだけではなかった。
 足を止め、スマホの画面に指を滑らせ、数十分ほど前に届いたメッセージを確認する。
 敏腕プロデューサー、煌星満天のサーヴァントから届いた、会合場所と時間。

 ――見たところ、厄介なモノに憑かれているようですから。

 今日、彼らと会うことで、状況は変わるのだろうか。
 先の見えない状況に、光は差すのだろうか。
 聖杯戦争そのものの問題に加え、天梨は悪魔に憑かれている。
 恐ろしい、だけど哀しい人、暗く燃える復讐者。
 その気配はいまも、天梨の傍らにずっとある。

 キャスターから告げられた時間までは、まだ少し猶予がある。
 なので、一度自宅に戻り、身なりを整えてから出向こうと、そう思っていたのだが。

「ねえ、君。前をむいたほうがいいよ」

 突然、悪魔の声と息が、耳にかかった。
 ぞわりと、寒気が走る。

「―――え?」

 顔を上げ、すぐにおかしいと気づいた。
 薄暗い、辺りが急激に暗くなっている。
 時刻は夕方、まだ日没には早いはずなのに。

 ―――……きち。

 前方の路上。ぽてりと落下した小さい礫から、ざらついた鳴き声がした。

 ―――きちきちきち、ぎ……ぶぶ。

 さらに数匹落ちてきて。
 連続する、蟲の鳴き声、そして。

 ―――ぶ、ぶぶぶぶ、ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。

 堰を切るように、襲来する羽音。

「うそ……なんで……!?」

 この街に住まい、それを連想できぬ者は、もはやいない。
 天梨もまた連日のニュースで聞いてはいたが、目の当たりにするのはこれが初めてだった。
 テレビでは確か、昨日から沈静化していると報道されていたはずなのに。

「蝗害……」

 沈む日を喰らうように、空を埋め尽くす飛蝗の群れ。
 東の方角から飛来した一軍が、天梨のいる地区を通過しようと迫っていた。
 気づいたときには既に遅い。接触まで、もう数十秒の猶予もない。

「どうしよう……どうしたら……!」

 自宅まではまだ少し距離がある。走って辿り着くよりも、蝗害の到達のほうが早いだろう。
 周囲を見回しても、閑静な住宅街に駆け込めそうな建物は見当たらない。
 どう考えても迎撃するしか道はなく。
 ああ、そうか、だから彼は出てきたんだと、天梨はようやく理解した。

「アヴェンジャー……」
「うん? どうしたんだい?」

 なのに彼は、アヴェンジャー・シャクシャインは、天梨の背後から動こうとせず。
 あまつさえ少女の両肩に手を置いて、軽く首を傾げてみせた。
 アスファルトに長く伸びた、天梨とアヴェンジャーの重なる影。
 そこに映るアヴェンジャーの頭が横に倒れ、かかる橙色の髪が天梨の首をくすぐるように撫でる。

「君は俺に、何かしてほしいことがあるのかな……?」

 耳元で、ニタニタと嗤いながら彼は言う。

「ちゃんと言葉にしてくれないと。君は、俺に、この虫螻(パッタキ)共を、どうしてほしい?
 命令がないとほら、俺もどうすればいいか、分からないだろう?」

 相変わらず、本当に意地悪だなあと、天梨は思う。

「大丈夫、安心してよ。あれらは人間じゃない。蟲でも、サーヴァントだったとしても、一緒だ。
 君の言う"殺しちゃいけないもの"には当てはまらない。
 でも、俺はちゃんと君の言葉で聞きたいから、命令があるまで動けないな」

 それにほら、"練習"は必要だろう、と悪魔は優しげに囁く。

「たった一言命じるだけさ。殺せ……って。
 それだけのことだよ。君はなにも失わない。
 人を殺すわけでもない。降りかかる火の粉を払うだけ。試してみなよ、ほら」

 これは練習、慣らし、だ。

「…………ぁ」

 アヴェンジャーが心待ちにしている、その時。
 堕天の時、天使が人の死を願ってしまう、その時に。
 天梨が躊躇なく、その破滅の呪文を舌の上に乗せるための、慣らし。

「言ってごらん。ほら、一言でいい。『殺せ』。それだけで済む」

 ―――ぶぶぶぶぶ、ぶぶぶぶ。

「…………い……やだ……」

 目の前に迫る恐怖に、うまく息ができない。
 恐怖を打開するために、たった一言、天梨はアヴェンジャーに告げるだけでいい。
 『殺せ』と声にするだけで、彼は目の前の虫を斬り払い、瞬時に危険を取り除くだろう。
 簡単なことだ。なのに、それは致命的な破滅に続いている気がして、動けない。

 心のなかで、恐怖に負けた自分が叫ぶ。
 アヴェンジャーの言う通り、命じてしまえ。言うだけだ。
 それで何が変わる、人が死ぬわけじゃない、何も失うはずがない。

 だけど同時に、絶対に声に出してはならないと警告する自分もいた。
 一度だけ、天梨は暗い感情を吐き出してしまったことがある。

 ―――死ねばいいのに。

 誰もいない部屋の中で、行方もわからぬまま放たれた呪いの言葉。
 だけどそれを口にした瞬間の寒気、そして胸を貫くような開放感を憶えている。
 早く忘れなきゃいけないと分かっているのに、未だに消えない、感じたことのない感覚。
 天梨はそれが、なによりも恐ろしかった。

「怖いんだろ、じゃあ言えよ。言わなきゃ死んじゃうんだぜ。仕方ないじゃないか。君は悪くない」

 背後、耳元で、甘い声がする。
 喉がカラカラに乾く。
 目前には無数の漆黒の礫が、津波のごとく押し寄せる。

 あと、数秒の猶予もない。
 怖い、恐ろしい、でも嫌だ。

「言えよ」

 ―――ぶぶぶぶぶ、ぶぶぶぶ。

「言えよ、ほら」

 ――――ぶぶぶぶぶ、ぶぶぶぶぶぶ。

「言え」

 ――――ぶぶぶぶぶぶぶ、ぶぶぶぶぶぶぶぶ。

「アヴェンジャーお願い……」

「ああ、なんだい?」

 天梨は大きく息を吸い。
 ぎゅっと目を閉じて、喉も裂けんばかりに絶叫した。



「――――止めてッッッ!!!」



 刹那、覚悟していた蝗害の到達は訪れない。
 代わりに耳元で、冷めたような舌打ちが鳴った。

「強情なやつ……君って、本当につまらないよな」

 天梨の両肩から手が離れ。
 ため息を吐き出しながら、アヴェンジャーが抜刀する。
 固く目をつぶったまま、その刃鳴りの音を聞いていた。

「……? なんだ、これは」

 だから天梨はその時、彼が一体何に驚いたのかを、知ることは出来なかった。










 空が枯れる。
 旋回する黒の嵐が光を遮断し、小規模な夜を構築する。
 闇に塗りつぶされた病院の廊下は静まり返っている。
 いかなる魔術によるものか、パニックは訪れず、人気のない廊下に、ただ、甲高い足音だけが響く。

 かつ、かつ、かつ、と。
 堂々たる気風を纏うその歩み。
 近づいてくる人影は陽光の耐えた今、はっきりと見ることは出来ない。
 非常灯の薄緑に照らされ、輪郭だけが浮かび上がっている。

 180センチに近い高身長。
 翻る白衣の裾。
 そして、はち切れんばかりに蓄えられた全身の筋肉。
 現役ラガーマンもかくやといった図体(シルエット)が、ゆっくりと接近してくる。

 アンジェリカは己の身体が緊張を訴えていることを自覚していた。 
 心拍数が上昇し、不要な力が指先に痺れを及ぼす。
 今目の前にいる存在に、壮絶なプレッシャーを感じている。
 だが同時に、その要因が何であるかを掴みかねていた。
 単純なる魔術師としての格、危険度、いや、それだけではない。

「……………ふむ」

 廊下の中央、男の歩みが止まる。
 アンジェリカの前方、彼我の距離は10メートル。

「外の虫に内の鼠……出勤早々騒がしいことだ」

 唐突に、ぱっと廊下の蛍光灯が点灯する。
 結果として、突然闇から出現したかのように、男の容姿が浮かび上がった。

「なんの用だ小娘。私は忙しい、物見遊山なら疾く消えろ。虫ごと払う面倒が潰す面倒に勝らぬ内にだ」

 蛇杖堂寂句。人呼んでドクター・ジャック。あるいは、灰色のジャック。
 長い白髪を肩にかけた老人。
 厳しい顔に刻まれた皺から推測するに、60代程の。
 しかしその体躯は筋骨隆々の偉丈夫であり、ホムンクルスの提供した情報によると。

(もう90歳って話よね……魔術師は年いっても比較的若く見えるって言うけど、これはいくらなんでも……)

 事実ならば驚異的な身体構築(フィジカルデザイン)。
 魔的なケアと弛まぬ鍛錬の合一によって実現した、様々な意味で、男は正に魔術師だった。
 熟練、否、老練の、アンジェリカよりも遥か高みに位置する魔術師、であると、同時に――

「お初にお目にかかる。其方、この城の主であろう」

 そこで、アンジェリカが口を開くよりも先に、傍らのアーチャーが前に出た。

「まずは留守中に忍び入った非礼、謹んでお詫びする」

「…………アーチャーのサーヴァントか、分かりやすいことだ」

「いかにも、私は弓兵であり、其方が今、必要とする戦力である筈だ」

 工房の主との遭遇、蝗害の襲撃、不穏なホムンクルスの暗躍。
 アンジェリカは努めて冷静に、この状況の整理を行った。
 結果、ハッキリと言える事実が一つあるとすれば。
 現時点で最も立場の危うい陣営は自分達であるということだった。

『アンジェ、ここは私が取り持つぞ』

 従者から走る念話に心中で頷く。
 外は蝗害に包囲され脱出困難、内では敵地の城主と対面させられている。
 内と外、双方の陣営を同時に敵に回してしまってはひとたまりもない。
 よって一刻も早く、アンジェリカ達は目前の男との交渉を纏める必要があった。

「見ての通り、我々は外から襲ってくる虫共とはなんの関係もない。
 偶然巻き込まれただけの、つまり其方と同じ立ち場なのだ。
 我々には時間がなく、そして協力し合う余地がある。如何か?」

 そこで活きるのがアーチャーのスキル、神の選抜。
 対人交渉で大きな補正が得られる、神に選ばれし神のトーク力。
 彼の声音は耳に心地よく不思議な安心感を与え、見た目の美しさと相まって場の緊張を解きほぐす。
 適材適所。この場においてもスムーズな交渉を実現し、安全を確立する。

「…………」

 にも、関わらず、男はその声に応えない。
 それどころか、先程から一度も、アーチャーと目を合わせようともしていない。
 訝しむアンジェリカの目だけを、値踏みするように見据えて、男は重ねて告げた。

「言葉の意味が分からないかね。
 では、無能にもわかるよう丁寧に言ってやろう。
 10数える内に病院の敷地から退去しろ。さもなくば、強制的に排除するまでだ」

 更に続けて、アーチャーをスルーして放たれた傲慢な言動。
 外は蝗害来襲の真っ只中。出来るはずのない無茶な要求だ。
 侮られている。不快感が胸にじわりと広がるも、アンジェリカは弱みを見せない。
 冷静に、冷静に、と自分を落ち着かせる。
 そんなマスターの様子を見て軽く頷きながら、アーチャーは更に交渉を続けようとして、

「なあ、ご老人―――」

「耳がついていないのか? 私は貴様に話しているのだ、小娘。
 使い魔に頼らねば会話もままならんか。
 それとも未熟さ故にサーヴァントに洗脳でもされた木偶なのか。
 何れによ、主体性すら維持出来ぬ底抜けの無能というわけだ。なるほど、話す価値も見い出せんな」

「あんたね……」

 流石に、頭にきた。アンジェリカはアーチャーより一歩前に出る。
 なぜ会ったばかりの男に、ここまでボロクソ言われなければならないのか。
 何より、アーチャーに対する態度にこそ、ムカついた。
 どこまでも彼をコケにした、あからさまな挑発に頭に血が昇っていく。
 それをどうにか、ぐっと抑え込み、なるべくたっぷりと冷ました声で言い返した。

「なんか言いたい放題言ってくれたけど。
 そっちこそ、話しかけられてるんだから返事くらいしたら? 耳が遠いの、おじいちゃん?」

『アンジェ……』

『分かってる。ごめん。でも、ちゃんとやるから』

「――舌のよく回る使い魔とは会話するな。
 魔術師同士における交渉の鉄則も知らんのか。
 無作法を咎めるなら、第一声を従者に発させた貴様にこそ非があると知れ」

「……知らないっての、そんな勝手な作法(きまり)……!
 だったら、わたしの方からちゃんと言えば満足?
 "私達が虫退治に協力してあげる"。だからあんたも"自分の陣地を維持してみせて"。
 嫌ならあんたこそ、外と内のサーヴァント、両方からの挟み撃ちになるけど?」

 腹の探り合いもへったくれもない、強引な押し付け。
 しかしアンジェリカは自身の持てる最大限の合理的見地をもって、そのカードを提示した。
 結局交渉はここに行き着くはずだし、お互いじっくり話し合う時間も無いのだから、かまわない筈だ。

 アンジェリカとジャック。
 敵地である分、アンジェリカの方が不利であることは間違いないが、蝗害を計算に入れてしまえば、
 立場はイーブンとまではいかなくとも、協力しあう目は出てくる。
 加えてアンジェリカのサーヴァントはアーチャー。
 飛行する蝗害に取り囲まれた状況を打破するために、弓兵の飛び道具は有効。
 つまりアンジェリカ達はジャックにとって、利用価値がある筈なのだ。

「――――ク」

 一つ、嫌な含み笑いを差し込んで、ジャックは鷹揚に頷く。

「実に不細工な交渉だったが、まあいいだろう。
 ギリギリ及第点だ。貴様のアーチャーの値打ちは認めてやらんでもない」

 そして、傍らの虚空に向かって声をかけた。

「―――そういうことだ。貴様も対処に向かえ、ランサー」

 男の背後、空間が歪む。
 廊下の風景が蜃気楼のように揺らめき、中空を裂くように異形の脚部が伸び上がる。
 まずアンジェリカの目に飛び込んできたのは、目を刺すような真紅。
 真っ赤な光沢を放つ甲冑が、蛍光灯の光を反射しながら顕現する。

 3対6本の足を天井と壁に這わせ、マスターの背後で臨戦態勢をとる赤き異型。
 その展開された脚部の全長は2メートルを超えている。
 中央、本体と目される人型の少女はやや小柄で物静かな見た目であったが、
 彼女自身も赤い髪に赤い瞳、赤い槍を携えし、赤一色の不気味なワンカラー。

「よろしいのですか。と発言します」
「何がだ」
「目前の主従と協力し、蝗害の対処に当たる。で、よろしいのですか?
 という確認です。マスター・ジャック」

 老獪なるマスターと、異型なる少女。それは異質な組み合わせだった。
 特に目の前に現れた紅きサーヴァントはどう見ても正道の英霊ではない。
 恐らくは反英雄か、あるいはそれに準ずるイレギュラー。

「もう一つ、同盟対象への救援要請は行わないままで、よろしいのですか?」

「話を聞いていなかったのか? 私はアーチャーの価値を認めると言ったのだ。
 ―――クク。それに、この状況であの詐欺師を呼び込めと?
 貴様は相変わらず無能だな、自ら敵を増やしてどうする。
 あの男が事態を聞きつければ大喜びで我々を討ちに来るぞ。
 幸い、こうも完全包囲されていては、新手の侵入も不可能だろうがな」

「なるほど、納得いたしました。
 それでは当機構はマスターの指示通り、外敵への対応に当たります」

「分かればいい。
 アーチャー、貴様もさっさと行け。
 屋上ならば出られるよう調整してある」

 霊体化していくランサー。
 対して、アーチャーは動かない。
 老蛇の不遜な声を無視して、その場に立ち続けている。

「どうした。それとも、気が変わったか?」

 それが意趣返しであることを、アンジェリカは気づいていた。

「アーチャー」
「なんだ、アンジェ?」

 不遜なる男の声を、彼はもう聞かない。
 アーチャー、天若日子はサーヴァントだ。
 他ならぬ、アンジェリカ・アルロニカのサーヴァントなのだから。

「ありがと。もう行って、ここは大丈夫だから」
「―――承知した」

 主の命によってのみ、従者は駆ける。
 定められし戦場へと。

「すぐに戻る。必ず」

 薄れていく弓兵の姿。
 2騎の英霊が戦地へと送られた後。
 その場には二人の魔術師(マスター)だけが残された。

 冷たい空気が張り詰める病院の廊下。
 少女は、対峙する偉丈夫と向き合ったまま。
 その距離変わらず10メートル。

「―――さて、次だ」

「サーヴァントの援護でもするつもり?」

「いや。まだそれには及ばん。
 実に面倒だが、一つ、ここに些事が残っている」

 瞬間、男の逞しき全身に淡い光が走り抜ける。
 魔力回路が励起されているのが分かった。
 相手から見て、己も同じように見えているだろう。
 アンジェリカは自らの魔術刻印に魔力を通しながら、深い息を吸い込む。

「……ま、そうよね。そりゃそうか」

 きっと、アーチャーはこの展開まで避けようと、努力してくれたのだろう。
 交渉は最低限成功したと言っていい。
 だけど、それはやっぱり最低限だった。

 外敵(こうがい)に対抗するための協力打診。
 互いのサーヴァントを向かわせ、場の崩壊を防ぐ一案。
 合意に至った一つのライン。

 互いのサーヴァントを、互いから剥がして。
 残るマスターは仲良く談笑しながら吉報を待ちましょう。
 とは当然、ならない。これは平等な休戦協定ではないからだ。

 ジャックにとってアンジェリカは所詮、自らの陣地に侵入してきた鬱陶しい鼠である。
 その事実は、最初から何一つ変わっていないのだ。
 アンジェリカ側が"頼んで"、ほんの少し条件を聞いてもらったに過ぎない。
 結局のところ、これは外敵が迫る中、内部でのサーヴァント戦を避けましょうという提案でしかなく。
 マスター戦をしないとは、誰も言っていないのだ。
 先ほど、ジャックはこう言った。

『貴様のアーチャーの値打ちは認めてやらんでもない』

 ならばマスターの、アンジェリカ自身に対する評価は―――言うまでもない。
 これから、試されるのだ。魔術師としての関わりを通して。
 アンジェリカの嫌う、非日常の価値観をもって。

 相手のマスターを殺してしまえば、屋上でのサーヴァント戦に悪影響が出るだろう。
 だから手を出せない、なんて甘い目算。
 殺しさえしなければいい、魔力さえ供給できるなら、相手の手も足も千切って捨てて問題ない。
 少なくともジャックは、アンジェリカをそう出来ると考えている。
 だから今、暴君は敵の魔術師(マスター)に牙を剥く。

「摘む前に一応、聞いてはおくか」

 ジャックが一歩、また一歩、こちらに踏み出す。
 敵は簡単にアンジェリカを捻り潰せると考えている。
 格下であると、その見立ては多分、間違ってはいない。

「―――魔術師ならば名乗ってみせろ、新たに招かれた演者の一人よ。貴様は、聖杯に何を求める?」

 だから、アンジェリカの勝利条件とは、敵の予想を上回り勝利するか。
 あるいはアーチャーが戻るまで耐えきること。
 少女の手首。刻印に、光が灯る。
 いつかは消し去りたい運命の象徴、だけど今だけは必要な、それは戦う手段だった。

「わたしは……アンジェリカ・アルロニカ」

 その願いを口にすることを何度、躊躇っただろう。
 魔術師としては最低の願望。悲願を託した両親への裏切り。
 何度、自分を嫌いになりかけたかわからない。
 それでも、結局捨てることの出来なかったこの夢を、あの英霊は笑わなかった。
 良い夢だと言ってくれた。だから今日、アンジェリカは初めて、対峙する敵に、堂々と宣言する。

「わたしは、魔術と縁を切りたい。
 刻印を捨てて、魔術師を辞めて、普通の……自分の人生を選びたい。
 そのために、わたしは、あんたを倒して生き残る」

「―――ク」 

 案の定、老魔術師は嗤った。
 愚かな願いだと、嗤われることは分かっていた。
 だから悔しくはない。腹も立たない。
 ただ、自らの願いの為に、目の前の敵に挑むだけ。

「――――クク、ク」

 そのための、構えを取る。
 足を少し開いて立ち、両の拳を軽く握り、片側の腕を前へ。

「――――アルロニカ……その刻印……そうか」

 全魔術回路完全励起。
 魔術刻印に流し込んだ魔力は雷光に変じ。
 全身の神経伝達を急激に活性化させ、

「――――そうか貴様、オリヴィア・アルロニカの遺児か」

 踏み出す脚を強く――
 待て、今この男は、なんと言った。 

「ク―――ククク……いや、あの女の娘が……ク――そうか、そんな巫山戯た望みをもって、〈二度目〉の私の前に立つか」

 魔力に変調こそ起こさず耐えきった。
 それでもアンジェリカは少なくない衝撃に瞠目しながら、対峙する老魔術師を見る。

「あんた、お母さんを知ってるの?」

「知ってるか、だと? あの"雷光"を。
 加速思考を突き詰めた果てにある体内時計の変質。
 衛宮とは別アプローチで時間操作を究めんとした、時計塔(ロンドン)の異端だろうが」

 そんな話は初めて聞いたし、母と話したこともなかった。
 母の魔術師としての顔を、アンジェリカは深く知ろうとしてこなかった。

 だって、知りたくもなかったから。
 父の死後、研究に没頭する魔術師としての母を、どうしても好きになれなくて。
 アンジェリカ好きな母の表情は、いつだって魔術から離れた所にあった。
 晩御飯のとき、極稀の休日、ふと気を抜いた時に見せる、普通の母親としての微笑みが好きだった。

「呆れた無能だな。親の功績も知らぬとは。
 ああ……そうか、そうだったな、確かに貴様はそう言ったか。
 『魔術と縁を切りたい』、……ク、なるほど良いだろう」

 今、ジャックは先程までとは別の理由で嗤っているように見える。
 ようやく、彼はアンジェリカ・アルロニカという存在に興味を持ったのだ。
 それが良い兆候とは、どうしても思えなかったけれど。

「よかろう、どうせ外が静かになるまでの時間潰しだ」 

 老蛇の巨躯が構えを取る。
 〈はじまりの六人〉、その一人。
 蠍飼う暴君が今、アンジェリカの敵となる。

「―――来い、小娘。少し診てやろう」 






 ◇



 真昼の夜に、黒い嵐が吹き荒ぶ。
 飛来する飛蝗の軍勢はその全てが意思を持った銃弾だ。
 取り囲むハリケーン、全方位から奔る一斉掃射が出鱈目な軌道で内部の捕食対象に殺到する。

 病院施設に備えられた魔術機巧が即時反応する。
 夜間、敷地内や外壁を照らす為に備えられていた数機のサーチライトが駆動し、仕込まれた魔術を解き放つ。
 照射される光束(ルーメン)。3000℃に及ぶ熱線がぐるりと旋回し、迫る蝗害の一団を薙ぎ払う。
 更に同時、病棟の周囲に2重の結界障壁が展開され、撃ちもらした蟲の礫を尽く焼き尽くした。

 魔術師、蛇杖堂一族の技巧を結集して備えられた陣地形成。
 〈2回目〉の聖杯戦争では寂句の判断により、一族の私兵の全てが退去してしまっているものの、
 かつて彼らを指揮することで張った陣は問題なく機能する。

 それは〈1回目〉の時点で猛威を振るった強健なる戦闘要塞であった。
 同時に複数の陣営を相手取って不足なしの大規模魔術工房。
 加えて、一回目における彼のサーヴァントは弓兵(アーチャー)だったのだ。
 要塞の攻略から逃げたところで、内側から狙撃を通される。
 それは非常に凶悪な組み合わせだった。
 ノクト・サムスタンプの暗躍によって私兵全てのコントロールを奪われた後も。
 不毛な焦土作戦の応酬に移行した後も。彼が揺るがぬ優位をもって君臨し続けた理由の一つ。
 それは彼が神を貫く槍と引き換えに弓を手放した後も、泰然と聳え立ち、威光を損なっていない。

 だが、それでも、


 "―――モーター回りゃ何時でも最高"

 "―――エンジン全開、スロットルは福音の如し"

 足りない。
 神代を渡る蝗害を免れるには、まるで不足している。

 "―――na na na na na na na na na na na"

 迸る熱線も、構えられた障壁も、黒き軍勢を押し留める事はできない。
 規格外の破壊行為を実現する異型英霊。
 常識を遥かに超えた冗談じみた物量規模は、展開された攻勢防御を容易く押し切り、空中の魔力障壁に激突する。

 そして、真の異常はそこから始まるのだ。
 布を引き裂くような異音と共に結界に黒点が染み。
 焼けていく蟲たちは怯むことなく突撃を継続しながら、徐々に黒の版図を広げていく。

 おぞましい光景であった。
 生半可な宝具であれば無傷で凌ぐほどの巨大障壁が、何の捻りもない蟲の殺到に侵されている。
 シストセルカの保有スキル、神代渡り。あらゆる存在を平等に喰らう防御貫通。
 神の時代から現代に至るまで、不滅を誇る飢餓の災厄は餌の噛み応えに頓着しない。
 そして一匹でも蝗害の侵入を許せば、そこからはあっという間の捕食劇。
 蛇杖堂の一族が凝らした結界技術の妙を嘲笑うように、畑の穀物と同じ要領でブチブチと食い千切っていく。

 "―――ドライブしようぜ"

 "―――捻じくれを突っ切って進め"

 追い打ちに、とぐろ巻くハリケーンの気流に乗って、彼らの司令塔がエレキギターを掻き鳴らし。
 調子外れの旋律(ロック)を撒き散らしながら突っ込んでくる。
 放たれた蹴り込みが大きく黒点を膨張させ、いま遂に破られた障壁から内側へと、蝗害の群れが雪崩込んだ。

 "―――俺の愛、俺の愛、俺の暴風(ハリケーン)"

 その瞬間こそを、弓兵は待っていたのだ。

「―――天界弓(てんかいきゅう)」

 結界は破られる。
 しかし破るという動作が挟まるならば、的は必然的に絞られる。
 故にいま、病棟の屋上に立つ彼が敵を射止めることは、実に容易い。

「―――天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)」

 一射にて滅相。アーチャー、天若日子の宝具。
 天界弓・天之麻迦古弓。溜めの短さに反して、飛距離、威力、全てが凄まじい。
 漲る神威を迸らせながら放たれた一射は箒星のような軌道を描き、上方から接近していた飛蝗の一軍を薙ぎ払うに留まらず。

「―――うおわッッ!」

 彼らの先頭に立って突っ込んでいた司令塔の、全身すら消し飛ばしていた。
 空中で爆散する黒群れの断末魔を聞きながらも、アーチャーは表情を変えずに次の矢を番う。
 彼は理解している。当然、これで終わりではない。

「っ~~痛ぇなあ~~~!」

 空中で黒の軍勢が纏まり、再びツナギ姿の男性像を縁取った。

「気持ちよく歌ってんだから邪魔すんなよ」

「いや、それは済まぬ! あまりに聴くに耐えなかったものでな!」

 対峙する、弓兵と騎兵。
 アーチャーは屋上に陣取り、襲い来る襲撃者を見上げている。
 ライダーは中空で群れを統括し、こちらを狙う守護者を見下ろしている。

「かぁ~! ったく芸術を理解できねえ奴ばっかで嫌んなるね」

 ツナギ男の姿に、まるでダメージは見られない。
 ギターごと吹き飛んだことで一時的に演奏は止まっていたが、実際に痛みを感じているかすら疑問だった。

 ツナギ男のシルエットに囚われてはならない。シストセルカ・グレガリアは軍勢だ。
 司令塔のカタチを崩したところでさして意味などない。
 苦労して破壊したところで、一時的に指揮が途絶える程度の効果しかあげられないだろう。
 極単純な討伐手段を提唱するならば、無数の飛蝗、その全てを一度に叩き潰すことであり。
 それが現実的か否かは、既に論ずるまでもなく。

「てか近づいてみりゃ余計に薬くせえぞ。不味そうな重箱(べんとう)だなこりゃ」

「ふむ、だったら帰ってほしいのだがなあ……」

「ハッ、そりゃできねえ相談だ。俺もいい加減夕食にありついて、完全復活といきてえところだし。
 つーか、そもそも味とか割りとどうでもいいんだわ」

 質より量ってね。
 と、シストセルカは腕を回し、手中に集めた蟲で、今度はギターではなく、金属バットを形成する。

「じゃあ、次だ。
 凌いでみろよ。あと何発耐えられるか知らねえけどな」

 彼はバットを指揮棒のように振るい、蠢く大軍を突撃させる。
 今度は左右2方向から同時に迫りくる蝗害の奔流。
 それに対し弓兵は、瞬時に2射を放ち対応。
 舞うような軽快さで、高威力の宝具を合わせてみせる。

 更に続けて、今度は4方向からの同時襲撃。
 それもやはり、目にも止まらぬ4射による迎撃が実現する。
 各軍勢の真中に箒星が撃ち込まれ、通過した衝撃の余波だけで虫螻の一団が纏めて吹き飛ぶ。

 圧巻の威力と射撃技術。
 しかしこの次は8方向。その次はおそらく、16方向からの襲撃に至る。
 倍加していく圧力に、尚も対応しようと弓兵が新たな矢を番えようとしたとき。
 彼の耳元で、ぶぶヴと、ざらついた不穏の音が鳴った。

「――――!」

 それは忍び寄る伏兵。
 軍勢による飽和攻撃の最中、下方から紛れ込ませた別働隊。
 迂回し接近していた数十匹の飛蝗が、足元から跳ね上がるようにしてアーチャーの側頭部に踊りかかっていた。
 大軍による押し潰しを散々見せた後での、少数個体による不意打ち。

 アーチャーは見切っている。
 反応して躱すことも、叩き払うことも、彼にとっては容易だろう。
 しかし、迫りくる8方向からの軍勢を撃ち落としながら行うことは、決して容易ではない。

「―――ふむ」

 故に、彼女の援護は実際のところ、非常に有効に機能していた。

「なかなか出来るようだな、槍兵よ」

 紅き鎧が甲高い金属音を鳴らし、その度に虫の断末魔が響き渡る。
 3対6本の足と真紅の槍が縦横無尽に旋回し、飛来する礫の全てを叩き落とす。
 豊富な手数でもって、弓兵(ほうだい)を守護する。
 それが、この戦場における赤きランサーの役割であった。

「それほどでもありません。と、当機構は謙遜します。
 この場で有効な反撃手段を有しているのはアーチャーである貴方のみ。
 当機構は露払いに徹しているに過ぎません」

 涼し気な無表情のまま、異型の少女は弓兵の周囲を躍動する。
 槍兵の赤槍は現状、蝗害を刺すに遠い。
 ランサー、ギルタブリル。隠された名を、天蠍アンタレス。
 彼女にとってシストセルカは、あまり良い相性の敵とは言えなかった。

 スキルは有効に作用するはずだ。
 敵に報いを与えるべき傲慢は十分に確認できる。
 が、槍撃の範囲外から物量攻撃を仕掛けてくる相手では、突き刺すべき霊核を特定できない。
 そも軍勢であるシストセルカに核が存在しているどうかさえ、未だ不明なままだった。

 どちらかと言うと、好相性なのは今援護しているアーチャーの方だ。
 傍らから高き神性が立ち昇っているのを感じる。
 こちらであれば、天蠍の尾は深々と突き刺さり、注入する毒は致命の効力を発揮するだろう。
 敵味方が逆なら簡単だったなと、彼女は平坦な思考を維持しながら、

「気になることがあります」

「ん、どうした?」

 ちら、とランサーはアーチャーの衣服に目を向けた。

「その服、直衣と呼ばれるものと推測しますが、当機構が読んだ文献に描かれた挿絵とは随分違って見えます」 

「おお、これか? これはな、実はちょっぴり自己流に改造したのだ! 興味があるのか?」

「はい。少しだけ。英霊は自らの霊衣を改変できるものなのですか?」

「ふふふ、この戦が終わった後であれば、コツを教えてやってもよいぞ」

「分かりました。
 では当機構はほんの少しだけ、守護対象生存の重要度を上昇させます」

 絶望的な戦場、黒い雨の中、交わされる軽口。
 その最中にも、蝗害の軍勢は荒れ狂い、箒星の矢は空に昇り、赤き槍は旋回を続ける。
 放たれた矢は既に20射を超えている。
 その全てが一個軍隊を壊滅させる成果をあげ、行軍を阻み、未だ病院内へ嵐の到達を許していない。

 それでも彼等は、敵の総軍の1割すら削れていないのだった。
 現状を押し留め、タイムリミットを引き伸ばすことが精一杯。
 病院の敷地を覆うハリケーンの規模、巨壁を形成するそれは、数えるという発想を最初から放棄させてしまう。 

 顕現する悪夢のような終末の風景。
 そして襲い来る蝗害の、たった一匹でも院内への到達を許せば、それだけで彼等の敗着なのだ。
 大病院が内包する大量の患者、病院関係者達。施設そのものの魔素。
 新鮮な肉、食料を手に入れた群れは、新たなエネルギー源を手に入れた蝗害は、いよいよ手が付けられなくなる。
 そうなってしまえば、敵は数を減らすどころか更に勢力を増し、一瞬にしてすり潰されることは目に見えていた。

「なあ、あとどれくらい遊べんだ?
 いい具合に運動して、心地よく腹が減る程度には頑張ってくれよ、なあ!」

 羽音が止む気配はない。悪夢の侵攻は終わらない。
 あまりに規格外の総体規模を誇る怪物。
 針音に招かれた数々の異常個体の中ですら、彼はとびきり異端の最高級(ハイエンド)。
 誰がどう見ても明らかに、状況は絶望的だった。

「……いいや、悪いが、ここでの夕餉は諦めていただく」  

 それでも弓兵は怯まず、次の矢を握りしめる。
 厄災を打ち払い、神々すら鏖殺する矢を番える。

 今、同じように絶望的な戦いに臨んでいるであろう主(マスター)。
 アーチャーが戻ると信じて、戦い続けるいじらしい少女に、応えてやりたいと思うから。

「なるべく早く退席いただこう」

 そして、もう二度と、思いを残して消え去ることはないと、心に決めていたから。
 勇猛なる神は、迫りくる終末の大軍へと鏖殺の矢を放つ。

「此方は、人を待たせているのでな―――!」







 途切れなく続く防戦。刻一刻とアンジェリカの体力は削られていく。
 敵地での孤軍奮闘。状況は限りなく最悪に近い。
 今、彼女の命を繋いでいるものは敵の慢心と、もう一つ。

『―――右拳、続けて左蹴撃、後の右手刀は誘いだ、乗るな』 

 脳に直接響き渡る音声(ナビゲート)。
 ホムンクルス36号による、言葉だけの援護であった。
 廊下は静まり返っており、人の気配は無い。
 しかし彼は間違いなく、彼女の近くにいるようだった。
 アサシンの気配遮断に紛れたまま、アンジェリカに念話を送り、超感覚によって敵の動きを先読みして伝えてくる。

『次、左肘。距離を詰めて膝。
 注意しろ、後退にも限度はある。廊下の行き止まりまで残り30メートル。それまでに転身せねば敗着だ』

(あんた達ね……! ちょっとは自分で戦えっての……!)

 同盟相手である、ホムンクルスとアサシン。
 敵の知り得ない隠し玉。
 彼等はアンジェリカにとって、伏せたままの最後の切り札。

『申し訳ないがそれはまだ出来かねる。いま我々が強襲したところで決定打にはならない』

 しかし現状、アンジェリカの側が彼等に使われている状況になっていた。

『今暫く、耐え忍んでもらえると助かる。次、膝頭を狙った踏み込みが来る。気を抜くな』

「ああ―――もう―――どいつもこいつも―――ッ!」

 まったくもって、ふざけるなと言いたかった。
 唸りを上げて迫る拳を死に物狂いで回避する。
 上半身を捻るように傾け、首を捻って衝突から逃す。
 老蛇の剛腕、丸太の如き筋肉の砲弾がアンジェリカの耳元を通過し、至近距離で巻き起こる風圧と空裂の音波が脳を揺らした。
 刹那、混濁する意識。

『追撃が来る。構えを解くな』

(言われ……なく……とも……っ!)

 からのリカバリー。生まれた隙を潰すべく、脳に血を回し、回路に魔力を通し、次の一撃に間に合わせる。
 未だ歪む視界の右下、敵の白衣、その裾が跳ねた。
 蹴りが来る。
 分かっているのに回避が追いつかない。
 よって妥協案、合わせて引き上げた脚のガードに、薙ぎ払うようなミドルキックが直撃する。

「――っ~~~!!!」

 引き伸ばされた時間の中で、脛を割られるような痛みを存分に味わう。
 視界が赤く明滅する。それでも、魔力の流れを止めてはならない。ここが正念場だった。
 綱渡りのようなバランス感覚でもって、地につけたままの逆足へと力点を移す。
 そうして作る脱出口。蹴られた勢いを利用して、アンジェリカは自ら後方に吹き飛んだ。

『悪くない。その調子で時間を稼げ。我々の準備が整うまで』

「……っ……くっ……!」

 床を転がるようにして強引に距離を離し、息を整える猶予を得る。
 ここまで僅か2分30秒程度の戦闘時間。
 にもかかわらずアンジェリカが受けた打撃は右肩、左脇、そして先ほどの左脛の、既に3箇所に及び、引き換えに通した攻撃はたったの一発。
 それも初撃、「好きに撃ってみろ」と宣った傲慢な挑発に応えたそれだけで。
 その一撃をもって、蛇杖堂寂句はアンジェリカの実力を冷徹に推し測っていた。

「加速させた精神に身体機能が追いついていない。
 端的に言って、鍛え方が甘いのだ。
 時計塔の魔術師にしてはマシな部類だが、しかし充分ではない」

 男は廊下の中央で汗一つかいた様子もなく。既に息を切らせた様子のアンジェリカを冷たい視線で観察している。
 反して彼の全身から立ち昇る闘気は達人のそれだ。これが齢90に至る老翁などと、やはり信じられない。
 身に纏う筋肉は飾りでは無かった。どこか機械的な機微で繰り出される技はどれも鋭く、採掘機めいた破壊力に満ちている。

「次は、少し速く撃つが、対処できなければ、別に死んでもかまわんぞ」

「―――ッ!」

 露骨な侮りに対して、少女には反論の間も、息を整える猶予も与えられない。
 出し抜けに踏み込んできた老蛇が放つ、3連携の当身技。
 定められた照準は天倒、勝掛、水月。全て人体急所を捉えた剛速の貫手。
 どれ一つ、まともに受ければ無事では済まない。れっきとした殺意が装填されている。

「集電磁制御(Electro alter)―――」

 手首に刻まれた印が強烈に発光し、その異能を発現(まわ)す。
 目にも止まらぬ死の邪手を、限界まで減速(かそく)させた体感(しこう)で見極める。

「迅雷速(volt accel)―――!」

 迸る電流、走り抜けるシナプスの連動と躍動する身体。
 全力の魔術行使、極限まで鈍化させた時間進行の中、敵の拳はなお速い。
 それはアンジェリカが過去一度も経験したことのない異常事態だった。
 2倍速に跳ね上げた体感速でもってして、捌くのが精一杯のスピードと技のキレに驚愕を禁じ得ない。

 身体を沈めて2撃を躱し、最後の1発は腕のガードで受けながら更に退く。
 先程から致命打こそ避けているものの、反撃に転じる機会が見い出せぬまま削られ続けている。

 高速思考に身体がシンクロしていなければ十分ではない。
 ジャックの指摘は正しい。思考速度を最大限に活用した戦闘行動が実現できていない。
 時計塔の模擬戦において、それで困ることなどなかった。しかし今、強敵との命のやり取りにおいては、明確な欠点だと分かる。
 実に腹立たしい。胸がムカついて、肩が震えそうになる。アンジェリカは、この老人が気に食わないと、心から思う。

「下段からの攻撃予兆に対して、安易な跳躍。
 実に浅慮な動きだ。持ち前の魔術刻印の性能に胡座をかき、読み合いを疎かにするから今のような単純なフェイントに引っかかる。
 いったい時計塔では何を教えている? 未だに『魔術師に格闘技能は不要』などと宣っているようなら、やはり嘆かわしき無能の坩堝だな。
 無能が無能共を教育したところで、無能以上が生み出される日は来るまいよ」

 殺す気満々で殴りかかりながら、同時に説教じみた講釈をたれ続けるその姿勢。
 言葉の端々に滲む傲慢な態度。
 自分以外は愚者しかいないとでも言いたげな、人を見下した言動の数々。
 気に食わない、気に食わない、そして、何よりも許しがたいのが―――

「この……ば……かにして……っ!」

 いま受けた重い拳にも、なんら魔力付与は為されていない。
 ジャックは戦闘開始以後、一度として魔術を使っていないのだ。

 遂に廊下の端に到達し、進退は窮まった。
 敵は素の身体技能のみで、肉体に刻まれた老練の技のみで、魔術師としてのアンジェリカを追い詰めている。
 馬鹿げている。この老体は、老いてなお、いや老いてこその達人なのか。

 人を治す医師(たつじん)は、誰よりも人の壊し方に精通する。
 長い歴史の中で、魔術師は忘れていった。自らが魔術師である前に、人間であることを。
 だが、蛇杖堂の一族は決して忘れない。この世に魔があろうが無かろうが、臓を壊せば人は死ぬのだ。

「どうした、なにか不満か?
 魔術は嫌いなのだろう?
 お望み通り貴様の言う、"普通"の技能で相手をしてやっているのだが」

 その強敵が今、余計な加減を行っている理由など、一つしか思い浮かばない。
 嫌味で悪辣な、大上段からの挑発行為。
 老蛇の毒が、アンジェリカ・アルロニカのプライドを毀損する。

 魔術師の世界を忌避し普通の人生を望む少女に対し、敢えて魔術の通らない"技巧"のみで圧倒する行為。
 その技巧に、アンジェリカ自身は魔術回路の全力稼働に頼らなければ対処できていないという現実を突きつける。
 明らかに、意図的に示されている皮肉。
 彼に加虐の趣味があるわけではない。対敵に陥穽を突きつける、身に染み付いた癖でしかなかった。
 技術面だけでなく心理面ですら、意識することもなく、彼にはそれが出来てしまう。

「貴様は何故、魔術師を嫌う?」

「なぜって――そんなの――」

 生まれた頃から、バトンの中継者でしかないから。
 一代では成し遂げられぬ使命のために用意されたランナー。
 そのくせ生涯、ゴールには至ることがないという、アンジェリカに定められた、くそったれな運命。

「……クク、そうか。
 では貴様の望む"普通の人生"とは何を指す?」

「それは……魔術とは関わりのない……」

「論点が違う。魔術のない貴様の"普通の人生"とやらには、他の願いを鏖殺してまで成すべき何が在るのだと聞いている」

「――――」

 その陥穽に、何故気づかなかったのだろう。

「魔術師など、その多くの存在がくだらない、無能共の集まりだ。
 根源到達を目標に生きるなど馬鹿げている。その点については私も同意してやろう。
 だが、貴様の認識とは全く別の理由だ」

 魔術師から降りても人生は続いていく。

「それが叶わないからではない。
 今も昔も、根源の到達など、私にとっては手段でしかない。
 目的に至るための通過点。幾つか在る選択肢の一つに過ぎん。
 手段を目的とする者など、等しく"無能"だ。誰の話か分かるか、小娘」

 アンジェリカは今、降りることを目的としている。
 降りてまで成し遂げたい何か、選びたい自らの人生。
 そうまでして、何がしたい。欠けていたのはその視座。
 あるいは、それを見つける、物語。

「根源にたどり着けない中継者?
 だったらいま、貴様が参加している儀式はなんだ?
 貴様の一族の凡俗な悲願を叶えるならば、勝ち抜いて聖杯に願えば良い筈だろう」

 その通り。たどり着けないはずのゴールは存在した。

「だが、貴様はそれを望まなかった」

 それでもアンジェリカ・アルロニカは、自らの願いを之と定めた。
 なぜか、それは―――

「縁を切りたいのは魔術ではなく、魔術師で在ることを望む遺志だろう。
 貴様は普通の人間ではない。
 だが魔術師にもなりきれぬ半端者。
 たわけが、魔術師を辞めたい、などと、魔術師になってからほざくがいい」

 今、アンジェリカはやっとわかった。
 ずっと感じていた、老蛇に対する嫌悪感。不快感の理由。  
 眼の前で魔術師を語るこの男こそ、あまりにも魔術師の類型に反している。

 蛇杖堂の長。
 医師(ひと)と魔術師。本来、両立不能な筈の2つの道を、傲慢にも邁進する暴君。
 ある意味ではアンジェリカの懊悩に対する、一つの答えだったのかもしれない、その姿。

 そうして確信する。
 アンジェリカ・アルロニカは、この男を倒さなければならない。
 自らの願いの証明のために。だが、今はまだ、

「故に貴様は無能なのだ。
 "奴"が新たに呼んだ星の中でも、躍進の余地のある者は限られている。
 貴様は器ではない。せめて本物の恐怖を知らぬまま、正常なまま逝ける幸運を噛みしめろ」

 現実問題として力が足りない。
 迫る老蛇、唸る拳、躱しきれない。
 目前の脅威に、アンジェリカは痛む脚に力を込めて。

『―――生きたいか? アンジェリカ・アルロニカ。

 ―――生存を望むなら、後方に手を翳せ』

 開示される伏せ札。
 その念話を聞くと同時、仰向けに倒れるように自ら床に身を投げ出した。
 鼻先を通過する敵の拳。伸ばした指先に触れる、冷たくて硬い瓶の感触。
 ガラス越しに合わされる、赤子の小さな手のひら、そして―――

『―――【同調/調律(tuning)】』

 脳天からつま先まで、落雷に貫かれたような衝撃が走る。
 瞬間、アンジェリカの全てが整っていた。
 回路の繋ぎ目が舗装され、最適化が為されていく。

「―――貴様」

 そして放たれるカウンター。
 雷速で跳ね上がるアンジェリカの足刀は紫電を湛え、老魔術師の右脇腹に命中し数歩後ろに下がらせる。
 未だかつてない魔力流のコントロールでもって、この戦闘が始まって以来、初めての反撃を成し遂げていた。

『―――良い時間稼ぎだった。それでは我々も参戦しよう』

 吹き飛ぶ病室のドア。
 ロックされていたそれらが一斉に開放され、瞬く間に静寂が破壊される。

 遮音の魔術がかけられていた壁や戸を打ち破り、吐き出される大量の人の列。
 患者、看護師、医師。
 病室やナースステーションに押し込められるように保護されていた者たちが、一斉に開放されたのだ。

「―――なんだ、なにが起こって――!」

「虫―――窓に虫―――!」

「先生―――■■さんの様態が―――!」

 先程までの静けさが嘘のように、巻き起こる騒乱。
 院内の至るところから湧き上がる狂奔の気配。
 そして、それは今、

「……蛇杖堂……院長……?」

 老魔術師の背後にも、唐突に現れ。

「いったい何が起こっているんですか!? 外が暗くなったと思ったら、急に病室から出られなくなって、そ――ごぁ!」

 その若い医師は、男の放った裏拳の一撃で呆気なく昏倒した。
 床に倒れた拍子に、手に持っていた凶器(メス)が跳ね、廊下を滑っていく。

 衝突音が連鎖する。今、倒れたのは一人ではなかった。
 注射器を握りしめた看護師が、折り重なるようにして崩れ落ちる。
 続けて、点滴のスタンドで殴りつけようとした患者が吹き飛んでいく。

「憶えのある光景だな。なるほど確かに、そういった事態も想定して然るべきか」

 殺到する、院内全ての医師、看護師、患者たち。
 その行き先は全て、一人の男。病院の主、蛇杖堂寂句へと。
 手に凶器を携え、無謀にも突貫する。

「悪趣味なんだけど。これ、あんたの仕業?」

『いかにも。施設内の結界を一部損壊させ、一般人を開放した』

 身を屈めたアンジェリカの隣に立つ看護師。
 その腕の中にホムンクルスの浸る瓶が抱えられていた。

 無関係な市民を催眠によって尖兵に変える、継代のハサンの宝具。
『奇想誘惑(ザバーニーヤ)』は一般人が多く存在する場でこそ、機能を十全に発揮する。
 病院というフィールドは、正にお誂え向きの施設だった。

「……そうか、貴様が来たか。ホムンクルス」

 ホムンクルス36号の本格介入。一対一の戦いが終わり、開始される乱戦。
 パニック映画のように混沌とした環境で、老魔術師は全く揺るがない。
 迫りくる病院関係者を次々と打ち倒しながら、数メートル前方のアンジェリカと、その傍らに視線を投げる。

「ガーンドレッドの無能共はどうした?」

『彼等は既に役割を終えた』

「―――ク、貴様、自ら脳幹を切除したのか?
 たとえ不出来な脳だろうが、貴様は誰かに使われてこそ、活きる道具だったろうに。
 嘆かわしい話だ。まさしく考える脳を失った入れ物に何ができる?」

 旧知の仲らしき会話、というにはあまりに温度が低すぎる。
 互いに互いを容認できない。
 それは不倶戴天の者が衝突する際に発せられる摩擦音。

「挙げ句、不用意にも私の目にアサシンの宝具を晒し、自らの姿を晒すとは。
 掴んだ幸運を溝に捨てたな。
 所詮不出来な生命、一度死んだところで不出来ということか」

『ぬかせ、蛇杖堂。
 お前とて、私がアサシンを晒したことの意味を理解しているはずだ。
 蛇の牙城は今日、ここで崩れる』 

「かもしれんな。しかし代金は置いていけ。貴様のことだ、生きて出られぬ覚悟はしてきたのだろう?」

 迸る殺意が、老魔術師とホムンクルスとの間で衝突する。
 直後、ジャックの背後から、手術着の患者と、オペ着の外科医が肩を並べて襲いかかった。
 しかし一呼吸の間もなく、打ち上がった上段回し蹴りが彼等の顎を砕き散らす。

「ちょっと……」

 ホムンクルスのやり口も、正直、アンジェリカには容認できていない。
 しかし今はそれよりも、一切の躊躇なく患者を叩きのめす白衣の姿に呆れ果てていた。

「あんた、さ……医者なのよね……?」

 このとき、アンジェリカが溢した言葉。
 それはやはり、彼にとっては非常にズレた質問だったのだろう。

「……そうだが?」

 男は医師であり、同時に、魔術師でもあるだから。

「それがどうした?」

 暴君は傲慢に、人を治し、人を壊せる。






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最終更新:2025年01月21日 03:28