【多目的ホール】その1「日常の一頁」



久柳天兵は姫代学園の教師である。同時に天使でもある。
人に仇成す悪霊を打ち倒し、人々を守るのが彼の使命。
迷える子羊を導くのは、天使たる彼の本能。

地上で塵にまみれて暮らすのは、神に背いた彼の選択。

その選択に後悔はない。光輪が消え、翼は折れ、その身がひび割れても彼は後悔することは無かった。
きっと自分は人間が好きすぎるのであろう、と彼は思う。
故にこそ彼は人間のためにその身を削ることに躊躇はない。残り僅かな神の恩寵を使い潰した時、彼は消えるであろう。無論それに恐怖はない。

そんな彼であるから―

「うおおおおおおお!急げ急げー!さわやかパワー第三ロック解放!ジェット点火!ブースト!間に合えー!」
「あーっ翠ちゃん!前!前見るっス!ぶつかる!ぶつかるっス!うわあああああ!」
「エッ前にってうわーーーーっ!」

ルームメイトを背負った神星翠が速度違反で突っ込んできても相手への気遣いは完璧である。
【却火の恩寵】を使うまでもない。するりと横に一歩避け、すれ違いざまに合気の要領でトン、と肩を叩けば運動エネルギーが回転運動に変換された翠は急減速しフィギュアスケーターのごとくその場で猛回転。

「うひゃあああああぁぁぁぁぁぁ↓ぁぁぁぁぁぁ↑ああああああ!?」
「ふぎゃあああああ目が回るっスうううううう」

ひとしきり回転した翠が、目を回してぺたんと座り込む。

「おはよう神星くん…と食茶田くん。朝からそんなに急いでどうしたんだい」
「うわ!天兵先生!いや遅刻が!時間がギリギリなんです!私はともかくぺろりさんは!ぺろりさんは見逃してください!能力使ったのは私だけですから!」
「ほげええええ目があああ、目が回るっスううううう、ぴよぴよっスうううう」

天兵は座り込んだ二人を見下ろす。
一人は神星翠。やたらと元気極まる生徒。声と口が大きいムードメーカー。
もう一人は食茶田ぺろり。…さて、どんな生徒であったか?今一つ思いだせないがひとまず問題児であった記憶はない。

「…まあいい、能力使用は見逃してあげるから行きなさい。今後は遅刻ギリギリに走るようなことは無いようにね」
「ありがとうございます天兵先生!ほら行きましょうぺろりさん!」
「ぽえええええ、ムスカ気分っすううう」

そう言ってどたばたと走り去っていく生徒二人の背を見送る天兵は、自分の中に何かが入ってきていることに気が付いた。

(これは…神星くんの能力の一部か。触った時に入って来たんだな)

身体を活性化させる翡翠色の火種。ごく微量のそれは【却火の恩寵】を使うまでもなく、栄養ドリンク一本程度の活力を天兵に与えて消えるだろう。

だから、それが見えたのはごく一瞬のことだった。

巨大なナニカが、天兵の目の前で生徒を呑んだ。

「……………なんだ、今のは」

もう一度見ると、妙なものは何もない。「遅刻遅刻~」と駆けていく女生徒が『一人』いるばかりだ。彼女は神星翠。やたらと元気極まる生徒。声と口が大きいムードメーカー。ついさっき能力を使って走っていたが、大した違反でもないので見逃して―

その時、誰か、一緒にいたような。

……………わからない。




……
………

神星翠遅刻未遂から2週間 職員室

「……………」
久柳天兵はそこはかとない違和感を感じていた。表情にもそれが出ているのがわかる。
「久柳さん、最近元気ないですね。何か気にかかることでも?」
「ああ、いや…なんというかね」

同僚に心配された天兵はわずかに言いよどんだ後、控えめに話し始めた。

「平和すぎやしないか?」
「はい?何言ってるんですか?この前は暴れキリンが校庭に侵入してきましたし、風紀委員がUMAを捕獲したり自費出版部がミーム汚染を拡散しようとしたり無謀にも侵入してきた痴漢が鬼無里さんに拡張されたりいろいろすったもんだがあったじゃないですか」
「いや……………『その程度』のことしか起こっていないのが、どうにも違和感でね…」
「?」

天兵の抱く違和感は、一言で言うと「何か見落としているのではないか?」という疑念である。確かにそれなりのすったもんだは起こってはいる。先ほど指摘されたような表向きに知られたごたごただけでなく、天兵の知っている限り心霊的な事件もいくらか起こってはいる。いくらか心霊存在によるものと思しき怪奇現象の報告は上がっているし、天兵自身も幽世から迷い出た悪霊の類を数体仕留めている。それ以上のこと起こっていない。天使としての霊的知覚にもさしたる異常は感じ取れない。
が、しかし。
なにか重大なことを見落としているような違和感。あるいは漠然とした危機感。
この違和感を単なる気のせいで流してはならないと、天兵は直感的に気付いていた。

(誰か事情に通じた人に相談するべきか…)


その日の夜。
天兵は旧校舎―無論現世ではなく幽世である―を訪れていた。

「『主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し/そのまぶたは人の子らを調べる。』…こっちか」

聖典の一節を唱えて天使の権能の欠片を行使し、行く道を探す。目的は人探しだ。ここは現世に比較的近い場所であるため現世に迷い出て来る悪霊が度々現れる場所であるだけでなく、天兵の正体を知るある人物もまたよく表れる場所である。

「あ、天兵先生。こんばんは。こんなところに何用ですか?」

天兵の前に現れたのは、世話焼きの幽霊、蓮柄 円であった。怪奇現象に巻き込まれた生徒に手を差し伸べる彼女は怪異と戦う天兵とも緩やかな協力関係にあり、互いに知った仲なのであった。

「いや、君に相談したいことが―「あれーっ!?天兵先生!どうしてこんなところに?」―ッ!?」

円の背後からひょっこり現れたのは、神星翠。その姿を見た瞬間、天兵は直感した。

彼女だ。

2週間前彼女と接触してから、この異様な違和感を感じ始めたのだ。

「あのねえ君?どうしてこんなところに~はこっちのセリフだよ?何度も何度も何度も旧校舎に迷い込んで…私は基本的に暇人だからいいけども、危険なのは君なんだぞ?危機感ゆるゆるもいい加減にしたまえよ?」
「うにゃー、せんぱいほっぺひっはふのやめひぇー」
「いいやほっぺを引っ張るねっ、君はちょっぴり自分を顧みたほうがいいんだ、うりうり」
「うにゃあああぽるたあがいすとおおお」

ぐりぐりと気心の知れたスキンシップを繰り出す円と翠を見て、天兵の違和感は一種の確信へと変わった。
神星翠は、ただ者ではない。円とここまで顔見知りになるのは相当回数怪奇現象の類に巻き込まれて、あるいは首を突っ込んできたのは間違いないし、そもそも大体の人間は幽霊とは本能的に関わりたがらないものだ。

天兵は翠に探りを入れることを決意した。

「あー、蓮柄さん、翠君は私が送って行こう」
「ん…ああ、はい、わかりました、先生にお任せします」

円は天兵の目くばせで察したようで、翠のほっぺを離した。やはり円も翠に異常性を感じていて、天兵の抱いている懸念を感じ取ったのだ。

「あれ?先輩と先生、お知り合いなんですか?」
「あー、それは…」
「昔ちょっとねー。まあともかく君は私といるよりもせっかく生きてる先生が迎えに来てくれたんだからそっちに行きたまえよ」
「えー」
「えーじゃないの」

そんなやりとりがありつつも円と翠は別れ、翠は天兵に寮まで送られていくことになった。

てくてくと並んで旧校舎の出口へと歩んでゆく2人。
(さて…何から探ってみてみるべきか)
どう切り出したものか思案する天兵と対照的に、疑念を向けられている人物である翠は、全く毒気の無い顔で天兵に話しかける。

「天兵先生なんであんなところにいたんでしょうかー?蓮柄先輩はなんか…ここは変なのが出て危ないとか言っていましたけど」
「あー、それはね…」

(多少こちらの情報を明かして、反応を見てみるか…)

「実を言うと、そういう悪霊とかを退治しに来ているんだ…皆には内緒だぞ?」
そう言いつつ、懐から取り出した剣を見せる。シンプルな皮の鞘に収まった天界の聖具の銘を、“ヘルブレイザー”(命名、故・山乃端一人)と言う。
正真正銘の天界の聖具であるこの剣は、一目見てそれが本物であることを納得させる説得力がある。
(悪霊の類の関係者なら、これを見れば多少はたじろぐはずだが―)
翠の反応は…

「す…」
「す?」

「すっごおおおおおおい!かっこいいいいいいい!先生怪異ハンターだったんだあ!」
「ははは、びっくりしてくれて何よりだ。皆には内緒だぞ?」
(本人は、おそらく白か…さもなくば自覚無し)
子供のように目を輝かせる翠を見て、天兵は僅かに警戒を緩める。であるならば本人の意図しない形で怪異にかかわらされている可能性がある。
「こ、この剣、銘とかは…」
「それは秘密だ…」
「ひみつ…!!」
故・山乃端一人に勝手に命名された痛い銘から話を逸らしつつ、天兵はどう探りを入れるかを思索し続ける。

(さて…前回の接触では…そうだ、彼女の能力の一部がこちらに入ってきて…すぐ消えてしまったのだったか)

「あー、なんだ、翠君。そういえば、君は魔人だったっけ?」
「はい!この通り!【元気ハツラツ☆さわやかパワー】ッ!」
そう言うや否や、翠の全身から涼気が噴き出す。思った以上の圧力に、一歩下がる天兵。
「この『さわパワ』でごはんがおいしくなったり夢見がよくなったり…健康にいいいろいろな効能があります!」
「それってもしかして他人にも分け与えたりできる?」
「す、鋭いっ!先生鋭い!できます!思いっきりできます!」
「なるほどね~…」

(それだ。彼女の能力を受けてからこの違和感を感じ始めたんだ…で、あるならば捜査の基本。現場に戻るが定石)

「それ、先生にも分けてもらえたりする?ちょいと怪異ハンターの仕事に役立たせてはくれないかな?」
「はい!喜んで!」

その選択は、決定的だった。
きっとそれは、だれも望まない結末を招くことになる。

いつしか2人は寮の前まで帰ってきていた。
「じゃあ、また明日ね」
「わかりましたー!明日の朝にまたー!」

2人は翌日の朝に翠が天兵に能力を使うことを約束して別れた。教師が校則違反を教唆とかそいつは教育者の風上にもおけないな、と天兵は苦笑する。

…漠然とした、予感がある。
何か、自分はとんでもないことをしようとしているのではないだろうか。
恐ろしい過ちを、犯そうとしているのではないだろうか。
今からでもやっぱりなし、と翠に言って、すべて気のせいだったことにして忘れるのが正解なのではないだろうか。

「…恐れて、いるのか、俺は。」

天兵は己の恐怖を自覚した。

「恐れるものか」

自戒する。

「何が現れようと、恐れるものか…!」

天より下り、魔性を討つを使命とし幾年月。神の恩寵は薄れ、翼は萎え、心魂はひび割れた。
それが自分自身の選択の結果であることを、天兵は何よりも自覚している。

己が身を捧げ、人界の盾であろう。
己が虚無に還るその日まで、未来ある若人を守護する砦となろう。
たとえ神の怒りが我が身を焼き焦がすとも、この誓いは曲げるまい。

それこそが、久柳天兵の存在意義。
久柳天兵は知っている。
懸命に生きる人々の暮らしがいかに尊いかを知っている。
未来ある若人たちの可能性の輝きを知っている。
人が作り出した芸術と文化の素晴らしさを知っている。
神に逆らってでもそれを守る価値があるのだと、知っている。

故に、己の身を捧げることに躊躇はない。

故に、
故に、
故にこそ―


……
………

その破局は、必定だった。
翡翠色の炎が己の内に入った瞬間、久柳天兵は己の失敗を、限りなく失敗し続けていたことを悟った。

不定形の、不詳の、不透明な、これまで確かにそこにいた、見えていたのに気づかなかった異形の群れ。

「ああ」

大口を開け、守るべき人々を次々と喰らう、逃げも隠れもしない、堂々と大路を這う異形の群れ。

「あああ」

何も知らない、自分が危機にさらされていることすら知らない人々を無機質に喰らう異形の群れ。

「ああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

天兵は悟った。己の目がどれほどに節穴であったか。
どれほどの人々がヤツラに喰われるのを見逃したか。
自分の目の前で、どれほどの命が零れ落ちていったか。
己の闘いが、果てしなく茶番であったことを。

喰われた。
喰われた。
何人も喰われた。
何十人も喰われた。
何百人も喰われた。
何千人も喰われた。
毎日毎日喰われた。
毎年毎年喰われた。
目の前で喰われた。
同僚が喰われた。
自分が救いだした人間が喰われた。
教職を紹介してくれた恩人が喰われた。
部活で賞を取ったと喜ぶ教え子が喰われた。
テストで良い点を取って得意気な教え子が喰われた。
愛を告白してくれた恋人が喰われた。

そして自分はそれに気づきすらしなかった!
喰われた人々を、思いだすことすらしなかった!

「やめろおおおおおおおおおおおおお!」

【却火の恩寵】、最大励起。もはや正体を隠すことも、己の命を慮ることもしない。
醜い異形の姿を露わにし、意識と同等の速度で転移。今まさに何も知らない生徒に喰らい付こうとする異形に剣を突き立てる。泥のような手ごたえ。

「あれ?先生どこに―」

置いて行かれて首をかしげる翠に構わず、何度も何度も剣を突き立てる。

「止まれ!止まれえええええええ!」

剣を突き立てた甲斐があったか、茫洋としていた無機質な視線が天兵の方へと移った。

「狙うなら…俺を狙え、化物ぉ!」

異形が一体、天兵に狙いを移した。そうしている間にも、何体もの異形が守るべき人々を襲う。一体一体攻撃していてはどう見ても間に合わない。
いまさら天兵がどうしたって、手遅れなのは変わらないのだが。

「クソっ…こっちを、こっちを向けェっ!『すなわち万軍の主は雷、地震、大いなる叫び、旋風、暴風および焼き尽くす火の炎をもって臨まれる』―!」

無数の炎の矢が、雨のように降って広範囲の異形に突き立った。【却火の恩寵】。人間に一発も当てない、精密極まる掃射。天使の権能の後先考えない解放である。

「ッがああああっ!」

無茶な権能の行使により、天兵の全身に引き裂くような激痛が走った。自分の寿命が一気に縮んだのがわかる。その代わりに多大な代償を払った一撃は、見える限りの範囲の異形の者たちの注意を自分に引き寄せることに成功していた。

「グ…人が、いない、方に…!」

天兵は血眼になって周囲を見渡し、なんとか人のいない多目的ホールを見つけてそこに飛んだ。無機質な殺意を向ける異形の群れもこれに続く。
ホールに飛び込んだ天兵は、剣を抜いて自分に群がる異形の群れを睨みつけた。
そこに殺到する異形、異形、異形、異形、異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形異形―。

いったいどこにこれほどの人外が隠れていたのか。いや、隠れてなどいなかった。誰もが気付いていなかっただけだ。

「グ、ゲホッ、かかって、かかってこい化物ども、誰にも、地上の人間誰にも手出しはさせないぞ…!『わたしは、世界をその悪のゆえに/逆らう者をその罪のゆえに罰する。また、傲慢な者の驕りを砕き/横暴な者の高ぶりを挫く』―!」

天使の権能を以て放たれる、破魔の炎が千の異形を焼いた。
億の異形の顎が、天使を瞬く間に磨り潰した。
それは戦いとは呼べなかった。どんなに贔屓目に見ても蹂躙だった。

「があああっ!ぐ、ううううああああ!『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。彼は神に頼ってきた。お望みならば、神が今、救ってくださるように』…ぐあああああっ!離れろッ!クソ!『「私は神の子だ」と言っていたのだから』―!」

剣を振るう。何もわからない。自分が今までしてきたことの意味。なぜ何の罪もない人々が喰い殺されなければならないのか。何もわからない。

「ゲホッ、『一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスを罵った』…ガアッ!うああああああ!」

喰い千切られる。ただ喰われる。これ程の苦痛を、今まで喰われた者たちも味わったのか。それを目の前でただ見逃された彼らの絶望はいかばかりか。

「グ……………『さて、昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ。』……………」

いや、絶望することすら、できなかったのか。
己の死にすら、気付けなかったのか。
絶望する権利を貪る己の、なんと浅ましく醜いことか!

「……………『三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。』」

ああ、絶望する事さえ許されないならば、どこに慈悲があるのだろう?

「『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』……!」

天より堕ちた彼に応える神はいない。

巨大な火柱が、多目的ホールから立ち上った。天使の持つ全権能を暴走させた、自爆である。


……
………

多目的ホール(半壊)にて

「あ、天兵先生、こんなとこに」

久柳天兵は、浅ましくも生き残っていた。自爆によって全身は既に炭の塊となり転がっており、じきに死ぬことが決まっていたが、無駄に頑丈な天使の肉体は彼が死ぬまでの時間を僅かに引き延ばしていた。
そしてひょっこりと現れた翠は全身炭化している天兵を全く心配するそぶりはなかったし、天兵もいまさら心配を必要としてはいなかった。
天兵は炭化した喉を無理矢理動かして、言葉を絞り出した。

「み…みどり、くん…たのみ…が、ある」
「なんですかー?」
「みんなは…みんなは、ぶじ、か……なんとも、なっていないか…みて、くれないか……」
「みんなの様子ですかー?かしこまりましたー!」

もはや目の潰れた天兵のかわりに、翠はひょこひょこと窓に歩み寄り、校庭を見る。

「えーっとですね!いつも通りですー!野球部がグラウンドぐるぐる回ってますねー!いつも通りの平穏そのものですー!」

「そう、か……………いつも通りの平穏そのもの、か……………それは、よかった……」

「えーとえーと、あとはですね……………」

「………………………」

天兵にはもはや聞こえていない。

「あ、野球部全員食べられた」

神星翠にとっての、いつも通りの平穏そのもの。


……
………

数日後 幽世 旧校舎

「あ、やっと見つけたー!先輩こんばんはー!」
「とうとう迷い込んだんじゃなくて故意にこっち来たね!?そろそろガチギレせざるを得ないよ君!?」
「いや、今回は!今回は先輩に割と大事そうな感じの要件が!」

神星翠は、蓮柄円に会っていた。もはや慣れたものとなりつつあるじゃれあいを経て、翠は円にあるものを見せる。

「今日は、先輩にこれを渡したくて…」

そう言って懐から取り出したのはシンプルな鞘に収まっている未知の金属でできた剣であった。それを見せられた円は、その剣が湛える異様な力を前に体をのけぞらせる。

「いや、君…なんだいこれ?私はこの手のものには詳しくないけれどもこれがすごい品物だということはわかるよ?聖遺物か何かかい?」
「いや、なんというか私もこれが何なのかはよくわからないんですけど…先輩が持ってた方がいいかなー、って…ていうか先輩も知らないんですか?」
「いや知らないよ。初めて見たよ。こんな本物の聖者か天使が持ってるようなの。…まあとにかく死者には過ぎた品だよ、君が持ってなさい。と言うか私が持ってたらうっかり成仏しかねない」
「え、いいんですか?わーい!いいもの貰っちゃった!」

ぴょこぴょこと小躍りする翠を見て、円はどこでこんなもの手に入れたんだ、とか何故私に渡そうとしたんだ、とか考えたが、まあいいか、と思うことにした。あれほどのものを持っていれば幽世に迷い込んでも安心というものだ。
それにしてもどこで手に入れたんだあんなもの、と円は改めて翠の持つ剣を見て―

誰か、あの剣の、持ち主が、他に、いたような。

…………わからない。

「えっへへー、肌身離さず持ってなきゃあ」
そう笑って翠は胸元に剣を仕舞った。長さ66センチの剣が、すっぽりと服の中に納まって見えなくなる。この隠し持ちぶりならば、学園のボディチェックもすり抜けて肌身離さず携帯できるだろう。
「君、どこに仕舞ったのかな?」
「え?ここに…」
円はどことは言わないが自分のボーイッシュな部分と、翠の着痩せな部分を見比べて、ちょっぴり遠い気持ちになったのであった。


神星翠は知っている。
人間が瞬く間に喰われ、死ぬことを知っている。
人間がどこからともなく補充されて、日常が続くことを知っている。
自分たちの生死は、超常のものの気まぐれであっさりと左右されることを知っている。
それでも自分の暮らす世界が楽しくって、素晴らしいことを知っている。

故に、それでも毎日を笑って過ごすことに支障はない。

これもまた、彼女の日常の一頁。


最終更新:2022年10月16日 19:43