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『いいか? ゲンジ。人間どんなに辛くても、正しく生きてりゃいつか幸せになれるんだ』

 おれのおやじは、やはり馬鹿な男だったのだと思う。
 どんなに貧しくても寂しくても、正しいことをしていればいつか必ず報われるのだと、子どもじみた説法をいつも滾々と説いていた。
 おやじにとっての"正しいこと"とは、困っている他人に手を差し伸べること。
 本来なら自分も何らかの支援を受けるべき立場なのに、自分とその息子だけ勘定から外して、文字通り一銭の得にもならない慈善事業に邁進する。
 その結果守るべき弱者に刺されて死んだというのだから世話はない。
 本当の弱者は助けたくなるような姿をしてないのだと誰かが賢しらに言ってたが、正直それは真理だと思う。おれもおやじも、あの哀れな老人達もそうだったから。

『この間、息子さん偉いですねって褒められたよ。
 あれは俺も鼻が高かったな。
 神様ってのは意地悪に見えるが、ちゃんとこうして帳尻合わせてくれるのさ』

 おやじ曰く、この世でいちばん強いのは他人の気持ちに寄り添える人間らしい。
 ちゃんちゃらおかしな話だ。寄り添った結果糞垂れのじいさんに一突きにされてたら世話ないだろう。
 それでも当時のおれは、ある種の諦観と共におやじの説法に頷いてやっていた。
 学習性無力感というやつだろう。終わりの見えない不幸は人を鈍感にさせる。あるいはせめてもの、肉親への情か。

『おまえはいい男になるぞ、ゲンジ。顔は俺に似ちまったけど、人間は見てくれより中身さ。
 そうじゃなかったら俺みたいな冴えない男が所帯持つなんてできるわけがねえからな。
 ……ま、冴えなすぎて捨てられちまったが』

 けどもう、おれを縛り付ける閉塞のしがらみは存在しない。
 おやじは死んだ。団地は壊した。おれを必要としてくれる人に出会えた。
 本当に強い人間というのは、狩魔さんのような人を言うのだ。
 力のない人間が振りまく優しさは過食嘔吐やオーバードーズと同じだ。
 一時の幸福感に耽溺して、すぐ揺り戻しの不幸で自傷する。そんな、まったく意味のない行為。

 だから要するに、おやじは死ぬべくして死んだのだろう。
 同情する気もないし、今となってはどうでもよかった。
 おれはもうあの肥溜めみたいな世界から解き放たれている。
 おかげで身体はかつてないほど軽く、臓腑の底に蟠ってた汚れが全部どこかへ行ってしまったようだ。

 そんな愚かなおやじが一度だけ、らしくないことを言ったことがあった。

『お前も年頃だ。そのうち好きな女のひとりもできるだろう』

 嫌味かと思った。道を歩いてるだけでクスクス笑って指を差されるおれに何を言ってるのか。
 息子がそうやって笑い者にされてても、顔を伏せて見て見ぬ振りするだけの冴えない男がおれのおやじだ。
 そんな男に今更芯を食ったようなことを言われても、正直どう受け取っていいのかわからない。

『その時はよ、なりふり構わずやってみな。
 もちろん道を外れるようなことはしちゃいけないが、恥も外聞も掻き捨てちまえ。
 そうやって情熱持って伝えれば、案外高嶺の花だって振り向いてくれるもんさ』

 確かに、おれの母親は若い時相当な美人だったらしい。
 とんでもない売れっ子のホステスで、男が次々貢物を持ってきたのだと酔った赤ら顔で語っていたのを覚えている。
 そう考えると、おやじは文字通りなりふり構わず頑張ったのだろう。
 頑張った結果の家庭がああなって、捨てられたおれ達がこうなってるのを除けば、いい話だと思った。

『母さんは気が強かったろ?
 お前にもあいつの血が流れてるんだ。お前は、俺なんかよりずっと強い男になれる筈だよ』

 自分を捨てた女の血が流れていると言われて、おれが嬉しい気持ちになると思ったのか。
 だとしたら、あの女がおやじを捨てた理由が分かった気がした。
 おやじは優しい。優しいが頭が悪くて、根っこの部分でどこか自分に酔ってる。
 だからこの時おれは、いつもの戯言の一環として軽くあしらって終わらせたのだが。

 あれはおやじが俺にかけた言葉の中で唯一の金言だったのかもしれない。
 確かにおれはおやじとは違う。おれの中にはおやじの弱さと、あの女の貪欲さが同時に存在している。
 おれは自分のために誰かを犠牲にできる。内に湧いた"欲しい"を叶えるために、すべてを踏み躙れる人間だ。
 狩魔さんがおれを見出したのは、最初からおれがそうだと気付いていた故なのかもしれない。

 ――おやじ。あんたの言う通り、おれにもその時ってやつが来たよ。

 好きな女といったら語弊があるかもしれない。
 けど、たぶんそれよりも上の感情だ。

 ――欲しいんだ。

 焦がれている。灼かれている。
 心の奥深くをじりじりと炙られて、肉汁みたいに欲望の汁が滲み出してくる。

 ――神寂祓葉に、褒めて欲しい。

 そのためなら、おれは鬼にも悪魔にもなれる。
 それはきっと、おやじがおれに望んだ未来とは違うのだろうけど。
 死人に義理立てする理由もない。
 おれはおれだ。覚明ゲンジなのだ。周鳳狩魔が認め、山越風夏が期待し、蛇杖堂寂句が重用する"猿の手"だ。

 じゃあな、おやじ。
 じゃあな、じいさん達。
 おれは行くよ。あの団地を出て、行きたいところに行く。

 ――星を、見に行くんだ。



◇◇



「一番槍は譲ってやる」

 光栄に思えとでも言わんばかりの不遜な口調で、ジャックは俺にそう言った。
 正直に言うと驚いた。てっきり共闘するものだと思っていたからだ。
 そんなおれの感情が伝わったのか、老人は鼻を鳴らす。

「祓葉は怪物だ。正攻法ではどうすることもできないから、必然切り札を使うことになる。
 すなわち覚明、貴様が先程話した"例の宝具"もだ」

 それを聞いて、おれはこいつの意図を理解した。
 確かにそうだ。それを前提にするのなら、おれ達は共闘など到底できない。

 バーサーカーには、第二の宝具がある。
 使ったことはなかったが、感覚として知っていた。
 あのデタラメな赤騎士にすら通用した"原人の呪い"の、更にもうひとつ先だ。
 むしろ、バーサーカー達が普段纏っている呪いは第二宝具の片鱗のようなものなのだろう。

「私は貴様らの特攻の成否を見て行動を選択する。
 共闘がありえるとすれば、バーサーカーの宝具があの小娘に通り、なおかつお前達が生き残っている場合のみだ」
「……本当に傲慢だな、あんた。
 おれを捨て駒にする魂胆を、隠そうともしてない」
「慮ってやる義理も、その必要もないのでな」

 おやじを殺した入れ墨のじいさん然り、おれはあの団地でいろんな老人を見てきた。
 性根の腐った奴、そもそも狂ってる奴。中には溌剌として元気に生きてる奴もいたが、共通してたのはどいつも弱っていたことだ。
 こればかりは責められることじゃない。
 歳を取れば弱くなる。衰えて、頭も身体もぼろぼろになっていく。この世に存在するすべての生き物の共通項だ。

 でも、このジャックというじいさんは違った。
 弱っていないどころか、今までおれが出会ったどの人間よりも生命力に溢れている。
 身体だって老人とは思えないほどゴツい。
 ラガーマンとか力士とか、そういう本職の人間を彷彿とさせるむくつけき肉体をしていた。
 こいつなら、あの入れ墨のじいさんにドスで襲われても表情ひとつ変えずボコボコにしてしまうのだろう。そもそもドスが刺さらなくても驚かない。
 医者ってなんだっけ、と思わずにはいられなかった。

「おれがあんたの星を倒しちまっても、知らないぞ。後で話が違うって駄々捏ねるのだけは、なしにしてくれよ」
「それならそれで構わんとも。
 私は極星の末路に固執しない。アレを放逐するのは己の手でなくてはならないなどと気色悪い傾倒をしているのは一部の無能共だけだ」

 こいつは、どうしてそんなに祓葉を殺したいのだろう。
 おれみたいに、あいつに評価されたいわけでもないだろうに。
 いったい何がこの怪物老人を突き動かしてるのか、おれには分からない。

「貴様は思う存分、胸を灼く狂気のままに戦えばいい。
 ただし奥の手を使う間もなく殺される無様は晒すなよ。
 死んでも構わんが、せめて役に立つ死に方をするように」
「……じゃあ教えてくれよ、お医者様。あいつと戦う時、おれはどういう風に挑むべきなんだ?」

 皮肉めいた言い方になってしまったが、実際ここの部分は智慧がほしかった。
 何しろおれは、神寂祓葉という人間の強さを正確には知らないのだ。
 とんでもない奴だってことは分かってる。でもそれだけ。そこには経験が欠如している。

 おれだって、瞬殺なんてしょうもない末路は御免だ。
 ジャックに媚びるつもりはないが、死ぬにしたって爪痕くらいは残したい。
 問うたおれに、ジャックは一瞬の逡巡をしてから口を開いた。
 嘲りの色はない。厳しい仏像のような迫力があった。

「先程も言ったが、正攻法では勝てん。
 強い弱いの問題ではなく、そういう風になっている」

 心底忌まわしいものについて言及するような口振りだった。

「神寂祓葉は、存在するだけで世界の理を狂わす劇物だ。
 だから目の前の相手より必ず強くなるし、足りない力は無から引き出して補塡してくる。
 よって考えられる有効打は件の宝具のみだが、それでも貴様のバーサーカーは多少アレと相性がいい筈だ」

 バーサーカーのスキルが否定する文明は科学技術だけじゃない。
 魔術もまたホモ・サピエンスの文明の産物だ。ネアンデルタール人達は、その存在を認めない。
 祓葉がどういう力を持っていてどのように戦うのかはもう聞いていた。
 心臓に埋め込んだ永久機関。不死の根幹。
 宝具級の神秘を持つ光の剣。神の鞭。
 光剣の正体が不詳な以上過信はできないが、うまく呪いが効いてくれれば確かにある程度張り合えそうだ。

「損害は承知で原人どもを突っ込ませ、なるべく祓葉を削ることだな。
 あの馬鹿娘は喜んで付き合ってくれる。サーヴァントそっちのけで貴様を狙う無粋もすまいよ」

 神寂祓葉は、聖杯戦争を楽しんでいる。
 だからつまるところ、彼女はノリがいいのだろう。
 おれみたいな路傍の石相手でも手抜きなく全力で、正々堂々戦ってくれるらしい。
 それはおれにとって実にありがたい話だった。
 どんなに超人ぶったって、おれ自身は人の心が向かう先を眺められるだけの凡人だ。
 祓葉が狩魔さんのように合理性で動く手合いだったなら、おれに勝ち目はなかったろう。

「そうして適度に乗らせ、奴が覚醒したタイミングで永久機関の破壊を試みろ。それが唯一の勝ち筋だ」
「は……なんだ。今度は隠すのか」

 平然と言うジャックだったが、おれもそこまで馬鹿じゃない。

 ネアンデルタール人の第二宝具でしか祓葉を倒せないのなら、初手からやればいいだけの話だ。
 おれには、バカ正直にあいつと相撲を取る理由がない。
 なのにこの老人がそう促してくるのは、つまりそういうこと。

「おれを使ってデータを取りたいんだろ、あんたは」
「無能め。貴様は餓鬼にしては多少聡いが、肝腎な部分を見落とす悪癖があるようだな」

 バーサーカー達との戦闘を通じて、"今の"祓葉を分析したい。
 おれはどこまでも、ジャックに試金石と見られている。
 そう思って指摘したのだが、灰衣の老医者は呆れたように言った。

「確かに祓葉は阿呆だ。しかし、奴の背後には偏屈な保護者がいる」
「……あ」
「気付いたか? 間抜け。初手での切り札の開帳は、自殺志願でもないなら絶対に控えるべきだ。
 都市の神となったオルフィレウスが本気で警戒し出したなら、勝率は限りなくゼロに近付く」

 ……言われてみればそうだ。
 祓葉は〈この世界の神〉だが、これが聖杯戦争である以上あいつだってひとりじゃない。
 原人達の無駄死にという茶番を用立ててでも苦戦を演出しなければ、最悪オルフィレウスの介入を招く。

 おれは顔が熱くなるのを感じた。
 北京原人似の男がそうしてる様は、さぞかし不気味だったに違いない。

「それに……貴様も新参とはいえ、奴に灼かれた燃え滓なのだろう?」

 恥じ入るおれにかけられた次の言葉には嘲りと、わずかな憐れみが覗いていた。

「勝つにしろ負けるにしろ、奴との対峙は一度きりだ。
 焦がれた神との対話で狂気を慰めるくらいは赦してやる」

 ――実際、これもジャックの言う通りだった。
 名探偵を気取ったおれだが、実のところ初手で終わらせるなんてする気はなかったのだ。

 だってそれこそあまりに無粋だろう。
 おれは祓葉と話したいし、もっとあの白い少女のことを知りたい。
 口元が歪むのを感じた。卑屈なのに欲深い、きっととても気持ち悪い顔。
 それが見えていないわけでもないだろうに、ジャックは引く様子も見せない。
 ただ足を進めていく。歩幅はおれのおやじよりも大きくて、小柄なおれは付いていくだけでやっとだ。

「欲望を満たし、そして役目を果たせ。
 私が貴様に望むことも、貴様がこれからすべきことも、それだけだ」

 ジャックは、この先に星がいることを確信してるみたいだった。
 引力というやつだろうか。だってあいつは、ブラックホールだから。

 星も、そうでない物質も、すべて引き寄せて呑み込む巨大な宇宙現象。
 コズミックホラーの主役のような存在が、おれ達のすぐそばにいる。
 なのに不思議と緊張はなかった。遠足の前日のように、胸が高鳴っているだけだ。

 なあ、おやじ。
 おれもとうとう、気になる女ができたよ。
 付き合いたいとかセックスがしたいとかそういうのじゃないけどさ。
 話したくて堪らないんだ。見て欲しくて、褒めて欲しくて仕方ないんだ。

 あんたのことは、正直好きでも嫌いでもない。今も。
 でも、やっぱり親子だからさ。
 あんたにだけは、これからおれが挑む戦いを見ててほしいな。

 だってたぶん、勝っても負けてもこれがおれの最大瞬間風速なんだ。
 覚明ゲンジが生まれてきた意味が、これからようやく実を結ぶ。
 どんなに不細工でも、悍ましい外道の所業でも、おれは全力でそれに臨むよ。
 正しく生きていればいつか報われるんだとあんたは言った。
 おれにとっては、これこそが正しい生き方だ。報われると信じて、おれは挑む。


 ――だから見てろ、おやじ。
 あんたの息子はこれから、神さまを殺す。



◇◇



 深夜二時を回った新宿。
 赤く染まる空が、死した太陽の残光のように頭上を灼いている。
 人の気配はすでに絶え、静寂に包まれた街路が、まるでこの世の終焉を告げる舞台装置のように広がる。

 そんな異様な光景のただ中に、ひとりの少女が立っていた。
 白。すべてを拒絶するような純白の髪が風もないのに微かに揺れ、頭頂では滑稽とも神聖とも映る曲毛が天を差す。
 さながら現世に降り立った奇跡だった。汚れを知らぬ光が、少女の輪郭を縁取っていた。

 覚明ゲンジは、それを見る。
 息ができない。心臓が止まったようだと思った。
 だが、次に浮かんだのはやはりあの黄ばんだ笑みだった。

 胸の奥で何かが爆ぜた。
 下半身に血液が集中するのがわかる。
 美しい。けれどこれは、性愛を向けるべき対象ではない。

 歓喜と畏怖と憎悪が渦を巻く。
 祓葉、と彼は譫言のように呟いた。
 その存在を穿ち、嘲り、堕とし尽くしたい衝動を抱えて破顔する彼をよそに。
 〈この世界の神〉は、惚れ惚れするような人懐っこい笑顔で言った。

「――――こんばんは。あなた、だあれ? 私のこと知ってるの?」

 言われて初めて、自分達の間に面識がないことを思い出した。
 ゲンジはあくまで一方的に見ただけだ。祓葉からすれば、急に現れて気色悪い笑みを浮かべた北京原人似の不審者も同然だろう。

「……ゲンジ。覚明ゲンジ。
 あんたのこと、一回だけ見かけた。それだけだよ」
「カクメイゲンジ?
 かっこいい名前だね! なんか漫画のキャラみたい」

 なんてことのない褒め言葉でさえ、悦びで頭がどうにかなりそうだった。
 ゲンジは初めて自分の名前と、先祖が名乗った苗字に感謝する。
 いつもは名前負けにしか思えなかった己が名の響きさえ、祓葉が認めてくれたというだけで、金銀財宝にも匹敵する素晴らしいものに思えた。

「私はね、祓葉。神寂祓葉。えっとね、神さまが――」
「神さまが寂しがって祓う葉っぱ……」
「わお、先回りされたのって初めてかも。
 もしかしてゲンジって相当私のオタク? アギリと仲良くなれそうだね。今度紹介してもいい?」

 ゲンジの背後の薄闇には、五十の影が得物を持って追随していた。
 脊柱を湾曲させ、石斧を手にした、獣じみた原始の群れ。
 彼らは吠えもせず、雄叫びも上げず、ただ目の前の白色に慄いていた。
 理を捻じ曲げる劇毒の神。その存在に晒されただけで、原人たちは奥底の本能を呼び覚まされる。

 ――これは災厄だ。
 ――ヒトの手では触れられぬモノだ。

 唸り声は喉の奥に飲み込まれ、五十体の肩が小刻みに揺れている。
 あの白は、災厄だ。信仰を知らぬ原人達でさえそのように理解する。
 であればそんな存在を前にして喜色を隠せない様子のゲンジは、やはり彼らとさえ根本から違う生き物なのだろう。

「軍団型のサーヴァントかぁ。
 珍しいね。前の時はいなかったタイプだからちょっと新鮮。クラスは?」
「……バーサーカー。見ての通り、ほとんど意思疎通はできないよ」
「おー、阿修羅の王さまみたいな感じだ。
 でもガーンドレッドさんちのとはずいぶん様子が違うね。ちゃんと躾ができててすごいや」

 ゲンジが視界を切り替える。
 祓葉からの矢印が、自分に向かって伸びていた。


 『楽しみ』。


 その感情を認識した時、大袈裟でもなんでもなく腰が抜けそうになった。
 見て欲しかった。おれはこいつから向けられる、この感情をずっと欲しがっていた。
 覚明ゲンジは感激しながら、小さく片手を挙げる。
 祓葉が期待してくれている。なら、それを裏切りたくないと思ったからだ。

「じゃ、早速やろっか。先攻は譲ってあげる」

 祓葉の右手に、光の剣が出現する。
 あれが、蛇杖堂寂句や山越風夏を終わらせた神の鞭。
 現実をねじ伏せて、道理を冒涜する、大祓の剣。

「祓葉。おれは……」

 死ぬほど怖いはずなのに、怖いことすらも嬉しかった。
 覚明ゲンジという奈落の虫が、今この瞬間に羽化を果たす。
 蛹を破り、透明な羽を持った悍ましい羽虫になって、空の彼方に向け飛び立つのだ。

 何のために? 決まっている。

「――――おれはおまえを、犯(ころ)したい」

 それが、それだけが、おれがおまえに伝えられる求愛だ。
 よって刹那、原始の住人と現代の神の闘争は始まった。



◇◇



 一体目が飛んだ。
 祓葉が踏み出した。

 風もなく、音もなく、ただ一陣の光が奔っただけだった。
 その白光が原人の頭部を撫でたのか、首から上がぽろりと落ちる。
 あまりにも綺麗に、あまりにも呆気なく魁のネアンデルタール人が死ぬ。

 右足の軌道が跳ね上がり、残光の帯を残しながらもう一体の胸板を蹴り抜いた。
 肋骨が内側から破裂するように砕けて吹き飛ぶ。
 軽い。すべてが軽い。
 少女の華奢な体から繰り出される暴威に、重力も肉も悲鳴を上げる暇がない。

 だけど、仲間の死で火が点いたらしい。
 こいつらは戦士だ。おれのバーサーカーどもは獣であり、兵であり、こいつらなりの愛と絆で結ばれた群れなのだ。
 二体が飛びかかり、石槍と石斧で祓葉の首を狙う。だが石器は空を切り、その先にいた筈の祓葉はいなくなっていた。

 違う。いなくなったんじゃない、視線の追跡を振り切る速度で動かれただけだ。
 次の刹那には別の一体が胸を裂かれ、そのまま真っ二つにされている。

 三体目の死に原人たちが憤激と鼓舞の雄叫びをあげる。
 鼻孔を鳴らし、牙を剥き、唾を撒き散らして、次々に突っ込む。
 半円を描くように展開し、包囲と乱打を同時に成立させる。
 こいつらなりの狩りの陣形なのだろう、証拠に動きに無駄がない。

「あはは! やるねえ!」

 けれど祓葉は、笑っていた。
 まるでお気に入りの遊具に囲まれた子供のように愉しげな顔で剣を振るう。

 振るわれた光剣が原人の腹を裂く。肩を穿つ。脛を断つ。
 周囲を囲まれた状況で大立ち回りをした代償に、ようやく原人の石器が祓葉を捉えた。
 石斧が、美顔の半分を叩き潰したのだ。
 飛び散る血と脳漿が、しかし次の瞬間には砂時計をひっくり返したように巻き戻っていく。

「やったな~? もう、治るとはいえちゃんと痛いんだからね――!」

 ジャックのじいさんが言った通りだ。
 世界そのものがこいつに味方している。
 その事実と、それがもたらす絶望のでかさを、おれはようやく理解した。

 何人もの命を使って増やした原人が次から次へと薙ぎ払われていく。
 腕を落とされ、顎を吹き飛ばされ、地に伏して。
 唐竹割りにされて、爆散するように弾け飛ぶ。

 ――神だ。やはりこいつは、神なのだ。

 〈はじまりの六人〉は正しかった。
 こいつに触れて狂わず、畏れずにいられる方が異常者だ。
 おれももう、あいつらみたいな狂人のひとりなんだろう。
 けれど、その狂気さえ祓葉がくれたものと思えば幸福だった。
 欲望が、またひとつ膨らんだ。

 ――もっと、近くで見たい。もっと、おまえを知りたい。

 俺は叫ぶ。五十の戦士に命じる。

「殺しちまえ、バーサーカー……!
 おまえ達の仲間の仇は、そこにいるぞ……!」

 群れの統率者たるおれの言葉に応えるように、原人たちは再び祓葉に向かって吼えた。
 もう、恐怖はないようだった。便利な絆だ。ありがたい。


「――ずっと、おまえに、会いたかった」

 自分でも驚くくらい、それは恋い焦がれた女に対する声色だった。
 感動と倒錯。欲望と衝動。崇敬と憎悪。あらゆる矛盾を内包しておれの感情は奈落(こころ)の底から溢れ出る。

「おまえに、見て欲しかった。期待して、欲しかったんだ」

 おれは自分の身の程というものを理解している。
 おれが思い上がることを許さない世界で生きてきたんだから、嫌でもわかる。
 そんなおれが今、すべての慎みを捨てていた。
 むき出しの感情だけをぶつけるなんてことは、物心ついてから初めてかもしれない。

「おれを魅せてやるから、おまえを魅せてくれ」

 祈るように願い。
 願うように祈った。
 血風が頬に触れて、水滴が滴る。
 腥い肉片の香りでさえ今は恍惚の糧だった。

「ゲンジはさ、自分のことが嫌いなの?」

 高揚の絶頂の中に、冷や水のように声が響く。
 祓葉は微笑みながら殺し、そしておれを見ていた。
 おれも、原人達も、こいつはすべてを見ている。
 世界の何ひとつ見逃さない、底なしの"欲しい"がそこにある。

「見て、とか。期待して、とか。
 それって誰かにお願いするようなことじゃないよ」

 ジャックは、こいつを阿呆と言った。
 まあ、たぶん実際そうなのだろう。
 知性よりも感情。理屈よりもパッション。
 そうやって生きてきた人間であることは、このわずかな時間の邂逅でも十分に読み取れた。

 なのに、いいやだからこそ、拙い言葉で的確に心の奥へ切り込んでくる無法さに言葉を失う。
 仏陀やキリストと対面して話したらこんな気分になるのだろうか。
 神は知識でも理屈でもなく、生きてそこに在るだけですべてを見通す。

「いっしょに遊ぶなら、お願いされなくたって見るし期待するよ。
 楽しく遊ぶってそういうことでしょ? だからゲンジは、そんな卑屈にならなくていいと思うな」

 それに――。
 祓葉は言って、にへらと笑った。


「もう、どっちもしてるよ。
 私はもうあなたを見てるし、何を魅せてくれるのか期待してる」


 白い歯を覗かせて向ける微笑みに、おれは絶頂さえしそうになった。
 同時に自分の愚かしさに、やっぱり顔が熱くなる。
 おれは勘違いしていたのだ。拗らせた劣等感というのは、そう簡単に消えるものじゃないらしい。
 美しい極星の女神にこんな指摘をさせてしまった事実は恥ずかしく。
 でも次いでかけられた言葉は、その羞恥心の何倍も何百倍も嬉しくて……

「だから遊ぼう、全力で。私達(ふたり)だけの時間を過ごそうよ」
「ああ――そう、だな」

 おれは、差し伸べられた手に自分のを伸ばした。
 もちろん、彼我の距離的に握手するなんて不可能だけど。
 それでも確かに手は繋がれたのだとおれは信じたかった。だからそう信じた。

 であれば、もう。

 地底で鬱屈する時間は終わりだ。

 おれも、羽ばたこう。

 そこに、行こう。

「やって、やるよ……!」

 すなわち空へ。
 おまえのいる宇宙(ところ)まで。
 燃え上がるように駆けていき、この一世一代の遊びにすべて捧げてやると誓った。
 右手に熱が灯る。刻印の一画を惜しげもなく切って、おれは命じる。

「令呪を以って命ずる……!
 おまえらも楽しめ、バーサーカー!
 命の限り、魂の限り、踊り明かして笑って逝け!!」

 命令がどう通るかなんてどうでもいい。
 大事なのは、原人達が祓葉をより楽しませる存在に成ること。
 言うなれば全体バフだ。ゲームなんて家にあった時代遅れのファミコンでしかやったことないけど、おかげで日常生活からじゃ出ない発想を出せた。

 石器時代に娯楽はないだろう。
 そんなこいつらに、おれが娯楽を教えた。
 生存のための手段でしかない"戦い"に、それ以外の意味を付加した。

 神を畏れる感性はなくても、大いなるモノを畏れる本能はある。
 そんな石器時代の先人類達が抱く〈畏怖〉が、令呪の輝きの前に変質していく。
 畏れは楽しみに。怖れは憧憬に。おれの抱く感情をこいつらにもくれてやる。
 こっちの水は甘いぞと誘う魔の誘いに侵されたストーンワールドの猿達は、次の瞬間どいつも叫び出した。

「■■■■■■■■■■――――!!!」

 咆哮は劈く勢いで、赤い夜を揺らす。
 叫ぶ原人達には表情が生まれていた。
 口角を吊り上げ、涎を垂らし、バーサーカーの名に違わぬアルカイックスマイルを湛えて走る。

 猿に自慰を教えると、一日中快楽に狂い続けるのだと聞いたことがある。
 では、感情ではなく大義で行動する原人へ娯楽の概念を教えたら?
 結果は案の定。"同じこと"になった。
 美神に殺到する原人達はもう、仲間を殺されて抱いた憎悪すら『楽しみ』の三文字で塗り潰されている。

 いわば狂化の重ねがけ。
 果たしてその効果は、覿面だった。

「わ、っと……!? うぐぅ……!」

 見違えるほどに、一体一体の凶暴性と動きのキレが増した。
 秩序を排し我欲を覚えたからこそ、今の原人達は狂獣に等しい。
 祓葉が石の槍で槍衾になり、鈍器で頭を潰れたトマトみたく変えられていく。

 その光景を見ながら、おれはジャックの言葉を思い出していた。
 曰く神寂祓葉は、目の前の相手より必ず強くなるという。
 そんな怪物に何故、ネアンデルタール人ごときで張り合えているのか。
 こいつらはサーヴァントとしては弱い部類の筈だ。
 持ち前の呪いがあって初めて他に比肩し得る、あまりにもピーキーな性能のサーヴァント。
 なのに祓葉がこいつらごときに手を拱いている事実は、おれにある確信を抱かせていた。

「神さまでも、万能ってわけじゃないんだな……?」

 こいつはあくまで、目の前の敵より強くなるだけだ。
 つまり、上昇した能力値は次の戦いに引き継がれない。
 毎度毎度まっさらな状態から、拮抗とそこからの覚醒をやって勝利を掴み取る。
 遊びを愛するこいつらしい陥穽だと思った。そしてそれは、おれみたいな雑魚にとってこの上なくありがたい。

 ジャックと共闘で挑まなくてよかったと心底安堵する。
 あいつら基準で戦力を上げられていたら、ネアンデルタール人では相手にならなかったろう。
 神寂祓葉を相手取る最適解は一対一のタイマンだ。
 あの化け物みたいな医者は、とっくにそんなこと見抜いているだろうが。

「神さま? 
 あはは、やだな。そんな大層なものなんかじゃないよ。
 私は祓葉(わたし)、それ以上でもそれ以下でもない。
 ゲンジやみんなと同じ、ただの人間だよ」

 再生を完了しながら、神さまがヒトのようなことを言っている。

「ヒトは、おまえみたいに強くないよ」

 おれが苦笑している最中も、原人達の袋叩きは続いていた。
 こいつらの取り柄は数だ。一体一体では弱くても、単純な足し算だけでその兵力をどんどん増させていく。
 再生した端から潰す。笑いながら殴って、刺して、へし折る。
 その上で原人の呪いだ。たぶん祓葉はこれでも、いつも通りのパフォーマンスを発揮できてない。

 おれは普段の祓葉を知らないから断言はできないけど、光の剣とやらの出力がだいぶ落ちているんだと思う。
 祓葉がこの程度の奴だったなら、ジャックや山越さんが負けるとは思えないからだ。
 原人の文明否定。ジャックの言った通り、その一要素がおれの命綱になっている。

「ねえ。ゲンジって、もしかしてジャック先生といっしょにここに来た?」
「……、……黙秘、かな」
「やっぱりそうなんだ! だよねだよね、いかにもジャック先生が言いそうなことだもんそれ。
 ふふー、そっかそっかー。イリスの次は誰が来るかなと思ってたけど、ジャック先生かあ……!」

 こんなに自己評価の低いおれなのに、この時はマジで腹が立った。
 おれが目の前にいるのに、なんで他の奴の名前を言うんだと。
 怒ったその意思が、契約を伝って原人達に伝わったのかもしれない。

「わ、ぶ……! ぐ、ぅ、ぅう……!?」

 攻撃が冴え渡る。
 おれの見る前で、おれの憧憬が肉塊に返られていく。
 いい気味だ。そうだ、それでいい。
 ジャック? 山越? 全部どうでもいいだろ、今おまえと遊んでるのはおれだぞって教え込んでしまえ。

「あ、は……! 強いね、ゲンジ――!」

 祓葉が肉塊のままで後ろに飛び退いた。
 油断はできない、こいつは目の前の敵より必ず強くなる。
 現に飛び退くために地を蹴った衝撃だけで原人が五体ほど弾け飛んだ。
 祓葉はもうすでに、おれが出会った時より格段に強くなっている。

「ふぅ。ごめんね、欲張りは私の悪い癖でさ。
 目に見えるもの、頭でわかってるもの、ぜんぶ欲しくなっちゃうんだ」
「あぁ……別に、いいよ。おまえがそういう生き物なのは、おれもわかってる」

 苛ついておいてなんだけど、こいつはそうじゃなきゃ嘘だとも思ってた。
 身勝手で、自分本位で、幼気(きもち)のままに周りすべてを振り回すブラックホール。
 そこにおれは惚れたんだ。なら、ぜひそのままの無理無体をやってほしい。

 腹が立つのに嬉しいなんて初めてだ。
 ああ、ああ。おれは今、生きている。

「だから、いいさ。見ないなら、他を見るんなら――」

 原人達に意思を伝える。
 バーサーカーにどれだけおれの意向なんてものが伝わるかは分からないけど、それでも。
 おれにできる限り、生み出せる限り全力の矢印(ココロ)を、あいつらに向けて叫んだ。

「――無理やりにでも、こっち向かせてやるだけだから」
「あは! あはははっ! いいじゃんいいじゃん、それってすっごく最高だよゲンジ!!」

 意思が、群れなす原人/亡霊を強くする。
 より激しく、より苛烈に、祓葉を襲う嵐と化させる。
 今だけは、北京原人めいた自分の顔に感謝した。
 もしかしたらこの顔も、ある種の先祖返りとかそういうものなのかもしれない――でも今はどうでもいい。
 おれの声が原人を動かし、燥がせて、祓葉の視線を力ずくでこっちに向けさせる一助を成している事実に無限大の絶頂(エクスタシー)を禁じ得ない。

 祓葉は殴られ、潰され、砕かれながら笑っていた。
 ヒトの原型を失ったまま、祓葉は輝く剣を振るう。
 原人が二桁単位で消し飛んだ。光が晴れた先で、少女は元の姿を取り戻している。

「なら私も、もっとワガママになっちゃおうかな」

 にぃ、と、神の口元が歪んだ。
 好戦的。それでいて、この世の何よりも寛容。
 戦神と聖母、そのどちらでもある顔で、見惚れるほど可愛く美しく。

「――全部よこせ」

 その上で、たぶん精一杯だろう、慣れない悪人面をして。
 神は言った。すべて捧げろ、と。

「私のために、ぜんぶ出して。
 ジャック先生なら、ここで出し惜しんだりはしないよ」

 下手くそすぎる演技。
 けれど、それに付属した事象は伊達や酔狂で片付けるにはあまりにも奇跡(あくむ)すぎた。

 ――来た。
 ついに来たのだ、ジャックの言っていた覚醒が。
 今ここにあった現実が、戦況の天秤が少女の気のままに破却される。
 総体からすれば申し訳程度でも確かに効いていた原人の呪いが砕け散る音を聞いたのは、たぶん幻聴ではないだろう。

 だってその証拠に、祓葉の光剣は何倍もの寸尺に膨張していた。
 迸る熱に、おれの原人(しもべ)達が生きたまま炙り焼きにされていく。
 気が遠くなる。なんでたかがマスターの気分ひとつで、サーヴァントが焦げ肉になるんだよ。
 道理が通らない。法則が通じない。これが神寂祓葉。〈はじまりの六人〉を狂わせた、宇宙の極星。

「さあ。見て欲しいんでしょ? 魅せてくれるんでしょ?」

 来る。
 いや、もう来てる。

 目の前で現実が、理が調伏される。
 文明否定の呪いを破壊して星が瞬く。
 祓葉は笑っている。純真に、無垢に、この世の何より凶暴に。

「言われ、なくても、そのつもり、だよ……!」

 覚醒だ。
 前座(ちゃばん)は終わり、彼女だけの時間がやってくる。
 この舞台の誰ひとり、こうなった祓葉に勝つことはできない。
 そういう仕組みになっているのだと、蛇杖堂寂句は言っていた。

 そして、もうひとつ。


「全部持っていけ、バーサーカー」


 この瞬間だけが、おれにとって唯一の勝機であると。

 星が瞬き、現実が消し飛ぶ感光の一瞬。
 そこにこそ、虫螻(おれ)が神殺しを成す活路があるのだと。

 残りの令呪をすべて捧げる。
 どうせおれが持ってたって大した意味はない。
 原人共にできることはたかが知れてるし、温存するよりもこの一番大切な戦いに賭けるべきだと思ったから。
 令呪二画。先にくれてやった狂気深化(ブースト)の一画も含めれば、三画。
 おれの持てるすべてを注いで、おれはバーサーカー達に命令した。

 ――刹那、荒れ狂い哄笑しながら星へ突撃していた原人達の動きが、ピタリと止まって。


「■■s■d■■■qe■■■■r■n■■■■■■w■■a■■■qa■」


 一斉に手を合わせた。
 拝み、祈るような仕草だ。
 信仰を戴けなかったこいつらが、まるでクリスチャンみたいなことをしている。

 鼓舞だろうか。
 呪詛だろうか。
 たぶん、どっちも違うだろう。
 これは、こいつらなりの餞なのだと思った。

 花びらの円の中で葬儀をする時も、こいつらはこんな素振りを見せていたから。
 聖典やありがたい預言などに依らない、宗教なき世界で示す冥福の祈り。

「a■■sa■■a■■uer■■d■――――」

 呻きや唸り声以外聞いたこともないおれは、耳に入るノイズのような音が声であることに最初気付かなかった。
 言語としての形など到底成していない、でも確かに意味はあるのだろう、原人達の歌が聴こえる。

 輪唱は荘厳ですらあるのに、総毛立つほど恐ろしかった。
 現生人類の知らない領域が音色に合わせて広がっていくのがわかる。
 そしておれは、ホモ・サピエンスは、こいつらの世界に歓迎されていない。
 細胞のひとつひとつが悲鳴をあげて、恐怖に身を捩っている気がした。

「――■■■s■■■a■r■■iz■」

 これが、零の時代だ。
 霊長の成り損ない達が、自分達を排除した現世界に贈る逆襲劇。

 バーサーカー・ネアンデルタール人の第二宝具。
 こんなおれが唯一、美しい神を殺せるかもしれない最後の切り札。
 身の凍るような恐怖の中でそれでもおれは笑った。
 辛いときこそ笑え。そう教えてくれたのは誰だったか。

 世界から、音が消える。
 嵐の前の何とやらと呼ぶには短すぎる静寂のあと、滅びは一瞬でやってきた。


 ――――『第零次世界大戦(World War Zero)』。



◇◇



 零の大戦が、かつての繁栄を飲み込んでいく。
 閃光も爆音もない。ただ確実に、静かに、確定的な滅びだけが広がった。

 最初に崩れたのは高層ビルだった。
 鉄骨の網が意味を失い、コンクリートは脆弱な乾燥した泥と化す。
 滑らかな鏡面を描いていたガラス張りの外壁は薄い石塊へ変わり果て、音もなく地へと還った。

 次に、道路が割れた。アスファルトはただの岩屑に、橋梁は小枝のように哀れな軋みを上げて落ちた。
 信号機も標識も、文明の徴はことごとく石へと還元されていく。
 知性の積み木細工達がひとつまたひとつと砕け、砂塵に埋もれていった。

 電気も消えた。
 電線を満たしていた光は瞬く間に喪われ、灯火のない新宿は闇の奈落に沈む。
 都市そのものが、知性の火を失った夜の洞窟と化したようだった。

 高層のマンション群が石塔と化し、重みに耐えきれず次々と倒壊していく。
 そこには怒りも、悪意もない。ただ理としての否定があるだけだ。
 電光掲示板は判別不能な記号が躍った石板に変わり、自動販売機はただの穴あき岩と成り果てる。
 コンビニも銀行も白く風化した古代遺跡のような廃墟に堕ち、そうやって"現代"のテクスチャは一方的に剥奪されていった。

 名もなき旧石器時代の黄昏が、ここに甦ったのだ。
 そして次の瞬間に、おれの待ち望んでた事態がやってきた。

「――――ぁ、う?」

 胸を押さえて、祓葉の足がもつれた。
 心不全を起こしたような、いや事実その通りの姿を晒して、白い少女が目を見開いている。

「これが、おれの、全部だ」

 『第零次世界大戦(World War Zero)』。
 普段は鎧として纏うに留まる原人の呪いを周囲一帯に拡大する、侵食型の固有結界。
 ホモ・サピエンスの文明に依るすべての構造物を、強制的に零の時代まで退化させる。
 とはいえおれが無事でいられてるように、これ自体は人間に対して害を及ぼすことはない。

 でも、その身に着けてる道具については話が別だ。
 例えばそう、ペースメーカー。
 心臓の機能を補佐する"文明の利器"なんかは、容赦なく零時代の影響を受けることになるだろう。

 それこそがおれの勝算。
 虫螻のようなおれがこの綺麗な星に魅せられる唯一のヒカリ。
 永遠の輝きを穢し、地の底に貶める闇色の超新星だ。

「永久機関、だっけか?
 おれには正直、よくわかんないけどさ……でも、機械は機械だろ?」

 おれはたぶん今、すごく醜悪なカオをしている。
 嫌いで嫌いで堪らなかった不細工な顔面に、ありったけの悪意を貼り付けて。

「か、はっ、あ、ぅ――ッ」
「辛いよな、苦しいよなぁ。
 神さま専用の心臓発作だよ。人間の気持ちってやつ、久しぶりに思い出せたか?」

 さっきのお返しに、こっちも慣れてもいないマイクパフォーマンスでせめて主役の退場を盛り上げるのだ。
 だってこれは舞台。祓葉という主役のために用意された至高の演目。
 たとえバッドエンドだとしたって、見る者の心に永久残るような鮮烈さがなくちゃ嘘だろう。
 おれだって役者なんだ。演者(アクター)なんだ。
 だからせめて、おまえの始めた舞台に見合う演技をやってのけようじゃないか。

「もう十分輝いただろ。
 さあ、いっしょに堕ちよう――――奈落の底まで……!!」

 おれは原人達に、最後の突撃命令を下した。
 祓葉はとても苦しそうで、剣だって取り落としそうになっている。

 針音都市の神は、古の先人類達に殺されるのだ。
 それがおれがこの世界へ贈るエンドロール。
 バーサーカーの群れが、一斉に地を蹴って石を振り上げる。

 おれがおまえの運命だ。
 あのすごい人達が信じて、託した、〈神殺し〉の奈落の虫だ。
 魂ごと吹き飛びそうな歓喜と共に、おれは吠えた。
 祓葉の青ざめた顔が、蹌踉めく華奢な身体が、無数の猿の中に隠されていって、そして――



『――――ネガ・タイムスケール』



 どこかの誰かが、憐れむように呟いた声を、聞いた気がした。



◇◇



 神寂祓葉の心臓は、永久機関――『時計じかけの方舟機構(パーペチュアルモーションマシン=Mk-Ⅱ)』に置換されている。

 言うなれば不滅のコアだ。
 あらゆる破壊や汚染を跳ね除けながら、祓葉の全身に尽きることない活力を送り続ける。
 祓葉を絶対的最強たらしめる要因のひとつであることは疑いようもない。

 覚明ゲンジのサーヴァント、ホモ・ネアンデルターレンシスの第二宝具はまさしくこの不落の城壁を攻略し得るワイルドカードだった。
 いかに絶対の再生力を持つ炉心といえど、構造そのものが別質になるほど劣化させられてはひとたまりもない。
 ゲンジの言う通り、永久機関も所詮はひとつの機械なのだ。
 未来文明の最新科学技術を、石器文明の孤独が否定する。
 祓葉は空前絶後の超生物ではあるものの、生物としてはまだ人間の域に留まっている。
 心臓なくして生存できる人間は存在しない。よって『第零次世界大戦』の最大展開を受けた時点で、神寂祓葉の敗北は確定していた。

 〈はじまり〉の彼女にであれば、覚明ゲンジは勝てていただろう。
 六人の魔術師の誰もできなかった偉業を成し、熾天の冠を戴く王になれていたに違いない。

 だが。

「一時でも夢を見れてよかったな。
 端役の分際で、彼女に勝てると思い上がれたのは僥倖だろうよ。
 おまえのような男が、何かになれるわけもなかろうに」

 遥か上空に位置する"工房"の中で、時計瞳の科学者は吐き捨てた。

 前回の彼らと現在の彼らにはいくつかの違いがある。
 本格的に手のつけられない存在になった祓葉も、確かにそのひとつ。
 しかし最大の違いは彼女が出会ったはじまりの運命、オルフィレウスの変質だ。


 ――〈ネガ・タイムスケール〉。

 獣の冠を得るにあたって、科学者に萌芽した否定の権能。
 オルフィレウスは人類の不完全性を嫌悪している。
 すなわち歩み。すなわち過程。改良改善の余地を残すすべての力は、終端の獣に届かない。

 ネアンデルタール人とは、古き時代の先人類。
 彼らの血と営みは未来に繋がり、近縁であるホモ・サピエンスの未来を築く礎になった。
 なればこそ、彼らは存在そのものが現在への『過程』である。
 オルフィレウスの永久機関を蝕んだ時間逆行の呪いは、この獣の権能(ルール)に抵触する。

「奈落へはひとりで堕ちろ、下賤の猿。おまえは宇宙(ソラ)に届かない」

 つまり。
 覚明ゲンジは、祓葉へ焦がれたその瞬間から詰んでいた。

 奈落の虫は青空の先へ届かない。
 太陽を守る巨大な獣の存在が、苦節十六年の果てに見つけた存在証明を零にする。
 これが、醜い少年の結末。
 結局ゲンジは、定められたバッドエンドに向けて疾走していただけだったのだ。

 否定される〈神殺し〉の物語。
 悪役の野望は砕かれ、主役の敗北は訪れない。
 では、次にやってくるのは? ああその通り。


 燦然たる、ヒーローショーが幕開ける。



◇◇



 硝子が砕けるような音がした。
 街並みの劣化が止まり、細胞まで凍てつくような恐怖が鳴りを潜め出す。
 零の戦火が、消えていく。
 懐古の波を押し退けて、最小単位の文明が再興する。
 それはおれにとって、敗北を告げる鐘の音に他ならなかった。

 消えかけの蝋燭の火みたいに揺れていた光の剣が、確たる形を取り戻す。
 光剣を握りしめた白い神は、今まででいちばん楽しそうに笑っていて。
 彼女が剣を掲げた瞬間、その高揚に応えるように、闇夜をねじ伏せる輝きが膨張を始めた。

「奏でるは、星の調べ」

 もはや、いかなる呪いもこの輝きを阻めない。
 おれは絶望するのも忘れて、呆然と見つめるしかできなかった。

 蛇杖堂寂句が言っていたことの意味がわかった。
 おれは、こいつの何も知らなかったのだ。
 知った気になって、自分の尺度で勝手に推し測って勝算を見出した。
 おれごときの物差しで、星の全経なんて測れるわけもないのに。

「戯れる、星の悪戯」

 おれは何事か叫んでいた。
 殺せ、とか、かかれ、とかだったかもしれないし。
 もしかしたら、野猿のように吠えただけだったかもしれない。

 が、おれの想いはバーサーカー達に号令として伝わったようだ。
 生き残っている全員が、今度こそ神を討ち取るために駆け出していく。
 飛んで火に入る夏の虫という言葉が脳裏に浮かんだ。
 たぶんこいつらも、みんなわかっているんだろうなと思う。
 だっておれとバーサーカーは、同じ孤独を抱えた生き物だから。
 おれにわかることが、こいつらにわからない筈はないんだ。

 わかるだろ、ちょっと考えたら。
 もう、どうしようもないんだってことくらい。
 卑劣な奸計を破られた悪者が、次のシーンでどうなるかなんて、子どもでもわかることだ。

「時計の針を、廻せ――!」

 空へ掲げた光の剣が、臨界に達して爆熱を宿した。
 その一振りを、おれの憧れた神さまが振り下ろす。
 赤い夜すら白む極星の輝き。
 奈落の虫は蠢くことすら許されない。


「――――界統べたる(クロノ)、」


 ああ、これが。
 これが、太陽、か。


「勝利の剣(カリバー)――――!!!」


 こんな状況だってのに耳惚れるほど美しい声だった。
 やっぱり、おれなんかにはもったいない相手だ。
 自嘲し、笑いながら、おれは。
 人生で何百回目かの、けれどいちばん悔しい敗北を噛み締めながら、夜の終わりに呑み込まれた。



◇◇



 ――――おれは自分の身の程というものを理解している。おれが思い上がることを許さない世界で生きてきたんだから、嫌でもわかる。

 だけどそれは、まだどこかで自分の可能性を信じてた頃にやらかしてきたいくつもの失敗の積み重ねだ。
 おれの十六年は、挫折と失敗のカタコンベだった。
 ちいさな頃から、人よりうまく行かないこと、悲しいことが多かった。

 人なら誰にでもある心の凸凹した部分を、平らになるまでハンマーで延々ぶっ叩かれ続けるのだ。
 ようやく相応しい生き方というのを見つけたと思ったら、予期せぬところで突然ハンマーが降ってくる。
 だから正直、こうして有頂天からどん底に叩き落されるのも慣れっこだ。

 おれは、いつかのことを思い出していた。
 当時中学生だったおれは日陰者なりに、ちゃんと分を弁えた生活をしていた筈だ。
 悪目立ちさえしなければ、不細工な貧乏人でもそれなりに平穏な暮らしができる。
 たまに教室の隅から聞こえてくる陰口は聞こえないふりをすればいい。
 そんな風に慎ましく暮らしてたおれの下駄箱に、一枚のメモ紙が入っていたことがあった。

 土曜の夕方、体育館の裏まで来てほしい。
 伝えたいことがあるから――そんな文面。末尾には、同じクラスの女子の名前が書いてあった。

 色恋沙汰とは縁のないおれでも、これが所謂ラブレターの類なのだというのは分かった。
 その女子の顔は、正直好きでも嫌いでもなかったけれど、おれを求めてくれる誰かがいることが嬉しかった。
 ガキの頃からちまちま小銭を入れてきた豚の貯金箱を割った。
 ひとりで服屋に行ったのは初めてだった。おれにとっては大金と呼べる額を叩いて、店員曰く今シーズンの流行りらしい服とズボンを買った。

 そうして迎えた土曜日、約束の時間。
 体育館裏には、誰もいなかった。
 一時間待って、何かあったのではと思い携帯を取り出して、連絡先を知らないことに思い至る。

 しばらく悩んだ末に、おれは直接彼女の家を訪ねてみることにした。
 幸い、その女子とは小学校の通学路が一緒だったので、どこに住んでいるのかなんとなく分かっていたのだ。
 金がないので徒歩で数十分。家の垣根を潜ろうとしたところで、おめかしして出てきた彼女と目が合った。

 絶叫された。

 半狂乱で扉を閉められ、ドア一枚越しに「覚明」「無理」「追い帰して」「キモい」と叫んでる声が聞こえてきた。
 どうやら仲間内の悪ふざけ、罰ゲームのたぐいだったらしい。ニヤついたクラスメイトが後日教えてくれた。

 やっぱり涙は出なかった。
 悲しいなんて気持ちもなく、まあそうだろうなという納得だけがあった。
 勝手に舞い上がったおれが馬鹿だった。この顔しといて騙される方が悪い、それだけの話だ。
 なんでだか今、おれはそんなことを思い出していた。



 ……空が赤い。
 まるで血の膜がかかってるみたいだ。

 おれはそれを、仰向けになって見上げている。
 もう初夏ごろだってのにひどく寒い。
 おまけにすごく眠たくて、気を抜くと目を瞑ってしまいそうだった。

 下半身の感覚がない。
 起き上がれないのでどうなってるのか確認もできないが、視界に入る右腕は肩の手前辺りで途切れていたので、なんとなく想像はつく。
 どうやらおれは、あの光の剣から生き延びてしまったらしい。
 とはいえ未来はない。何十秒か何分か、ともかくわずかなオーバータイムが与えられただけだ。
 右腕がなく、たぶん下半身も同じで、身体は動かせず、令呪も連れてきたバーサーカーも全部使ってしまった。
 つまりこれはおれに何ももたらすことのない、苦しいだけの時間というわけだ。

「いん、が……おうほう、だな……」

 哀れな老人を自動的に葬送するシステムを願望した。
 おれ自身が、そうなった時に苦しまず済むように。

 その結果、おれはこうして苦しみに満ちた死を馳走されている。
 まあさんざん殺してきたので、文句を言う資格はないだろう。
 哀れな者も、未来ある者も、プラスの感情を残している者も。
 手当たり次第に殺して、捧げて、増やしてきた。
 おれはもう立派な殺人鬼だ。行き先はきっと地獄に違いない。

 そんなおれに、近付いてくる足音があった。
 霞み出してた視界が、そいつの顔が飛び込んできた瞬間にパッと晴れ渡る。
 死に行く肉体が残りの命を振り絞って、美しいものを視界に収めようと全力を尽くしているのか。
 だったらスケベもいいとこだなと、おれは無性におかしくなって、笑った。

「よかった。まだ生きてたんだね」
「よか、った……? は……どこが、だよ……」
「これも悪い癖でさ、熱くなると周りが見えなくなっちゃうの。
 もっとおしゃべりしたかったのに、つい本気出しちゃった。ごめんね」

 あの時、何が起きたのかはわからない。
 でも、すうっと身体の熱が引いていく感覚はあった。

 いつものやつだと、そう思った。
 見えないハンマーが降ってきて、思い上がったおれを叩いて潰す。
 おれはたぶん、今回もいつも通りに空回りしていたのだろう。
 本気で勝てると思っていたのはおれだけだ。
 そして最初から、おれに勝ち目なんて一パーセントもありゃしなかった。

 そんな当たり前のことに、あの時ようやく気付いたのだ。

「でもびっくりしちゃったよ。
 すごい宝具だったね、ほんとに心臓が止まっちゃったみたいだった」
「でも、生きてるじゃんか……」
「んー。たぶん、ヨハン――私のサーヴァントが助けてくれたんだと思う。
 あの子、ぶっきらぼうなように見えて実は結構過保護だから。
 今頃怒ってるんじゃないかな。後で私はお説教だろうね、たはは」

 困ったように笑う少女の身体には結局、傷ひとつ残っちゃいない。
 おれの戦いに意味はなかった。
 神殺しなど、絵空事、子どもの妄想に過ぎなかったんだ。

 この期に及んでも涙は出てこない。
 やっぱりおれの中のそれは、小学生時分のあの日に枯渇してしまったらしい。

 その代わりに、ただただ虚しかった。
 痛みも、死への恐怖も、こみ上げる虚しさの前ではそよ風みたいなもの。
 結局おれは、何者にもなれなかったということ。
 顔に見合うだけの道化で、笑い者。
 力を手に入れて抱いた願いは叶えられず、降って湧いた狂気に身を委ねる暴走すら完遂できない。

「ゲンジ?」

 祓葉が、小首を傾げて問うてくる。

「どうして、そんな悲しそうな顔してるの?」

 どうしてって、死にかけの人間は大体そんな顔だろう。
 ジャックも言ってたが、やっぱりこいつは阿呆らしい。
 強さはあっても知性がない。失血とは別な理由で力が抜けそうになる。
 なるほどあの怪物じいさんにとっちゃ天敵だろうなと、なんだか納得がいった。

「おれは……たぶん、生まれてくるべきじゃなかったんだと思う」

 最後だ。墓まで持っていくようなことでもない。
 おれはずっと、心のどこかでそう思っていた。
 五体満足、先天的疾患なし。顔の悪さはあるものの、生存に影響する瑕疵ではない。
 それでもおれは、自分は生まれぞこないの命であると思う。

「自分が、おれみたいな人間が、生きて動いて成長してる理由がわからない。
 誰からも愛されないし欲されない、他人をあっと言わせる才能も、ない。
 "欠陥品"だよ。はは……おれ自身がきっと、どんな奴より哀れだったんだ」

 人の心が半端に視認できる力なんてのを持ってしまったのも不幸だった。
 心の矢印に載せられた感情を見れることが、おれから馬鹿になるという逃げ場さえ奪っていった。
 人生は生きるに値しない。少なくともおれにとっては、心底そうだ。

 "必要でない"人間ほど、意味のない生き物はこの世にいないと思う。
 口にすれば差別的だと罵られるだろうが、他でもないおれがそうなんだから許してほしい。
 あの老人達に抱いた哀れみも、思えばどこかで同族嫌悪を含んでいたのかもしれない。

「だけど、せめて……おまえにだけは、勝ちたかった。
 でも、勝てなかった。おれは、その器じゃなかった」

 思えば、誰かに勝ちたいと本気で思ったのはきっと初めてだった。
 祓葉。美しい星。感情を吸い寄せて、すべて呑み込むブラックホール。
 性欲でもなく、つまらない劣等感でもなく、ひとりの人間としてこいつを超えることを望んだ。
 結果は、これだが。

「おれじゃ、宇宙(そこ)には、いけなかった。
 そのことが、ただ、さびしいんだ」

 吐露する言葉は、我ながらなんとも情けない泣き言だ。
 ごぷっ、と口から滝みたいな量の血が溢れてきた。
 どうやら、もうすぐ時間らしい。

 狩魔さんには悪いことをした。
 せめて、一言だけでも謝りたかったな。
 悠灯さんとは、もっと話したかった。
 少しの時間だったけど、友達と過ごしてるみたいで、悪くなかった。

 ひとりで死ぬのは、とてもさびしい。
 手を伸ばしたいけれど、伸ばす手がない。
 辛うじて残ってる左手も、腱が切れてるのか蠢かせるのがやっとだった。

「うーん。そんな自虐的にならなくてもいいんじゃない?」

 そんな、死にかけの虫より尚惨めなおれに。
 祓葉は、口に指を当てながら口を開く。

「私は、ゲンジを欠陥品だなんて思わないよ。
 短い時間だったけど、あなたと遊ぶのはすっごく楽しかったし」

 はは、神さまの慰めか。
 ありがたいけど、余計に惨めになるだけだ。
 伝えたかったが、もう口すらまともに動いちゃくれない。
 晴れ渡った視覚だけが、死にゆく感覚の中で唯一明瞭だった。

「ゲンジが生まれてこなかったら、今の時間はなかったわけでしょ?
 だったらやっぱり、ゲンジは生まれてくるべきだったんだよ。
 生まれてくるべきじゃない人間なんて、この世にはひとりもいないんだから」

 いい人、悪い人。
 強い人、弱い人。
 いろんな人がいるからこそ、私の世界は面白い。

 祓葉の言葉は、おやじを思い出させた。
 理屈の伴わない、耳通りがいいだけの綺麗事だ。

「私はちゃんと、あなたに魅せてもらった」

 生きていたらいつか報われるなんて幻想だ。
 力のない言葉に価値はなく、弱い者の人生はいつだって冷たい。
 なのにどうして、枯れた眼球から涙が溢れ出すのだろう。
 "それ"は捨てたとばかり思ってた。
 でもこの涙の価値は悔しさでも、やるせない悲しみでもなくて。

「あのね。さっきの、すっごく」

 赤い星空の下で、神さまがおれを見下ろしている。
 とびきりの笑顔は、咲き誇る向日葵を思わせた。
 夜空の花、舞台の花。
 ならそのこいつがくれる言葉は、世界でひとり、おれだけのカーテンコール。

「――――かっこよかったよ、ゲンジ」



◇◇



 生きることは苦痛だった。
 終わりのない迷路を歩いてるみたいだった。

 なあおやじ、あんたもこんな気持ちだったのか?
 もっと話しとけばよかったよ。
 うんざりするほど顔突き合わせてきたあんたと、なんだか無性に話したい。

 おれにもさ、好きな女ができたんだ。
 競争相手の山ほどいる高嶺の花さ。
 馬鹿で、自分勝手で、だけど死ぬほどきれいなんだ。

 結果はダメだったけど、その代わりにおれには余る報酬をもらえたよ。
 かっこよかったんだってさ、このおれが。
 おやじ、おれさ、初めて知ったよ。
 好きな人に褒めてもらうのって、こんなに嬉しい気持ちになるんだな。

 おれのやったこと、あんたはきっと認めないだろう。
 大勢殺した。手前の願いのために、たくさんの命を踏み躙った。
 それでもさ、おれにとっては正しい道だったんだ。
 おやじには、正しく生きてれば報われるって教えられたけど。
 惚れた女にはなりふり構わず行けって教えたのもあんただろ。
 屁理屈言うなって怒られそうだけど、おれはちゃんとその通りにしたよ。

 おれはあいつらの空には届かなかった。
 でもいいんだ。不思議と無念じゃない。
 おれ達の住むどん底にだって、射し込む光があるって知れたから。


 ……じゃあ、おれもそろそろそっちに行くよ。

 誰だって、さびしいのは嫌だもんな。
 待たせてごめんよ。
 そっちで会ったら、また話を聞いてほしいな。
 伝えたいことが山ほどあるんだ。
 好きな女だけじゃなくてさ、頼りになる先輩もできたんだよ。
 こっちはあんたの慈善事業に散々振り回されたんだから、息子の長話にくらい付き合えよな。


 あ――――最後に、もうひとつ。


 おれ、さ。
 生まれてきて、よかったよ。


 ありがとな、おやじ。




【覚明ゲンジ 脱落】



◇◇


「――――クク」

 奈落の少年は、安らかな顔で息絶えた。
 原人の一掃された石造りの街並みに、響く嗄れた声がある。

 祓葉は歓喜のままに、声の方に目を向けた。
 革新的な論文でも読んだように、その手は拍手を打っている。 
 灰色のコートを、吹き抜ける夜風にはためかせ。

 真の怪物は、傲慢な笑みと共に現れた。

 〈はじまりの六人〉。
 畏怖の狂人。
 現代の医神。
 人を治す怪物。

「――――見事だ、覚明ゲンジ。その輝きは記憶してやろう」

 男の名は寂句。
 不世出の天才と呼ばれながら、見上げてはならない星に呪われた老人。

「せいぜい奈落で眠っていろ。此処からはこの私が執刀する」

 〈神殺し〉は頓挫した。
 されど舞台は目まぐるしく激動する。

「さあ、最後の手術を始めようか。神寂祓葉」
「へへ、臨むところ。おいで、ジャック先生」

 これより始まるは、不滅を解(ほろ)ぼす外科手術。


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最終更新:2025年08月13日 00:46