【芸術室エリア】その2

「ダイイチのカイダン:ツェルベルスの喰魔」



「くそ、これはボクの手に余るぞ!」

 日本人形めいた少女が夜闇の回廊を駆ける。

「まとっている『畏怖』はわかる。世界一有名な地獄の番犬――が、これは、それだけじゃない。『核』にはまた別の大きな『物語』がある。下手に一部を解体すると逆効果――クソぅ、情報(ピース)が足りない!」

 焦り。苛立ち。怒り。
 整った顔立ちに似つかわしくない感情を浮かべ、彼女は『獣』から逃げていた。

異教(ギリシャ)の怪物を十字教会が他と連携せずに断罪しようとした理由はなんだ? 名には意味がある。『英語(ケルベロス)』でなく、『独語(ツェルベルス)』であるのなら、そこに必然性――ギリシャ神話の三つ首の獣以外の意味が――」


 えーんえん。

『ヒト   未練    ?   に、怪物  の 場所 ある  ?』

                えーんえん。

『ヒトの営み ヒトの足跡 ヒトの抵抗      ワタシが求め も  れば』

          えーんえん。


 少女の思考を、夜の廊下に反響する無数の音が乱していく。

「取り込んだものの声と姿を模して、新たな被害者を誘う。確かに効率的だ。人道的観点を無視すればね!」

 追いつけば牙に喰い殺される。
 立ち止まれば黒い刃と化した腕に斬り殺される。
 もはやこの廊下は、獣の狩場。黒の地獄。

 それでも、少女の瞳は、絶望に染まってはいなかった。
 向かうのは、習字実習室。


 もう少し。あと少し。足よ止まるな。

 赤子の声も。意味ありげな言葉も。
 今は、逃走を阻む『獣』の攻撃に過ぎない。

 何が聞こえても、少女は足を止めることは――


『アタ……シ……の身体は?』


 ――ない、はずだった。

「……そうか」

 聞き覚えのある声。ほんの少し止まった足。

 それで、『獣』には十分だった。
 先回りするように彼女を、黒の刃が取り囲む。

「キミも、喰われたのか。『ツェルベルスの喰魔』に」

 少女はリボルバーの銃口を自らのこめかみへ突きつけた。

 刃の包囲は無数の牙となり、黒の靄を帯びて、獲物へと押し寄せる。
 かくて、『獣』は銘に違わず、伝説を体現する。

「――『怪弾(net-a-bullet):■■■■■』」

 地獄の番犬、ツェルベルス(ケルベロス)

 地獄から逃れようとする哀れな魂をこそ屠る番犬が、かの獣の銘であるのだから。



 /      /      /



 黒の回廊を斜めに裂くように、銀の軌跡が無数に走る。

          えーんえん。

 こびりつくような、子供の泣き声。
 だが、『獣』への攻撃の手は緩まない。

 えーんえん。

 金属音、子供の泣き声、血の匂い、黒い回廊。

 姫代学園、芸術棟。
 美術室や音楽堂、書道や美術のための部屋が集まった別棟は、今や戦場だった。

 息を殺してここまでの事態を整理する。

 私、ろんは、おミツさんとの待ち合わせで、夜の芸術棟を訪れた。
 生徒たちの間でささやかれるようになった新しい怪談の調査のためだ。

 だが、そこにおミツさんはおらず、また、芸術棟の廊下は異界然とした漆黒の回廊へと変わり果てており、私は『獣』に狙われた。
 おそらくは『トイレの花子さん』と同じ、追いつかれれば致命的な事態を迎える狩猟者。

 逃げども芸術棟にあるはずの出口は見つからず、廊下をさまよっている中で、突然、『それ』がやってきたのだ。

 漆黒の平祭服(キャソック)
 両の手には、十字架を模した銀の細剣。
 エクソシストめいた恰好の男性は、こちらを一瞥することすらせず、私を追っていた『獣』に向けて細剣を投擲した。

 それが、今降り注いでいる銀の雨の正体。

「――Amen(かくあれかし)

 闇を、銀光が弾け、照らす。
 突き立てられた細剣を繋ぐように光芒が円を描き、中心にいた『獣』を縛った。

 エクソシストの攻撃によって、廊下の奥に照らし出されたのは、一人の男の姿。

 見た目は灰色の髪を持つ長身痩躯の紳士だった。
 長い白衣をまとい、風体は理知的にも思える。

 けれど、瞳を見た瞬間、私は理解した。
 アレが、私を追っていた『獣』だ。

 血走った目ではない。血そのものの瞳。

 ひとをくうもの。

 どくり、と、私の中で何かが蠢いた。

「――断罪対象No.2022B0382 識別名称、『ツェルベルスの喰魔』」

 私を助けてくれたエクソシストと、銀の輝きで縛られた白衣の『獣』とが向かい合う。

「特性は『捕食再現(ネガティブイメージ)』。喰らったモノの声や姿――時には魔人能力までも再現する異能」

 確かめるように、私に説明するように、エクソシストは静かに口にした。

「アラベルとは特に親しかったわけじゃないが。断罪者殺しを放置じゃ、教会のメンツに傷がつくって話らしい。鉄砲玉にはたまらんが、これも仕事だ」

 束縛された『獣』と注意深く距離を取りつつ、エクソシストはスキットルの蓋を開け、床に液体を撒く。聖水というやつだろうか。

 えーんえん。

 哀れみを誘うように子供の泣き声が響く。

「――諸聖人および霊父に向いて 我は想いと言葉と行いとを以て」

 だが、エクソシストは動きを止めない。
 ここに自分一人しかいないかのように、淡々と作業を続ける。

          いやあ……もう、やだあ……!

 絶望に染まった少女の声が響く。
 さまざまな言葉、口調を模して、『獣』は男の同情を買おうとする。

「――多くの犯せしことを告白し奉る」

 それでも、エクソシストは揺らがない。
 聖水の円で『獣』を括り、男は足元に燭台を立てた。

 ろん! 来るな! これはキミと――

 無数に投げかけられる残響の中、私は、覚えのある声を聞いた。

 おミツさんだ。

 エクソシストは言った。
 この『獣』は、「喰らったモノの声を再現する」と。

 かさり、と小さな音がした。
 聖句を詠唱している男性は気付いていないようだ。

 音の元は、廊下の隅に転がった、菓子パンの包み紙。
 おミツさんが好きな、そして、私の名の元になった、メロンパンの包装。

 それが、黒い靄めいた触手にふれたことによる音だった。
 あれはなんだ? 『獣』の分身? 切り離して束縛から逃れた?
 いや、今考えるべきはそんなことではない。もっと、重要なことがある。

 足が震えた。

 おミツさんが?
 喰われた?
 あの、『トイレの花子さん』を前に、堂々と私を助けてくれた彼女が?

 信じない。
 信じられない。
 許さない。
 許せない。

 先ほどまでの、『獣』に対する恐怖が、性質を変えていく。
 体は震えたままだ。だが、それは、底冷えするような畏れから、はじけ飛びそうな怒りへと、理由が変わっていた。

 でも、どうする。
 私には、おミツさんのような異能はない。
 エクソシストさんのような戦力もない。

 それが、どうした。
 勝機はない。正気ではない。正直、なんとかなる気はしない。

 それでも、私は、アレに、一発ぶちかましてやらねば気がすまなかった。

 腰を低く屈め、エクソシストを背後から襲うように迂回する触手を睨む。
 両の拳をゆるく握り、四つん這いに近い態勢で全身をばねにして溜める。

 呼吸を整える。時間が――止まる。

 いしきがたかぶる。たのしい。いける。
 はっけ、ししょう、りょうぎよし。

 何かに突き動かされるように、私はリノリウムを蹴った。
 みしり、と、自分でも信じられないような力で、廊下に亀裂が入る。

 黒い触手へと体当たりし、両の手で掴む。

「――これが我があやまちなり、我があやまち――ッて?! おいおい何だ?!」

 触手はエクソシストへの不意打ちを諦め、私を締めあげようとしなりうねった。

 おそい。

 体が動く。反応する。
 こわいはずなのに、怒りがそれを凌駕する。

 こちらを縛ろうとする黒い靄に、私は、突手のひらを叩きつけた。

 衝撃。

 靄の触手が教室の壁に叩きつけられ、大穴を開けた。

「勘弁してくれ! 何が起きてるかなあ?」

 いける。
 このまま『獣』を――おミツさんを喰らったモノを、私が――

「――魔葬式典・救世主の楔」

 瞬間、私の腕を、どこからともなく現れた大剣が切り裂いた。

 血は流れない。
 皮膚には傷一つない。

 それでも、私の中のなにか――力の源が、両断された。

 体が揺らぐ。
 踏みとどまろうとする足に力が入らない。

 視界の端では、『獣』が銀の光による縛めを破っていた。

「信仰由来の魔人能力すら模倣可能か。いよいよキナ臭い!」

 エクソシストが後ずさる。

 絶対絶命。

 白衣の『獣』の両の腕がぼやけ、黒の靄から、鎌めいた爪の形を取った。

 振り上げられたそれは、私たちの命を刈り取るように――振り下ろされ、

「――『怪弾(net-a-bullet):トイレの花子さん』」

 私は、小さな手によって、壁の穴から教室へと引きずり込まれた。



 /      /      /



 引きずり込まれた部屋は、習字実習室だった。

 が、明らかに様子がおかしい。床にも壁にも一面に謎の文様が墨で描かれ、漠然とした恐怖感を覚える空間ができあがっていた。

「まったく。教会の断罪者までは予想通りだったが」

 私を『獣』から助け出したのは、おミツさんだった。

 彼女の全身には、床や壁面に描かれているのと同じ文様――よく見ると、漢字だ――がびっしりと描かれている。

「ろん。『獣』に残した伝言を聞かなかったのかい? いや、逆効果だったってトコか。ああもう、キミの善性を勘定に入れてなかった。これはボクの失策だな」

 どうやって、彼女は生き延びたのだろう。
 彼女は、あのエクソシストのように真正面からアレと戦って生き延びられるようには思えない。そして、この状況は……

「『耳なし芳一』を聞いたことは? とある盲目の琵琶法師が悪霊に魅入られてね。魔除けの経文を全身に描いて難を逃れるも、書き漏れのあった耳を奪われてしまうという怪談さ」

 そう言って、彼女は自らの耳に触れた。そ
 耳たぶには、血のにじんだ絆創膏がはられている。

「ボクの『怪弾』は、怪談の『畏怖』を再現する。耳なし芳一は、「経文に守られながらも、一晩怪異に脅かされ続ける」怪談だ。その『畏怖』は撃ち込まれたものを常に恐怖で苛む代わり、外なる怪異からの保護も約束する。でないと、一晩犠牲者を脅せないからね」

 耳を丸ごと奪われるのは勘弁だから、墨と筆で自前でも経文を書いてはみたけど、完璧にはいかないものだねえ。
 まあ、体の一部を食い千切られたおかげで、キミに伝言を残せたわけだが。

 言いながら、おミツさんは力なく笑った。
 その全身は、小刻みに震えている。

 命の危機にさらされて、一人で隠れていた恐怖でか。
 あるいは、自分に『怪弾』を撃ち込んだことによる精神的なダメージか。

 とにかく、おミツさんは生きていた。
 そのことに、私は心底、安心した。

「仏教式の経文結界かい。ミッション系とは聞いていたが、姫代の生徒にはそんな心得があるお嬢さんもいるのか」

 声をかけてきたのは、私を『獣』から助けてくれたエクソシスト中年男性だった。

 教室に私が開けた壁は、銀の光で塞がれている。
 どん、どん、どん、と、それを破ろうとしているのは『獣』だろう。
 この空間は一時的に、『獣』に対する安全地帯になっているようだった。

「こんばんは、ミスター。お互い貧乏くじだねえ」
「まったくだ。この齢で夜勤はこたえるよ」

 よく見れば、エクソシストさんは彫りの深い美形のおじさまだった。
 この状況でも茶目っ気のある笑顔で、無精ひげすらお洒落に感じられる。

「山口ミツヤ。怪談の解体を趣味にしている学生だよ」
「おじさんは、ルネ・ロベール。夜の散歩が趣味の仏語教師と言えば信じてくれるかい?」

 ルネさんの軽口を、おミツさんは軽く受け流す。

「だいたいの経緯は把握している。教会が『ツェルベルスの喰魔』を断罪対象としていること、断罪者アラベル・ヴォークランが敗れたこと。断罪者ルネ・ロベール。あなたが派遣されてきたこと」
「詳しいねえ?」

 ルネさんの視線に、剣呑な気配が混じる。

「疑問に思ったはずだ。アレは、『ツェルベルス』――ギリシャ神話の地獄の番犬、ケルベロスの物語の畏怖を力にしたバケモノだ」

 向けられる殺気に、それでも、おミツさんは、一歩も引かない。
 何もできない私は、せめて、彼女の手を握って傍に立った。

「ボクはここに逃げ込むとき、メロンパンを囮にした。”Sop of Cerberus”ってことわざもあってね。かの地獄の番犬はパン――特に、砂糖たっぷりのものに目がない。アレがそのものか、それとも伝承によって変容したものかはわからないが、地獄の番犬の要素を帯びた怪物であることは間違いない」

 廊下に転がっていたメロンパンの袋は、そういうわけだったのか。

「けれど、単にアレがケルベロスのまがいものというだけなら、教会が手を出す理由はない」
「姫代はミッション系、主のお膝元だよ。被害を放置できないのは、当然じゃない?」
「そんな殊勝な理由だけなら、より確実に倒すために他の宗派――特にギリシャ系の能力者の手を借りるはずだ。だが、教会は、アラベルに続いて、あなただけを送り込んだ。つまり――」

 どん、どん、と。
 『獣』が壁を叩く音が強くなる。
 けれど今、おミツさんが戦っているのは、ルネさんだ。

「――アレには、教会にとって、外に知られたくない物語(ひみつ)がある」

 これはきっと、『獣』の物語を解体する、最後のピースを、手に入れるための交渉。
 不滅の怪談を穿つ、銀の弾丸を生み出すための、言葉を使った戦いだ。

「教会は有能だ。無駄に噛ませ役を派遣する愚など犯すはずがない。このままボクらが協力しなくとも、『ツェルベルスの喰魔』は断罪されるだろう。ボクらとあなたを犠牲にしてね。アラベルも、あなたも、確実に『獣』を滅するための合理的な捨て石だ。そういう冷酷さと老獪さがなければ、教会は2000年も人類史の足跡として残り続けない」

 ルネさんの表情が曇る。
 おミツさんの語った内容に、思い当たるものがあったのだろうか。

「ミスタ・ルネ。ボクらは、あなたと生き延びたい。そのために情報が必要だ。断罪者アラベルと、あなたの能力。それでボクは、『獣』の物語を、解体できる」

 逡巡はほんの一呼吸。
 ルネさんは、芝居がかった様子で肩をすくめた。

「降参だ、お嬢さん」

 そして、おミツさんは、情報を手に入れた。
 『獣』を解体するための、最後のピースを。



 /      /      /



 『獣』は、小賢しい結界から、獲物たちが飛び出したのをつぶさに感じ取った。

 撃ち込まれた弾丸によって、全身にノイズが混じっているが、さしたる影響はない。

 『獣』に理性はない。
 『獣』は本能のまま、思考するまでもなくしみついた行動様式と本能に従う。
 だが――その、思考よりも魂の根底に沁みついた行動様式には、戦略があった。

 伝承に塗りつぶされ、時に摩耗し、多くの魂の怨嗟にぼやけても。
 それでも、『獣』には、その核には、軍人としての残滓があった。

 喰らった犠牲者の分身を展開し、迂回させて追い立てる。
 逃走経路を限定し、本体による強襲でトドメを刺す。

 いつかの高揚。いつかの進軍。
 咆哮を高らかにあげ、『獣』は、獲物のいる部屋、音楽室へと踏み込んだ。

 瞬間、夜闇の静寂を、スピーカーから響くチェンバロの音が塗りつぶした。

 Prinz Eugen der edle Ritter,
 wollt dem Kaiser wied'rum kriegen――♪

 軽やかなドラムが、胸躍る振動が、『獣』の足を止めた。
 獲物を前にしながら、血と肉の匂いを感じながらの逡巡。
 これまでありえないことだった。

「『Prinz Eugen, Der Edle Ritter』。ドイツ民謡で、訳すなら『高貴なる騎士、プリンツ・オイゲン』というところか」

 この旋律を知っている。
 この歌詞を知っている。

 『獣』は――その核になった男は、この歌を、確かに知っている。

 『獣』としての本能が、目の前の少女を喰らえと吠える。
 だが、その内側で、これまで数百年眠り続けていた男の意識が、それを止めていた。

「1663年10月16日。フランス貴族サヴォイエン家の分家に、一人の男が生まれた。 

 貴族の次男たる彼には、軍人か、宗教家の道しかなかった。
 男が選んだのは、武門の道。
 しかし、フランス軍はなぜか男を登用せず、男は母国と敵対関係にあったオーストリアに士官した。

 太陽王(フランス)が取りこぼしたその男には、類まれなる武才があった。
 その名が知れ渡ったのは、十字教圏国家へのオスマン帝国による侵略に対する、防衛戦でのこと。

 その武勇は、ワラキアのヴラドⅢ世らと並び、月星章旗(オスマン)に抗う、十字教圏の守り手として讃えられた」

 少女の言葉に、『獣』の中で眠っていた男が目を覚ます。
 物語られている。
 忘れかけた記憶を。
 ヒトであった頃の、あり方を。

 『獣』として、ねじ曲がってしまう前の、はじまりの名を。

「その男の名は――オイゲン・フォン・サヴォイエン。
 オイゲン公子(プリンツ・オイゲン)の呼び名で知られる、オーストリア救国、十字教守護の英雄だ」

 周囲が銀の十字剣に囲まれていることも。
 聖水の輪が描かれていることも。
 今の『獣』――否、オイゲン・サヴォイエンには、見えていなかった。

 自らを包む黒い靄――ヒトを越えるためにまとった、人喰いの『獣』としての伝承――認識により積層した想念の異形が、少女の言葉により剥げていく。

「子も親類もいない彼には、悔いがあった。自らが生きている間は、十字教を、民を守ることができた。けれど、自らが死んだ後はどうだ? ――ならば、自らが永遠になればいい。どうやって? 世には己が強い認識によって理を捻じ曲げるものがいるという。しかし自分にそれはできない。ならば、「無数の一般人の自分に対する認識を収束させれば」自らを、ヒトを越えた何かにできるのではないか?」

 ああ、いつか。
 そんな想いを、抱いていたような、気がする。

「かくて、生まれたのが『獣』。
 聖人を核にした人造怪談『ツェルベルスの喰魔』。

 涜神の人喰獣としての側面。
 護教の信仰者としての側面。
 民を愛す仁君としての側面。

 三つの頭をもって、永遠を生きる、地獄の番犬」

 永遠に、教えと、国を守りたいと。
 ヒトを愛し、ヒトの歩みを、永遠に見届けたいと。

「断罪者、アラベル・ヴォークランの魔人能力、『崩落魔殿』は、無効化されたんじゃない。彼女は人喰獣としての頭を潰した。けれど、『獣』は残る2つの頭で活動していただけ。そして――」

 栄光を讃える音楽が高らかに響く。
 自分は、その、救いたいと思った、自分を讃えた者たちをこそ、喰らってきたのに。

 それは罪だ。
 それは、たとえ、ヒトに対する愛であっても。
 ヒトを高みに押し上げようとする進化の過程であっても。

 間違いなく、罪だった。


 ――諸聖人および霊父に向いて 我は想いと言葉と行いとを以て

 ――多くの犯せしことを告白し奉る。

 ――これ我があやまちなり、我があやまちなり、我がいと大いなるあやまちなり。

 ――願わくは全能にして慈悲なる主、われらをあわれみ、罪の赦しを与え給え。


 『ツェルベルスの喰魔』――オイゲン・サヴォイエンの心中を代弁するように。
 奇しくも、断罪者ルネ・ロベールが詠唱するのは、罪の告解を意味する聖句だった。

 ただしそれは、かの断罪者が、罪深き己の能力を行使するための安全装置(セーフティ)であったが。

「『原罪代贖(ロンケー)』」

 『獣』の脇腹に、断罪者の男の手から伸びた光の槍が突き刺さる。

「断罪者、ルネ・ロベールの『原罪代贖(ロンケー)』は、聖人と呼ぶべき信仰をこそ殺し――信仰者としての頭を潰す」

 それは、かつてゴルゴダの丘でなされた、神の子殺しの再演。
 聖なるをこそ、贖罪の代行として殺す、罪深き異能。

 十字教の守り手としての側面、信仰による加護が剥奪され、『獣』の、二つ目の(あたま)が消滅する。

 しかして、ツェルベルス――地獄の番犬は三つ首の獣。
 まだ『獣』は生きて、一つ首が牙を剥いている。

 だが、オイゲン・サヴォイエンは、目の前に立つ少女が、自分の死であることを理解していた。

「――あとは、ボクが解体しよ(バラそ)う。あなたの、人としての物語を。あなたの孤独を、語ろう」

 その手のひらに、赤黒い血のようなほの昏いものが収束していく。

「性質は、捕食と再現。動機は愛。フランスに生まれながら、その晩年はフランスを害する運命に翻弄され――おそらくそこから、ヒトを愛し、ヒトを害する獣になりはてた、人喰いの怪談を――」

 吸い込まれるように、『なにか』が、彼女の元へと集まり――

「――『解談(ネタバレ):ツェルベルスの喰魔』」

 かつての英雄が、喰人種(イーター)として過ごした幾百の時――286年間の彷徨。

 それは、小さな弾丸となって、終わりを告げた。




 /      /      /



 芸術棟の裏。
 私とおミツさん、そして、ルネさんは祈りを捧げていた。

 何も埋まっていない場所に、知らない人が見ても気付かない小さな石の墓標。
 数知れない『獣』の犠牲者を悼むにはあまりにも小さな、けれど、それ以上許されない、精一杯の弔いだった。

「――怪談の犠牲者はね。いつも「見知らぬどこかの誰か」でなければいけないんだ」

 ぽつり、とおミツさんが呟いた。

「犠牲者が、見知った誰かだったら。――ギャルのクセに怪談に興味を持って、怪奇マニアの変人に話しかけてくるような誰かだったとしたら――そこに抱く感情は、恐怖でなくて、復讐心や、怒りになってしまうからね」

 その視線は、小さな墓標に据えられたままだ。

「だからボクは、怪談が好きだ。人をこわがらせても、傷つけない、おはなしが好きだ」

 色々な怪異を解体してきた、おミツさん。
 信仰の敵と戦ってきた歴戦の断罪者、ルネさん。

 きっと二人は、私と違って、多くの死に向き合ってきたのだろう。
 だから、彼女が、彼が、何を思っているのか、涙も流さず、墓標を見つめているのか、想像することもできなかった。

「オイゲン・サヴォイエンは、芸術のパトロンでもあった。彼の屋敷には、支援を受けた若い芸術家が集まっていたという。――芸術棟に巣食ったのは、その頃の思い出があったからかもしれないね」

 おミツさんの言葉に、ルネさんは口元を歪めた。
 笑っているようにも、嘆いているようにも見える表情で、彼は祈りの言葉を繰り返した。

 ――Amen

 かくあれかし。
 信仰の守り手としての、偉大なる先達に捧げるように。



 /      /      /



『断罪対象No.2022B0382 識別名称、『ツェルベルスの喰魔』。
 日本国第八十二管轄区内、学校法人姫代学園にて処理。

 断罪者アラベル・ヴォークランの『崩落魔殿』が無効であったため、対象に信仰属性防御が存在する可能性を鑑み、ルネ・ロベールを派遣。

 ■月●日、姫代学園芸術棟にて対象と接触。
 対信仰属性特効魔人能力『原罪代贖(ロンケー)』を行使。

 命中するも、活動停止には至らず。
 しかし、直後、別の土着怪異により、対象は『捕食』され、存在消滅。

 現在姫代学園では、土着怪異同士が喰らい合う謎の現象が発生しており、対象はそれに巻き込まれて消滅したものと思われる。

                   ――断罪者ルネ・ロベール、記。』


 古びた万年筆――『獣』の遺品を置く。
 教会への報告書をそれで記すことは、ルネにとって、ささやかな意趣返しだった。

 オイゲン・フォン・サヴォイエン。
 かつて信仰の盾であった敬すべき祖。

 教会が身内でカタをつけようとするのも当然だ。

 プリンツ・オイゲンといえば、オスマンから十字教圏の文化を救った、聖人にも準じる英雄である。そんなものが、異国の信徒を喰い殺しているとあれば、一大スキャンダルだ。

 ケルベロスでなく、ドイツ語風の『ツェルベルス』と名づけたのも、教会が彼の正体を把握していた何よりの証拠だろう。
 オイゲン公はオーストリアの将軍で、何より、第二次世界大戦のツェルベルス作戦といえば、戦艦プリンツ・オイゲンにまつわる有名な軍事作戦だ。

 記録に残したのは明確な虚偽。
 だが、彼を信仰の恥部として斬り捨て、身内を捨て石にしてまで隠蔽するお偉方に、正直な報告をする義理を、ルネは感じなかった。

 教会の筋書通りなら、ルネは『獣』の二つ目の頭を潰したところで、殺されるはずだったのだ。人喰獣が聖人であるという不都合な真実の、口封じも兼ねて。

『真相は藪の中。断罪される側に回りたくなければ、『獣』の正体に関する真相は、ボクらだけの秘密だよ、ミスタ・ルネ』

 断罪者ルネは、あの夜に出会った『獣』狩りの協力者を思い返す。

「大したお嬢さんだ」

 たったひとり、まるで、親友と一緒であるかのような気楽さで、『獣』と向き合い続けた、その表情を。

 そんな連想に、ルネは首をひねる。

 いや。もしかして、まさか。
 彼女は、本当に、誰かと一緒だったのか?

 ルネはあの日、山口ミツヤという少女と、たった二人で『獣』に立ち向かった。
 そのはずだ。

 だが、彼女は――ルネには見えない『何か(・・)とも(・・)共闘していた(・・・・・・)

 『獣』との戦いの途中、唐突に壁に開いた穴。
 自分が駆けつける前の、独り言には大きすぎる、ミツヤの独白。
 たびたび何もない虚空に向けられた、彼女の何かを気遣うような視線。
 あの夜に起きた、いくつかの不可解な現象が、ひとつの仮説を浮かび上がらせる。

「――まさか、ねえ」

 姫代学園。
 謎の怪異が跋扈する、異境と化している場所。

 じわりと滲んだ気味の悪い想像を振り払うように、ルネは強い甘薬草酒(パスティス)を呷った。



 /      /      /




 くちゃり。
           えーんえん。
           ぴちゃり。
                           ぞぷり。
        ぴちゃり。
                 えーんえん。


最終更新:2022年10月17日 19:04