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『――――なあ、大将よ』

 辟易した声で問う相棒に、詐欺師は視線だけで応えた。
 街は地獄絵図と化している。現在、聖杯戦争は既に最終局面。
 暴君・蛇杖堂寂句の脱落を契機として戦線は一気に加速した。

『あんた、これでよかったのか?』
『そうだな。どいつもこいつも此処まで野放図にやるとは思わなかったが、まあ想定の範囲内だよ』

 詐欺師の名前はノクト・サムスタンプ。
 彼はおよそひと月あまりの時間を用い、日本の首都を自身の箱庭に作り変えた。
 持ち前の策謀と、それを一二〇パーセント活かせる相棒との出会いが笑えるほどうまく噛み合った結果だ。
 都市は夜の虎に掌握され、本来舞台装置でしかない市井のすべてが彼らの武器と化した。

 が、敵も無策でやられるばかりではない。
 ガーンドレッド家を中心としてゲリラ紛いのテロ戦法が幅を利かせるようになり、今となってはこの有様である。
 燃える街。逃げ惑う人々。赤く染まった夜空には自衛隊のヘリが飛行し、恐らく魔術協会・聖堂教会両方の人材も相当数上陸しているものと推察された。

 この先の戦線では、得意の策などもはや通じないだろう。
 少なくとも、便衣兵如きに不覚を取ってくれるようなぬるい相手は残っていない筈だ。

『〈脱出王〉の狙いにタダ乗りする。野郎の目的は十中八九、ライダーの宝具による"聖杯の改造"だ』

 それでもノクトは、然程戦況を悲観していなかった。
 ひとつの計画に全賭けする策士なぞ二流。
 真の一流は常に想定外を想定しているから、失敗前提で幾つものプランを揃えているものだ。

 ガーンドレッドの阿修羅王(ボム)が本格投入された辺りから、彼は首都そのものが壊滅的状態に陥る状況を勘定に入れていた。
 己の策や手駒、せっせと築いた地位人脈が意味を成さなくなる社会崩壊。
 そうなったなら是非もない。まともな勝利は諦めて、寄生虫のように誰かの理想を食い荒らすまで。

『夜明けまでまだ三時間はあるからな。 
 日さえ落ちてるんなら、俺の五感で奴の気配は探し出せる。
 奴らに聖杯を見つけさせて直接制圧し、そいつでジエンドさ』

 〈脱出王〉は異常生物だ。
 職業柄、魔術師に限らず様々な超常能力者を目にしてきたノクトだが、あれほど常識外れな存在は他に知らない。
 彼らは聖杯へ辿り着くだろう。そしてライダー、ジャン・シャストルの宝具を使って聖杯を穢す筈だ。
 勝負の瞬間はその一瞬。夜限定の超人的スペックと、備蓄してきた全リソースを注ぎ込んだ集中砲火で願望器〈熾天の冠〉を奪う。

 とはいえ敵は変幻自在のトリックスター二匹。
 いつもの如く不測の事態が発生し、まんまと聖杯を穢されてしまう可能性もあるが。
 そうなったらそうなったで、ノクトとしては構わない。
 その時は契約魔術師として一世一代の大立ち回りをし、獣化した願望器をせしめるだけだ。
 クライアントの望みとは多少違った結末だろうが、手綱さえ握れるなら"願望器の獣"なんて存在、人でなしの魔術師達が魅力を感じない筈がないのだから。

『勝つのは俺だ。お前は何も不安を抱く必要なんかないんだよ』
『……はあ』

 自信に溢れた堂々たる宣言に、髑髏面の暗殺者は溜息を零す。

『そういうコトを言ってるんじゃ、ねえんだけどな……』

 幾度となく実感した、相互理解の破綻。
 ノクトの辣腕は、暗殺の総本山たる〈山の翁〉をして舌を巻くものだった。
 それだけならいい。だが、もう、そんな段階の話ではないのだ。

 この男は、気付いてもいないのだろう。
 一ヶ月前、東京の地を踏んだ己と。
 今此処で悲願の成就を目前にしている男が、似て非なる存在と化してしまっていることに。

『しかし、俺もちゃんと人間だな。こうなると欲ってやつが出てきちまう』

 燃える摩天楼を遥かの高みから見つめ、どこかうっとりと呟くノクト。
 出会った頃の彼は、間違ってもこんな顔をする男ではなかった。

『いっそのこと仕事は反故にして、個人的な願いを叶えちまってもいいかもな――――』

 契約のプロだからこそ、それを破り捨てる危険性は誰より熟知している筈。
 誰がどう見ても中身が捻れてしまっているのに、当のノクトに気付いた様子は見られない。

 ノクト・サムスタンプは狂っている。
 すべてあの少女と出会ったことが始まりだ。
 そこから彼は緩やかに壊れていった。
 癌が全身に転移していくように、萌芽した狂気に優秀な脳を喰われていった。



 ……この会話の一〇二分後、彼らアサシン陣営は光剣の露と消える。
 光り輝く主役の前にすべての策は灼き尽くされ、狂った詐欺師は"次"の目覚めを待つ燃え殻になった。

 うつつの世を狡く練り歩き、利害以外の何事にも価値を見出さない悪魔のセールスマン。
 そんな男が、執着を得てしまった。命も有り金も全部費やして、素寒貧になってでも手に入れたい他人(うんめい)を見つけてしまった。
 それが彼の狂気。内に秘めた〈渇望〉に従い、盲いたまま爪牙を振り翳す獰猛な肉食獣。


 彼もまた人喰い(マンイーター)。
 支配狂の蛇と並んで立つもう一匹のケダモノが、釣り上げた口角から酸性の涎を滴らせている。



◇◇



「ずぇぇえぇえああぁあああぁあ――――ッ!!」

 嘆きの青銅王、カドモス。
 抑止の尖兵、アンタレス。
 剛健の大将軍、エパメイノンダス。

 いずれも格では、目の前の英霊より明らかに上の豪傑達。
 そんな彼らに三騎がかりで臨まれているのだ、戦いの結末はどうあっても見えている。
 なのに今この瞬間、三騎の槍兵達が敵に対して抱く感情は完全に共通していた。

「どうしたァ下郎共! 君達の科す試練はそんなものか! 欠伸が出るぞ、うぅううぅうおおぉおおおおお――ッ!!!」

 なんだ――この男は。
 動きは小綺麗だが稚拙。
 型式に嵌り過ぎた、実用性に乏しいお利口の剣術だ。

 故にそもそも攻撃のほとんどを捌けていない。
 既に大小様々な傷を受けており、見てくれは明らかに満身創痍。
 なのに動きの衰える気配が一向に見られなかった。
 それどころか傷つけば傷つくほど、追い詰められればられるほど、底なしに力と速度が上昇しているようで。

「よくも! よくもぉッ! 僕をジュリエットと引き離したなァッ!
 彼女はあんなにも美しく輝いていたのに! 僕の助けを必要としていたのに!
 君達は許さないッ! ジュリエットが流した涙の分だけ、この剣が君達の血を啜り取ると知れェ!!」
「が、ぅ――!」

 超速の突きを受け止めたアンタレスの足が浮き、車に撥ねられたように吹き飛んでいく。

「邪魔だァァァァッ!!」

 追撃を阻むべく回り込んだ神聖隊の盾が、小蝿の如く片手で殴り砕かれる。

「誇りも風情も忘れた老醜共め! 恋することの美しさも知らない君達が、僕と彼女の愛を引き裂くなぞ片腹痛いぞ!!」

 一撃必殺を狙ったカドモスの槍撃にレイピアの切っ先を合わせ、点と点で鍔迫り合いながらその躍動を一寸も譲らない。

 英霊とは原則古ければ古いほど強く、存在として洗練されていく。
 そこに加えて無窮の域に手をかける無双の戦歴(レコード)の数々。
 幻霊に毛が生えた程度の霊基しか持たないロミオにとって、カドモスは本来打ち合うことも難しいような格上だ。

 が、そんな前提さえ覆す勢いでこの美丈夫は狂態と共に君臨していた。
 まるで人型の竜巻。剣の一振り、突きの一発毎に大気が捻れて爆発的な衝撃が迸る。
 カドモスは現状その猛攻を完璧に捌き切っていたが、その眉間には厳しい皺が刻まれている。

「貴様……どこの英霊だ?」

 目の前の英霊の真名には見当が付く。
 彼が世界的な悲恋譚の主役である以上、愛だの恋だのが力に変わるという巫山戯た理屈もあながち法螺ではないのだろう。
 しかしそれにも限度がある筈だ。
 弱小の英霊が神話の英雄を相手に正面から切った張った出来るようになる、そんな都合のいい宝具があるとは思えない。

 だからこそ不可解なのだ。
 現にロミオは今も戦線を成立させており、その上まったく息切れの気配を見せず出力を跳ね上げ続けている。
 際限というものがまるで見当たらず、謙遜ではなく事実として、己のスペックを追い越す未来が見えていた。

「――ヴェローナはモンタギュー家の長子、ロミオ・モンタギュー」

 サーヴァントが自らの真名を暴露するなど言語道断の愚行だが、彼の場合問題にもなりはしない。
 彼の骨子とは狂気。そしてそれを無二の力に変え、身の丈をどこまでも膨張させていく限界のなさ。

 相性? 知名度? 何だか知らんが僕(われ)の恋路を阻むというなら是非もなし、情熱のままに乗り越えてやろう。

「この胸に燃ゆる〈恋〉を果てなく貫く、ジュリエットの懐剣だ――!」

 恋する男に限界はなく、尊き愛は世界の理をも凌駕する。
 ロミオが抱く狂気を具現した宝具こそ彼のタフネスの正体。 

 『恋は盲目(ブラインド・アローレイン)』。
 その効果は極めて単純。"愛する者のために戦う時、ロミオは強くなる"。
 言うなればただそれだけで、それまでの宝具だ。
 しかしカドモスの疑念は正しい。現在この宝具は、明らかに本来では考えられない桁の力を彼に供給していた。

「……どう見る?」
「当機構は、あのバーサーカーについての情報を持ち合わせていません。
 その上で私見を述べさせてもらうなら――」

 エパメイノンダスの問いにアンタレスは息を切らしながら応えた。
 どこまでも強くなる。
 ひとつの目的のために、道理など雄叫びと共に薙ぎ倒す。

「神寂祓葉。この世界の忌まわしき神を、思い出します」

 奇跡のような理不尽を纏って果てなく駆ける、あの美しい恒星(カミ)のように。

 アンタレスの抱いた感想は、正解でこそないが、いい線を行っていた。
 ロミオは病的に惚れやすく、その癖恋に時間の概念を適用しない。
 出会って数分の相手にさえ命を懸けられるし、事実、彼が執心している現在のジュリエットも邂逅して二十四時間も経っていない新顔だ。

 彼が恋に狂うのはいつものことだが、今回だけは話が違った。
 より正確に言うならば、惚れた相手が問題だったのだ。

 今回の煌星満天(ジュリエット)は恒星の資格者である。
 神寂祓葉や天枷仁杜と同じ、世界を意のままに滅ぼす力を秘めた妖星である。
 ロミオは星に魅入られた。恋するままに宙へ手を伸ばし、酔い痴れながら灼かれていった。

 恒星の少女達に際限はない。
 万華鏡(カレイドスコープ)の如く姿を変え、感情のままに輝きを増す破滅の宵星。
 満天が星として育てば育つほど、それを特等席で見ていたロミオは想いをどこまでも募らせて。
 膨れ上がる恋情を『恋は盲目』が感知して、彼をどこまでも強くする。

 霊基が軋み、存在ごと罅割れようと何のその。
 恋の炎に魂さえ灼き焦がされるとしても、ロミオが臆することは決してない。
 その帰結こそが、現在カドモス達が相対している美しき恋狂いだ。
 恒星(ほし)に恋した男は限界さえ盲のままに忘却し、胸をこれでもかとときめかせながら、ただ為すべきことを為し続ける。

「さあ来いッ! 僕とジュリエットの恋(ものがたり)を鎖せると思うなら、この剣でその思い上がりを正してやろう!
 嗚呼、見ていておくれよジュリエット! たとえ遠く離れていても、僕と君が見つめる景色はいつだとて同じなのだからッッ!!」

 よってロミオは止まらない。
 カドモスの一撃を遂に跳ね除けて、寄せ来る剣/盾を斬り砕き、蠍の跳梁さえ彼が彼らしく振る舞うそれだけのことで寄せ付けない。

 彼はバーサーカー、恋の虜囚。
 限界を破却しながら天高らかに恋を謳う魔人の存在は、彼が友と呼ぶもうひとりの恋病患者にとって、実に都合のいい剣であり盾であった。



◇◇



「お? こりゃまた、乙な真似してくれたもんだな」

 魔術師は、暴れ狂う自分の英霊をよそに明後日の方向を見て言った。
 既に夜は明けているが、彼は大気に精通した術師であり、理屈では測れない先鋭化した本能を持つ狂人である。

「……何をよそ見してる。余裕じゃないか、ロクでなし」
「いや、こっちの話……でもないのかな。随分と気の利いたコトしてくれるもんだと思ってよ」

 黒鍵を構えて威嚇するナシロに微塵も臆した様子なく、丸腰のままへらりと笑う。

「月のカミサマは事なかれ主義らしい。
 運が悪いなお前ら。こりゃもう、本当に誰も出られねえぞ」

 蛇腔に呑まれ、渋谷東部の一定割合は異界と化した。
 元々脱出困難の鳥籠ではあったが、そこにもうひとつ不能の理由付けが追加された。
 月光のファイアウォール。堕落の女神はこの空間を、看過できない不浄の病原と看做したようだ。

 無論、そもそも中の人間を全員殺すつもりの彼には関係のないことである。
 むしろ好都合と言っていい。これでまたひとつ、インシデントの発生率が低下したのだから。

「あんた、蛇の使い走りか?」
「酷い言われようだな。ま、その認識も間違っちゃいねえ。俺としてはビジネスパートナーと呼んでほしいところだが」

 やはり、とナシロと河二が視線を交わし合う。
 蛇は狡猾だ。が、今なら分かる。ニシキヘビの真に恐ろしい点は、完全犯罪を構築する猪口才な手管などではない。
 殺人犯・神寂縁の真の脅威性とは、正體を暴かれたその時に顕れるなりふり構わない凶悪性。

 フーダニットもハウダニットも、蛇の前では無力な弱者の自己満足。
 化けの皮を剥がされたその時、そこにいるのは正真正銘のモンスター。
 その上悪辣な頭脳は据え置きだから、規格外の計算高さで最大出力の暴を叩き込んでくる。
 〈はじまりの六人〉。かつて現実の東京を地獄に変えた傭兵さえ、蛇にとっては便利な持ち駒のひとつに過ぎないのか。

 言うまでもなく、分水嶺だ。
 初対面だというのに確信がある。
 此処でこの男を何とかしなければ、自分達には暗い未来しか待っていないと。

「ノクト・サムスタンプ。貴方にもうひとつ問いたい」

 契約魔術師、奸計傭兵ノクト・サムスタンプ。
 夜の虎、非情の数式、貪食の詐欺師。
 彼の名を呼ぶ河二の視線は、ある一箇所に集中していた。

「その腕を……何処で手に入れた?」
「ん。あぁ、そうかそうか。そりゃ気になるよな、実家の家宝を赤の他人が持ってるんだから」

 右腕だ。精巧だが、河二には解る。
 解らない筈がない。ノクトの腕を肩と接いでいるのは、自分が装着しているのと同じ礼装なのだから。

「さっき知人の形見分けをしてきてな。蛇杖堂寂句って知ってるか?」

 生体義肢――『胎息木腕』。
 世界中を探せば同種の礼装は幾つか存在するが、高乃家が代々製法を口伝するこの逸品は中でも格段に質が高い。
 河二の父の先代か、先々代の当主を通じて暴君が入手、備蓄していた木腕が、巡り巡ってノクトの失った右手を補っている。

 当然、河二としては悪趣味な皮肉をぶつけられた気分だった。
 自家の秘伝が、仇の共犯者に我が物顔で使われているのだ。
 率直に言うと不快を禁じ得ない。そんな感情が伝わったのか、ノクトはへらりと笑って肩を竦めた。

「顰めっ面してる場合じゃねえだろ。今のは驚くところだぜ、"あの蛇杖堂寂句が死んだのか"、ってよ」
「――ッ」
「オーケーオーケー、そのレベルね。良かったよ、思ったより楽に済みそうだ」

 反応を見るに〈はじまりの六人〉、並びにこの世界の成り立ちについては知っているようだが、どうにも危機意識が浅いようだ。
 或いは出会ったのがイリスやノクトのような、未成熟な狂人達だったのか。
 そうでなければ、蛇杖堂寂句が死んだという特大のゴシップより私情を優先するなぞ有り得ない。
 これを以ってノクトは、眼前の少年少女、蛇の遺族達の人物評価を完了する。

「……舐められたもんだな。見ての通り、こっちにはまだサーヴァントが控えてるんだぞ」

 ナシロに促されるまでもなく、ふふんと笑って前に出たのはアサシン・ベルゼブブ。もといその候補生。

「やってやれ、アサシン。遠慮することはない、今回ばかりは手加減無用だ」
「あいあいさー、です」

 黒髪のちいさな童女。
 本来恐ろしさとはまったく無縁に思える彼女を中心に、無色透明の闇が広がっていく。

 闇の名は恐怖(fear)。ヒトが脳の裡に飼う普遍的生存本能を喚起する悪魔の威圧。
 英霊も気圧される蝿王の羽音に、ノクトさえ眉を引き攣らせた。
 目に映る情報とはまったく意味合いを異にする、言語化不能の悪感が背骨まで凍り付かせる。
 魔術師であれ俗人であれ、この"恐怖"を前に正気を保つことは不可能だろう。

「頭が高いですよ、人間。それしきの浅い悪意で、何を気取った顔をしているんです?」

 寄生蝿のベルゼブブが、一歩前に歩み出る。
 ノクトは退かない。しかしその頬を伝う汗が、"効いている"ことを示していた。

「さあ、跪きなさい。そして頭を垂れなさい。そしたら、今なら最悪の結末だけは勘弁してあげますよ」

 ジョージ・アームストロング・カスターとの交戦を経て、どういうわけか彼女の性質は強化されている。
 種が割れても尚心胆を寒からしめるほどの、より悪魔らしい威容を放つことが可能となった。
 だからこそ、精神感応に強力な耐性を持つ六凶にさえこうして鳥肌を立てさせる。

 くすりと笑って右手を差し出す、悪魔(ベルゼブブ)。
 さあ、跪けと。頭を垂れ、屈服を誓えと。
 その姿は、かつての彼女と似ているようでどこか違う。

 深淵の底と現世を通じる蓋が開いたような。
 隠り世にて見守るナニカへ繋がる道が拓けたような。
 誰かの破滅へ連なる虫の霊園が啓けたような。
 そんな恐怖を前に、魔術師は天を仰いだ。
 されどその顔に浮かぶのは、歯を剥いた獰猛な笑みで。

「――交渉だ。月女神の眷属よ、こいつに目通し願いたい」
「……、はっ?」

 思わず零したのはヤドリバエだったが、河二もナシロも思ったことは同じだったろう。
 何を言っている。いや、何をしているのだ、この男は。
 取り出した丸めた紙を、非堕落因子粛清のため殲滅攻撃の装填を行っている上空のワルキューレ達へ投げ上げるノクト。
 呆気に取られた故の沈黙を、最初に破ったのは河二だった。

「まずい――撃ち落とせ、アサシンッ!」

 雪村鉄志曰く、ノクト・サムスタンプは交渉に長けた傭兵であるという。
 彼を前にしては、会話をすることさえ厳に慎むべき。
 嚇炎の悪鬼から探偵へ、探偵から彼らへと伝えられた情報。
 それが目の前で行われた奇行と結びつき、ある最悪の可能性を浮かび上がらせた。

 ヤドリバエが慌てて光弾を射出する。
 ノクトではなく、彼の投げた紙を目掛けて。
 しかし遅い。既に紙片は、月の白血球へと渡ってしまった。

「見ての通りだ。俺ことノクト・サムスタンプは、明日の零時零分まで、月陣営への介入行動を一切行わない。
 更にこの固有結界が解除されるまでの間、おたくらが言う非堕落因子とやらの掃討に協力する」

 サムスタンプ家の秘伝は契約魔術。
 彼が行使する以上は口約束でも凶悪な重さを担保するが、約定をより確固にできる証文があれば効力は更に増す。
 ノクト自身も交わした契約に強く縛られるものの、それは相手方も同じ。
 まさに此度の商談相手のような、生半なことでは誘導も敵わない手合いに対してのみ用いる、虎の子である。

「対価としてあんた達にはこの領域内での俺、そして俺が使役する使い魔に対する攻撃行動の自制を求めたい」
『不可。非堕落因子〈ハードワーカー〉との交渉権限は与えられておりません』
「なら上に聞いてくれ。俺はあんた達の高尚な思想に共鳴して、こうして胸襟開いてんだぜ?」

 女神の幻術で再現された戦乙女達はまさに白血球、主人の意向に従い続ける機械のようなものだ。
 この返事が返ってくるのは読めていたし、ノクトはそれ前提で行動している。

「今は仕方なくこうしてあくせく働いてるが、本当はさっさと楽になっちまいたいんだよ。
 だけど働き者達の掃討が下手くそなあんたらのために、わざわざ骨身を削って取り組んでんのさ」
『――――』
「分かったらさっさと上に繋げ。出来ないのなら、現場判断による意思決定を求める」

 話は戻るが、月の女神が蛇腔を隔離してくれたのはノクトにとって予想外の展開であった。
 女神・天枷仁杜とノクト・サムスタンプは相性が悪い。
 直接対峙しなくても分かることだ。現実を見ず、いつだって自分の感情がすべての堕落者は、どんな甘言でも方向性を誘導できない。
 蛹だった頃の仁杜ならいざ知らず、完成してしまった井蛙の恒星にノクトは何もできないも同然である。

 だからこそ、その領地に涌いて出る御遣い達は厄介な障害物だった。
 しかし女神が蛇腔一帯の管理を放棄したことにより、哀れ彼女の尖兵は手綱を切られた野鳥の群れと化したわけだ。
 月とのパスが切れている今ならば、契約をねじ込む隙がある。

 口にした哀れがましい科白は当然嘘八百。
 提示した条件も、端から月の対処を丸投げしている彼にはまったくのノーリスク。
 非堕落因子の粛清という単純な命令のみを入力された幻術の下僕達は、ノクトにとって赤子も同然の相手だ。

『……主神との交信を開始――失敗。
 月姫真体・堕落恒星(ムーンセル・オートマトン)との回線断絶を確認。
 緊急事態と判断し、現場判断による請願への対応を行います』

 本物の幻想種はもっと狡猾で理不尽。
 善悪の概念が存在しない敵とは即ち形を得た自然災害に等しく、故にサムスタンプ家は彼らの直接使役をタブーとしてきた。

 だが目の前の"御遣い"共は違う。
 彼女達は月の防衛システム。
 女神の楽土の維持という明確な大義を帯びて行動している。

『――回答構築完了。
 ノクト・サムスタンプの助力は非堕落因子の掃討に有用と判断。契約を受領します』

 だから分かりやすいし、読みやすい。
 どう誘導すれば乗ってくれるか、手に取るように分かる。

「助かるよ。意気揚々と出てきたのはいいが、骨の折れる仕事なのは事実なんでね」

 提示する利益は支払わせる対価より多く提示し、自分は敵ではないのだと理解してもらう。
 その上で適度に恫喝を交えて逃げ場を奪い、早急な選択を迫らせる。
 いつものやり口だ。ノクトに言わせれば初歩の初歩と言っていい。

「ガキ共は俺が狩る。お前らは英霊共を、とにかくこっちに近付けさせるな」
『要望を受諾。これより、戦闘行動を再開します』

 間合いまで踏み込んできた河二の一撃をいなしつつ、バックステップで下がり。
 ノクトは余裕綽々と、空から降り注ぐ光槍の雨を見る。

「さあ大変だ。気張って凌げよ? たかが雑兵、されどお月様の御遣いだ。人間にはミサイルの直撃と変わらねえぞ」

 一体一体は、標準的なスペックを持ったサーヴァントなら容易く倒せる雑輩に過ぎない。
 しかし問題は数と、それに飽かした破滅的な物量。
 この場に揃っている三体のランサークラスが対処するのが最も適当だろうが、彼らは怒り狂う恋の虜囚の対処に奔走中だ。

「わ、わわ――っ!? ちょ、やば……っ、どうするんですかこれ――!?」
「オロオロするな! 当てられないなら手数で迎え撃てばいい!」

 よってノクトが御遣いを手懐けた事実は、ナシロ達にとって非常に具合の悪い展開を生み出した。
 頼りになるのはヤドリバエのみ。
 ナシロの叱咤を受けて、彼女はわたわたと慌てながらも両の掌に光弾を装填する。

「うぅううぅ、えぇいもうどうにでもなれです! てぇりゃあああああッ!!」

 代々木公園で見せたのと同じ、なりふり構わずの乱射で空からの脅威を迎撃する寄生蝿の悪魔。
 あの時は陸上だったが、幸い今撃つ先は空。
 フレンドリーファイアの心配はなく、その頭抜けた威力と手数は御遣いの飽和攻撃を相殺する得難い役目を果たしてくれた。

「っ――く――数が、多すぎて――!」

 とはいえ、未だ成長途中の彼女ひとりで捌くには荷が重い状況なことは変わらない。
 質量とエネルギーの等価性を完全に無視した月女神の幻術は、燃料切れという概念と根本的に無縁である。
 よって相手の残弾は無尽蔵。ヤドリバエはそれを捌くため、休みなく両手を使い続ける羽目になる。
 御遣い達も馬鹿ではない。乱雑な射撃を掻い潜りながら、死角を縫う形で槍を投げ付け本陣の撃滅を図るのは当然だ。

 しかし。

「っ……!」
「――アサシン!」

 それを守るように、浮遊する盾と剣の陣形が構築された。

「落ち着け。俺も出来る限りサポートする」
「ラン、サー……」
「ナシロちゃんを守るんだろう。
 いつもみたいに自信過剰に、悪魔らしく撃(や)ってやれ!」

 エパメイノンダスの神聖隊だ。
 響く激励は、漂い始めた絶望感を打破する鬨の声。
 悪魔が人に勇気づけられる、というまったく皮肉なシチュエーションにヤドリバエが抱くのは率直なむかつきだったが。

「――誰にモノ言ってるんですか!」

 胸の感情にとても素直な子どもには、こういう発破が一番よく効く。
 悪魔を悪魔とも思わない大将軍と、乱造品の雑魚如きにオロオロしていた自分の体たらくに腹を立て、ヤドリバエは売り言葉に買い言葉で叫んだ。
 カスターとの交戦から覚え始めた奇妙な既視感と、それに伴って自己の内界に滲み出したナニカ。
 それをすっぱり忘れ去り、愛の戦士達に援護されながら、ナシロ達の防衛線として奮迅する。

「下のことは知りませんからね、ナシロさん! あとコージさんも!」
「ああ!」
「iPhone買ってくれる約束、フイにしたら酷いですからね!!」
「分かってる。頼りにしてるぞ、アサシン!!」

 天からは裁き。地からは悪意。
 あるべき善悪のカタチを逆転させて、場の均衡は繋ぎ止められた。
 その光景を見つめながら、ノクトは肩を竦めてくつくつと笑う。

「珍しい英霊を連れてるようだな。まがい物の悪魔とは」
「悪いがあんたとは話したくない。好きに受け取れよ、詐欺師野郎」
「そうさせて貰うよ」

 せっかく増やした眷属は代々木公園で大半吹き飛ばしてしまい、残っているのは今や一体。
 蝿の頭と羽根を持った"いかにも"な異形が、ナシロを守るように傍へ控えている。
 それを見てノクトが、一体どれほどヤドリバエという英霊の情報を読み解けたかは彼のみぞ知ること。

 ともかく、戦端は三つに分散された。
 一つはロミオと、槍兵三騎による最前線。
 二つは月の御遣いと、神聖隊に守られたヤドリバエの空中戦。
 そして最後がノクト・サムスタンプと、高乃河二、琴峯ナシロによる後列戦だ。

「琴峯さん。君は――」
「下がってろ、なんて言うなよ。
 あのな、私はお前のジュリエットじゃないんだ」

 エパメイノンダスの辣腕を以ってしても、この状況で河二達を守り切ることは容易ではない。
 死をも恐れず暴れ狂うロミオが、万一にでも彼らのところへ到達してしまうのが一番の最悪だ。
 よって早急に討伐するのが求められるが、ヤドリバエだけでは御遣いすべてを相手しきるのは不可能。
 恋の狂戦士の調伏と、神聖隊によるヤドリバエのサポート。その両方を果たさねばならない以上、エパメイノンダスもキャパオーバーだ。

 つまりノクト・サムスタンプ個人への対処は、どうあっても河二とナシロで行わねばならない。
 もし此処にいるのが楪依里朱のような超級の魔術師であったなら、間違いなく詰んでいただろう。

「戦るんなら、ふたりでだ。
 任せるから、任せてくれ。
 対等ってのはそういうことだろ?」
「……すまない」
「謝んなよ。私だって覚悟はしてたさ」

 拳を構えた河二に倣うように、両手の指の間に収める形で武器を投影するナシロ。
 黒鍵。代行者(ちち)の背中。魔を討ち正しきを保つ、異端殺しの爪。
 カドモスの領域に触れたことで材質の強化された、青銅製の黒鍵を生み出して臨戦態勢を取る。

「蛇の前座だ。軽く片付けちまおう、高乃」

 襲い来るは〈はじまりの六人〉、渇望の狂人。
 悍ましき蛇へと続く闇路に立ち塞がる、最後の障害物。

「妬けるねぇ。見せつけてくれるじゃねえの」

 ヒトの未来を喰い潰して嗤う、夜の虎。



「その調子で、どんどん魅せてくれると助かる。お前らの食いでをな」



◇◇



 内丹術。
 それは森羅万象、天地万物に偏在する気を活性化させ、己が心身の超越を以って道(タオ)との調和を目指す修行体系である。
 道との調和とは即ち宇宙との合一。悟りを開くように世の真理を識り、大いなる渦への到達を目指す吝嗇の研鑽。

 その基礎とされる、呼吸により気を取り込む修行法。これを指して"胎息"と呼ぶ。
 『胎息木腕』は読んで字の如く、その工程を円滑化させるために製作された礼装だ。
 いずれ自己を宇宙に挿げるなら、事前に器を整えておくに越したことはない。
 河二の遥かな先祖はそう考え、生涯を費やして木腕の製造を可能とした。
 そうした永い永い試行錯誤の末に、現在の高乃家は、高乃河二は存在している。
 そして今。彼の前に立つ魔術師は、高乃の積み重ねてきた歴史を一顧だにもせずに、我が物顔で木腕を弄んでいた。

「なんで俺がこいつを動かせるか、不思議か?」
「……隠さず言うなら、そうだな」
「一応断っとくが、実はお前の縁者だとかそういうオチはないよ。
 俺は傭兵でな。世界各地を渡り歩く中で、まあ色々と齧ってんだわ。
 覚えとけよ若人。人生は経験したもん勝ちなんだ」

 正しい呼吸法を行えるなら、木腕は大気中を漂うマナを効率よく吸収し、魔力に変換して装着者に届ける炉心と化す。
 道具は使用者を選ばない。たとえ装着しているのが伝統も誇りも無粋に笑い飛ばす商売人だったとしても、齎す結果は常に平等だ。

「来いよ。胸を貸してやる」

 ノクトの武器はその頭脳と、戦場を渡る中で吸収した総数膨大な"小手先"。
 人生経験のすべてが彼の武器。高乃河二とノクト・サムスタンプの間には、重ねた年月の分だけ差がある。
 傲慢に言い放つ詐欺師を前に、河二は肺腑に蟠ったものを呼気に混ぜて吐き出した。

「せっかくの誘いだが、遠慮させて貰う」

 それは、怒りの代償行為ではない。
 己を己として動かすための呼吸法(ルーティーン)。
 高乃河二はこの状況にあって尚、自分でも驚くほどに冷静だった。
 彼は怒っていない。苛立ってすらいない。脈打つ胸にあるのはただ、師父がくれたすべての薫陶への感謝のみ。

 ――胸を貸す。
 ――そう云ったか、ノクト・サムスタンプ。

「対峙して解った。貴方は素人同然だ、ノクト・サムスタンプ」

 ならば思い上がりも甚だしい。
 おまえは、胎息の何たるかを何も分かっていない。
 そう一蹴するように、高乃河二は疾風(かぜ)となった。

「ぐ……!?」
「呼吸が浅い。酸素の伝達が遅い。他人に教授できるほど思い上がったつもりはないが、率直に、付け焼き刃と言わざるを得ない」

 放つ拳撃は、河二自身でも驚くほどに澄み渡っている。
 エパメイノンダスとの修練で磨かれた冴え。
 復讐という選んだ道の、行き先が見えたことによるかつてないモチベーション。
 その両方が合一して、若き道士をキャリアハイに押し上げていた。

 だがノクトもさる者だ。
 当然防ぐし、隙あらば捌いた上で急所を狙わんとしている。
 理解った上で、河二はそれをさせない。

「そも、『胎息木腕』は両腕で使うものだ。
 ただ道具として用立てるのではなく、目指す道に一生を捧げる覚悟を持って取り付けるものだ。
 近道ばかり選びたがる貴方のやり方では、木腕の真価はどうあっても引き出せない」

 などと語ってはいるが、何でもありの土俵で敵わないことは重々承知だ。
 故に選ぶのは速攻。
 何もさせず、目論ませず、嵐のように打ち込んで叩き潰す。
 一対揃った木腕による拳雨(ラッシュ)で、策士に策を練らせることさえせず押し切る方策を講じた。

 斯くして河二は、初手からノクトの算段を崩す。
 よもやこれほどの使い手とは、と、認識を改め切るのも待たずにひたすら攻め立てる。
 武人としては無粋、無格好極まりない在り方なれど、その手の事柄に河二は頓着しない。
 才が無かれど己は魔術師。亡き父の無念を晴らすと決めた復讐鬼。
 なれば何故、取る択を選ぶ道理があろうか。清濁併せ呑むと決めたならば、そこをブレさせるのは自分自身への不実である。

「語るじゃねえか。師範ヅラをするにはちと若すぎるぜ、青二才!」
「無論、承知している。だからこそ、僕も手段を選ばない」

 冷や汗を流しながら猛烈な拳打を捌き、歯を覗かせて言うノクトに、河二の応答は冷ややかだった。
 言葉が紡がれ切るかどうかのタイミングで、青銅の黒鍵が矢継ぎ早に投擲され、彼の逃げ場を潰しにかかる。

「そういうことだ。あんたの言う通り、こっちはまだまだガキなんでな」

 代行者の娘、琴峯ナシロ。
 彼女の父は娘が平穏な世界で生きることを望んでいただろうが、異端狩りの才覚は恙なく遺伝されていたらしい。
 まともな戦闘はこれが初めてであるにも関わらず、ナシロの投擲は恐ろしいほど的確であった。
 日々惜しまなかった鍛錬と、親譲りの戦闘センス。それらが噛み合って、彼女の初陣を華々しく彩っている。

「あんたにはこれ以上何もさせない。私も、河二も、お前らにはずっとムカついてるんだよ」
「そりゃいい心がけだ。出来るか出来ないかは置いといて、立派な志過ぎて涙が出るぜ」

 が、それでもノクトの手練れぶりの方が光る。
 夜が明け、契約の恩恵を受けられない彼の交戦能力は楪依里朱のように隔絶したものではない。
 にも関わらず磨き抜かれた技巧と智慧を駆使して、最低限の魔術で少年少女の挟撃を捌いてのける。

 旋風を攻防一体の陣として、河二の攻勢を途切れさせつつナシロの投擲を防いだ。
 深く呼気を吐き出し、刹那、今度は付け焼き刃の謗りを払拭するように自ら打ち込む。

「はァ――ッ!」
「……!」

 今度は河二が瞠目する番だった。
 確かに、木腕の使い手としてノクトは素人に毛が生えた程度。
 彼の兄や亡き父が見たとしても、下す評価は同じだったろう。しかし。

「ご指摘を受けて改善してみたが、これならお眼鏡に適うかい?」
「ち……ッ」

 いざ繰り出されたノクトの拳は、河二をして一瞬死を想起するほどのもの。
 速い。重い。エパメイノンダスの稽古を受けていなければ、果たして初見で凌げたかどうか。
 だが河二を真に驚かせたのは、ノクトが行う胎息の深度が目に見えて向上している点だった。

「いけ好かないオヤジの吠え面でも見たかったか? ならアテが外れたな。俺からしたらありがたいことこの上ねえよ」

 正式な鍛錬を受けたわけでもなく、おまけに片腕のみの装着。
 だというのに最初の印象とはもはや別人レベルに、気の練り上げが高効率化されている。
 それは紛れもなく、ノクト・サムスタンプが内丹術的に正しい呼吸を行えている証左だった。

「頭を下げて頼むまでもなく、優しい先輩が勝手に手ほどきしてくれるんだ。利用しない手はない」

 ノクトは、河二の動きを教材にしている。
 彼は本場の道士、胎息のイロハを目の前で体現してくれるインストラクター。
 覚えた怖気は、これまでこの傭兵と関わってきたあらゆる人間が抱いたのと同種だった。
 自分自身の中身、能力、人生――そうした無形の概念を生きながら貪られていく本能的嫌悪感。

「どうした。ちょっとは笑えよ」

 白々とした牙を覗かせて口角を上げたその顔は、まさに悪食な虎のよう。

「形だけでも強がらねえと、すぐに潰れちまうぞ?」
「ッ――ぐ、お……!」

 次いで、先の意趣返しのようにノクトの拳が嵐と化す。
 河二が抱く既視感は気の所為などではなく、昨日の昼間に彼が遭遇した窮地に起因している。
 雪村鉄志だ。対魔逮捕術という"魔術師殺し"を修めたかの探偵を彷彿とさせる、一方的な制圧に究極特化した戦闘論理。

 ノクト・サムスタンプが揮う武術に流派はない。
 彼は独学にて、特務隊が開発し汎用化させたのと同じ境地を体得していた。
 が、脅威度で言えばこちらの方が一段上を行く。
 何故なら彼の拳は、文字通りの意味で嵐を巻き起こせるのだから。

 幻想種・大気の精から貸与された、風を操る魔術。
 ノクトはこれを用いて、自身の拳闘に強烈な剛風を付与(エンチャント)している。
 傭兵の格闘能力。胎息木腕による高効率の自己強化。そして速度と重量を底上げする風力のブースター。
 以上にて成る三位一体。夜の彼には遠く及ばねど、これだけ要素が揃えば十分に凶悪無比な戦闘魔術師として君臨できる。

 打つ。打つ。打つ。打つ。
 戦いが成立していたのは最初の内だけで、すぐに河二は魔術師のサンドバッグと化した。
 今や攻めているのはノクトのみ。毎秒のように肉が、木が軋む音が痛ましく響き、ともすれば何処かの骨も砕けていたかもしれない。

「高乃!」

 故にナシロは、判断を迫られる。
 自分も近接で彼のサポートをするべきか。
 このままでは河二は、為す術もなくあの魔術師に削られていくだけだ。

 しかしすぐに気付く。
 河二は打たれながら沈黙していたが、その顔は死んでいない。

「――、――」

 少年はただ、目の前の男を見ていた。
 奇しくもそれは、ノクトが彼を視ることで、胎息の冴えを増させ続けているように。

 問おう、魔術師。この技に、覚えはあるか。
 幾度となくそう問うてきた。
 復讐の道を志すと決め、父の仇を必ずや討つのだと自己を奮い立たせてきた。

 この二十四時間足らずで、死を覚悟することは何度もあった。
 魑魅魍魎の如き英霊達はいつだって河二の想定するスケールを超えていて、繰り広げてきた綱渡りは思い出すだけでも背筋が凍る。
 だが今目の前にある死は、此処まで経験した中で最も濃厚な存在感を放っていた。

 死は恐ろしい。
 しかしそれ以上に、此処で終わってしまうことが恐ろしい。
 人を喰う蛇。悪意の魔王。穢れた殺人鬼、藪の中の〈ニシキヘビ〉。
 人生を懸けて果たすと決めた宿願の到達点がすぐそこにあるのに、自分は今、その手前で力尽きようとしている。
 獰猛な悪食の虎に喉笛を噛み砕かれ、臓物を貪られながら感じる失意はどれほどのものだろう。
 歯が震えるほど恐ろしく思うと同時に、家族を遺してひとり死に果てた父の心境に想いを馳せてしまう。

「――――悔しかったよな、父さん」

 知らず呟いた声には、この冷静沈着な少年らしからぬ、硝子細工のような繊細なエモーションが籠もっていた。

 父は、どれほど無念だったろう。
 魔術師でありながら、人の優しさを決して忘れず、自分達を薫陶してくれた偉大な父。
 子の成人も見られず、先祖代々追い求めてきた悲願も果たせず、野垂れ死にのような末路を辿ってどれだけ悔しかったろう。
 今ならその一片くらいは理解できる。死とは可能性の断絶だ。あったかもしれない未来を軒並み鎖す、氷のように冷たい"終わり"なのだ。

 死にたくない。そう強く願う。
 強く願って、拳を握る。
 叩き付けられる鈍痛を、奥歯が砕けそうなほど食い縛って耐える。

 善なるものには善なる因果を。
 悪なるものには悪なる因果を。
 そういう仕組みで世界が廻っていることを、荒唐無稽だとしても信じていたい。
 今この瞬間もそれは同じで、なればこそ、河二は改めてひとつの答えを得た。

 この恐ろしい、泣き喚きたいほど哀しい終わりを、欲望のままに振り撒いてきた生き物が居る。
 ああそんなもの、断じて許せるわけがない。
 命を命とも思わず、人を人とも思わない怪物。その悪因を、悪果を以ってこの美しい世界から放逐しなければならない。

「でも、大丈夫だ。僕が父さんの志を引き継ぐから。だからもう少しだけ、そっちで見ててくれ――」

 気を抜けば途切れそうな意識は、少年の眼を虚ろにしていたが。
 優しい声音で紡いだ此処にいない誰かへの言葉は、不思議と単なる世迷言で片付けられない強さを帯びていて。

「魔術師」
「あ?」

 そんなトーンが、コインを裏返したみたいに一瞬で切り替わる。
 河二を刈り取りかけていたノクトの眉が、引き攣るように動いた。
 次の瞬間、コォォ、という深い呼吸音が凛と響いて。

「退け。貴方に用はない」
「ッご、が……!?」

 嵐の如き拳打の間を縫ったクロスカウンターが、虎の喉笛を打ち抜いていた。

 これが夜のノクトなら、河二程度の膂力では何の痛痒も与えられなかっただろう。
 しかし今の彼は生身。膨大な場数と殺しへの才覚を持つ名うての傭兵だろうと、人である限りは急所の存在から逃れられない。
 断絶する呼吸。それだけでも致命的だが、蛇杖堂寂句に奪われた右腕を『胎息木腕』で代用しているノクトには単純な酸欠以上の意味を齎す。

 ――胎息の途絶である。
 廻る呼吸の経路(パス)が途切れれば、木腕の自己強化も当然その時間分だけ停止する。
 当然、河二はそれを知っていた。父から口を酸っぱくして言われていたことだからだ。
 "喉への攻撃だけは、常に最大限に警戒しなさい"――なら同じ木腕使いが敵に回った時、何処を突くべきなのかは自明。

「仇を見つけた。神寂縁、悍ましき蛇だ。他人の涙を啜り、未来を糧に我欲を満たす"悪人"だ」

 隙を晒したノクトは苦悶を貼り付けたまま、風のヴェールを全身へ纏わせる。
 近接格闘にターンの概念はない。自分がペースを握っている間はいつまでも攻め続けられるし、逆に奪われたら無制限の被弾が待っている。
 不覚を取ったことは仕方がない、小僧にしてやられた屈辱に噴飯するほどの矜持もないのだ。
 ならば罰金の徴収を少しでも軽微に収めつつ、次の好機を覗うのが賢明。その判断は正しかったが、しかし。

「誰かがその悪を懲さなければならない。そうでなければ、僕達はこの世界で笑えない」

 抉るように打ち込まれた河二の正拳は、ノクトの想定を二段は上回る鋭さと重さを秘めていた。
 肺が裏返る。胃液が逆流してまだ痛む喉笛の辺りまでせり上がる。
 防護魔術という保険を信用していたことが、彼の動揺に拍車をかけた。
 要するにノクト・サムスタンプは、高乃河二がこれほどのレベルだとは露ほども思っていなかったのである。

(このガキ……何処まで……ッ!)

 エパメイノンダスとの鍛錬が日課になって一ヶ月、河二という道士/武人は針音都市の大地を踏む前とは比較にならないほど強くなっている。
 生半な拳では将軍の眼鏡に適わないし、彼の厳しい採点を超えようと思えば必然、小手先ではない地力の底上げが必要だった。
 人の師と英霊の師、二人の類稀なるメンターに恵まれた少年。
 だがそれだけでは、既に一度彼の拳(わざ)を視ているノクトが驚嘆する理由の説明にはならない。

 合理に生きる冷血漢。他者の感情を理解は出来ても、自らでは持ち得ない男。故に付いた異名は"非情の数式"。
 奪われ、嘆き、残された平凡な幸福を棄ててまで魔の道を選んだ少年の執念は――その計算を超えて魅せる。

「僕達が明日の世界で微笑むために――」

 木腕が魔拳と化す。
 捻れ飛ぶ風は河二の義肢を痛々しく切り裂いたが、構うものかとそのまま前に突き出した。

「――邪魔をするな、ノクト・サムスタンプ!」

 心臓が揺れる。肋骨が砕け、血混じりの胃酸が唾と共に宙へ舞った。
 こうなると、ロミオを英霊達の対処に回したことが完全に裏目となる。
 多勢に無勢の戦況を解消するには致し方のない措置だったが、逆にノクトの側が暴力装置の行使を抑止されてしまった形だ。

 加えて、上空の戦場が思ったよりも手堅く抑えられていることも災いしていた。
 今も上からは『とぉぉりゃぁぁ――!』と気の抜けるような掛け声と共に、凄まじい爆発音が連続して付近一帯を揺らし続けている。
 宿り蝿のベルゼブブは神聖隊に護衛されながら最善の仕事を果たし続けており、折角契約した御遣い達の援護射撃がほとんど届いていない。

 強いな、と、ノクトは皮肉抜きに評価を下す。
 飛んできたナシロの黒鍵を木腕で捌くのも憚られた。
 複製品とはいえ、杉並を支配する青銅王の神秘が宿っているのだ。
 万一にでも木腕を破壊されたら残るのは手負いの隻腕傭兵、この布陣を相手取れるとは到底思えない。

「……前言撤回だな。こいつはなかなか、不味い仕事になりそうだ」

 零す言葉は苦労人じみていたが、それを睥睨する河二もナシロも、微塵も気を緩めてはいなかった。
 敵は〈はじまりの六人〉、その中でも特級に部類される危険人物。
 容易く制圧できる筈がないし、この男の底がこんなもので済むわけがない。
 その予想は次の瞬間、あっさりと的中することになる。

 ノクトの顎が動き、口中からガリリと何かを噛み潰す音がした。
 咄嗟に危険と認識したナシロが投擲した黒鍵が、彼を中心に生まれた風域に絡め取られる。

「んなっ……!?」

 驚愕するナシロ。しかしその目は風陣を展開したノクトではなく、その頭上に向けられている。
 ノクトが右腕を掲げていた。そこは戦乙女飛び交い、悪魔舞い踊る神秘の空戦場。
 腐敗色の空が、目に見えて分かるほど巨大な気流に掻き乱されていく。

「酒なら兎も角、薬に頼るのは趣味じゃないんだが。そうも言ってられねえわな」

 帰る者のいない蛇杖堂邸にて回収した、魔力増強剤のアンプル。
 奥歯に仕込んでいたそれを噛み砕いたことにより、これより一時的にノクトの魔術は規模と威力が底上げされる。
 所詮はドーピング、反動ありきの劇物だ。
 この計算高い男にそんな代物を使わせた事実は称賛に値するのだろうが、何の慰めにもならない。

 平時の倍以上の規模で行使された大気操作の魔術が、ヤドリバエによって維持されていた空の均衡を掻き混ぜる。
 御遣い達も少なくない影響を受けるものの、負担の大きさは防衛を任としている側の方が大きい。

「ぅ、わ……ッ、これ、まず……!」

 飛行の軌道を乱されたのもさることながら、彼女を援護する神聖隊の連携にもズレが生じる。
 そこに降り注ぐ、まったく衰えを見せない幻術神槍の流星群。
 ヤドリバエも懸命に迎撃していくが、防衛網を潜り抜けて地上に届く弾道弾(ミサイル)が出るのは避けられなかった。

「ナシロさん! コージさん! ごめんなさい、全部は無理です――!」
「あぁ、分かってる! やれるだけでいい、こっちはこっちでどうにかするッ!」

 言うは易い。しかし現実問題、これで脅威の度合いは一変した。
 着弾した槍が大地を抉り、そこかしこに無慈悲な破壊の痕を刻んでいく。
 黒鍵を限界数まで握り、ナシロは迷わず走った。
 もはや迷っていられる段階ではない。足手纏いになるかもしれないだとか、女々しい心配をしていられる余裕はたった今無くなったのだ。

 ――敵手を見据えて立つ復讐者の隣に、代行者の娘が並び立つ。
 彼らは共に奪われし者。醜悪な蛇の欲望に、人並みの"しあわせ"を奪われた比翼連理。

「……琴峯さん。今度は、僕からもお願いさせてくれ」

 高乃河二。琴峯ナシロ。
 揃って挑むは、ノクト・サムスタンプ。
 局地的な天変地異を引き起こしながら、暴風域の中心で嗤う敵は卑劣なる猛虎。

 先程ああも打ちのめしてやれたことがまず奇跡。
 そして奇跡とは、押しなべて長続きしないものだ。
 敵が本気になった以上、此処から始まるのは熾烈な現実。
 ナシロは、河二ひとりには任せられないと判断したし。
 河二の考えも、彼女とまったく同じだった。

「助けるから、助けてくれ。琴峯さん」
「言われるまでもない。一緒にやるぞ、高乃」

 思えば、此処までなんとも短い付き合いだ。
 時間にして一日未満。なのに、命を預け合うことに毛ほども躊躇いはなかった。

「心が痛むぜ。夢見がちなガキに現実を見せるのは、いつも胸が張り裂けそうになる」

 猛虎の操る暴風の中、負けじと前に踏み出して。
 木腕と黒鍵、否、己の信じる正義を腕に抱き。
 少年少女は、かつてない巨大な悪へと挑む。
 戦端は第二段階。ノクト・サムスタンプの到着から、現在五分が経過していた。


◇◇



「はあああああアアアアアア――!!!」

 狂恋戦線、依然として継続中。
 ロミオの咆哮は、吹き荒ぶ嵐の音色さえかき消す勢いで響き続けている。
 三方向、神聖隊のを含めれば数十方向から殺到する刺突の雨を物ともしていない。
 臆さず、怯まず、愛しの星と引き離された怒りだけを燃料にそのすべてを破壊する。

 触れれば冒す、抑止力の蠍尾。
 軽いぞ舐めるな疾く砕け散れ。
 剛柔内包した、大将軍の鋒達。
 目障りだ、小兵如きが僕を止められると思ったか。
 英雄としてこの場の誰より隔絶した、青銅王の誅槍。
 古ぼけた骨董品めが、鬱陶しいんだよ道を開けろ。

 信じ難いことに、吠えた通りのことを彼は実現させ続けていた。
 槍撃を受け止めるには心許なすぎる細剣とその肉体だけを寄る辺に、想定を超えた獅子奮迅を開戦から現在に至るまでずっと魅せ続けている。

「何なのですか、貴方は……!」
「二度も言わせるな。君達如きに思考を割く暇も、今の僕には惜しいんだ」

 しかも厄介なのは、この狂戦士はどこまでも極まった莫迦であるということ。
 所業自体は何から何まで無茶苦茶なのに、本能的な危機感知能力が群を抜いている。
 アンタレスは早々に『英雄よ天に昇れ(アステリズム・メーカー)』での霊的毒殺へとプランを切り替えていた。
 ロミオ・モンテギューとは物語の英霊。故にその可能性は、彼という存在が世界に周知された時点でもう永劫に途絶している。
 存在強化の薬毒に耐えられる道理はなく、注入さえ叶えば直ちに爆散するだろう。

 そう踏んでいたのだが、ロミオはアンタレスの槍に関してだけは徹底して最善の迎撃を行ってくるのだ。
 本人すら意識していない、極限まで先鋭化された生存本能による致命傷の回避。
 こういう点さえ、彼は都市の極星に酷似している。アンタレスにしてみれば、嫌な記憶を掘り返されるようなものだった。

「嗚呼、感じる。嗚呼、聞こえる……ジュリエットが泣いている。
 さぞや心細いことだろう。あの夜天に瞬く煌星の如き美貌が哀しみに翳る様を想像するだけで、この心は引き裂かれそうになる……」

 しかし当の本人は何処吹く風。
 いや事実、彼は目の前の敵が何を考えているかは勿論、個体の区別さえろくに付いていない。

「――この罪が解るか、貴様らッ!
 無粋な端役如きが彼女を泣かせた罪科、八つ裂きにしても飽き足りないぞッ!」

 よって話は通じないし、彼と理解り合おうとする試みはすべて徒労に終わる。
 ロミオの世界では、ジュリエット以外の他人など言葉を喋る木に等しい。
 立ち塞がるのなら切り倒すし、木の囀りが彼の狂(こい)する魂を動かすなど有り得ないのだ。

 が、それはそれとして。

「焦るな、蠍の嬢ちゃん。こういう手合いに心を乱されると思う壺だぜ」
「っ。ですが……」
「確かにこいつは引くほど強いが、見てみろ。無理の代償はちゃんと蓄積してる」

 如何に規格外なれど、彼も決して無敵ではない。
 気概ひとつではどうにもできない現実が、その美しい躰を現在進行形で蝕んでいた。

 ロミオの身体には大小様々な刺突痕が点在し、出血量も相当なものだ。
 お世辞にも上等とは言えない霊基で歴戦の猛者三体を同時に相手取るという無茶の対価を、彼はちゃんと支払わされている。
 特に腹の真ん中に空いた穴は重篤だろう。正確な深さは分からないが、恐らく内臓に達している筈だ。
 これだけの傷を受けながら不退転で戦い続ければ、いずれ必ず限界が訪れる。
 狂った気迫に騙されるな。彼の奮戦は所詮未来を度外視した捨て鉢であり、優勢なのは依然としてこちらの側だ。

 エパメイノンダスと、黙ってはいるが恐らくカドモスもそれを認識しているだろう。
 油断ならない相手ではあるものの、各々が最善を尽くし続ければ必ず勝てる。
 ただ、そのことは必ずしも希望的な展望を意味しない。
 実際、エパメイノンダスは状況を正しく認識しているからこそ、ある疑念を抱いていた。

「おい、バーサーカーの兄さんよ。威勢がいいのは結構だが、もう随分とボロボロじゃねえか」

 試してみるか、と、大将軍がロミオへ言葉を投げる。

「あんたの矜持、実に見事なもんだ。こんなに本気になって貰えるなんて、あんたのジュリエットは果報者だな」
「部外者が彼女を語るな。ジュリエットは君が想像しているよりもずっと美しく崇高で、世界さえ虜にするような――」
「だがいいのか? あんたこのままじゃ、愛しのジュリエットに二度と会えなくなっちまうぞ?」

 ノクト・サムスタンプは、かの嚇炎の悪鬼をして最大限に危険視する怪物であるという。
 実際に彼の手管を味わってみて、エパメイノンダスも風評に偽りなしと理解した。
 間違いなく極上の策謀家だ。彼と関わり合いになるのがこの混沌の渦中でよかったと思う。
 ノクトの本質は詐欺師でありテロリスト。この手の輩は、平和な時に敵に回すのが一番恐ろしいのだから。

 そんな男が、単純な事の勝敗だけを目的にこんな大博打を打ってきたとは到底信じられなかった。
 優れた博打打ちは負ける勝負をしない。たとえ血反吐を吐き泥に塗れてでも、至純の金貨を持ち帰っていくものだ。
 ――であれば当然、"有り得る"と、エパメイノンダスは踏んでいた。

「おたくの雇い主は、あんたを使い潰すことを屁とも思ってない」

 ノクト・サムスタンプにとってロミオは、彼の見据える実利を追求するための賭け金。
 本懐を遂げるために支払う、必要経費のようなものである可能性。
 根拠はロミオの有様だ。英霊三騎の前に身体一つで投げ出され、今や傷を負っていない部位の方が少ない始末。
 制御の利かない狂戦士を爆弾のように運用する発想は理解できるが、それにしたって度が過ぎている。
 ロミオが此処で斃れようと構わないと、そう考えているとしか思えないのだ。

「戯れ言を。君は僕の恋だけでなく、友までも侮辱する気か?」
「癇に障ったなら謝るさ。だが事実だろう。うまくやれば俺達の一人は落とせるかもしれないが、二人は無理だ。気合で捻じ伏せられる領域を超えている」

 ではその場合、ノクト・サムスタンプの真の狙いとは?
 当然、見えている。
 彼が契約の締結で飯を食う詐欺師(プリテンダー)だというのなら、目指すところはより良い取引を成立させることに他なるまい。

 ――ノクトは、この場で新たな英霊を獲得する気だ。
 ――条項で雁字搦めにした首輪付きの手駒を増やして、次の策の礎石にしようと目論んでいる。

「それでもあんたは、二枚舌のご主人様の為に働き続けるのかい?」

 見えた以上は潰しに動くまでのこと。
 だからこうして哀れな狂戦士へ対話を持ち掛け、離反を促す。
 これほどまでに際限のない狂化状態ならば、ややもすると令呪の束縛さえ無視してノクトに刃を向けてくれるかもしれない。

 ……が、エパメイノンダスもこんな浅知恵で上手く行くとは思っていない。
 何しろこの手には、少なくとも二点の問題があった。

「そうだな。確かに、君の言う通りかもしれない」

 一つ目に関しては、全く以って単純明快。

「――――で、それがどうした?」

 ロミオの思考を誘導するなど、エパメイノンダスでも不可能ということ。
 これはノクトが交渉を諦めた月女神とはまたベクトルの違う大莫迦者だ。
 思考回路そのものがデフォルトで破綻しており、打算の概念自体が欠落している。

「我が契約者にして朋友(とも)たるノクト・サムスタンプ。
 彼もまた僕と同じく、恋に生きて闘う者。
 彼の企てによって僕が滅ぶというのなら、それは彼の恋情が僕より上を行っていたというだけのこと。甘んじて受け入れるだけだ」

 狂戦士ロミオは、自分の感情でしか動かない。
 どんなに噛み砕いて理屈を説明しても、それを気に入るかは彼次第。
 恋という無法の領域の前で、あらゆる柵(しがらみ)は塵と化す。

「そして僕は、己の恋を万夫不当の宝石だと信じているッ!
 ならば何故臆することがあろう、何故足を止める必要があろうッッ!
 侮るな英雄ッ、僕とジュリエットの絆は君達如きでは推し測れんッッッ!」
「……ま、だろうな」

 駄目で元々のアプローチだったが、案の定の結果に終わった。
 やはりロミオは討つしかない。億が一懐柔できたとしても、こんな歩くガソリンみたいな男と関わるデメリットの方が圧倒的に勝るだろう。

「無為な真似をするな。獣に金勘定の話をして、通じるとでも思うたか」
「面目ない。打てる手は何でも試すのが性分でな」
「頭を回すなら大局を見よ。おまえの得意分野だろう、エパメイノンダス」

 畏敬を寄せる太祖から貰う、身に余る言葉は、本来なら魂が震えるほど嬉しいものの筈だった。
 しかし今は違う。それは、にわかに這い上がってくる悪寒に確かな輪郭を与える一言。

 ノクト・サムスタンプは、脅迫による契約の強制を目的としてこの無謀な強襲を敢行した。
 彼がロミオを潰しても構わないと思っていることは恐らく確定事項。
 使い魔を信じて任せるような殊勝な質ではあるまい、ロミオの生死がどう転んでもいいようにプランを形成している筈だ。
 此処までは読める。読めないのは、敵の手札の残り枚数であった。

 敵は傑物の策士。不世出の知略と、類稀な悪意を併せ持った貪食の怪物。
 繰り返すが、真に優れた博打打ちは負ける勝負は挑まない。
 一つの勝ち筋に命を張るような真似もしない。
 解るのだ。何故ならエパメイノンダスもまた、同じ類の人種だから。

(――ノクト・サムスタンプは、何を考えている?)

 なればこそ、やはり有り得ない。
 契約によるサーヴァントの簒奪なんて分かりやすい択一本で、奴ほどの頭脳派が賭場に出て来る筈がない。

 ある筈なのだ、真の本命が。
 死の危険を孕むのも惜しくないと思うだけの、盤石な勝算が。
 英霊が人間の智謀に頭を捻るという逆転現象。
 しかしそれも、"彼ら"ならば往々にして有り得る。
 狂気の徒、星の信奉者。天の極星に灼かれた者は特異点であり、そこに既存の法理など通用しない。

「極、星……」

 エパメイノンダスは、空を見上げた。
 あるべき青色は下品な腐敗模様に隠され、無論陽光が降り注ぐこともない。
 台風級の暴風の中でしのぎを削る戦乙女と悪魔。
 その向こうに広がる、在るべきものを悉く削ぎ落とされた空を視て……

(まさか――――!)

 次の瞬間、大将軍は踵を返していた。
 遂に見えた。虎の巣穴に眠る秘宝が。
 そしてもしも、ノクト・サムスタンプの本命が予想の通りならば。


 それは想像し得るどの可能性をも超える、最悪の事態が此処に齎されることを意味していた。



◇◇



 先に切り込んだのは、意外にもナシロだった。

「投影(エゴー)、開始(エイミー)――!」

 黒鍵の連続投影。魔力消費は着実に彼女にのしかかっているが、琴峯ナシロはこと投影魔術においては天性の適性を持つ。
 消耗を恐れず、投影した断罪剣に追加の燃料を流し込んで刀身を膨張させる。
 その上で果たすのは対ノクトの先駆け役と、背後を走る河二への風除けだった。

「こりゃ驚いた。此処まで使える贋作者(フェイカー)は今時珍しい」

 少女の身の丈にも迫る巨大な青銅の黒鍵が、杭打ち機を思わす正確さと速度で叩き込まれていく。
 ナシロの戦闘経験は浅瀬も浅瀬。しかしカドモスの因子を取り込んだ投影武器の投擲は、威力だけなら即死級の域に達している。
 だからノクトも躱すしかない。立つのも難しい暴風の中でダンスを舞い、ひらりひらりと迫る槍衾を回避して。

「あんまり魅せてくれるなよ。ついつい欲しくなっちまうだろうがァ――!」
「が、ぐゥ……!?」

 次の瞬間、一気に風を駆って吶喊する。
 返す刀とはまさにこのことで、急激な攻防の転換に素人のナシロは当然対応不能。
 咄嗟に再投影した黒鍵も衝撃の前に砕かれ、大型のダンプカーに衝突したような衝撃が彼女を見舞う。
 それでも耐えられたのは、開花した魔術の才能を応用し、魔力での自己強化を図っていたためだろう。
 もしナシロが独学の鍛錬を積んでいなかったなら、今の一撃で即死していたに違いない。

「はは、よりどりみどりだな!」
「生憎、どれも貴方の口には入らん」

 当然ノクトは追撃の構えを取るが、そうはさせじと割って入るのは河二。
 暴風域の中でも変わらない呼吸で自己を確立、励起させて穿つような鉄拳で魔術師を打つ。

「かはッ――!」

 増強剤による時間制限付きの超性能を手にしたノクトだが、あくまで強化されたのは駆使する魔術の規模だけだ。
 彼の身体自体は変わらず生身。よって拳も黒鍵も、届きさえすればノクトの余力を削ることができる。
 しかし、やはり道具は使用者を選ばない。今も河二を手本に洗練され続けている彼の胎息は、皮肉にも製造者の家人に牙を剥いていく。

 最初は防戦一方だったノクトが、徐々に河二のラッシュに対応し始めていた。
 プロボクサーがそうするように構えた両腕で威力を殺し、爛々と燦めく双眸は常に獲物の急所を狙っている。
 よって一瞬でも隙を晒せば、そらこのように。

「おぉらァァッ!」
「……! く、ぉ……!」

 風の恩恵で威力を底上げされた一撃が、河二の命を文字通り刈り取りに来る。

「はぁ――はぁ――……ッ!」

 分かっていたことだが、やはりノクトは強い。自分達よりも圧倒的に格上だ。
 持つものは人間の域を出なくとも、どうすればそれを高みに押し上げられるのか熟知している。
 こればかりは年の功、踏んできた場数の違いと言う他はない。
 河二やナシロが物心つくかどうかの頃には既に、この男は世界各地の鉄火場を渡り歩き、命を削って日銭を稼いでいたのだから。

 言うなればプロとアマチュアの違い。
 河二達にも各個の美点はあり、ひとつひとつでならノクトに勝っている部分もあろう。
 しかし強さとは総合値。パラメータの合計値という観点で、少年少女は現状彼の足元にも及んでいない。

(……足りない)

 河二は冷静だった。
 だから見える。敵の強さも、己の弱さも。

(僕には今、何が欠落している?
 こんなところで躓いている暇はもうないのに)

 自分の本懐とは人を超えた怪物、神寂縁だ。
 たかだか魔術師の延長線如きに届かない拳が、憎むべき仇に通用するとは思えない。
 これまでなら明日の課題として持ち越し、研鑽の糧にすることもできた。

「切ねえよなぁ。時間ってのはいつだって、手前で思ってるほど残ってないもんさ」

 その懊悩を見透かしたように、魔術師の嘲笑が響く。
 そう、今の河二に足りないのは時間だ。
 青い夢想では誤魔化しきれないほど、自分の手落ちがありありと分かる。
 なのにそれを埋め合わせるために使える時間が、もうない。

 見せつけるように大きく酸素を吸い、次の瞬間ノクトの動きが影のように揺らめいた。
 残像だ。刹那の内に殺到する三連撃に、河二は一瞬視界が黒く飛ぶのを感じた。
 あまりの衝撃に眼球が裏返ったのだ。ともすれば気絶しても不思議ではなかったろう。
 頬の裏側の肉を噛み潰して痛みで意識を強制覚醒させ、血で濁った咆哮をあげながら打ち込むも空を切る。

 劣っている側が見に回るなど許されない。
 よって河二の選択肢は攻め一択だったが、空から降る光の雨がそのテンポすら乱してくる。

 御遣い共の絨毯爆撃だ。
 ヤドリバエの奮闘のお陰で数こそ限られているものの、それでも拳士の足並みをぐちゃぐちゃにするには十分すぎた。
 肝心要の間合いや位置取りといった概念が、地形ごと強制的に書き換えられるのだから無理はない。
 条件はノクトも同じだが、彼は多芸な魔術師。敵が離れているなら風の射撃に切り替えればいいし、そもそもノクトは御遣いの攻撃対象外だ。

 風の刃が頬を深々と切り裂く。
 今はその激痛さえ有り難い。気付けになるし、自分の背を押してくれるように感じる。
 理想と現実のギャップに苛まれ、ともすれば深い煩悶の中に落ちていきそうな心を、過剰分泌されるアドレナリンで誤魔化した。
 その上で前に出る。届かないのなら、届かせるまでだと、理屈ではない精神論で復讐者は煌々と意思を燃え盛らせるが。

「二度目の前言撤回だ。不味い仕事と言ったが、やっぱり旨いよ」

 そんながむしゃらの捨て鉢は、"悪い大人"にとって格好の獲物。

「高乃河二、お前は実に解りやすい。
 実直な人間性は美徳だが、詐欺師(おれ)の前じゃただのカモだ」

 指を鳴らした瞬間、河二がいざ駆けようとしていた前方の空間に、十を超える御遣いの槍が突如出現した。
 死が群れを成し、分不相応な願いを燃やす少年を手ぐすね引いて待ち構えている。

「何を驚いてる。俺の魔術は散々見せてやっただろ? まさかとは思うが、単なる送風機だとでも思ってたかい?」

 御遣いの槍が着弾し、爆発と衝撃を撒き散らすまでにもう数秒とない。
 令呪でエパメイノンダスの救援を希うことも不可能だろう。
 すべてが間に合わない。河二の死は、見えない地雷として空を漂っていたのだ。

「大気の温度と編成を弄れば、無いものを見せることも、有るものを隠すことも出来る。
 蜃気楼ってやつだな。手品は何も、どこぞのマジシャンの専売特許じゃねえんだよ」

 ノクトはすべてを読んでいる。
 読み、見透かし、理解している。
 河二は既に、彼に識られてしまった。
 戦い方も抱く望みも、それにどの程度命を懸けられるのかも。

 だから用意されたのは誘蛾灯。
 己という敵を餌に呼び寄せて、不可視の罠で嬲り殺す。
 その手管に、未熟な少年は対応できない。

「色々観せてくれてありがとよ、いい参考資料になったぜ。お礼に素敵なドゥームズデイを過ごしてくれ」

 よって結末はもはやひとつしか有り得なかったが――

「させる、かよぉッ!」

 認めるかと割って入る声がある。
 声の主・琴峯ナシロは、先の一撃のダメージがまだ残っているのだろう。
 よろよろと覚束ない足でなんとか立ちながら、かつてない規模で魔術回路を鳴動させる。

 助けてくれと頼まれたのだ。
 そうでなくても助けるし、今更死に別れなんて寝覚めが悪すぎる。
 第一、この状況になって改めて分かったことだが――自分は、高乃河二という男の人間性がだいぶ気に入ってるらしい。
 善を愛し悪を憎む心も、修羅の茨道の中にあってさえ他人を慮ることを忘れない実直さも。
 すべて好ましく思うから、復讐だの仇だの抜きにしても、彼が死ぬような結末は間違いだと断言できて本気になれてしまう。

「お、ぉ、おおぉおぉおぉ゛おッ――――!」

 皮下の毛細血管が断裂し、眼球が赤く染まっていく。
 此処から先は練習したこともないぶっつけ本番だ。
 オルフィレウスに外付けされた回路と、取り込んだテーバイの神秘を強引に叩き起こして回しまくる。

 命懸けなのはおまえだけじゃないと、河二に示すように。
 誰の友達に手ぇ挙げてやがると、いけ好かない魔術師を脅すように。
 今、琴峯ナシロは魔術師として新たな領域へ辿り着く――!


「――――多重、投影、並列層写(エゴー・エイミー・ホオーン)ッ!!!」


 発現した現象は、連続投影ならぬ多重投影。
 これまでは両手の指間を埋める程度の本数しかしてこなかったし、ナシロ自身それが限界だと思っていた。
 されど相棒の死地という状況が、彼女に自己の閾値を飛び越えさせる。

 無数の青銅投擲剣が、投影されるなり籠目のように複雑に組み合っていく。
 パズルの要領で噛み合って形成されたのは、衝撃と爆風を封殺する即席の城壁だった。
 死へ飛び込むしかない河二を遮るように生み出されたソレは、轟音を響かせながら御遣いの殲滅攻撃を受け止める。

「……マジかよ」

 これにはノクトも、眉根を寄せて驚嘆していた。
 才能があるとはいえ、目覚めてひと月そこらの術師が到達できる次元ではない。
 その上真に驚くべきは、十を超える爆撃を受けて、黒鍵の壁が遂に崩れなかったこと。

「悪い、高乃――ちょっと賭ける」

 此処まではしかし、前提条件のようなものだ。
 河二を守る本懐は果たせた。
 なら、次に目指すのは、やはりノクト・サムスタンプという強敵の打破に他ならない。

「派手に爆るから、なんとか、凌いでくれ……!」

 役目を終えた壁が、中に火薬でも仕込まれていたかのように爆散した。
 当然破片が撒き散らされ、それは河二とノクトに敵味方の区別なく襲いかかっていく。
 先程直面した死に比べれば威力も破壊の密度も弱いが、さりとて危険であるのには変わりない。
 よってこれは賭けだった。河二を信用していなければ仕掛けられない、極めて危険なギャンブル。

「琴峯さん――」

 ノクトは、風をカーテンのように手繰り寄せて防御する。
 しかし河二はナシロの意図を理解し、酸素を廻しながら前へ出た。

「――感謝する。君と出会えてよかった」

 胎息完了。
 無遠慮な破片の礫があちこちを掠め、血を流させていくが、それでも少年は足を止めない。
 両の義肢を交差させて構え、防弾の役目を果たさせながら吶喊した。
 狡猾な者と、明日をも捨てる覚悟を抱く者。両者の違いは、降って湧いた危険への向き合い方という形で如実に現れる。
 その甲乙は状況次第と言う他ないが、少なくとも今この瞬間においては、河二に分があったようだ。

 抱く覚悟は変わることなく不退転。
 痛みも恐怖も麻痺させて、剣片の嵐を超え、歩む少年の真横を通り過ぎて先駆ける無数の光条。
 ナシロの『杖』だ。雪村から授かった数は合計四つ、しかし現在放たれている本数は優に両手の指の本数を超えている。
 死地における魔術の格段な伸び。鉄志の助言通り、材質の解析は疾うに済ませていた。

「観させて貰ったのは僕も同じだ。ノクト・サムスタンプ、お陰で貴方の手管がよく分かった」

 杖が弾け、風幕の表層を削り、剥がす。
 それでも馬鹿げた出力で操作される大気の壁を突破するのは容易ではなかったが、これならエパメイノンダスの盾の方が余程堅かった。
 だから超えられる。最高の胎息と最上の昂り(テンション)が、ナシロに続き河二にも限界を突破させる。

(クソ、止めきれねえ。莫迦かこのガキ、酔っ払うのも大概にしろよ)

 相対するノクトは、焦るよりも困惑していた。
 琴峯ナシロの大投影には驚かされたが、そこから河二が取った選択はあまりにも単純すぎた。
 馬鹿の一つ覚えの吶喊、見え透いた近接格闘(インファイト)狙い。
 そこになら勝機があると思っているのか。浅すぎる思慮は時に、知恵者の計算をも狂わせる。

(さっき観せてやっただろうが。お前はどうやっても俺を殺せない、おんぶに抱っこの俗物だ)

 高乃河二にとって、ノクト・サムスタンプという魔術師は戦闘面の相性が悪すぎる。
 自分以上の格闘術と、魔術という遠近自在のサブウェポン。
 木腕使いとしての年季という唯一の優位性さえ、時間をかければかけるほど自身を教材に学習されるから詰んでいる。

 そんな彼がノクト相手に取れる最適解の立ち回りは、ナシロをサポーターとして距離を取りながら、増強剤の効果切れを待つことだ。
 如何に蛇杖堂寂句の遺品とはいえ、此処までの馬鹿げた出力が長続きするわけもない。
 そうでなくとも時間を稼げばロミオ側の戦端が進行し、援軍がやって来る公算も高い。
 ノクトならば間違いなくその手を選ぶ。なのに河二の行動はゴリ押しの一辺倒、これには呆れを通り越して不気味さを覚える。

「――笑みが」
「ッ」
「曇ってきたな、魔術師……!」

 河二が馬鹿なだけと片付けるのは簡単だ。
 しかし視点を変えれば、これは少々"上手く行き過ぎている"。
 ノクトの疑念は尤もだったが、得意の思考を打ち切るように、目の前の鋭拳の冴えが更に一段増してきた。

「……鼻を明かした気になるには、ちと早えんじゃねえのかァ!?」

 凄絶な貌で負けじと迎撃するのは、彼なりのカモフラージュ。
 その間もノクトは、聡明で狡猾な頭脳をフル稼働させていた。

 コインの裏表、丁か半か。
 今、自分は二者択一を迫られている。
 普通なら手を尽くして正確な勝算を割り出しに行くところだが、奇しくも河二の"愚行"が彼から猶予を奪っていた。

(何か企んでんだろうな。そうじゃなかったら幾ら何でも莫迦過ぎる)

 此処は仕方がない。肉を切らせて骨への到達を避けるべきだと、ノクトはそう判断。
 意図的に応戦の手を緩め、河二に飛びつきやすい隙を見せてやる。

「――はぁぁあぁあぁぁッ!」
「ず、ォ――!?」

 正拳一閃、腹筋で受け止めた道士の一撃は凄まじい衝撃だった。
 逆流してきた喀血が、堪え切れず口元から溢れ出す。
 そのまま背方へ吹き飛ばされていくノクトだが、しかしこの被弾は必要経費。

 被弾により、無理やり河二の間合い(リーチ)から抜け出すことが彼の目的だ。
 距離さえ取ってしまえば風での遠撃ちが出来、もはや河二は敵ではない。
 先程まで問題だったのは、彼らが隠していると思しき何らかの策。
 それが起動した瞬間、自分の間近に高乃河二が存在してしまうことだ。

 あの少年は未熟も未熟、ノクトに言わせればまさしく子女のようなものだったが。
 だからこその向こう見ずな強さがあり、現に自分も手を焼かされた。
 彼の無軌道な"熱"は、起動した策に対処する際の無視できない不確定要素になる可能性がある。
 戦場で馬鹿が持つ唯一の長所は策士殺し。綿密に計算された知略を理屈なき行動で破壊するジョーカーの役目。
 よってノクトは、肉を切らせて骨を守ったのだ。

「クソ、痛えな……! やってくれるじゃねえか、えぇ……!?」

 さあ、どうする。
 何を出す、お前達の策を見せてみろ。
 そう言いたげに破顔したノクトだが、その笑みはすぐに消えることになった。

「――――言っただろう、観させて貰ったと」

 河二とナシロに、あまりにも動揺の色がなかったからだ。
 仕込んだ策の存在がバレたなど、慌てふためいてもおかしくない場面だというのに。

「繰り返すが、貴方の手管はよく分かった。
 だから当然、そうやって体よく逃げるだろうと思っていたさ」
「本職の詐欺師に知恵比べで勝てるとか、端からこっちは思ってないよ。
 私達が頭を捻って考えつくようなこと、あんたは秒で気付いちまうだろうしな」

 この感覚を、ノクトは知っている。
 まだ未熟な頃、幾度となく味わった辛酸。

「――だから僕達は、貴方に読ませたんだ」

 敵に嵌められたという、遅れてやってくる実感。

「……やるじゃねえか」

 ノクト・サムスタンプは最強の鬼人だ。
 彼は狡猾にして非道。酸いも甘いも噛み分けた夜の虎は、もはや誰が相手だろうと知恵比べで遅れを取ることはない。
 しかし今相手にしているのは二十年もこの世を生きていない、針音都市に徴兵されるまで戦場のせの字も知らなかった少年少女。
 言うなれば若さ。馬鹿な子どもだけが持つのを許される、美しい青色に輝く"策士殺し"。それがこの時一度だけ、非情の数式をねじ曲げる。

 仰いだ空で、悪魔と目が合った。
 見るからに疲弊していたが、その幼顔は確かに、にひ、という笑みを湛えていて。

「――――アサシン!」

 ナシロが叫ぶ。
 その右腕が、今、燦然と朱く瞬いて――


「令呪を以って命ずる――遠慮は無しだ。全力全開、ブチかませ――!!!」


 蝿王の幼生へと、大破壊の実行を許諾した。


「あい・あい・さー! ひっさびさの全力投球、行っちゃいますよぉぉぉぉッ!!!」


 御遣いの迎撃という任をかなぐり捨てて、空の高みから地に矛先を向ける蝿の王。
 彼女は自他共に認める破滅的命中精度(クソエイム)、だが相手がノクトならそれさえ強みになる。
 何故なら、読めないから。せっせと作った自前の眷属さえ流れ弾でぶっ飛ばす真の莫迦の砲撃は、一切の計算を無視して降り注ぐ。

 悪魔の魔力弾が、流星群と化して地上に大空爆を開始した。
 案の定狙いはメチャクチャで、友軍への誤爆も一切気にしていない。
 そこは信じて任せて貰ったと合点して、あえて何も考えなかった。
 軌道の予測など本人にすら不可能。そのくせ爆撃の威力は、御遣いが投げてくる幻の神槍を遥かに超えている。
 宿り蝿のベルゼブブが持つ唯一最高の美点を、虎の狩場にこれでもかと散乱させていく。

 ノクトは策が起動した時、河二の間合いから逃げられないことを恐れてあの行動を取ったが。
 実際のところそれは完全に裏目で、河二達にしてみればノクトが間合いに留まり続けるのが一番の最悪だった。
 魔弾の射手は未熟者。近距離で密接している敵味方を区別するなんて出来るわけがない。
 ノクト・サムスタンプは考えすぎて、その思慮深さの余りに、まんまと敵に塩を送ってしまったのだ。

「だが――!」

 高笑いと共に、破滅が降ってくる。
 されど詰みではない。
 自分の失策を認めながら、それでもノクト・サムスタンプは依然圧倒的強者。

「こんなもので俺を詰ませた気か? 想定が浅――」
「だろうな。けどまぁ、私らにはこれが精一杯だ」

 傭兵として、本物の爆弾が雨霰のように降り注ぐ戦地を身体一つで乗り越えたこともある。
 当たれば死ぬ破壊の雨如き、彼に言わせれば絶望としての程度が浅い。
 ナシロもそれは認めた。そう、彼女達に出せるのはこれが精一杯。

「だから後は、こっちも本職に任せるよ」

 だが、この場に存在する演者は、この三人ですべてではない。

「――――ッ!?」

 視界の端を過ぎった小柄な影に、ノクトは今度こそ真の瞠目を見せる。
 ヤドリバエではない。肌は褐色で、もっと無機質な表情(かお)をしていた。

「テメェ……は……ッ!」
「新宿ではお世話になりましたね、ノクト・サムスタンプ。
 言うまでもないこととは思いますが、アルマナも貴方のことが嫌いです」

 先の血戦で、ノクトが駒として利用したふたりの演者がいる。
 彼女達からの心象が最悪なことは彼も理解していたが、その上で然程気に留めていなかった。

 何故なら、彼女達はナシロ達とは違い、現実を理解した合理主義者だからだ。
 何やら絆を紡いだようだが、それでも博愛精神とは程遠い。
 出会って二桁分そこらの少年少女に感化され、そのために不要な埃を被りに行くことはない。
 そう踏んでいたから、問題なしと看做していたのだ――今の今までは。
 こうして、手負いの身でも確実に戦果が取れる状況になるまでは。

「よって、加減は期待しないでください。王さまの許可も既に得ています」

 河二達の策が炸裂し、ノクトの優勢は崩れ去った。
 これにより彼女達に、戦線へ介入する合理的理由が生まれた。
 ノクト・サムスタンプの排除という、極めて巨大な恩恵が現実味を帯びたのだ。

 刀凶聯合の残党。
 アルマナ・ラフィーが放つ魔術の凶弾は高威力かつ高精度で、ノクトをしても涼しい顔で受け流せるものではない。
 が、彼は理解している。
 真に恐るべきは彼女ではなく、傷ついたとはいえこの場で最大の武力を持つもうひとりの演者。

「――――〈抜刀〉」
「う、おおぉおおぉおおおッ!!?」

 瞳に夜の闇より尚深い殺意を湛えた、稀代の暴力装置がその腕(かいな)を爆ぜさせた。
 魔拳にして魔剣。命を断ち切る抜刀術。
 アルマナと同タイミングで介入を決めた悪国征蹂郎の手刀が、ノクトに最大の死線を想起させる。

「っ、おいおい、恥も外聞もねぇなあ! ガキの作った好機にタダ乗りとは、死んだ仲間も草葉の陰で呆れてんじゃねえかァ!?」
「……そうかもしれんな。だが、貴様にだけは言われる筋合いはない」

 手に余る、なんてものではない。
 周鳳狩魔との一騎打ちでこうまで消耗して尚、征蹂郎の身体能力は超人級だ。
 夜の間ならばいざ知らず、今相手取るには強化された大気操作魔術の存在を込みにしても至難。
 ましてやアルマナは勿論、河二・ナシロとさえノクト・サムスタンプ討伐という大義で団結している状況である。

「お前のような男が……オレの仲間を軽々しく語るな。相応しい地獄へ落としてやる」

 四面楚歌とはまさにこのこと。
 故に、選択を迫られる。

「年貢の納め時だ、ノクト・サムスタンプ」

 ロミオを呼び寄せ、強引にでも切り払うか。
 だがそうなれば、あちらで止めている英霊共もこっちへやって来るだろう。
 その状況下で、ヤドリバエの一斉砲撃まで捌けるか?
 ロミオはノクトとしても制御不能のバーサーカー。現在の超興奮状態の彼なら言わずもがな。

 さあ、どうする。
 これだけ追い詰められたのは久しぶりだ。
 賭けに出た結果とはいえ、前回でさえ此処までヒリついた場面があったかどうか。

 思索に使える時間は一秒を下回る。
 悪意に染まった灰色の脳細胞が蠢動し。
 いざ答えが出かけた、その間際。

「…………、あー」

 ノクトは、拍子抜けしたような声をあげた。

「ンだよ、つまんねえな。せっかくノってきた所だってのに」

 砲撃の余波に煽られて、策士の身体があっさり地面を転がる。
 大の字で寝転び、空を見上げる姿は典型的な敗者の格好だ。
 絶好の隙である。なのに何故か、誰も彼へ追撃しようとしない。

「見事だったよ、ガキ共。こうまでしてやられたのは久方ぶりだ」

 河二も、ナシロも。
 アルマナと征蹂郎でさえ。
 誰もが、目を見開いたまま固まっていた。

 曰く、神秘に善悪の区別はないのだという。
 肝腎となるのはその者の人格であって、力自体に白と黒の違いは然程ない。
 天使の降臨は時に悍ましく見えるし、悪魔の微笑みが美しく見えることも往々にしてある。
 けれどそうした論理は、どうやら所詮本物を知らない夢想家の戯言に過ぎなかったらしい。

「もう少し早く決められていれば、本当にもしかしたかもしれねえな」

 ああ、だって。
 この生き物を神々しいとか美しいとか、そんな風に認識することなんて、天地がひっくり返っても有り得ないから。

「だが……残念ながら時間切れだ。そして、俺の勝利条件は達成された」

 女が、そこに立っていた。
 河二達にとっては、知った顔だった。

「勝ち筋ってのは、最低でも二つは用意しておくもんさ。
 もちろん俺一人で収められたら最高だったが、そっちは早々に諦めたよ。
 だから俺は、待つことにしたんだ。らしくもねえ正面戦闘を必死こいて演じながら、本命のプランを隠し続けた」

 くりくりとした瞳に、若く愛らしい顔立ちは人懐っこい印象を受ける。
 いや、事実受けた。あの場で彼女を警戒できた者は一人も居なかった。
 なのに、今は受ける印象がまるで違う。見る側の人間の心の持ちようで変化したわけではない。
 これは単に、あちらが擬態をやめたというだけのこと。もう装う必要もなくなった、それだけのこと。

「英霊が何騎いようが、ガキ共が予想を超えて強かろうが、ロミオを落とされて追い詰められようが――俺は、時間さえ稼げば良かったんだよ」

 起き上がりさえせず、大の字のままで、くつくつと笑うノクト。
 彼は魔術師(マギウス)にして詐欺師(プリテンダー)。

 "ノクト・サムスタンプと関わるな"
 "話をするな。のさばらせるな。奴に思考を許すな"
 "可能な限り最速で、全力を以って抹殺しろ"

 彼の脅威を思い知った者、その誰もが共有する不文律。
 この男の視座は、義理人情はもちろん、勝負という枠組みさえも飛び越えたところにある。
 求めるのは利益であって、敵を倒して得られる称号になど欠片の興味もない。
 狂気に堕ちて尚、彼の例外であれる存在は神寂祓葉と不倶戴天の燃え殻達だけ。
 よって今日此処に居合わせた者達は誰も、ノクトの弾く算盤を真の意味で狂わせることが出来なかった。その資格さえ、持っていなかった。

「お前らに勝つのは、別に俺じゃなくたっていい。俺は蹴散らされた残骸をのんびり眺めて、啜る汁の味を選ぶだけさ」

 だから。
 もう、どうあっても勝敗は覆らない。

「どの口で言うんだって話だが、まあ……」

 藪の傍でどんちゃん騒ぎをしたせいで。
 音と匂いを嗅ぎつけて、蛇が来てしまった。

「ご愁傷様だ」

 これにて決着。
 勝者はなし。
 大儲けはノクト・サムスタンプ。


 では、退屈な戦後処理を始めよう。



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最終更新:2026年05月08日 00:48