太陽が傾ぐ。
 空気が一気に変わって全ての光が赤くなる。畑が黄金色に輝いてどこかでヒグラシが鳴く。
 それは、いつかどこかで見たはずの、あの日の記憶の風景。

「何故、世界を救いたいか……ですか?」

 あの日、あの夕暮れ。座り込んだ土の冷たさ、仄かに灯る一番星。
 夕陽を背にした少女は、黄金の光に染められいっそ幻想的なまでの姿になって、訥々と言葉を返す。

「私にはもう、叶えるべき"願い"なんて、ないのですよ」

 アイの一番大切な人は、ようやく巡り合えた父親だった。

「その願いは、お父様と一緒に埋葬しました」

 アイの一番大切な願いは、父と一緒にいたいというものだった。

「お父様がそれを願いましたから。墓守の私は、人の願いを無碍にできません」

 父は死者の生を願わなかった。
 死後硬直の眠りの果てに起き上がった死者(かれ)。誰よりも人間を愛し、死者を憎んだ正義は己にも適用された。
 それでも彼は娘のために、一晩だけ無様を晒した。
 それが父───キヅナ・アスティンにとってどれほど例外的なことか、アイは知っていた。だから一番の願いは言わなかった。

 ずっと一緒にいてほしいとは、言えなかった。
 それでも良いと決めた。だから笑った。
 笑って、彼を見送った。

「でしたらほら、もう世界を救うしかないじゃないですか」

 一番大切な人のために、一番大切な願いを捨てた。
 だからもう、アイには他の願いを叶える資格などありはしないのだ。

 だってそうだろう。今さら自分の願いを叶えてしまったら、父の死はどうなってしまうのだ。願いを捨てたその選択はどうなってしまうのだ。
 他の願いを叶えてしまったら、父への愛と捨て去った願いが"一番大切"ではないことになってしまうではないか。
 他人(キヅナ)のために自分を捨てたアイは、もうその在り方をずっと貫くしかなかった。
 自分を殺して他人を救って、救って、救い続けて。その果てに世界を救うしか、道は残されていなかった。

「私は世界を救います。その"夢"だけは、絶対に譲りません」

 アイは自分の中の父への愛を嘘にしたくないというたった一つの想いのために、自分が救われる可能性を、自分の中から捨て去ったのだ。
 アイ・アスティン。人の死に寄り添う墓守の少女。願いを失って(のろい)を受け取った世界の守り人。
 彼女は、アイは───

 もう決して、本当の意味で、未来永劫、救われることはないのだ。





   ▼  ▼  ▼





 瞬間、だった。
 瞬間、全てに裁定をと腕を揮うギルガメッシュの視界が、鮮血の如き赤で染まった。
 何を、と思うまでもない。英雄王が裁定を下すのと全く同時に、いや"それよりも一手速くに"霊核を抉る位置へと殺到した空拳の一撃が、衝撃となって彼の全身を叩いていた。

 それは二重の意味でありえないはずの光景だった。
 まず第一にその攻撃が成立すること自体がおかしい。ギルガメッシュの行動はシュライバーに完璧な形で先んじており、全ての攻撃動作が完了した事実を認識していた。
 シュライバーの力とは万物の先を行くもの。しかしそれは、既に結果の出てしまった事象を覆すことではない。
 いくら速度を上げようとも、辿りつけるのは現在か未来だけであり、既に終わってしまった過去にはどうしても戻ることはできないのだから。
 過去には戻れない。失ったものは戻らない。それは絶対の不文律であり、しかしシュライバーはその事実さえをも粉砕した。
 時間軸逆行による過去への先制。
 シュライバーが為した所業とはつまりそういうことであり、発動すれば必殺であるはずの英雄王の一撃を"発動するより前まで遡り無効化"したのだ。
 それは誰にも追いつかせないという狂おしいまでの渇望の具現。取りこぼしてしまった過去さえも、必ず追いつきこの手で殺してみせるのだという矛盾した狂信だった。

 その理屈と渇望を、英雄王は明晰なるその頭脳で以て瞬時に理解した。
 故にそれはどうでもいい。想定を超えて敵が強大であったなど、戦場においては些事にも及ばぬ茶飯事である。致命傷とて何するものか、心臓を抉られようともこの身は害獣の悉くを討滅してみせるのだと滾る気勢は微塵もその熱量を減じてはいない。
 だが。
 何ということだろう。彼は今、呆気にとられている。
 仮に心身掌握の術に長ける者がこの場にいたならば、変わらぬ無感の表情に、抑えきれない感情に揺らめく細部を見ていただろう。あり得ぬ不可思議、どのような不測が起ころうとも、例え自身の命が危機に陥ろうとも、決して揺らがぬはずであった英雄王の相貌が、今や驚愕と困惑に支配されている。

「───こふっ」

 視界が真っ赤に染まっている。生温い血の感触が頬を伝って落ちていく。
 殺戮の腕を伸ばしたシュライバー、噴き出る鮮血、血に染められた風景。
 ああ、けれど。その血は英雄王のものではなく。
 それは───

「……まあ、ね……こうなるってことくらい、最初から分かってたわ」

 震える声で"彼女"が呟く。
 それは失血による寒さから来るものか。それとも否応なく揺れ動いてしまう心の動きであるのか。
 胸を抉られ、口の端から大量の血を流し、見えない瞳で英雄王を振り返る銀糸の少女。
 英雄王を致死の攻撃から庇ったイリヤスフィールは、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

 シュライバーの性質は自他相殺。触れれば砕ける身故に、敵を一人殺すたびにシュライバーもまた一つ命を失う。
 だからこそ、イリヤの体を貫いたシュライバーの腕は微塵に砕けてその先に届くことはなく。
 ことシュライバーに限って言えば、か細い少女の体であろうとも肉盾となるには十分だった。
 代わりに、その攻撃を受けた少女の体は、今このように鮮血に染まって。

「……失せろ獣、それは貴様が触れていいものではない!」

 瞬間、叩きつけられる極大の覇気と共に黄金の弾雨が降り注いだ。
 敵皆逃がさないという意思の現れた絨毯爆撃を前にして、それでもシュライバーは悉くを回避してのけるけれど。
 彼の姿は彼方へと追いやられ、残るは倒れる少女と、未だ無傷の男がひとり。

「口を開くなとは言わん。その瞳、その言葉、貴様は我の施しさえ受けるつもりはないのだろう」
「ええ……やっぱり全部お見通しね……」

 ギルガメッシュの見下ろす先、倒れ伏す少女の瞼は、開いていた。
 今まで開くことのなかった、瞼。
 光を失ったはずの、瞳。
 それが今、確かに真紅の双眸を垣間見せて。血のように赤く濡れた瞳、そこから血ではない雫をこぼれさせて。

「私、最初に言ったでしょう……? 私は未来が欲しかった……でも、それはちょっとだけ違っていたの」

 殺されるためだけに生み出された命。アインツベルンの悲願という単一の目的に消費される数多のホムンクルス。
 顔も姿も声も思考も何もかもが同じ彼ら彼女ら、ありもしない理想を追い求めて使い潰される意思なき人形たちの掃き溜め。
 ああ、私は、きっと。

「私は、"自分"が欲しかった」

 願ったのはきっとそれだけ。無意味に生まれて無関係に生きて、けれど無価値に死ぬことはしたくなかった。
 誰かに求められたかった。
 生きた証を残したかった。
 私は、"わたし"になりたかった。

「あなた、言ったでしょう……? この世界は卵の殻、私たちはそれに囚われたヒナ鳥だって。
 ずっと考えてた。ずっと、ずっと、私たちは……
 偽物でしかないこの世界で……仮にも生を受けたのなら、一体何ができるんだろうって……」
「そうか。貴様、既に」
「分かってたわよ。だってあなた、ずっとそう言ってきたじゃない」

 笑う。微笑む。何かを面白がるように、年相応の少女であるかのように。

「きっとね、元の私は無価値に死んでいったんだと思う。
 でも、それでも、後に続くものまで価値がないとは思いたくないの」

 誰が死に、誰が生きようとも。それでも世界は続いていく。
 それはきっと誰もが同じで、目の前のこの男だって例外ではないのだろう。

「私が生きる意味は私が決める。けど、私が生きた意味は、私以外の誰かが決めること」

 だったら。だとしたら。

「あなたを救った私は、きっと、世界を救った唯一無二の"わたし"でしょう……?」

 彼なら、この黄金の英雄ならば、きっとそうするのだろうと。できるのだろうと。
 確信を込めて言うイリヤに、ギルガメッシュは鉄の表情で。

「……認めよう。我は暴君ではあるが人を裁定する者でもある故に、その者の価値を計り違えることはない」

 目を瞑る。それは何かを想ってか、遠い彼方を想起するが如くに呟いて。

「生道、大義である。長き生きる難苦、貴様は見事やり遂せてみせたのだ」
「ふ、ふふ……」

 笑う。笑う。笑みがこぼれて止まらない。

「後悔がなかった、なんて。そんなこと言ったら嘘だけど」

 現実に翻弄されながら手さぐりで選択してきた道。
 こんなはずではなかったと、決して拭うことのできない後悔と未練。
 自分を殺した相手を、今度は救ってしまうという矛盾。
 浮かぶのはそればかりで、決して"良かった"なんて言えないけれど。

「でもせめて笑って逝くわ。私は確かに、私の物語を生きた」

 宣言通りに、少女は最期までその笑みを崩すことはなく。
 そして、もう二度と、動くことはなかった。

 ……静寂の帳が下りる。
 その時になってようやく、蓄えられた膨大な力が完成を見せた。
 ゲート・オブ・バビロン、展開準備完了。
 シュライバーによって起こされた時間軸の変調により、未完成状態まで後退させられた奥秘が、再度の装填を見せて。

「故に、我は貴様へ語った言を違えなどしない。
 滅びの刻は来た───異形十字の裁きを此処に!」

 ───波濤、世界を揺らして。





   ▼  ▼  ▼





 それは、少女の祈りが起こした奇跡であったのだろうか。



 戦闘は今や一方的な様相を呈していた。
 彼方に閃く残影の銀光を認識した瞬間には、既に己の腕から剣が弾かれていた。
 シュライバーの接近速度は既に光速を超えている。それほどの速度域に達しながら未だ致命的な重力崩壊が起きていないのは、彼自身が独自法則で編まれた一個の異界である故だろう。だがそれでもこの超速、細切れに刻まれる大地と同じくして時間と因果さえもその糸を断ち切り、何に縛られることもなく飛翔するはまさしく死そのもの。銀の流星が揺らめく夜空を一直線に貫き、巻き起こる衝撃波が周辺の空間を諸共に粉砕した。
 アーサーの手から離れ、くるくると舞う騎士剣が暴風に巻き込まれ、彼方の大地へ突き刺さる。
 それを認識する暇もなく───圧倒的なまでの衝撃が、彼の全身を叩いていた。
 速すぎる。
 銀の嵐に晒される。最早自分の身に何が起こっているのかすらはっきりと分からない。ただ、耐えた。致命となる傷だけを庇って、ひたすらに。失った左腕の傷口が更に抉られ、鮮血が迸る。顔面など腫れ上がってまともに視界を確保できない。最早立っていられること自体が奇跡であり、両の脚は機能を失ってただ嬲られるがままに舞っているから倒れていないというだけのことだ。気を抜いたら死ぬことは分かっている。アーサーは耐える。耐え続ける。
 神速の凶獣の一閃は、無音だった。
 交錯に光が閃き、それに何手も遅れて、轟音が衝撃と共に大気へ轟いた。

 ────────────

 手は尽きた。剣は離れ光も斬撃も放つことなく、我が身では彼奴に追い縋ることさえできない。
 膝が崩れる。思考が磨滅する。視界は黒一色に染まり、感覚は痛みすら知覚することができなくて。
 それでも。

『セイバー……っ!』

 ───聞こえた。
 自分を求める、少女の声が。
 聞こえたから。
 僕は、君を……
 君達を……

『みんなを───あたしたちを、助けて……!』



「───ああ……ッ!」



 視界が一気に開けた。
 充足するものがある。それは全身を駆け巡る魔力の奔流か。
 いいや違う。もっともっと純粋なものだ。
 尊きものだ。眩くも輝かしい、そうした類のものだ。
 それは今やアーサーの足を支える大地そのものであり、そして彼が背負うべき太陽の輝きそのものでもある。

 ならば今、この瞬間、例え万象が立ち塞がろうとも!
 我が身、我が決意を打ち砕くものなどありえるはずもない!

「宝具解放……! 少女の令呪に応えて出でよ、我が権能───我らが目指した理想の最果てよ!」

 復元を超え生まれ変わる肉体。積層した数多の想いが、少女の祈りが、人々の想いが、等しくあり得ざる奇跡を体現させる。
 発露する真名解放。其は勝利の剣にあらず。
 敵を打ち砕く剣ではなく、それは人々を守る盾。
 万象守護の結界なり。

 遍く人を救わんとする、其の名は───!

全て遠き理想郷(アヴァロン)!」

 ───光、世界を照らし出して。





   ▼  ▼  ▼





 ずっと疑問だった。
 なんで、この人は自分を傷つけたがるんだろう、と。

 誰も追いつけない絶速、触れれば砕ける脆弱さ。
 殺意に狂えるかつて人だった獣が何と言っているのか、それは友奈にもおおよそ察することができた。

 私に触れるな。
 私は負けない。
 逃げたのではない、誰も追いつけなかっただけだ。
 だから私は、最速の獣となろう。

 何が彼をそこまで駆り立てる? 何故そうまでして他者の温もりを拒絶する?
 分からない。分からない。ずっと考え続けたけれど、友奈にはそこにある真実を看破することができない。

 友奈は人と繋がってきた英雄だ。
 誰かのために戦って、その誰かに救われた。彼女がこれまで戦ってこれたのは偏に他者という存在あってのことで、ひとりきりじゃとても怖くて立ち向かえない。
 シュライバーは違った。彼の在り方は、友奈と完全な対称だった。
 他者の温もりを拒絶する。光から自ら遠ざかる。得られるものは氷のような冷たさだけで、けれど彼はそれを善しとしている。

 それは、何故?
 生まれながらにそうした人間だったからか───いいや違う。
 先天的な精神異常ではここまでの渇望には至るまい。何某かの経験があり、それ故に接触を拒絶したからこそ異界創造の域にまで渇望を高めるに至ったのだ。

「……ああ、そっか」

 ふとそこで思い至る。もしかしたら前提そのものが間違っているのではないかと。
 シュライバーの真なる創造とは、彼が発狂することにより発動する。つまり正気を保っている状態の彼は"真実"の姿ではなく、ある種の欺瞞に満ちているということであり……
 ならばこれすらも、本当の渇望に至る"途中"だったとしたら?

「誰かに触られて砕けるのは、触られるのが嫌だからじゃなく、自分から切り捨てているから」

 自分から接触を拒絶するのは、誰からも愛されていないのではなく、愛されて尚自分がそれを拒絶しているに過ぎないと偽っているから。
 彼が持つ拒絶の渇望とはすなわち、そうした現実逃避の一種なのだとしたら。
 彼が真に狂乱の檻へと追いやったのは、思考や正気ではなくそうした"真実"なのだとしたら。

「その気持ちは、少しだけ分かるよ」

 何故なら友奈も、現実から目を背けていたから。
 マスターのためと偽って大勢の犠牲が出る現実を無視した。その果てに消えない罪を刻まれて、一度は狂気の淵へと落ちた。
 同じだ。友奈は一度、この獣と全く同じ道を辿った。
 故に理解できる。友奈は今、この理解し難い獣を前にある種の共感さえ抱いていた。

「あなたはきっと、悪くなかったんだと思う。少なくとも最初だけは。
 あなたはひたすらに弱かっただけ。壊れて目を背けるしか選べないほどに、弱かっただけ」

 それは眼前の獣だけではなく、自分自身にも向けられた言葉であり。
 そして友奈の考えることが本当だったとすれば、この少年が持つ真実の渇望とは───

「私が、あなたを止めてみせる」

 ───慈悲、穢れた魂を引き上げて。





   ▼  ▼  ▼





 最初から、そいつはムカつく奴だった。
 見てるとどうにもイライラした。身の丈に合わない夢を語り、どう考えたって無茶苦茶な理論を振りかざし、それを疑うことなく盲信している。
 その行き着く先は地獄しかなくて、それでも良いとあいつは笑って、いくら「やめろ」と叫んでも決して止まろうとはしない。

 救えない馬鹿だった。
 だから、蓮は彼女を見捨てることができなかった。



「クソ……が……」

 既に、蓮の肉体は満身創痍を通り越していた。
 何故生きているのか分からない。悪態の声が出せたというそれだけで、最早奇跡とさえ言える領域だ。
 全身はボロボロで無事な部位など何一つとしてなく、食い荒らされた惨殺死体かと思えるほどの惨状の只中に、彼の体はあった。

 終わりは、刻一刻と近づいていた。
 限界以上の肉体の酷使と、諧謔の使用により積り重なった負債。それは確実に蓮の存在を蝕んでいる。

 瞳が閉じていく───命の栓が閉じていく───
 瞳孔が光を感知しない。静かに迫りくる死の足音、それさえ朧にしか感じ取れなかった。
 四肢の感覚は途絶した。痛覚は麻痺し、激痛を通り越してとうの昔に無痛となっている。
 身体が死体に戻っていくのが分かる。器が罅割れ、そこから魂が雫となって零れ落ちている。
 破滅の足音だけが響く。俺の最期を読み上げるカウントダウンであるかのように。

 ───もはや、握る柄の感触すら曖昧で。
 ───もはや、この身に残るのは不確かな感情だけで。

「ア……イ……」


 だからだろうか。何もかもを無くして、残っていたのは誓いだった。
 仮に、壊れる瞬間にこそ其の者の真実が垣間見えるのだとすれば、それこそが藤井蓮という個人の本性だった。
 問われる真価に、選択した答えは理想の具現。死者の願いなど意味をもたず、故に生者たる彼女の未来(さき)をと希って。
 誓いがあった。繋がりがあった。夢があった。願いがあった。
 ならば、さあ───立ち上がらなければ。
 生きていてほしいのだ。先を見てほしいのだ。狂った妄執ではなく、ただひとりの人間として日々を過ごしてもらいたいという、どうしようもなく我欲に穢れた願いがそこにある。
 ならばこのようなところで、自分だけ眠っているわけにもいかないだろう。失ったかつての愛に謝るには、まだ早いのだと知ったのだから。

「そう、だよな……くたばるにはまだ早ぇって、あいつならきっと笑って言うんだろうな……」

 脳裏に浮かんだ親友の馬鹿面に思わず笑みがこぼれて、そのやせ我慢と共に立ち上がる。

 限界だ。終わりは近い。"そんなことはとっくの昔に分かっている"
 死は確定している、そう決めているんだ。
 決意がある、覚悟がある。決めたのならば、あとはそのために邁進するのみだろう。
 自らの決断に従い、実行する。

「ここまで来たら根競べだ。俺とお前、どっちが先にくたばるかのな……!」

 そうして───清廉の気配と共に詠唱(ランゲージ)が紡がれる。
 異界の言語が如き声は死者の生を否定する祝詞であり、同時に凄絶なまでの自己否定の呪いだった。
 同じ死者でありながら、人がましさを死人に説く矛盾。自分自身でさえも嗤いたくなる滑稽。
 しかしそれが彼の宝具であり、彼にとっての現実だった。何者にも譲れない矜持、死者は死に還れという渇望。

 藤井蓮は死者の生を認めない。
 故に彼は、今もなお自分自身を呪い続け、その存在を否定している。

 その理由は何か───語るまでもない。

「なあ、アイ」

 視界の果てに収束するものが見えた。シュライバーが駆ける銀色の軌跡が縦横無尽に刻み込まれる世界の中、極大規模の魔力が激発する予兆が見える。
 白濁した意識の中で、蓮は笑った。

 ビシリ。ビシリ。渇いた亀裂の音が聞こえる。
 罅割れていく顔で、それでも笑った。

「お前は本当にどうしようもない大馬鹿で、見ててイライラする奴だったけどさ。
 それでも俺は、お前に会えて本当に良かったよ」

 だから生きろ。人として。
 これが自己満足だということは分かっている。それでも願わずにはいられない。
 できるとも、お前ならきっと。
 そんなにも人の死に心を狂わせられるお前なら、必ず前を向いて歩いて行ける。
 生きろ。生きて、そして笑え。
 アイ。お前は優しい子だ。

 剣を抜き放つ。
 鋼の刃は我が身、我が意。今こそ疾れ、見敵を殲滅せよ。
 そして―――あの娘が生きる美しき世を、この手で切り拓く!

「創、造……ッ!」

 ───死想、遍く世界に満ち満ちて。





   ▼  ▼  ▼





 そして、次の瞬間にいくつかのことが起きた。
 少女たちの瞳には、まるでそれが奇跡にも見えた。



 突如、揺らめく空を割って巨大な漆黒の十字架が墜落した。それは迅速を以て飛来し、誰にも追いつけぬはずのシュライバーを突き刺すかのように正確に白騎士ごとを貫通、凄まじい轟音を響かせながら大地へと突き立った。
 間近にして威容なる巨大十字。見上げんばかりに空の彼方までを貫く果てのない黒色。
 それはまるで、一幅の宗教画に描かれる世界終焉の一幕のようにも見えて。

 幻想大槍───アルファ・クロス。
 世界を繋ぎ止める槍。幻想すらも殺し尽くす憤怒王の一刺。それは最果てにて世界を繋ぐ聖槍と全く同じくして、独立した等身大の異界と化したシュライバーを影の如くに張り付けた。

 "世界"への特効。
 それは奇しくも、疑似流出位階へと押し上げることで一個の世界となったシュライバーに対し、常以上の効力を発揮する結果となる。
 空間固定。事象固定。"そこから動くことを許さない"という莫大規模の概念干渉がシュライバーという一個の存在ごとを縛り付けるけれど。

「▂▂▅▆▆▂▅▆▂▅▆▇▇▇▇▇▅▆▆▆▇▇▇──────!!!!」

 だが、それでも。
 止められない。絶叫と共に自分の体を食いちぎり、空間的に固定されたはずのシュライバーは尚も追い縋る。
 既に彼は四肢と胴体の8割以上を喪失し、残っているのは頭部を除けば肺と心臓とそれを覆う少量の骨肉しかない。アルファ・クロスがもたらす膨大な質量に弾かれる形で、最早肉片とさえ形容できる有り様のシュライバーが吹き飛ばされる。
 吹き飛ばされながらも、その瞳に殺意の色は未だ濃く。
 何という執念、何という妄念の多寡であることか。だがそれすらも。

「ギィッ!?」

 末端の四肢と胴体を存在形質ごと抉り取られ、再生もできないままの襤褸屑と化したシュライバーの視界を、突如として光の粒子が覆った。
 それは世界ごとを包む光の結界だった。シュライバーを閉じ込める檻のように、彼ごとを覆って隔離する封鎖結界だ。
 全て遠き理想郷(アヴァロン)。それは究極の守りの銘。理に属する以上不可侵であり、世界を歪める光塵により世の理すべてを反射する。
 あらゆる物理干渉、平行世界からのトランスライナー、六次元までの多次元行使すらもシャットアウトする隔絶の宝具。
 それはシュライバーと、そして"残る二人"ごとを覆い、閉じ込めた。

 二人。聖剣使いのツァラトゥストラと、いくら殴っても死ななかった鬱陶しい白色。
 両者等しく殺意を以て認識するシュライバーは、例え彼らが何をしてこようと何も揺らがなかっただろう。それが攻撃であれ、防御であれ、闘争に直結する行動ならばそこに何の疑問を挟む余地はないからだ。

 ───ああ、それでも彼は見てしまった。

 その頭蓋を叩き潰そうと咢を軋らせて、吹き飛ばされるままに接近したその相手。
 何かを決めたような顔をした少女の姿。
 そいつは、何故か、攻撃でも防御でもなく、ただ腕を広げて。

 そこには何の戦術的な価値もなかった。命乞いや逃走の類ですらなかった。
 それは、まるで抱きしめようとしている風にも見えた。

 殺意に狂ったはずの獣は、その一瞬、確かに忘我の状態に陥った。
 動きが、止まる。

「ゲェァ……!?」
「ぐ、あぁ、……ッ!」

 凄まじいまでの衝撃に晒されて、シュライバーの突撃を甘んじて受けた友奈が後方へと吹き飛ばされる。何度も地面にバウンドし、大地をその身で削りながらも勢いを殺して停止する。
 その胸には、四肢を失ったシュライバーが、しっかりと抱き止められていた。

 ───何故、何故だ。
 ───何故自分はこんなにも弱々しく抱き止められている。

 誰よりも何よりも、困惑に囚われたのはシュライバー自身だった。世界も時間も因果律さえも縛ることのできない彼を、今まさに縛っていたのは友奈の二本の腕であった。
 あり得ぬ不可思議。我が最速の肉体は誰にも触れられないはずなのに。例え捕縛を受けようとも、力づくでその拘束を解いて然るべきはずなのに。
 そんな自分が、どうして───

「あなたは、自分の想いを誤魔化していた」

 語られる言葉は、理性なきシュライバーの耳にさえ届いた。

「自分に触るな、自分は一人でいい……よく聞いたよ、幼稚園や小学校でボランティアしてた時も、そういう子は何人もいたから。
 でもそういう子って、半分くらいは本当は誰かに甘えたい強がりな子だったんだ」

 触れ合いたいけど突き放す。優しくしたいのに棘のある言葉を使ってしまう。本当は平気じゃないのに平気と強がってしまう。
 ───愛されたいと願ったのに、愛される必要はないと嘘を吐く。

「ずっと不思議だったんだ。触られるのが嫌なだけなら、別に避けるだけでいい。誰かを追い越すことも、触られたところを切り離すことも、本当は必要ないはずなのに。どうしてあなたはそんなことをするんだろうって」

 万物を追い越す絶対先制は、自分は誰にも構われなかったのではなく誰も追いつけなかっただけと思いこむため。
 触れれば砕ける脆弱性は、自分は愛されなかったのではなく自分を愛する者を自ら切り捨てただけと嘘を吐くため。

 そう、シュライバーの本当の渇望とは。

「抱きしめられたい。あなたが願ったのは、多分そういうこと」

 囁くような友奈の言葉に、最早シュライバーは呻くこともできずに。
 ただ、ただ、見た目相応の子供のように、力なく受け入れる。

 故に、この状況は合意を以て成立する。
 本来ならこの展開はありえなかっただろう。周囲を認識する思考すら吹き飛んだ凶獣の瞳には、抱き止める誰かの姿すら満足に映るはずもないからだ。
 けれど、彼はかつて一度だけ"認識させられた"。
 すばるの放った一撃、何の意味もなかったように見えたあの一瞬。
 シュライバーは確かに、すばるという他者の存在を……誰かが自分に触れたのだという事実を心に刻まれてしまった。

 よって引き起こされるのは、強制協力の成立であり渇望の反転だった。
 シュライバーは妖精郷(アヴァロン)にて、死世界(ニブルヘイム)から妖精界(アルフヘイム)へと渇望深度を押し上げられる。
 フェンリスヴォルフの権能は半壊する。今や涙さえ流す哀れな子供と堕したシュライバーは、絶対回避の異能さえ消失していた。

 抱きしめられたいと願った。愛されたいと願った。
 けれど両親も周囲も何もかもがシュライバーを疎んじ、嘲笑い、誰にも愛されることはなく。
 その事実を見たくなかったから、彼は誰にも触れられない絶対の孤独を体現したのに。

「なんで、ぼくは……」

 ───その言葉を掻き消すように、シュライバーの体内から湧き上がるものがあった。

「がッ、ギィ!?」

 縫い付けられる。張り付けられる。内腑から突き出る幾本もの刃が、シュライバーの肉体を友奈へと縫い止めた。
 それはナイフだ。アンティーク調の無数のナイフ、その銀色の刃。それらが一斉にシュライバーから突き出して、絶対に逃がさないとでも言うかのように動きを封じる。

 狂せる獣に喰らわれて、それでも魂の一欠片を潜ませた、それは矮小な少女の小さな復讐。
 殺しきることは不可能な、小さな小さな嫌がらせのような逆襲。だがそれは、一刻も早くこの場から逃れたいシュライバーにとっては致命の隙に他ならず。

「一緒に逝こう。私があなたを抱きしめるから」

 慈悲そのものであり、同時に死刑宣告にも等しい友奈の言葉が告げられると同時。
 シュライバーに遺された一つの瞳は、彼方において剣を振りかざす少年の姿を捉えた。

 紡がれる詠唱が聞こえる。放たれる死者殺しの狂念が木霊する。
 ああ、それはシュライバーにとっての最悪であり、そして蓄積された魂ごとを強制昇天させる諧謔の理に他ならず。

 ───世界を満たす死想の波濤と共に、シュライバーの肉体が泡のように弾け飛んだ。

「アァァアアアアアアアアァァァアアアアアァァアアアッ!!!」
「ぐ、オォ、おおおおぉぉぉおおおおおおおおおおおおおッ!!」

 比喩ではなく喉が張り裂ける絶叫轟く中、シュライバーはまるで浮いては弾ける無数の泡のように凄まじい速度で崩壊と再生を繰り返した。
 一瞬で総体が消滅し、超級規模の再生能力により瞬時の蘇生を果たすも、一瞬の間もなく更に消滅させられる。
 その繰り返し。秒間にして百か、それとも千か。生き返っては殺される死と再生の円環の中で、シュライバーは極限の苦痛を体現する悲鳴を木霊させた。

 根競べと言った蓮の言葉通り、それは見るも泥臭い消耗戦だった。
 世界を満たす静謐の気配の中、蓮の体は罅割れ、シュライバーは無限にも等しい再殺を繰り返される。
 死想清浄・諧謔。それは死者を眠りに還す絶対的な静謐の具現。
 範囲内にある全ての死者を、あらゆる特性を無視して必ず殺すという不死殺しの力。
 空間的に広がるこの創造は言わずもがな回避不可能な代物だが、しかし悪戯に放ってはシュライバーに限れば回避の余地を残してしまう。
 空間に間隙を空ける、射程範囲外まで一瞬で退避される、展開された理そのものを破壊される。それを為すだけの力がシュライバーにはあったし、だからこそ今の今まで蓮はこれを発動することがなかった。
 けれど、今ならば。
 アルファ・クロスによって存在を削られた今ならば。
 アヴァロンという究極の結界が自分たちを包み込んでいる今ならば。
 どこにも逃げられる場所はない。原理としてはザミエルの焦熱世界そのままに、不死であるはずの英雄は不死殺しによって敗残の淵へと追い込まれていた。

 よって全ての因果はここに結実する。
 叢の策が無ければ、容量を削りきれずアルファ・クロスは白騎士を捉えることがなかっただろう。
 イリヤの献身が無ければ、幻想の大槍は放たれずアヴァロンの展開は間に合わなかった。
 乱藤四郎がいなければ、キーアは黒の剣能を発現することはなかったはずだ。
 すばるの一撃が無ければ、きっと友奈の行いは意味を為さなかった。
 今は死した残影すらもが彼を縛り付けて。
 そしてこの一瞬、全ての運命を手繰ったのは、奪われた少女の肩を抱く一人の吸血鬼に他ならず。

 誰か一人でも欠けていたならば、きっとこの結末はあり得なかったはずだ。
 この場に集った全ての者が、この獣を打倒する道を作った。
 故にこれは特定一人の勝利に非ず。かつて災厄であったはずの少年は、自身を抱き止める腕ごと思念の嵐に焼き尽くされて。

「……どうして……ぼくは、ただ……」

「あいされたかった、だけなのに……」

 とうの昔に手遅れと成り果てた哀絶の声は、最早誰にも届くことなく。

 そしてあらゆる音が消え去った戦場で、眩いばかりの光が乱舞して───





   ▼  ▼  ▼





 赫炎と漆黒だけが充ちる闇の空に、光が爆ぜた。
 あらゆる者がその光景を見遣った。
 アヴァロン───大きな光の球体がその動きを止め、まるで卵の殻が割れるようにして膨大な光を放出したのだ。
 崩れ行く結界から、光が立ち昇る。黄金の粒子が空へと昇り、その輝きに照らされて辺りは満天の星空であるかのように煌めいた。

 それは、奇跡のような光景だった。

 アイは、ずっとその光景を見ていた。
 遠くから、蚊帳の外から、ずっと見ていた。
 戦いの行く末を? 確かにそれもだけど。
 それ以上に、アイは蓮がどうしているのかを見たかった。

 だから綺麗な光が彼らを覆ったあとも、ずっと凝視し続けた。
 見守って、見守って、彼らが出てくるのを待った。
 無事に帰ってくるのを待った。

 そして。

「セイバーさん!」

 光の結界が解除された瞬間、そこにたった一人立ち尽くす彼を見て。
 アイはいてもたってもいられず、駆け出した。

 それはアイにしかできないことだった。
 未だ清浄の念が充ちるその場所に、立ち入れるのは彼女だけだった。
 サーヴァントは死者故に。
 すばるはみなとという死者を宿す故に。
 キーアは第四であるがために。
 純粋な生者であるアイしか、その領域に足を踏み入れることはできなかった。

 そしてアイは駆け寄って、背を向けて立つ彼の姿を見上げて。

「セイバー、さん……?」

 朽ち木が音を立てて傾ぐように、彼の体が力なく倒れた。
 慌てて彼を抱き起して、言葉を失う。
 蓮の体は、崩壊していた。
 全身の至るところが罅割れて、なんでまだ人の形を保ってるんだろうって、そう思えた。
 崩壊は止まらない。
 諧謔の流出は止まることなく、今もなお蓮の体を蝕んでいた。無事なところがどんどん罅割れていって、罅割れたところすら更なる亀裂が刻まれて、崩れて砂になっていく。
 暴走した死想の正義は、自身の存在すらも否と拒絶していた。

「だ、大丈夫ですよ。体が崩れても、私の魔力がありますから。いざとなれば令呪だって……」

 嘯くアイの言葉は、どこまでも白々しかった。
 どう見ても手遅れなことは、アイでも分かった。
 それでも、蓮が生きる意思さえ見せてくれたなら、アイはきっと蓮を助けるのだと誓っていた。どんなに可能性が低くとも、どんなに不可能に思えても、きっと彼を助けるのだと。

 だから、アイは蓮を見た。身を乗り出してその表情を覗きこんだ。そこに迷いや恐れがあることを期待して見つめていた。
 あの時、夢で見たかつてのように、ただひたすらに生を尊び生きたいと叫んでいた17歳の少年を探してずっと表情を見ていた。
 だから今もきっと、あーあやっちまったなぁみたいにバツの悪い顔をして、きっとまた誤魔化すみたいに顔を歪めているのだと信じていた。
 その後で一緒になって笑い合える未来があるのだと、信じたかった。

 蓮は、




「いや、俺はもうここまでだよ」




 わらっていた。




 まるで、百年も生きた老人であるかのように。
 まるで、天寿を全うした人であるかのように。
 その表情は、穏やかなものだった。

「……なんで、笑ってるんですか」

 それは、アイにはどうすることもできない笑みだった。死には死を、生には生を、それがアイのルールだった。蓮の笑みは、アイにはどうすることもできない死の微笑みだった。
 どうしようもなくそれが分かってしまったから。
 もう全部終わって納得したかのような顔なんて、そんなの見たくなかったから。



「嬉しいからに決まってんだろ。お前が無事で本当に良かった」



「ぁ……」

 その言葉に、アイは何を返せば良かったのだろう。
 お前が無事で良かったという言葉は、つまるところ、アイのせいで彼が死んでしまうということの証明でもあった。
 アイのせいで、彼は死ぬ。
 彼が死ぬところを、アイはもう一度、目の当りにしなくてはならない。
 父のように。笑って死んだ、あの人のように。
 もう一度、アイは───

「あ、ぁあ、ぁ……」

 絶望が、アイの心を支配した。

 藤井蓮は死ぬ。
 その現実は、最初から分かりきっていたことだった。

 藤井蓮は死ぬ。
 それは変えることのできない事実。

 藤井蓮は死ぬ。
 ハンプニー・ハンバートのように。埋めることしかできなかった父のように。

 藤井蓮は死ぬ。
 それは鎌倉の街を訪れたその時から決まっていた、宣言通りのラストシーン

 アイ・アスティンに、
 藤井蓮を、救うことは───



「あああああああああああああああああああああああ!!」



 アイは叫んだ。体が泡となって消えてしまいそうだった。心が消え、想いが消え、肉体さえも消えていくような喪失感が全身を叩いていた。

「セイバーさん!」

 全ての視線が集まっていた。誰も彼も、全ての者がアイを見ていた。

 藤井蓮も。
 アイを見ていた。

「セイバーさん!」
「……なんだよ」
「セイバーさん! セイバーさん! セイバーさん!」
「だから、なんだっていうんだよ、アイ・アスティン」

 名前を呼んだ。あなたはまだここにいるのだということを確かめたくて、必死で叫んだ。

「いかないでください!」

 そうして、アイの腕の赤い光が一つ消えた。
 現実は何も変わらなかった。

「死なないでください! もう、やめてください!」

 また一つ光が消える。現実は変わらない。

「どうして! どうしてあなたはそんなのなんですか! どうしてそんなにボロボロになって、自分のエゴを優先させるんですか!」

 変わらない。アイ・アスティンに藤井蓮は救えない。

「何が死者の生を認めないですか! 何が渇望ですか、信念ですか! そんなの自分勝手な"夢"でしかないじゃないですか!
 そんな下らないことより、私は……!」

 最後の光が、アイの腕に輝く。

「私と一緒に、いてくださいよ」

 それでも、現実は何も変わらなかった。
 蓮はただ、少しだけ驚いたような顔をして。

「悪いな」

 たったそれだけを言った。

「けどまあ、俺の役割はここで終いだ。どうせ力不足だったのを無理やり誤魔化してただけだしな。あとはアーサー王についていけばいい。
 ここまで脱落が進行すれば、まあ、万能の願望器は無理でもお前らの帰還くらいはリソースが残るだろうさ」
「違います! そういう話をしてるんじゃありません!」

 叫ぶ。あらん限りの力を込めて。

「事前に言ってくれたら良かったんです! そうすればもっと違う道もあって、あなたは……!」
「違う。これしかなかった。こうでもしなけりゃ、俺達は全員死んでいた」

 素気無く否定される。当たり前だった。自分でも信じていない言葉で、他人を説得できるはずがない。

「だったら! 結局私は邪魔者だったんですか!? 私を守るためにあなたは傷ついて、それで最期はこんなことに……」
「お前、まだそんなことを考えていたのか」

 蓮は笑う。それは末期の笑みであり、アイにそれを変えることはできない。

「さっきお前も言ってたろ。これは単に俺のエゴだ。だからお前は何も気にするな。
 全部俺の自業自得で、馬鹿な男が勝手に一人で死ぬってだけの話だよ」
「セイバーさん……」

 なんて不器用な人なんだろう、と思った。
 もう消えてしまうのに、なんでまだこんなことを言ってるんだろうって。
 今、ものすごく、酷い言葉が浮かんでしまった。

 全部ひとりで抱え込もうとして。
 ───違う。

 人に頼ろうとか考えようともしないくせに。
 ───違う、そうじゃない。

 人恋しいだとか、誰かの温もりを求めて。
 ───私の言いたいことは。

 馬鹿じゃないのか、そんなんだからあなたは。
 ───この人に言ってやりたいのはそんな残酷な言葉じゃない。

 そんなんだからずっと。
 ───もっと救いのある……



 ずっと、ひとりきりなんじゃないの?



「あのですね、セイバーさん」

 アイは、まるで泣きつくかのように。



「あなたはもう、ひとりぼっちじゃないんですよ!」



 それは。
 どのような思いで、叫ばれたものだったのか。
 蓮には一瞬だけ理解することができなかった。次いで、もしかして手向けの言葉だったりするのだろうかと思い当たり、思わず笑ってしまった。
 死者の笑みではない。純粋に面白おかしな笑みだった。

「そっか。俺はひとりじゃないのか」
「そうですよ……私はずっと、あなたと"二人"でここまで来ました。
 セイバーさんは、そう思いませんか……?」

 さあ……どうだっただろうか。
 擦れ違いばかりだった気もするし、分かり合えたことだってあるように思う。
 ただ、大切だったことだけは間違いない。あの瞬間に感じていた俺たちの想いは、確かに一つで、本物だった。

「俺には、さ。本当は一つだけ願い事があったんだ」

 ぽつり、と。
 滔々と呟きを漏らす。それは蓮が心情の最奥を吐露した、恐らくはアイが初めて見る光景だった。

「死にたいって最初に言ったのは本当だ。聖杯に託すようなものなんてないし、そこに群がるサーヴァントが気に入らないってのも本当だ。けどさ」

 彼はまるで、眠りの淵で夢を見ているかのように、呟く。

「そんなことよりも、俺は、お前を助けたかったんだ。
 神なんてものになろうとする、お前を」

 聖杯の破壊も。
 敵性サーヴァントの殲滅も。
 巻き込まれた無辜の人間の救出も。
 あるいは、アイの持つ夢そのものも。
 そんなことよりも何よりも、藤井蓮という個人は最初から、アイ・アスティンただひとりを救うために行動していた。

「……なんですかそれ。そんなの」

 最初から分かっていた。
 ずっとずっと、アイは"そうなんじゃないか"って思い続けていた。
 けれど確信はなくて、尋ねる勇気もなくて、それに世界を救う自分が救われるわけにはいかないからと、そう思っていたから。

「そんなの、他人事じゃないですか。あなたにとって、私は関係ない赤の他人なんですよ……
 なのに、なんで……」

「だけど、俺にとっては他人事じゃないんだ。自分勝手な言い分だけどな」

 思い出すのはかつての自分。運命に抗い、修羅に抗い、神と成り果ててかの者らを討った記憶。

「俺は確かにそうなった。神になって、それを受け入れた。だけど、それはあくまで結果としてそうなったってだけだ」

 かつて相対した黒円卓、その魔人共。彼らの中には自ら力を求めて人を止めた者がそれこそ掃いて捨てるほどいた。たまさか授かった運命とやらを、嬉々として受け入れる者もいた。
 だが、少なくとも"俺はそうではなかった"。

「足掻きも、抗いも、憎悪だってしたさ。運命を受け入れたなんて言えば聞こえはいいけど、要は敗北したってだけの話だ」

 聖遺物の使徒、神格、ゲットーを破壊する新たな理。それらはつまり、人以外の物に成り果て、人であるということの責務を放棄した負け犬の総称だ。
 俺もそうなった。なってしまった。不可抗力だとか、必要なことだったとか、言い訳をしようと思えばいくらだってできるけれど。
 それでもこれは、ある一側面から見れば疑いようもなく、俺が負けたのだというただそれだけのことなのだろう。

「俺は、世界を救うお前を……都合のいい神さまになろうとするお前を止めることで、そんなふざけた運命とやらに一矢報いたかっただけなのかもしれないな」

 ただ、過ちで始まってしまった物語を。
 かつて辿ってしまったふざけた運命を。
 この手で破壊することが───"神さま"など何処にもいないのだと証明することこそが。
 もしかしたら、自分の抱いた夢なのではないのかと。

「酷い、ですよ……」

 アイの答えは、嗚咽混じりのもので。

「やっぱりあなたは酷い人です。もうあなたは消えてしまうのに、今さらそんなことを言うなんて……
 私に"みんな"を救うな、なんて。それがあなたの救いだなんて……」

 かつて彼が言ったことを、唐突に思い出す。

『だったら、お前が誰かを助けたいってのと同じように、お前を助けたい誰かがいたらどうするんだよ』

 それはアイの抱える矛盾だった。どうしても両立できない背反だった。その現実が今、目の前に叩きつけられていた。
 彼が言っていた、アイを助けたい誰かとは。
 他ならぬ彼自身だったのだと、今さらになってようやく思い至ることができたから。

「でも、いいです。私はみんなを助けます。だから今この瞬間、あなたを助けることに迷いはありません」
「……そっか」

 そして、蓮は瞼を閉じた。
 浄化の祈りが充ちる、二人だけしかいない世界の中で。
 今にも消えゆく運命を、思って。

「……なあアイ。お前が"そう"言ってくれるなら、もう一つだけ願い事を言ってもいいよな」
「はい、なんでしょう」

 そう言って、泣き笑うかのように覗き込んでくるアイの顔を見て、蓮は思う。
 アイの夢を、その矛盾を。それが今まさに致命的な破綻を起こしていることを。

 かつてアイは言った。私と一緒にいてくれと。蓮はこう返した。お前が夢を諦めるまで一緒にいると。
 その帰結を、今まさに蓮は目の当りにしていた。嬉しく思うと同時に、哀れにも思えた。二律背反の感情は止め処なく、そうと決めていたはずなのに自分が消えてしまうことが惜しくなってしまう。

 だからこそ。願わくば、この喪失が彼女にとって人として歩めるきっかけになりますように。
 でも、できるだけ重荷にはなりませんようにと。
 そう願って。

「一緒にいてくれ。俺が消える、その瞬間まで」

 そう言った、蓮の手を。

「勿論です。ずっとずっと、私はここにいます」

 罅割れた手を、慈しむように握る。
 ぽたり、ぽたりと落ちる熱い雫。それはアイの頬を伝って。

「だって墓守(わたし)は、死者(あなた)の安寧を祈るモノなのですから」

 泣き腫らした顔で、それでもぎこちなく表情を形作ってみせる。

 ───それは。
 ───果たして、笑顔になっただろうか。


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最終更新:2019年10月27日 18:46