【芸術室エリア】その1「落日のゴーテンハーフェン」



 解明、しかる後征服。人類種はそうやって繁栄を続けてきた。その過程で、彼らは自らとは異なる者たちを排除していった。
 魔女、暗闇―何よりも、理解できないモノ。人類にとって未知なるモノはそれだけで十分な脅威足りえた。
 理解できないモノは、人々から怪物と呼ばれ忌み嫌われた。鬼種の混血、その血統など最たるものだ。人の身では本来成し得ぬ神秘を成し得てしまう、それは確かに恐ろしい。誰だって、理解できぬ強大な力を前にすれば足が竦む。

『だからこそ、理解してしまえばその恐ろしさは軽減される』

幼少期、暗い道が怖かった。1人で夜トイレに行くのが怖かった。そんな経験、記憶はないだろうか。それこそ未知を恐れる人の心そのものだ。暗黒の中に何があるのか理解(わか)らない、故にこそ恐怖を抱く。
 しかしロジックさえ分かってしまえばどうということはない。どのようなプロセスを以って事象が引き起こされているのか、それが判明すれば恐怖の念はなくなる。それどころか、征服対象となる。
 昨今の世では実に奇怪な力を持つヒトが現れ始めたそうじゃないか。これもまた未知の領域だ、人々が恐れ敬遠するのも頷ける。
 だが、私は思うとも。決して恐れ遠ざけるべきものなどではない。むしろ積極的に取り入れるべき事柄だ。その在り方を解明し、誰にでも成れることを証明すれば恐怖は薄まる。それどころか我先にとこの力を欲するはずだ。
 我々とは違い生来の人智を越えた力、身体機能。人智では解き明かせないのなら、自らが同じステージへと立てばいい。我々は彼らに追従し、その高みへと至ろうとも。彼らこそが新たな人類種なのだ。
 だというのに何だ、奴らは馬鹿なのか?これほど素晴らしい彼らを蔑ろにし、旧態依然とした利権争いにうつつを抜かすなどと。いいとも、私は決して諦めない。自費だろうがなんだろうが彼らの在り方を解き明かして見せよう。私は信じているよ。彼らの可能性に気付いた私自身を。
                             Eugen・Savoyen

 迷子のカラダ。突如として学園内に広まった新規の噂。その概要はこうだ
 夜、誰もいない高等部校舎の1階西館から声が聞こえるらしいよ。最初は何をいってるか分からない。それが声なのかすら分からない。でも、耳を澄ませば聞こえるんだ。
 女の子の声で、悲しそうな声で。
 何処。何処。
 その声についていくと、赤い文字が書いてある壁に行きつくんだって。そこはT字路の廊下になってて、右にカラダ、左にアタマって書いてある。そこで引き返せば特に何もないんだけど、そのまま進んじゃうと…

「ひいいいっ!」

…折角いいところだというのに、ボクの隣に座ったろんがいきなりしがみついてきた。こんなことをされてしまっては、怖い話も面白く怖がれないな。

「成程ね。最近はそんな怪談が広まっているのか。次から次と、コンテンツの消費が早いものだね」
「あ、最後まで聞かなくていいんですか?山口さん」
「そ、そうだよおミツさん…私のことは気にしなくていいからあ…」
「そんな泣きそうな顔で大丈夫と言われても信憑性がないよ。それに、その話はもともとある話の改変だ、オチは大体予想がつく。アレだろう?右に進むと『ひだりからわたしのあたまがきてるよ。うしろをふりかえらないでね』だ。左の場合は『みぎからわたしのからだがきてるよ。うしろをふりかえらないでね』と書いてあるんだろうが」

とても有名な話の一つだ。正直、この学園で流行るくらいの噂なのだからもう少し面白いものかと思ったが…拍子抜けだな。オカルト研究会だとこれくらいが関の山といったところか?彼女らは決して怪異に接触し、その在り方を口伝しているわけではないんだし。

「ふっふっふ、半分正解ね。山口さん」

得意げに笑みを浮かべるオカ研の女子生徒。

「半分、ということは話に続きでもあるのかな?」
「まあね。続きはこんな感じ。右に行ってその言葉を聞くと首のない女の子が頭を抱えて追いかけてくるんだって。左に行ってその文字を見ると、まがっちゃうんだってさ」
「曲がる?」
「うん。こう…べきぐしゃあって、体が螺旋れるの。首は180度くらい回転して、右足が35度、左足付け根が40度って具合に」
「そこまで判明してるとは事細かに説明されてるんだねえ」

実に陳腐かつ面白みがない。怪談、怖い話という物は、正体不明であることと理不尽であるからこその面白さだ。人が精神を発達させた生命体だからこそ恐れを抱く恐怖。そこへ、いきなりゴア、スプラッター系列の話題をねじ込むなど脂っこいラーメンと生クリームたっぷりのパンケーキを一緒に食べるようなものである。
 要するに、怖さの性質が全く違う。ゴア、スプラッターは生物という規格に合わせた怖さだ。原始的に、かつダイレクトに不快感と恐怖を与える。それに対し、怪談は人という複雑な精神構造に合わせた回りくどい怖さだ。
 にもかかわらず、双方をドッキングさせるのはあまりにも怪談として下作。この話を考えた者は、怖い話を作り慣れてはいないのだ。貞子が斧をもって追いかけてきていたら怖いかもしれないが、それ以前にシュールだろう?

「ありがとう、興味深い話を聞かせてもらえたよ。流石はオカルト研究会だ、学園内で跋扈している噂を蒐集するのはお手の物というわけか」
「そんなの携帯使えばちゃちゃっと集まるものだよ?」
「いや、そうでもないさ。人脈、信頼、人員…それらがなければこれだけの情報をかき集めるのは至難の業だろう」

拍子抜け、と思ったことを訂正しよう。彼女たちの情報蒐集能力は本物だ。真実味のある情報はいくらでも集められる。いくらでも作り出せる。
 故にこそ、信ずるに値すべき情報を蒐集するというのは相当な手腕を必要とする。
 何故、彼女の語った怪談があまりにも陳腐なのか。何故、理解不能と理解容易が混在しているのか。未だ仮説の領域、だが、確かめるだけの価値はある。

「火のないところに煙は立たない。―最も、煙々羅でもいるのならば話は違うがね!だがそれもまた神秘であることに変わりない。ボクが手ずから見定めに行くとしよう。ろん、君も同行してくれよ?ボクは、キミのことをもっと知りたいからね」
「―え」

やだーーっ!と、ろんの声が夕焼けに染まった廊下に木霊した。


 草木も眠る丑三つ時―その一歩手前。子の刻、つまり午前零時。山口ミツヤとろんは高等部校舎西館1階に来ていた。青白い月光は窓の隙間から廊下を照らし、青黒い影を形作っている。

「西館1階は…芸術室エリアだね。いやはや、全く実に『学校の怪談』らしい舞台じゃないか」

2人分の足音が誰もいない廊下に響き渡る。ミツヤの左腕にはろんがしがみついたままだ。心底怖そうに、しかしきょろきょろと周囲を見渡すろん。そんな彼女を見て、気が緩む。そんなに怖いのなら目をつむっていればいいものを。

「ねえ何もいないよね…何もいないよね…?」
「ボクに聞かれても分からないよ。少なくとも目視はしていない。というか、キミはなんでそんなに怖がりなんだい?」
「だって…怖いじゃん…おミツさんはまっとうに怪異を無力化できるけど、私は―」

食べる、と言おうとしてろんはその顔を青くした。口元に手を当ててはいるものの、吐き気なんて一切ない。彼女にとって捕食行為は決して異常な行動などではないのだから。
 最も、ヒトとしての形を保つ彼女の精神状態はヒト相当なのでそこそこな心労にはなっているだろう。

「あの、さ…おミツさんはなんで今日来ようと思ったの?あんまりあの話、おもしろくなかったんでしょ…?」
「だからこそ、さ。あの話はあまりにも素人臭い怪談だった。人為的に怖くした、という雰囲気があまりない。どちらかというと情報が足りないので継ぎはぎしました、という印象だ。そして大して面白くもないのに怪談として広まっている」
「継ぎはぎされたのって…最後の部分?」
「逆だ、逆。最後の螺旋くれた以外がフィクションなのだよ。製作者側としては、いきなり体が螺旋くれて死ぬなど荒唐無稽過ぎて怖い話にし辛かったのだろうさ。怖い話に出る怪異の類は何かしらの手順を踏んで人に害を及ぼす。そうでもなければただの殺人鬼に成り下がる怪異はごまんといる」

ミツヤは淡々と語り、廊下をずんずん進んでいく。彼女の言葉は、2人を包む『何が起こるのか分からない恐怖』を解剖していく。真偽の所在は関係ない。無辜の民であれ『お前は魔女だ』と言われてそれを群衆が肯定すれば―たとえ本人が否定しようと―魔女になってしまう。大事なのは、信じさせること。
 情報というのはそういうものだ。大多数の信じる物こそが真であり、それ以外が偽となる。事象としての正しい正しくないはこの際重視されない。
 この性質は、愚かしいヒトの業だ。だが…同時にヒトに許された最強の武器でもある。

 ―だ。は?

 青黒い廊下に響くかすかな声。

「ようやくだな。あれだけ煽っても出ないから少々焦ったじゃないか」
「ちょ、ちょちょちょっとおミツさん!さっきの話だと呼んでくるのはフィクションだっていってたじゃん!」
「そりゃあアイデンティティが大切な怪異が『何の前触れもなく殺してくる奴は怪異じゃない』なんて言われたら怪異としての面目が立たないからね。襲うつもりなら何かしらのアプローチをしかけてくるだろうさ」

この場にいる群衆は『怪異は襲う前に何かしらのアプローチを仕掛ける』という認識をしている。そのようにミツヤが定義した。この場にいる群衆は現在ミツヤとろんのみだ。そして、世界によってそうあれかしと定められた怪異は、法則に乗っとらないという選択肢を取れない。

「さあさあ、解明しに行こうか!未知なるものを気取る既知を!」

今にも駆け出してしまいそうなステップで、ミツヤは遠足にでも行くかの如くご機嫌に闇夜の照らす廊下の奥へ奥へと歩を進める。

「ああまだ心の準備があぁぁ――」

ミツヤにしがみついていたろんは問答無用で引きずられていく。とはいえ、彼女としてもここで1人ミツヤを待つのは絶対に嫌だろうし何が何でも付いていくことになっただろうが。

 アタシの―身体。は?
 芸術室エリアの一角、美術室の絵画を眺めるミツヤの耳に声が響く。

「美術室なのだから絵画の一つや二つ動くなりする意味不明の事象でも起こるかと思ったが、先にお呼ばれか。ああいう目的も理由も分からないモノこそ解体しがいがあるんだけどねえ」
「夜の美術室って雰囲気出るね…おミツさん怖くないの…?」
「何を言ってるんだキミ、恐怖を知らぬ者に怪異の与える恐怖を解き明かせるわけがないだろう」

ただ、恐怖よりも好奇心と探究心と欲望が勝っているだけの話。一片の恐怖も感じさせない様子でミツヤは芸術室の扉を開け放った。そんな彼女の耳に、再び声が響く。

 アタシの身体、は?

「知らないよ。そもそも体を探しているという時点で君は実体のない類のモノだろう?実体のない、しかし肉眼には質量をもって出現する怪異というのは確かに恐ろしいな。―例えば、貞子みたいに」

ミツヤは腰に差したリボルバーを抜き、シリンダーを引き出す。

「姫代学園は古き良きを守り通す伝統重視の女子校だ。その創立は確か…100を優に越していた。歴史のある学校というのはそれだけで拍が付く。だが同時に、垢も付くんだな、これが」

ミツヤは何を装填したのか、シリンダーを元の位置へ押し込めた。がしゃり、と小気味よい音を立てて銃はその姿をあるべき形へと戻す。

「この学校が隠ぺい体質にあることは周知の事実だ。実際、血の踊り場事件と呼ばれる現行のチェーンメールの噂によって幾人か生徒が失踪しているにもかかわらず学校側は知らぬ存ぜぬを通しているんだからね」

事実をもって補強された弁舌というのは、それが『らしく』あればあるほど強度を増す。

「その体質が、100年も前から続いていたものだとしたら?当然、ボクはその時代を生きた人間じゃあない、だから断言はできないがね。
 身体を探している、ということは自分が死んだことにも気付かないような死に方をして、あとから死んでることに気付いた、というタイプだろう。つまり―」
「おミツさん!」

演説に夢中になっていたミツヤを、ろんが押し倒した。数舜の間をおいて、ミツヤのいた空間に黒い刃が渦を巻く。

「お…おやおや、助かったよ、ろん。悪いね」
「この前助けてもらえたからお相子ってことで…」
「ではそうしようか。――しかし、な。人の話は最後まで聞くものだよ?」

服についた埃を払い、目の前にいる何者かに言葉をかけるミツヤ。ソレは、灰色の髪をもつ白衣の男であった。

「アタシの身体は?」

にもかかわらず、その口からは少女の声が発せられていた。

「声の正体は君か。幽霊の正体見たり、という奴かな…いやしかし女の子ですらなかったとは。ここは女子校―いや、その顔…」
「ァ…アア素晴らしい素晴らしいとも!ワタシは成ったのだ為したのだ悲願を偉業を渇望し続けた日々は無駄ではなかったと!」

タン、と軽い音を立てて男が跳ねた。その■には黒い爪が。少女の柔肌など何の抵抗もなく裂いてしまいそうな、狂暴の具現が襲い掛かる。
 だが、彼女とて魔人の1人だ。その身体機能は人の規格を大きく上回る。振りかざされた黒い爪をひらりと躱し、返す刀でその銃口を男へと向ける。

「――『怪弾(net-a-bullet):ターボ婆』」

白く繊細な指が、無骨な引き金を引く。乾いた炸裂音とともに音を食い破る鋼の顎が男へと襲い掛かった。
 彼女の銃はあくまでエアソフトガンであり鉛弾を放つ銃ではない。しかし、此度の弾丸は彼女の持つ弾の中でも特異な性質を有していた。重低音の咆哮を上げながら、突き進むその威容。
 ―それは、バイクに跨った…否、ほとんど一体化を遂げた老婆の姿そのものであった。轟音を伴い突き進む老婆に男は眉一つ動かさず、その口を開いた。

「――ァア、我が偉業を…認めよ!」

まるでテレビにノイズでも走るかの如くざざ、と空間がぶれる。黒い砂嵐が明瞭な形を取るまでに、そう時間がかからなかった。
 それは少女の姿を取った。黒くぼけたその姿でははっきりとわからないが、斧らしきものが握られている。迫るターボ婆を少女は見据え――地を蹴った。同時に噴き出した霧が視界を奪いつくす。
 しかし、夜闇に紛れる怪異さえ正確にとらえるミツヤの眼は霧などで完全に妨害することはできない。彼女の瞳にはしっかりと、両断されるターボ婆の姿が映っていた。

「これは、少々厄介だね?」

次弾を装填するミツヤの目前に、少女が躍り出る。しかし、斧を振りかざした直後に彼女の姿は露と消え、霧さえも一瞬にして晴れた。澄み切った視界の真ん中に、真っ黒な回転する刃が迫りくる。

「うわっ…?!」

間一髪で飛び退くミツヤ。着地と同時に脚首に鎖が絡みつく。男の近くには黒い痩身の人影が。鎖は数秒で空気に溶けたが、生まれた隙に男が獣の如く食らいつく。
 ミツヤめがけて男がその■を振るった。距離にして5mほど、しかし飛来する斬撃がミツヤを切り裂かんとする。

「――『怪弾(net-a-bullet):塗り壁』!」

シリンダーを引き出し、続く次弾を装填しセット。男へ照準を合わせるまでその間僅か0.2、3秒。神がかったその速度により、斬撃が届くよりも幾分早く弾丸は放たれた。床に着弾した弾丸は内に秘めた神秘を現出する。
 その理は、通せんぼ。通行人を幾度となく邪魔してきたかの有名な怪異は、今校舎の床からせりあがる巨大な壁として具現化した。
 固い金属同士がぶつかりあうような音に軽やかな靴音が紛れる。

「キ――ィアアッ!」

一瞬の静寂の後、塗り壁がふっと掻き消えた。待ちわびたと言わんばかりに寄声を上げながら、血のような色の瞳と口を全開にして男はミツヤへと襲い掛かる。塗り壁は有名であるがゆえにその弱点も有名だ。彼の怪異はある行動をとるだけでたちまちに消えてしまう。
 防御を失ったとはいえミツヤの背後にはまだ先に続く廊下が。しかしミツヤは退かず男を迎え撃つ。

「―ちょうどいい、とっておきだ」

シリンダーが回る。躊躇うことなく、ミツヤは引き金を引いた。

「――『怪弾(net-a-bullet):狐狗狸さん』」

大量の小銭がその銃口からショットガンの如くばらまかれた。男の身体へ命中した小銭はその神秘性を展開する。
 狐狗狸さん―その理は、解明。あらゆる質問に応答する低俗霊召喚システムであり、巫女にしかできないことを一般人にできるよう落とし込んだ怪異である。その本来の恐怖は低俗霊が帰らぬ場合にあるが、彼の怪異における本質はあくまで召喚者の質問に答えるという性質にあるのだ。

「――キ?」

がくんと不意に失速し、男が床に倒れ伏す。

「貴重な怪異だが、命には代えられないからね。と、いうわけで君を強制解体させてもらおうか」

腕を床に立て、立ち上がろうとした男の目と口から赤い液体が零れ落ちる。メッキが剥がれ落ちるように、真っ白な肌がはがれていく。
 狐狗狸さんによる情報は、低俗霊であるがゆえに貧弱だ。特定の人物を知る程度なら容易だが、未来視などは不可能だ。しかしミツヤにとってその程度の情報で考察に持っていくことなど朝飯前だった。

「君は人の身でありながら魔人に焦がれ、焦がれるだけには飽き足らず魔人を目指した。そこに人類の新たな雛形を見たんだね。如何なる手段を用いたのかは分からないが、大方魔人の協力を得て世界の理に干渉したんだろう?だが、人から魔人になるなんて大それた現象には当然代償が伴う。
 君の場合、代償として人の肉を喰らう魔物となった上に理性まで失い狂気に堕ちたんだね。その原理は未知だが、君自身はとてもわかりやすい。人類にあらず、魔人にあらず。どちらにもなり切れなかったどっちつかず。――元をただせばただの人間だろう」

朗々と語られるその言葉は、真実から作り出されたものであるがゆえに強烈に、鮮明に、惨ささえ感じられるほどに男の本質を解体した。
 床に落ちた赤い液体は渦巻く黒い光となり、ミツヤの手元へと収束する。

「教会識別名称『ツェルベルスの喰魔』…いや、君にこの名はふさわしくないね。
 ――『解談(ネタバレ):オイゲン・ザヴォイエン』、それこそが君の名だ。ツェル先生?」

男―オイゲンは答えない。ただ、真っ白だった肌はひび割れそこから褐色の肌が顔を覗かせている。

「ツェル…先生?せ、先生だったの?」
「そうだよ。彼は前学期までのALT兼保険医だった人物だ。話の通じない御仁だとは思っていたが、まさか狂っていたとはね。あ、出てきたということは食べるのかい?」
「ち、違うよ!…なんか、この前みたいな強い衝動には襲われないんだ、私…うん、あれって多分一時の迷いみたいなものだったんだよ」
「そうかなあ?まあ、それはおいおい判明させていくとしてだ。キミが食べないのならボクが処理させてもらうよ」

銃の射程範囲ぎりぎりまで離れ、ミツヤは銃口をオイゲンに向ける。―その、刹那。

「何故」

今までの声とは全く違う、酷く枯れたような声が廊下に響いた。ミツヤの目の前でオイゲンが起き上がる。

「おっと」

ミツヤは躊躇なく引き金を引き、内に秘められた怪異を解放する。

「――『怪弾(net-a-bullet):人体発火現象』」

不可視の弾丸が、オイゲンへ迫る。対し、走る空間のノイズから人影が飛び出した。警官姿の影は手にしたナイフを一閃し、不可視の弾丸を断ち切った。同時に込められた怪異は解き放たれ、人影を焼き尽くす。
 しかし燃え尽きるより先に人影は消え、炎だけが空間を焦がした。

「何故、私の狂いを解き放った?何故、私の怪物性を奪ったのだ?」
「何故も何も君が襲い掛かってきたからだろう?私は黙って殺される趣味は持ち合わせていない。まだまだ、解き明かしたいことが山ほどあるんだからね。なんだ、まともに喋れるじゃないか」
「君の所為だ。人は人のままでああも狂うことはできない。私は確かに魔人になる過程で喰人種(イーター)へ変性した…だがそれだけでは狂えない」

オイゲンの瞳がミツヤを見据える。白目まで赤く染まっていた眼は正常に戻り、瞳のみが変わらず赤を湛えている。開く口からは鋭い牙が顔を覗かせていた。それは、彼が未だ喰人種(イーター)であることの証左である。

「人としての理性を携えたまま人を喰らうことなどできるわけがない。だが、そうしなければ私は生き永らえられない。故に、私は人であることを棄て怪物に成ったのだ。怪物と成り果て狂う道を選んだのだ。幸いにも喰人種(イーター)は疑似的な不死を体現した存在であったのでね」
「正体不明…はこの町で君の真名を、君の過去を、君の功績を知る人がいないから疑似的な再現ができているな。では、言語はどうしたんだい?」
「一度失った。否、失わせた。祖国の言葉は既に忘却の彼方だ…だがそれでは未だ不完全な怪物だ。現に、こうして私は土地に根付いた記憶を媒介に言語を会得している…ただ、人の言葉を理解せずに発するなど怪物ではない。それは獣だ」
「つまりさっきまでのよくわからない奇声はただのポーズだったのかな?」
「否、である。私の狂気は正体不明、言語不知、不死性の総てが重なり発生したものだ。正体不明が君に明かされた時点で狂気は消える。それだけだ」

オイゲンは嘆くように頭を抱える。

「結局私は怪物のふりをした獣であったわけだ…そのヴェールさえ君が解き放った。私の正体を詳らかにし、この土地に刻んでしまった。君の言葉は君の想像以上に世界へ干渉する、自覚したまえ」
「理解したうえでボクは君たちを解体してるんだがね?」
「そうか。であるのなら問題は無かろう。―とはいえだ、君には責任を取ってもらわねばな」

ヴン、とブラウン管テレビの画面が付くような音とともに、黒い人影が出現する。

「私は未だ喰人種(イーター)…人を喰らわなければ生きられぬ人の劣化品だ。にも関わらず君は私の狂気を取り払った。狂わなければ人も喰えぬ我が身は、既に残り時間がない。…これ以上怪異を解体されては困るのでな。早々にこの学園から退散してもらう」

人影が床に手を叩き付けると同時にミツヤのもとまで一直線に灼熱の液体が走る。それが熱により融解した床であると気付いた瞬間、泡立った液体の一部が跳ね上がった。
 びしゃりと健在な床に融解した液体がまき散らされた。しかし液体はミツヤにかかることなく、ミツヤはオイゲンへ鋼の顎を向ける。

「何故怪異を解体されたくないんだい?」
「私にとって会わなければならぬ者がいる。彼女もまたこちらよりだ、君の認識で捏造されては困る。それだけの話だ」
「そうかい。ボクも未知を解明する欲求がある、それだけのことだ」

先ほどから、人影の出現に一定時間のタイムラグがあることをミツヤは把握していた。そして、オイゲンを解体して得た怪弾は不可視の黒い刃。即ち、怪物の彼から摘出された神秘性はその能力である。現状怪物ではない彼にその力は行使できない。

「――『怪弾(net-a-bullet):」

隙潰しの一撃が来ない、その瞬間に、最大火力の神秘を叩き込む。

「コト――』」

しかし、ミツヤの言葉は最後まで続かなかった。引き金を引く前にオイゲンが一瞬で、ミツヤに肉薄したのである。
 速さを極限まで高めた掌底が、ミツヤの胸部へ叩き付けられる。打撃の瞬間に乗せられた全推進力が、内部まで衝撃を送り込んだ。喰人種(イーター)としての強靭な肉体は健在であるため、魔人であれ耐えられるものではない。
 宙を舞ったミツヤの身体が落下する。自らの解体により停止しない怪異…その特異性に、彼女は急いた。普段であれば問題にならない程度の動揺、だが、オイゲンがただの怪異ではないことが災いした。

「君は、彼女の友人か。病院にでも連れていくといい、早くしたほうが―」

オイゲンの言葉を最後まで聞かずに、ろんはオイゲンに喰らいつこうとした。

「成程。混ざりものである私には弱い衝動のみを抱く故に耐えられたわけか。だが…」

その体は中途で止められた。オイゲンの手が、彼女の首を掴み窓ガラスへ叩き付けられていたのである。

「捕食被食の序列は見極めるようにしたまえ。ふむ、君は純粋に人ではないようだ。今の私でも、餓えと乾きを満たせよう」

艶やかな首元に、オイゲンは歯を突き立てる。血液が流れ落ち、啜り切れなかった分が制服にしみこんでいく。

「い…や―――!」

悲鳴には気を留めず、オイゲンは肉を少しばかり齧った。丁寧にそれを咀嚼し飲み下す。既にろんの意識は切れていた。どうやら過呼吸で意識を失っただけのようだ。
 動かなくなったろんを廊下の柱にもたれさせ、白衣の裾で口元を拭った。少々汚らしいが、構わない。どうせ永くない命だ、後のことを考える必要はないとオイゲンは自答する。

「―さて、私の肉体は彼女が所在を知っているはずだが」

少女2人を後に、オイゲンは月光の下歩き出す。

「しかし人肉というのは不味いものだな」


最終更新:2022年10月16日 19:54