───空間を切り裂く刃。

 ───それは、黒色をした剣。

 黒色の淀みの奥深くから引き抜かれた長剣。
 疑問や困惑より先に振るわれた刃は空間を易々と裂いて、その手応えは吐き気にも似た嫌悪感を伴って全身へ回る。
 キーアは、小さく、呻きながら剣を振るっていた。

 剣先は───

 白きものの鼻先に向いて───

 ごく近距離だったはずの間の空間が広がる。
 平衡感覚がぐらりと揺れて、漆黒が急激に拡張される。キーアは自分が背後へ後ずさったのではないと知る。

 空間が広がる。
 白きものとキーアたちとの間の距離が、ひとりでに。

 来ないでと言ったキーアの言葉通りに。
 黒い空間が、僅かに歪み、両者の距離を開けていた。

「止まっ、た……?」

 呆然と呟かれるキーアの言葉は、まさしく眼前の光景を端的に言い表していた。
 剣の切っ先は、白きものの顔の寸前で止まっている。そこから一歩でも進めば、剣は貫くだろう。そのような位置で、剣と白きものは止まっていた。

 いいや、厳密には───
 白きものは今もずっと動き続けていた。キーアたちへその腕を振り下ろさんと、今も尚極大の殺意を以てその爪で引き裂こうとしている。
 彼の動きは止まっていない。けれど、傍目から見ればそれは静止しているようにしか思えず───

「《黒の剣能》」

 声。それは高みにて一切を睥睨するギルガメッシュのもの。

「其れなるは人の祈りが鍛えし剣能。未来を、過去を、他者を、想いを拒み断ち切る荊の棘───拒絶の魔剣なるものか」

 分からない。
 男の言葉を、キーアは理解することができなかった。
 ただ、アレに来ないでほしいと願っただけだ。
 キーアを、セイバーを、そして他の者たちを、傷つけ殺す厄災に遠ざかってほしい。ただその一念で振るったに過ぎず、そこにある理屈など分かるはずもなく───

 認識が追いつくよりも先に、眼前の空間に無数の刃が突き立った。
 瞬時、掻き消える白きものの姿、それを追うかのように次々と突き立てられる多種多様な武器武装の数々。一瞬にして刀山剣樹と化した光景を前に、キーアは二重の衝撃に足をよろけさせ、

「っと、大丈夫だったかしら?」
「あ、えっ、と……」

 後ろに倒れかけた肩をふわりと支えられ、今までとは別種の驚きに目を丸くする。
 肩口に振り返った先には、嫋やかに微笑む少女の顔があった。キーアと大して背の変わらない、ともすればどこぞのお嬢様と言っても通じるような柔らかな気配。

「大事はないみたいね、それによくやってくれたわ。あなたが展開したのはアキレスと亀のパラドックス、連鎖する回数無限の論理構造は単純な加速では決して追い抜けない。とはいえ……」

 少女の、ランサーの顔が焦燥に歪む。

「それも長くは続かない、か」

 え、と思うまでもなく。
 剣を持つ手に痛みが奔っていた。痛み、鋭く刺されるかのような。
 目を向ければ、剣は幾つかの茨を作り出していた。黒色の、薔薇の蔓であるかのように。それがキーアの手に絡んで、刺さる。
 痛み。針で刺されるよりも遥かに痛い。
 それは物理的な痛覚だけではなく───
 肌、肉、そのもっと奥底にある"何か"ごと刺されるような痛み。
 それは、魂を削られる痛みだった。

「あっ、ぐぅ……!」

 ───黒い剣が蠢いて。

 ───幾つも、幾つも。

 ───棘を備えた茨が、湧き上がる。

 時間を経るごとに数を増していく棘。それが次々とキーアの手に絡み、突き刺さる。
 ひとつ刺さるごとに、ひとつの吐き気。
 ひとつ刺さるごとに、ひとつの嫌悪感。
 耐えられない。苦悶の声が、我知らず漏れ出る。

 棘の痛み、魂を削られる寒気もそうだが。
 それ以上に、こんなものを誰かに向けなければならないという事実が、あまりにも痛々しくて。

「接触拒絶、傷つけるもの同士を引き離す心象具現。同質の存在だからこそアレ相手にも効果があったのでしょうけど、もうこれ以上は厳しいわね。
 ちょっとそこの金ぴか! いい加減もったいつけてないで何とかならないの!?」

「既にやっておるわたわけ! 我は溜めこむ男だが、それはそれとして出し惜しみはせん!
 我が放ちたるはその全てが至高の財、慢心とはすなわち戦場に対する不敬と心得よ!」

 声と共に更なる剣嵐が巻き起こる。視界を埋め尽くさんばかりに開かれる黄金光から、最早数えることすら不可能に近いほどの武具が今もなお間断なく射出され続けているけれど。
 当たらない。当たらない。地を穿ち土煙と破断音が猛然と轟く中、、今や刃の森とさえ形容できるほどの有り様に大地が変わり果ててしまっても。
 それでもただの一撃すら、白きものの影を捉えることなく。むしろ移動に際する衝撃波が辺りに吹き荒れ、剣群も地殻も何もかもが木っ端に散らされていく。
 土と瓦礫と金属とが土石流のように乱舞する視界の中、血濡れたキーアの手が掲げる剣先の空間がバリバリと鳴り響く。諸々の破壊の余波すらこの剣は防ぎきっているのだが、それさえいつまで保つものか。
 今や少女の手を覆う漆黒の茨は肩口にまで押し迫っていて、これがもし首か心臓にまで到達したならばと、そんな恐怖までもが湧き上がってきて。
 ああ、あたしは、ここで終わってしまうのか、と。

「……大丈夫だ」

 そんな不安を取り除くかのように、差し伸べられる手がひとつ。
 背後からキーアの手を掴むように伸ばされて、ああそれだけで、少女の手を覆う茨が次々とそちらへ移っていき。

「セイ、バー……」
「君の腕は我が腕。君の痛み、あらゆる痛苦は我が痛み。
 それに心配はいらないさ。僕達は決して"二人きり"ではないのだから」

 ほんの少しの間に右腕の大半を茨に覆われて、それでも彼は痛苦を表情に浮かべないままに微笑む。安心させるように、暖かな笑みを。
 彼にはもうそれしか残っていないのに。左の手は失われてしまったのに。それでも、まるで何でもないかのように。
 痛みの大半から解放され、強張る体から力が抜けていくキーアは、それに返す言葉もないままに、振り返って。
 そして。



「勇者───」



 遥か頭上より聞こえる、鬨の声ひとつ。



「パァァァァァァンチッ!!」



 騎士たる彼の言った通りに、
 決して二人きりではなかった彼らに救いの手が訪れる。

 ───爆轟する衝撃と熱波が、あらゆる不浄を焼き払った。










 爆発的な燃焼が収まり、圧縮空気が破壊された地点の大気を歪める。
 陽炎の如く揺らめく空間に、人型の揺らぎが二つ存在することを、その場の者らはすぐさま知った。
 それは、清廉の輝きだった。
 この地球上の何処に、それほどの光輝を誇る白色があるのだと思わずにはいられないほどに、神性不可侵の光を纏った者だった。
 白。それは狂える白騎士と全く同じに。
 けれど、内在する性質は完全な逆位置。
 白。綺麗な色をした純粋なものだ。
 白。無垢な色をした清浄なものだ。
 白きもの。その体躯の周囲を舞う、輝く純白は何か。それは翼の如くして舞い踊る花弁の散華なるものだ。
 その瞳は赫翠の金剛石たる輝きを湛え、万象立ち塞がるとも挫けぬ意思を垣間見せる。

 これは───

 なんだ───

「クラス、ブレイバー……」

 我知らずアーサーは呟く。
 読み取れる霊基情報は、基本七クラスに収まらない文字通りの規格外であることを示していた。
 ブレイバー。勇気ある者。勇ましき気力を携えて道を歩む者。
 その姿、その神性、何よりそのクラスを持つというならば、該当する者など一握りしかいまい。

「天神の災厄襲う世界の中心、人類領域の守護たる神樹の少女たち。神霊の加護より人類種を脱却させた転換期の担い手たる者」

 少女は───勇者は凶眼と睨みつけられるシュライバーの邪視なる不可視の破壊を受け止め、弾く。
 人間を呪殺する凶念。
 物質を破壊する凶波。
 その悉くを凪と払い、受け流す。凡百の英霊ならばそれだけで絶命するであろう常態の圧力。それはつまり、この少女がシュライバーを前に戦う資格を持っていることの証左であり。

「勇者、結城友奈。それが君の真名か……!」

 アーサーの声に、友奈は半顔で振り向き、頷く。
 その瞳に迷いはなく、その表情に偽りはなく。
 どこまでも崇高な想いを込めて、少女は力強く拳を握る。

「助けに来ました。迷惑をおかけした分、今度は私が頑張る番だから」

 少女には覚悟があった。
 聖杯戦争が始まって以来、ずっと胸に燻り続けた巨大な感情だった。義憤、罪悪感、そして何より大悪への憤りと、守るべき者らへの義侠心。その身の内に渦巻く激しいそれらは少女の心を時には凍らせ、そして、今はこうして炎となって胸の裡を熱く熱く焦がしている。少女は功罪問わず過去の様々な出来事をその心に刻み、その背に負っていた。故にこそ、今眼前に在る白い獣を見逃す訳にはいかなかった。

 そして。
 その拳は、高々と掲げられて。

「私は結城友奈───"みんな"を守る勇者の名前だ!」

 ───右手を、前に。





   ▼  ▼  ▼





 雷鳴にも似た轟音が、間断なくその場の全員の鼓膜を叩いていた。
 そこは最早、戦場とさえ思えないほどの有り様を晒していた。激震する大気は空間の安定さえ許さず、捻じ曲げられる空間震の中で両者の相争う姿をまともに視認することさえ難しい。
 大音響の爆発と共に、狂乱する嵐は世界という檻を跳ね回って周囲の全てを微塵と砕きながら疾走する。
 波濤が如き裂帛の気勢と共に、猛る勇者は万象打ち砕く凶獣を拳ひとつを以て迎え撃つ。
 世界が絶叫を上げ、殺戮の権能が現世へと顕現していた。起きるは破壊。起こすは絶望。吹き荒れるは最速の殺意であり、これ即ち大気の為す瀑布である。
 両者の衝突により巻き起こる不可視の大津波は音など遥か彼方に置き去った爆轟そのものであり、吹き荒れる破壊の嵐に巻き込まれて無事で済むものなど何一つとして存在しない。
 暴風、強風、颶風───果たして戦場に巻き起こるその風を人はなんと呼ぶか。
 旋風、疾風、烈風───そのどれもが否である。
 これこそは太刀風。魔剣の一閃であるかのように、それはウォルフガング・シュライバーという一個の終末装置が疾走を開始した証左であった。

「Gib deine Hand,du schon und zart Gebild!」

 今のシュライバーに意識はない。自我などとうに吹き飛んで、ただ無尽蔵の殺戮を発生させる死の嵐と己が身を変じていた。
 その暴嵐───猛り狂う凶獣を相手取り、台風の目とも言える中心に在るのはたったひとりの少女の姿。

「──────!!」

 大満開とは、勇者たる神性存在の力の根源「神樹」の満開、すなわち神霊群の権能そのものに他ならない。
 英霊として顕現した以上、当然としてそのスケールは聖杯によって再現し得る規模にまで矮化させられるものの、サーヴァントとして獲得し得るスペックの限界値に到達していることは疑う余地もない。
 そう───今の友奈は相性や当人の技量等を差し引いた純粋な霊基総量だけを言うならば、間違いなく本聖杯戦争において最強の存在であると言えるだろう。
 その証左こそが、今この瞬間における経戦の事実であり、余人の立ち入れぬ絶死の地獄においてさえ翳りのない姿は、絶望にさえ屈さぬ勇者そのものと言えるのだろうが。

 しかし、しかし。
 だとすれば何故───

「ッ、ァァ……!」

 空気の失せたその空白に、叫びを上げる余地などなく。
 いやそもそも、何故"最強であるはずの友奈は悲鳴を上げなければならない"のだという。

 戦闘は継続している。彼女は必殺に値する拳を振り上げ、決死の覚悟で撃ち貫こうとしている。何度も、何度も、それこそ数えることすら億劫になるほどの回数を、彼女は繰り返していた。
 そう、"並みの英霊ならばそれだけで終わるであろう拳撃を何度も放つ必要が友奈にはあった"。
 それは何故か。
 単純な話だ。"当たらない"のだ。

 颶風めいて飛び回るシュライバーもまた、今を以て健在。その身に傷のひとつもなく、すなわちこれまでに放たれた友奈の拳はただの一つとして当たっていない。
 今もそうだ。完璧なタイミング、完璧な動作で以て穿たれる拳打は、しかし何故か掠りもしない。言ったように性能は極限、覚悟も至高。速さにおいては通常時の数十倍にも相当し、魔力の放出による上昇値は留まるところを知らない。先程蓮に不意を打たれたのはあくまで神殺しのスキルあればこそであり、現時点の友奈は時の体感速度をも遅らせる域での超疾走を可能としている。極限まで強化された霊基を持つ友奈にとって、全てのものは止まって見えるはずなのに。

「なんで───」

 シュライバーの速さを追い切れない。停止同然に遅まった世界の中で、白騎士だけが超速の流星と化している。

「Und ruhe mich nicht an───Und ruhe mich nicht an!!」

 空を爆砕する衝撃波を纏いながら、空間を震撼させる凶獣の咆哮───理性は欠片も残さず消し飛んで、なお口にするその文言は一体何であるのか。

 わたしに触れるな。わたしに触れるな。近寄るな、去れ死神。消えろ消えろわたしに触れるな。皆諸共死に絶えろ。

「触れない───!?」

 つまり、これはそういうこと。
 ウォルフガング・シュライバーは肉体の接触を狂気の域で忌避している。その渇望を満たすために選んだのが、誰にも追いつかせず誰にも触らせないという禁断の魔高速。故に彼が発揮可能な速度に限界というものは存在しない。
 通常時はおろか満開時すらも遥か凌駕する霊基総量を有する友奈を、シュライバーは悉く上回った。その事実に彼女は恐怖し、愕然とする。
 死世界・凶獣変生、その効果とは「誰よりも速く動き、そして誰にも触れられない」という絶対的な先制と回避の具現。
 そう、例えどれほどの刃であろうとも、当たらなければ意味がない。触れないことには、神々の権能の結実たる大満開の拳であろうとも敵を打ち砕くことはできないのだ。
 最悪の事実であり、最悪の相性であり、そして最悪の状況であると言えるだろう。友奈とシュライバーは共に単純性能の急激な上昇を発揮する能力を持っているが、技の前提が異なっている。
 純粋に速く強くなる者と、誰よりも速くなる者。
 この競い合いで友奈が光速に到達しようとも、シュライバーはそれすら上回るに違いない。理論上、彼は相手が速ければ速いほどに加速するのだ。
 なまじ友奈が優れていることが仇になる。今までの彼は相対した敵が脆弱だったからこそ"あの程度"で済んでいたのだ。しかし今の友奈は紛れもない強者であり、だからこそ眼前の狂戦士を最強へと押し上げてしまう。

 振り抜いた友奈の右脚の一撃は、残像を両断しただけで空を切る。同時に、側頭部が爆発したかのような衝撃を味わった。

「あッ───きゃあッ」

 頭蓋を走り抜ける衝撃───貫通した不可視の圧が射線上の大地を諸共に打ち砕き、向こう側にある地平線の彼方までもが抉られるかのように爆砕した。
 蹴りか、それとも拳か肘か? 最早それすら判別できない。だが視界に混じる血の霧は、互いの身体から噴出した代物だろう。
 シュライバーは接触を忌む。にも関わらず攻撃手段は徒手空拳による肉弾だ。それは異常を兆倍した矛盾に他ならない。
 過去の確かな事実として、活動から形成、そして創造位階においてさえシュライバーは徒手による格闘は一切使ってこなかった。両手に握った拳銃か、あるいは跨る軍用バイクか。相手に直接接触しない武装による攻撃が、彼の持ち得る殺傷手段であったはずなのに。
 己の渇望、己の世界、その理を発揮しながら破壊している。
 何だこれは、なんなのだ?

「速いだけじゃない……当たらないのは、きっと」

 触れられない世界を求めた以上、触れられたならば崩壊する。故に本来シュライバーは、高速機動する紙細工であるべきだろう。渇望を壊されるとは死と同義であるのだから、触れた瞬間に崩れ去るのが道理というもの。事実、友奈を攻撃し接触した箇所は鮮血を噴いて粉砕しているというのに───

「Ich bin noch jung,geh,Lieber!」

 今の彼はそんなことすら忘れている。地獄の底まで破綻した魂が、自身の矛盾を認めていない。
 触れれば壊れる。触れれば死ぬ。かつてその刃で断頭したストラウスの一撃であるように。
 しかし己は今や死の世界そのものなれば、断崖の果てで永劫の殺戮に酔う不死不滅の英霊に他ならない。
 その狂信が、世界の崩壊を認めない。壊れようが破綻しようが、一切意に介さない。
 悪鬼の理とはこのことか。矛盾の狂気とはこのことか。
 殴った腕が崩れようと、シュライバーは気付かないのだ。接触の事実すら認識することができない以上、致命崩壊は起こりえない。魔性の法理に従って傷の超速再生が始まるのみ。
 すなわち、より多く殺した者が強くなるというエイヴィヒカイトの基本原理が具現する。
 接触拒絶という渇望を持つ故に、シュライバーは肉体的頑強さを持ち得ない。代わりに、彼が食らい続けた犠牲者たちの魂が再生燃料として機能するのだ。
 今この時、この一点───白騎士が真実の凶獣と化した状態でのみ、まさしく超速の再生を可能としていた。

 狂う狂う狂気の殺意。壊れて壊れて渦を巻く。
 我は暴嵐、絶速の獣。天地を喰らうフローズ・ヴィトニル。

 絶対先制、絶対回避。そして唯一の亀裂であった接触崩壊すら狂乱の彼方へと追いやった彼は、まさしく付け入る隙など見当たらぬ最悪の魔人であり。

「Gib deine Hand,du schon und zart Gebild!」

 友奈がどれだけ覚悟を決めて、どれだけの想いと力をその拳に込めようとも、今のシュライバーを斃すことは日を西から昇らせるよりも不可能なことだった。
 無論、曲がりなりにも戦闘を続行できているのは大満開の権能を持つ友奈だからこそ成り立つ膠着状態だ。これが他の英霊であったならば、移動にかかる衝撃波のみで打ち砕かれ、耐えたとしても天を衝く巨人すら屠る一打で以て微塵となるだろう。
 呪殺の域にある凶念を耐えるは至大の覚悟であり、世界を揺らがせる拳を耐えるは至高の肉体であれば。現存するサーヴァントの中で、この凶獣と正面から相対し得る者は友奈以外に存在しないと言える。
 しかしそれら頑強さ以外の全てが、シュライバーを相手にしてはあまりに相性が悪すぎた。今の友奈が持ち得る攻撃手段は徒手空拳しかなく、厳然たる法理としてそれらを当てることは叶わない。技量が云々の問題ではなく、仮にここに立っているのがマキナやストラウスといった超絶の技を持つ者であったとしても結果は同じであろう。
 その点で言うならば、叢が行った封鎖結界への放逐は理に叶った対抗手段ではあった。本来黒円卓の三騎士は相性の面から三すくみとなっており、白騎士たるシュライバーに有利を取れるのは逃げ場のない世界を構築する赤騎士の創造であるからだ。
 だがしかし、それすらも白騎士が狂乱の淵に立つことを想定しない場合の話であり───
 この状態の彼にとって、別位相の異空間ですらその身を縛る枷とは成り得ない。事実、叢が展開した忍結界はシュライバーの有する霊的質量のみで粉砕され、仮にそれに耐え得る強度があったとしても、シュライバーはその爪で空間そのものを打ち砕いて脱出を図っていただろう。

 よって現状、打つ手なし。
 開戦より僅か十数秒、たったそれだけの間に友奈が受けた攻撃の数は数千にも届かんばかりに膨れ上がっている。
 それほどの攻撃を無防備に受けて、尚も原型を保っている友奈の頑強さは驚嘆に値するが、しかしそれだけだ。

 視界を駆ける一瞬の影に、起死回生とばかりに決死の一撃を見舞う。当然の如く空振りし、中空にて伸びきった体が側方より蹴り砕かれた。
 天を支える巨人が癇癪を起こして拳を叩き付けたかの如く、友奈の肉体が地面へと叩きつけられた。衝撃さえも追い越して幾度も地面をバウンドし、幾つもの赤土の覗く更地と化した衝突点と立ち昇る土煙に、吹き飛ばされた友奈は悲鳴に成り損ねた苦悶の息を漏らす。

 当然のことだが、大満開は決して不死身でもなければ無敵でもない。
 有する霊基総量は確かに莫大そのものであるが、攻撃そのものを無効化する特性や死の淵からも舞い戻る不死性を表しているわけでは断じてない。
 すなわち、当然の理屈としてダメージを負い続ければいつか必ず限界が来るし、そしてその時は決して遠いものではなかった。
 何故ならシュライバーもまた、その特性や相性を差し引いても尚、純粋な霊基総量で大満開に極めて近い数値を叩き出している規格外の存在であるのだから。

「あなたは……」

 端的に言って絶望そのものである状況───しかし友奈は同時に、眼前の敵に対し釈然としないものを感じていた。
 彼の持つ性質は、何となくだが理解できた。こちらを上回る速さに決して当たらない回避性能。そして何より「触れれば砕ける」その脆さ。
 サーヴァントとは人々の祈りが形となった存在である。「こうあってほしい」という願いが英霊を形作り、その通りに仮初の肉体を伴って現界する。
 故にこそ、心の在りようが存在としての在りようを形成することもあるのだと、友奈は理解している。そしてその意味で言うならば、この狂した白騎士はまさしく矛盾と背理の塊であり、だからこそ理解できない。
 だってそうだろう。友奈の直感が正しければ、眼前のこの敵は───

「あなたは───何より自分を消したいの……?」

 忘我と呟かれたその言葉に、しかし凶獣は言語として成立しない叫びのみを返して。
 その魔手が友奈の心臓を狙い撃った、

 その瞬間だった。

「───ブレイバー!}

 飛び込んでくる声があった。
 それは友奈が絶対に守り抜くと誓った、小さな少女の声だった。
 先ほど別れ、そしてすぐ合流すると約束した少女の叫びだった。

 少女は───すばるは、ドライブシャフトを全力で疾駆させて、真っ直ぐに友奈のいるところへと。
 咄嗟に来るなと言おうとして、けれど、けれど。

「……マスター!」

 ───キラキラとは、人の心より弾きだされた可能性の結晶である。
 人は己の未来を確定させていない状態において、無限の可能性という揺らぎの中にあり、やがて可能性を一つに収束させると選択されなかった可能性は結晶として弾きだされる。
 それがキラキラ。みなとの集めていた宝石の正体であり、すばるが過去に受け取った星の正体であり、そしてとある異形都市において生まれることなく死んでいった嬰児たちを《復活》させるために使われたものと同質の存在なのだ。
 《奇械》、それは生まれることなき可能性存在であればこそ───
 あらゆる可能性を内包し、故にあらゆる存在を打倒し得る。

 例えば、シュライバーが駆けだしたタイミングにおいてその衝撃波から逃れ得る座標位置にするりと潜り込んだり。
 例えば、絶対なる回避の権能から逃れ得る極小確率の可能性を引き当てたり。
 そしてそれは、ただ一度の奇跡ではあれど。
 かの《奇跡の魔女》の御業と同じくして、凶獣の顔面へと吸い込まれるようにして。

「───ぁ」

 パシン、と。
 鳴り響くものがあった。それは乾いた響きを持って、小さな小さな音を立てる。
 すばるの手は、シュライバーの頬を平手で叩いていた。
 それは攻撃ですらなかった。サーヴァントは愚か市井の民草であろうとも傷つけるどころか碌な痛みも与えられないであろう些細な接触でしかなかった。
 単なる手弱女の張り手でしかなく、戦略的な意味も攻撃としての価値もまるで存在しない。
 そのはずなのに。

「あ、あぁ、ぁあぁぁああぁぁぁ……」

 死世界の破壊を潜り抜けた。
 死世界の回避を無力化した。
 そして第三の奇跡として、その接触を、シュライバーに認識させた。

 それは全てキラキラ───《奇械》の権能あったればこそ、今この瞬間のみただ一度だけ行使可能な代物であり。
 だからこそ、それはシュライバーに対して特効にも等しい効力を発揮する。

「ああ、ぁ、あ───ああああああああああぁぁぁぁああああああああああぁぁぁああああああああああ!?」

 シュライバーの体が崩れる。
 最初は頬に走った亀裂だった。そしてそれは頭部と首にまで侵食し、やがては体の節々が罅割れ、砂が崩れるように崩壊していく。
 止まらない。止まらない。接触を忌むガラス細工の獣は、故にこそ触れられたと認識した瞬間死ぬより他に運命はなく。

 あまりに呆気なく、その肉体を砂塵と変えたのだった。

NEXT漆黒のサオシャント

最終更新:2019年07月13日 10:10