走る。走る。黒煤と排煙に塗れた黒い大地に、燃え盛る炎の赤を影として、固い靴音を響かせて。暗い、何も見えない。息は上がって心は焦燥に支配される。黒い、黒い、ああ、ここはなんと暗いのだ。
最早そこに少年以外の誰もなく、すれ違う者のひとりもなく、散らばるは死体になり損なった肉塊ばかり。それすら今や恐怖と酸欠に陥った視界に映ることはなく。
───いない。ここにはもう、誰もいないのだ。
まるで浩渺たる世界の只中に取り残されてしまったかのような。一寸先も見えない深海の底に放り出されてしまったかのような。
そんな漠然とした恐怖が、ただでさえ虚狼と巨神への恐怖に駆り立てられた少年の心を縛り付ける。漆黒の荊であるように。
「…………ッ!」
声はない。声はない。
喉は張り付き思考は磨滅した。考えられるのは、ただここではないどこかへと逃げるという一念のみ。
だから、その声に少年は反応することができなかった。
「待て、そこな童」
あっ、
と思った時には、既に少年の足はもつれていた。煤けた大地に体ごと倒れ込む。この光景を見たならば、本丸の仲間たちはきっと驚愕にその顔を染めるだろう。仮にも一角の刀剣男士たる彼が、まさか無様に転げるなどと。
幸いなことに、倒れ込んだ手足や顔に擦り傷の類はできなかったけど。けれどそんなこと、今考えるべきことではなくて。
「貴様、市井の民ではないな」
見上げた先にあったのは、真っ白な髑髏の面だった。
漆黒の夜空にぽっかりと浮かぶ白い骸骨と、妖しげに開かれる真紅の双眸。ああそれは、文字通りにこの世のものとは思えなくて。
死霊か屍鬼か、あるいは死神の類であるのかと。そんなことまで思い浮かべた藤四郎に、それは、彼女は。
「ならば聞け。私は貴様の敵ではない」
浴びせられた言葉は、滲み出る気配のおぞましさとは裏腹のもので。
倒れる少年の思考は、今度こそ真っ白になったのだった。
◆
結論として、その出会いは二人にとって幸運なものだったのだろう。
サーヴァントを失ったマスターに、マスターを持たないサーヴァント。厳密にはアサシン───
スカルマンとなった叢はデミ・サーヴァントなのだが、それでも魔力供給源たるマスターがいるに越したことはない。
事ここに至って相争うほど無意味なことはなく、晴れて二人は主従契約を結ぶことになった。
のは、いいのだけれど。
「それで、何故ここに貴様がいるのだランサー」
嘆息か、あるいは呆れの感情か。ともあれアサシンのあまり好意的ではない言葉が投げかけられ、視線の先の"少女"は笑う。
「なんでも何も、元々そういう契約でしょうが。それとも何? 私が死んだとでも思った?」
「貴様のような悪童が死ぬものか。あの白狼を前に逃げ遂せた腑抜けの口はよく回るようだな。アレを滅ぼすと言った貴様の言は空音だったか」
「それはこっちの台詞よ。あれを前にして恐怖に怯えていたのは誰だったかしら? まさか腰抜かして逃げるようなことはないかって、そう心配してたんだけどねぇ」
二人はぐちぐちと嫌味の言い合いを続けている。少女がいつの間にか現れてからずっとこの調子だ。
これは、なに?
「……ああ、お前はアサシンのマスターか。私は一応お前たちの協力者みたいなもんだけど、まあ別に気にしなくていいわ。そこらへんの影みたく思ってくれたら結構よ」
くるり、と振り返ったその少女は乱にそう言ってきたけど。でも気にするなって言うほうが難しい。
なにせ、その少女はアサシンと同じサーヴァントであるのだから。
クラスは……多分、ランサー。小さな女の子の外見とは裏腹に、ステータス値は結構高い。でも霊基構造がところどころ壊れていて、正確に情報を読み取ることができない。見た目は綺麗なものだけど、霊的な視界から覗いてみれば、そこにいるのは腐乱死体のようなおぞましい何かだ。今この時ばかりは、霊視の類が不得手だったことを乱は天に感謝した。
何もかもがあべこべで、怪しさしかない少女ではあるけど。その中でも一番不可解なのは、彼女には既にマスターがいないということだった。
なんだそれは、理解不能だ。このアサシンのような受肉した存在というならまだしも、アーチャーのような単独行動のスキルを持ち合わせない限りそんなことはあり得ない。
もしあり得るとしたら、それは聖杯戦争の前提そのものの破綻だった。これは戦争ではあるが同時に公正公平な競い合いであり、だからこそ不正の類があってはならない。
ああ、けれど。
そんな出鱈目な存在だからこそ、これほどまでに出鱈目な有り様になっているのかもしれないな、なんて。
「こいつのことは放っておけ。所詮、願いを叶える気もない腰抜けだ」
そんな思考に耽りそうになっていた乱を、アサシンの声が引き戻す。
アサシンは、彼か彼女かも分からない黒衣のサーヴァントは、侮蔑の様相も露わに表情なき顔を歪めているようだった。
「まるで自分は違うと言っているかのようね」
「当然だ。私はあらゆる悪を滅ぼし尽くす。無論、かの白狼をもだ」
アサシンは、恐怖を更なる憤怒で押さえつけるようにして、吐き捨てる。
「間近で見て理解した。あれは屑だ。己以外を見れば殺さねば気が済まない生粋の下劣畜生。この世に生まれてきたこと自体が過ちである類の塵屑だ。最早殺すことでしか帳尻の合わせようがない害獣だ。
ならば、誰かが殺さねばならないだろう。そうしなくては、ならぬだろう」
「アサシン……?」
我知らず尋ねた声は、自分でも思いがけないほどに不安と困惑に満ちていた。
アサシン、感情なき暗殺者。冷徹な機械のように、冷酷な機構のように、敵対する者を殺すだけの存在。
そう思っていた。乱を押し倒した時も、主従契約を結ぶ時も、情報を交換する時も、およそ感情的な熱量をこの影は見せなかったはずだ。
今はどうか。沸々と湧き上がってくるかのような熱情は、まさしく敵意や憎悪に相当する感情の色だ。
ここまでの情念を、この影は抱いていたのか。
ならばその根源とは一体何だ? 自分は、一体何と契約を交わしたというのだ。
ライダー、ドフラミンゴは単なる我欲だけの俗物だった。
アーチャー、赤色の砲兵は不遜な態度のままに敵勢の殲滅を願っていた。
そうしてドフラミンゴも赤騎士も、どちらもが乱の知らぬ場所でいつの間にか消え失せて。
ああそういえば、赤騎士には真名も願いも聞いていなかったな、なんて。
(だったら、サーヴァントのことを何も知らないのはずっと同じか)
ドフラミンゴにしろ、赤騎士にしろ、影にしろ。
結局のところ、乱は誰とも心を通わすことはなかった。ただ盲目のままに従い、あるいは従わせ、今にして思えば同じ道を歩んでいたかさえ。
だったら、別にいい。
この影が何を思っていようと、自分に危害を加えず道を違えることもないなら、どうでもいい。
所詮は、聖杯を手に入れるまでの仮初の関係だ。
従僕として存分に動き、邪魔な敵を排除してくれるなら何でもいい。
「行くぞマスター。殺さねばならぬ敵があり、それを乗り越えなくては我らの願いが叶わぬというならば。最早是非もなし、いざや存分にこの刃を振るおう。
そして貴様もだ、ランサー。一度我らに組すると宣言した以上、その約定は果たしてもらう」
「言われるまでもなく、よ。マスターの坊やも頑張りなさいな。叶えたい願いがあるのならね」
くすくすと妖しげに笑うランサーを後目に、乱は言葉なく、視線を向けることさえなく足を踏み出した。
こちらこそ言われるまでもなく、己が願いのために全員を鏖殺する気概は最初から持ち合わせているのだと。
言外にそう語るように、ただ一歩を。
そうして───彼らは致命的に踏み間違えてしまった。
今回だけでなく最初から、ずっとずっと、彼は。彼女は。
「大切な者を取り戻したい」という願いだけを共通させたまま、それでも彼らは最初から間違えてしまって。
だから、彼らの前に黄金螺旋階段が顕れることなど未来永劫存在しないのだ。
ずっと、ずっと。
▼ ▼ ▼
「少し、待たせてしまったかしら」
「思い上がるなよ吸血鬼。我は貴様らを待ち人にした覚えなどない」
それは戦場。天を衝く鉄の巨人と、影ならぬ実体を持った等身大の凶獣が相争う血華の地。
不敵な笑みを浮かべる少女に対し、黄金の王は不遜の体を崩すことはなく。
「故に、遅れて参じたその不遜を咎めはせん。貴様らが持つその刃、思うままに振り翳すがいい」
「……」
互いに大上段からの会話を交わす男と少女を振り返ることなく、アサシンは務めて冷静に戦場を俯瞰する。
現状、敵手は鉄人形と戦闘中。こちらにいるのは自陣三人と、セイバーとアーチャーが一騎ずつ。そのマスターと思しき少女らは放置しても構わない。しかしそのサーヴァント二騎の状態が思わしくない。
セイバーは片腕を失い、瀕死の状態で膝をついている。対してアーチャーは無傷のままだが、こちらもどうして動こうとはしない。恐らくは鉄人形の主が彼なのだろう、操作と維持に手一杯なのだろうか。ともあれどちらも戦力としては期待できそうになかった。
「……やはり、我々がやるしかないか」
面倒ではあるが、同時に好都合でもある。
呟き、跳躍したアサシンは最前線に着地すると、その手に印を刻み始める。
瞬時に組み立てられる起動印の数々、その向こう側では遂に鉄の巨人が崩れ落ち、凄まじいまでの衝撃に地面が揺れ、視界が大きくぶれる。
遅れて届く鼓膜を突き破らんばかりの轟音に、しかしアサシンは何ら頓着しない。
五感に作用する類の術への対抗手段は文字通り心身に叩き込まれているし、いざとなれば聴覚自体をシャットアウトすることも可能である。
遥か中空にて身を翻す白い人影が見えたが、しかし遅い。術式は既に完成している。
「出でよ、血華咲き誇る我らが極地!
流れ出る血を取り込み食らう屍山血河の死合舞台!」
爆轟する気炎と共に、アサシンを基点として走る光の線があった。
それは円形に取り囲むように、大きく広がってシュライバーを包囲する。そこに攻撃に代表される剣呑な気配は皆無であり、故に凶獣はその発動に反応しない。
奔った線から、揺らめき明滅する陽炎が如き不可視の壁が現出する。それは彼方と此方を断絶する境界であるように、シュライバーとそれ以外を完全に遮断した。
忍結界。
それは結界術の一種であり、発動した主を倒さねば脱出すること叶わない不可侵の障壁である。
元来は忍同士の決闘に使われるものであり、無論のこと叢とて習得している術式である。
スカルマンの霊基を得て霊的に内界強化された今の叢ならば、km単位で結界を広げることも可能であり。
「我が刃の忌名、アサシン・
スカルマン。
我が骸の真名、叢」
故にこそ、この手の獣を相手取るには相応しい。
「いざ───鎮魂の夢に沈め」
アサシンの言葉に続くように───次瞬、結界内を埋め尽くさんばかりの大量に血飛沫が氾濫した。
◆
「これは、一体……」
困惑に濡れる声はアーサーのものだ。
傷口を庇いながらも
キーアを守らんと構える彼は、眼前の光景が何であるのかを未だに呑みこめていない様子だった。
突如として見知らぬ三人が援軍に駆け付けた───理解できる。
内の一人が広範囲の結界術を行使した───理解できる。
だが、しかし。
その次の瞬間に訪れた"これ"は、一体何であるというのか。
結界術が完成した瞬間、現出したのは濁流の如き大量の血液と、そこから立ち上がる無数の怪物たちであった。
怪物───そうとしか形容ができない。蛆が出てきた。百足が出てきた。蛇が、蜘蛛が、白骨が、その他正体不明の臓物めいたモノたちが、身を震わせて暴れながらまるで血の海を母胎として次々生まれてくるかのようにして這い出してくる。
大きなものは30m近く、小さなものでも優に人間の数倍はあろうかという個体が、無数に、無数に。悪鬼羅刹の軍勢という意味ならば先刻の白き星屑の群れを想起させられるが、これは明らかに種類の統一性が存在しなかった。
ひたすら不浄で、ただ不気味。人類種に対して害しか為さぬ異形の群れだということしか分からない。
「妖魔。なるほど、疑似的な凶将陣というわけか」
「そうね。忍結界に流入した血を媒介に妖魔を無尽蔵に湧き出させている。あいつ、何か秘策があるような口ぶりだったけど、まさかこう来るとはね」
忍結界とは対外的に忍同士の決闘に使われるものと喧伝されているが、その本質は全く別のところにある。
「妖魔」の討滅。元来忍とはそのために存続する存在であり、忍結界とは妖魔を逃がさぬため、忍術とは妖魔を討滅するためにこそ在るのだ。
だが時として、結界内で流された血は一定の量を超えるとそれ自体が妖魔を呼び寄せる触媒となる。
シュライバーの右眼窩から際限なく漏れだす犠牲者たちの血と肉と魂は、常世から妖魔を招致するに十分すぎるほどの量を持っていた。数多の戦いと犠牲なくしては一匹とて呼び出すこと叶わぬ妖魔の類を、まさかそこに立つだけで無数に手繰り寄せるとは。
そして次瞬───湧き出た妖魔の悉くが、皆一斉に結界の境界に向けて疾走を開始した。
皆、暴れている。喚いている。後ろを気にし、慌て、焦り、全身全霊を振り絞りながら逃げ出したのだ。そして当然、結界に阻まれてそれ以上の遁走は許されない。
恐怖───不浄さと人間への怨念以外に共通点がないように思われた雑多な妖魔の群れに共通する、もう一つの事項。その背に負った絶望的すぎる死への恐怖、それこそが妖魔の群れに共通する第三の要項なのだ。
大百足が何とか這い出ようと、結界の不可視の壁に蠢きながらも張り付いた。続くのは腐乱した山犬であり、首のない武者がそれらを踏み越えようとして失敗する。白骨化した馬が恐怖に嘶き、際限なく連続する怒涛の嵐が結界内に殺到した。
恐怖。それは当然、妖魔たちを呼び寄せたシュライバーの存在に他ならず……
『▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!!!』
意味も読み取れない凶獣の咆哮と共に、シュライバーは逃げ惑う妖魔たちを片端から潰していく。
引き裂き、踏み砕き、ばら撒く。
一瞬以下の時間で30を超える妖魔が粉砕された。多種多様な異形が皆悉く醜悪な血と肉と臓物の汚泥と成り果て、それを糧に更なる妖魔が召喚される。新たな妖魔の産声と、恐怖に怯える絶叫と、シュライバーの哄笑が鳴り響く。それは最早この世の地獄としか言いようがなく、魔性の血泥に塗れた広大な結界は大規模な屠殺場と化しているのだった。
「そうか、これは……この光景の全てが、白騎士の魔力リソースで為されているのだとすれば……」
事ここに至り、アーサーは眼前の光景が何を意味しているのかを理解した。
狂乱したシュライバーとは、常に膨大な魔力を垂れ流した状態にある。
右眼窩から流れ出すのは彼が殺害した犠牲者たちの血肉であり、その魂。溢れる大量の魂は圧倒的な物量に任せることにより疑似的な魔力放出にも似た性質を持ち合わせ、その不浄により致死レベルの悪臭と瘴気さえ纏うが、その実態は燃料を漏れ出させながら疾駆する暴走列車に等しい。
対して忍結界は漏れ出た燃料───シュライバーが持つ魂を吸い取り、妖魔を呼び出す触媒とする。無数の妖魔は当然の如くシュライバーの殺害対象であり、更にばら撒かれる血肉とシュライバー自身の魔力によって次々と新しい妖魔が呼び出され、それをまた殺害し新たな妖魔が……という無限循環。
そうしてシュライバーが保有する魔力残量は加速度的に減少し、いずれは底を尽き消滅するだろう。
つまるところ、これは魔力切れを狙いとした対シュライバー用の捕縛結界。
理性ある敵にはまるで通用しないが、こと狂乱した獣にはうってつけの策であると言えるだろう。
「この場合、最悪の展開は殺害の対象が妖魔から我々に移ることだが」
結界を貼っていた間も絶えず印を結んでいたアサシンは、抑揚のない声で続ける。
「この場にいる全員に隠行の術をかけた。私自身の気配遮断並みとはいかんが、これだけの妖魔を相手にしながらではまず気付かれまい」
言われ、そして気付く。あれだけ狂乱の様相を呈している妖魔たちが、自分達の方をまるで見ていないということに。
見遣れば、脇のほうでは長髪の少年が結界維持の補助に魔力を注いでいるのが見えた。彼がリソースの一部を負担していたからこそ、複数の術を同時に行使できたということか。
唯一とも言える懸念さえ解消した今の状況は、シュライバーを完全に封じたと言っても過言ではない。アーサーはそれを理解できたし、恐らくは
ギルガメッシュや闖入者の少女も同じであるのだろう。
「そこでだ。次は交渉の時間としようか」
だからこそ。
アサシンが言ってのけたその言葉は、十分に予想の範疇であったと言えるだろう。
「交渉だと? たかが卑賤の暗殺者如きが、随分と思い上がったものだな」
「黙れ、余計な口は利くな。この場の主導権が誰にあるかは瞭然だろう」
アサシンの言葉は、大上段からの物言いであること以外は確かな事実であった。シュライバーを抑え込んでいるのはアサシンの術式であり、自分達の姿が隠蔽されているのもまた然り。更に言えば一度発動すれば半永続する類の術でない以上、もう用済みとアサシンを切り捨てることはできず、またアサシンの意思で術式を解除されたら皆諸共に死ぬしか道はない。
対してアサシンは己の意思一つで術式を反故にできる上、やろうと思えば自分だけは気配遮断で逃げ遂せることも可能である。つまりこの場の全員の命はアサシンに握られているも同然であり、故に彼女に逆らうことはできない。
この状況下において、全ての主導権はアサシンにある。
それは確かな事実であり───
「ならば問おう。貴様が抱きし願い、貴様が聖杯へと託す想いとは何であるのか」
「愚問なり。ならば答えよう。私の願いは……」
そこで、言葉は止まった。
場に、静寂が下りた。
「いや待て、それは明瞭なはずだ。私の願い……願い、は……あるはずだ。そのために私は、聖杯を得るために命さえこの手にかけて……」
呟きが、文章にさえなっていない雑多な単語の群れが、アサシンの口を突いて出る。アサシンが混乱状態にあることが、傍目からもよく分かった。
「ま、これが半端者の限界ってところなんでしょうね」
「然り。着眼点は悪くなかったが、しかしそれまでの器よ。あるいはこれが元のマスターとサーヴァントで分離したままであったならば、話は別であったのだろうが」
嘯く男と少女の目は、無感と哀れみに満ちていた。それは決して、自分たちを脅す敵に向けられるものではなく、無理をして壊れた子供を見るかのようで。
「人間と英霊の融合なんて、いくら宝具の補助があっても真っ当に行えるわけがない。まず間違いなく人格は汚染されるし、抱いた願いが歪んでしまうのも道理よ」
「どちらか一方に性質が寄れば救われるがな。しかしこのような中途半端な状態こそが最も厄介なのだろうよ。行動原理に矛盾が生じ、己が何者かすら見失う。そこまでして叶わぬ願いに手を伸ばす愚直は嫌うところではないが、しかし身の丈に合わぬならば行き着く先は破滅以外になかろうさ」
少女と男の睥睨する声にも頓着せず、アサシンは尚もぶつぶつと言葉を繰り返す。それは自問であり、自答であり、その悉くが矛盾に塗れたものであった。
聖杯を望んだにも関わらず、大悪たる白狼の討伐を優先した。
悪滅を掲げたにも関わらず、願いのために無辜の少女を殺害した。
それはなんて片手落ち。二兎を追いかけず諸共に逃がすに等しい背理。
叢でもあり
スカルマンでもあり、どちらでもありどちらでもない彼女にとっての真実とは、何か。
「そうだ、私は……」
そして気付く。相反する二人に共通する、原初の願いを。
それは───
「私は……我は、悪を滅する善になりたかった」
その想いに至った、その瞬間。
背後の結界が、凄まじいまでの音を立てて崩壊した。
怒濤の血の濁流が、叢を呑みこんで───
………。
……。
…。
────────────────────────。
▼ ▼ ▼
私は───
我は、悪忍を滅する善忍になりたかった。
大好きだった両親が死んだと聞かされたあの日、あの時。胸に去来したのは怒りでも憎悪でもなく、ただただ巨大な悲しみと、何もかもが無くなってしまったかのような喪失感だった。
悲しくて、遣る瀬無くて、世界が色褪せたようにも思えて。
だからこそ、そんな思いをする者がいなくなるようにと、我は悪の根絶をこそ願ったのだ。
そう思えたのは、全て黒影様のおかげだった。
だから我は黒影様の蘇生を聖杯に託そうと願ったけれど。でも最初に抱いた"願い"は、きっとそれだけのことだった。
我欲のために他者を手にかける我は、もう善忍ではなく悪忍と同じだと思っていたけれど。
でも最期に、歪んだ形とはいえ悪を滅する者に戻れたというならば。
それは、きっと……
「……悪くない」
そんな感慨と共に───
スカルマンの仮面を被った叢の意識は闇へと溶けた。
悪を滅する善忍という存在自体が、黒影の望んだものとはまるでかけ離れた代物であるという事実に、最後まで気付くことなく。
欺瞞に満ちた救いの中で、叢という善にも悪にもなれなかった半端者は、何者にもなれないまま無意味に死んだのだ。
◆
「あ、あぁ……ぁぁあぁ……」
刀剣男士としての能力から結界維持へのリソースを割いていた乱は、その光景を前にただ震えるしかなかった。
一瞬のことだった。妖魔と白い人型を封じていた結界は、ほんの一瞬でガラスのように砕け散った。そして内部に溜めこまれた血肉の諸々が、言葉を発する暇もなくアサシンを呑みこんだのである。
妖魔は、一体とて生きてはいなかった。
全てが無惨な惨殺体と成り果てていた。
しかしそれは何の救いにもなるはずはなく。
ただ一人這い出た白き者が、乱の眼前に立っていた。
それは───
『Sterben』
綺麗、だった。
言葉も忘れてしまうほどに、それはあまりにも綺麗だった。
およそ人とは思えず。
およそ獣とも思えず。
けれど、ああ、けれど。
この者が何を仕出かし、何を行えるかを知っているからこそ、その美しさがあまりにも恐ろしくて。
「あ……」
そして。
"それ"が視線を向けた瞬間に、
乱藤四郎の意識が掻き消えた。
忘我の状態になったとか、そういうのではなく。
文字通りに、脳の活動が停止したのだ。
それは、端的に言ってしまえば凶念とも言うべきものなのだろう。
あまりにも強すぎる精神の波動、心の動きは時として人を蝕む。
怒気や気迫、あるいは殺気と呼ばれるものが人の動きを縛るように。
許容量を遥かに超えたその凶念は、ただそれだけで致死の猛毒となって乱を冒したのだ。
呪殺。
それが、乱の命を奪ったものの正体である。
───振り返ってみれば、
乱藤四郎が己の手で何かを為したことなど、一度もなかった。
聖杯戦争の大半を、彼はドフラミンゴの虜囚として流されるままに過ごした。
そうして順当に切り捨てられ、赤騎士を得ての復讐でさえ、ただ力を手に入れて舞い上がっただけであり、彼はドフラミンゴの名を告げただけで実行の全ては丸投げだった。
赤騎士とドフラミンゴが争う戦場を、戦いの行く末を見守るでもなく逃げ遂せて、その果てに降りかかった火の粉を鬱陶しげに振り払った。
浅野という男を退けたという事実さえ、単に浅野が襲い掛かり、浅野自身が決着をつけたというだけで、乱は何も意思を示さなかった。
戦わなければ生き残れない。仮に自身が弱くとも、大事なのは気概の有無。弱者たる自身を認め、現状の最善を実行できるかという胆力にこそあり……
その観点から言えば、
乱藤四郎は最初から完全な落第だった。願いばかりを口にして、それを実現するための行動は何も起こさず、他人に頼り他人に文句を言い、それで自分だけは幸せを掴みたいと妄想に耽る白痴の愚昧。利他を謳いながらも自己のことしか考えない唯我の理。
万仙陣という愚劣の坩堝には相応しいが、聖杯戦争という意思の競い合いに彼という存在は相応しいはずもなく。
極めて順当に、真っ当に。
乱藤四郎の肉体は、全ての力を失い人形のように崩れ落ちたのだった。
▼ ▼ ▼
死んだ───
そう
キーアが認識するまで、大した時間はかからなかった。
新たに戦場へ飛び込んできた、白い仮面の人と少女のような少年。
結界を張って白いものを封じ込めた彼らは、けれどその力及ばずに。
キーアの目の前で、無惨に、無意味に、死んだ。
死んだ───
「いや……」
絶叫しそうになるのを堪える。
口許を手で押さえて声を我慢する。涙もそう。
どちらもダメ、ダメだと内心で何度も叫ぶ。
それは意味のないことであったし、どんなに追い詰められても動きと思考を止めてはならないのだと知っていたから。
けれど、けれど。
この恐怖は、決して、耐えられるものではなく。
僅かな時間も与えられぬまま、自分たちは殺されてしまうのだと。
そう思う心は止められるはずもなく。
「……マスター」
そんな
キーアの視界を、遮るように前へと進む影がひとつ。
それは眩いばかりの蒼銀の色をして。それは雄々しいまでの決意に満ちた表情を湛えて。
セイバー。騎士の王。
彼は、
キーアを庇い立てるように、一歩を進める。
「君は逃げろ。ここは、僕が食い止める」
「セイバー……」
その姿に、今度こそ涙が出そうになった。
逃げたかった。逃げたかった。けれど、その前に、足は動かず心も凍ったままで。
「ダメ、よ……」
怖い。怖い、もう。駄目。駄目。
「こわ、い……」
悲鳴を上げる以外に、何ができるというの。
「ギー……」
白いものの手が、こちらへ向かって伸ばされる。
「リカ……」
暗がりの果てで、あたしは死ぬの?
「いや……」
ここで、いいの?
「まだ、よ」
あたしは、諦めるの?
「いや……」
───違う。違う。違う!
「……ダメ、ダメ、ダメ……
あたし、それだけは、しない……!」
絶望だけが充ちる中、それでもただひとり諦めることのなかった人を、あたしは知っているから。
「いや、いやよ……!
諦めない……諦めない、諦めない……!」
だから、いつかきっとあなたに問うの。
どうしてあなただけが、絶望と死の中で諦めることがなかったのか。
だったら、だったらあたしは……
「……諦めない!」
白きものの指が、セイバーごと
キーアを抉ろうとした、
その刹那。
黒い沼のように沈んだ地面が、視界の端に。
何かがきらりと煌めいて、同時に影も動いたかのように。
それは銀の光であり、黒い、黒い、深み。
深み。それは淀みか。濁った闇の中に───
突き刺さった短刀が、そこにはあって。
弾き飛ばされた少年の刀。
乱藤四郎の銘を持つ剣か。
───そこへ───
───手を、指先を、伸ばして───
───掴み───
───強く、引き抜く───
「来ないで……!」
困惑と疑問よりも先に振るわれる、その黒い剣閃は。
空間を易々と裂いて、シュライバーとの彼我の距離を無尽蔵に押し上げて。
───視界が、黒一色に染まった。
最終更新:2019年07月13日 10:10