其の十一 絶望への序曲
棺を開けて椅子に腰かけていたウェールズは二人を見ると立ち上がり、両手を広げた。その髪はかつて陽光のようだったが、今はやや陰りを帯びている。
ルイズの眼に美しい涙が盛り上がり、頬を伝う。
「ウェールズ様……!」
今にもアンリエッタに知らせようとする彼女を押しとどめる。心の準備が必要だから、と冗談めかして囁くとルイズの顔に笑みがこぼれた。
「ありがとう。どれほど感謝しても足りない」
ウェールズは穏やかに微笑み、少し席を外すよう頼んだ。
怪訝そうな様子を見せたのも一瞬で、命の恩人にゆっくりお礼を言いたいのだろうと思ったルイズは出ていった。
ミストバーンは冷静にウェールズを観察している。
生命をつなぐ暗黒闘気がなじんでいないのか傷が癒えきっておらず、死へ向かうのをかろうじて食い止めている不安定な状態のままだ。
死から蘇らせたわけではないため偽りの生命とは言えないが、異質なものが体内に存在することに本人も気づいたらしい。
「何故生かした」
温和な笑みは拭い去られ、感謝と言うには冷ややかなものが視線に混じっている。命を救われたというのに表情は険しい。
答えないのは彼自身も理解しきれていなかったからだ。
彼にはウェールズを救う気はなかった。共に戦ったのも近くで華々しく散るのを見届けるため。譲れぬもののために戦い死んでいく覚悟を汚すつもりはなかった。
だが――生かしてしまった。
尊敬する者に生き延びてほしい気持ちはあったが、それ以上に大きかったのは自分でも理解できない衝動だった。
それに流されたとはいえ結局は自らの行動なのだから、結果も己に返ってくる。そう思っている彼はあの時ルーンが輝いていたことに気づいていない。
あの時ウェールズはアルビオンの王族として死ぬはずだった。しかし、部下は全員討ち死にしたというのに彼はこうして生き長らえている。
眠っている間、ルイズ達が勝手に生存を明らかにしなかったことだけは感謝している。
目覚めた時には全てが終わっていた。
レコン・キスタと戦うという選択肢もあったがその気はない。愛する者の治める国に争いの火種を持ちこみたくないためだ。
もし選ぶとしても――時間が必要だった。
ハルケギニアの者達は彼が死んだと思っている。ある意味それは正しいのだろう。
ここにいるのはウェールズであってウェールズでない。
覚悟を尊重しようとしたミストバーンに悪意がないことは彼も知っている。
それでも素直に受け入れるには、生き直すには、彼の背負うものは重すぎた。
高潔な人格がいっそう彼を苦しめている。
命を救ったことに感謝すべきだと思っていても、やり場のない感情をぶつける相手は一人しかいない。
覚悟を理解していたはずの相手からこのような形で生かされ、裏切られたような心境だった。
ウェールズの苦しみを知っているであろうミストバーンは何も言わず、憎悪に近い感情のこもった眼差しを受け止めている。
結果的にウェールズがウェールズとして死ぬ機会を奪った者は、氷の声で告げた。
「怒れ。憎め」
言葉に応じるようにウェールズの眼に暗い輝きが宿る。
宴や礼拝堂での会話が、戦場での共闘が嘘のような空気が二人の間に立ちこめている。
短い間とはいえ共に歩んだ道は完全に隔たっていた。
この先交わることがあるのか――わからない。
やがてウェールズは視線を外し、疲れたように呟いた。
力を貸すことを約束する代わりに、一つだけ頼みがあると。
「太陽のもと、誰の目もはばかることなく、手をとり歩く……」
ラグドリアンの湖畔での誓いを思い起こしながらアンリエッタは亡き父王の居室にいた。
飾りなりの重圧に酒量が増えた姿を臣下に見せるわけにもいかず、彼女は隠し持っているワインを夜中にこっそり飲んで眠りに落ちるのだった。
酔うと決まって思い出すのは、生きていると実感できた十四歳の夏の短い時間。一度でいいから聞きたかった言葉。
今日はワインの効果が薄かったのか目覚めが早すぎたため、眠れぬまま寝返りを打っていた。
「どうしてあなたはあのときおっしゃってくれなかったの?」
涙をぬぐったその時、扉がノックされた。アンリエッタはガウンを羽織るとベッドの上から誰何した。
「誰です? こんな時間に何事ですか?」
「僕だ……と言えばいいかな」
どこか迷いをにじませた声にアンリエッタの心臓は大きく飛び跳ねた。
忘れるはずのない、何よりも望んでいた声。何度も夢見た笑顔の持ち主が扉の向こうにいる。
「風吹く夜に」
最後のためらいを打ち砕いたのは何度も聞いた合言葉だった。返事も忘れてドアを開け放ち、ウェールズを抱きしめる。
「ウェールズ様……生きていらっしゃったのですね」
「僕は亡霊さ」
苦しげに呟く彼の手をそっと取り、アンリエッタは頬をすりよせた。
「嘘……こんなに温かい手の亡霊なんていませんわ」
先ほどとは違い活力に溢れた表情が、生きていてくれて嬉しいと語っている。
アンリエッタの胸に希望が湧きあがり、輝く未来を次々に映し出していく。
まずは生きていたことを明らかにして、それから、それから――。
ウェールズは辛そうに微笑んで囁いた。
「アンリエッタ。最後のお願いがあるんだ」
幸せに陶然としていた彼女の顔が凍る。せっかく手にすることのできた希望を再び奪われようとしていると知って、彼女は固くウェールズを抱きしめた。
何度も首を振る彼女の髪にそっと触れ、彼は願いを口にした。
「君と初めて出会ったラグドリアンの湖畔で、共に歩きたい。……太陽のもとで」
一瞬でラグドリアンの湖畔に到着した二人は残された時間を惜しむように言葉を紡ぎ合う。
どうやってウェールズが見とがめられることなく王宮に侵入したのか、移動させたのは何者の仕業か――それらの疑問はアンリエッタの頭から抜け落ちていた。
朝日を浴びた水面が二人を祝福するかのようにキラキラと輝いている。
ウェールズの蜂蜜を溶かしたようだった髪は今は陰りを帯び、風に揺れている。それを見つめるアンリエッタは苦しげだ。
大切な存在が、再び手の届かない遠い所へ行こうとしていると知って。
「なぜ亡霊などとおっしゃったのです?」
「僕はもう死者の列に加わったようなものだ……守るべきものを守りきれなかった」
痛みをこらえる表情にアンリエッタは言葉を失い――勇気を振り絞った。少しでも愛する者の力になろうと。
「わたくしはこう聞きました。あなたは勇敢に戦った、と」
沈黙したウェールズになおも語りかける。
「わたくしの知るウェールズ様は勇敢なお方です。今までも……これからも」
その言葉を聞いたウェールズの手が震えた。双眸からほんの少しだけ暗い霧が薄れる。
もう一つの道を見つめ直したような、そんな眼だった。
アンリエッタは、いくら言葉を尽くして留まるように懇願しようと彼が苦しむだけだと悟った。
(意地悪な人)
再会の喜びを与えて去ってしまう。最後の別れを告げに来てくれたのはとても嬉しいが、同時にとても残酷だ。
「一つだけ……一つだけ、わたくしのわがままを許してくださいな。……誓ってくださいまし。水の精霊の前で、わたくしを愛すると」
促されたウェールズは水辺へと足を運んだ。アンリエッタもそれに倣い、水に足を浸す。
「さあおっしゃって。わたくしはこの一瞬を永久に抱くでしょう。どれほど月日が流れても。何があろうとも。……いいでしょう?」
その一言をずっと心の支えにして生きていくことができる。
ウェールズの唇がゆっくりと動いた。その足元に闇が広がり、彼の全身を飲み込んでいく。抱きしめようとするのを優しく拒絶し、暗黒の波に身をゆだねる。
「あ……」
声は聞こえなかった。
姿が消えた後も、彼が立っていた場所をアンリエッタはぼんやりと見つめていた。
まるで夢のような一時だった。神と呼べるほど偉大な存在が、ほんの気まぐれでこの舞台を演出したのではないか――そんな気がしてしまう。
もしかすると本当に夢の出来事だったのかもしれない。ウェールズに会いたいという想いが生んだ儚い幻だったのかもしれない。
立ち去れずにいたアンリエッタはふと煌くものを見つけて駆け寄り、拾い上げた。
風のルビーが彼女の掌できらりと光った。
再び深い深い眠りに落ちたウェールズは棺の中で寂しげな笑みを浮かべている。
ミストバーンは赤く燃える太陽を眺めていた。
尊敬し、認めあった者との距離は今や遠く隔たっていた。
何のために共に戦ったのか。自らの行動が正しかったのか。意味があったのか。
――何もわからない。
命を救った相手からの憎悪に限りなく近い感情も彼は静かに受け止めていた。
疎まれ嫌悪されることには慣れている。魔界では、主を除き周囲は全て敵と言ってもよかったのだから。
数千数万の他者の憎悪より主一人の失望の方がよほど耐えがたい。
主以外の者との関わりは、しょせんうたかたの夢。
彼はただ拳を握り締めた。
ウェールズの願いを叶えたことを報告するために思念を飛ばし、主を呼ぶ。今までと同じように。
しかし、反応は無い。
声が届かない。気配も感じない。
その時彼は、血の気が引く感覚というものを初めて理解した。
アルビオンで戦いに赴く直前に反応がなかったことを疑うべきだった。主の性格からして観戦しないはずがない。部下に一言ぐらい指示を与えるはずだ。
おそらくあの時、一時的につながりが消えていた。いつからかはわからないが少しずつ弱まっていたのだろう。
復活するかもしれず、主も結び直すよう手を打っているはずだが、連絡がとれないままの可能性もある。
タルブの村から帰る前に主は帰る手段は見つかったのか訊いてきた。それはこうなる事態を予測してのことか、それとも魔界で何らかの動きがあったのか。
否定の言葉の前にあった一瞬の間が気にかかる。長く仕えてきた経験が、問題が生じたことを告げていた。
己の叡智と力に絶大な自信を持つ大魔王が部下に軽々しく相談をもちかけるはずもない。大抵の事態ならば簡単に解決できるだろうし、そこまで差し迫ってはいないようだった。
だが、万一のことがあれば悔やんでも悔やみきれない。
今まで主の存在があったため異世界でも動揺することなく行動できていた。
もし彼がルイズに心を許していれば、キュルケ達と強い絆を結んでいれば、焦りはしないかもしれないが――それは彼には不可能だった。
力が存分に振るえて主の存在があるのなら閉じた世界から出ようなどとは考えない。
それが今、仇となった。
彼は、異なる世界で一人だった。
もし魔界に戻れなければ。戻ったとしても主がいなければ。
ハルケギニアでの行動が――否、今まで仕えてきた数千年が全て無意味になる。
混乱の後に芽生えたのは、心を次第に焼いていく焦りだった。
最終更新:2008年09月23日 15:27