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 それは忘却だ。否定するものだ。そんなものはありえないと、夜が明ければ霞み消えるただの夢に過ぎないのだと。
 彼女は、いいや我々は、最初からいないのと同じだった。
 それだけ。ただそれだけなのだ。





   ▼  ▼  ▼





「忘れていることがあるの」

 滅びに満ちた夜の街を、風を切って翔ける影がひとつ。
 月の銀光に輝く鎧を身に纏う騎士と、その腕に抱かれた幼い少女がひとり。
 騎士が超人的な脚力で路地の痕を駆けるに合わせて、その胸元で身を竦ませる少女が言葉を紡ぐ。

「……」

 少女の声に、駆けるアーサーは無言で耳を傾ける。
 キーアもそれを分かってか、静かに言葉を続けた。

「セイバーと……レンと一緒にいたとき。山から街に降りてきたとき、あたしは誰かと会ったはずなの。
 それはきっと本当なの。あたしは確かに誰かと会って、そして涙を流して……
 でもあたしも、レンもそれを覚えてなかった。気付いたらあたしたち以外誰もいなくて、そこに誰がいたのか、声も顔も名前もすっかり分からなくなってしまって。
 そんなことが、あったの」

 そこまで言って、キーアはハーネスを掴む手にぎゅっと力を入れて、不安げに顔を寄せる。
 アーサーは言葉なく、しかし真摯に、少女の言葉を聞いていた。

 アーサーとキーアが離ればなれになっていた一時、彼女が狂化したセイバーに襲撃されたことは聞き及んでいる。
 それを藤井蓮───今はアーサー側の不備もあって、碌に会話することもできず別れてしまったが───が迎撃し、退けたとも。
 キーアの話はその直後、バーサークセイバーの魔の手から逃れ中心市街地に移動しようとしていた時のこと、らしい。

 何とも奇妙な話だと思う。何者かがキーアと藤井蓮に接触し、しかし出会った事実以外のあらゆる痕跡を消していったというのだから。
 真っ先に思いつく可能性としては幻覚系の魔術だが、最高ランクの対魔力を持つ藤井蓮まで騙し通すのは難しい。ならばアサシンの気配遮断に相当するスキルかとも考えたが、そんなアサシンがいるなど寡聞にして聞かないし、そもそもそうまでして二人を無事に帰す意味が分からない。
 まさか本当に誰かが消えてしまって───それこそ肉体だけでなく存在ごと消えてしまって───二人は偶然そのタイミングに当たってしまったのでは、とすら考えてしまう。

 だが、重要なのは事態の絡繰りではなく。
 「涙を流した」という言葉の通り、消えてしまった誰かがキーアの知己である可能性にあった。

(何とも酷なことだ。ここに来て知人の死を見てしまったかもしれないとは)

 アーサーは思う。キーアの心は、もう限界に近いのではないのかと。
 彼女は元より市井の少女に過ぎない。年の割にしっかりしていて芯の強い少女ではあるが、戦いや人の死に身を置く戦士などではない。知り合って間もない友人の死に際して脇目も振らず泣きじゃくっていたのがいい証拠だ。
 それでもキーアがここまで強く心を保ってこれたのは、人の死を目の当りにする機会が少なかったからだ。
 無論、その機会が皆無だったわけではないが、古手梨花の一件のみであったことも事実。その一度をキーアは乗り越えられたが、ならば二度目もと期待するのは流石に酷である。

 近しい者の死は、耐えがたい悲しみか空虚な喪失か、あるいは双方をもたらす。
 アーサーはそれを分かっていたし、だからこそ深く踏み込めない。
 悪戯に追及して少女の心に傷をつければ、きっとこの先の戦いには耐えられまい。

(私は人の心が分からない、か。卿の忠言は耳に痛いことばかりだな、トリスタン卿)

 数えきれないほどの偉業と難業を成し遂げ、地を穿つ魔の巨竜すら打ち倒した騎士王が、市井の少女ひとりすら扱い兼ねるとは。
 道化のように笑わせることも、慈母のように包み込んでやることもできはしない。気の利いた詩のひとつすら紡げぬこの口が、今は無性に恨めしかった。

「……マスター。キーア。僕は君の剣となり、そして盾になると誓った」
「セイバー……」
「その誓いに嘘はない。これより先、例え何が立ち塞がろうとも、その言葉だけは違えない」
「……」
「僕は、君を、決して見捨てない」

 結局のところ、返せたのはそんな言葉だけだった。
 何とも不確かな、吹けば飛ぶような気休め。しかしそれでも、キーアはそっと微笑んでくれた。

「……ええ。ありがとうセイバー、とっても素敵な騎士様」

 その呟きは、銀光の煙る夜半の街に溶けていったのだった。










 アーサーたちが疾駆する先は、二柱の《巨神》が相争っていた場所だ。

 都市全体を揺らすほどの脅威、正体も出自も分からぬ威容。ともすれば遥か海洋の漆黒戦艦すら凌駕しかねないほどの存在圧。
 放置しておけるわけもない。その傍にすばるたちがいるかもしれないと考えれば尚更に。
 無論のこと、近づこうと考えられるのは《巨神》の姿が消え去ったがためだ。あのまま戦闘が続行されていたら、流石のアーサーでも容易には接近できない。ましてマスターを連れ立ってなどと。
 現状まともに動けるのが自分たちと藤井蓮だけである以上、これは誰かが為さねばならないことだった。
 あるいは、ザミエル卿の言う通りに聖剣を揮う敵手を探し求めたがためか。

 彼女は何を知ったのか。
 末期に言い残した「赤薔薇」こそが、その知識の出所か。だがしかし、アーサーは既に「赤薔薇」と出会うことはないだろうと予感していた。
 理屈ではない。それは、単なる"直感"である。
 だがしかし、同時に聖杯戦争の終結が近づいているという予感さえもあった。
 元より事態が切迫している以上、悠長に探し回っていられる時間もない。

 そうした理由から、アーサーたちは巨いなる戦場跡に赴いたのだが。

「これは……」

 見下ろすアーサーの口から瞠目の声が漏れた。キーアに至っては、完全に言葉を失っている。それだけの光景が、彼らの目の前には広がっていた。

 それは、あまりにも巨大な円形だった。
 それは、地平線までをも覆うかのような魔法陣だった。
 銀色の光条が、幾重にも折り重なって紋様を描いている。何重にも円形を形作る陣は対称的に回転し、それ自体がひとつの巨大な機械であるかのように精微な幾何学構造を成している。
 地を穿った巨大な破壊痕を覆うように、それは展開されているのだ。

 直径およそ500m。アーサーたちは知る由もなかったが、その陣はルーン文字において「狼」を意味するものだった。

「儀式魔術の一種……いや、それにしては砲塔めいた力の圧力を感じない。これはむしろ、内に向かって収縮する類のものか」

 地面に降り立ったアーサーは、キーアを下ろすと眼前の遥か頭上に浮かぶルーンを睥睨する。地に足つけたキーアは、「っと、と」と少しだけよろけると、すぐにアーサーに倣って魔法陣を見上げた。
 地上から数十mの位置に展開された光の円は、アーサーたちが下方から覗きこんでもまるで威圧的な気配を感じさせない。ほのかに灯る白色の光が、ぼんやりと一帯を照らし出す。まるで凪のような静穏さだが、規模の巨大さや先程までここに何があったかを鑑みれば、その静けさは何か不穏なものを感じさせた。

「内に向かうもの。閉じ込めるもの。あるいは広域に対して封印を施すもの。かの狼と巨人とを封じている……という可能性もある」

 考えられるのはそれだろう。二柱の巨神が諸共に消滅した場面を目撃したとはいえ、文字通りに消えてなくなったと考えるほどアーサーは短絡ではない。想定すべき未来として、まず間違いなくあの神威は健在であり、ならば消失した後の行く先として一時的な封印を想起するのは極めて順当と言える。
 この魔法陣に内在する力の総量が、そう思わせられるほどに膨大かつ強大であることも、その思考に拍車をかけていた。英霊として在るアーサーですら、滲むように放たれる力の波動に身が震える程である。キーアが忘我に近い状態に陥っているのはむしろ僥倖か、眼前の存在があまりに巨大に過ぎて、逆に現実感が伴っていないのだ。これがあと少し脆弱───キーアのような少女でも理解可能な程度の存在───であったならば、きっと我を失い狂乱していただろう。

 ともあれ、ここに留まるのは危険であったし、同時に放置しておける道理もなかった。いざ眼前の脅威を討滅せんと聖剣を抜き放とうとして───









「少しばかり違うな。これは封じるものではなく、再誕するものだ」










 声が───

 吐き捨てられる、声があった。
 天上より響くが如き、荘厳にして絶対の宣告であった。
 冥府より届くが如き、無常にして冷酷の断言であった。
 振り返るアーサーとキーアの視線の先、断崖が如く切り立った瓦礫の彼方に佇みながら、眩いばかりの王の気配を纏う───人の形をした黄金、恒星の輝きを瞳とした男からもたらされた声。
 忠告と表現するには些か異なるだろう。この男、強靭なる精神の燃焼を表すが如き黄金を身に纏った人物にとって、あらゆる者は自らに比肩し得る存在ではなく、慮ってやる道理も何もない。
 それは単なる事実の再認識。
 自らが討伐せんとする悪逆への、厳然たる評価に過ぎない。

「君は……」

 アーサーは、その男に見覚えがあった。
 会ったことはないはずだ。その顔も姿も初見で間違いない。にも関わらず、彼はその男を確かに知っていた。
 いいやあるいは、これより先に出会うはずだったのではないか、などと。
 そんな益体もない想像さえ、頭の隅に浮かんでしまうほどに。

「───」

 キーアは、ただただ圧倒されていた。
 黄金の男は、まるで太陽のような人物だった。見る者の瞳を焦がす、光り輝く炎の男。
 ある種の王気、そして剣気には慣れているはずである。キーアの従えるアーサーとて比類なき王であり、比肩し得る者のいない騎士であればこそ。
 だがこれは、この輝きは。
 余人に対してあまりにも遠慮がない。まさしく天上にて在る神々の如く、それすら凌駕する王であるかの如く、地を這う小さき人など意にも介さぬ尊大ぶりであるとさえ。

 いいやあるいは───
 余人を気に掛ける余裕さえないのか───

「久しいな聖剣使い。その心底より殺したくなる相貌、我が好敵手に相応しい気質は未だ健在であるか。
 とはいえ相も変わらず間の悪い男よ。よりにもよってこの地、この時を以て足を踏み入れるか。これが廃神として望まれたる筋書に非ざるというのであれば、最早生来の宿業とも言うべきものよ」

 闊達かつ冷やかに、男は諧謔味を滲ませて冷笑する。
 腕を組み仁王立つその背には、文字通りの黄金光が空間を引き裂いて現出していた。それこそは人類種の叡智なるものが結実せし大宝具『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』に繋がる門であり、独立した異界にも匹敵するその空間から今まさに巨いなるものを呼び出そうとしているに他ならない。
 取り出し口の空間孔から感じられる力の総量は、恐らく彼方の魔法陣に勝るとも劣らない。あまりに巨大に過ぎる「何か」がその奥からまろび出ようとしているのだと、アーサーは直感に頼らずとも理解することができた。

「……君に、いくつか聞きたいことがある」
「言わずとも好い。
 白き駄犬と鋼の巨人、眼前にあるルーン秘蹟の意味。そして我は如何なる立ち位置に属する者か。大方そのようなところだろう」

 冷やかに。
 光輝を纏いながら、黄金の男は続ける。

「無論知れたこと。魔狼なるは白き騎士の成れの果てであり、そして砕け散った力の断片をかき集め真に求道なる凶獣へと変貌するのであれば。
 我はそれを滅ぼしに来た。鋼の《巨神》などはそのための手段であり、道具に過ぎん」

 男は告げる。自らは大悪を討つ者であり、眼前の巨大魔法陣こそがその悪逆そのものであるのだと。
 絶対的なまでの死の宣告。
 窮極的なまでの自負の念。
 この男の話す全ては真実であり、そして真理である。言外にそう納得させ得るだけの圧がその声には含まれており、ならばこそこの場にアーサーたちが訪れることになったその運命とは如何なるものであるのか。

 ───それは剣だ。
 ───それは敵を討滅する、断罪の剣であるものだ。

 仮に黄金の男ひとりで白き狼を斃すことができるならば。
 きっと、アーサー王がこの場を訪れることはなかっただろう。あるいは、訪れた時には全てが決していたはずだ。

 誰が決めた?
 ……誰も。
 誰も決めてなどいない。けれど厳然たる事実としてその法は布かれているのだ。

「ともあれ、貴様が来たのは僥倖であった。なにせこの通り、我は"動くことができん"」
「……なんだと?」

 訝しげな声を発した、

 その瞬間だった。





『▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!!!』





 光が───

 衝撃と共に───

 世界そのものを覆い尽くして───



 ………。

 ……。

 …。

 ────────────────────────。





   ▼  ▼  ▼





 ───それは、どこまでも真っ白な姿をしていた。

 夜半に沈んだ街の中心部。かつて建築物だった瓦礫と剥き出しになった地肌が銀光の月明かりに照らされる、青みがかった夜闇の中。
 光と衝撃と共に突如として降り立った少女を、一体何と形容すれば良いのだろう。それは確かに少女であったが、しかし果たして人間と呼んでいいものか。

 それは、美しかった。
 他の比喩など頭から消え去るほどに、それはどこまでもただひたすらに、余りにも美しすぎる存在だった。
 その肌を何と言おう。同じ人間とは思えない、全く異質の穢れなき何かで作られているのではないかと見紛うばかりの白磁。髪も、気配も、何もかもが清廉なまでに白く、僅かに細められた左の瞳だけが煌々と青く輝いている。
 祈る神さえ失った異形都市の闇の中、白の陣が凝縮し人型となって現出した少女は、まるで世界という画布に空けられた人型の空白のようでもあった。

 酷く眩く瞳に映るものだった。
 もしも、色だけを見るならば。
 白。綺麗な色をした純粋なものを想う。
 白。無垢な色をした清浄なものを想う。
 白きもの。その体躯の周囲を舞う、輝く純白は何か。それは翼の如くして広がる、純白の長髪。

 その時のキーアは分からなかった。正確に記憶していないし、思い出したくもない。
 けれど、けれども。

 脳裏に浮かぶ言葉があった。
 白きもの。威容なまでの両翼にさえ映るものを伴って。
 輝く輪を持ったもの。天より出ずるもの。
 それを、人は、なんと呼ぶだろう。
 例えばそれは───

「天使……?」

 呟くキーアに飛来するものがあった。
 轟、と押し寄せる不可視の圧。何事かと目を瞑る暇もなく、それは眼前に割って入ったセイバーの手で斬滅される。
 鳴り響く金属音、破壊される周辺地形。凄まじいまでの衝撃が伴い大地が揺れる。正体も知れない何かが、キーアのすぐ横の地面を軽々と削り取っていった。

「……無事かい、マスター」
「セイ、バー……?」

 窮地を救われたキーアはしかし、目の前の光景を一瞬理解することができなかった。
 セイバー。騎士たちの王。比類なき聖剣の担い手であり、蒼銀なる絶対の騎士。
 そんな彼は、今まで如何なる敵をも打ち払ってきた彼は。

 左手を、失っていた。

「……ぐっ」
「セイバー!」

 力を失い膝をつくアーサーに、自失から立ち直ったキーアが駆けよる。そして余りの惨状に目を見開いた。
 苦悶の表情に喘ぐアーサーの左腕は、肩口から完全に抉り取られていた。見るも無残な傷痕が、砕かれた鎧の隙間から垣間見える。噴き出る大量の鮮血と、まばらに見える肉色の断面。痛々しいどころではない、これは明らかな致命傷だ。
 キーアには分かる。何故なら、それはかつてキーアこそが───

「令呪を以て命じます! 死なないで、セイバー!」

 躊躇なしの絶叫に、暖かな光がセイバーを包み込む。多大な損傷は時間が巻き戻るかのように治癒していき、元の肌色を取り戻した断面からは流血が消え去った。
 だが、失われた腕はそのままだ。
 ただの一合で腕一本を取られてしまった。そしてキーアは知る由もないが、彼の腕を奪った一撃と自身に降りかかった一撃とは、実のところ攻撃でも何でもないのだ。

 《天使》はただ、意識を向けただけだ。
 地を這う虫にも等しい小さき者へ、「何かがいるなぁ」と意識を向けた、ただそれだけ。
 身体は一切動かしていない。攻撃動作も何も行っていないし、そもそも攻撃の意図さえなかっただろう。
 そんな、ほんの些細な気の動きが、ここまでの破壊を成したのだ。
 キーアとアーサーの周囲を見るがいい。今や二人のいる地点以外は、悉くが破壊の限りを尽くされ無惨なクレーターとなっている。破壊の痕は視認できる彼方まで続き、およそ地平線までを抉り抜いたに相違ない。
 《天使》が現出したというそれだけで、彼らのいる鎌倉中心市街地から横浜横須賀までを繋ぐ一帯が文字通りに消されてしまった。一刻前までは鎌倉の街を三方より囲んでいた山々が、今や見る影もなく抉られ、崩壊している。音速を遥かに超えた大質量が如き波濤が、目に見える範囲内全てを薙ぎ払ったのだ。

 風の鞘の放出、並びに黄金光の全力解放。それだけのことをして見事キーアを守り抜いたアーサーの手際は流石の一語ではあったが、それですら完璧とはいかず片腕を失う結果に陥った。
 端的に、絶望的なまでの戦力差と言うべきだろう。一太刀浴びせられるか、とか、一矢報いられるか、などといった次元の話ではない。
 まず戦い殺し合う相手として、同じ土俵に上がることができるかどうか。
 そのレベルの話だった。果たしてあれは、サーヴァントという枠に収まる存在なのか。星の聖剣を解き放ったとて、それで傷をつけることができるのか。首を刎ねることができたとして、それで殺すことができるのか。
 分からない。何も、彼我の力量差が開きすぎて推察さえままならない。未だ中空にふよふよと浮いている彼女は、此処には在らぬ何処かを眺めて、けれどその意識が今一度こちらへ向いたならどうなってしまうのか。

 見られたら終わる。
 認識されたら終わる。
 けれど、一切身動きの取れぬ二人を余所に、浮かぶ《天使》の少女はこちらに視線を───

 向けようとした瞬間、
 天より墜落した黒く巨大なものが、《天使》ごとを押し潰したのだった。

 轟音と衝撃が、世界を揺らした。










 黒く巨大な物体が、地上を貫いていた。
 それは塔のようでもあって、柱のようにも見えた。先端には長く、丸みを帯びた五本の何かがついている。
 指だ、キーアが呟いた。
 五本の指は固く握りこまれ、文字通りの鉄拳となって《天使》がいた場所を貫いていた。そこでようやく、キーアは目の前の黒い柱が巨大な腕であることに気付いた。
 視線を上げる。腕には肘があり、肩があり、その先の全身が存在した。
 キーアは最早言葉なく、その『巨人』を見上げていた。

 身の丈およそ500m。
 まるで王侯貴族であるかのような外套を纏った巨大な鉄人形は、その憤激も露に渾身の一撃を地に振りかざしているのだった。

「護国鬼神シコウテイザー。擬似拡大変容による質量増大に加え、我と接続した刻鋼式心装永久機関三機による平行励起を施してある。
 所詮神体はおろか偽神にすら及ばぬ神の模造品ではあるが、質量の巨大さだけならば我の宝物でも屈指の品よ」

 声は、キーアたちの頭上近くから出ていた。振り返れば、そこにはやはり断崖の如く切り立った瓦礫の山があり、その上に決然と屹立する男の姿があった。

「造り物の巨人、か……先刻の巨大狼と争っていたのも、やはり」
「我だ。とはいえあれは偽神の中でも至高の一、万能なる者が作り上げた最奥の秘術であるために、我でさえそう易々と顕現できるものではない」

 それは至極単純な理屈。"大きなものを取り出すには時間と手間がかかる"という、当たり前の一般論。
 ここで言う大きさとは質量の多寡ではなく、存在規模のことだ。魔狼ウォルフガング・シュライバーを討滅可能な武装は限られており、その悉くが黄金の男ギルガメッシュでさえも容易には扱いかねる至上至高の宝具である。
 先ほどの《巨神》はその数少ない例外であったが、外装たる疑似形成を打ち砕くまでが限界であった。そしてシュライバーは肥大化させ砕かれた力を凝縮するために一時的な休眠状態に入り、ギルガメッシュはシュライバーを滅ぼせる第二の矢を放つため王の財宝を限界稼働させた。
 つまるところ、両者の対峙とは「どちらがより早く真の力を発揮できるようになるか」という競争であり、
 その結果は、目の前の光景を見れば一目瞭然であった。

「故に、貴様らが来た。口惜しいが、我単独ではどう足掻いてもアレの覚醒には間に合わん。確殺の一矢を放つまでの間、精々時間を稼げるならばそれで善し……と。そう考えていたのだがな」

 ギルガメッシュの言葉を遮るように、凄まじいまでの爆音が辺りに轟いた。
 視線を向けるまでもなかった。地に振り下ろされた鬼神の拳が、その先の腕ごと一直線に不可視の圧に貫かれ、粉砕されたのだ。

 弾かれる巨体、伝播する衝撃。そして木霊する、獣性を露わにした哄笑。
 煙が視界を覆い、爆ぜる音が聴覚を塞ぐ中、それでも確りと認識できる姿と声。
 ───爆炎の向こう側にて立つ、天使が如き白の人型。

 天使は今や、聖性の欠片さえ感じさせない悪鬼めいた相貌へと姿を変えていた。
 獣の如く裂けた口許、ざんばらと振り乱されるは夜叉が如き白の髪。奈落めいて口を空けた右の眼窩からは夥しい量の血液が堰を切ったように溢れ出し、致死レベルの悪臭を渦を巻く怨念とが周囲の空間さえ侵食して文字通りに地獄のような光景を生み出している。
 そして、残る左の眼球に宿るのは、悪意も敵意も消え失せた、純正の殺意の塊であり。

「───シコウテイザー、粛清モード!」

 それすらをも凌駕する喝破と共に、巨人の状態が急激に変化する。
 ギルガメッシュの声に応え、肩口まで失った右腕を胸の前に掲げる。次瞬、眼下の大地が隆起し、巨人の動きに呼応して噴出した。
 爆轟をも掻き消す瀑布の如き重低音。全ての物質を呑みこんで、地から天へと流れ落ちる様は、空を目指して降り注ぐ巨大な滝のよう。
 奔流は右肩を基点に氷柱のように成長し、幾ばくの時間をかけることもなく新たな右腕として形成された。

『─────────!!』

 多量の土煙に塞がれる視界が唐突に晴れる。
 周囲の瓦礫、粉塵、その他巻き上げられた物質が円形に吹き飛んだ。それは急激な風圧であり、頭上より落とされるシコウテイザーの拳だった。
 たったひとりに向けて落とされる、等身大の存在が対処するにはあまりに巨大すぎる質量に───フ、と掻き消えるシュライバーの姿。それが足音すら立たぬ超高速の疾走であると、この場の誰もが理屈ではなく直感として知る。
 影すら残さぬその突進に、眩い光が煌めいた。
 空気と何かが焼けるおぞましい音までもが続いた。

 次瞬、再び砕け散る巨人の右腕。何の兆候も前触れもなく、堅牢たる巨大な質量が微塵となった。
 それは、徒手空拳であったのだろうか。
 人の姿をした獣に拳打の機能が備わっていたのだとして、そしてその拳に比類なき力が込められていたのだとして。その小さな拳が、小指の先でさえ太さ5mを超える巨拳を真っ向から捉え、逆に粉砕するという不条理が果たして現実の光景であるのだろうか。

『Und Sie berühren mich』

 そして再び掻き消えたシュライバーは、その絶速を以て巨人の肩へと駆け上がる。
 機械の歯車が一つ進むより早く、発条の一つが弾けるよりも速く。
 額の紅玉より放たれる熱線、肩口より無数に放たれるレーザー光、その悉くは間に合わず、僅かに間に合ったものも一瞬の手刀の閃きの前に切断された。

『▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!!!』

 低い狂騒のような咆哮が、再び世界を揺らした。
 大きく跳躍したシュライバーが、およそ数百mもの距離を一瞬以下でゼロに貶め、旋回する右脚で以て巨人の胸元を蹴り上げる。

 ───地の底から轟くような、あまりに低い衝撃音。

 巨人の胴体が、まるで冗談であるかのように抉り取られた。鎖骨から腹部にかけての100mあまりが、一瞬にして消滅したのだ。粉砕などという生易しい表現では足りない、文字通りの消滅。人としてはむしろ小柄な体躯を持つ、華奢な少女の蹴りひとつで、これほどの破壊が為されると言うのか。

『─────────!!』

 しかし、護国の鬼神は未だ健在。
 よろめく体躯を両の脚で踏みとどまり、無限にも等しい再生能力で以て胴体を再構築し再び攻勢に移ろうと───するよりも遥かに速く、シュライバーの第二撃が頭頂へと突き刺さった。
 消し飛ぶ頭部、再び傾げる巨人の総身。
 そうして───次瞬、全身の至る箇所を一斉に抉り取られた巨人が、とうとう人型を維持することができずにバラバラと崩壊した。

「分かってはいたが、時間稼ぎすら覚束ぬか。しかし」

 降り注ぐ瓦礫の雨の中、轟音響く最中においてギルガメッシュの総身が発光する。
 それは精神の高揚。接続した永久機関の駆動であり、巨人に施された自己修復能力の発露でもある。
 今や総身の8割近くを喪失した巨人が、しかし時間を巻き戻すかのように欠損を修復し、元の姿を取り戻していく。光を失ったはずの双眸が赤く閃き、次いで現出するのは漆黒に包まれた光球。直撃すれば三騎士級のサーヴァントであろうとも無事ではすまない破壊力を秘めたエネルギー弾が、シュライバー目掛けて放たれる。
 その破壊を目の前に、中空にて滞空するシュライバーは獣でしかない凄絶な笑みを口許に浮かべ───

 再びの轟音が、巻き起こった。










「素粒子生成能力。永久機関の基礎にして深奥、単純であるが故に極めれば強大無比な代物よ。
 それもあの狂犬めを前にしては、さほどの時間を稼ぐこともままならぬであろうが」

 彼方にて非常識な攻防を続ける巨人たちを後目に、ギルガメッシュは嘆息するように呟く。

「状況は見ての通りだ聖剣使い。あの者を此処で倒さねば、我らどころか聖杯戦争に集った全ての者が死に果てる。
 無論、この我の一矢が成ればそれで終いよ。我が最奥の一手に耐えられる者などこの世におるまい」
「けれど、そのための時間が必要、か。令呪による魔力補助は……」
「とっくの昔にしてるわよ」

 ギルガメッシュの背後から新たな声が響く。何時の間にいたのだろう、そこには銀糸の髪を揺らす儚げな少女が、見るも痛々しい目元を露わに立っているのだった。

「令呪三画、以て王の財宝の発動補助に費やしてるわ。それでも間に合わないの。悔しいけれど、"速度"の領分でアレに勝てるのはそういないのでしょうね」
「そう、か……」

 呟いて、アーサーは膝から崩れる。懸命に呼びかけるキーアの言葉に返す余力さえなく、見下ろすギルガメッシュは心底から詰まらなさ気に。

「無様だな聖剣使い。彼方のサーヴァント階梯第一位が聞いて呆れる。果たしてそのザマで世界を救うに値する英雄たるのか」
「なに、を……」
「だが、しかし喜べよ聖剣使い、そしてその主たる娘よ。我らの命運は未だ尽きてはおらんようだ」

 言葉に続くように───
 アーサーたちの眼前に舞い降りる者があった。

 その影は三つ。文字通りの影であるかのような黒衣纏う者と、少女のような姿をした刀剣携える少年と、そして。

「───少し、待たせてしまったかしら?」

 不敵な笑みを口許に浮かべた、永遠に幼き赫眼の少女が、ひとり。


NEXT紫影のゴグ・マゴグ

最終更新:2019年07月13日 18:23