「聖杯戦争の趨勢は決した」

 どこか遠い場所を見通すかのような瞳を湛えて、英雄王はあらん限りの侮蔑と慙愧を込めて吐き捨てた。

 侮蔑。醜悪に堕した世界と人々、そしてそれに踊らされた英霊たちへの。
 慙愧。最初からそれを分かっていながら、しかし予め定められた通りにしか動けなかった自らへの。

 全てが規定事項だったとは言わない。聖杯戦争に際する闘争とその結果に関しては、戦った者たちの力と覚悟が為したものであり、あるいは英雄王ですら命を落としていた可能性は充分に存在する。
 故にその侮蔑は、本来我が眼前に立つ騎士王に向けるべきではないということも、十分に承知している。
 此処に立つは二人だけ。最期に遺された対の英霊、二騎。
 少女たちは既にこの場にいない。彼らのみで語ることがあると、安全圏に退避させてある。故にここにはいないし、声も聞こえない。
 尤も、どこにいようと変わり映えのする世界ではなくなってしまったのだが。

 荒廃した大地。
 抉れ、消滅し、窪んだ地面。
 見渡す限りに続いている。風は吹かない。砂埃すら、空中には見当たらず。

 遺されたものはあまりに少ない。
 アーサーとギルガメッシュと、そして生き延びた少女たちを除けば、死体が僅かに二つだけ。
 未だ幼い少女と少年のものだ。それ以外の全ては最初から無かったかのように消え失せていた。
 最凶が刻み付けた爪痕は周囲一帯に消えない被害を残していた。
 癒えることは、恐らく永劫ないのだろう。

 英雄王が、赤薔薇王が、死線の蒼が、そして盲打ちが考える通りの世界であるならば。
 永劫変わらぬ世界で白痴と盲目を弾劾しようと、誰が救われるものか。

「この地に残された英霊は我と貴様のみ。どちらかの消滅を以てして、この魔術儀式は終わりを迎えるだろう」

 眼前に立つ騎士王は、言葉もなくこちらを見据えていた。
 彼にも分かっているのだろう。今や鎌倉の街に自分達以外の生存者が存在しないことを。
 暗殺者は影すらなく、魔術師の隠匿すら残されず。
 文字通りに全てが死に絶えた。生き残ったのは僅かに5人だけ。

 これが聖杯戦争の結末。
 これが願いを求めた者たちの末路なのだと。

「……私は聖杯の恩寵を求めるつもりはない。しかし君は、彼女らを次なるマスターとするつもりはないのか」
「はっ」

 鼻で笑う。見当違いも甚だしい言説だった。

「侮るな。彼奴が道化にもなれぬ屑であったならば、あるいはその選択も一興としたであろうが」

 しかし事実は異なる。
 白き雪の少女は確かに生を全うした。万仙陣に廃されるまでもなく造花としての生まれではあったが、己という一存在を完結させたモノに野暮を向けるほど、彼は空気を読めない男ではない。

「それはかの少女らも同様だ。未だ世の道理も心得ぬ幼子の身であればこそ、我は思想信条の別なく現した黄金の精神をこそ寿ごう。異形なる都市の最果てに至るに必要なのは、力の強弱でもなければ理外の権能でもない。確かな己を保持し受け容れ、その上で諦めぬ意思の強さこそが肝要なれば」

 故にこそ、ギルガメッシュは三人の少女たちが聖杯戦争を生き残ったその事実を認めていた。
 闘争を勝ち残るに相応しいのは強者であるというのが彼の持論ではあるが、この場合は強弱の軸という前提そのものが違っているということなのだろう。

 そして、その上で彼に言わせるならば。

「だが貴様は駄目だ、聖剣使い」
「……手厳しいな、アーチャー」
「否、我は最大の恩赦を貴様に与えている。この我は民を導く賢王である以前に、戦いと勇名を統べる"全ての英雄たちの王"の名を戴いているが、しかし斯様なまでに優しくも在る。何せ……」

 常の笑みは翳りを見せ、透徹した無表情で見下ろし、言う。

「貴様が命在ることを許している」
「……」

 アーサーは、無言。
 ギルガメッシュは構うことなく続ける。

「かつての聖剣使い───そう、貴様は未だ聖剣を携えているな?
 ならば貴様は聖剣使いなのだ。かつての偉業を奉ずる人類史の偶像であろうとも、万仙に投射された妄念の凝集であろうとも、それは今の貴様にとっては一側面に過ぎぬ。他の何者であるものか」

 未来を現在と等価値に見通すが故の奇妙な文法で、彼は言葉を続ける。

「そのような貴様が、まさか。
 そう、まさか未だに悪相の兆しにすら気づいていないとはな!」

 瞬間、凪のように抑えられていたギルガメッシュの相貌より、極大の怒気が放たれる。
 空間が軋む様を幻視するほど圧倒的な意思の嵐。それを前に、アーサーはただ不動の姿勢を保って。

「貴様はこの都市の何を見てきた? 何を知った?
 盲打ちと言葉を交わし、赤騎士を斃し、数多の犠牲を伴ってこの時を迎えて尚、その目を盲目に閉ざしたままか。なんとも……」

 最早彼は、侮蔑の感情を隠し立てることもなく。

「不甲斐ない。何だというのだそのザマは、貴様。
 よもや怖気づいたか、この期に及んで聖剣の持ち腐れとは!
 ならば最早足を止め妖精郷へと至るがいい! 貴様が歩みし艱難辛苦の旅、此処で終わらせてくれる!」
「……その言葉、宣戦布告と解釈する。残念ではあるが」

 静かに、携えられた剣柄を握り直す。

「先にも言った通り、私は聖杯の恩寵を必要としない。しかし。
 それが彼女らの、キーアたちの帰還に至る最短の道だというならば。それすら、私は迷いはしない」
「そうか───ならばどうする」
「決まっている」

 すらりと剣を抜き放つ。風の魔力を纏った不可視の刃、未だ欠けることなく。

「私はお前という最後の敵を討ち果たし、我が身に託された願いを成就させる。
 全ては私という愚昧な王に、それでも希望を見出した人々のために」

 言葉と同時、開戦の口上すらないままに戦闘は開始された。
 あるいは、それは不都合な事実から目を背けた、その結果なのかもしれない。





 音速を遥か超える初速の、更には不可視なる風の波濤を、ギルガメッシュは"見てから"避けた。
 ほぼ同じタイミングでアーサーは飛び込んだ。放った風王鉄槌を追う形で踏み込み、死角から接近。それを回避するタイミングで切っ先を翻し、放たれたる刃が月の光さえ透過して電撃的な速度で相手の首を狙う。
 甲高い、金属音。
 刃の軌道に当然の如く置かれていた手が、いとも容易く斬撃を受け止めていた。ギルガメッシュの掌は黄金に輝く金属質の手甲に覆われて、鋭い刃を全く通さない。
 次瞬、肩口の空間より波紋する黄金孔から剣先が現出する。

「……っ!?」

 アーサーは刃を引いた。退いて更に身を翻し、別の角度から斬り込む。
 ギルガメッシュは徒手だった。その両手を緩く開いたまま、誘うように一歩を後退してアーサーを見据えている。

 ───剣さえ構える価値がないということか。

 アーサーの体躯が視認すら難しい速度で機動する。刃を振るいギルガメッシュを追い、時には横に、時には背後に周り、標的の全ての急所を狙い致命の斬撃を雨あられと見舞う。月光の煌めきに煙る陽炎が如き揺らめきによってしか刃の存在を認識できない剣速。既に魔力放出を全身に適用させ、今のアーサーは比喩抜きの全力。一切の手加減を排し、ただ攻めて攻めて攻め続けた。
 だが、その全てがギルガメッシュには当たらない。煙か幽霊に斬りつけているかのような感覚さえ覚える。刃の辿る軌道を何から何まで認識し、ギルガメッシュは紙一重の正確さで攻撃を回避し、時には蚊でも払うかのような動作で受け流す。

「おォッ!」

 短く吼え、魔力を再燃。
 ほぼゼロ距離から目を狙って刺突を繰り出す。ギルガメッシュはそれさえ見切り、首を傾けるだけの動作で回避。標的を外した刃が背後に流れた時には、既にアーサーは剣を翻し中空に跳躍していた。
 体を旋転させて上段に振りかぶられる刃には、ありったけの運動エネルギーが乗せられている。耳を衝く大気の絶叫と共に縦一文字の一撃が放たれ、ギルガメッシュの頭に襲い掛かった。
 だが、英雄王はそれさえ簡単に受けた。
 またも甲高い金属音が鳴り響く。黄金鎧に包まれた左腕が刃を止めていた。アーサーの両手にビリビリとした衝撃が伝わり、

「鈍い。月さえ映さぬ曇った刃で何を斬るつもりでいる」

 ───!!

 見えなかった。
 直後、アーサーの腹部に、ギルガメッシュの右の掌打が叩き込まれていた。
 火砲の直撃にも匹敵する凄まじい衝撃。捩じ込まれた掌底はただの一撃でアーサーを吹き飛ばし、その体を冗談のように真上に舞わせた。飛ぶアーサーの視界に回転する月が見えた。たまらずに苦悶の叫びをあげ、夜闇に虚しく溶けていく。
 それだけでは終わらない。ギルガメッシュは何も動かないまま、しかし変調する空間から圧倒的なまでの物量がアーサーの身に降り注ぐ。それは全てが宝具であり、いずれの時代に名を馳せた名剣名刀の数々。辛うじて不可視剣で致命の数打を弾くことに成功するも、その衝撃は何一つ容赦することなくアーサーの体を直下の地面へと叩きつけた。

「……か……ッ!」

 ただの二撃で、アーサーが受けられるダメージの許容量を超えた。
 威力自体はさほどでもないはずだ。これまで彼が戦ってきた数多の敵、炎熱の赤騎士や暴嵐の白騎士などは、これとは比較にならない凄まじいまでの破壊を成してきたし、その悉くをアーサーは乗り越えてきた。
 だが違う。これはそういうものではない。必要最低限の威力によって確実に敵を仕留めるという技の極致。無差別な破壊の嵐ではない、人の手による人体破壊の技術だ。
 倒れたアーサーの思考を無数の痛覚が襲った。ギルガメッシュは倒れ伏すアーサーに歩み寄り、眉一つ動かさないまま黙って見下ろす。

「……諧謔神のほうが、よほど優れた剣筋をしていた」

 そして語られるのは、彼が出会った英霊との比較、そして隠すことのないアーサーへの失望だった。

「赤薔薇王のほうが流麗だ」

 類稀なる意思力と覚悟のもとに振るわれた剣は、英雄王をして美しいと思わせるものだった。

「勇者に比べてその決意は軽い」

 死地より舞い戻った勇者の少女。彼女はごく普通の子供であり、故にその復活に際する勇気の程は計り知れない。

「第一盧生の人間賛歌には程遠い」

 奉ずべきものを見誤ったその姿、とてもじゃないが彼の掲げる理想にはまるで届かない。

「読めすぎる。盲目的だな。その程度の太刀筋では掠ってもやれん」
「何、を……ッ!」
「その目はなんだ。憎しみか? それとも万仙に施された人格付与機能によるお仕着せの敵意か?
 それすら、永遠に赤い幼き月のほうがよほど苛烈であった」

 こちらを見下ろす視線には、一点の揺らぎもない。アーサーは砕けんばかりに歯を噛みしめ、極大の戦意を眼前の彼に向けていた。四肢はいくつもの刀剣によって縫い付けられ、動かすこと叶わない。握る騎士剣はその感覚さえ覚束ず、的確な攻撃による痛覚は脳髄を駆け巡って止まらない。
 それでも、戦いを止めるという選択はアーサーには存在しなかった。

「立て。その無様さは癪に障る」

 次瞬、爆轟する空間が無数の刃によって埋め尽くされた。
 莫大な光量の中から後退するようにアーサーの姿が飛び出す。寸でのところで魔力を解放、束縛を排し難を逃れたのだ。しかしギルガメッシュはそれさえ読んでいたのか、飛来する剣群はただ一つの例外もなく退避したアーサーへと殺到、その視界を覆い隠す。
 刃と刃が衝突する金属音が間断なく響き渡った。機関銃めいて連続する刃の嵐を光剣一つで弾き出し、しかし跳ね返し切れず徐々に後ろへ押しやられる。その様を、ギルガメッシュはただ無感の表情で見つめていた。

「怠惰が此処に極まったな。盲目の生贄とは言い得て妙か。まさしく何も見えていない」
「何を、言っている……!」
「貴様の在り方の問題だ。善良なるものを善しとし悪逆なるものを糾する、それが貴様だ。ああ、確かにそれは騎士として理想の有り様であろうな。誰もが子供心に貴様のような者を夢見るだろう。今もまた、な。悪と私欲を滅する王道、確かにそれも悪くはない」

 清廉潔白、滅私奉公。弱きを助け強きを挫く非の打ちどころのない高潔漢。
 英雄王は、そうした騎士王の在り方を正確に見抜いているし、根本的に否定しているわけでもない。民を統べる王政としてそれもまた善し哉と、己に及ばずとも道の一つとして肯定さえしている。
 英雄として誇り高き気質を持つギルガメッシュは、故に勇者に対しては真摯な態度を以て臨む。己が最強であるという自負に微塵の疑いも持ってはいないが、その事実を以て他者を軽んじる真似を彼はしない。

「だがそれすら、自覚と予見が無ければただの片道燃料だ。断崖に受け走っているとも知らぬまま、狂喜して回転率を上げ続ける道化に過ぎん。都合が良い、万仙を拡大させる痴れ者としてはこれ以上の逸材はあるまい」

 言葉と同時、密度と勢いを増す剣群に遂にはアーサーの身が弾かれ、更に後方への退避を余儀なくされる。
 堪えきれずに膝をつき、荒れる息で英雄王を見上げる彼は、ただ戦意に霞む視線を向けるのみ。

「貴様は言ったな。貴様の主……あの幼子を帰す、と。
 守る、生かす、傷つけさせない。耳心地の良い戯言だな。中身のない、薄紙のような美辞麗句だ」
「詭弁だな。薄かろうが軽かろうが、お前を倒すに手を抜く理由にはならない」
「あくまで盲信を貫くか。ならば貴様の言葉の真意はどこにある? その庇護の念はどこから湧き出た?
 お仕着せの騎士道が故か、生前果たせなかった王道の代償行為か。あるいは今さら貫く信念も意地もないために、"そうしたほうが楽だったから"か?」

 言い終わるよりも先んじて、アーサーの肉体が残影と消える。
 それは超速の疾走であり、完成された剣理の結実でもあった。
 振りかぶられる剣撃は熟達を通り越して理外の領域にあり、故にこれを受けられる者など居はしない。

 尤も。

「言ったであろう。その怒りすら、今は軽薄に過ぎるのだと」
「……ッ!?」

 騎士王と同等以上の技量を持つ彼ならば、話は違ってくる。
 超越の剣を当然であるかのように受け止めて、軋む金属音すら意に介さずギルガメッシュは語る。動かされたのは僅かに右手一つ、それ以外には重心も踏込も移動は為されず、閉じられた瞼は視線の一つも騎士王に向けてはいない。

「軽いのだ。貴様の言葉の悉く、他者に依存した脆弱な理念しか感じられん」

 次瞬、アーサーの首筋を衝撃が打ち貫く。その正体がギルガメッシュの放った掌底であるという事実に気付いた時には、既にアーサーの体は地に打ち付けられた後だった。

「自分の言葉(エゴ)を吐いてみせろ。
 聖杯を否定して尚も戦い、満天下に掲げるべき想いがあるというならば証明しろ。それすら、万仙陣の支配を越えられないというならば」

 ギルガメッシュが歩み寄り、アーサーを見下ろす。
 いいや、それは本当に彼を見据えていたのだろうか。
 ギルガメッシュは此処ではない、どこか遠くを睨むかのようにして、叫ぶ。

「その時は是非もなし。第四盧生、並びに悪逆なりしチクタクマンよ。例え現世界の総てを地獄に変えようとも、この英雄王が貴様らを斃してくれよう!」
「何処を見、誰に物を言っている……!」

 虚勢を吐き、全身に力を込める。激痛に苛まれる四肢をみしりと軋ませ、無理やりに立ち上がろうとした。
 勝ち目は、恐らくゼロに近い。だがそんなことは問題ではない。

 己が死ねば、少女らも死ぬ。
 厳然たる事実として、それを噛みしめるが故に倒れない。

「お前の言葉の多くを、恐らく私は理解できていないのだろう」

 事実だ。アーサーは今この瞬間に至るまで、彼の語る言葉の意味を咀嚼できていない。
 感じるものは、ある。取っ掛かりとして疑念に思うことも、また。

 例えば盲打ちが語った真実の一端。そこから導き出された鎌倉という街に巣食う違和感の形。
 誰もが痴れていた。己の見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じる盲目白痴の衆愚たち。
 その歪さをアーサーは知っている。決して軽んじてなどいない。
 しかし。

「それでも。お前がその手を我が主の血で汚そうと言うならば」

 けれど、けれど。
 これはそれ以前の話なのだ。
 現実として少女らを殺そうとする脅威が目の前にあり、言葉で止まらぬと分かっている以上、真っ先に打つべき手など決まっている。
 これはそれだけの話であり、故にアーサーは止まらない。
 否、止まれない。

「何度でも……何度でも!
 私はこの剣を揮うだけだ、我が誓いを果たすまで!」
「ならば何故、貴様はこの程度を前に屈している。
 貴様は───」

 その時、初めてギルガメッシュの声音が揺れた。
 それは抑えきれない感情によってか。堪えきれない憤激によってか。
 "何をいつまで呆けている"と言わんばかりに、叫ぶ。

「───世界を、救った者であろう!」

 そして両対の刃が共に振るわれる。
 結末の見えきった最後の激突が、ここに為されようとして。










「───だめ!」










 突然の事態に、アーサーは対応できなかった。
 声と同時に、静止する手を振りきってこちらへ駆け出す小さな影が見えた。
 ギルガメッシュの対応は迅速にして完璧だった。アッと言う間もなく一条の光が影の眼前に飛来し、それ以上の移動を阻んだ。

「───っ」

 それでも彼女は諦めなかった。目の前に突き立つ剣に怯えることなく、手に握った短刀を振り上げようとする。それは初心者ですらない、構えの一つすら取れていない稚拙な動きだった。けれど様にはなっていた。戦いはおろか碌な訓練も受けたことのない少女としては上出来な、涙ぐましい抵抗。
 だが、次元が違い過ぎる。
 虚空から伸びた鎖が旋風のように動く。流体めいた動きの鎖は手の短刀を叩き落とし、即座に少女の足を払う。

「あっ!」

 少女の体が宙に泳ぎ、乾いた地面に顔から落ちた。

「キーアちゃん!」

 ぺしゃ、と倒れ伏すキーアに、一拍遅れてすばるの悲痛な叫びが届く。
 ここに至り、ギルガメッシュはアーサーから目を離してそちらを向く。飛び出した少女が一人、地面に倒れている。月光が彼女を照らす。更にその背後には、彼女を止めようと手を伸ばし、しかし間に合わなかったすばるの姿が見える。
 キーアの体が動いた。取り落とした短刀を右手で必死に探し、上体をもたもたと起こし、下半身に必死に力を入れようとする。
 だが、それを新たな刃が止めた。
 飛来する剣が再度地面に突き刺さり、鋭利な刃が容赦なく突きつけられる。

「立てば殺す」

 空気が凍る。
 無様に這いつくばる少女に、ギルガメッシュは厳然と宣言した。
 これより先、なおも自らに立ち向かおうとするならば、以降は敵として対処する。ギルガメッシュはそう言っているのだ。あくまで分け隔てのない、冷然とした視線が少女に向けられた。
 びくりとキーアが震える。立ち上がろうとした足から力が抜ける。

「……っく、ぁ、っはぁ、はあ……っ!」

 肩を大きく上下さえ喘ぐ。俯いたままの顔から、血が数滴落ちた。顔面を強打して鼻から血が出ているのだと分かる。
 それを見下ろしながら、ギルガメッシュが呟く。

「《奪われた者》の小娘か。そういえばこの男のマスターであったな。しかし今この場に飛び出すのは感心せんぞ」

 キーアのことをギルガメッシュは知っている。
 表層的に、ということではなく、彼女の真実さえも見抜いている。
 キーアの体が震えている。心臓が激しく脈打っていることが分かる。

「……ぃ、バー、に」

 うわごとのように、キーア。

「セイバーに、何をするつもりなの」

 ギルガメッシュの目が細まる。
 キーアのような小娘なら、その視線の圧力だけで心臓が竦み上がる思いだろう。ぶるぶる震える喉から掠れた声が漏れた。
 ギルガメッシュは試すような視線をキーアに注いだ。

「闘争において勝敗が決した時、行われるものなど決まっていよう。
 すなわち、敗者は死ぬ」
「……っ!」

 キーアの背に、何かの決意が湧いた。
 アーサーを含めた全員が、それを呆然としたまま見つめていた。

「許さない、わ」

 やめろ。
 危険だ。
 意味がない。
 膝を屈したままのアーサーは頭の中で幾度もそう叫んだ。だが思考はダメージによる激痛のハレーションばかりが埋め、最早まともに働かない。ここで動けばキーアは即座に蜂の巣にされるだろうし、それより速くに敵手を打倒できるだけの力はアーサーにはない。あまりにも無力なアーサーは、英雄王と少女の対峙をただ見ているしかできない。
 キーアの両手が、持ち上がる。
 ギルガメッシュは眉一つ動かすことなくそれを見つめている。
 小さな手が、今この瞬間だけは恐怖を忘れて、我が身を阻む刃を掴み取った。
 薄汚れた顔がぱっと上げられる。したたかに地面にぶつけた顔は赤くなって、鼻血も出ている。鋭利な刃を掴む手からは鮮血が流れ、刀身を伝う。ギルガメッシュが少しでもその意思を込めれば、少女の細い手は容易く両断されてしまうだろう。
 その全てが、今のキーアにはどうでもいいことだった。
 ただキーアは、真っ直ぐにギルガメッシュを睨みつけた。

「その人にひどいことをしたら……あたしが、貴方を許さないわ」

 力の差など、今の彼女に考えられるわけがない。ただアーサーを放っておけないと、それだけで頭が一杯なキーアの双眸は、その奥に強い意思の光があった。単純な戦いの力ではない、説明のつかない不思議な凄味があった。
 強い、曲がったところのない視線が、ギルガメッシュただ一人に焦点を結ぶ。切れ切れに放たれた言葉は弱々しい姿とは裏腹に、一言一句を確かめるかのようにはっきりと発音された。
 ギルガメッシュはその瞳を身じろぎせず受け止め、そして見返した。
 アーサーは彼の赤い双眸に、ある種の熱があることを感じ取った。それは自分との闘いでは発せられなかった、しかし最後の最期に一瞬だけ垣間見えたものだと分かる。赫眼の中に灯る小さな火、彼はアーサーには見出さなかった何かをキーアに見て取ったのだと、理屈ではない直感でそう悟る。
 彼は最早アーサーのことなど一瞥もくれなかった。英雄王の瞳は、その赫に敬意と憧憬めいた色さえ込めて、真っ直ぐに少女を射た。
 それはきっと、同じ立場であればアーサーとて同じ視線を送ったであろう。
 だがしかし、しかし。
 奴はそこに何を見た? アーサーのような、善良をこそ良しとする精神性故では断じてあるまい。あれに事の善悪や道理など意味を為さないと知っている。ならば何を、奴は少女の行動に見たのか。

「───良いだろう」

 不意に、地に突き立った剣が粒子状に解ける。
 掴み取られた魔力の一つ一つから、ひたと据えられた視線から、そして明確な意思を持って放たれた言葉から、ギルガメッシュはキーアの何事かを理解したようだった。赫い瞳はしばし彼女を見つめ、そして場の全員を見渡した。すなわち、アーサーとすばるさえも。

「己が領分さえ超えた願いに手を伸ばすその所業、愚か極まるが悪くはない。
 小娘の願いに免じてこの場を収めるとしよう。我としても、このような決着は不本意なのでな」
【何度でも剣を揮う、だと? 今の貴様が思い上がったものだな】

 少女への発声とアーサーへの念話が同時に放たれる。自分の頭にだけ響く冷たい声に、アーサーは自然と顔を固まらせた。

「お前、は……!」
【この小娘のほうがよほど見込みがある。無様を晒す今の貴様に黄金螺旋階段を昇る資格などあるまい。
 全く、何故よりにもよって貴様のような愚昧が最期に残ってしまったのか】

 あるいは他の誰かであったならば、と隠すことのない失望を向ける。
 ギルガメッシュは全員に目を向けた。右から左へゆっくりと顔を動かし、三人全員を見た。

「だが肝に命じておけ。この都市における決着は、我か貴様らの死を以てのみ為されるという事実を。
 己の真実を知った上で、己の在り方を決めねばならない。それすらできぬ蒙昧は、生きることさえ許されない」

 くるりと背を向け、歩き出す。この場で為すべきことは総て終わったと言うかのように。
 そして、背中越しに鋭い声が飛ぶ。

「忘れるな。その未来は決して覆らない」

 そして黄金の男は、夜闇に溶けて消えるように、その姿を消した。
 焼けた地面に膝をつくアーサーに、キーアが、そして数瞬の間を置いてすばるが駆け寄ってくる。少女らは何事かを叫んで、自分だって怪我をしているだろうに、それに全く頓着せずに。だがその叫びはアーサーの頭に全く入ってこなかった。アーサーは、泣きそうな顔の上に広がる夜空を、何も言わずに見据えていた。
 最後の瞬間、ギルガメッシュはこう言った。

【思考しろ。死した貴様が尚も生きて、その上で戦わんとするのは何故だ。
 貴様自身の"願い"とは、なんだ】





      ▼  ▼  ▼




 ───記憶。

 それは私の記憶。彼方の記憶。
 あの、新緑の瑞々しさが広がる、月の銀光が照らすガーデンの夜。
 そこには二つの影があった。未だ幼い少女と、男の姿だ。彼は幼い時分に養父がしてくれたように腰を屈め、視線の高さを少女に合わせて、何かを語り合っていた。

 間違いなく夜中であったのに、まるで朝焼けの輝きを見るかのような錯覚があったと、今になって思う。

「騎士さん、お名前は何というの?」
「僕は……」

 その時、自分は逡巡したのだろう。しかし迷いはいらなかった。必要はないし、告げるべきだと魂の何処かで何かが叫んでいた。

「アーサーが僕の名だ。御嬢さん、きみの名前を尋ねても?」
「わたし、沙条綾香」

 ああ、知っている。良い名だとも思う。
 その想いは今でも変わらない。きっと遥かな未来世までも変わることはないだろう。

「それから、ここはガーデンね」

 気恥ずかしそうに、綾香は周囲の緑の木々を指し示す。
 まるで我が事のように。

「あのね、わたし、ガーデンってお勉強をする場所だと思ってたんだけど……本当は違ったの。お父さんが教えてくれて……」
「隠された秘密があるのかい?」
「うん」

 頷いたものの、そのまま綾香は俯いてしまう。
 辛抱強く待機する。一秒、二秒。
 五秒が過ぎた頃、ようやく顔を上げて。やはりどこか照れたように。

「ガーデンは、わたしなの」

 何らかの理由で同一視しているのだろう。そう思いかけた刹那。



「───お母さんが遺してくれたものだから、どっちも同じなの」



 風が吹いていた。
 硝子戸を閉めているにも関わらず、それは間違いなく吹き抜けたのだ。
 アーサー・ペンドラゴンの肉体と精神にそっと触れながら。

 それは───
 優しさと、尊ぶべき暖かさと、輝きに満ちた言葉だった。
 子のために遺された緑の園。
 子のためにと紡がれた想い。



 "愛"なるものと、人に呼ばれる思いの形。





      ▼  ▼  ▼





 ───欠けた夢を見たような気がした。

 それは、彼が己の在り方を決めた瞬間の光景だった。



「……」

 ギルガメッシュという脅威が去り幾ばくか。アーサーは損害を癒すため、暫しの休息を余儀なくされていた。
 魔力を循環させ治癒と効率化を図り、消費される魔力の低減にも努める。その間は動けないため頭は思考の海に浸かり、無言の時を過ごしていた。
 そうして目を開いた時、アーサーは何か奇妙なものを見た。

「あ……」

 小さく声を上げて、硬直してこちらを見る少女の姿。
 つい今しがた来たのだろう。様子見にと思ったのか、しかし目覚めたところにバッタリ出くわすとは思わなかったのだろう。「あ」と「う」の中間みたいな声を漏らして、アイ・アスティンは曖昧な表情を浮かべていた。

「あ、その、えっと……」

 要領を得ない声。
 見れば、胸元に当てられた手には何かを携えている。これは……

「携帯食料か」
「……あ、はい」

 ぽつりと、それだけを辛うじて返される。
 覇気が欠片も感じられない、沈んだ声音だった。

「セイバーさんが……レンさんが用意してくれたものなんです。いざって時もあるだろうから、最低限の備えはしておけって」
「そうか、彼が」

 言われ、藤井蓮の姿を思い出す。
 揺れることなき真っ直ぐな瞳。己が命題を見定めていたであろう迷いなき姿勢。それはかつてアーサーが得た解答によって定めた姿と同じであり、ならばこそ願いもまた同一であった。
 すなわち、生者の存命。
 死者たる我が身を礎とし、少女たちの明日を切り拓くこと。
 その想いの果てに彼は消え去り、そして自分は。
 自分は、未だ仮初の生に縋り、惨めを晒し続けている。

「ならば、それは君が食べるといい。戦いはもう終わるけれど、体の調子を整えておくに越したことはないから」
「……」

 言った途端にアイは顔を背け、俯かせて。何かを言い淀んでいるような、そんな気配を纏って。
 そして。

「……よかったら、これ、いかがですか?」

 手の中のものを差し出した。

「……アイ、それは」

 訝しげな目つきをしてしまったのだろうか。
 自分の顔を見たアイはびくりと立ち竦んでいた。

「それは、君のものだ」
「分かってますよ」
「君のために用意されたものだ。それを、何故僕に?」
「……食欲がないので。それと、少しでも魔力の足しになってくれたら、と」

 ああ、と納得するものがあった。サーヴァントは食事の必要こそないが、摂食である程度魔力を回復することができる。
 無論、誤差でしかない微量なものでしかないが。
 アイの言葉には、一応の理屈が通っていた。

「そうか。けど遠慮しておくよ、それはやはり君が持っているといい」
「……そうですか」

 それだけを言って、黙り込む。
 アイは俯き、地面だけが見える視界の中、座り込んだアーサーのつま先を視界の端に捉えていた。
 何も考えていなかった。
 何も感じていなかった。
 食欲だけでなく、あらゆる欲望が消えてしまったような感覚を、アイは覚えていた。

「……あの、セイバーさん。先ほどは申し訳ありませんでした。
 結局最後まで何も気づかずに……」
「ああ」

 アイの言わんとしていることは、アーサーにも分かった。
 先ほどの顛末、ギルガメッシュとの戦闘とも呼べない諍いの時、アイはその事実にすら気づくことなく、藤井蓮の消えた場所に居続けた。
 彼女はそれを引け目に感じていたのだろうか。とはいえ、場所を離して「そのように」したのはアーサーだし、そもそもすばるとキーアがあの場にやってきてしまったこと自体がアーサーにとっては不測の事態であったのだ。だからアイが罪悪感を覚える必要はない。

「気にすることはないさ。君は、ただ君たちが無事であることに努めてくれたらそれでいい」
「そういうことでは、ないんです……」

 しかし。
 アイが言ってるのは、ほんの少しだけ意味合いが異なっていて。

「分からない、んですよ……私は、私のことが……」

 アイは、絞り出すように言う。

「分からないんです……もし仮にセイバーさんが戦ってることに気付いたとして、その時私はどう動いたのか……」
「それは……」

 アーサーはどう答えていいか分からない。
 アイの瞳から涙は流れていなかった。悲しいのか悲しくないのかすら、彼女は分からなくなってしまったのだ。

「少し前までの私なら、きっと貴方を助けようと動いていたはずです。でも、今は……どうしていたのか、どうしたいのかすら、全然、分からなく、なってしまったんです」

 他者を救うこと。それはアイにとっての存在意義と同義だった。
 少なくとも、以前までは。
 自分の身など度外視して動いていたであろうことは、彼女と付き合いの浅いアーサーでも良く分かる。だが今はそれすら分からないのだと、小さな少女は涙なき無感の顔で嘆いていた。

「ちょっと前までは、分からなくても出来ていたことが、出来なくなってしまったんです……
 私だけに見えていた夢が、なくなってしまったんです……」

 声は、いつの間にか嗚咽の響きを湛えていた。
 それでも、涙は出なかった。

「ねえ、セイバーさん。ここに、何がありますか?」

 アイは両手の掌を重ね、アーサーの前に差し出す。

「……何も。僕には、見えない」
「ええ、そうですね。なんにもないですね……でも私には、私にだけはここに、なにかが見えていたんです。炎のように確かなものが、ここにあったはずなんです……」

 父を埋めたその瞬間から、あの丘で誓ったその瞬間から、確かに燃えていた火が、そこにはあったはずなのに。

「でも、それも、私にはもう見えません……最初から無かったみたいに……もう見えないんです……」

 アイはゆっくりと両手を握り、まるで心臓を戻すかのように胸に埋めた。

「キーアさんもすばるさんも、みなさんとても優しかったです。何も言わずに笑いかけてくれて、慰めもしてくれて……
 みんな私の決断を待ってくれているのに、私はそれすら出来ないんです……」

 アイは俯く。それでも涙はこぼれない。代わりに、言葉の数々がこぼれ落ちて二人の間に転がった。

「ごめんなさい……私、自分のことばっかりですね。本当は、ここにはセイバーさんの助けになれることがあるんじゃないかって、そう思って来たのに。それさえ私は……」
「アイ」

 アーサーは、努めて穏やかな口調で。

「見えるとも」
「え?」
「僕にも、見える」

 アーサーはアイの掌を指し示して。

「そこに、君の炎が燃えているのが、僕にも見えるよ」
「そう、でしょうか……」

 アイには血と傷と欺瞞に塗れた心臓しか見えなかった。

「ああ。君には見えないかもしれないけど、今の話を聞いて分かった。君の心はまだ燃えている。ただ少しだけ見えづらいだけさ」
「……そう……でしょうか……」

 アイの声音は変わらず、それでもアーサーは自信を持って言う。

「そうだとも。何故なら、君は藤井蓮の願いを叶えようとしている」
「え……?」

 思いもよらなかった、と言わんばかりに、アイの目が見開かれた。

「君が生き続けること、それが彼の願いだ。ならば君は、誰かの願いを叶えようとする君は、きっとまだ本当の意味で諦めてはいないのだろう」
「それは、でも……」

 尚も否定しようとするアイを、アーサーは宥めるように制して。

「僕に言えるのはこれだけだ。そして、僕にできるのもここまでだ。後はキーアやすばると同じく、君を待とう。待ち続けよう。
 どれだけ時間がかかっても構わない。選ばないという選択さえ許されている。そんな君の決断を、ずっと」










「あ、セイバーさん」

 少し進んだその先で、すばるは夜空を見上げていた視線をアーサーへと向けた。

「あの、アイちゃんはどうでしたか……?」
「ああ。きっと、彼女は大丈夫だよ」

 心配げに聞いてくるすばるに、アーサーは笑みを浮かべて返す。

 アイの異常に最初に気付いたのはすばるだ。
 この中でより長く接してきたからであろうか、それとも天性の素質であるのか。すばるは、他者の心を慮ることに長けていた。
 あるいは、自分が身を以て経験していることだから、なのかもしれない。

「けれど、やはり僕は不甲斐ないな。こういう時に気の利いた詩の一つでも紡ぐことができたなら、少しは話が違っていたのかもしれないけど」
「セイバーさん?」
「ああ、いや、こちらの話だ」

 きょとんとするすばる、彼女の元いた土地と時代では、恐らく縁が薄い代物なのだろう。

「けれど、しかし」

 それにしても、と思う。

「僕としては君のことも心配だ。君の事情は聞き及んでいる。サーヴァントのこともそうだが、しかし君は……」

 そこでアーサーは言いよどむ。
 すばるが経験した離別は、こういう言い方は好ましくないが、恐らくアイのものよりも重いものであるだろう。
 最初から離別が約束されたサーヴァントは元より、彼女が失ったのは生者、それも恋焦がれた相手であったというのだから。
 悲劇だ。そう言う他あるまい。それは今この時も気丈に振る舞うすばるの姿さえ、痛々しく思えてしまうほどに。
 しかし。

「平気です」

 すばるは気遣いや強がりの類ではなく、本心からそう言ってのけた。

「あ、えっと、本当は全然平気じゃないんですけど……
 でも、セイバーさんが思ってるみたいな、すごく思いつめた人みたいなことにはなってません。だから大丈夫です」

 それは、 ああそうか、と受け止めるには、あまりにも重い言葉だった。
 そしてこうも思う。二度に渡ってサーヴァントを喪った彼女は、それをどう感じているのか。
 己もまた、その道を歩まなければならないと考えていたがために。

「……すばる、聞かせてほしい。君は二度に渡ってサーヴァントを失った。その事実をどう受け止めているのか。
 僕は戦わなければならない。決して負けることの許されぬ身であれど、勝つばかりとも限らないこの戦場において、それがもたらした結果を」
「それは……」

 すばるは言葉に詰まり、表情を崩し、何かを言いかけて、そして。

「悲しい、ですよ」

 ぽつり、と。
 まずはそれだけを呟いた。

「悲しいです。本当に、本当に、胸が張り裂けそうなくらい悲しい……今だって泣いちゃいたいくらいつらくて、寂しくて、なんでもう会えないんだろうって。ずっとそれだけを考えちゃいそうで……」

 それは、聞くまでもない当たり前の事実だった。
 近しい人間に死なれて悲しまない人間など、それこそ希少種という他ないだろう。それは人間的な感情においては至極当然の心の動きであり、古今東西を問わない普遍的な情動だった。

「アーチャーさんは……東郷さんは、優しいお姉ちゃんみたいな人でした。迷ってばっかりなわたしをそれでも助けてくれて……叶えたい願いが、あったはずなのに」

 語るすばるの声音は震えに満ちて。その悲しみが本物であるのだと如実に伝えてくる。

「ブレイバーは、友奈さんは、やっぱり暖かい人でした。東郷さんの大切な友達で、東郷さんと同じくらい優しい人で……わたしも、友奈さんと友達になりたかった」

 当然のことなのだ。人の死に悲しむということは。
 例えそれがサーヴァントであったとしても。遠からず別れることが最初から確約された影法師であったとしても。
 交わした言葉と心は本物であり、ならばこそ別れは惜しまれる。

「分かってるんです。サーヴァントはそういうもので、だから本当は笑って見送ってあげなきゃいけないのに……でも、それでもわたしは……」
「いや、いい。もういいんだすばる。君の思いは理解した。
 だからもう、それ以上思い詰める必要はない」

 故にこそ、アーサーは思い至る。全ては同じであったのだと。
 アイが抱く不安と恐れ、すばるの抱く悲しみ。そして、キーアの抱いているであろう感情。
 それらは全て同一のものであり、だからこそアーサーはそれに向き合わなければならない。

「ありがとう。君のおかげで、僕は僕のやるべきことが見えたかもしれない」

 顔を上げるすばるに、アーサーは微笑む。
 彼女の吐露した心の裡を慰めるように、できるだけ不安を抱かせないように。

「僕は、キーアと話をしなくてはならない」

 視線を彼方へと向ける。最後に行くべき場所は、決まりきっていた。










 キーアは、空を見上げるのが好きだった。
 青空もそうだし、夕焼け空もそう。当然夜空だって大好きだ。
 星を眺めていたかった。それは、かつていた場所では決して見られないものだったから。

「キーア」

 そんな彼女に、後ろから声がかかる。
 振り返ってちょっと驚いて、次いで微笑んだ。そこにはアーサーがいたからだ。

「セイバー。そんなところにいたのね」
「すまない。少しだけアイやすばると話をしていた」

 別にいいのに、と言うキーアは何が面白いのかころころと笑っている。
 そんな少女を前に、アーサーは話の切り出し方が分からなかった。
 そも、円卓においては非情に徹していたアーサーだ。人の心が分からないなどと糾弾されてしまうほどに、その治世は温度というものが存在しなかった。騎士としての在り方はともかくとして、実のところ市井の子供への接し方は未だによく分かっていないのだ。我ながら、なんとも情けない気分になる。
 結果、場には無言の時間が流れることとなった。アーサーは自分の中の情報を整理しながら、ようやく口を開く。

「キーア。僕は今から、最後の戦いに赴く」
「……ええ。そう、ね」

 キーアの声が沈んだものになる。その理由を、アーサーは理解していた。
 敵はあまりに強大だ。その上、先の一戦において彼は一矢報いることもできないまま地に伏せた。現実的な勝算は皆無に等しく、さりとて正面からぶつかるより他に道はない───
 というのもある。けれど、それ以外にも少女の声音を沈ませる要因があるのだと、今のアーサーには分かった。

「厳しい戦いになるだろう。だがそれでも僕は往く。この身命を賭して、ただ一心に剣を振るおう」
「……」
「と、そう思っていたのだけどね」

 思いがけぬ言葉に、キーアの顔が上げられる。そこにあったのは疑問の色。それを見て、アーサーは自嘲めいて笑った。

「戦いの果てに死ぬこと、それが自分の使命だと考えていた。僕は僕自身の死を、さして重要だとは考えていなかった。
 ついさっきまでは、だけど」

 サーヴァントとは一種の魔導的な兵器だ。聖杯戦争という闘争における戦闘の手段の権化であり、つまりは道具であり、使命を果たせば用済みとなるだけの存在だ。聖杯に託す願いがある英霊ならばともかく、そうでない自分はまさしくそうした存在だと考えていた。それでいいと思っていた。少女たちの帰還という命題を得て、ただそれだけのために奔走する。兵器である己に安住し、本当の意味で自分で考えることもないまま戦い続けてきた。
 だから、意思を以て生きることを「選択」した生者を、少女たちを、キーアたちを、アーサーは気高く尊いものとして見ていた。
 アーサーは目線を正し、キーアと正面から向き合った。キーアは俯き、服の裾を両手で掴んでじっとしている。

「アイ・アスティンは藤井蓮の死を悼み、引き摺っている。すばるもまた、二人の勇者を失い悲しみに暮れていた。
 だから、僕は君に尋ねよう」

 真剣な表情で、一切の遊びもなく、少女を庇護する対象ではなく対等な人間として向き合う。

「この最後の戦いにおいて、キーア。君の願いを聞かせてくれ」
「あたし、は……」

 そうしてキーアは俯く顔を上げ、何かを言いそうになって、言い淀み、考え、そして言った。

「セイバー。あなたはあたしの憧れよ。あんなに強くて、優しくて、しっかりしてて、あたしの命だって助けてくれた。本当に、お話の中の英雄のようで」

 キーアがアーサーを見る目には、眩しいものを見るかのような憧憬の念がある。自分では決して届かない場所を見る目だった。

「あたしはみんなが好き。アイもすばるも、梨花もレンも、孤児院の人たちだって大好き。でもね、セイバー。そのみんなの中には、あなただって入ってるの。だから……」

 そこで言葉に詰まる。キーアの喉が少しだけ鳴る。だが、アーサーは決して目を逸らさなかった。息を吸い込み、キーアは言った。

「だから、絶対に生きて帰ってください。これ以上誰かを失うのは、もう嫌だから」
「承知した」

 大股で一歩を踏み出し、キーアとの僅かな距離を飛ばした。間近に見据えられ、キーアは目を丸くする。その目を見ながら、アーサーは宣言した。

「私は君のために、君達のために戦おう。そして必ず君の下へ帰還する。騎士としてではなく、サーヴァントだからでもなく、私という一人の人間の意思に基づき、ただのアーサー・ペンドラゴンとして君に誓おう」

 キーアと、彼女の好きな全ての人のために。
 キーアは、両目をこぼれそうなくらい大きく見開いたまま、アーサーを見つめた。石のように硬直した体に徐々にアーサーの言葉の意味が浸透し、少女はぽろりと涙をこぼす。

 ───もしかして、僕はまた間違ったのか?

 と、少し不安になったアーサーだが、しかしすぐに安心する。
 キーアが笑っていたからだ。

「───ええ」

 きっと、「どうするべきか」ではなく「どうしたいのか」なのだろう。
 そして、「どうして」ではなく「何の為に」なのだとも思う。
 戦うために戦うのではない。サーヴァントという兵器だから戦うのでも、騎士として使命に殉じるのでもない。
 少女らを守るために戦うことを、一人の人間としてアーサーは「選択」する。



NEXTそして終わりのプロローグ/半分の月が嗤う夜(後編)

最終更新:2019年07月19日 10:15