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 土壇場。
 ノクト・サムスタンプの脳裏に浮かんだのは、そんな単語だった。

 状況は悪い。
 最悪と言ってもいい。
 前回、〈はじまりの聖杯戦争〉でさえこれほど追い詰められたことはなかった筈だ。

「ち……ッ。鬱陶しいな……」

 蛇杖堂寂句の忘れ形見、現在は悪国征蹂郎のサーヴァント。
 天蠍のランサーに打ち込まれた、存在昇華の猛毒。
 自分ならばどうにか御せるかと一瞬期待したが、すぐに無理と悟った。

 これは駄目だ。この毒に抗える格を、己という人間は持っていない。
 全身の細胞という細胞が破裂と再生を絶え間なく繰り返し、臓器は溶解すら開始しているだろう。
 体温は体感四十度を超過しており、僅かでも気を抜けば意識が持っていかれそうになる。
 熱病の末期状態に加え、覚醒剤を過剰投与したような高揚感と悪寒が手を変え品を変え襲ってくる感覚。

 改めて確信する。
 自分はそう永く保たない。
 様々な問題点を無視した希望的観測でも、恐らく次の夜は迎えられまい。
 それどころか正午まで永らえられるかも怪しい――現在の症状がピークであるという保証はどこにもないのだから。

 だがそんな窮状にありながら、ノクトの放つ生命力は見違えたように向上していた。
 ベストコンディションなんてものではない、どう考えても"夜"のパフォーマンスすら超えている。
 昇華毒の正の側面。投与した人間の可能性を極限まで高めあげるドーピング効果が、彼を真の魔人に押し上げた。

(……とんだ不当取引だ。要らねえモンを寄越しやがって、利益と代償が毛ほども見合ってねえんだよ)

 そこも含めて、ノクトは現状を最悪と看做す。
 確かに、これだけ漲っているのなら蛇腔内の演者は苦もなく抹殺できるだろう。
 どころか、英霊共にも食い下がれる筈だ。策謀や布陣の厚さを抜きにすれば、あのエパメイノンダスだって力任せに押し潰せるかもしれない。

 されど――だとしても足りなすぎる。
 神寂縁の寝首を掻くなど論外。スタートから五段も六段も離れた外れ値共には届かない。
 今挙げた不敗将軍にも、祖国(テーバイ)補正を含めれば必勝とはまず言い難い。
 なのに代償だけは支払わされるのだから、ケチな詐欺にでも引っ掛けられた気分だった。
 自分の契約書にサインした犠牲者達はこんな気分だったのかと、柄にもなく申し訳なさすら感じてしまう。

(だが後戻りは出来ん。この毒が回り切る前に聖杯を獲る、それ以外俺に道はない)

 この程度の力で生き残り全員を殺し切るのは現実的でない。
 ならばどうする。決まっている、策を立てるのだ。
 ナシロを休ませていた製薬会社ビル。無人の廃墟と化した最上階で、後のなくなった策士が思索に耽る。

(重要なのは殺す順番。神寂縁を殺し得る原石には暴れて貰いつつ、間引いて構わない連中は片っ端から撫で切りだ。ベルゼブブの眷属を通じて蛇腔の顔触れは全員把握済み、優先順位を付けるのは難しくねえ)

 先にも述べたが、神寂縁の単独撃破はまず不可能。
 もどかしい話だが、これだけは他人の奮戦に賭ける必要がある。
 となれば命の序列付けは急務だった。
 野放図に殺し回って、最後の最後に藪へ引きずり込まれるのは御免被る。
 そうならないためにも、ベルゼブブをこき使って得た情報を時間のある内に整理しておかなければ。

(まずは悪国征蹂郎と天蠍のクソガキ――胸糞悪いが見込みアリだ。
 祓葉を堕とした毒針、伊達じゃないことはよく分かった。
 それに俺を嵌めたあの手品は蛇野郎にも確実に刺さる! 殺すのは後回しだ)

 天昇の猛毒が真に効果を発揮する相手は、恐らく自分のように中途半端に優秀な人間ではなく、最初から道理を逸脱した規格外の生命体。
 つまり神寂姓の叔姪のような正真の怪物を想定した装備の筈で、だからこそ泳がせて真価を発揮させるのが利口と踏んだ。

(逆にカドモスは生き延びた場合のリスクがでかすぎる。アルマナ・ラフィーを喪って弱体化した今が殺す絶好の好機。欲を言えばヘタレてる内に落としちまいたかったが、済んだことをうじうじ悔やんでも仕方ねえ)

 青銅王は蛇と相性が悪すぎる。
 その上存在としても片手落ち、温存する意味はない。
 万一新しい主人でも得てしまったらそれこそ最悪だ。是が非でも、再起する前に叩いて潰さねばなるまい。

(アギリに〈脱出王〉、蛇がご執心のガキと輪堂天梨。此処は考えるまでもねえ、輪堂以外は見つけ次第即殺だ。
 この身体なら前者二人に遅れは取らないし、蛇のトロフィーをブチ壊すのは実質的に奴の弱体化とイコール……!)

 不倶戴天の同族達に関しては、むしろ蛇腔が展開されている内に排除すべきだろう。
 しかも酔狂なことに、なんと二人ともサーヴァントを伴っていないと来ている。
 平時なら夜間でもない限り具合の悪くなる顔触れだが、打ち込まれた蠍毒がこの時ばかりはノクトを利した。
 殺せる。今なら、出会いさえすれば確実に。奴らのことを考えるとアドレナリンが出て、痛みが和らぐのもありがたい。

 更にレミュリン・ウェルブレイシス・スタールも、ノクトはこの際殺していい対象と看做していた。
 理由は明白で、蛇が彼女を手にしてしまえばいよいよ取り返しが付かないからだ。
 念願の花嫁を失えば蛇は怒り狂うだろう。言うまでもなく災害だが、そうなってくれた方がまだ御し易い。
 唯一不安があるとすればレミュリンの連れている近衛があの"長腕のルー"ということ。
 しかしこれも、マスターが幼気な小娘であればどうとでも突き崩せる。力だけ持った未熟者は、詐欺師にとって格好のカモだ。

 残るのは輪堂天梨。恒星の資格を持つアイドル。彼女は、蛇に通用する可能性があるため後に回す。
 が、他の面々と同様、見逃してやるのは蛇が生きている間だけだ。
 もし蛇殺しが成ったなら、打って変わって天梨は最優先の抹殺対象。
 煌星満天の開花を待つ時間がなくなった以上、意中の好敵手を奪って強制的な覚醒を促すのが最も手早い。

 尻に火が点いて尚、ノクト・サムスタンプにとって悪魔のアイドルは最終兵器(ワイルドカード)。
 第二の恒星神として羽化した彼女を隠れ蓑に屍を積み上げる算段が、彼の中では既についている。

(蛇のサーヴァントを落としたらしい子連れの親父は――情報の不足は否めないが、こいつらも一旦ステイだな。
 いや、実にいい仕事をしてくれたぜ。揉み手で歓迎してやりたい気分だ。おかげで不確定要素がひとつ消えた)

 雪村鉄志とその相棒、デウス・エクス・マキナ。
 未だブラックボックスの部分が多い主従だが、天津甕星を討った功績をノクトは高く買っていた。
 彼らも蛇殺しの銀弾として見込める。よって、目先の殺害対象からは一先ず外しておく。

 これで、一部例外を除いた蛇腔内の全演者を分類できた。
 殺害対象。
 赤坂亜切、〈脱出王〉、レミュリン・ウェルブレイシス・スタール。
 一時除外。
 悪国征蹂郎、輪堂天梨、そして雪村鉄志。

 悪くない結果だ。
 実に値打ちの高い首が並んでいる。
 サーヴァントとの真っ向勝負は極力避けるにしても、狂人達とレミュリンを殺せれば得られるアドバンテージは計り知れない。

(本音を言えば、すぐにでも殺しに行きたいところだが――)

 だが、まだ飛びつけない理由があった。
 毒に冒され、命に刻限が付いても衰えず冴え渡る深慮遠謀が、あえて挙げなかった主従の輪郭を浮き上がらせる。

(――高乃河二! こいつは確実に俺の首を狙いに来る。そして俺は、こいつだけは受けて立たなくちゃならねえ……!!)

 高乃河二とエパメイノンダス。
 彼らだけは、明確に行動が読める。
 そしてノクトもまた、それを無視するわけにはいかないのだ。

(繰り返すが、馬鹿正直にサーヴァントと殴り合うなんて真似はなるべくしたくない。
 そこを解決し得るのがロミオとベルゼブブの二刀流。
 逆に言えば俺は、こいつらの片方でも失っちゃいけねえんだ。もしどちらかでももぎ取られれば俺の脱落はほぼ確定……!)

 琴峯ナシロと交わした契約。悪魔ベルゼブブの指揮権譲渡。
 あくまで備えの一つとして調達した外付けの武力だが、未来のなくなった今やベルゼブブの存在はノクトの生命線になった。
 ロミオは何かと脆く不安定で、単体では心許なさが勝つ。
 そうでなくとも英霊一騎で針音都市の全員を鏖殺するなど非現実的、悪魔の火力と眷属増産による圧倒的物量は今後を見据える上で必要不可欠だ。

 その生命線を維持する人物こそ、琴峯ナシロという人質。
 高乃河二は確実に、他の何を置いてもこれを取り返しに来る。
 少年の手が囚われの少女に届いてしまうこと、これぞノクトにとって最悪の事態。

 ならばノクトとしても、迎え撃つしかない。
 青臭い少年の闘志に付き合うことこそ最大のリスクヘッジ。
 アギリよりも脱出王よりも、まずは兎にも角にも高乃河二。
 彼を殺せば残る面々は、ほぼ間違いなくナシロなど後に回す。
 まともな思考回路を持っていれば、蛇狩りを優先する。
 そこにさえ持ち込めれば、その時こそ心置きなく殺しに専念できるというものだ。

(とはいえ、高乃河二単体なら恐るるに足らん。問題は奴のサーヴァント、エパメイノンダスだが……)

 しかし厄介。河二はともかく、彼を護っているあの大将軍だけは気が重い。
 ベルゼブブもロミオも相性が悪く、場合によっては二人がかりでも封殺されるだろう。
 ましてやナシロの奪還戦となれば――契約に縛られていないベルゼブブが何かの拍子で反旗を翻すことは十分にあり得る。

 本当にエパメイノンダスが来るのなら、だが。

(奴は頭がいい。ならほぼ間違いなく、俺と同じ思考をする筈だ。
 神寂縁にカドモスをぶつけるのは愚策という、その発想に至ると見る)

 蛇は青銅王の天敵だ。
 性格的にも戦力的にも、アルマナ亡き老王が蛇狩りを成し遂げられるとは思えない。
 その上、彼が落ちればテーバイの土地汚染も解かれ、蛇を利する結果に繋がる。
 恐らくエパメイノンダスは、そこの判断を間違わない。ノクトにはそれが分かる。
 何故なら彼も、かの将軍も、頭がいいから。知略冴え渡り、幾つもの戦場を渡り歩いて脳を研磨した猛者だから。

(――エパメイノンダスは蛇殺しに。
 ――逆に、蛇の相手に向かないカドモスは主の露払いに。
 これだな。そして確実にもう一騎、いや一組。俺を潰すために同伴させてくる)

 埋まっていくパズルのピース。
 ノクト追討戦という劇の台本に、役者の名前が次々と記されてゆく。

(高乃河二。カドモス。悪国征蹂郎、そして天の蠍。これだ)

 かくて筒抜けになる、策士殺しの布陣。
 ロミオとベルゼブブを擁しているとはいえ油断できる面子ではない筈だが、ノクトの表情は明るかった。

(ありがてえ、エパメイノンダスが直接出張ってくるより余程狩り易い。獲る首を絞れば、対蛇の戦力を削ることなく厄介事を清算出来る……!!)

 確かに脅威。弱くなったとはいえ無双の武錬持つ老王と、自分を詰みに追い込んだ主従が攻め込んでくるのは恐ろしい。
 しかしノクトにとって殺すべき命は前者二名。もっと言うなら高乃河二さえ抹殺できれば、ノルマ自体はそれで達成される。

 全員殺す、その宣言に偽りはない。
 されど命には序列があり、自分は慌てず騒がず、先程決めたそれに従って判断すればいい。
 取捨選択を。退き時を。河二を殺し、カドモスにある程度手傷を負わせたら、極論悪国と天蠍は無視しても構わないのだ。

 最優先標的、高乃河二。
 次点、カドモス。
 上記二つ、最低でも最優先を屠れたなら令呪を用いた高速逃走。
 そこからアギリ・脱出王・レミュリンの暗殺に移り、これをこなして蛇狩りを後方支援する。
 無論役目を終えた、ないし期待外れに終わった者達は随時命を摘んでいく。
 晴れて蛇が斃され蛇腔が解けたなら、外に出て殺戮、虐殺、殲滅撃滅一切鏖殺。
 輪堂天梨の死を餌に煌星満天を覚醒させ、都市の何もかもを平らに均す。命なき地平を、この頭脳と肉体で構築して魅せる!

「簡単な話じゃねえか。臆することなど何もねえ――俺なら出来る」

 口内に溢れ出てきた血反吐を飲み下して牙を剥き出す。
 これぞ夜の虎。否、昼夜の区別さえ失った手負いの狂虎。
 獣は死に際が最も恐ろしい。神算鬼謀を秘める異形の人獣なら、尚のこと。

 以って殺人考察、武装完了。
 ノクト・サムスタンプは今より修羅道に入る。
 間違いなく過去最大に漲った戦意を許に、腰掛けたソファから立ち上がろうとして。

「…………あ……?」

 彼方の方角で煌めいた、覚えのある――忘れもしない愛しい気配と。
 蛇腔領域そのものの不気味な震撼に、男は早速想定外の楔を打ち込まれた。

「なん、だ……? なんで、お前が……いや、待て……そうか、まさか……ッ!」

 驚愕もそこそこに、彼が浮かべた表情は――歓喜。

「はッ! ははははははァッ!! そうかそうか、そうかよそうかいそうですか! やってくれたなァ、ハリー・フーディーニィ!!」

 今際の蛇杖堂寂句に対して向けたのとは違う、明確な正の感情。
 ノクトはこの異変を、満面の歓喜で受け止めた。
 面妖な真似を、とか、要らない手間を増やしやがって、などとは微塵も思っていない。

 確かに想定外、これまで組み上げた鏖殺のロードマップをともすれば台無しにしかねない破茶滅茶。
 だとしても嬉しい。嬉しくない筈がない。彼なら、彼らなら、誰だって同じ反応をした筈。

「お前には散々煮え湯を飲まされたが、最後の最後に認めてやるよ。
 俺が知る限り、テメェより頭抜けたエンターテイナーはいねえ。
 天晴だ、〈脱出王〉。その奇術、ノクト・サムスタンプは死んでも忘れないと誓おう!」

 均衡が壊された。秩序が弑(ころ)された。なれば訪れるのは、無秩序ですら秩序だったと思えるほどの予測不可能、変数尽くしの阿鼻地獄。

「あぁ……来たのか、よりにもよって今、また俺の前に来てくれたのか、我が麗しの星……」

 神寂祓葉、蛇腔領域に侵入す。
 神寂縁も、それを討とうとする者達も。
 誰も彼もにとって、考えられる限り最悪の展開。
 そのことを赤坂亜切と並んで誰より理解しながら、ノクトはうっとりと笑っていた。

 絵面としては不気味でさえある。
 四十半ばの厳つい男が、桃源郷に放り込まれたような顔で気配の方角を眺めているのだ。
 これこそ、彼の狂気。理知の内側でずっと息を潜めていた、悪鬼・魔女のような最右翼達にも劣らない糖蜜化した妄念妄執。

 ノクト・サムスタンプは、この世界の神に恋をしている。
 恋は盲目。盲いるからこそ恐ろしい。
 だが冷徹の皮が剥げ、非情なほど整然と並べられた理性の数式が一挙に狂い果てたなら――これこそ真の恐怖。

 策は完璧なままに破綻し、虎は明日を奪われた。
 科された要求は超絶の難易度で、しかし拒むことを許されない。
 その絶望が、眠れる獅子を呼び起こす。
 口が開き、歯の間で唾液が糸を引いた。
 絶望の畔で陶酔する狂人の秘めたる誤謬(エラー)が、いざ言葉にされようとした瞬間。


「ご機嫌じゃないか。似合わない顔だな、人でなし」


 扉が開き、窶れた顔の少女が入ってきた。
 彼女は、針音の都市に悪魔を招き入れた張本人。
 持って生まれた優しさを捨て切れず、自ずから破滅の契約書へペンを走らせた敬虔な愚か者。
 そして、ノクト・サムスタンプにとってのアキレス腱。琴峯ナシロが、そこにいた。

「見て分かれよ、取り込み中だ」
「詐欺師の事情なんざ知るかよ。まぁ、追い出したきゃ好きにすればいいさ。今の私は、あんたの下請けみたいなモノなんだろう?」

 憮然とした物言いには聞く耳持たず、ナシロは机を挟んで彼と対座した。
 一人用のソファに腰掛けた彼女の呼吸は荒く、心身どちらも容態芳しくないことが窺える。

 ナシロの発言は自虐でも何でもなく、自分の置かれた状況を読み上げたに過ぎない。
 サムスタンプの契約魔術は伊達ではないのだ。
 誇張抜きに、ノクトは口先だけで彼女を自殺させることも可能だろう。
 だからこそ分からない。傭兵の眉が顰められたのも宜なるかな。

「何の用だ。まさか今更、俺と交渉でもしようってのか」
「それこそまさかだ。餅は餅屋って言うだろ、下手の横好きでその道のプロとやり合うほど命知らずじゃないよ」
「どうだかな。命知らずじゃなかったら、あんな馬鹿げた契約は呑まないと思うぜ?」
「はっ、……そうだな。違いない」

 ――このガキ、何をしに此処へやってきた?

 ナシロの魔術は一から十までタネが割れている。
 初見殺しで寝首を掻かれることも、まず有り得ない。
 となると用向きは交渉の懇願くらいしか考えられなかったが、それも彼女自身が否定した。

「別に、なんてこともないよ。やることもないが、だからってずっと寝腐ってるのも不誠実だと思ったまでだ」

 琴峯ナシロは、ノクト・サムスタンプに決して勝てない。
 純粋な実力もそうだし、そもそも性格上の相性が悪すぎる。
 契約傭兵にとって、力ない善人ほど絶好のカモはいないのだ。
 そして現に、この幼い修道女は生殺与奪のすべてをノクトに握られた。

 ノクトは当然、それを理解している。
 理解しているからこそ、また彼がそういう人間だからこそ、ナシロの真意には辿り着けない。

「話をしようと思ってな。よくよく考えると私は、あんたらについて何も知らない」
「へぇ。じゃあ何か、身の上話でもしてやれば満足だと?」
「まあ、そんなところだな」
「――――」

 琴峯ナシロという少女は、ただ単純に善人なのだ。
 こんな状況に追い込まれてさえ、彼女はノクトをそれほど憎悪していない。

 呪っているのはむしろ、こういう形でしか河二へ報いてやれなかった自分の不甲斐なさの方。
 私はあまりにも無知で、ずるずる迷ってる内に取り返しのつかないところまで来てしまった。
 優等生の彼女は、ペケが付いて返ってきた答案をそのままにしておけない。
 たとえ明日も定かならざる身になったとしても、出来ることが何もなくても、怠惰にだけはなれないのが琴峯ナシロ。

「……驚いた。馬鹿な嬢ちゃんとは思ってたが、筋金入りだな」
「――初めは、楪依里朱だった」

 呆れを通り越し感嘆した調子で漏らすノクトを無視し、ナシロは呟く。

「この世界の設定だと、私とあいつはクラスメイトでな。
 正直かなり嫌いな女だったし、だからこそアレがマスターだってのを知った時は驚いた」
「だろうな。イリスは俺達でも制御の利かん癇癪持ちだ。ガキの手に余るのは仕方ねえよ」
「代々木公園であいつと対話して、正直に言うと悲しくなったよ。
 無辜の人々の犠牲を一顧だにしないあの女のことが、欠片ほども理解出来なかったから」

 楪依里朱。
 都市の平穏を喰らう〈蝗害〉の主は、ナシロの既知の人間だった。
 彼女もまた、狂っている。極星に灼かれた少女は、端役の悲哀など意にも介さない。

「だけどさ。そんなあいつと私の間に割って入って、庇った奴が居たんだ」

 天枷仁杜。後の、渋谷の神。
 魔女の邪智暴虐に憤慨したナシロの前に、立ちはだかった人間。

「多分大人だろうに、こんなガキのことが怖かったんだろうな。
 涙目で足ガクガクさせながら、それでも"友達"を守るために反論してきた。
 この世界はゲームみたいなもので、そこの人間が何人死のうがどうでもいいだろ、って」

 月姫の言葉は、今もナシロの鼓膜にこびり付いている。
 右も左も作り物のモブキャラクター。この世界は一種のゲームに過ぎない。
 ならばそこで消費される命に価値を見出して、死の善し悪しを語ることに意味はないと、天枷仁杜はそう言った。

「――道理だな。俺も同じ考えだ」

 ノクトは、顎髭を擦りながら平然と答える。

「傭兵だからな、そもそもその手の博愛主義には縁がないんだが。
 少なくともこの世界は造物主……オルフィレウスの箱庭だ。
 ゲーム云々の下りは言い得て妙だと思うよ。0と1、過去も未来もない自動人形(オートマタ)。
 愛玩するだけならいざ知らず、その生き死にに価値を見出す意味は薄い。というか、皆無と言っていい筈だぜ」
「言うと思ったよ」

 ナシロは背もたれに体重を預けながら、疲れ切った顔で、苦笑。
 それから窓の外に――腐敗色に燦く無間暗夜へと目をやった。

「私はその価値観を、血も涙もない人でなしの論理だと切り捨てた。実際今でも共感出来ないし、聞いてるだけで胸が悪くなりそうだ」

 閉ざされた世界。蛇の胃袋、蛇腔領域。
 この外でも、血で血を洗う戦いが繰り広げられているのだろう。
 そこには必ずや、ナシロがまだ名前も知らない"誰か"がいる。
 彼女の望む優しい世界を平然と踏みつけに出来る、イリスや仁杜、ノクトのような"誰か"が。

「だけどきっと、それじゃ駄目だったんだ。これを多様性だなんて言いたくはないが、たとえ共感出来なかったとしても、理解しようとする努力を惜しんじゃいけなかった」

 現にナシロは、河二の仮説を聞かされていた。
 先に挙げた天枷仁杜は、ともすると手を取り合える相手かもしれないと。
 高天小都音の死亡により実らないままで終わった未来だが、気付く余地は与えられていたのだ。

 ――たとえ信じる規範が違っても、同じ道を往けないわけじゃない。

 そのことに気付くのがもう少し早かったなら。
 例えば、あの代々木公園の時に思い至れていたなら。
 今の自分を取り巻く絶望的な現状だって、何かが変わっていたかもしれない。

 そう痛感したならば、行動を起こさないのは怠惰というもの。
 よってナシロは摩耗した心身に鞭を打ち、立ち上がってノクトの控え室を訪ねた。
 刃を交えて戦うのでも、智謀を武器にしのぎを削り合うのでもなく……彼という相容れない他者(だれか)と話をするために。

「だから私は、あんたの話が聞きたい」

 平時のノクトなら、申し出を断るのに一拍の逡巡も要さなかったろう。
 何故ならそれこそ意味がない。単なる時間の無駄で、暇潰しの手遊びにも劣る無為な時間だ。
 彼はそういう無駄を冒さないからこそ、稀代の策士として大成出来たのだから。
 しかし――

「……案外侮れないのかもな、若さゆえの向こう見ずってのも」

 ナシロは、タイミングが良かった。
 今こそが絶好だった。
 論理でしか動かない怪物が狂い出し、違う生き物に生まれ変わるその瞬間を突くことが出来た。
 ノクト・サムスタンプという完璧な男に生まれた感情(エモーション)に、誰より早く付け入れた。

「――――いいぜ。どうせゆっくり過ごすのもこれが最後だ、ティーンの自分探しに付き合ってやるよ」

 斯くして策士は、否。
 狂人は、語り始める。
 その狂気を。
 彼という男の、根源を。


◇◇


 時を、〈はじまりの聖杯戦争〉にまで遡る。


 奇しくもその日、ノクトがふんぞり返っていたのはどこぞの大企業の社長室。
 国内有数の上場企業ともなれば、下手な公的機関よりも余程セキュリティが充実している。つまり根城にするには最適というわけだ。
 相棒の暗殺者によって社員を総端末化し、ガーンドレッドから掠め取った設備を用い物理的・魔術的双方の面からビルそのものを要塞化。
 情報が漏れて阿修羅王を投げ込まれでもしない限り、まず盤石の大王城。

 その筈だった。この時までは。

「たーのもー!」
「は?」

 東京現地で交わした契約書の整理をしていたノクトの目の前で、社長室のドアが蹴破られた。
 気の抜けたような掛け声と共に入室してきたのは、競争相手の中でも間違いなく最も取るに足らない陣営の少女。

「お、お前……な、何だ? どうやって此処まで来た……?」
「んー、なんかぴーんと来て。イリスを怒らせちゃったから、コンビニでケーキでも買って帰ろうと思ってたんだけどね。まま、ついでですよついで」

 神寂祓葉は、ケーキやホットスナックでぱんぱんのレジ袋を片手に、最悪の策士に道場破りを仕掛けてきたのだ。

 はいおみやげ、と差し出されたファミチキもつい咄嗟に受け取ってしまう。
 そのくらい意味不明。というか理解不能。
 自軍の備蓄を横取りされて怒り心頭のガーンドレッド家はおろか、あの蛇杖堂寂句にさえバレていない肝煎りの拠点を、"ぴんと来た"なんてふんわりした理由で暴かれたのだから心境は想像を絶する。

(ッ――馬鹿が、呆けてる場合か……! このガキはセイバー陣営と繋がっている。此処に鎌倉武士をブチ込まれたら損害なんてレベルじゃねえぞ……!)

 この時点での楪依里朱は、然程警戒に値する魔術師ではなかったが。
 彼女の連れる"鎌倉武士"、セイバーのサーヴァントは話が別だった。
 アレは阿修羅王とは別なベクトルで話が通じず、理屈が通じない。
 ノクトにとっては天敵の一つである。まだ都内での版図拡大も五割程度の進捗の今、北条時宗とかち合うのは分が悪すぎた。

 しかし当の祓葉はというと、焦る敵(ノクト)にけらけら笑って。

「もー、そんな焦らなくても大丈夫だって。イリスには教えてないから、セイバーのおじさんも飛んでこないよ」
「……ホントか?」
「ほんとほんと!」
「ホントにホントだな?」
「ほんとほんとほんと! やだなぁもう、おじさんったら疑り深いんだから~」
「そうか。なんで俺にわざわざそれを教えた?」
「へっ?」

 動揺する彼を宥めてきたものだから、悪人面が余計疑念で歪んだ。
 無理からぬことだ。ノクトはこれまで、知らなかったのである。
 存在は知っていたが、戦場で出くわしたことはなかったのである。本物の馬鹿という生き物に。

「イリスに話が通ってるってことにすれば、俺は窮地に立たされる。
 言うなれば首根っこを掴まれてる状態だ、取引なり脅迫なり、何であれイニシアチブを握れるだろ」
「…………」
「それに、こっちはお前のサーヴァントがとんでもない"ハズレ"だってことも知ってる。
 イリスの助力がないと分かれば、アサシンの端末をけしかけて物量で圧殺するなり、俺が直接シバくなり出来るんだぞ?」
「…………」
「なのに何故こんな不合理な真似を――っておい、なんだその顔色は。まさか、テメェ……」
「…………」

 ノクトの説明を聞くにつれ、笑顔のまま、祓葉の顔は青くなっていった。
 更にだらだらと、滝を思わす勢いで汗を掻き出す始末。
 最初はどんな策を持ち込んできたのかと身構えたノクトも、流石に気付く。
 自然と口が開いていった。開いた口が塞がらない、という言葉が、時にただの比喩ではないのだと初めて知った。

「何も、考えてなかったのか……?」
「……う、うわーーん!! どうしよう!! たすけてイリス~~~っ!!!」

 頭を抱えてわあわあと泣き出す祓葉に、ノクトはひたすら打ちのめされていた。
 衝撃だった。なんだこいつは。この知性のちの字も感じられない生き物は一体何なのか?
 そして自分は、そんな馬鹿の極みみたいな少女に潜伏場所を暴かれたのだ。
 遅れてやって来た実感が、ずん……と心にのしかかる。
 別段自分の能力にプライドを持っているわけでもないが、流石にショックだった。泣く子も騙すサムスタンプの契約傭兵にとって、生涯で最大の精神的負傷であった。

「はぁあぁあぁぁあぁ……」

 頭を抱えたいのはこっちだよと、ノクトはため息をつきながら嘆いた。
 何せこれで、この拠点は放棄を余儀なくされたわけだ。
 如何に馬鹿でも、いや馬鹿だからこそ、彼女は確実に嬉々として此処でのことをイリスに喋るだろう。
 口八丁で箝口を了承させることは簡単そうだが、馬鹿の口は悪気がなくてもよく滑る。

 たいへん奇妙な光景だ。
 時刻は二十一時、大企業本社ビルの最上階で、策士と少女が共に途方に暮れている。
 やがて。そんな不毛な時間を断ち切ったのは、やはりと言うべきかノクトの方だった。

「……イリスに伝えとけ。
 "今日のことは痛み分けにしてやる。俺は拠点を放棄するから、そっちも二十四時間は手出し無用だ。もし破れば、こっちの総力で応戦する"ってな」
「ま、まってまって。今メモするから、えぇっと、こういう時のためにメモ帳を持たされててね……?!」

 毒を仕込む知能はないだろう。第一"夜"の五感なら感知できる。
 なんだか真面目にやるのも馬鹿らしくなり、もそもそと手元のチキンに齧り付いた。
 胸ポケットからメモ帳を取り出していそいそ筆を走らせる姿を見ながら、あの白黒娘も苦労してんだな……と少しだけ同情する。
 が、それはさておき。

(で――何なんだ、こいつは……?)

 初めての不可解を前に、ノクトは眉根を寄せていた。
 馬鹿だから無策のまま、着の身着のままで敵の大将首に突撃してきた、ぜんぜん良くないが此処までは一旦いいとする。

 しかし、だとしても無茶苦茶すぎる。
 二重三重に隠蔽を施し、社会の中に紛れ込ませた自分の拠点を……この少女はたかが直感で見抜いてのけたというのか。
 加えて、道中に配備していた警備役の端末達はどうした。
 多少死ににくいだけで、一般人に毛が生えた程度の強さしかない筈の格下がどうやって此処まで侵入できたのか見当も付かない。

 悪寒が、ムカデのように背筋を這い回る。
 一から十まで、あらゆる筋が通っていない。
 まるで目の前の彼女のために、あるべき理が歪められてしまったかのような座りの悪さ。
 この時初めて、ノクト・サムスタンプは神寂祓葉というマスターを脅威と認識した。

「よし、メモ完了。ぶい!」
「よかったな」
「……ん? ていうか私が此処でおじさんをやっつけちゃったら、それでオールオッケーなのでは?」
「やめとけよ。イリスから聞いてねえのか、今は夜だぜ」

 神寂祓葉は、最初から最強だったわけではない。
 むしろ〈はじまりの聖杯戦争〉のほとんどの時間、彼女は取るに足らない雑兵の一人でしかなかった。
 不死身に近い埒外の耐久力を持つだけの、力も脳も足りない雑魚。
 そんな格下が、よりにもよって"夜"のノクト・サムスタンプを相手に番狂わせを起こすなど有り得ない話だ。

 ――なんともゾッとする誤認である。

「んんん、そっかぁ……。じゃあ私、何のために此処まで来たんだろ」
「俺が知るか。まぁいいだろ、破格の成果だぞ。素直に誇っとけよ」
「……えへ。それもそっか。励ましてくれてありがとね、……えー、と……? おじさんの名前、なんだっけ?」

 励ましたつもりは微塵もないのだが。
 そろそろ頭が痛くなってきたノクトの気も知らないで、祓葉はこてん、と首を傾げて問うてきた。

「ノクト。ノクト・サムスタンプだ、敵の名前くらい覚えとけ」
「あー! そうそう、ノクト! なんかいい名前だよね。こう……声に出したくなるフルネーム、っていうか!」

 普段なら「舐めてんのか?」と打算混じりの脅しでも飛ばす場面だが、相手がコレでは毒気も失せるというもの。
 加えてノクトに言わせれば、自宅でくつろいでいたら急に強盗が入ってきて有り金をふんだくられたのと変わらない。
 心底疲れ果てた様子の策士と、さっきぴーぴー泣いていたのも忘れてにんまり笑っている馬鹿の対比は、なかなかに皮肉なものだった。

「――私はね、祓葉」

 きっと彼女は、自分がやってのけたことを偉業とすら思っていないのだろう。
 とてとてと歩いてきて、両手を腰の後ろで組んで、座っているノクトに上体を突き出す。

「神さまが寂しがって祓う葉っぱって書いて、神寂祓葉。覚えといてくれたら嬉しいな、ノクト」
「名乗らなくても知ってるよ。俺はお前みたいな馬鹿じゃない」

 神寂祓葉。
 日本文化になど欠片の思い入れもないノクトだが、何故だか漠然と、いい名前だなと思った。
 字面も響きもなんだか仰々しく、あーぱーな小娘には凡そ相応しくない四文字だ。
 なのに。どうしてか、しっくりくる。この存在を定義するのにこれ以上の呼称はあるまいと、納得させられてしまう。

「さ、帰った帰った。お前は帰って寝るだけだろうが、こっちはこれから夜を徹しての引っ越し作業なんだよ」

 しっしっ、と手でジェスチャーし、手元の端末を起動する。
 こんなこともあろうかと、事前に逃げ先を準備しておいてよかった。備えあれば憂いなしとはまさにこのことだ。
 過ぎたことを悔やんでも仕方がない、せめてリカバリーだけは完璧にこなし、いつか今夜の礼をたっぷりしてやろうと思っていると。

「――のーくとっ」

 また少女の声がして、舌打ち混じりに顔をあげる。

「なんだ、……よ――――」

 そこでノクトは、最初とは違った意味で固まった。
 部屋の入口。蹴破ったドアの前に佇んで、こっちを見ている少女の顔。
 時間とリソースをつぎ込んで拵えた大拠点を気まぐれで台無しにしてくれた怨敵の姿に、思わず時を忘れてしまう。

「またね。次はお互い、本気で遊ぼ?」

 他の誰でもない、自分だけに微笑みかける幼顔。
 それが、あまりにも。
 あまりにも、今まで見たことがないくらいに――可愛かったから。

「…………おう。まあ、機会があったらな」

 ノクトは照れ隠しのように視線を背けて、煮え切らない返事を返すしか出来なかった。

 これが、非情の策士と運命の子のファーストコンタクト。
 そして、後に狂人と呼ばれることになる男の〈はじまり〉の夜。
 予想外の客人に驚かされ、らしくもない言動を強いられる。
 奇しくも、本当に奇しくも――今この瞬間と、同じシチュエーションであった。


◇◇


「と言っても、別にお涙頂戴のエピソードなんてものはねえんだがな。
 悪人と悲しい過去がセットなのはコミックの世界だけだ。
 そういうのを期待してるんだったら、それこそイリスに頼んだ方が懸命だぜ」

 ノクト・サムスタンプという男は、環境が生んだ怪物などではない。
 彼の生い立ちは、少なくとも魔術師の世界ではごくごくありふれた、何なら恵まれてさえいるものだった。

「それなりに歴史のある家に長男として生まれ、黙っていても当主の座が転がり込んでくる。
 その日の晩飯に苦労した記憶はないし、親もまあ、厳しくはあったが愛情を注いでくれたよ。
 ただ強いて不幸があったとすれば、どこまでも俺は魔術師に向いてない男だった、ってコトか」

 サムスタンプ家。
 紀元前から連綿と続いてきた魔術師の家系に、ノクトは生を享けた。
 多少の不自由こそあったが、それさえ飲み下せば恐らく生涯に渡り安泰の暮らしを送れる身の上。

 だがこの男は、どこまでも頭が良すぎた。
 栴檀は双葉より芳し。
 それが高じて、成人を待たずに気付いてしまったのだ。

「俺の家のやり方では、何をどうやっても目指すところには辿り着けない。
 魔術師の端くれとして真理の解明に関心がなかったわけじゃないが、結末の見えた徒労に人生を擲つなんざ馬鹿のすることだろ?」

 ――だから俺は、まず父親を殺した。

 ノクトは語る。酒に酔って自慢話を聞かせるような口振りで。
 根源到達を諦めるにしても、今更家出紛いのことをする気にはなれない。
 それに、首尾よく当主の座を継承したところで、怒り狂った親と喧嘩するのは非効率というもの。
 よって継承の日を待たずに実父を葬り、魔術刻印の引き継ぎを完了。
 誰にも文句を言わせない力を蓄えた上で、辣腕な青年はサムスタンプ家の終焉を宣言したのだ。

「古臭いしがらみに未練はなかったし、待遇さえよければ時計塔――魔術師の最高学府に秘術を提供してやるのも吝かじゃなかったんだが、まあこれは早々に諦めた。
 奴ら、隙あらば他人を出し抜きたくて仕方ないクセに体裁に拘るからな。大義を放棄して金勘定に走った落伍者と縁を持ちたがる奇特なパトロンは、少なくとも俺の時代には見つからなかったよ」
「それで、傭兵に転じたと」
「そういうこった。自分で言うのもなんだが、天職だったな」

 男は魔術師としての生涯に見切りをつけ、魔術を道具として使う、雇い兵としてのキャリアを開始する。
 契約傭兵ノクト・サムスタンプ、〈夜の虎〉の誕生であった。

「山のように騙したし、山のように殺したよ。
 さっきは人形の命の価値云々について話したが、俺はそもそも、現実でも無辜の犠牲に心を痛めない性分でな。
 最初から頭と指先を切り離して行動できた。手が鈍ったことも、良心の呵責なんざに苛まれたことも誓って一度もない。
 手前で愛を囁いた嫁の首をへし折った時も、頭にあったのは"次にどう動くべきか"だった。まあ、一種のサイコパシーなんだろう」

 傭兵としての活動を開始してから現在まで三十年弱。
 ノクトが直接殺めた人間は三桁を優に超え、間接的な犠牲者はその倍を超える。
 〈はじまりの六人〉の中でさえ、これほどの殺戮を犯した者は存在しない。

 まさに人の形をした災害。
 持って生まれた才能を、正しい頭脳で以って最適に運用すればどうなるかという最悪のモデルケース。
 対面で話を聞くナシロの身体が強張ったのは詮無きことだったろう。

「ただ――些か暴れすぎたのは否めなかった。俺を嵌めるつもりで仕事を持ち込んでくる輩がちらほらと出てきたんだ。
 こうなるともう潮時だ、命が幾つあっても足りん。
 だから蓄えた私財を抱えて、ドバイにでも移住してのんびり余生を過ごすつもりだったんだが……そんな俺を直接尋ねて、破格の報酬を提示する依頼人が現れた。
 耳を疑ったぜ。極東の首都で催される魔術儀式、こいつを勝ち抜いてこいとの仰せだ」

 だが、此処までは序章に過ぎない。
 ノクトの人生を真に変えたのは、この先だ。

「お前も知っての通り、〈はじまりの聖杯戦争〉さ。
 俺は最後のつもりで依頼を引き受け、東京へ入って英霊を召喚。思い思いに暴れ回ってやったよ」

 第一次聖杯戦争。
 冬木の大聖杯に匹敵する正体不明の願望器、〈熾天の冠〉の争奪戦である。

「仕事に私情を持ち込む傭兵は下の下なんだが……流石にアレは楽しかったな」

 これに比べれば、今まで渡り歩いたどの戦場も子どものお遊びだったと断言できる。
 自分と互角の賢人など初めて見たし、愚者の小心が如何に恐ろしいかも骨の髄まで堪能した。
 葬儀屋の炎は常に最大の脅威で、奇術師の跳梁には年甲斐もなく苛つかされた。
 楽しかった。父を謀殺した時よりも、熱帯雨林の真ん中でゲリラに囲まれた時よりも、ずっと濃厚に生を実感できた。

 振り返ると、つくづく自分は上手くやっていたと思う。
 都市そのものを武器に変えるアプローチは疑心暗鬼を生み、ガーンドレッド家の暴走で東京は地獄に変わった。
 つつがなく進行していれば、勝者となったのは自分か、同じだけの智を持つ蛇杖堂の暴君かの二択だったろう。

「――勝てた戦争だった。あいつさえいなければ」

 今度はノクトが、窓の外に視線を向ける番だった。
 愉楽に歪んだ眼光が、蛇腔のどこかを闊歩しているのだろう極星を想う。

「神寂祓葉……か」
「そうさ。神さまが寂しがって祓う葉っぱ、と書いて、神寂祓葉。いい名前だよな」

 ナシロは、この話題になった途端、ノクトの声色が異様な熱を帯びたことに気付いていた。
 数理めいた行動原理を基に活動する殺戮者には相応しくない、狂気のような熱情が覗いている。
 倫理的な嫌悪感などではなく、明確な不吉の気配が心胆を撫ぜた。

 恐らくこの先、一つでも受け答えを誤れば自分は死ぬ。
 ノクト・サムスタンプが自分を殺せないことは、ナシロも理解していたが――そうではない。そうではないのだ。
 はじまりの狂人は、そもそも利害の天秤などに縛られる存在ではない。
 これまでのノクトは見事に自分の狂気を律し、一見すると"そう"とは分からないように振る舞ってきた。

 だが、蠍の毒がその防波堤を壊してしまった。
 そうなれば後は波打ち際の砂城も同然。
 奥底に眠っていた小さなエラーが自己増殖を繰り返し、傭兵のシステム中枢を侵食する。
 最上の合理的判断を下せる脳髄を持っていながら、それを一時の衝動に任せて放り捨ててしまえる存在。
 そういうモノに、ノクト・サムスタンプは現在進行形で変貌しつつある。

「今になって振り返っても、正直とんと分からん。
 何故俺が、あいつに負けたのか。
 あんな可愛いだけの馬鹿に轢き潰されたのか……どんな理屈を引っ張り出して捏ね回しても、どこかで必ず破綻するんだ」

 ナシロの緊張を、陶然と語るノクトは真実認識すらしていない。
 目の前の少女が示す総ての反応が、今の彼には些事だった。

 記憶を掘り返す度に滲み出てくる快楽物質に脳が鈍麻して、昇華毒の激痛さえ一時的に忘れ去っている。
 ノクトの脳裏を埋め尽くすのは、顔、顔、顔、顔。
 どこを切り取っても太陽みたいに笑っている、ある白い少女の顔だけ。

「なあ、琴峯ナシロ。お前は、あの女を何者だと思う?」
「……無茶な質問だな。私はそいつと会ったことがない」
「あぁ、そうだったか? なら想像しろ。想像してくれよ、シスター様。俺の告解を聞いてくださるんだろう?」

 胸が熱い。
 心臓が張り裂けて、巡る血流が出鱈目にぶち撒けられていくような感覚。

「あいつを想うと、いつだって胸が熱いんだ。
 腹の底が疼いて、息が荒くなる。
 もう随分と前のことだってのに、出会った時から殺される瞬間まで、余すところなく鮮明に思い出せちまう」

 そのくせ、いつから自分がこうなってしまったのかは覚えていない。
 最初に顔を合わせた時は、どちらかと言えば最悪寄りの印象だった筈だ。
 なのに気付けば、常に彼女の笑顔を探していた。
 戦火の中に。雑踏の隅に。どこかにあの白い向日葵が咲いていないかと、目を凝らすようになっていた。

「――そうだよ。俺はもう聖杯だってどうでもいいんだ」

 莫大な報酬を元手にした、悠々自適な隠居生活――以前はあんなにも魅力的に思えた人生設計が、今じゃセピア色に褪せて見える。
 酒を浴びて女を抱き、上等な飯をかっ喰らって過ごす生活。しかしそこに、美しいものはあるのだろうか。
 魂まで灼かれるようなあの微笑みさえあれば、娯楽だの安息だのはすべて些事ではないのか。

 巨万の富を築いて送る余生も、彼女がいないなら悲しいほど無価値だ。
 口に糊しながら恐怖の中で過ごす逃亡生活も、彼女がいるなら極上の至福だ。
 冠など要らない。己が、真に欲しい未来は――

「俺はあいつが欲しい。神寂祓葉、あのとびきり無垢で邪悪な女が欲しい。それさえあれば、他に何も要りやしねえだろうが」

 ノクトの言動は、完全に精神の均衡を欠いていた。
 告解のように自分の内面を語り聞かせていたかと思えば、自問自答のように自らの愚昧を叱咤する。

 少女の本能が警鐘を鳴らす。
 この男に、真実を突き付けてはならない。
 自覚させてはならない。
 それをした時何が起こるのか、どういう怪物が誕生(うま)れるのか、想像するだけで奥歯が震えそうだった。

「さあ、教えてくれよ琴峯ナシロ。お前は俺の犬だ。主人の命令に逆らうなんて許されねえぞ」

 しかしナシロは、ノクトとの契約に縛られている。
 よって彼女には実のところ、その選択を避けることなど出来ない。

 だが。

「神寂祓葉とは、何者なりや?」
「……さっきも言ったろ。私はそいつのことを知らない」

 仮にそんな事情がなかったとしても、ナシロはやはり逃げられなかったろう。

「だけど、あんたが感じてる不可解に、名前を付けてやることなら出来るよ」

 だって彼女は、琴峯教会のシスターなのだ。
 悩み、迷って、人は教会の門を叩く。
 聖職者は、目の前の仔羊を心の善悪で区別してはならない。
 打ち明けられた弱さに寄り添い、抱き締めてやるのが彼女たちの主命だから。

「ノクト・サムスタンプ。あんたは――」

 よく打ち明けてくれたな。
 もう大丈夫だ、私が教えてやるよ。
 あんたが見ないようにしてきた本当の気持ちを、ちゃんと言葉で伝えてやろう。


「――――神寂祓葉に、恋をしている」


 そうして。
 〈渇望〉の狂人は、己が何に飢えているのかを直視した。


「…………は」

 今の自分を指して、そのように評した人間は初めてではない。
 バーサーカー。恋の狂戦士、ロミオもまたノクトへ同じ言葉をかけた。
 おまえは恋しているのだと。狂おしいほどに、運命の少女に灼かれているのだと!

「は、はは」

 その度に所詮は狂人の戯言、そう嗤いながらやり過ごしてきたが。
 今、目の前で同じ言葉を吐いたのは凡そ狂気とは対極にいる人間。
 作り物のガランドウが口にする泣き言にさえ胸を痛め、一銭の得にもならない悩みを後生大事に抱き続けられるような、不便すぎるほど生真面目な女だ。

 狂気と、正気。
 暴力と、倫理。
 相反する二人が、見解を同じくするというのなら。

「くははははははははは――!」

 合理的に考えて、もう疑いの余地はない。
 ノクトは身体を揺らして、天高らかに哄笑した。
 その拍子に口から、ごぼごぼとドス黒い血糊が溢れてくる。
 それを拭いのも忘れ狂笑するこの男の、一体どこに策士の面影が見て取れよう。

「やっぱりそうか。この病の名前は、恋(それ)だったか」

 胸に去来する敗北感と、病みつきになりそうな清々しさ。
 サムスタンプを畳んで出奔した時も、思えばこんな気分だった。
 しち面倒臭い束縛から解き放たれ、身体一つの男一匹になれた昂揚感が全身を震わせる。

「気持ちの悪いことを言わせて悪かったな。似合わねえだろ、こんなオッサンが女子高生にぞっこんなんて」
「まぁ……正直に言うと。歳とか考えろよって気持ちはないではない」
「ぐうの音も出ねえぜ困ったなぁオイ。あぁまったく、なんて冗談だよ。道理でこうなるまで気付けねえわけだ」

 なんて無様。
 なんて滑稽。
 だが――なんて痛快!

 これが、恋するということか!
 これが、誰かを一途に想うということか!
 ならば認めよう、狂戦士ロミオは正しかった!

 この世にこれより熱く燃え上がる感情など存在しない!
 終わらない誤謬の最果てに、己は究極の火を手に入れた!
 足りなかった最後のピースが、音を立てて埋まる。
 狂人達が一人二人と欠けていく中、ノクト・サムスタンプはようやく在るべきカタチへ至ったのだ。

「礼を言うよ、琴峯ナシロ。俺の言葉なんて信じられないかもしれねえが、この感謝だけは嘘じゃない」

 彼の窮状は、何ひとつ変わっていない。
 蠍の毒は今も変わらず身体を蝕み、鏖殺の完遂以外に生き延びる道は皆無。
 こうしている間にも自分の首を狙う暗殺者達が迫っていて、誇張でなく一時間後の未来も知れない絶体絶命の袋小路。

 されど、ノクトという男を知る者が彼の変心を知ったなら、誰もが警戒の値を二桁は跳ね上げるだろう。
 狂気を抑制した状態でさえあんなにも脅威だった男が、遂に自分の渇望を自覚してしまった。
 ノクト・サムスタンプは告解にて答えを得、真に理屈の通じない、一匹の獣(ケダモノ)に進化を果たした。

「俺は、祓葉が欲しい。単なる所有欲なんかじゃねえ、狂おしいほどにあの微笑みを独り占めしたいんだよ。いいやこの際主従の役柄が逆だっていい。傅けと言われればそうしよう、足でも靴でも喜んで嘗め回そう。恋しい、恋しいぜ祓葉――俺はお前だけが愛おしい!!」

 ナシロは、唄うように欲望を曝け出す男の嬌態に一人戦慄する。
 自分の言葉が新たな怪物を創り出した事実。それをしっかりと認識していた故に。

 ただ――彼女も当然、馬鹿ではない。
 敵に塩を送るような真似を無策にやらかすほど、愚かな女ではないのだ。
 これはもう一つの毒だ。天蠍の強壮剤が肉体への猛毒なら、ナシロが打ち込んだのは精神への毒。

 ノクト・サムスタンプに、不合理を愛する心を芽生えさせた。
 完全な直感だったが、この事実は後に必ずや大きな意味を持つという確信がある。
 囚われの自分が出来る最大にして、唯一の反撃だ。
 その成否を愛する善き人々に託さなければならないことだけは、胸が張り裂けそうなほど心苦しかったが。

「……ふぅ。しっかし、見かけによらずしたたかな女だな」
「何のことだか」
「とぼけるなよ、今更咎めやしねえさ。
 お前は馬鹿だが、頭が回る。
 蜻蛉返りしてきた俺の様子を見て察した筈だ。出撃先で、手痛いカウンターを貰ってきたんだろう、ってな」
「――っ」

 そして当のノクトも、そんな心算は見通している。

「俺が弱って、尚且つベルゼブブは"野郎"の死を報告していない。
 つまりこれは俺の事実上一人負け。だったら此処にあいつらがやって来る可能性にも思い当たったんじゃねえか?」
「……さぁな。どうしても知りたかったら、お得意の命令でもしてみたらどうだ」
「それには及ばない。今の反応で大体分かったよ」

 ナシロが、ノクトを理解したいと思ったのは本心。
 更に言うなら、彼の告解に答えを与えたのも同じく純粋な善意に依るもの。
 だからこの戦果は、あくまでも副次的な産物なのだ。
 とはいえ。ノクトが指摘した通り、ナシロもまた、そういう結論に至っていたのは事実。

 ――ノクト・サムスタンプが手負いになった。
 ――なら必ず、高乃河二は此処に来る。
 ――アテになんてしちゃいないし、無茶はしてほしくないが、それを伝える手段もない。

 だったらせめて、助けを待つだけのお姫様では居たくなかった。
 こんなどん詰まりの底辺からでもかませるパンチがあると信じ、ノクトが見せた人間的空隙を善意の矛で穿いた。
 それがこの、見聞きする者のいない、ちいさな戦闘行為の顛末。

「恩を仇で返すのは胸が痛いが、勝つのは俺だ。これだけは譲れない」

 ノクトは不敵に断ずる。
 高乃河二は死ぬ、と。
 病人の強がりには聞こえない。
 血に濡れながら立ち上がった身体は、滅びながら満ち足りていくという矛盾を恣にしている。

「高乃を殺したなら、お前からは自我を奪おう。
 四肢を切り外して、もう少しコンパクトになって貰おう。
 俺の恋路を叶えるための秘密兵器として、世界が滅びるまで付き合って貰う」
「恩知らずが。ちょっとは義理立てしてみろよ、オッサン」
「してるさ。白痴になっちまえば、もう身体も心も痛まねえだろ?」

 彼は、強い。
 もしも河二が敗北すれば、その瞬間にナシロの命運も尽きる。これは、そういう戦いだ。


「鏖殺だ。一人も残さん」


 〈恋慕〉とは似て非なる〈渇望〉。
 鋭く、細く、命もろとも先鋭化された闘志が牙と化す。
 彼の宣誓は、たとえ神でも無視の出来ない剣呑なものを孕んでいたが。

「鼻息荒く猛ってるところ悪いが、私からも一つ言っとくぞ」

 胸の前で十字を切りながら、ナシロもまた立ち上がった。
 狂人と聖職者の対峙。恐怖を勇気で押し殺しながら吐いた言葉は、まさしく闇を消し飛ばす十字架のようで――


「あんまり人間を舐めるなよ、狂人」


 斯くして。
 蛇狩りの傍らで、一つの因縁が清算されることが確定した。


◇◇


 そんなやり取りが交わされている、その頭上。
 製薬会社ビルの屋上に、二体の英霊が並んでいる。
 片や、目も眩むような美貌を湛えた傷だらけの美青年。
 片や、病的に白い衣装に身を包んだ羽付きの童女。
 狂戦士と暗殺者。恋の奴隷と、蝿の悪魔。
 彼らもまた、これからやって来る戦乱を予見して気を研ぎ澄ませていた。

「嗚呼……そうか。ようやく気付いてくれたのだね、我が友。親愛なるノクト・サムスタンプよ」

 サーヴァントとマスターは、契約のパスで繋がれている。
 改めて語るまでもない常識だが、故にロミオは主人の心に起きた異変をいち早く知覚した。
 狂気の昇華。身体に先んじて天昇を迎えた、熱く燃え上がる恋情を識る。
 同時に震えた。爽やかな笑みを湛えながら、その心は言葉に尽くせないほどの感動に震えている。

「ならば僕も、もう先刻のような愚は犯すまい。
 君がこんなにも燃えているのに、僕の勝手な慙愧に付き合わせるなど名折れだ。
 今一度誓うよ、ノクト。この剣はジュリエットのため――そして君の恋を守るために粉骨砕身しよう」

 ノクトが恋に目覚めた事実は、彼のみならずロミオにも影響を及ぼす。
 先の戦いでは敵が魅せた愛の人間讃歌に胸打たれ、著しい弱体化を強いられたロミオ。
 断じよう、二度目はない。この美青年はすべての恋を等しく尊ぶが、友との絆を蔑ろにするほど腑抜けてもいないのだ。

 或いはノクトが目覚めないまま次の戦いに臨んでいたなら、失態は繰り返されたかもしれない。
 しかし虎は、聖職者との対話を経て己の渇望を自覚した。
 爆発的に跳ね上がる主従間の相性値(シンパシー)。失われていた気勢が見る間に満ちていく。
 ともすれば、カドモス、エパメイノンダス、アンタレスの三騎を同時に相手取っていた激昂状態よりも更に上。
 存在からして脆弱な創作英霊のソレとは思えない破滅的な雄々しさが、空前絶後の恋愛譚の幕開けを告げていた。

「ブツブツブツブツうっせーですよ。若い男とオッサンでやれ友だの恋だのと、薄ら寒くて仕方ねーです」
「おや。それは愚弄かい?」
「好きなように受け取って構いませんよ。わたし、あなた達のこと死ぬほど大嫌いなので」

 はんっ、と鼻で笑うベルゼブブ。
 ともすれば剣戟が飛んでもおかしくない不遜さだったが、意外にもロミオは鷹揚に笑うのみ。

「では仰せの通りにさせて貰おう。そう露悪的に振る舞わなくてもいいよ、僕は君の"愛"を理解している」
「……はぁ?」
「先の戦いは見事だった。戦果ではなく心の話だ。君があの少女に向ける想いの丈……しかと見させて貰ったさ」

 返す刀で繰り出された満足げな寸評に、今度は悪魔が殺意を滲ませる。
 夏の陽炎のように大気が歪み、捩れ、常人なら嘔吐して泣きじゃくるほどの不安感が横溢した。
 かのカスター将軍をも一時は慄かせた、蝿の王の本気の威圧だ。
 なのにロミオはどこ吹く風。愛らしい子犬が吠えているのを眺めるような慈しい表情で、鳥肌一つ立てず受け止めている。

「勝手なことをほざかないでください。あなたみたいな狂人に、わたしの何が理解できるというんです」
「理解るとも。愛、恋……カタチは違えど本質は同じだ。誰かが誰かを想うこと、身を投げ出してでも狂おしく奉仕すること。そこには理屈を超えた価値が眠る」

 彼は恋の狂戦士であると同時に、愛の信奉者である。
 そういう意味では、エパメイノンダスとも通じ合う部分があるだろう。
 理性か狂気かの違いはあれど、彼らがそこに懸ける想いは只々純朴なものだ。

 ヒトがヒトを愛し、支えようとする、その営みは美しい。
 それを尊びたいと願うからこそ、ロミオは自他を問わず"愛"の力に多大に影響されてしまう。
 そんな彼だから当然、気付くことが出来た。
 どれだけ露悪的な態度で取り繕っていても、ベルゼブブ――ヤドリバエという英霊が、深く深く主を想っていることに。

「反吐が出る。あなたの言動は醜悪に矛盾してるんですよ、バーサーカー。
 ナシロさんを囚えてる張本人に同調した口で、おめおめとそんな科白を吐けることがいい証拠です」
「かもしれないな。しかし逆に問おう、それの何が問題なんだい?」
「――、――」
「たとえ敵同士、不倶戴天の仲だろうと、素晴らしいものは素晴らしく、尊いものは尊いだろう。
 そこに貴賤を見出したがるのは冒涜だ。僕に言わせれば、そっちの方が余程醜悪に見えるよ」

 話にならない。
 ヤドリバエは苛立ちのままに魔力を窄めた。
 どだい、今ノクト・サムスタンプに弓を引くことは出来ないのだ。

 直に此処には、高乃河二と彼に随伴した何人かがやって来る。
 一時は同じ釜の飯を食い、素朴な時間を共にした仲だが、加減するつもりは毛頭ない。
 先の交戦でもぶち撒けた通り、そもそもヤドリバエは河二に対して良い感情を持っていないのだから。
 目的が何であれ、来るのなら潰す。身の程を分からせて、恐怖させた上で摘み取ってやる。
 すべてはナシロさんの幸福のために。そのためなら自分は誰でも殺す、幾らでも壊す――そこまで考えて、自嘲するように失笑した。

(こんなだから見透かされるんでしょ。あーあ、わたしって、もしかして悪魔とか向いてないんですかね。なんか自信なくなってきちゃいます)

 思えば確かに、妙な話だ。
 次代の蝿王、魔王ベルゼブブを目指す者があんなちっぽけないい子ちゃんに傾倒しているだなんて。
 ロミオにその気はないのだろうが、心の柔らかいところをずぶりと突き刺された心境だった。

「……はあ。分かっちゃいましたけど、あなたとは話にならないですね」
「そうかい? 何なら僕は、君ともっと仲良くなりたいと思って――」
「いやいややめてくださいぞっとします。世迷い言は自分の言動顧みてから吐いてくださいな」

 何にせよ、だ。
 じきに、新たな戦いが始まる。
 ある意味では一つの終わりにも等しい、大局からはずれた血戦が。

 高乃河二は、絶対に来るだろう。
 あの少年はどこまで行っても善性の人間だ。
 身を挺して己を助けたナシロを見捨てられる筈がない。
 そうでなくとも、手負いのノクト・サムスタンプを捨て置くなど愚の骨頂。
 蛇が勝つにしろ彼が斃されるにしろ、ノクトの死は今後を見据える上での絶対条件だ。

「足だけは引っ張らないでくださいね、バーサーカー。愛しのジュリエットさんにもう一度会いたいのなら」
「いい発破だが、言われるまでもない。僕は負けないさ――彼のためにもね」

 最後の小休止が終わる。
 後は嵐の訪れを待つばかり。


 さあ、失われるのは、どの"愛"か。


◇◇


【月光夢幻神界〈渋谷〉・西部(製薬会社ビル)/二日目・午前】

【ノクト・サムスタンプ】
[状態]:疲労(中)、腹部にダメージ(大)、魔力消費(中)、魔術の出力向上中、複数の打撲傷(処置済)、右腕欠損、存在昇華、恋――自覚完了。
[令呪]:残り二画
[装備]:『胎息木腕(右腕分のみ。古いもの)』
[道具]:、蛇杖堂邸で回収した幾らかの道具
[所持金]:莫大。少なくとも生活に困ることはない
[思考・状況]
基本方針:祓葉を我が物とする。
0:一切鏖殺。さあ、遅れた分を取り返そうか。
1:神寂縁に協力しつつ、奴が"追われる者達"と相討つように仕向けたい。要するに命の順序付けだな。
2:琴峯ナシロとそのサーヴァント(ベルゼブブ)を利用。特にベルゼブブは、今後を見据える上で絶対に手放せない。
3:↑の理由に基づき、ナシロを助けに来るだろう高乃河二らを討つ。
4:蛇が斃れた暁には輪堂天梨を抹殺し、煌星満天の覚醒を図る。恒星神に化ければ御の字、都市制圧の道具として用いるつもり。
5:あばよ、〈脱出王〉。お前は最高のエンターテイナーだったぜ。
6:何か違和感がある。何かを見落としている。
7:祓葉。お前にも、まだ先があるんだろう?
8:渋谷の神は現状他人に任せる。アレは多分俺と相性が悪い。
9:毒が自分を殺す前に、聖杯を取る。
[備考]
※東京中に使い魔を放っている他、一般人を契約魔術と暗示で無意識の協力者として独自の情報ネットワークを形成しています。
※東京中のテレビ局のトップ陣を支配下に置いています。主に報道関係を支配しつつあります。
※煌星満天&ファウストの主従と協力体制を築き、ロミオを貸し出しました。
※蛇杖堂寂句から赤坂亜切・楪依里朱について彼が知る限りの情報を受け取りました。
※神寂縁から雪村鉄志、琴峯ナシロ、高乃河二、赤坂亜切の現在の動向について連絡を受けました。
※蛇杖堂邸で高乃家の礼装『胎息木腕』を回収しました。これが高乃河二の装備している物と同じ性能かどうかはおまかせします。
※山越風夏のサーヴァントの真名が「ハリー・フーディーニ」であろうことをうっすら察しました。
※ファウストから蝗害調査のデータファイルを受け取りました。中身は確認済みです。
※琴峯ナシロと契約を交わしました。
 ・高乃河二を救命する対価として、琴峯ナシロとサーヴァントの身柄を預かる。
 ・両者の指揮命令権もノクト・サムスタンプが持つものとする。
※月の御遣いと契約を交わしました。これにより、蛇腔及びFWが維持されている限り、ノクトは結界内の月勢力から攻撃を受けません。
※アサシン(ベルゼブブ)の指揮権を一部移譲されています。但しベルゼブブはノクトの契約を無視しているため、常に有効かは不明です。
※ギルタブリル/天蠍アンタレスの『英雄よ天に昇れ(アステリズム・メーカー)』を注入されました。
 強化の代償に抑止の排斥を受けるようになりましたが、具体的にどの程度強化されたのかは後続の書き手にお任せします。
※祓葉への恋情を自覚しました。

【バーサーカー(ロミオ)】
[状態]:恋、全身にダメージ(極大)、霊核破損、複数の刺傷痕、行動に一切の支障なし、ノクトへのシンパシーによる出力向上
[装備]:無銘・レイピア
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:ジュリエット! 嗚呼、ジュリエット!!
0:ようやく気付いたのだね、我が友。ならば僕はジュリエットと、君のために刃を振るおう。
1:この城へ攻め入る外敵を迎え撃つ。
2:神寂縁は僕とジュリエットの世界に存在してはならない汚物。後に、然るべく駆除する。
[備考]
 現在、煌星満天を『ジュリエット』として認識しています。
 ファウストと契約を結んでいます。

【琴峯ナシロ】
[状態]:疲労(大)、精神疲労(大)、月の精神汚染(大)、魔力消費(中)、複数箇所に切り傷、ノクト・サムスタンプへの隷属
[令呪]:残り一画
[装備]:『杖』(3本)
[道具]:修道服、ロザリオ
[所持金]:あまり余裕はない
[思考・状況]
基本方針:教会と信者と自分を守る。
0:来るな――って言っても、来ちまうんだろうな。お前は。
1:アサシン。ありがとな。
[備考]
※少なくとも高乃河二とは同級生のようです。
※琴峯教会は現在、白鷺教会から派遣されたシスターに代理を任せています。
※雪村鉄志から『赤坂亜切』、『蛇杖堂寂句』、『ホムンクルス36号』、『ノクト・サムスタンプ』並びに<一回目>に関する情報と推論を共有されています。
※ナシロの両親は聖堂教会の代行者です。雪村鉄志との会話によってそれを知りました。
※レミュリンから『イリス』に関する情報を得ました。
※レミュリンと"蛇杖堂絵里"の連絡先を得ました。
※ナシロの投影魔術は一般的なものと性質が異なるようです。
 黒鍵を原型とし、解析で読み取った属性をそこに混ぜ込むことができます。まだ先があるかもしれませんが、詳細は後にお任せします。
※レミュリンによる連絡を受け、蛇の本名を知りました。
※ノクト・サムスタンプと契約を交わしました。
 ・高乃河二を救命する対価として、自身とサーヴァントの身柄をノクト・サムスタンプへ委ねる。
 ・両者の指揮命令権もノクト・サムスタンプが持つものとする。
※雪村鉄志の信号弾を使用しました。

【アサシン(ベルゼブブ/Tachinidae)】
[状態]:スキルによる容姿変化、疲労(大)、全身にダメージ(大)、脇腹に刀傷、各所に弾丸の擦り傷、霊基の成長?
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:聖杯を手に入れ本物の蝿王様になる!
0:ナシロさん。わたしは、あなたのために戦います。
1:コージさん達を迎え撃つ。……どうせ来るんでしょう? 分かってますよ。
2:神寂縁を殺す。たとえ、どれだけ手を血に染めようとも。
3:ざまぁないですね、ノクト・サムスタンプさん。
[備考]
※渋谷区の公園に残された飛蝗の死骸にスキル(産卵行動)及び宝具(Lord of the Flies)を行使しました。
 少数ですが眷属を作り出すことに成功しています。 
※代々木公園での戦闘で眷属はほぼ全滅しました。今残っているのは離脱用に残しておいた一体だけです。
※"蠅の王"の力の片鱗を引き出しました。どの程度操れるのか、今後どのような影響を齎すのかは不明です。
 →渋谷の変貌を感じ取り、説明できない懐かしさを抱いています。

※蛇腔内のNPCを狩り、眷属を爆発的に増殖させています。現在百体前後。
※ノクト・サムスタンプの契約の影響を受けていません。これが彼女のいかなる性質によるものかは不明です。
※神寂縁の体内に存在する4423の魂、そのひとつに産卵しています。体外脱出のタイミングは彼女の任意。
※ランサー(エパメイノンダス)のアドバイスを参考に、命中精度の弱点をほぼ克服したようです。


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最終更新:2026年10月05日 01:27