【図書館】その2「ソノゴのカイダン:スリーバイン様」
彼はこどもである。名前は、まだない。
ぎゅるぎゅるとすらなくことのない、やや厚ぼったいおなかをかかえ、
せまいすみつこのなおかたすみで、しずかにちいさくころがつている。
どうんどうんと音が鳴る。太鼓のように何かが響く。
空から降ったおほしさまは、集めた景色をこどもに見せる。
それは例えば夕暮れ時。
ボールを投げて、それを追う。こどもの姿がそこにある。
ゆうやけこやけで日が暮れて、こどもはとうに帰る時分。
もう少し、もう少し。遊んでいたい思いがある。
それは例えば駅のホーム。
スマホ片手に電車を待つ、サラリーマンがそこにはいる。
黄昏時の満員電車。ラッシュに揉まれ運ばれる。
夢を見て、夢を見て。妥協した果てがそこにある。
無念に思う気持ちがある。
残念に思う気持ちがある。
それが何かと問われれば、言葉にしがたい想いがある。
諦めさって消えていく、強いて気持ちに名付けるならば、それは未練と呼ばれている。
『これ』はおそらくそういうものを、集め、眺め、彼が見るためだけの異能である。
空から降ったおほしさまは、集めた景色をこどもに見せる。
どうんどうんと音が鳴る。太鼓のように何かが響く。
ぎゅるぎゅるとすらなくことのない、やや厚ぼったいおなかをかかえ、
せまいすみつこのなおかたすみで、しずかにちいさくころがつている。
彼はこどもである。名前は、まだない。
/ / /
「ねえ、知ってる? スリーバイン様の話」
「なにそれ、なんかヤバげな響きなんだけど」
曰く。彼氏に振られたとき。
曰く。大事なものをなくしたとき。
曰く。昨日まで一緒だった、友だちが、■■に殺されてしまったとき。
悲しくて、つらくて、前に進めないとき。
嘆く少女の前に、スリーバイン様は現れる。
/ / /
昼休み、
山口ミツヤは、教室に飛び交う会話をぼんやりと聞いていた。
姫代学園を舞台にした同時多発怪異事件。
それは、『復讐の獣 イオマンテ』の消滅により終結し、学園生活は再開した。
けれど、残った傷は深い。
記憶操作やカウンセリングも、少女たちの心を日常に戻すには、力不足だった。
「ね、山口さんは、スリーバイン様って、信じる?」
声をかけてきたのは、後ろの席の同級生。
名前は覚えていない。
たしか図書委員の子だった気がする。
「ボクの興味は、語られる理由だよ。信じられるかはあまり関係ないな」
「すごいねえ、山口さんは」
ずきり、と頭が痛み、ミツヤは表情を歪めた。
『す▆い▅▇、山▆▃んは』
『▃ゃ、私▇怪談▇▆れば、ずっと▅▇▃に覚え▇▆▃らえる?』
脳が軋むような違和感。
「……私はね、信じる子の気持ち、少しわかる。今でも、夢に見るし」
幸い、図書委員の少女に、異常は気付かれなかったようだ。
この同級生は、放課後に怪談を聞きに来る常連だ。
最初は、読書家である彼女が、物語に興味をもっただけだと思った。
後に、彼女が友人を何人も、この数か月の事件で失ったことを知った。
怪談を人が好む理由のひとつは、「恐怖の克服」だという説がある。
恐れを経ても安全だったという体験を得るため、怪談を聞くのだと。
彼女は、山口ミツヤの怪談を通じて、消化しきれない恐怖と、戦っているのだろう。
「ごめんね、変な話して。それより、旧校舎跡の地下からいろいろ古いものが見つかったって! 本もたくさん出てきてね? 図書館の閉架に運び込まれたの! 専門の先生が今度確認にくるんだって! 古い怪談だったりしたら、山口さんにも教えるね!」
図書委員の少女の様子は、明らかな空元気だ。
こういう子たちの葛藤から、「スリーバイン様」は生まれたのだろう。
そう、まだ怪異にもなっていない噂を解釈する。
だが、ミツヤの中には、違和感が残った。
――スリーバイン様。
広まる噂には、理由がある。
ならば、この耳慣れない名は、どこから出てきたのか?
/ / /
寮へと向かう帰り道。
部活を終えた生徒たちが、雑談混じりに帰路へつく。
夜の青と陽の赤がまじりあい、世界が紫に染まる、狭間の時。
ついこの前まで、この時間こそ、山口ミツヤと■■の冒険の始まり――
「――っ、」
まただ。
不意打ちのように蘇る記憶の断片。
黄昏から、夜明けまで。
太陽から身を隠すように駆け抜けた日々のこと
それは、怪異を狩るための時間だった。
恐怖と対峙するための時間だった。
なのに、どうして思うのだろう。
楽しかった、だなんて。
特別だったなんて。
思い出せない。
想起しようとすると、頭が軋むように痛む。
――『復讐の獣 イオマンテ』
山口ミツヤが■■と打倒した、最恐の怪異。
その爪牙は、血肉とともに、心を抉る。記憶を削り、奪い取る。
ミツヤは、手袋で隠された自分の左手を眺める。
その中にあるのは、血の通わない義手だ。
この手とともに、大切な何かの記憶は、喰われてしまった。
世界から、なにかの色が、失われた気がした。
脳を軋ませる記憶のエラー。
存在を主張する空白。
思い出せない。呼び起こせない。
なくしたことだけことだけを覚えている。
喪失だけがそこにある。
もう取り戻せないのに。もたらすものが煩わしい痛みでしかないのなら、いっそのこと、
――どうんどうんと音が鳴る。太鼓のように何かが響く。
耳慣れない音で山口ミツヤは我に帰った。
周囲から、雑談の声は消えている。
あれだけいた生徒たちの姿はなくなり、ミツヤの前には、一人の少年の姿だけがあった。
括り袴に水干。
ずいぶんと時代がかった恰好だ。
どうんどうん。
静寂の中、太鼓のような音だけが響く。
(時刻からして、木戸番の拍子木? 音が違うな。服装は江戸期より古い)
目の前にいるのは、怪異の類である。
瞬間的に判断し、山口ミツヤは解体の手がかりを探す。
「……てんりゅうじ、たいこ」
そう少年は名乗った。
「あなたは、あきらめられますか」
脈絡もなく、少年は問う。
「みせてください。あなたたちの、まつろを。
おしえてください。あなたたちの、あきらめを」
今のところ、この怪異に、害はない。
怒りも恨みも敵意もない。
ただ、全てを見通しているような瞳が、どこまでも不気味だった。
この少年は、山口ミツヤが抱えている懊悩を知っている。
喪失した記憶について語っている。
「ちからを、かします」
少年は、小さな木札を差し出してきた。
そこには、トランプのクローバーめいた印が刻まれている。
「あきらめるちから。てばなすちから」
漠然と、直感する。
これを受け入れれば、山口ミツヤの葛藤は消える。
けれど。そうだとして。
差し出された木札、与えられた救いの可能性を前に、ミツヤは、自らの葛藤を自覚する。
留めおくのは苦しい。
手放すのは口惜しい。
「……未練か」
からん、と乾いた音を立てて木札が足元に転がった。
どうんどうん。
太鼓のような残響が、徐々に小さく消えていく。
顔を上げた時にはもう、少年の姿は消えていた。
/ / /
彼はこどもである。名前は、まだない。
せまいすみつこのなおかたすみで、しずかにちいさくころがつている。
どうんどうんと音が鳴る。太鼓のように何かが響く。
空から降ったおほしさまは、集めた景色をこどもに見せる。
水干の裾を翻し。
木札の割符を掲げて照らす。
尊厳を蹂躙された少女がいた。
大切な部室を破壊された少女がいた。
友と教師とを失った少女がいた。
肉体の一部を失った少女がいた。
無念。残念。即ち未練。
『これ』はおそらくそういうものを、彼が見るための異能である。
最初は、そのはずだった。
けれど、今は違う。
(助けて、スリーバイン様)
(私たちの未練を、断ち切って)
女の子が、泣いている。
彼は思ってしまった。
彼女たちを放ってはおけないと。
おほしさまたちは変容する。
収集するものから、人の未練を昇華する為に降ってくる救い主へと。
彼らは少女たちの未練の因を切り離し、主たるこどもの元へ運ぶ。
どうんどうんと音が鳴る。太鼓のように何かが響く。
彼はこどもである。名前は、まだない。
/ / /
「ねえ、知ってる? スリーバイン様の話」
「知ってる! ウチも持ってるよ!」
悲しくて、つらくて、前に進めないとき。
誰にも相談できない少女に、スリーバイン様は現れる。
その悲しみを、消してくれる。
だから、みんな。
スリーバイン様を信じよう。
みんなに、スリーバイン様を広めよう。
こどもから、おとなになるために。
こどもから、おとなになるために。
/ / /
翌日、早朝。
生徒寮から校舎への道すがら。
「おはよう、山口さん!」
図書委員の少女が、満面の笑顔でミツヤに語りかけた。
違和感。
いつも通りの快活さ。
そう、あの一連の怪異事件が起きる前の「日常」で彼女が見せていた――
「なあ、ちょっと待て……」
ミツヤは図書委員の少女に、何人かの生徒たちの名を尋ねた。
それは全て、この数か月の怪異の被害者。犠牲者。少女の友人たち。
本来ならば、彼女に突きつけてはならない名前だった。
だが、
「……? 山口さん? それ……誰のこと?」
ミツヤは、漏れかけた叫びを喉元で押さえこんだ。
彼女の鞄には、クマのぬいぐるみの隣で、クローバーめいた意匠の木札が揺れている。
「あ、これ? スリーバイン様! すごいんだよ、これつけてからね。私、ぐっすり眠れるようになったんだ! すっごく久しぶり。おかげでちょっと寝過ごしちゃった!」
「――そうか。変なことを聞いてすまない」
返事を待たずミツヤは駆けだした。
校舎ではなく、誰も近寄らない旧校舎跡の物陰に忍び込む。
そして、スマホから友人に、一通のメールを送信した。
思い返せば、周囲の様子は明らかにおかしかった。
図書委員の少女だけではない。
道行く生徒達は皆、クローバーめいた刻印の木札を鞄やスマホから下げている。
会話の中にも異常なほど頻繁に、「スリーバイン様」が登場する。
何より、その雰囲気。
あの事件以来ぎこちなかった、互いの傷に触れないようにする雰囲気が、ない。
まるで、なにもなかったような。
いや。
抱いていた未練の原因を全て、忘れてしまったかのような。
いつの間にか荒くなっていた息を整える。
山口ミツヤは、本来臆病者だ。
ただ、それを上回る見栄っ張りだから、隣に怖がりの誰かがいれば冷静に振る舞えるだけ。
(誰か、だれか。たとえば■■のような)
何度でも蘇る、穴だらけのイメージ。
わからないのに。呼び起こせないのに。
なくしたことだけことだけを覚えている。
痛みだけがそこにある。
もし昨日、誘惑に負けてあの時木札を手にしていたなら、今ごろこの痛みも綺麗さっぱり消え去っていたというのか。
忘れたことさえも忘れて?
荒く息を吐く。
カバンの中から、メロンパンを取り出し、糖分を補給する。
朝礼前の予鈴が響く。
しかし、ミツヤには教室に向かう気はなかった。
(それにしても噂の拡大が早い。怪異の侵食が早すぎる)
もはや姫代学園の生徒達の大多数は、怪異「スリーバイン様」の影響下にあるらしい。
図書委員の彼女を見るに、その能力は「未練の原因の忘却」。
夕暮れの水干少年との応答から察するに、媒介となるクローバーの紋章の木札を渡し、相手が受け入れることで成立するものなのだろう。
影響を受けた少女たちは、みんな心から笑っていた。
以前のように学園生活を楽しんでいた。
それ以外の被害は今のところ存在しない。
「……けれど」
この、暴れる胸の鼓動が告げている。
それが「こわいものだ」と判断している。
ともあれ、それが何であるのかを理解しなければ。
謎の解体こそが、山口ミツヤが怪異に対してとれる、唯一の対抗手段である。
水干の少年の姿。
彼が漏らした言葉。
差し出された木札の刻印。
そして、なぜこのタイミングで、活動を開始したのか。
何かいつもと違う、トリガーはなかったか。
スリーバイン様、という名前は。
スマートフォンで思い当たる手がかりを検索する。
片端から伝手に電話をかける。
教会の代行者は入院中。
遠上の主は外出中。
一日学校から離れて、体制を整えてから仕切りなおすべきか。
『――本日のリモート全校集会を行います』
『校長先生、お願いします』
『今年もあと数週間。光陰矢の如し。呆然としていても、懸命に勉学にはげんでも、平等に時間は経過していきます』
ミツヤの焦りをよそに、話が長い校長のあいさつがスピーカーから垂れ流される。
『ですが、時間を経たから「こども」は「おとな」になれるのか? いいえ、違います』
しかし、その話の展開に、ミツヤの中で何かが警告音を鳴らした。
『未練を断ち切ること。諦めること。悔やんでも仕方がないことを忘れ、前へ進むこと。それができることが、「こども」と「おとな」の違いです』
受け入れた、生徒、だけではない。
『ひとりで未練を乗り越えることは難しい。みなさん、スリーバイン様の力を借りるのです。過去を悔悟し、未練にすがり、思い悩む時間を、未来を描く時間とするのです』
もはや、教師たちも、その影響下にある。
『けれど、みなさん。学園で、いまだにスリーバイン様のお力を拒んでいる生徒がいます。抱いている未練にすがり、「こども」でい続けようとしている人がいます』
『彼女たちに、スリーバイン様の力を、素晴らしさを、教えてあげるのです』
ありがとうございました、という司会らしき教師の声。
だが、放送はそれで終わらなかった。
『それではここから、スリーバイン様の御札を所持していない、生徒氏名を読み上げます』
「な……っ!?」
『◯年◯組 ◯◯◯◯さん
△年△組 △△△△さん
⬜︎年⬜︎組 ⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎さん
ーーーーーー
以上、32名です。
皆様、よろしくお願いします』
なんだ、これは。
ばたばたと、本校舎の方から、慌ただしい音や怒号が響く。
『◯年◯組 ◯◯◯◯さん
△年△組 △△△△さんが、スリーバイン様の教えを受け入れました。
皆様、ありがとうございます。』
まずい。
これは、夜に怪異と相対するよりも、なお性質が悪い。
『残り、27名です』
足音がばたばたと、こちらに近づいてくる。
本来ならば授業中、誰も近寄らない場所であるにも関わらず。
「みいつけた」
甲高い声が響いた。
まだ足音は遠い。なぜ?
声の主は、足元の草むらから顔を出す、クマのぬいぐるみ。
ああ、同級生だからといって、互いの魔人能力を明かしたりはしない。
「山口さん。スリーバイン様を、信じよう?」
可憐に首を傾げ、同級生の声で、ぬいぐるみが誘う。
ミツヤは物陰から飛び出した。
『残り、14名です』
入れ替わるように、追手の生徒たちがなだれ込んでくる。
「おとなに」「未練を」「あきらめて」「スリーバイン様の」「力を」「幸せに」
全員が笑っていた。
何の未練も痛みもない、心からの善意に満ちた笑顔だった。
ミツヤは真っすぐに墓地跡へと走り込んだ。
生徒達の数は5人。それぞれ熱狂したように追跡してくる。
明らかに追跡者たちは疲労を感じていない。
高揚した精神が肉体を凌駕している。ミツヤとの距離は、刻一刻と縮んでいく。
「くそ……っ」
ミツヤはちょうど墓地跡の中心で、屈みこんだ。
「山口さん、だいじょうぶ?」「スリーバイン様の力を借りたら」「こわくなくなる」「すぐに治してあげるから」
そして、全く悪意なく伸ばされる、救いの手。手。手。
それらが触れる直前に、山口ミツヤは、足元のマンホールめいた蓋を、力任せに引き開けた。
即ち、『イオマンテ』と戦った場所、地下墓地への階段を封じていた、入口の蓋を。
ただ、目の前のミツヤのみを見ていた追手たちは、全員が地下階段を転げ落ちていく。
ミツヤは肩で息をしながら、蓋を閉じ、風紀委員から預けられていた鍵をかけなおした。
これで少しは時間を稼げるはずだった。
本校舎の騒ぎも、まだ続いている。
おそらく、自分と同じように「影響外の生徒」が異常事態に抵抗しているのだろう。
思い当たるのは、風紀委員の
中払桃、復学したばかりの星名愛といったところか。
今や、姫代学園在籍生徒と教師の9割以上が、『スリーバイン様』の影響下。
軍人や怪異ほどの索敵能力や戦術は持ち合わせていないだろうが、それでも人数はそれだけで脅威だ。
校外へ逃げるべきか。
それとも――
スマホに1件のメッセージが届く。
『全教室から、図書室へ怪異の流れを確認。合流は困難。 R.A』
この学校で「最も目のいい」専門家の情報だった。
『残り、6名です』
解決の糸口を手に入れたと同時に、退路も塞がれた。
彼女を残して、ひとりだけ校外に逃げるわけにもいかない。
「こっち!?」
「いない!」
「菓子パンの包み!」
「探して!!」
生徒達の声の少ない方へ物陰を縫うように、山口ミツヤは校舎へと侵入する。
悪意も敵意もない、謎の怪異を止めるために。
/ / /
図書室には、誰もいなかった。
まるで、人払いがされているかのように。
そして、その代わりに、無数の、水干姿の少年たちが、佇んでいた。
襲い掛かってくる様子はない。
どうんどうんと音が鳴る。太鼓のように何かが響く。
少年たちのその向こうに、本来鍵がかかっているはずの、開いた閉架の扉がある。
「あなたは、あきらめられますか」
「あなたは、あきらめられますか」
「あなたは、あきらめられますか」
水干の少年たちが、口々に言葉を投げかける。
「「「みせてください。あなたたちの、まつろを。
おしえてください。あなたたちの、あきらめを」」」
これは、最終確認だ。
人を害する怪異を解体し、無害な怪談にして語り継ぐことが、山口ミツヤの動機。
それに照らすならば、ミツヤはこの怪異を解体する必要がない。
けれど、
――ボクは忘れない。物語る。
――怪談は、忘却への、抵抗だ。
いつか、山口ミツヤは、そう口にした。
そして、とある物語の結末として、その喪失を負った。
だから、それがどれほど大きくとも。どれほど苦しくとも。
なかったことになど、できはしない。
「だから、怪談なんだろうなあ」
その多くは、うまくやれなかったものたちの物語だ。
誰もが笑顔になれるハッピーエンドや、勝利を掴めなかった物語だ。
思考が回りだす。
なぜ、自分がこの怪異を、「こわい」と思ったのかを理解する。
きっと、これからすることは、山口ミツヤのわがままだ。
そう思っただけで、心と体に羽根が生えたような気がした。
手持ちの『怪弾』に、使えそうなものはない。
「その服装は平安時代のやんごとなき身分。キミたちの起源は、古の京にある」
だから、山口ミツヤは『解談』する。
理解は部分的。決定的な手がかりはあの扉の向こうだから。
けれど、推測を重ねながら、その畏怖を削ることはできる。
「スリーバイン。……直訳すると三つ蔓。
木札の刻印。あれは、クローバーではなく、三ツ蔓藤紋……藤原氏の家紋だ」
一歩。また一歩。
水干少年たちを、畏怖の剥奪によって押しやっていく。
ミツヤは確信する。相手に、人への敵意はない。
人を害する怪異なら、この程度の圧で引き下がるはずがない。
「てんりゅうじ、たいこ。キミはそう言った。最初は名前かとおもったが、違った」
どうんどうんと音が鳴る。太鼓のように何かが響く。
「この、響く音のことだ。天龍寺の太鼓。
それは、あるやんごとなき姫君が、キミから身を隠した場所で響いた、時を告げる音だ。
もう戻らない未練の象徴。終わりを告げる時の合図。
三つ蔓藤の藤原氏、その血に連なる女性が書き記した物語の話さ」
多分に論理の飛躍を含んだ、賭けめいた推測。
だが、それが、決定的だった。
道を譲るように、閉架の扉の前から、少年たちは退いた。
ミツヤは、静かに閉架へと踏み込む。
そこでは、古い木箱が、ひときわ異様な気配を放っていた。
蓋には三ツ蔓藤紋……藤原氏の家紋が刻まれ、箱の中には、多くの書が収められている。
その一冊を手にとる。
縦七寸二分五厘、横四寸七分の胡蝶装。
無色無地の厚様原表紙。
表紙の中央には小紙片が貼られ、そこには、『輝日宮』と書かれていた。
「……まったく、これがそういうものなら、怪異のひとつも引き起こして当然だ」
いつの間にか、山口ミツヤの……三つ蔓藤の家紋が刻まれた木箱の脇には、水干の少年たちとは違う姿の、「こども」がいた。
みすぼらしい姿。
水で膨れたような厚ぼったいおなかをかかえ、閉架の隅で小さく転がっている。
周囲には、無数の泡が浮いている。
その中には、いくつもの悲劇の光景が明滅する。
山口ミツヤは安堵する。
この怪異は、アレとは違う。不可逆に記憶を奪うものではない。
収集し,観察しするもの。であれば、元に戻すこともできる。
「きっと最初、キミはみんなの物語を見る側だったはずだ。
色んな人が未練を越えていく姿を見れば、そこには、自分が抱える未練を捨て去るに足る理由があるはずだと」
その「こども」は、まぶしげに目を開いた。
「けれど、物語を集めているうちに、女生徒たちの祈りを聞いてしまった。
自分の力では諦めを越えられない悲しみに触れてしまった。
だからキミは……観察者から、救済者に変質した。
キミは、良かれあしかれ、女の子を放っておけない性分だからねえ」
殿上を許された、耳目たるこどもたち、水干の少年たちのもたらした情報ではなく。
自らの目で、容赦なく己を暴きたてる少女を見た。
「けれどね、それでは、キミが救われない。正しく誰かを救うこともできない」
彼女は、屈みこむと、少年を抱き起こし、同じ目線で語りかける。
「だって、そもそも前提が間違っている。キミは、他の人の物語を見ても、救われない。……キミは、他の人に、物語として読んでもらうことで、はじめて成長するんだから」
そして、少女は、手袋をしたままの左手で、木箱の中の書を開く。
山口ミツヤに、千年以上昔の文字を読み解く学はない。
だが、そこに込められた情念を、知っている。
それは、世界に知られた、この国最古の長編小説。
未練と、執念と、愛憎と、栄光と、挫折と、諦観と、救いと。
報われぬ情念を記すことにおいては、どんな怪談にも劣らぬ、古典だから。
「その物語は、ある男が過ちと未練を繰り返し、果てに仏道の救いを見出す道程の記録だ。
キミは五十四帖の大半で、未練を引きずり続けていた。
もし、その原因をキミがすぐに忘れてしまう人間だったら、この物語はこれほど語り継がれることはなかっただろう」
彼はこどもである。名前は、まだない。
それは彼が、「誰にも読まれたことのない書の主人公」であったから。
たとえ記されていても、読むものがいなければ、その名はないも同じこと。
「だから、信じてくれ、『光る君』。ボクたちは、未練を抱いても、前に進める。
もう一度確認して、それを望むみんなには、未練の記憶を、返してあげてくれ」
山口ミツヤという読者により、彼の名は、彼を意味する言葉となる。
本来の形を失いかけていた「こども」は、読者を得て正しい姿に作り替わる。
「性質は、収集と救済。動機は慰撫。読者なき物語が、己の成長を求め他者の物語と救済を祈った、あべこべのやさしさの産んだ怪異。
やんごとなき方の手足となり耳目となって衆生の在り様を主に伝えるもの」
少女は水干の少年たちに向き直った。
「『解談:殿上三天三ツ蔓藤』。」
主のため、そして、傷ついた生徒たちのために奔走した、忠実なる使徒たちへ。
彼らは小さく頷くと、光の粒となって、少女の手のひらへと収束した。
/ / /
「知ってる? ウチの学校から、『源氏物語』の写本が見つかったって」
「へー。ま、うちのガッコ、古いからねえ」
「ってか、それ『原本』かもって」
「『原本』って……紫式部の? ナイナイ! そんなの、見つかったら国宝じゃん!」
「ま、ウワサよウワサ。そんなのが誰にも読まれずこんなところにあるとか、フィクションかって話だよね!」
「ところで、あんたもそれつけてるの?」
「ん、どこでもらったのか知らないんだけど。いつの間にか……」
「なんか、これ見てると、落ちつくんだ」
「わかるー。ほら、いろいろあったし、しんどいけど、なんかね。背中押してもらえる感じ?」
最終更新:2022年12月11日 21:34