――第7話――
「どうしたの……もう終わり?」
二度目の沈黙が訪れたヴェストリの広場に、ルイズの冷厳な声が響く。だが周りからの反応は無かった。ルイズ達を取り囲をでいるギャラリー達のほとんどは、口を開けたまま言葉を失っている。
――あの『ゼロ』が、ギーシュを圧倒している――
にわかには信じ難いその光景を目にした事で、それ以外の事が思い浮かばなかったのだ。
「ふ、ふん。い、いい気になるのはまだ早いんじゃないかな?僕のワルキューレは七体まで出せる。君はまだ二体を倒したに過ぎないのだよ?」
三体目のゴーレムを錬成し、挑発ともとれるルイズの言葉を、どもりながらギーシュは反論した。とは言え、それは外見だけの話であるのだが。
ギーシュは内心焦っていた。その表情には、これまでの余裕は無い。決意に燃えるルイズの気迫に、どこか圧されていたのだ。錬成したワルキューレの背中越しに、ギーシュが前を見遣る。
予想外の展開に、周囲がざわつく中、ピンク髪の少女だけは、微動だにしない。彼女の方が優位であるにも関わらず、である。周囲に目を向ける事も無く、ただじっと、自分の出方を伺っていた。
――どうすれば良い?――
このまま何も出来ずにやられるなど、みっともない事この上無い。そう思い込むと、こと格好を付ける事に関しては、とても優秀な、ギーシュの薔薇色の脳細胞が再び活性化を始めた。
そう、全てはルイズの爆発に尽きる。どういう訳かあの落ちこぼれは、いつの間にか爆発をコントロールする術を見つけていたらしい。そこまで分析した途端、はっ、と気付く。
――そうだ、爆発をコントロールできると言うのなら、何故僕をさっさと吹き飛ばさない?――
疑問と違和感が同時に浮かんだギーシュは、先のワルキューレが倒された光景を思い出す。確かあの時は、自分とルイズとの中間辺りで爆発した……。それらの事象に共通する事柄と言えば――
「そうか、距離だ。君の爆発は射程が限られているね?おおよそ、10メイル強と言った所か!?」
「!!」
ルイズがどきりとした。その顔を見たギーシュは、ほくそ笑む。どうやら自分の推理は間違ってなかったらしい。
ここに来る前、ルイズは何度か試し打ちを行っていた。結果は……ギーシュの推理通りである。それ以上の距離を狙っても、てんで当たらなかったのだ。昨日の戦いの時は、もっと調子が良かった筈なのだが……。
――ううん、あれは例外ね――
ルイズが頭を振る。あの時は死に物狂いだったのだ。それはキュルケ達が最後に放った炎の竜巻などを見ても明らかである。ハドラーと戦った全員が、限界、いや、むしろ限界以上の力を捻り出していた節すらあった。
ともあれ、今の自分には、そこまでの力を出せそうには無い。ルイズはそう思うと、自嘲気味に目を伏せた。その様子に、ギーシュは更に気を良くする。
すっかり立ち直り。落ち着きを取り戻していた頭には、先程までは気付けなかった新しい情報が、次々と舞い込んで来ていた。
――なら、次だ――
自分の予想を確かめるべく、ギーシュが杖を振った。先程の光景を再現したかの様に、ワルキューレが三度目の突撃をかまして来る。はっ、と顔を上げたルイズは、魔法に集中すると、前方へと杖を向けた。だが――
「今だ!」
ギーシュが杖を振ると、ワルキューレが横に跳んだ。一歩遅れて、先程までゴーレム達がいた場所に、爆発が起こる。
「避けた!?」
目を丸くして、またもルイズが驚いた。その表情にギーシュは、再び自分の予想が当たっていた事に思わず雄叫びを上げそうになる。
だが貴族たるもの、それを表に出す様な下賎な振る舞いはするべきではない。すんでの所でそう思い直したギーシュは、手にしている薔薇を口元に持って来て、ただニヤリと、不敵な笑みを浮かべた。
「僕を甘く見ない事だね。君の魔法はさっきまでのやり取りで、把握したのだよ」
「くっ!」
口上の間、動きが止まっているワルキューレに、ルイズは再び杖を向けた。その光景を見たギーシュが、ほぼ同時に、杖を振る。
先に反応したのはワルキューレの方であった。地面を蹴ってその場から離れた直後、破壊すべき対象がいなくなった無人の空間に、再度爆発が起きる。
「君のそれは、平民どもの持つ銃みたいなものだ。一度に一発ずつしか撃てない上に、集中が必要な所為か、狙ってから爆発までの間に隙がある。そうと分かれば話は簡単だよ。君が杖を向けた瞬間に、その射線から外れるだけで、簡単に避ける事が出来るのだからね」
鼻高々な様子で説明をしたギーシュが杖を振ると、ワルキューレが前後左右に軽快なステップを踏む。この動きについて来れるのかい?と言わんばかりの、見え見えのデモンストレーションであった。
ワルキューレがステップを踏んでいる間も、ルイズは呆気に取られたままであった。自分の魔法にそんな弱点があったなど、気付きもしなかった。
――そう言えば、今まで動かないものばっかり狙ってたわね――
ルイズがふと思い出した。昨日のハドラーは、戦いの間碌に動かなかったし、ここに来るまでに、試し打ちした石や岩は言うまでもない。先のニ体も、一直線に突撃して来たからこそ命中したのだろう。
とはいえ普通のゴーレムでは、決してこう言った展開にはならなかったろう。ゴーレムというのは普通もっと動きの鈍いものだからだ。
ギーシュの操作技術が中々優秀な事、ワルキューレの中が空洞であり、その分身軽な造りだった事。これらもろもろの出来事が今の事態を生んでいた。
(もっとも、ワルキューレの中身が空っぽなのは、単にギーシュの力が足りないだけだったのだが)
「降参したまえルイズ」
検証とデモンストレーションを終え、自分の下にゴーレムを戻したギーシュは、高みから見下ろす様な視線で、ルイズに告げた。
「……何ですって?」
「降参したまえと言ったんだよルイズ。今ので分かっただろう?所詮、君の魔法では僕のワルキューレに勝てない」
すっ――と、ギーシュの目が冷たさを増した。
「これは警告だよ。次は三体を同時に掛からせる。その意味が分かるだろう?」
「……」
ルイズは黙ったままギーシュを睨み付ける。分かっている。例え一体を爆発させられても、後の二体が自分へ襲い来ると言う事だ。その上、自分の爆発の弱点については、先程ありがたい解説を頂戴したばかりである。だからと言って――
「……降参は、無しよ」
自身の『目的』は一応達成出来た。だがメイドとの、ハドラーとの『約束』は、まだ残っている。何が何でも、この決闘は、負ける訳にいかなかった。
ルイズの言葉を神妙な面持ちで聞いたギーシュだったが、やがて芝居掛かった仕草で顔を押さえると、頭を振った。
「やれやれ……。女性を傷付けるのは僕のポリシーに反するのだが……仕方無い」
ギーシュが新たに二体のワルキューレを作った。
「医務室のベッドで少し頭を冷やしたまえ。行け!ワルキューレ!」
ルイズのいる場所に杖を向け、叫ぶ様にギーシュが命令を下した。主人に頷く事も無く、指示を受けた三体の戦乙女達は、ただ黙って横一列となり――真っ直ぐ突撃して来た。
「――来たわね!」
ルイズが僅かに片足を引いた。前足へ体重を乗せて、やや前傾気味になり、いつでも走り出せる様に体勢を整える。距離を詰めていたワルキューレ達がハドラーの前を通過し、ルイズの射程距離に入った。その時――
「散れ!」
ギーシュの掛け声に合わせ、左右のワルキューレが斜め前方へと加速した。中央のゴーレムを頂点とした三角形を作って、ルイズを包囲せしめんとする。
――今だ!――
囲んで来るであろう事を、あらかじめ予想していたルイズは、散会した直後、杖を正面――中央にいたゴーレム――へ向けた。同時に、少女の手の動きを注視していたギーシュも、それに反応して、杖を振る。
瞬間、一直線にルイズへと向かって来ていた正面のワルキューレが、弾かれたように、右に跳んだ。その直後、またも一歩遅れる様にして爆発が起きる。
ギーシュが解説した通りの展開である。――やはりルイズの魔法では――多くのギャラリー達がそう思ったその時だった。
「!」
観客達の目が、突如、釘付けになる。空振りに終わった筈の、爆発の中から突然、ルイズが姿を現したのだ。
魔法を唱えたと同時に、ルイズは前方へ駆け出していた。自分の爆発はおそらく確実に避けられる。ならば避けた隙を狙って、包囲を突破し、一気にギーシュ本人を叩く事を考えたのだ。
ワルキューレの脇をすり抜けたルイズは、作戦が上手くいった事を内心で喜ぶ。だが――
「そう来ると思ったよ」
どこか冷めた様な声が聞こえた次の瞬間、ルイズの身体を衝撃が襲った。いつの間にか、ギーシュが錬成していた四体目のゴーレムが、ルイズに強烈な体当たりをかまして来たのだ。
完全に予期していなかったタイミングでの攻撃に、ルイズの身体が派手に吹っ飛んだ。
「う……」
勢い良く地面を何度も回転し、仰向けになってようやく開放されたルイズは、苦し気な呻き声を上げる。その直後だった。
「チェック・メイトさ」
唐突なギーシュの宣言と同時、ルイズの両腕にいきなり重みが走る。二体のワルキューレ達が、ルイズの腕を踏みつけていた。足元にも、いつの間にかもう一体が待機している。三方から完全に組み伏せられた格好だ。
ルイズは何とか抵抗しようとしてみたものの、女の自分ではとても動かせそうに無い様だった。それでも脱出しようと懸命に抵抗する。
もぞもぞと身体が動く度に、男性ギャラリーからの熱い視線が大いに注がれた。何故か半裸且つ、全身が軽い火傷だらけの、小太りな生徒などは、熱心を通り越し、もはや生肉を前にした獣の目つきとなっている。
「さて、これで君の動きは完全に封じた訳だ……だから、これが最後だよ。まだ、やるのかい?」
余裕と、少しばかりの嘲りが混じった顔をしながら、ギーシュが言った。ルイズは僅かに首を持ち上げ、声の主を見る。
視線の先のギーシュは、ニヤついた笑みを浮かべていた。『ゼロ』如きが自分に敵う訳が無い。そんな笑いである。
――負けられない――
そう、より一層の決意を固めたルイズは、ギーシュの目をきっ、と見返すと、力を込めて返答した。
「ええ、勿論よ。……その表情が変わるまで、何度だって、やってやるわ」
ルイズの力強い声に、ギャラリー達が湧いた。いいぞー、と素直に応援、又は、面白がる者。この状況で何を言わんとするや、と呆れ顔な者。その反応は様々だ。
ギーシュの反応は後者の方であった。肩をすくめながら、やれやれとばかりに息を吐く。
「まったく、君の負けず嫌いには恐れ入るね。……まあ君の気持ちは、この僕も良く分かった」
ギーシュが杖をげ掲げた。同時に、ルイズの腕に、更にゴーレムからの圧力が増す。
「――これ以上、妄言を吐かなくても済む様に、僕も協力しようじゃないか。やれ!ワルキューレ」
ギーシュの命令で、三体のワルキューレが一斉に腕を振り降ろした。観衆が目を見張る。ほんの数秒後には、その無慈悲な冷たい拳が、ルイズの全身に食い込むに違いない。そう、誰もが確信したその時だった!
「――負ける、かああああ!!」
手首を反し、杖先を自分の目の前に向けたルイズが、咆哮を上げた。瞬間、目標まであと数サントに迫ったゴーレムの腕が、いきなりあらぬ方向にひしゃげる。皆に見えたのはそこまでだった。そして――
ヴェストリの広場に大爆発が起きた。今までのやり取りが、ままごとに見えた程の激しい爆風と轟音が発生する。
数秒後、近くにいたギャラリー達のローブは根本からめくり上げられ、耳の中はしきりに異常を訴えていた。空高くまで上がる土煙が、今も引き続き、規模の大きさを主張し続けている。
「な……何が起こったんだ!?」
狼狽をした顔を隠そうともせず、ギーシュが困惑した声を上げた。状況を確認したいものの、爆心地では今も熱と土煙が立ち上っている。その時だった。
「ん?何だ?」
突如眼前の地面に降って来た何かの欠片を見て、ギーシュが声を上げた。だがその直後、
「う、うわあっ!!」
ギーシュの声がひっくり返った。同じ様な欠片が大量に、雨の如く上空から降り注がれたのだ。
一体何事だ?そう思ったギーシュの前に、少し大き目な『それ』が、足元に転がった。
「――!!」
ギーシュの顔がみるみる青くなる。真っ黒に煤けたそれは、間違いなくワルキューレの頭に付いた羽飾りであった。ということは――
「まずい、ワルキューレ!」
ギーシュが慌てて残ったゴーレムに命令しようとしたその瞬間、少し離れた場所にいた乙女像が、派手な爆発音を上げて破壊される。その後ろからは、風で舞い上がった桃色の髪――ルイズが、眼光鋭く顔を覗かせていた。
『――!!』
まるで昨日の『悪魔』を思い出させるその姿に、誰もが一瞬、息を呑む。
その一瞬の隙を突き、ルイズは動き出した。
「爆発の……特徴?」
決闘の少し前、ヴェストリの広場へ向かう途中、ハドラーが投げ掛けた言葉に、ルイズが首を傾けた。
「うむ。主の爆発で、一つ気付いた事がある」
「それって……?」
やや緊張した顔のルイズが聞き返す。間を置いて、ハドラーが切り出した。
「距離だ」
「……距離?」
「そうだ。どうやら主の魔法は、距離が近い程威力が高くなるらしい。昨日の戦いや、教室での出来事を思い出してみよ」
言われてルイズは、記憶を探り出した。昨日からこっち、間近で魔法を使った事と言えば……ハドラーの懐に飛び込んだ時と教室で『錬金』を唱えた時だ。成る程、いずれの場合も、普段の爆発に比べ、遥かに規模が大きかった。
「……ええ、確かにそうね」
回想を終えたルイズが、同意する。中断していた授業が再び始まる様に、ハドラーは淡々と、先を続けた。
「恐らくは、威力を高める事だけに、集中出来るから、なのだろうな。爆発させる場所が自分の目の前ならば、いちいち狙いを付ける必要も無い」
ハドラーの言葉にルイズが、はあ、と感心じみた声を上げる。ただがむしゃらに唱えていただけの魔法に、そんな違いがあったとは思いもよらなかった。
「……何だか、悔しいわね」
「何の事だ?」
訝しげに眉根を寄せたハドラーを、ルイズは、じっ、と見つめた。
――自分がずっと探していた答えを、この男は、いともあっさり見つけてしまう――
何とも言えぬ胸中に、使い魔(仮)に対しての、嫉妬や羨望にも似た、色々な感情が混じり合う……。そんな、石膏で固まったみたく、渋面を崩さないルイズに対し、ハドラーは、軽く息を吐くと、諭す様な口調で語り掛けた。
「俺は、闘争のみに生きて来た様な男だ。……主の魔法の事も、それに当て嵌まっただけに過ぎん。この世界の魔法とは異なるものの、俺も『爆発』の使い手なのだからな」
そう言って、ニヤリと笑う。ハドラーに、自分の心をずばり言い当てられてしまい、ルイズの顔は、みるみる間に赤くなった。
「な、何で……」
「以前の俺もそんな表情をしていた事がある。今の主が何を思っているのか、何と無く分かるつもりだ」
やや自嘲気味に話すハドラーの胸に、かつての部下であった男の姿が浮かんだ。自分を越える力を持ち、勇者の父親でもあった男。大魔王が奴に信頼した声を掛ける度に、自分も同じ様な顔をしていた事を思い出す。
「……主はいずれ強くなる。焦る必要は無い」
「そ、そう……?」
あくまでも真摯な様子で問くハドラーに、さっきとは違う理由でルイズは赤くなる。が、
「……しかし、主は非常に分かりやすい顔をする。俺もそうだったが、戦闘中は、あまり感情的にならない事だ」
付け加えられたダメ出しに、ルイズは顔を通り越し、頭まで真っ赤にするのだった。
問答を思い出し、ルイズが足を踏み出す。先程の一撃で負傷している上、体力、精神力ともに、限界に近い。それでも、何とか下半身の筋肉を総動員し、怒涛の勢いでギーシュへと向かって行った。
「う、うわああああ!」
視線の前方にいるギーシュは、パニックに近い悲鳴を上げた。ばたついた動きながらも、一足跳びで、ルイズから離れると同時に、腕を振り上げる。
――このままじゃ間に合わない――
ワルキューレが錬成されてしまえば自分の負け。そう判断したルイズは、足を止める事無く、咏唱を始める。
何と無く気付いていた。自分の魔法は、自身の感情そのものであると。怒り・闘争心……自分の中にある、火の様な想いが、爆発の威力を強くする。だが……。
――感情的にならない事だ――
ハドラーの声がこだまする。確かに、感情は大きな力である。だがそれだけでは、敵は倒せない。全てを理解した上でルイズは思案した。今自分が何を求め、どうするべきか。
――威力は要らない。欲しいのは距離。そして、それに必要なのは恐らく――
半ば確信した様子で、ルイズは今までとは違うイメージで集中した。心を昂ぶらせるのでは無く、氷の様に尖らせる事。――獲物に飛び掛からんとする肉食獣の如く、今、準備は完了した。
「ワル、キューレェェェ!」
必死の形相で、薔薇を振り降ろすギーシュに、ルイズは真っ直ぐ杖を向ける。先端が指し示した、ただ一点だけを狙い、丹精に作り込んだガラス細工を叩き付ける様に、小さく、短く叫んだ。
パン、と軽い炸裂音が広場に響く。隙の無い一撃だった。が、速度を優先した分、威力や規模などは、さっきまでのものとは比較にもならない。だが――
「なっ!?」
ギーシュの顔が驚愕で歪む。ルイズの爆発は、恐ろしい程の正確さで、ギーシュの手を撃ち抜いていた。衝撃に手放した薔薇が、スローモーションの様に空中を舞う。そして――
だん!、と、音が響く。前足を地面に打ち付けて、ルイズは止まった。膝を曲げ、前傾した上体は、剣士が『突き』を放った様にも見える。
――いや、それはむしろ『突き』そのものだった。足と同様に真っ直ぐ伸ばされた腕。その先端に構えられている杖は、正確に、ギーシュの胸へと向けられていた。
風が――吹く。観客は皆、頭が麻痺でもしたかの様に、言葉を発しようとはしない。ギーシュですら、その中の一人に含まれていた。目を見開いたまま、魂をどこかに置いて来たかの様に固まっている。――その時。
ひゅん、と、ギーシュの頬を、何かが掠めた。急に襲って来た鋭い痛みに、ギーシュが手をやる。
「え……?」
掌にべっとり付いた血に、ギーシュが呆然とした表情で尻を着いた。落ち着かない様子でしきりにまばたきを繰り返す。その視線の先には、赤く染まった自分の杖――薔薇――が転がっていた。
「あ…………」
間の抜けた一言を最後に、ギーシュから反応が消えた。やや間が空き、やがてゆっくりと構えを戻したルイズは、大きく息を吐く。静寂な広場に少女の呼吸音が響き渡る度、止まっていた周囲の時間は、少しずつ動き始めた。
「お、おい……」
「ああ、これってまさか……?」
ざわつきが少しずつ、だが、着実に大きくなっていく。立っている者と倒れている者。そこから浮かび上がる一つの事実が、この広場に立ち込めようとしていた。
「嘘……だろ!?『ゼロ』のルイズが、ギーシュを……?」
一度決定された事実は、もはや覆る事は無かった。誰かの発したその一言は、波となって、徐々に大きくなっていく。
「マ、マジかよ!?」
「『ゼロ』が『青銅』を……!!」
「ま、まだ慌てる時間じゃない!これはきっと孔明の(ry」
どよめきが刻一刻と場を支配していく。そんな中、ようやく呼吸を整え終えたルイズは、ふと、周りの様子が変化している事に気付き、顔を上げた。
「あ……」
視線の先には、友人達の姿があった。ルイズと目が合うと、キュルケは、穏やかな表情を浮かべ、タバサは親指を立てる。
そのの仕草で、ようやく事態を察したルイズはぐるりと周りを見渡した後、照れ臭そうに笑う。
――どよめきは、歓声へと変わった。
――僕は……――
騒ぎの中、ギーシュは未だ、虚ろな思いに囚われていた。
……余裕の展開になる筈だった。その上で、自分は鮮やかに勝利を収め、目の前の娘に、貴族というものについて教育してやるのではなかったのか?
……とんだ恥晒しだ。地面の砂を掴み、ギーシュが一人思う。そんな時。
「――『ゼロ』に負けるなんて、ギーシュも情けないな」
不意打ちの様な声に、ギーシュがはっ、とした表情になった。殆ど呟きほどの声。だが、その一言が、何を意味するのか、ギーシュは気付いてしまった。
「大口叩いておいて……ざまあねぇな」
「貴族の資格が無い『ゼロ』に負けたんだろ?ならあいつは何なんだ?」
「貴族(笑)の皮を被った平民とか?」
ぽつ、ぽつ、と連鎖していく声に、ギーシュが必死に耳を塞いだが、その程度では、物音は完全に遮断出来ない。それどころか、反って敏感になった意識は、雑多な音の中から、自分へ向けられた侮蔑の言葉を、正確に拾い上げてしまう。
――止めてくれ……止めてくれぇ!――
学院一の落ちこぼれに敗れたという事実。それは、次は自分が、嘲笑の対象に祭り上げられる事を意味していた。耳に入り込んで来る、心無い声に、ギーシュの心が悲鳴を上げた。
――モ、モンモランシー――
すがる様に、ギーシュは(本命の)恋人の名を浮かべた。結果は駄目だったが、途中までは自分が優位だったのだ。もしかしたら、そんな自分の勇姿に心を動かされたかもしれない。
現実逃避じみた想像をしながら、愛しい恋人の顔を探す。だが、見慣れた縦ロールの少女の姿は、どこにも見当たらなかった。
――終わった――
絶望的な思いが頭を支配し、ギーシュはその場にうずくまった。恋人に捨てられた上、この先ずっと、嘲笑の対象にされる。絶望を通り越して、笑い出したくなる気持ちだった。と、その時。
「?」
ギーシュが表情を変えた。今まで碌に、隙らしい隙を見せなかったルイズが、突如背中を向けたのだ。
――ああ、そう言えば――
ルイズが勝利宣告を受けてなかった事を思い出す。が、それだけだった。気付いただけで事態が変わろう筈も無い。そう思い、再び無気力を貪ろうしたギーシュに、突然、声が響いた。
――チャンスじゃないか。『ゼロ』は後ろを向いて、君の薔薇は目の前に転がっている――
何を馬鹿な事を……。どこか聞き覚えのある声に、ギーシュの表情が、そう反論した。が。
――馬鹿は君の方だ。考えてもみたまえ。君は、倒れただけで『負け』ではないのだよ?――
囁きは止まない。先程よりも、更に強気な口調だった。それにあてられたのか、少しだけはっきりした頭が、この決闘のルールを思い出す。……確かに、まだ『負け』だとは言っていなかった。だからこそルイズはあの男に、判断を仰ごうとしているのではないか。
――理解した様だね。なら、分かるんじゃないか?今君がやる事は、ワルキューレを作って後ろからちょいと小突く。それだけの事さ。後は適当に取り繕えば、大逆転に次ぐ大逆転。つまり……君の勝利だよ。そうなれば、モンモランシーだってきっと『僕』を――
「君は……まさか」
ぞっとして、ギーシュが震える。馴染みある声、気取った口調、そして『僕』。それはつまり――
――まあ、そういう事さ。僕は君、君は僕だ。だから決めたまえよ。僕の言う通りにするのか。それとも……。この先ずっと惨めなままでいるかい?――
声は、それきり聞こえなくなった。ギーシュがぼんやりと顔を上げる。目に映ったのは、無防備なルイズの背中だった。恐らく先程の一撃でダメージを負っているのであろう。酷く頼りない足取りは、『声』の言う通り、少しつつくだけで、簡単に崩れてしまいそうだった。
――この先ずっと惨めなままでいるかい?――
最後の言葉が胸に浮かび、ギーシュはゆっくり首を振る。決断は下された。
息を吸って、止める。震えはもう無かった。覚悟を決め、ギーシュは素早く前方へ身体を起こすと同時に、片手で地面を凪いだ。途中、馴染んだ感触を掌に確かめると、既に完了していた『錬金』の魔法を唱える。
「ワルキューレェェェ!!」
勢いを殺さず、ギーシュは、そのまま一気に薔薇を引き上げ、目標に向けた。前方に出現した最後のワルキューレが、弾丸の様に、ルイズの元へと殺到する。
「!」
異変に気付いたルイズが振り返ろうとする。が、既に遅かった。魔法を唱える間も無く、青銅の拳が唸りを上げて襲い掛かる。
「もらったあ!」
ギーシュが歓声を上げた。もはや避けられない暴力に、ルイズが目を閉じたその瞬間――
「――――!」
金属の擦れる音が広場を包み、戦乙女の全身は鎖に包まれた。
最終更新:2008年09月23日 15:17