アットウィキロゴ
 〈はじまりの聖杯戦争〉において、誰ひとり彼女(かれ)を捕らえられた者はいない。

 あらゆる者が手を尽くした。
 力とあるいは悪意の限りを尽くして。
 それでも届かなかった。
 誰も、彼女の躍動を止められる者はいなかったし。
 他ならぬ彼女自身も、己が誰かに捕まる未来などあり得ないと豪語して憚らない。

 それほどまでに驚異的。
 それほどまでに傲岸不遜。
 己の技にて生きるステージスター、脱出(マジシャン)の王。

 その彼女が今、心から死を想っている。

「どうした、どうした。君が言い出したことだろう」

 白蛇の頭が伸びてきて、空中で自由自在に軌道を変える。
 音に迫る弾速と複雑怪奇な軌道を持つ蛇頭が、目視できるだけで八十八。
 手慰みにしては破滅的すぎる殺意の弾幕を、〈脱出王〉は生身ひとつで切り抜けていく。

 それ自体も十分すぎるほど驚異的なのだが、相手が頭抜けすぎていて輝きを鈍している。
 何せこの猛攻を繰り出す当の蛇は、適当なガードレールに腰掛けて足を組んでいるのだ。
 まるでこれまでの追走劇の疲れを癒やすように、伸びをしながらマジシャンの奮闘を見つめていた。

「音に聞く現代のハリー・フーディーニ……いや、そのものなのかな?
 何にせよ、この程度で音をあげるようなら些か興ざめだが」
「っ――発破かけてくれてるの? ありがと、精一杯期待に応えようじゃない!」

 ノクト・サムスタンプの誘導に乗り、〈脱出王〉は自ら蛇腔に身を晒した。
 彼女が望んで下した決断。試行の第一手としてわざと直接対決を望んだのも彼女自身の判断だ。

 しかし山越風夏は、この時その判断を悔いていた。
 〈脱出王〉が後悔。彼女の人となりを少しでも知る者なら似合わないと笑うだろう。
 だがそれを現実に具現させる悪夢が、軽薄なマジシャンの目前に口を開けている。

「は、ぁ……!」

 天性の逃げ才を全力で発揮し、どうにか毛先がもぎ取られる程度の被害に抑える。
 一手間違えれば手足がもげる。あまりにも身近な死の気配に、比喩でなく背筋が震える。
 ああ、恐い――かつてない高揚に微笑みながら、〈脱出王〉は心底思うのだ。
 これは駄目だ。これは、ヒトが手を出してはならない領域の生き物であったと。

 悪意の化身。藪の魔王。下劣な欲望を呵々と奏でる支配の蛇。
 対面しているだけで底の見えない大穴を覗いているような気分になる。
 これは引力のある大空洞だ。世界に穿たれた人型の穴。吸い込まれれば、誰であれ二度とは帰って来られない。

「勘違いされても仕方ないとは思うんだけどね。僕も別に、誰でもいいわけじゃないんだよ」

 白蛇の毒牙を掻い潜り、懐から指先サイズの火薬玉を無数に抜き出して投げつける。
 一つ一つがサイズに見合わない火力を有しており、それらは蛇に殺到して爆発した。
 数にして十七発。一発一発が人間の頭蓋を吹き飛ばして余りある威力。

 ――されど。

「僕は要するに、可哀想な子が好きなんだ。年齢や外見は勿論大事だが、肝心要の部分は生き様なんだよ」

 すべてが炸裂したにも関わらず、蛇は髪の毛の一本すら揺らさぬままそこで微笑んでいた。

「苦しみ、嘆き、悩み、病む――苦界の中でそれでもと、自分のしあわせを模索してもがいてる。
 そういう子を丸呑みにして腹に収める時、僕は至高の絶頂に身を震わすんだ。
 わかるかな? つまり君達みたいな、人外ぶった燃え殻にはそれほど興味ないってこと」

 無傷。いいやそれどころですらない。
 風圧や衝撃という当たり前の物理現象すら、明らかに蛇へ何の影響も及ぼせていなかった。

「君は今、僕を邪魔立てした気になっているのかな。
 だったら残念、見当違いだ。君が僕をどうこうしてるんじゃなく、僕が君を品定めしてるんだよ。だって君、本当に顔だけはいいからな」
「そりゃどうも。で、だったらどうする?」
「ひとしきり絶望させて、その時どんな顔するのか見てみたい。
 とりあえず、跪いて泣きじゃくってみてくれないか? そしたら少しは食指が動くかもしれない」
「――解釈違いだ。残念ながら応えかねるねッ!」

 軽やかに踏み込んで側頭部に向け回し蹴り。
 逃げの達人が攻撃に回っている事実は、そこまで彼我の力量差が開いていることの証左だ。

 靴底には鋼鉄が仕込まれていて、マジシャンの身体能力と組み合わせれば頭蓋も一撃で蹴り砕ける。
 なのに指の一本で止められる。
 なにくそと応酬を仕掛けるが、すべて結果は同じだった。

「どいつもこいつも」

 鉄の塊を蹴り飛ばしているような感覚。
 とてもではないが、これが一応"人間"の枠に分類される生物だなんて信じられない。

「なんか、勘違いしてるんじゃないかなあ」

 座ったままの男の身体が、うぞりと蠢いて見えた。
 びっしりと犇めく蛇の鱗が、体表の動きに合わせて光沢を放ったような感覚。

「どうしてみんな、たかが運命ごときで僕の上を行けると勘違いしてしまうんだろうね」

 縦長に裂けた眼光が不気味に瞬く。
 刹那、〈脱出王〉の痩身が在り方を忘れたように硬直した。
 視線に宿る神経毒。蛇の魔眼は、格下の生命体すべてを一方的に凍らせる。

 蛇は嗤っていたが、同時に心底疑問がっている様子だった。
 この男には、本当に理解できないのだろう。
 なぜ、誰も彼も自分に挑もうなどと考えてしまうのか。
 藪の中を暴き立て、触れるべきでない荒神を引きずり出してしまうのか。

「身の程を知るのは大事なことだ。命は大切にしなければ」

 身動き取れない風夏に、再び蛇牙の嵐が迫っていく。
 手足を頭蓋を内臓を、少女のすべてを喰らい尽くす強欲な爬虫類の群れ。

「君もそうだぞ」

 風夏の細やかな身体が、蠢く蛇の群れに覆い隠される。
 人間の踊り食い。獰猛な飢えた毒蛇の中にうら若い少女を放り込んだようなもの。
 グロテスクなスプラッターショーも、このフィクサーにしてみれば見飽きた程度の趣向でしかないのか。
 終始つまらなそうに見つめていた男の眼が、おや、と見開かれた。

 蛇の牢獄が、内側からの斬撃で千々に切り裂かれたのだ。
 太陽光が極細の線が奔っているのを映し出して蛇に伝える。
 魔術加工された超極細のワイヤーを展開し、即席の防御陣に使ったらしい。
 それ自体は手品師のやりそうなことだが、驚きなのは魔眼の効果を無視してのけたこと。

「多芸だね。流石はマジシャンだ」
「お褒めに預かり恐悦至極。知り合いに目癖の悪い男がいてね」
「ああ成程、アギリ君用の対策が偶然活きたわけか」

 正確には、壊れる前の嚇炎の魔眼を警戒して仕組んだ手札だ。
 アギリがああなってしまったことで役目を失ったかに思われたが、よもやこんな形で活きるとは。

 白い歯を見せて笑いながら、またも脱出を成功させた山越風夏が宙を舞う。
 両の五指、すなわち十指で手繰る糸が蛇に鋼の斬波を見舞っていく。
 彼が手慰みに投げつけてくる蛇頭をも切り刻める特殊硬度の鋼糸だ。
 ノクトの急襲に遭った際に装備していた分を失ってしまったので、蛇杖堂邸へ空き巣に入るまでの間で備蓄を回収しておいた。
 蛇のお株を奪う多重軌道攻撃。普通なら確殺だが、繰り出した風夏自身通じるとは思っていなかった。

 触れれば切れる筈のワイヤーに手を触れ、ぐい、と手繰る。
 空から地上へ、我から彼へ、超引力と見紛う膂力で強制的に引き寄せられる風夏。
 骨が悲鳴をあげ、肉が捻じれて内出血する。
 激痛に声を発する間もなく、山越風夏は蛇の足元に叩き伏せられた。

「ぐ……、はっ。やる、じゃん……」
「そりゃどうも」

 這い蹲る形になった風夏の身体には、先ほど彼女の命を助けたワイヤーが雁字搦めに巻き付いていた。
 外すことは造作もないが、この状況ではそれもままならない。
 無理に動けば蛇は握った糸を引き、風夏を達磨落としのように断割してしまうだろう。

 蛇の靴底が、〈脱出王〉の頭を踏み躙る。
 顔を地面に押し付けられ、くぐもった呻きが漏れた。

「はい、捕まえた」

 嘲笑うは蛇。この怪物は、狂気すらも超えた域にある。
 神寂祓葉の創造した楽園に紛れ込んだ最大の猛毒。
 万物万象、この世総ての命にとっての――"黒幕(フィクサー)"。

「口ほどにもなかったね、ハリー・フーディーニ。まあその節操のなさは可愛らしいが」
「へへ……不合格なんじゃなかったの?」
「おいおい。君は犬猫に対する"可愛い"を性欲と同一視するのかい? 僕だって人間なんだ。愛玩動物を愛でる感性くらいあるよ」

 山越風夏は、改めて理解した。
 これは駄目だ。これは、人間が手を出していい存在ではない。
 最大の悪。神よりも悍ましく、人である筈もない冒涜の権化。
 対峙するどころか調べた時点で負けている。平穏無事に生き続けたいと願うのならば、ヒトはこれに触れてはいけない。

 藪の中など、暴くべきではないのだ。
 その領分を超えて真実の究明など望むから、こんな絶望に行き当たってしまう。
 知らなくていいことは世の中に確かに在り、生まれ出て消えていく悲劇には無関心であることこそ生物として正しい。

 そこを弁えない者が――蛇に遭う。
 この世を啜り喰らう、背徳の王者に見つかってしまう。
 誰も蛇を殺せない。誰も蛇を喰らえない。
 蛇とは絶対の黒幕であり、知らずにいられれば幸福に一生を遂げられる、全生命にとっての分水嶺。その先で待つ因果応報だ。

 彼を知ろうとしてしまった時点で、誰もが牢獄に囚われている。
 運命より尚深く。獄牢より尚猛悪な悪意の檻。
 捕らえられれば逃げられない。そんな死と凌辱の幽世。だからこそ、ああ――

「そ。じゃあ、覚えときなよ"人間"さん」

 ――〈脱出王〉を名乗る狂人にとって、これ以上挑み甲斐のある関門も無い。

「マジシャンはね、捕まってからが本番なのさ」
「――――!」

 誰も捕らえられなかった悪童を、確かに己の足裏で踏み締めた蛇。
 その身体が、真横から炸裂した衝撃で吹き飛ぶ。
 玉座のように座していたガードレールから浮き上がり、間近の廃ビルに突っ込んで粉塵を巻き上げた。

 やがてその不明から、蛇は当然のように無傷で立ち上がったが。
 彼を見据える者は、もはや〈脱出王〉だけではない。
 光輝なる槍を携えて面影を睥睨する、雄々しい影がそこにある。

 蛇――俗世の王者の視線が、その者の眼光と遂に真っ向切って向かい合った。
 紫電すら散らしての対峙は、現実に世界の軋みを起こして圧力を撒き散らす。
 世の終わりじみた光景の中で不動のまま眼差しを交差させる両雄は、やはり只者ではあり得ない。

「よう。初めまして……いや、さっきぶりか、変態野郎」

 〈脱出王〉山越風夏は、技術の一環として空間に人払いを施すことができる。
 彼女はそれを最大限に発揮し、生死の彼岸の中にありながら本命の気配を隠し続けていた。
 だからこそ今回も彼女は脱出を果たす。絶死の檻から悠々抜け出して、聞こえない喝采の中で高らかに笑うのだ。

 但し、それを助けたのは綿密な事前準備でも天賦の才でも、時を隔てた自分自身でもない。
 彼女にしても賭けだった。
 もしもこれすら通じないのなら――その時は無様に首を捧げるしかないと、本気でそう思っていた。
 そんな期待に事情を知らずして完璧に応えた彼のことは、結局こう呼ぶしかないのだろう。


「アンタちんたらやり過ぎだぜ。おかげであっさり追いつけちまった」


 ――――"英雄"と。


「よくも俺の相棒に粉ァ掛けてくれたな。もう逃さねえぞ、エリ――いや、カムサビエニシよ」


 前回。
 祓葉を除いて一度だけ、〈脱出王〉は死を覚悟させられたことがある。
 白黒の魔女が従えていた護国の鬼将。あらゆる艱難辛苦を物ともせず、刀一本で踏み越える血まみれの"正義"。

 風夏は今、己の前に立つその男に彼の面影を見た。
 まさに英雄。まさに鬼将。
 現実の道理も露悪的な悲惨さも凌駕して、凱歌と共に降臨するデウス・エクス・マキナ。

 ――英雄、ルー・マク・エスリン。レミュリンのヒーローは、蛇の侵掠に間に合った。

「あれ、捕まえたんじゃなかったっけ?」

 〈脱出王〉が、粉塵で汚れた黒幕を見据えて笑う。
 その憎たらしい顔を認めて、支配の蛇も破顔した。

「……少しは好きになれそうだな」

 かくして開戦の火蓋は切られる。
 蛇神追討。英雄譚にして、滅亡譚。

 これは、最大の悪を討つ物語。


◇◇



「――――琴峯さん、大丈夫か?」
「ああ、なんとかな。教えられた通りにしてギリギリ保ってる」

 杉並から渋谷へ入り、琴峯ナシロは憔悴した顔でどうにか笑みを作った。

 月光の恒星法則。それは人の悲しみや後悔に寄り添って、堕落を促す無責任な(やさしい)救済だ。
 蛇の遺族達にとってはまさしく、これ以上ない最低最悪。
 見かけ上ナシロより平静を装ってはいるものの、高乃河二も相当に精神をすり減らしている。

「そういう高乃は問題ないのか? お前も、その……アレだろう」
「そうだな。正直に言うと、何も感じてないわけじゃないが」

 そこを見抜いてナシロが気遣うが、河二は小さく首を横に振った。

「僕の場合、迷うというよりも立腹している。だから少しは誤魔化しが利いてるのかもしれない」

 心の要の部分を土足で踏み荒らされてる気分で、義に生きる男である河二は道義的な怒りをすら覚えていた。
 この囁きは博愛を体現しているようで、その実誰のこともまともに見ていない。
 相手の痛みを本当に背負う気など微塵もない、ただ無責任に楽な方へ誘導するだけの雑音だ。
 もう戻らない喪失を引きずって生きる者にしてみれば、これ以上に許し難い冒涜もなかった。
 よって開拓した"対症療法"と義憤の情の二足の草鞋を履き、ナシロ以上に精神面の揺らぎを軽減できているらしい。

「そっか。まあ、確かに腹立つよなこれ。私も素直に腹を立ててみるか……」
「そうですよナシロさん。あなたの得意技じゃないですか、眉間をこんな風にしてくどくど説教垂れるのは――ひぎゃんっ!?」
「実践の機会をくれてありがとなアサシン。こんな感じで合ってるか?」
「あばばばばばばば」

 ぐりぐりとこめかみを左右から抉られて情けない声をあげるヤドリバエ。
 こいつなりに気を遣っているのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。答えは虫のみぞ知るところだ。

 さておき、ナシロ達が〈ニシキヘビ〉神寂縁の打倒を目指すことに決めたのには幾つかの理由がある。
 家族の仇であるということももちろんそうだが、理由はそれだけではない。
 最も大きいのは、蛇をこのままのさばらせておくことのリスクが高すぎることだった。
 〈はじまりの六人〉すら圧倒する正真正銘の規格外。神寂姓を持つ極めて危険な殺人狂。
 ナシロも河二も既に彼と因縁を持ってしまっている。神寂縁が生きている限り、もう安息の時間はないと言ってもいい。

 蛇は討つ。全会一致の結論だった。
 が、問題もある。
 先にエパメイノンダスが指摘した通り、蛇の潜んでいるその場所が悪すぎるのだ。

 月女神・天枷仁杜のお膝元では常に休みなく精神を侵される。
 一度でも堕ちてしまえばもう這い上がれない。
 強靭な精神力を持つ英霊ならいざ知らず、日々を迷い悩みながら生きている人間にとっては殺人的と言っていい精神攻撃だ。

 よってどう動くか決めあぐねていたのだが、いざ入ってみると対症療法の確立はすぐだった。
 "常に頭を動かし続ける"こと。とにかく何かを考え続ける。思考を捏ね回し、脳を稼働させ続けることで気を逸らす。
 あまりに単純な発想ではあるし、実際あくまで応急処置程度の対抗策としかなり得ない。
 しかし実際、効果はあった。これがあるおかげで現在、ナシロ達は凶悪な頭痛や精神悪感などの様々なデバフを軽減することに成功している。

「とりあえず、雪村さんとは直接話したいところだな」

 彼の蛇討伐にかける想いの丈は知っている。
 雪村鉄志は必ず〈ニシキヘビ〉の討伐に向かうはずだ。
 渋谷の環境にも慣れてきたところだし、直接連絡でもするべきか――そう考えた時。

「待て」

 エパメイノンダスが前に出て、腕で後続の足並みを制する。
 声音は硬い。意味するところはひとつだった。

「誰かいる。この気配からして、あっちも気付いてるようだ」

 敵か味方か、定かではないが何者かがこちらを認知している。
 否応なしに走る緊張。河二が拳を握る様子が見えた。

 気配の主が誰であれ、手放しに信用はできない。
 かつて自分達は、蛇杖堂絵里という存在しない人間に化けた神寂縁をまったく見抜けなかったのだ。
 今や見知った相手に対してでさえ、中身が違う可能性を疑わねばならない。
 蛇の脅威は強さだけに非ず。かの怪物はこの世に存在するだけで無限の不和をかき鳴らす。

「ランサー。頼めるか?」
「おう。慣れたもんさ、任せとけ」

 にっかり笑って、エパメイノンダスが更に足を前に出した。
 隠れるつもりはない。敵であるなら押し通るし、そうでないなら交渉だ。
 彼は将軍。孤独な子供達の保護者(ブレイン)。槍の石突で地面を叩き、銅鑼のようによく通る重低音を響かせる。

「――そういうわけだ、誰だか知らんが出てきていいぜ! 正直事は構えたくないが、対話なら喜んで受けて立つ!」

 声の反響が止んだ頃、視界の先にヒトガタが像を結んだ。
 毒々しい赤い甲冑の少女だった。英霊なのだろうが、えらく消耗した様子だ。
 鎧は所々砕け、割れ、血のじっとり滲んだ細身の身体が見え隠れしている。

「ほう、こりゃなんとも……」

 見るからに訳ありの様子だ。
 警戒こそされているが、好戦的な風には見えない。
 対話は可能だろう。しかしさて、何から訊いたものか。

「不躾をお詫びします。さぞや名のある武人と見受けますが」
「おべんちゃらはいいぜ。それより、おたくは――」

 当然の賛辞を笑い飛ばしながら、エパメイノンダスが問いかけようとしたその瞬間。


「――ッ!?」

 明後日の方角からやって来た、ひどく腥い風に全員が身体と思考を硬直させた。


 込み上げるのは吐き気だなんて生易しいものではない。
 恐怖、戦慄、畏怖、そのどれもこの時憶えた感覚と並べて語るには役者が足りない。
 強いて言うなら、それは嫌悪感だった。己が二本足で踏み締めた世界に、こんな概念が存在している。そんな事実そのものへの根源的嫌悪。
 悍ましい。禍々しい。深遠から這い出た悪意の一息が、否応なしに主役は自分達でないのだと思い知らせてくる。

「なん、ですか……っ、これは……」
「……その様子を見るに、おたくらの知り合いじゃあねえようだな」

 眉間を歪めて零す蠍甲冑の英霊を見、エパメイノンダスは額の汗を拭いつつ呟く。
 となると実にご愁傷様だ。恐らく彼女も、自分と同じで既に置かれた状況を理解していることだろう。

 己も、彼女も、河二もナシロもヤドリバエも、この場に居る誰ひとり主役ではないのだ。
 そう突き付けて嘲笑うような身勝手さで、今、ひとつの世界が閉ざされた。
 色を変えていく夜明けの空。月の法則に入り混じって、我が物顔で醜穢な幽世が拡げられていく。
 世界が、奈落のような何処かに堕ちる。胃酸滴り、命溶け落ちる蛇の魔界へ。

「とにかく話をさせてくれ。たった今、現状は最悪以下のどん底になった」

 蛇を追う? 否、おまえたちが追われるのだ。
 主役は殺人鬼。常世のすべてを貪る唯我独尊の支配者。

 メドゥーサ、ヒュドラ、虹霓、ナーガラージャ、八岐大蛇、いずれも比較にさえならず。
 これは原初。神々の創造した楽園にて最も自由だった、時に魔王の写身とも語られる一匹の蛇。
 神の如き暴力と、人の如き悪意。そして悪魔の如き執念を併せ持った――


「このままじゃ俺達もあんたらも――全員喰われてお終いだ」

 ――〈支配の蛇〉という、ある滅亡(なれはて)の物語。


◇◇


 槍の一撃が、確かな怒りを込めて蛇へ轟く。
 英雄の槍。勇士の矛。一撃にして神をも屠る、人外の絶技。
 しかしその武勇を阻む触腕が一つ。千手の如く群れて蠢く蛇の頭が、音超えの速度で英傑と打ち合っている。
 中に織り交ぜられた徒手空拳は一発残らず急所狙いで、この化物が如何に命を奪うことに熟達しているかを物語っていた。

 だが、小手先の奸計に足元を掬われる大英雄ではない。
 全てを捌きながら猛追し、それでいてその武威を微塵たりとも譲らない。
 鮮烈な閃光を煌めかせながら、風夏を背にして戦う益荒男の姿。
 少女に対する一方的な蹂躙劇。そんな趣味の悪い題目はとうに過去となった。

 ルー・マク・エスリンが来た。それだけで、あらゆる悲劇は浄滅する。

「――チ」

 蛇・神寂縁の口端から億劫そうな舌打ちが漏れた。
 レミュリンを標的にする以上いつかはこうなるだろうと思っていたが、だからと言って涼しい顔で相対できる相手ではない。
 一騎当千、天下無双。反則技とはいえ完全体の祓葉さえ下した豪傑が、正義の華を爛漫に咲き誇らせる。

「ぜぇぇああぁあぁあッ!」

 その槍は、勝利の象徴。
 栄光に満ちた戦陣は、総ての悪への死の舞踏(トーテンタンツ)。
 たとえ恐ろしい蛇の悪神が相手であろうと、彼の英雄譚に微塵の翳りも無し。
 勝利とは何か、英雄とは何か――何を以って人は栄光と仰ぐのか。
 教授するようにルーが攻める。ただひたすらに槍を轟かせ、あまねく恐怖を打ち払う。

 『常勝の四秘宝・槍(ランス・フォー・ルー)』、勝利の槍。
 〈この世界の神〉相手にさえ勝利を引き寄せた魔槍が、理屈を捻じ曲げて彼の舞台を整える。
 蛇が繰り出す数多の迎撃を物ともせず、素の身体能力だけで同じ数を用立て攻め込んでいく。
 対する巨悪は心底気怠げに眉を寄せ、千手のように背後へ広げた無数の蛇を爆発的に伸縮させた。

「やれやれ。筋肉達磨に興味はないんだがな」

 ルーの眦が動く。伸びた全ての蛇首が刃弾となり、逃げ場のない破壊の暴風として襲い掛かったのだ。
 掠めただけで肉が抉れて飛沫が舞う。トップサーヴァントの頑強さを以ってして尚、ただ掠めただけでこれだ。
 脅威度で言えば、先に一戦交えた雪靴の女神にも匹敵しよう。
 これが曲がりなりにも人間と呼ばれていることに、ルーは畏怖と戦慄を禁じ得ない。

 だが、だとしても。

「男らしいのはお嫌いかい、人喰い。いいもんだぜ、武を競って技を尽くすってのは」
「気色の悪いことを言うなよ。あと、そういう話をしたつもりはないな」

 だからと言って、闘志が翳るわけでもなし。
 ルーが歯を剥く。蛇が牙を剥く。
 闘志と殺意が、朝焼けの街に交差する。

「別に男の欠損には唆らないなぁ、って話」
「――はははッ、そいつは無理もないな!」

 蛇。蛇。蛇。数多の爬虫類が、肉(ししむら)を食らう魔性の獣が乱れ舞う。
 そのすべてがひとりの人間から溢れ出ている現象だなどと、説明されたとて誰が信じよう。
 英霊の皮膚を破り、肉を砕き、燦然とした勇姿を血糊で染める。
 だが、英雄は未だ健在。誰も耐えられる筈のない惨禍の中心で、己が勝利を振るい続けている。

 悪夢じみた状況の中でさえ、不思議と天秤は英雄に傾いていく。
 止められない。それは果たして、どちらがどちらに抱いた感情か。
 遂に蛇の嵐を突破して、光槍の切っ先が彼の腹を抉った。

 しかし、傷口から溢れ出したのは血ではない。
 蚯蚓のようにか細く、それでいてルーの総身より長い、無数の蛇が堰を切ったように飛び出した。
 薄笑みが窮地の英雄を嗤う。防御しなければ蜂の巣になると踏み、槍身を水平に構えた英雄へ蛇は悠然と四肢を振るう。

「が、ぐゥ……!」

 腹を靴底が打ち据え、口から血反吐が滴り落ちる。
 強いられた後退はわずかな距離だったが、物量で圧倒的に上を行く蛇に間合いを与えるのは自殺行為。

 ようやく突破した筈の蛇牙嵐が、再びルーを覆っていく。
 『常勝の四秘宝・槍』は遺憾なく真価を発揮し続けていたが、これは直ちに勝利を引き寄せる類の宝具ではない。

「流石に大英雄、厄介なモノを持っているようだね。
 感覚的に、防御と布陣の無効化能力、といったところかな?」

 蛇は目敏く、それ以上に聡い。
 怪物の洞察力はわずかな時間の相対で、既にルー・マク・エスリンの"第一の槍"の力を読み解いていた。
 確かに厄介。だが観測し、体感してみた印象として、かの槍が担い手を勝たせるまでにはある程度の時間を要する。
 そうでなければ祓葉との戦いで危ない橋を渡る必要はなかった筈だ。ルーはもう、ずっと前から蛇に視られている。

「じゃあ攻撃のギアを上げてみよう。帳尻が合う前に仕留めてしまえば、戦の優位も糞もない」
「――――ッ!」

 蛇が、新たな力を開帳する。
 翳した右手に蜷局を巻く、無色透明の力場。
 これは簒奪の力だ。空間にある魔力、大気、雷に炎。
 有形無形を問わず、そのすべてを捻れさせて一点に纏め上げる魔術。

 この世のどこにも原型の存在しない、蛇が自ら開発した攻防一体の渦である。
 神寂縁が喰らい、我が物とした幼子達。
 彼ら彼女らに"あったかもしれない"未来をデタラメに掛け合わせて調整し、蛇はゼロから魔術を創造できる。

 蛇はこの魔術を、『渦状魔術』と呼んでいる。
 今回凝縮させたのは、此処までの戦闘で生まれ発散されてきた"衝撃"だ。
 破壊的で暴力的なエネルギーのすべてを、蛇はルーと戦いながらずっと蒐集していた。
 過去の残影如きが身の程を弁えず、現世の支配者たる自分に刃を向けた。その不徳に応報の時がやって来る。

「できれば首だけは残ってくれると嬉しいな。レミーに見せてあげたいんだ」

 充填した衝撃を小分けにして弾薬の形に加工。
 それを蛇自身の魔力で、極限まで加速させて撃ち放つ。
 後は自動連射(フルオート)。弾が尽きるまで撃ち続けるだけだ。

 一発一発が宝具の真名解放級の威力を持った弾丸が、機関銃以上の発射レートで雪崩込む。
 逆転の流れすら生まれ得ない、その隙がそもそも存在しない超高速の死の乱れ撃ち。
 新宿で討伐された赤騎士のお株を奪うが如き、圧倒的な武力で蛇は君臨する。

「ん? おいおい、なんだそりゃ」

 が、ルーは彼の無法に付き合うことなく、地面を蹴って駆け出した。
 逃げの一手だ。大英雄が、人間相手に回避を選んだのだ。

「情けないじゃないかランサー。どっちが人間だか分からない」
「あのなぁ、勝手に期待して失望すんなよ。俺はそこまで戦闘狂じゃねえ」

 しかしルーに恥じる気持ちは全くない。
 彼は誇りを重んじるが、敵が善であれ悪であれ、向き合ったからには侮らず最善を尽くすと決めている。

 それは彼の心の誓約(ゲッシュ)。
 ルー・マク・エスリンは神寂縁を必ず討つべき敵だと看做しているが、戦いに侮蔑も見下しも持ち込んではいなかった。
 敵が人間であるとか、己は英霊であるとか、そんなことは彼にとって瑣末な問題なのだ。
 目の前に雌雄を決するべき誰かがいるなら常に全力。あらゆる択と手を尽くして、己の帰りを待つ者へ誇れる勝利を得るだけのこと。

 神寂縁がヒトでも怪物でも、ルーの戦いは何も変わらない。
 驚くべきことにこの英雄は、誰もが怖れる支配の蛇をさえ好敵手として尊重していた。

 駆けるルー。追うのは、蛇の魔弾。
 迫る凶弾に肩を叩かれたなら彼でも無事では済まない。
 背筋を汗が伝う。槍を振るい足を動かし、蛇が与えぬと言った時間を力業で捻出していく。

「あぁそう、なら好きなだけ逃げるといい」

 口振りは軽いが、蛇の殺意は本気だった。
 ルーに時間を与えれば、やがて彼の秘宝は勝利の帳尻合わせを終わらせてしまう。
 故にその前に仕留めねばならない。追われているのは、蛇もまた同じなのだ。

 そして、だからこそ此処で。

「……なんだ、まだ居たのか」

 ルーの現着で死の運命から脱出したもうひとりの役者も、この時を待っていたとばかりに動き出す。

 放り投げられ、炸裂した火薬玉。
 それが蛇を傷付けられないことは先ほど爆(や)った通りだが、玉体は害せなくても環境を変えることならできる。
 人の消えたコンビニエンスストアを巻き込みながら爆発した火薬玉は、爆風と粉塵の即席煙幕を作り出した。
 蛇の眼力はこの程度の障害など容易く透視するが、それでも一瞬、適応に時間がかかる。

「そりゃいるさ。これから面白くなりそうな所なのに、そこで退いたらエンターテイナーの名が廃るってもんじゃん?」

 〈脱出王〉、満を持しての跳梁再開である。
 元より彼女の本領は戦闘ではなく逃走と嫌がらせ。
 本人からすれば心外なのだろうが、視界の端で跳ね回るハリー・フーディーニの鬱陶しさは想像を絶する。

「さっきは助けてくれてあんがとね、ランサー!」
「気にすんな! ……で、つい咄嗟で助けたが、君は誰だ!?」
「山越風夏! 〈はじまりの六人〉が一、〈脱出王〉と人は呼ぶね!」

 常勝の加護に守られた光の英雄。
 そこに、脱出の貴公子が力添えする。
 そんな頭痛モノの布陣が完成してしまった。

「……聞きたいことは山ほどあるが、後だな!」
「あっはっは、そうでなくっちゃ!」
「首突っ込むなら働いてくれよ。見ての通り余裕がないんでな!」
「オッケー! じゃあとりあえず、右に一歩、前に三歩、そこで三秒止まって後ろにジャンプね!」

 では、具体的にどうなるのか。その実例はすぐ示される。
 〈脱出王〉の言葉を指示だと解したルーは、わずかな逡巡の後に従うと決めた。
 まず右に一歩踏み出し、そこから前に三歩。
 足を止めれば当然蛇の魔弾雨が追い付いてくるが、此処は自慢の槍捌きで死ぬ気で耐える。

 永遠のような三秒が過ぎる。
 それと同時に後ろに跳躍。歩数は指定されていない。よって全力で、ということと判断したが、正しかったようだ。

「んっ……!?」

 飛び退いた先で、ルーが視認したのは空を這うように配置された極細の糸だった。
 風夏のワイヤーだ。今仕込んだものではない、彼女があらかじめ移動用に設置していたインフラである。

「――そういうことか!」
「あいあい! たぶんすぐ切られちゃうから、やれるだけ最速でぶっ飛んじゃえ!」

 片手で掴み、火花を散らしながら滑空する大英雄。
 指示通り初速からトップギアで、衝撃弾の雨を切り払いながら空を舞う。
 〈脱出王〉はビルの壁面を蹴ってぴょんぴょこ跳び、蛇の思考を余分な情報で妨害する飛蚊の役目を果たしていた。

「右に45度、下に78度、左に51度、元の姿勢に戻して一秒停止、そこから無茶して二秒加速」

 いいやそれだけではない。
 歌うようなテノールで飛ばすオーダーが、ルーに最善の未来を教えている。

「そしたら辿り着いた先で二秒停止。左に41度動いてから一秒以内に下に67度、後はそのまま振り切って」

 ルーは驚愕していた。彼は今〈脱出王〉の指示通りに動き続けているわけだが、その結果此処まで一発たりとも被弾していないのだ。
 未来予知じみた先打ち。脅威から逃れ、窮地から脱出するということにかけて発揮される魔域のセンス。
 彼の驚愕をよそに、風夏はかつてないほど高揚していた。
 同時に惜しむ。ああ何故この身は、英霊にならないまま祓葉の箱庭に招かれてしまったのか。
 己の脳内にある"脱出"を完璧に出力できる肉体があれば、自分はこれだけ流美華麗に死を跳ね除けられるのかと、感銘すら覚えながら踊り舞う。

「――、――」

 対する蛇は、隠そうともせず不快感を横溢させる。
 彼にとって思い通りにならないこととは不快を意味する。
 支配者たる自分が描いた未来がことごとく覆されていく光景を、どうやったってこの怪物は受け入れられない。

「失敗したな。まず蝿から潰すべきだったか」

 その苛立ちを以って、蛇は自らの失策を悟った。
 今更潰そうとしてももう遅い。逃げに徹する環境を得た〈脱出王〉はまごうことなき天禀で、そして強引にソレを踏み潰そうにも――

「――おおおおぉおおおおぉッ!」
「……!」

 自分は、時間を与えすぎた。
 長腕のルーに対し、誰も戦を保ち続けること叶わず。
 帳尻合わせは既に終わっている。よって此処からは、英雄が刻む逆転劇。

 上空から飛んできたルーの槍撃に照準を合わせ、尚も続く魔弾の掃射で蜂の巣にせんとしたが。
 そこで空振りの手応え。手の中から渦が消え、無限にも思えた衝撃の弾雨が途切れる。
 弾切れだ。そのタイミングがルーの反転攻勢とちょうど噛み合ったことにも、因果の湾曲を感じざるを得ない。

「よう。久しぶりだな、待ったかい!?」

 呉越同舟。助けた魔人に背を押され、英雄譚が舞い戻る。
 挨拶代わりの一撃が、再度渦を造ろうとした蛇の右腕を切り飛ばした。

 これ自体は大した損耗ではない。
 人間とは名ばかりの蛇にしてみれば、身体の部位など自由自在に生やすことのできる道具でしかないからだ。
 真に致命的なのは、四肢の欠損により猛るルーに隙を与えてしまうこと。
 一秒に遠く満たないわずかな間隙。
 されどその刹那をモノに出来るからこそ、彼は英雄と呼ばれたのだ。

 空を穿ち、地を抉る槍撃の波状攻撃。
 蛇は掌で事象を圧縮し、ストックすることができる。
 厄介な力だが、ならば簒奪の暇を与えない速度と精度で押し潰す。それがルーの選んだ戦い方だった。
 正真の怪物である蛇を相手に実現するのは言葉で言うほど簡単ではないものの、彼の秘宝は難業に向かう主を後押しし続けている。

 目に見えない力。戦いの"流れ"を引き寄せる力。
 神寂縁は潮目が変わる前にルーを仕留めるべきだった。
 失敗の代償は、より強くなって帰ってきた英雄という形で徴収される。

「――……」

 重い。鋭い。不滅に等しい耐久を持つ筈の蛇の身体が、一撃浴びる毎に確かに削られていく。
 無視できるものではなかった。この男の槍は、数を重ねればきっと自分の命脈に届く。
 分かっていたことだ。しかし実際に相手取るとなると、こうまで厄介なものか。

「囀るなよ、下等生物が」

 怪物が此処で、初めて後退の択を取る。
 地を蹴って下がりつつ、背中の白蛇を今度は鞭のように撓らせて振るった。
 千もの蛇が残像すら残さない速度で荒れ狂っている様は、一見するとがむしゃらの無茶苦茶にも見える。

 しかし次の瞬間、相対するルーの頬がパックリと裂けて血を噴いた。
 俗に言う鎌鼬だ。超高速で乱舞する白蛇の鞭が、常軌を逸した風圧を発生させて鉄をも断つ風の刃を発散しているのである。
 まるで都市を均す草刈り機のようだった。蛇がそこにいるだけで、街は急速に平地へ近付いていく。
 無論、その渦中にいる彼も只で済む道理はなかったが――

「勝手に期待して失望すんな、とは言ったが――いくら何でも舐めすぎだ」
「……!」

 ――それがどうした、とルーは躊躇いなく一歩前に出る。

「俺はルー・マク・エスリンだぞ。バロールのクソジジイの方が、お前よりよっぽど強(こわ)かった」

 頬を裂く風刃を浴びながらも、ルー・マク・エスリンの歩みは止まらない。
 白蛇の群れが鞭となって大気を断ち、無数の見えざる刃となって英傑の四肢と胴を切り刻む。
 それでもなお、勝利の槍は曇らぬ光を湛えたまま、嵐の只中を一直線に貫いていく。

 ルーは本物の怪物を知っている。
 理屈が通じず、倫理が通じぬ、そんな埒外の悪性など見慣れている。
 そしてかつて、彼は其れを討ち果たした。
 ならば何故、ヒトの成れ果てを怖れる道理があろうか!

「エリよ、エニシよ。お前が何者だかは正直知らん。が、これだけは分かるぜ。お前は"悪"だ」

 その跳梁が、誰かの涙になるならば。
 己は立たねばならぬ。己は討たねばならぬ。
 戦う理由など、それだけで十二分だ。

 裂かれた肩から血が奔り、脇腹から肉片が散ろうと、ルーの踏み込みは一分の揺らぎも見せなかった。

 振り下ろされた一閃が蛇の一群をまとめて断ち、返す槍尾が死角へ回った蛇首を打ち砕く。
 さらに半歩、さらに一歩。切っ先は風を裂くのではなく、既に神寂縁そのものへ届けるためだけに振るわれていた。

「お前も知ってるよな。この時代じゃ、正義ってのは必ず勝つんだってよ」

 乱れ狂う蛇の壁を、光の軌跡が幾筋も穿つ。
 一本が裂け、十本が千切れ。百の牙が届く前に、中心へ英雄の穂先が滑り込んだ。

「綺麗事だが――いつの世も、綺麗事ってのはいいもんだ!」

 蛇の腹が抉れ、胸郭が裂け、飛び散った体液が舗装路をびちびちとのたうつ。
 直後に再生した肉が槍身へ絡みつこうとするが、常勝の秘宝はその拘束すら置き去りにして次撃へ移った。
 突き上げるような一撃が顎を跳ね、そこへ石突による横薙ぎが叩き込まれ、ぬらりとした長躯が大きく傾ぐ。

「そう思わねえかよ、ええ、蛇さんよォ――!」

 崩れた体勢を立て直す間すら与えず、ルーは地を抉る踏み込みから追撃を重ねた。

 上段から落ちた穂先が右肩口を断ち割り、続く刺突が脇腹を貫いて背へ抜ける。
 蛇の再生が間に合うより速く、槍撃の濤がその全身を削っていく。
 暴風はなお吹き荒れていたが、既にそれは間合いを支配する牙ではなく、追い詰められた怪物の周囲を荒れ狂う残響に過ぎなかった。
 朝焼けを背負う英雄の進撃が鮮烈に街路を染め、破砕されたコンクリートの上に逆転の戦陣を赫々と刻んでいく。

「つまらないご高説をどうも」

 神寂縁の全身から、裂けた肉を埋めるように白蛇が噴き上がった。
 地を這うもの、空へ跳ねるもの、螺旋を描いて絡みつくもの。
 すべてが一斉にルーへ殺到し、加えて蛆のように湧き出た蛇頭が散弾のごとく周囲へ撒き散らされる。
 舗装路が爆ぜ、街灯が根元からへし折れ、崩れた外壁が礫となって降り注ぐ。
 英雄の退路を潰すための、無差別にして精密な破壊の檻だった。

 が――

「右に二歩、しゃがんで前転、そのまま左上!」

 響く声に従い、ルーは首に食らいついた蛇頭を引きちぎりながら裂けた地面を蹴る。
 直前まで首があった位置を神寂縁の徒手が貫き、衝撃波だけで背後のビル壁にクレーターを穿った。
 更に身を沈めた頭上を回し蹴りが掠めるが、宙へ跳ねた瞬間、ルーは追加で供給された見えざる糸へ手を掛けて軌道を捻る。

「次! 一秒止まって、そこから前!」

 停止の刹那を追っていた蛇群が空を噛む。
 空振りで生まれた間隙へ、ルーの槍が稲妻めいて走った。

「山越風夏……」
「へへ。どう、私なかなか役に立つでしょ?」

 殺意を込めた一瞥にも〈脱出王〉は変わらない。
 彼女の中では蛇の威圧すら、万雷の拍手に変換されているのだろう。
 たとえこの男がどれほどの巨悪であろうとも、世の中には煮ても焼いても食えない傑物がたびたび生まれる。
 "ハリー・フーディーニ"という狂人は、言うまでもなくその一例だった。

 横薙ぎの一閃が白蛇の束をまとめて断ち割り、返す切っ先が魔王の腹腔を深々と抉る。
 芸もなく再び噴き出した蛇を踏み砕きながら石突の打撃で体勢を崩し、胸倉を掴んだ。

「ぜぇぇぇらぁぁぁあぁぁああッ!!」
「――――!!」

 そうして目の前まで引き寄せた顔面に、英雄の鉄拳が炸裂する。
 肉と破片が朝焼けの中に飛び散り、蛇は砲弾のように吹き飛んだ。

「ナイスアシスト。助かったぜ」
「ユアウェルカム。それより、まだだよ」

 ルーの隣にひらりと着地し、彼と拳を合わせる風夏。
 しかし彼女も、そしてルーも安堵などしていない。

 神寂縁は生きている。
 アスファルトに大の字で倒れ、血を噴いた面を晒している姿は……悪の末路としてこの上なく痛快なものだったが。
 変わらず上下する胸元と、未だ漏れ出続けている禍の気配が彼の健在を伝えていた。

「はあ」

 得意の悪意が出涸らしということもあるまい。さあ、次は何を出してくる。
 英雄と狂人が固唾を呑んで見据える中で、かき消されそうなほどの音量で漏れる溜め息。

「なんか、面倒臭くなってきたなあ」

 ルーはもちろんのこと、山越風夏も蛇にとっては至極どうでもいい路傍の石に過ぎない。
 ああも翻弄され、比喩でなく鼻っ柱をへし折られる形になった今でさえ、神寂縁は目の前の二人を何一つ真面目に評価していなかった。

 なのに何故、そんな石ころ達のために足を止めさせられているのか?
 蛇は心底辟易していた。彼はままならないことが許せない。
 この世とは己の庭園なのだから、我が意に沿わぬモノなどあっていい筈もないのに。

 積もり溜まったフラストレーション。
 彼は迷わずその発散を選択する。

「もういいや。雑に行こう」

 言葉は簡潔。
 しかし次の瞬間、異変が起きる。

 蛇の身体が変態した。
 うぞうぞと犇めきながら伸びた鱗が、魔王に新たな身体部位を増設していく。
 外殻(ヨロイ)だ。フルプレートアーマーのように、何十層にもなる鱗が蛇の身体を覆い尽くす。
 鈍色の装甲を纏った魔人の威容には、先程までの何処か神秘的な超然さはもう窺えない。

 攻撃ではなく防御のための変態。その意図は次の瞬間、予想外の形で明らかとなった。

「――――なに」
「うっそ、マジ?」

 すべての元凶が、起き上がるなりスッと踵を返したのだ。
 特撮劇の悪役のように人の面影を失くした怪魔が、絶えず加速しながら視界から遠ざかっていく。

「あの野郎、逃げ――いや……」

 愕然としてしまうのは無理からぬこと。
 少女喰いの偏執狂が、少し痛い目を見ただけで獲物を諦めるのか。
 そう思ったのはわずか一瞬。当然だ、自分の眼さえ完璧に欺いてのけた怪物が、そんな簡単に引き下がるわけがない。

 事態は好転どころか、もっと下の最悪に向かっている。

「俺達を無視して、本命(レミュリン)に向かうつもりか……!」

 蛇がやめたのは、レミュリンを追うことではない。
 自分の足を止めている、二つの石槫に対処することの方だ。
 彼らの存在を無視し、強引に意中の彼女まで辿り着いてしまえばいい。
 無法の極み、背を向ける相手を考えれば非現実的でさえある決断だが――それができるから、彼は常世の王なのだ。

「させるかよ――!」

 ルーが駆け出す。
 択を誤った。蛇の傍若無人を侮っていた。
 まさしく傍らに人無きが若し。やる気がなくなったから無視してそのまま本来の目的に戻るという狂気の判断すら迷わない。

 鈍色の鱗を軋ませながら、神寂縁は朝焼けの街路を一直線に疾駆する。
 踏み砕かれたアスファルトが爆ぜ、飛び散った瓦礫が砲弾めいて後方へ散る。
 外道の蛇は、行く手を阻む遮蔽物(建物)に対し迂回しようとさえしなかった。
 彼は突っ込むだけだ。壁を砕き、敷地を踏み越え、当たり前のように崩落させながら我が道だけを行く。

「ねえランサー! あの、今更だけど一個聞いてもいいかな!?」
「なんだ! 手短にしてくれよ!」
「レミュリンって、なんであんなに執着されてるわけ? 性癖?」
「……わからん!」

 追うルーもまた凄まじい勢いで駆け、風夏は壁面と電柱、張り巡らせた移動用ワイヤーを渡りながら横を跳ぶ。
 三者の軌跡が交差するたび景色が乱暴に削り取られていく有様は、まるで街というキャンバスに消しゴムをかけているようだった。


「わからんが、これだけは言える」

 蛇は振り向きもせず、背の装甲の隙間から白蛇を射出した。
 槍のように伸びた蛇群がビルの谷間を埋め、追跡路そのものを閉ざしにかかる。
 ルーは疾走の勢いを殺さぬまま光槍でまとめて薙ぎ払うが、その度に散った蛇肉が路面にのたうって即席の毒罠へ変わる。

 元凶が街灯も信号機もまとめて引き倒し進んでいるので、その倒壊も追跡者達に対する妨害になった。


 ルーも風夏も全力を尽くしているのだが、彼我の距離は少しずつ開いていく。

「――野郎の手にレミュリンを渡すのだけは駄目だ。
 俺があの嬢ちゃんのサーヴァントだからってだけじゃねえ。
 もしそうなれば何もかも取り返しの付かないことになると、俺の勘がそう告げてる!」

 蛇の写し身のひとつ、蛇杖堂絵里という存在は人畜無害そのものだった。
 怪しい素振りを見せたらルーが気取っていたろうから当然とも言えるが、だとしても擬態が自然すぎた。
 思うに自分と同行していた時点での神寂縁は、まだそこまでレミュリン・ウェルブレイシス・スタールという少女に執着していなかったのだろう。

 痺れを切らして襲いかかり、家族の仇である赤坂亜切に助けられたレミュリン。
 その一連のゴタゴタの中で、蛇は何かに気付いたのだ。

 支配者の楽園を完成させる最後の一ピース。
 彼がそれを腹に収めた時、比喩でなくすべてが終わるとルーは確信していた。

「……〈原石〉」
「なんだって?」
「そうか。やっぱり、私の見立ては正しかったわけだ」

 その言葉を受けて、脱出の王は静かにほくそ笑む。
 ルーをして得体の知れないものを感じる、ある意味では神寂縁と同質の情念が垣間見える。

「長腕のルー。私は、君達に全力で協力しよう」
「そりゃありがたいが……何か企んでるんじゃないだろうな? これ以上裏切り沙汰は御免だぞ」
「企んでないと言えば嘘になるけど安心したまえ。
 これは胸を張って打ち明けられる類の悪だくみさ。タイミングを見て、君とレミュリンにはちゃんと話すと約束するよ」

 〈脱出王〉は享楽の徒だ。
 彼女は面白いことしかしないが、逆に興味を惹かれた物事についてはとことんまでに節操がない。
 ルーとの会話を受けて、風夏にとってこの戦いは単なる物見遊山以上の意味を得た。

「私としても、あの蛇さんにレミュリンを食われるのは面白くない。というわけで、一丁気合い入れ直そうじゃない」
「……了解だ。積もる話は後で、だな!」

 ――レミュリン・ウェルブレイシス・スタールは殺させない。
 改めて志を同じくし、ひとりと一体が怪獣映画のスケールで壊れていく街並みを疾走する。

 そんな焦燥の追跡劇が、一体どれほど続いたろう。
 流れを変えたのは、悠々と己が野望を突き進む支配の蛇の一言だった。



「――――見つけた」

 欲望を剥き出しにした粘性の喜悦が、呪いのように聞く者の耳を蝕む。

 見つけた。レミュリン・ウェルブレイシス・スタール、支配の器。
 時司る魔女の幼体。
 神寂縁の悲願を最短距離で叶えられる、スタールの徒花。

 こうなっては、いよいよ本格的にルーも〈脱出王〉もどうでもいい。
 今すぐに駆けつけ、邪魔なボディガードを抹殺してレミュリンの首筋に歯を立てよう。
 蛇の魂胆は明らかで。故に、彼がこう思うことは当然の帰結だった。

「させねえっつったろ……!」

 そうはさせない。
 これ以上何一つ、おまえの思い通りになどさせてやるものか。

 ルーの判断は即決だった。
 第一の槍を握る手に噴血するほど力を込めて、彼は隣の〈脱出王〉へ叫ぶ。

「風夏! 俺を全力で跳ばせ!!」
「えぇ……! いやできるけど、なんで!?」
「説明してる暇はねえ! 何でもいいから、とにかく全力で頼む――!」

 ルーは、少し前から蛇との距離が離されつつあることに気付いていた。
 加速している。最高ランクの敏捷(アジリティ)を持つ己ですら追い付けない領域まで。
 レミュリンの位置はもうごく間近。此処で強引に追い付かなければ間に合わなくなる。

 そう踏んだが故に、彼が頼ったのは再演の狂人。
 この都市において、彼女ほど一芸に長けた役者はいない。

 開帳される大奇術(マジック)。
 袖の中に仕込んでいた粉塵状の爆薬を蛇が踏み荒らした地面に散布する。
 魔術的手段で精製した"神秘持ち"の超小型爆弾だ。
 これを踏み締めた状態で起爆することで、即席のスプリングにしようというのが風夏の発想。
 無論常人がやれば両足が吹き飛ぶが、針音都市に召喚された英霊の中でも五指に入る強靭な霊基を持つルーなら誤差レベルの損傷で済むだろう。

「ほいよ! 私は流石に相乗りできないから、この先は自力でお願いね!」
「恩に着る!」

 ――爆音と、色とりどりの火花が炸裂し。
 ルー・マク・エスリンの巨体が軽やかに宙を舞った。
 推進力を背にしつつ、上空で更に加速して蛇の前方まで躍り出る。

 英雄、再び蛇神と相対す。
 着地の衝撃を涼風と受け止め、迫る怪物へ口を開く。

「いくぞ」

 否、その敵に対し告げるのではない。
 彼が呼んだのは、それを討つための武装である。

 天高く掲げた右腕に、黄金の槍が現出した。
 ダーナ神族の雄から、父親殺しの賠償品としてせしめた一槍。
 力強く握り締め、投擲の構えに入る。
 拳から滲んだ血が槍に触れると、綺羅びやかな槍身が獰猛に瞬いたように見えた。

「Ibur……!」

 ひとたび血を溢せば誰も生かさぬ。
 唱えて投げれば決して逸れぬこと疑うべくもなし。
 故に必殺。故に必中。其の槍は、あまねく敵を打ち払う。

「『我は望まん(ゲイ)』――」

 数多の武勲を打ち立ててきた長腕が撓る。
 黄金の流星が、超新星爆発めいた極光と共に手を離れた。

「――『此の先の心臓を(アッサル)』ッ!!」

 蛇はもう、投擲槍の軌跡すら認識できない。
 因果逆転とはまた趣の違う、運命改変による必中が具現する。

 果たして一条の光条と化した乾坤一擲は、神寂縁の胸部を過たず貫いた。
 蛇の総身を覆う鱗の鎧が、着弾点からボロボロと崩れ落ちていく。
 胸の真ん中に大穴を穿たれ、遂に猛進する支配蛇が動きを止めた。
 穴から溢れる液体。バケツをひっくり返したような勢いでとめどなく零れ、大地に巨大な水溜まりを形成し始める。

(獲った――!)

 ルーは槍を擲った格好のまま、確かな手応えを噛み締める。

「あーあ」

 ……それが間違いだと気付いたのは、すぐ後のこと。



「――――暴いたな、蛇(ぼく)を」



 砕け、割れ、崩れ落ちた鎧の底から。
 今まで見せてきた邪悪のすべてが親愛の証に思えるような、黒ずんだアルカイックスマイルが覗いていた。
 弧を描く口内に赤色が見えない。光さえ吸収してどこにも逃がさない、真の意味での純黒の内界が垣間見える。

 穿たれた胸の大穴もまた、同じだった。
 傷口は貫通していない。なのにやはり、赤い血肉が窺えない。
 先のない暗闇がぽっかりと口を開け、そこから同色の血糊とも腐汁ともつかない液体がだくだく滴り落ちている。

 人間の血は、あんな色はしていない。
 人間の血は、これほど多くは流れない。
 人間は、心臓を穿たれたら生きてはいられない。

 では、これは何?

「お前……何者だ……?」

 今度こそ心胆からの戦慄を覚え、ルーは気付けばそう漏らしていた。
 その鼓膜に、けたけたという笑い声が木霊する。
 子供の声だ。童歌を歌って、愉しげに戯れる幼子達の声。

 世界が、新たな色を帯びる。
 心優しい月光の理に毒液が混ざり、局地的に汚穢なマーブル模様が広がっていく。
 空が腐る。命が溶ける。ようやく昇った日の光が途絶し、逢魔ヶ時の薄闇が支配する。
 すべての暗闇に子供がいる。鞠を突き、手遊びをし、4423の水子達が蛆のように蠢いている。

 天地に満ちる汚濁の欲望。
 欲しいならば奪い取る、そんな原始的願望の更にその先。
 手に入れたものを永遠に愛玩したいという悍ましい支配願望がこの世界の柱だ。
 よって真実、これが開陳されたことで誰も彼と無関係ではいられなくなった。
 藪から伸びてきた無数の手が、あらゆる命をその内側へと引きずり込んだのだ。

 蛇は、英雄の問いには応えなかった。
 だが、万象を嘲笑する双眸は確かに彼を見据えていた。
 それはこの怪物が、子を失い慟哭する親を見る時のと同じ類の眼差しだった。



「『水子界・支配の蛇(ギャシュリークラム・ナーハーシュ)』」



 世界を呪う、忌まわしの銘が紡がれた瞬間。
 ルーは、全身が砕け散るような衝撃を知覚した。
 超高速で踏み込んできた蛇に一撃入れられたのだと理解した頃には、英雄はもうそこにいない。

 啓示が走った瞬間にはもう遅かった。
 超直感の攻略法、それは肉体が追い付く前に磨り潰すこと。
 眼球が裏返り、霊核に亀裂が入るのを感じながらルーは消し飛ばされた。

 単なる徒手空拳。しかしこれまでのどの攻撃より格別に効いた。
 その不条理の理由は、刹那で解するなど不可能なほどに荒唐無稽。
 己の身体を覆う肉の鎧が、あるべき強度をまったく失ってしまったように弱化したのだ。

 砲弾と化した英雄の激突に耐えきれず、蛇と少女の間を隔てていた高層ビルが崩壊する。
 舞い散る瓦礫の飛沫の隙間で、彼と彼女の視線が合った。
 動揺が恐怖へ染まる過程を、愉快愉快と笑覧しながら。
 世界を腹の中へ取り込んだ真の魔王が言う。

「みーつけた」

 世界が閉じる。
 運命が決まる。
 不確定要素の悉くが排除され、未来は急速に"そこ"へと向かう。

 作風(ジャンル)はとうに変わっている。
 約束された蹂躙劇が、推理劇の残骸を踏み越えて触腕を伸ばした。



タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2026年03月23日 02:16