ゼロの影~The Other Story~-13


其の十三 虚無の影

 ルイズは今までとは比べ物にならぬほど悩んでいた。
 フーケ達にすぐに事情を知らせ、聞いた話と合わせて考えた彼女は以下のような結論を出した。
 ティファニアの魔法『忘却』は、記憶の鎖を切り離し、つなぎ直すようなものである。
 帰還への執着を和らげようとしたが、主の存在によって深くつながっているため一部だけ切り離すことができず、丸ごと抜き取る形で効果が発揮されたらしい。
 直後にティファニアが意識を失ってしまったのも無理はない。数千年分の記憶を操作するなど初めての経験であり、消耗が激しくいまだに体調が回復していないとのことだ。
 心の大半を占める記憶の鎖が切り離され闇に沈んだ結果、残りの欠片はバラバラでほとんどつながっていない。
 つまり、今の彼は心が砕け散った状態にある。

 最も大切なものを奪われ、自身を支えてきた柱を折られた彼は抜け殻になっている。
 今まで主の役に立つことを最優先にしばしば彼女のことを放り出して姿を消していたものの、現在は勝手に出歩くこともなくルイズに従っている。
 ほとんど影響を及ぼさなかったルーンがここぞとばかりに効果を発揮しているようだ。
 だが、いくら話しかけてもへんじがない。ただのしかばねのようだ。
 以前の沈黙は感情を窺わせたが、それもない。何の意思も持たぬ人形――それも壊れかけのものを連想させる。
 もっと言うことを聞いてほしいと思っていたが、こんな姿を見たくはなかった。
 今の彼を動かしているものは残った心の欠片も含まれているのか、ルーンの働きだけか。それさえわからない。
 予想していた形とは違うが、彼が彼でなくなるかもしれないという予感が的中してしまった。

 夕日を浴びて佇む彼は砕けたはずの心が痛んでいるように見えた。目をそむけたくなる姿だった。
 今の彼を見ればワルドは嘲りと哀れみを足した表情を浮かべることだろう。希望を抱いてから絶望の淵へと突き落とされたのだ。
 彼は間違いなく苦しんでいる。何を失ったのかもわからないまま絶望している。
こうするしかなかった、わざとではないという心の声をもう一人の自分がすぐさま否定する。
 本当にこれしか手段が無かったのか。
 どこかでこうなることを望んではいなかったか。
 トリステインのためという名目で自分のためという想いを隠してはいなかったか。
 苦痛を取り除くと言いながら、都合の悪いものも一緒に消えることを望んではいなかったか。
 まだ残された時間はあった。目を向けようとしなかっただけで他に手の打ちようがあったかもしれない。
 自分に忠誠を誓わないのならいっそ帰ってしまえばいいと思ったこともある。
 大魔王に絶対の忠誠を尽くすのに自分には心を許さない彼に、強大な力を持ちながら自分のために振るおうとはしない彼に、苛立ち嫉妬していた。
 大魔王を心から敬う態度を見るたびに心の奥底に少しずつ黒い澱がたまっていった。
 あの時抱いていた感情は、授業で無理矢理呼び覚まされたものと同じ。
 それはあらゆる時代、あらゆる場所で戦いの火種となるもの。意思持つ者が必ず抱き、永遠に持ち続けるもの。
 その感情の名を憎悪と言う。
 憎悪と呼ぶほど激しいものではなかったにせよ、全く無かったと言えば嘘になるだろう。
 それに、なぜ彼に帰還への思いの一部を消すと言わなかったのか。
 答えは簡単だ。
 説得する手間を惜しんだからではない。彼の怒りを買うのが怖かったからだ。
 本当に他者のためを思うのなら全てを説明し、その上で拒絶されたのなら学院の者達に害を及ぼさぬよう説得するなど力を尽くすべきだったのではないか。
 彼も賛成していたのならルイズの責任とは言えないかもしれないが、隠したままだった。危険が大きいとはいえ都合の悪いことを隠していたのでは彼への裏切りになってしまう。
 それに、あの時止めようと思えば止められたはず。ティファニアに続けるよう命じたのはルイズだ。
「何が……何が“認めさせる”よッ!」
 認めさせると言いつつ怯えていた。呼び出した者と向き合うことから逃げていた。自分の心の闇からも。
 以前彼を挑発した時に臆病者だと罵ったが、本当に憶病だったのは自分だ。

(こうなったら……!)
 ルイズは竜の口に飛び込むような心境で杖を握った。
 試みるのはショック療法である。攻撃を仕掛け、心を――それが無理なら闘志だけでも呼び覚まそうというのだ。
 被害の広まらぬよう人のいない場所まで連れ出した彼女は顔を蒼くしながら震えている。
 こちらの生命も危機にさらされるどころではないが、腕の一本や二本折られる覚悟で行うつもりだった。
 杖を振ると彼の近くで爆発が起こった。
 闘魔傀儡掌か爪のどちらかがくるのを予想しながら身構えるが彼は全く動かない。己に危害が加えられようとしているのも、どうでもいいように。
 距離を近づけても規模を大きくしても結果は同じだ。何度やっても変わらない。
(わたしは、こんなことするために練習したんじゃないのに)
 衣の裾や袖が弾けても、反撃どころか抵抗さえしない。それだけの価値も無い存在だと言われているようで悔しくて――歯を食いしばったルイズの手元が狂った。
「ああっ!」
 直接爆発を食らった彼の体が傾いだ。しゅうしゅうと胸のあたりから霧が立ち上り、ルイズは恐怖と歓喜がないまぜになった気持ちで待ち受けた。己を貫くはずの冷たい爪を。
 だが――。
 ルイズは白い衣から煙が上るのを愕然と眺めた。
「どうして……!?」
 彼はやはり、動かない。
「悔しくないの!? ちょっと刺されただけで死んじゃう人間から攻撃されてんのよ!? 今のあんたなら……わたしでも殺せるわ!」
 絶叫が空に虚しく吸い込まれ、消えていく。
 そこまで追い詰めたのもルイズ自身だ。
「そんなに――そんなに大切なご主人様なの!? 何で! 何でよ!? どうして止めなかったの!?」
 もはや自分が何を言っているのかわからない。無茶苦茶な言葉を叩きつけている気がするが止められない。
 ルイズにも薄々予想はついている。
 彼がティファニアの詠唱を止めなかったのは敵意が感じられなかったこと以上に、『虚無』を見極めようとしたからだ。
 さらにあの時ルーンが淡く光っていた。まるで従順にさせる絶好の機会だというように。妨害されなければこうなる前にティファニアの魔法を止めていただろう。
 もしかするとルーンは言うことをきかせたいという内心を汲み取ったのではないか。
 あれほど強く冷酷な彼を意のままに従える――そんな光景にどこかで心惹かれていたのかもしれない。
 主以外の相手ならば誰だろうと、何人記憶から消されようと、決してこんな状態にはならないだろう。
 それがどうしようもなく悔しい。
 なおも荒れ狂う感情のまま杖を振るいかけて、ぽとりと落とす。
「わたし……なんてことを……!」
 よりによって自分の使い魔を、それも戦意の無い相手を攻撃してしまった。
 心を取り戻すと唱えながらいまだに嫉妬している。
 直視したくない己の醜さに気づき、心が引き裂かれそうな痛みを味わいながら、彼女は衣を掴んで喉も嗄れよとばかりに叫んだ。
「怒りなさいよ、憎めばいいでしょ!? あんたらしくないわよこんなの……ッ!!」
 彼が彼であるために必要なものを奪ってしまったのは自分が原因だ。
 身を震わせるルイズの口から傷ついた獣のような慟哭が迸った。

静かな絶望とともに落ち着きを取り戻したルイズは図書館で本の頁をめくり続けていた。
 だが、壊された心を蘇らせる方法も、記憶を取り戻すすべも、見つかるはずがない。
 抜け殻のようになったルイズの中を大量の文字が通り抜けて行く。
「うう……!」
「なにあんたの胸みたいなぺしゃんこの声出してんの?」
 どうすればいいかわからず呻いた彼女に温度のある声が降り注いだ。
 視線の先には炎の色の髪を持つ犬猿の仲の相手――キュルケがいた。その隣にはタバサもいる。
 反対側の椅子に座った二人は目で話すよう促した。言葉に詰まったのも一瞬で、彼女は濁流のように想いを吐き出した。
 話を聞き終えたキュルケは溜息を吐き、髪に手をやった。
「呆れた。どこの世界に使い魔の心打ち砕いて踏みにじる主人がいるのよ」
 今の彼女に言い返すだけの気力も資格も無い。ただひたすら唇を噛んで俯いている。貴族としてのプライドはもはやズタズタだ。
「こうなった責任は誰にあるのかしらね?」
 ルイズから視線を外し、虚空に目を向けてキュルケが誰にともなく問いかけた。
 場を提供したフーケか。
 魔法を唱えたティファニアか。
 抗しえなかったミストバーンか。
 違う。
「わたしの――」
 そこから先をキュルケは言わせなかった。ルイズの唇に指を突きつける。
「そう思うならあんたが取り戻しなさい。くよくよしている場合じゃなくてよ」
 彼も彼の主も何があろうと戦い抜く覚悟を持っている。自らの行いが招いた結果から逃げることはない。
 故意ではなくとも大切なものを奪ってしまったのなら、召喚した者の責任として取り返さねばならない。
 悲劇に酔う暇も、後悔に浸り続ける余裕も許されない。
「わたしに……できるかしら」
 彼の主が声を届ければ、それこそすぐに記憶と心を取り戻すかもしれない。
 だが彼女にできることなどほんのわずかだ。
 重圧に押しつぶされそうなルイズにキュルケは激情に燃える眼差しを向ける。
「いっつもイノシシみたいなあんたらしくないわね、ヴァリエール。できるかどうかじゃない。“やる”のよ」
 ルイズはハッとしたように顔を上げた。
 そうだった。何もしないうちから諦める権利などない。
「でも、いいの?」
 彼が記憶を取り戻せばトリステインに牙を剥くかもしれない。
 物理攻撃はもちろん、『虚無』以外魔法の通じない相手に立ち向かうのがどれほど難しいかメイジならわかるはず。
 安全を考えればこのまま放っておくのが一番だ。
「その時は戦うだけよ」
 決まってるじゃない、とキュルケはあっさり言いきった。
 使い魔として召喚された相手に怯え逃げ惑うのはプライドが許さない。貴族の恥となる状況を黙って見過ごす方が耐え難かった。
「やるかやらないか、あなたが決めること」
 タバサもそう言いつつ頷く。
もし彼女達とミストバーンの距離が他のクラスメートほどに遠ければ、危険の芽が摘み取られた程度の認識しか持たなかっただろう。
 逆にルイズと同じくらい近ければ、問題の大きさに途方に暮れ、恐ろしい力を知るだけに踏み出せなかっただろう。
 直接関わらず観察に徹していた距離だからこそ、そう言えるのかもしれない。
「可能性はゼロじゃない……それより自分の心配したら?」
 キュルケにもわかっている。ルイズが暴走を止めようとしたのは自分が殺されるのが嫌だったのではなく、周りの者達が傷つくのを見たくなかったためだ。
「あなたが一番望むことは何?」
 彼はただ一つのもの以外、全て切り捨てる覚悟がある。
「わたしが……」
 自分の中で一番強い声に耳を傾ければ、答えはすぐに出てきた。
 誇りにかけて彼の心を取り戻す。
 それが、今最も大切なことだった。
 死んだ魚のようだった目に輝きが宿り、意思の力を取り戻すのをキュルケは満足そうに眺める。
「タバサ。ツェルプストー。礼を言うわ」
 目を丸くしたキュルケの眼の前でルイズは両手を自分の頬に叩きつけた。乾いた音が図書館内に響き渡る。
 迷いの晴れた目で顔を上げた彼女にタバサがぽつりと呟く。
「彼の闇は深い」
 彼の中に懐かしいものを見たタバサには何となくわかる。彼の過去も、背負ってきたものも。人形と化すほどの苦しみも。
 ルイズの気持ちも理解できる。
 心を壊された者を近くで見続ける辛さは、誰よりもよく知っているのだから。
「でも、どんな闇の中にも光はある」
 半ば自分に言い聞かせるような言葉にルイズは頷き、立ち上がった。

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最終更新:2008年09月23日 15:54
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