【プール棟】その2「怨故知神」

 残穢とは、場所ではなく感覚に根付くものだ。

 暗い部屋。まぶたの裏。墓地に火葬場。
 笑い声。足音。衣擦れ。静寂と家鳴り。

 それを視る、聴くことで、人々は意味を与えようとする。
 良からぬものが、そこにいる、と。

 すなわち、存在があって観測される、のではなく。
 観測されることで存在する、ということ。
 信仰によって輪郭を得るというのは、神や地獄にも等しい特性だ。

 つまるところ、怪異と呼ばれる多くの存在は、土地やモノに憑くのではなく。


 あなたの、認識の中に、産まれ落ちる。


 彼らは、待っている。
 あなたが視るのを。あなたが聴くのを。

 だから、その条件を整えやすい場所に、あなたの意識を連れて行く。
 無意識に視線を泳がせて、耳をそばだてるような場所。
 己の存在に気付いた人間を見つけて、仔犬のようにすり寄ってくる。

 そして、問うのだ。己の存在を。私は、ここにいるのか、と。

 彼らはずっと、潜んでいる。
 あなたの視界の隅。あなたの鼓膜の奥。
 卵を産み付けるように。幼生を孵らすように。

 もしも、あなたが気付いたことに、彼らが気付いたのなら、












 くぅーん。













 今、聞こえないふりをした?












◆◇◆◇




 不気味な犬だ、と思った。

 榑橿を旧校舎に置き去り、市街地で適当な不良を脅かした後、遠上多月は帰路に就いた。
 時刻は午後六時過ぎ、人気のない高架橋の下。
 轟々と、唸りを上げる鉄道が、サラリーマンを乗せて頭上を走っていく。
 逃げ出した不良たちの捨てていったタバコの火を踏み消したところ、列車の走行音に交じって、悲鳴のような鳴き声があがった。

 もちろん、踏み潰されたタバコが鳴いたのではない。
 近くに、仔犬でもいるのだろう。

 姿は視えないものの、不気味な犬だ、と思った。

 俗に、奇形、と呼ばれる先天性の外形異常。
 それを伴って生まれる野生動物というのは、珍しくない。

 母体の栄養失調、多産の末子には、特に多く見られる。
 殊に、顔や四肢に異常が表出した場合、生後まもなく死に至るのがほとんどだ。そのうち、口唇裂と呼ばれるものは、唇や上顎に亀裂が入って、顔の下半分が裂けてしまうという。

 動物を愛でるのは、彼らの外見が愛おしいからだ。
 もしも、顔が中央で裂けた、その異貌を見た時に。
 ヒトは、それでも変わらぬ愛情を、注げるものだろうか。


 否、断じて否であると、遠上多月は断言する。

 己が身を以て、それを知っている。


 或いは、庇護欲を掻き立てられる博愛者もいるだろう。しかし、視覚の発達した人類にとって、外形の異常を嫌悪するのは本能的な感覚だ。他と違うというのは、それだけで生を阻害する要因になる。

 “この犬” も、

 弱者として、餌として、異物として。
 何度も、虐げられたのだろう。

 死体の朽ちる過程を描き表した著名な仏教絵画『九相図』の読みは、『糞渦』にも通ずるという。死を想起させる腐乱を、人類は糞便のごとく忌み嫌い、汚がり、そして、恐怖する。

 糞便と紛うほどの、歩く死体すらも、愛して守ろうとするのなら。
 それはもう、人身に及ばぬほどの義心を持て余した、善人という名の異常者だ。


 或いは、そんな善心の少女が、この犬を保護して匿った。


 それは、同情から生まれた優しさだ。
 己と同じく、望まれぬ生を受けた、酷遇の仔犬だと。

 守ってあげたい。だって、自分も守ってほしいから。
 でも、鳴き声をあげれば、大人に見つかってしまう。
 見つかったら、穀潰しはいとも容易く、捨てられる。

 だから、鳴かないように、と。その喉を、潰したのだろう。

 少女の優しさによって潰された喉からは、土の底から響くような、不細工な声ばかりが出るようになった。




 そこまで思い至って、ふと我に返る。

 なぜ、自分はこれほど、この犬の境遇に詳しいのか。
 センチメンタルな想像力を働かせたというだけでは、理由には足りない。





 くぅーん。





 鳴き声が、近づいている。
 ちいさな声なのに、列車の走行音を裂いて、はっきりと耳に届く。

 そこで、ようやく、

 遠上多月は、自身がずっと同じ場所で立ち止まっていることに気付いた。
 意を決して、背を振り返る。



 くぅーん。



 脳裏に浮かんだ姿と寸分違わぬ、今にも死にそうな腐乱犬。
 毛はあちこち剥げて、右目は腐り落ちたのか、眼窩が落ち窪んでいる。


「……なんじゃ、何か用か」


 くぅーん。


「近寄ってくるな。食い物は持っておらぬ」


 くぅーん。


「やめよ。見かけが似てるからと、仲間と思うな。食らうてしまうぞ。しゃーっ!」


 くぅーん。


「……お主のその姿を前にしては、異貌の迫力も型落ちじゃな」

 不気味で貧相な、死に体の仔犬。
 撫でたり、抱き寄せたりはしない。
 中途半端な同情はかえって動物を苦しめるなどと、お為ごかしのためではない。

 ただ、自分に出来ることはない、と思った。

 腹ごしらえを施すことも。
 病院や保健所に連れて行くことも。
 やろうと思えば、出来るだろう。だが、無意味なことだ。

 このまま野垂れ死ぬ以外、他の結末を用意するとして。
 わずかばかりの満足感か、虚無を得て、それで終いだろう。


 優しさというのは、消耗品だ。


 おそろしき先代の巫女曰く、当代の巫女―――すなわち、遠上多月の母親は、それで磨り減ってしまったという。博愛は、無尽蔵の湧き泉ではない。施しただけ、自分を削るもの。だからこそ、使いどころを選ばなくては。その教訓を、耳にたこが出来るほどに聞かされて育った。



 くぅーん。



「……ちっ」

 祖母を思い出して身震いするあいだにも、仔犬は近づいてくる。
 見てみぬふりをするのに、横を抜けるのもバツが悪い。

 引き返そう。
 回り道にはなるが、住宅街を抜けて帰ればいい。



 くぅーん。



「ええい、付いてくるな!」

 寂しそうな声を背に、踵を返す。
 早歩きにもよらず、犬の声はすぐ後ろにあった。

 全力で走って、振り切るか。

 本来、犬の速度に、人類が適うべくもない。
 だが、こちらは曲がりなりにも魔人で、相手は死にかけの仔犬だ。

 ひとつ、息を吐いて、

 次の瞬間、地面を蹴り出した。




 くぅーん。




 まだ、ついてくる。しつこい犬め。
 だが、確実に、声が遠ざかっている。





 くぅーん。





 とはいえ、持久戦だ。
 学園指定の革靴は、長距離走には向かないらしい。






 くぅーん。






 いざという時に走りにくい靴を、登下校に指定する意味はあるのか。
 文句を垂れつつ、背中に意識を凝らす。







 くぅーん……。







 気づけば、ブロック塀の並ぶ、見通しの悪い住宅街だった。
 自宅は近い。角を曲がって、細い路地を抜けるルートを。

 視界からいなくなれば、仔犬とて、諦めも付くはず。







 角を曲がった、目の前に、


 その仔犬は、佇んでいた。







「……、あ?」


 くぅーん。


「迂回路を選んだ、か? 小癪な、やつ」


 くぅーん。


「ちょっと、待て。息を、ハァ、整えるから」


 くぅーん。


「……ったく、何じゃ。目的は、 」



 そこで、

 遠上多月は、気がついた。



 姫城学区の市街地は、複雑に入り組んでいる。
 逃げ道のルートはひとつだけではない。
 嗅覚にも優れる犬のほうが、追いものは有利だ。

 すり寄ってくるわけでも、威嚇をするわけでもなく。
 ただ追ってきて、その場に佇んでいる。

 その意図は、何か。

 ふと、アスファルトに座り込んだ、その仔犬の姿が、
 まるで、道を塞いでいるかのように、視えた。



 ……振り返る。




「は、 」


 驚いたのは、
 振り返った先にも仔犬がいた、からではない。

 電柱の数。古びた道路標識。そして、犬。
 振り返る前と寸分違わず同じ景色が、そこにはあった。


 もう一度、ゆっくりと、振り返る。


 くぅーん。


 電柱。道路標識。そして、犬。
 変わらない。まるで、鏡合わせの景色の真ん中に、閉じ込められたような。


(……じゃあ、真横を向いたら?)


 熟考するよりも、先に。
 好奇心が、遠上多月の足を動かした。





 壁。





 前も。後ろも。

 ブロック塀の壁が、塞いでいる。
 いや、それは当たり前だ。道路の真ん中で横を向けば、正面と背を壁が挟む。

 当たり前、ではなかったのは、

 横を向いた、その瞬間。
 まるで、彼女を覆い囲むように、世界が閉じた。

 魚眼レンズを覗き込んだように、筒状のブロック塀が並ぶ。
 右を見ても。左を見ても。振り返っても。いつのまにか、仔犬はいない。


 くぅーん。


 人を見かけで判断してはいけない、というのは自戒だが。

 死に体の仔犬の姿を見て、庇護を求める弱者だと。
 そう決めつけた己の浅慮に、遠上多月は再び、舌打ちをした。

 主命を受けた猟犬の如く。
 獲物の逃げ道をコントロールして、駆り立てるのが目的だったのだ。
 すなわち、これは鬼ごっこなどではなく、狩りであった。


 くぅーん。


 日が暮れて、街灯はなし。
 空を見上げれば、月明かりがかろうじて、こちらを覗き込んでいる。

 まるで、穴に落とされたようだな、と、遠上多月は思った。



◆◇◆◇



 榑橿は、始祖の巫女を「西洋人と交わった蛇婿入り」と定義した。
 その血筋に連なる遠上家は、異邦の末裔ゆえに排斥された、と。

 私の意見とは、異なっている。

 巫女とは、神と交わるもの、という意味だ。
 交わるというのは、子どもを為す、ということ。
 洋の東西を問わず、不変の定義である。


 では、神とは何か。

 問えば、答えは土地によって変わる。


 違いが分かりやすいのは、神の不興による超常現象。
 西洋では、これを天罰という。

 課された使命を投げ出す、怠惰。
 己を過信して涜神に及ぶ、傲慢。

 七欲を犯したことで、罪に対する罰を受ける。
 これは、宗教に道徳教育の役割を担わせるためだ。

 一方で、日本における神の怒りは、祟りと呼ぶ。
 それは、超自然的な存在の恣意による理不尽な暴力だった。

 予防法としてはそもそも近づかない、機嫌を損ねないように謙る、というものばかり。
 道徳教育の役割は、大陸より伝来した仏教が担うことになった。

 従えば恵み、背けば罰する。
 在り方は、西洋の神々と然程変わらないが。

 最大の違いは、客観的な正当性の有無。
 日本人にとって、神とは理不尽な隣人で、更に切り込んで言うならば、


 神とは、不気味なものだった。


 神秘的な威容などではなく、グロテスクな外見や生態で語られることも多い。
 米国に名高きコズミック・ホラーが浸透したのも、その素地があったからだ。
 上位存在による根源的恐怖を訴える神話は、日本の神性観と相性がよかった。


 さて、話は変わるが、

 日本には、古来より強烈な、蛇霊信仰があった。


 この信仰は、表立って掲げられることはなかった。
 蛇霊は執念深い性格で、機嫌を損ねては末々まで祟られるからだ。
 恩恵は授かりたい。しかし、悟られたくはない。

 だから、日本人はその文化の端々に、蛇への信仰を忍ばせた。

 祀る、という漢字は「巳を示す」と書く。
 鏡の語源は、蛇、すなわち「かがち」の「視る」に通ずる。
 更に派生して、鏡餅とは「蛇がとぐろを巻いた姿」に似ているため、その名を得た。

 私達の日々の言葉の端々に、蛇は身を隠して潜んでいる。

 一説には、
 神、という言葉の語源さえ、
 かがちの「身」、蛇のアバターであることに由来する、という。

 なぜ、日本人にとって、神とは不気味な存在なのか。
 それは、蛇霊と類似していたからだ。




 では、

 なぜ、蛇とは、不気味なのか。




 その独特な外形が関わっていることは、想像に難くない。
 遠上の巫女が大蛇と謗られるのを見ても、悪性と異端の象徴ではあったのだろう。

 ところで、

 蛇の舌というのは、果たして異貌と呼ぶほどだろうか。

 現代にも、スプリット・タンの愛好家は少なくない。
 常人より長い、先端の割れた舌。
 不気味がられることは、あるかもしれないが…

 舌というのは、隠された部位だ。
 一見して、異貌の見分けはつかないだろう。

 そうではない。

 生まれて初めて、蛇を見た時に、
 人々が真っ先に抱く印象は、こうだ。



「手足がない」



 すなわち、奇形や欠損を想起させる外見から、不気味とされた。

 民衆を惑わせるというのは、朝廷の立場からの言い分だ。
 ならば、大蛇の舌というのは、後世の信仰による後付けで。
 彼女たちが蛇と同一視されたのにも、別の理由があったのでは?

 ここで、冒頭の話に回帰する。

 巫女というのは、神と交わる贄だった。
 日本の神は、不気味で理不尽な隣人。
 交わって子を為す役は、貧乏くじで済む話ではない。

 或いは、心身ともに成熟した大人なら。
 共同体のため、身を捧ぐ覚悟もあるだろう。

 だが、神の供物に捧げるのは、

 うら若く、見目麗しい、身の清らかな乙女でなくてはならない。
 すなわち、血で穢れていない―――初潮を迎える前の、未成熟な少女だ。

 そんな幼い女贄たちが、神の恐怖に耐えきれるか?
 褥で無礼を働いて、機嫌を損ねたらどうする?

 生贄の孕み袋を捧げるとて、殺してはいけない。
 それは穢れを捧げる行為で、死者に生者を孕むことは出来ない。
 しかし、生かしておくと、何が起きるかわからない。

 では、子を産むのには不要な、身体の部位とは、



 つまり、



 彼女たちには、手足がなかったのではないか。



 逃げ出せぬように、その足を。
 拒まぬように、その腕を。

 四肢を、ばつん、と。

 斬り落とされたのでは、ないだろうか。

 彼女たちは、首が長いのではなく。
 首以外があまりにも短いから、首が長いように見えるのだ。



 しかし、



 四肢を失った女が、健康児を産み落とすのは難しい。
 蘭学によって開化される前、遥かに昔となれば、なおさらだ。

 母体の不健康は、赤子にも影響を及ぼす。
 殊に、妊娠中の発熱や栄養失調は、奇形の要因とされている。

 神にとっても、喜ばしいことではないだろう。
 だから、忌み嫌われた。人からも、神からも。

 そして、

 捨てられた、蔑ろにされたもの。
 そういうものに、この悲鳴犬は懐く。同遇の友、と見ているらしい。



「……ま、懐くといっても、それは犬の言い分であって。実際は、何処にも行かないように、閉じ込めてしまうのよね」



 というわけで、大蛇の巫女を巡る怪談は、此処でお終い。

 めでたし、めでたし。





◆◇◆◇





「……つまり、ここはその『コレクター』とやらの肚の底、というわけじゃな」


 問えば、四肢を鎖に縛られた少女は、ゆっくりと頷いた。
 まるで、斬刑に処される罪人の、頭を垂れるような仕種だった。


「お主、名はなんと」
「パスト、と呼んで」
「本名か?」
「いいえ、でも気に入っているの」
「……ま、なんでもよい。手を貸せ、ここから出るぞ」


 応の返事は、待っても来なかった。


「どうして、外に出なくてはいけないの」
「戻りたくないのか?」

 意思を宿した瞳で、少女は首を振る。

「悲劇にとって、いちばんの不幸って、何だと思う?」

 悲劇にとっての、不幸。
 オウム返しで呟いた遠上多月の意を組んで、少女は言葉を継ぐ。

「終わらないことよ」

 何度も、何度も。
 繰り返し、繰り返し。
 終わりがないから、ずっと苦痛や恐怖が続く。

「それって、怪談と似てないかしら」

 語られること。恐れられること。
 その信仰の連続が、遠上の異貌を生み出した。

 分かるでしょう、とでも言いたげに、少女はちいさく息を吐く。

「ここは、私にとっての終わりなの。安全な、未来のない、停滞した世界」

 傷幸の巫女。禍幸の姫。死なずの首切り。
 その名前に、遠上多月は覚えがあった。
 忍び込んだ書斎で、文献が積まれていたのを覚えている。

「……難儀じゃな」
「あなただって、同じでしょ。不幸を背負って生まれた巫女」
「恐れ多いわ。そりゃあ、余人に見られて困るとは」
「違うわ、その姿のことを言ってるんじゃないの」


 ひと呼吸、挟んでから、少女はおずおずと切り出した。


「遠上の最高傑作、なんですって」





 祖母の言を、なぜ知っている。





「愛する孫に、そんなモノみたいな褒め言葉、送るかしら」

 問おうとしたが、それよりも。
 目の前の少女が、何を言わんとしているのか、続きを聞きたかった。

「生贄に選ばれた子どもや動物って、その年齢に達するまでは、丁重に育てられるの。私は、どうも違ったけれど……人々を恨んで祟らないように、神様に告げ口しないように、って」

「殺す側が罪悪感を和らげるための辞柄じゃな」

「あなたの力を評価するのに、始祖の巫女様まで引き合いに出して。まるで、サンプルと試作品を見比べる研究者みたい」

「そんな、 」

「もう気付いているでしょう」







「あなた、おそろしい蛇の神様に、生贄として捧げられるんじゃないかしら」






 するり、と、


 心臓に忍び込む刃のように、冷たく鋭い言葉だった。





「ならいっそ、ここで終わってしまった方が、幸せでしょう」


 返答に窮する。


「……幸せってのは、不幸にならないことじゃないぞ」
「ええ、相対的な評価よね。言葉遊びなら付き合うわ」


 祖母を尊敬してはいるが、絶対にありえない、と退けることも出来なかった。

 事実、他の姉妹や年齢の近い親戚と比べ、優遇されていた自覚もある。
 一族の歴史には、なにやら血生臭い内輪揉めがあった、とも知っている。

 少女の推測は、かなり的を射ているように思えたが、


「……まあ、構わん」


 それを不幸と断じられるのは、少しだけ不快だった。


「は?」
「生贄となるも、四肢を失って犯されるも、構わん。そういう家に生まれたのなら、な」
「……ふざけてるの?」

 それは、少女にとっての逆鱗だ。
 首に繋がれた鎖が、怒りを代弁するように、軋む。

「昨日までは、それを厭うておったがな」
「昨日って、 」
「それだけの業を犯した女じゃ。家名に殉じよ、と言われれば、私はそうする」
「それは、改変される前の出来事でしょう? 今はもう、 」
「貴様、私が“なかったこと”にしてやるから、人を殺せと言われて、殺せるか」


 今度は、少女が窮する番だった。


「殺されたことはあっても、殺したことはないじゃろ。穢れは、認知に残るものじゃ。なかったことにしても、私の意識からは消えてくれん。報いるためには、せめて遠上の娘として、あるべく生きる」

「……贖罪のつもりなの?」
「いや、というかそもそもな」


 少女の言葉を遮った。

 不躾だが、言葉遊びなら付き合うと、言質は取っている。


「貴様、なかなか罰当たりな言い分じゃぞ。

 私はな、己が善人であるとは、口が裂けても……いや、裂けていても言えん。
 しかし、己の良心について、ふたつ決めている。

 ひとつ、外見を判じることはあっても、外見で判じることはせん。

 容姿の美醜に、手厳しく言うことはある。
 だが、それは基準の一項目じゃ。
 ゾンビのような犬も、バケモノのような用務員も。
 触れ合うのなら、中身と決めている。

 己自身、異貌の女じゃからな。
 相手に求めるのだから、私自身にも義務がある。

 そして、噂を判じることはあっても、噂で判じることはせん。

 蛇の神は、そりゃあ恐ろしかろう。
 恐ろしくない神など、おらん。

 嫉妬深いと、誰かが言ったのか。
 怒りっぽいと、誰かに聞いたのか。
 粗末に扱うと、機嫌を損ねる。ンなもん、ヒトだって同じじゃ。
 貴様自身、蛇の神様に逢うて、その中身に触れたのか。

 勝手に、悪者に仕立て上げるな。

 噂は、噂じゃ。それ以上でも、以下でもない。
 しかし、私らのような存在にとっては、身を焦がされる炎にも等しい。

 というか、憶測ばかりを並べおって、失礼とは思わんのか。

 『あいつと寝るのとかマジ罰ゲームじゃよなwww』
 ……みたいに言われて、そっちのが理不尽じゃろ!

 私が神様だったら、それこそ天罰なり祟りなり下すところじゃ!」


「……ご、ごめん、なさい?」
「謝る相手が違う」


 首を傾げながら詫びた少女に、得意げに言い放った。


「ま、手足を切られるのはフツーにイヤじゃな。とはいえ、それもすべてお主の……いや、『コレクター』とやらの仕業か。そやつの仮説に過ぎん。本当にそうなったら、泣きついてみるわ。それに、あー」

「……それに?」
「いや、その、これは、あんまり他人に言わんでほしいんじゃが」
「だ、大丈夫よ。ここは、私と悲鳴犬しかいないから」
「そうか? いや、その……もしも、もしも私がな、出来るとは思っとらんが、仮に、普通に恋愛とやらをして、愛を育んで、そのままめでたく結婚したとするじゃろ」


「はあ」


「お慕いする殿方と、逢瀬を重ねて子を産んで、価値観を擦り寄せてすったもんだ。その一方で、蛇の異形であると知られぬように隠し続けるのって……その、めんどうくね?」


「めんどう」


「モテないから僻んでいるとか、そういうんじゃないぞ」
「まあ、でも、メリュジーヌ物語みたいな、ね」
「?」
「……鶴女房の海外版よ」

「おお、まあそういうことじゃ。神様に嫁ぐと決まっているのならば、それはそれで恵まれとるんじゃないか、とな。家事や子守もしなくても……いや、一意見じゃぞ、一意見! 前にこれ、掲示板に書き込んだらボロクソに叩かれてな」

「……」

「ま、お主に此処を出る気がない、というのは分かった。ところで、パスト、って西洋風でかっこええが、呼びにくいな。過去、と呼んでもよいか?」

「好きにして」
「じゃあ、過去。聞きたいことが、ひとつある」
「なに」








「ここって、Wi-Fi 通ってるか?」

「知らない」








◆◇◆◇


「どうして」

 スクラップブックを抱えた少女が、瞳孔を開いている。
 たった今、プールの更衣室に潜む怪異を、その書に収めたところだった。

 視線の先には、物語を“終わらせた”はずの、大蛇の巫女。
 遠上多月が、入れ替わりに飛び出していた。

「いや、さすがに電波は飛んでなかったんじゃが」
「は?」
「学園の裏サイトには、なぜか書き込めたのよ。私が干渉しすぎたせいか、怪異化しかけているらしい」

 疑問符を浮かべた少女をよそに、くるり、と見回して、

「ふむ、水場か」

 底意地の悪い笑みを浮かべ、スマホを取り出す。
 その所作に、『コレクター』は言い知れぬ悪寒を覚えた。

 確かめなければならない。
 彼女が、何をしたのか。

「どうして、出られたの」
「さあな、詳しい仕組みは分からん」
「明かすつもりはない、と」

「いや、マジじゃ。まあ、推測でよけりゃあ……

 貴様の能力、倒した怪異を取り込むだけではないな。
 おそらく、条件を満たせば自在に出し入れできるんじゃろ。

 私は、己自身の予定を決め打ちしただけよ。
 【金曜の夜に、学園に忍び込んだ不審者を驚かす】とな。

 出口がなけりゃ八方塞がり、出口があるなら、出られん方が不思議よ。

 どうやって出てきた、と問われてもな。ところで、貴様、ゲームはやるか?」


 返事を待たず、遠上多月はスマホを片手に語り続ける。


「鬼ごっこや絵札合わせと違うぞ。テレビゲームってやつじゃ。
 だいたいどれも、属性だのタイプ相性ってのがあっての。
 最近のガキ共のあいだじゃ、知っていて当たり前の感覚らしい。
 これが、私にはとんと理解できん。雷がなんで水に強いんじゃ」


 要領を得ない言葉ばかりだ。
 言葉を弄して、煙に巻くつもりだろう。

 そうはさせない。仕掛けるなら、こちらからだ。


「書の怪談は、草木に宿る」


 コレクターは、遠上多月に向かって、一歩踏み出すと、


「そして、草木を殺すのは炎である。古からの決め事じゃ」


 手に持っていたスクラップブックを、自ら差し出した。


「  、  は ? 」


「現に、多くの文献や資料が、炎によって失われた」
「なに 、 」
「更衣室の怪について、続報を教えといてやる」


 遠上多月は、スクラップブックを受け取ると、

 たった今、掲示板に書き込んだ投稿を、少女に見せつけた。
 金曜の夜、口裂け女の騒ぎもあったせいか、閲覧数は普段より格段に多い。


「【正体は学外の不審者で、目的はボヤ騒ぎを起こすこと】だった。水場が幸いしてか、【大火事にはならずに済んだ】……【近くにいた匿名の生徒がすぐに消火した】と。ちなみに【火種になったのは、スクラップブックのような形状の本】だそうな」

「やっ、やめ、 」

「その焦り様、やはりこちらが本体か。ところで、ちょっとポケットを探ってみてくれんか。たぶん、ライターかマッチが入っていると思うんじゃが」


 左手が、勝手に、衣服を弄る。

 身に覚えのない、冷たいプラスチックの感触。


「貴様を放置して、また閉じ込められてもかなわん」
「いや、やだ……!」

 冷や汗の浮かんだ、必死の形相と裏腹に。
 少女は流れるような所作で、ライターを灯す。

 遠上多月がスクラップブックを差し出すと、

 亡、と、音を立てて、紙の束が燃えていく。

「あっ、あ、ぁ、 」
「……怪異殺しの怪異か。他人の気がせんな、貴様とも」
「やっ、やだ、やだぁ!!! 消えっ、消える、きえ、 」
「綺麗事を言うつもりもない。だが、せめて見送ってやる。成仏しろよ」

「   、  」


 手を合わせて、黙祷する。
 たっぷり待って、一分と数秒。

 目を開けると、

 スクラップブックのあった場所には、焦げ跡が。
 己の足元には、水をたっぷりと汲んだバケツが。


 そして、


「なんじゃ、お主は」


 一人の少女が、佇んでいた。

 外見は、先ほどと変わらない。
 だが、表情を視るに、別人であることは明らかだった。


「……あれ、私……?」
「語り部として、依代にされたか。何処ぞでスクラップブックを拾ったんじゃな」

 少女をよそに、遠上多月は焦げ跡に水をぶちまける。

「あの、ここ、姫城……」
「あー、知らん知らん。私に関わるな。捨て犬は拾わん主義じゃ」
「っ……す、すみません」



「……」
「……」




「ったく、捨て犬ってのは、たちが悪い」
「え」




「ついてこい、ビニ弁とジュースくらいは奢ってやる。その後は、警察のお世話になるんじゃぞ」








最終更新:2022年10月30日 21:51